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ヘーゲル 『法の哲学 要綱 (自然法と国家学 要綱)』 抄録


 第1部 抽象的な権利ないし法
 第2部 道徳
 第3部 倫理
  第1章 家族
  第2章 市民社会
  第3章 国家


      第2章 市民社会
 §182
 「特殊的人格として自分が自分にとって目的であるところの具体的人格が、もろもろの欲求の
かたまりとして、また自然必然性と恣意との混合したものとして、市民社会の一方の原理である。
―ところが特殊的人格は、本質的に他人のこのような特殊性と関連している。したがってどの
特殊的人格も、他の特殊的人格を通じて、そしてそれと同時に、まったく普遍性の形式という
もう一方の原理によって媒介されたものとしてだけ」、おのれを貫徹し満足させるのである。
 § 188
 市民社会は三つの契機を含む。
A.個々人の労働によって、また他のすべての人々の労働と欲求の満足とによって、欲求を
媒介し、個々人を満足させること―欲求の体系。
B.この体系に含まれている自由という普遍的なものの現実性、すなわち所有を司法活動に
よって保護すること。
C.右の両体系のなかに残存している偶然性に対してあらかじめ配慮すること、そして福祉
行政と職業団体によって、特殊的利益を一つの共同的なものとして配慮し管理すること。



 A 欲求の体系

§189
 特殊性はまず、総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして主観的欲求である。
この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは、今や同じくまた、他の人々の欲求
と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり、欲求と満足とを
媒介するもとしての活動と労働とによってである。・・・

a 欲求の仕方と満足の仕方
§190
 動物の欲求は制限されており、それを満足させる手段および方法の範囲も、同様に制限さ
れてている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を超えて
行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する。人間がこれを実証するのは、第一に
は、探求と手段とを多様化することによってであり、第二には、具体的欲求を個々の部分と
側面とに分割すること、および区別することによってである。そしてこれらの部分と側面とは、
個々の特殊化された、したがってより抽象的な欲求となる。
 (抽象的)権利においては主題は人格であり、道徳的立場では主観、家族では家族員、
市民社会では総じて市民であり、―この欲求の立場では、人間と呼ばれるところの、表象に
とっての具体的存在者である。それゆえここではじめて、そしてまた本来ここでのみ、この
意味での人間が問題となる。



 b労働の仕方
§196
もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した、同じく特殊化された手段を作製し獲得
する媒介作用が労働である。労働は自然によって直接に提供された材料を、
これらの多様な目的のために、きわめて多種多様な過程
を通して種別化する。だからこの形成は、手段に価値と
合目的性を与えるのであって、その結果、人間が消費に
おいてかかわるのは主に人間の生産物であり、人間が消
費するのはこうした努力の産物である。
 追加 加工する必要のない直接的材料はわずかにすぎない。
空気でさえも暖かくしなければならないから、人はこれを労力を
つかって獲得しなければならない。おそらく水だけはあるが
ままの状態で飲谷ことができよう。人間の汗と人間の労働が、
欲求を満たす手段を人間のものにしてくれるのである。



    §197
 人間の関心をよびおこす規定と対象が多種多様である
ということから理論的教養が発展する。理論的教養とは、
たんに表象や知識が多種多様であるということだけでは
なく、表象のはたらきや一つの表象から他の表象へ移って
ゆく頭のはたらきが活発敏速であること、錯綜した普
遍的関連を把握することなどであって、-悟性一般の
教養、したがってまた言語の教養でもある。-労働に
よって得られる実践的教養とは、新たな欲求の産出と仕
事一般の習慣、さらにはおのれの行動を、一つには材料
の本性に従って、また一つにはとくに他人の恣意に従って
制御することの習慣であり、またこうした訓練によって身に
ついた客観的活動とどこででも通用する技能との
習慣である。


 
§198
 ところで労働における普遍的で客観的な面は、それが
抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求と
の種別化をひきおこすとともに、生産をも同じく種別化
して、労働の分割(分業)を生み出す。個々人の労働活動
はこの分割によっていっそう単純になり、単純になる
ことによって個々人の抽象的労働における技能も、彼の
生産量も、いっそう増大する。
 同時に技能と手段とのこの抽象化は、他のもろもろの
欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを
余すところなく完成し、これらの関係をまったくの必然
性にする。生産活動の抽象化は、労働活動をさらにます
ます機械的にし、こうしてついに人間を労働活動から解
除して機械をして人間の代わりをさせることうを可能にす
る。



以上、『法の哲学』抄録終わり




 
『資本論』初版 第1章商品と貨幣 p.34-35


 価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもつ諸物であり、同じ種類の労働の
客体的な諸表現である。しかし、裁縫労働と織布とは、質的に違う労働である。
とはいえ、次のような社会状態もある。すなわち、そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布を
したりしているので、これらの二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の労働の諸変形でしか
なくて、まだ別々な諸個人の特殊な固定した諸機能にはなっていないのであって、
それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も、彼が明日つくるズボンも、ただ同じ
個人労働の諸変形を前提しているにすぎない、のと同じことである。さらに、一見して
わかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向の変化に応じて、
人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫という形態で、あるときは織布という形態で供給
される。このような、労働の形態転換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、とにかくそれは
行なわれなければならない。生産的な活動の被規定性を、したがってまた労働の有用的な
性格を無視するならば、労働に残っているものは、それが人間の労働力の支出であるということ
である。裁縫労働と織布とは、質的に違う生産的な活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や
筋肉や神経や手などの生産的な支出なのであって、この意味において両方とも人間労働である。
それらは、ただ、人間の労働力を支出する二つの違う形態でしかないのである。もちろん、
人間の労働力そのものも、あの形態やこの形態で支出されるためには、多かれ少なかれ発達
していなければならない。しかし、諸商品の価値は、単なる人問労働を、人間の労働力一般の
支出を、表わしている。
ところで、ブルジョア社会においては将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反して
単なる人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが
(14)、この場合の人間労働に
ついても同じことである。この人間労働は、だれでも普通の人問が、特別に発達すること
なしに、自分の肉体的有機体のなかにもっている単純な労働力の支出である。


(14)
 ヘーゲル『法哲学。ベルリン、1840年』、250ページ、第190節参照。
〔第2章 市民社会A欲求の体系a欲求の仕方と満足の仕方第190節(§190)〕