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 資本論のヘーゲル事典 2017.11.01


 A. 『ヘーゲル用語事典』
 
1.   an sich  (即自、自体)         ・解説=島崎 隆

    即自―対自〔向自〕―即かつ対自  
    an sich - für sich - an und für sich
  
                  ( われわれにとって 自己のもとに 対他的 )


 
一般的説明  
 即自・対自・即かつ対自という用語は、ヘーゲルが弁証法的な展開を説明するときにしばしば
使う用語である。一般に、ヘーゲルの弁証法的進展は正・反・合(=定立・反定立・総合)という
三段階によって特徴づけられるが、ヘーゲル自身はそうした図式的な説明はしない。
即自・対自・即かつ対自という言葉によって、弁証法的進展は正確に表現される。
 ドイツ語のan sichは直訳すれば、「自己に即して」、つまりその物にぴったりと重なり、分裂が
ない状態を意味する。an sichはふつう「それ自体として」などと訳されるが、哲学では「即自」、
「自体」などと訳される。für sichは直訳すれば、「自己にたいして」、「自己と向き合って」となるが、
普通「それ自体として」、「独りで」などと訳される。für sichは哲学では「対自」、「向自」などと
訳され、事物(自己)が二重化ないし分化することを示す。 an und für sich は以上の an sich と
für sich の両面を統一した言葉であり、哲学では「即かつ対自」ないし「即かつ向自」と訳される。
 弁証法的発展構造を示す〈即自―対自‐即かつ対自〉の展開については、『大論理学』概念論
末尾の「絶対的理念」の章や『哲学史』序論の「哲学史の概念」が参考になる。
 〈即自‐対自‐即かつ対自〉の進展は、全体として、事物の発展を示す。それは未発展で単純で
あった事物が(即自)、みずからの多様な可能性を実現した結果、かえって統一を失って分裂に
陥り(対自)、だがさらに、そのなかから高次元の段階でもとの統一を回復するプロセスとして
(即かつ対自)描かれる。まったく同じ意味ではないが、ヘーゲルを継承して、実存主義者の
サルトルが「即自(en-soi)」、「対自(pour- soi)」という用語を使う。


 
即自と対自 
  「即自an sich」は発展の可能性を秘めながらも、いまだに未分化・未展開の状態をいう。
「即自的な人間」といえば、赤ん坊のことである。赤ん坊は理性的に思考する能力を素質として
もっているだけで、現実にはもっていない。そして、他人との豊かな交渉関係を自主的に
行なってもいない。対自的とは、「即自」 の未発展状態から出て、分裂状態を含め、みずからを
多様な形で示すことである(→対自有)。この対自的段階は低次の意味では、区別・分裂・疎外を
意味する。さきの赤ん坊の例でいうと、「自己と向き合い」、自己意識をもち始めた子供ないし
青年が自分とはなにかを考え始め、かえって分裂し苦悩する状態である。これとの関連で、
そこでは他人とも矛盾・葛藤に陥る。「対自」は高次の意味では、事物が多様に自己の可能性を
実現していき、他のものとも豊かな関係を取り結びながら、なお自己を失わない状態である。

 発展の第二段階としての対自は、そのものとしては、統一を失い、否定されたという意味で、
低次のものであるが、高次の意味としてはすでに即かつ対自という第三段階に到達している。
ヘーゲルはしばしば「対自」を高次の意味で、たとえば、「自覚的」という意味でも使う。即かつ
対自の段階に達した真の大人は、現実に理性的に思考でき、しかも人間を(自分を)理性的な
ものとして自覚している。即かつ対自の段階は即自のもつ統一へと復帰しているが、しかもなお
区別や多様性の面(対自)を豊かに含んでおり、この意味で、即自と対自の統一なのである。
また、即かつ対自は弁証法の否定の否定の結果成立するものであり、さらにヘーゲルのいう
「絶対的」ということと同義である。


  
即かつ対自と自由 
  〈即自‐対自‐即かつ対自〉という一連の展開でヘーゲルがいいたかったことは、自然であれ
人間であれ、事物のそのままの素朴な、直接的な状態は真実の状態ではなく、かならず自己を
別ものへと変化させ、つまり自己を否定せざるをえず、さらにそのなかでふたたび統一を獲得し、
高次元で自分を回復するということである。ところが、人間でいえば、分裂と苦しみのさなかに
いる者にとって、自分の本来の姿などとうていわからない。それは展開のすべてを見通している
われわれにとってのみ展望できる。このくわれわれにとって(füruns)とは、弁証法的プロセスの
全展開を観望する哲学者(=神)の立場であり、五里霧中である当事者は事態の意味を察知
できないのである。
 即かつ対自とは、人間の世界でいえば、自分とも他人とも真に調和した段階であり、一言で
いえば、自由という状態を意味する。ヘーゲルに自由を称して《自己のもとに(自在 bei sich)》
いるという。これはたんなる即自でなく、他者のもとにいながら、同時に自己を喪失することなく、
自己のもとにいるという意味である。またヘーゲルは、即自存在を対他存在と対比して使うこと
もある。《対他的(他のものにたいしてfür Anderes)》とは、人間や事物が他のものと関連し、
交渉している状態であり、他者への事物の依存性、事物の非自立性を意味する。
ヘーゲルの弁証法はこの点では、対他の側面を不可欠の条件とした、事物の真の統一性を
主張するのである。