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  アダム・スミス 『諸国民の富』  1776年初版  


            (
『諸国民の富』第5版の大内兵衛翻訳。― 岩波文庫1980年第4刷より要約・抄録) 

 
◆目次 
      
(抄録目次の見出しは著書を変更してあります。文中の・・・は、途中省略を表わしています。)

 Ⅰ. アダム・スミスの分業
 Ⅱ. 分業をひきおこす原理について
 Ⅲ. 貨幣の起源について
 Ⅳ. 価値の二つの意味、「使用価値」と「交換価値」
 Ⅴ. 商品の実質価格-労働価格 と 名目価格-貨幣価格につい


アダム・スミスの社会的分業論


    
『諸国民の富の性質と諸原因に関する一研究』
 
 
序論と本書の構想

 「あらゆる国民の年々の労働は、その国民が年々に消費するいっさいの生活必需品や
便益品を本源的に供給する元本ファンドであって、これらの必需品や便益品は、つねにこの労働の
直接の生産物か、またはこの生産部で他の諸国民から購買されるものかのいずれかである。・・・
労働の生産諸力におけるこの改善の諸原因と、またその生産物が社会のさまざまの階級や
境遇の人々のあいだに自然に分配される秩序とは、本研究の第1編の主題である。」


  
第1編 労働の生産諸力における改善の諸原因について、
    また、その生産物が人民のさまざまの階級のあいだに自然に分配される秩序について

   Ⅰ.  分業について 〔Of the Division of Labor〕

  「労働の生産諸力における最大の改善と、またそれをあらゆる方面にふりむけたり、充用
したりするばあいの熟練、技巧および判断の大部分とは、
分業の結果であったように思われる。
 社会全般の仕事におよぼす分業の効果は、いくつかの特定の製造業でそれがどのように
おこなわれているか を考察すれば、よりたやすく理解されるであろう。・・・

 それゆえ、一例として、ピン製造業者の職業をとってみるばあい、一職人は、最大限に精だしても、
おそらく1日に 1本のピンをつくることさえまずできないであろうし、20本をつくることなどはもちろん
できないであろう。
 ところが、この仕事が現在営まれている方法によると、全作業が一つの独自の職業であるばかり
ではなく、 それはいくつもの部門に分割されており、しかもその諸部門の大部分もまた同じように
独自の職業なのである 。一人の男は針金をひき伸ばし、もう一人はこれをまっすぐにし、
第三の者はこれを切り、第四のものはこれ をとがらせ、第五は頭部をつけるためにその先端を
とぎみがく・・・約18の別個の作業に分割されているのであって、・・・それゆえ、これらの10人は、
みなで一日に4万8千本以上のピンを製造できたわけである。

 分業は、それが導入されうるかぎり、あらゆる技術における、労働の生産諸力を比例的に
増進させる。さまざまの職業や仕事がたがいに分化するのもこの利益の結果として生じたものの
ように思われる。そのうえこの分化は、一般に最高度の産業と文明とを享受している国でもっとも
すすんでいるのであって、社会の未開状態で の一人の作業は、文明社会では一般に数人の

作業からなるからである。・・・」


 「とはいえ、機械類についての改善の全部が、機械の使用を必要とした人々の発明だったわけ
ではない。多くの改善は、機械の製作が一つの独自の職業の仕事になったときに、機械製作者
たちの創意によってなされたものであり、またいくつかの改善は、なにごともせずに、あらゆる
事物を観察することを職業とし、したがって また、もっとも遠距離にある異質の諸対象の力を
しばしば結合しうる哲学者または思索家とよばれる人々によ ってなされたものなのである。
 社会の進歩につれて、哲学や思索は、あらゆる他の仕事と同じように、市民の特定階級の
主要または唯一の生業となり、また職業ともなる。」



  Ⅱ. 分業をひきおこす原理について

 「これほど多くの利益がひきだされるこの分業というものは、本来、それがひきおこす一般的
富裕を予見したり、意図したりする人間の英知の所産ではない。それは、このように広範な効用に
まったく無頓着な、人間の 本性のなかにある一定の性向、つまりあるものを他のものと取引し、
交易し、交換するという性向の、ひじょ うに緩慢で漸進的ではあるが必然的な帰結なのである。・・・

 「かれのそのときどきの欲望の大部分は、他の人々のばあいと同じように、つまり話しあいに
より、交易によ り、また購買によって充足される。すなわち、かれはある人がくれた貨幣で食物を
買う。また、かれは別の人がめぐんでくれた古着をもっとよく体にあう他の古着と交換したり
あるいは宿所または食料、もしくは貨幣と交換し、そしてこの貨幣で、必要に応じて食料、衣服
または宿所のいずれかを買うことができるのである。」


 「われわれが自分たちの必要とする相互的な世話の大部分を、同意により、交易により、また
購買によってたがいにうけとりあうように、もともと分業をひきおこすのもまた、これと同一の、
取引するという性癖なのである。たとえば、狩猟民または牧羊民の種族のなかで、特定の者が
他のだれよりも手ばやく巧妙に弓矢をつくるとしよう。かれは、弓矢をその仲間の家畜や
しかの肉としばしば交換し、そうするうちに、けっきょくこういうふうにするほうが自分で野原に
でかけて行ってそれらを捕えるよりもいっそう多くの家畜辛しかの肉を獲得できる、ということを
発見するようになる、それゆえ、自分自身の利益に対する顧慮から、弓矢の製造ということが
だんだんとかれのおもな仕事になるのであって、そこでかれは一種の武器製造人になる。
もう一人は、自分たちの小さい小屋または移動家屋の骨組みや屋根の製作にひいでている。
かれはこの方面でよくその隣人に役だち、隣人はまた同じようにしてかれに家畜やしかの肉を
報酬としてあたえ、そうするうちに、かれはこの仕事に献身するのが自分の利益だということを
さとるようになり、そこで一種の家大工になる。同じようにして、第三の者はかじ屋か真ちゅう
細工人になり、第四の者は野蛮人の衣服の主要部分をなしている生皮またはなめし皮の
なめし屋か仕上屋になる。つまり、このようにして、自分自身の労働の生産物の余剰部分のなかで、
自分自身の消費をこえてあまりあるすべてのものを、他の人々の労働の生産物のなかで、
自分が必要とするであろうような部分と交換しうるという確実性が、あらゆる人を剌激して特定の
職業に専念させ、その特定の種類の仕事についてかれがもっている才能または天分がおよそ
どのようなものであろうとも、それを発展させ、完成させるのである。」。



  Ⅲ. 貨幣の起源および使用について

 いったん分業が徹底して確立されると、ある一人の人間が自分自身の労働生産物によって
充足しうるところ は、そのもろもろの欲望のなかのごく小さな部分にすぎない。彼は、自分自身の
労働生産物の余剰部分のなかで、自分自身の消費をこえてあまりあるものを、他の人々の
労働生産物のなかで、自分が必要とする部分と交換することにより、そのもろもろの欲望の圧倒的
大部分を充足する。こうして、あらゆる人は交換によって生活し、つまりある程度商人になり、
また社会そのものも、適切にいえば
一つの商業社会に成長するのである。

 けれども、分業が最初に発生しはじめたときには、この交換力はしばしばその活動を
はなはだしく妨害され たり、ゆきづまされたりしたにちがいない。ある人はある一定の商品を自分
自身が必要とする以上に所有しているのに、別の人はそれ以下しか所有していない、と仮定
しよう。その結果、前者はこの余剰物の一部分をよろこんで処分するであろうし、後者もそれを
購買するであろう。けれども、もしこの後者がたまたま前者の必要とするものを一物も所有して
いないなら、かれらのあいだにはどのような交換もおこなえぬであろう。・・・

 このような事態の不便を避けるために、分業が最初に確立されてから、社会のあらゆる時代の
あらゆる慎慮の人は、自分自身の勤労に特有な生産物のほかに、なにかある商品の一定量、
すなわち、たいていの人はそれとかれらの勤労の生産物とを交換するのを拒まないとかれが
考えるような、なにかある商品の一定量を、いつでも自分の手もとにもっているというしかたで、
自分が当面する問題を処理しようと当然努力してにちがいない。

 おそらく数多くのさまざまの商品がこの目的のためにつぎつぎと思いつかれ、また使用されも
したことであろう。社会の未開時代には、家畜が商業の共通の用具だったといわれているが、
たとえそれがもっとも不便なものだったにちがいないにしても、なおわれわれは、昔の時代には
諸物がそれらと交換される家畜頭数によって価値づけられていた、ということを承知している。・・・

 それにもかかわらず、すべての国で、人々は不可抗的な理由から、ついにこの目的のために
あらゆる他の商品に優先して金属類を選ぶことにきめたように思われる。金属類は、他のどの
商品とも同じように、わずかな損失で保存できるし、これほど腐敗しにくいものはまずないばかり
ではなく、全然損失をともなわずに任意の個数の部分に分割することもできれば、熔解によって
それらの部分をたやすく再結合することもできるのであって、こういう性質こそ、同等に耐久的な
他のどのような商品にもないものであり、たまこういう性質こそ、他のどのような性質にもまさって、
金属類を商業や流通の用具に適したものにするのである。・・

 さまざまの金属がさまざまの国民によってこの目的のために使用されてきた。鉄は古代スパルタ人のあいだ
での商業の共通の用具だったし、銅は古代ローマ人のあいだで、また金銀はすべての富んだ商業国民のあいだでそうであった。・・・財貨を購買するのにふつう使用されていたような特定の金属類の一定重量に、公的な刻印を押すことが必要だ、ということがわかってきた。これが鋳貨の起源であり、また造幣局とよばれている官署の起源であって、これらの制度は、毛織物や亜麻布についての毛織物検査官や亜麻布検査官の制度とまさしく同性質のものである。すべてこういう制度は、さまざまの商品が市場にもたらされるばあい、公的な検印によって、その分量と一様な品質とを確認することを期しているのである。」


 貨幣がすべての文明国民の商業の普遍的用具になったのは、こういうふうにしてなのであって、その媒介により、すべての種類の財貨は売買され、またたがいに交換されているのである。


  
Ⅳ. 価値の二つ意味 - 使用価値と交換価値


    ★
使用価値-ある特定の対象の効用(utility)を表現し、
    ★
交換価値-他の財貨に対する購買力(power of purchasing other goods )を表現する

  ところで、それらの財貨を貨幣と交換するにせよ、あるいはそれらをたがいに交換するにせよ、そのばあいに
人々が自然にまもる諸法則とはどのようなものか、ということをわたしはすすんで検討するであろう。これらの法則は、財貨の相対価値または交換価値(relative or exchangeable value)とよんでもさしつかえないものを決定するのである。
注意すべきことは、価値(VALUE)ということばには二つの異なる意味があるということであって、それはあるときにはある特定の対象の効用(utility)を表現し、またあるときにはその特定の対象を所有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力(power of purchasing other goods)を表現するのである。前者を「使用価値」(value in use)、後者を「交換価値」(value in exchange)とよんでもさしつかえなかろう。最大の使用価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく交換価値をもたないばあいがしばしばあるが、その反対に、最大の交換価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく使用価値をもたないばあいもしばしばある。水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできないであろうし、またそれと交換にどのような物をえることもほとんどできないであろう。これに反して、ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換にきわめて多量の財貨をしばしばえることができるであろう。

諸商品の交換価値を規定する諸原理を究明するために、わたしは、第一に、この交換価値の実質的尺度
(measure)とはどのようなものであるか、すなわち、すべての商品の実質価格(real price)はどのようなものに存するか、ということを明らかにするように努力するであろう。
 第二に、この実質価格は、どのようなさまざまの部分から構成されているか、つまりなりたっているか、ということを明らかにするように努力するであろう。

 そして最後に、価格のこれらのさまざまの部分のあるものまたはすべてのものを、ときには自然率または通常率
(natural or rdinary rate)以上に高め、またときにはそれ以下にひきさげるさまざまの事情はどのようなものであるか、すなわち、市場価格(market price)、いいかえれば諸商品の実際価格(actual price)が、それらの商品の自然価格(natural price)とよばれるべきものと正確に一致するのをさまたげるさまざまの原因はどのようなものであるか、ということを明らかにするように努力するであろう。
わたしは、これらの三つの問題を、つぎの三章でできるかぎりあますところなく明瞭に説明するように努力するであろう。それにつけてもわたしは、読者の忍耐と注意、すなわち、ある箇所ではおそらくは不必要に冗漫と思われるおそれのある詳論を検討するための忍耐と、またわたしができるかぎり十分な説明をしたところで、おそらくはなおそのあとにのこるいく分かはあいまいに思われることを理解するための注意とを、衷心懇請しておかなければならない。わたしは、明確を期するためには、つねにすすんである程度冗漫にながれることをもあえてするつもりであるが、
明確を期するためにあらんかぎりの苦心をしたところで、それ自体の性質がはなはだしく抽象的な問題については、なおある程度のあいまいさがのこるように思われるのである。

   Ⅴ. 諸商品の実質価格および名目価格について
       
       
すなわち、それらの労働価格および貨幣価格について

 あらゆる人は、その人が人間生活の必需品・便益品および娯楽品をどの程度に享受できるかに応じて、富んでいたり、まずしかったりするのである。ところで、いったん分業が徹底しておこなわれると、一人の人間が自分自身の
労働で充足しうるところは、これらのうちのごく小さい一部分にすぎない。かれはそのはるか大部分を他の人々の労働からひきださなければならないのであって、かれは、自分が支配しうる労働の量、つまり自分が購買できる労働の量に応じて、富んでいたり、まずしかったりせざるをえないのである。それゆえ、ある商品の価値は、それを所有してはいても自分自身で使用または消費しようとは思わず、それを他の諸商品と交換しようと思っている人にとっては、その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい。それゆえ、労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度なのである。

 あらゆる物の実質価格(real price)、つまりあらゆる物がそれを獲得しようと欲する人に現実についやさせるものは、それを獲得するための労苦や煩労である。それを獲得して売りさばいたり、他の物と交換したりしようと欲する人にとって、あらゆる物が現実にどれほどの値いがあるかといえば、それはこの物がその人自身に節約させうる労苦や煩労であり、またこの物が他の人々に課しうる労苦や煩労である。貨幣または財貨で買われるものは、われわれが自分自身の肉体を労苦させることによって獲得できるのとちょうど同じだけの労働によって購買されるのである。実に貨幣または財貨は、この労苦をわれわれからはぶいてくれる。これらの貨幣または財貨は、一定量の労働の価値をふくみ、われわれはそのとき、それらを等量の労働の価値をふくむと思われるものと交換するのである。労働こそは、最初の価格、つまりいっさいの物に支払われた本源的な購買貨幣(original purchase-money)であった。世界のいっさいの富が本源的に購買されたのは、金または銀によってではなく、労働によってであって、富を所有している人々
、またそれをある新しい生産物と交換しようと欲する人々にとってのその価値は、それがそういう人々に購買または支配させうる労働の量に正確に等しいのである。
 
 ホッブズ氏(Mr.Hobbes)がいうように、富は力(power)である。けれども、大財産を獲得したり、相続したりする人は、必ずしも市民または軍人としての政治力を獲得したり、相続したりするとはかぎらない。かれの財産は、おそらくはその両者を獲得する手段をかれにあたえはするであろうが、この財産をただ所有しているというだけでは、必ずしもそのいずれかがかれにもたらされるとはかぎらないのである。その所有が、ただちに、しかも直接にかれにもたらす力は、購買力、すなわち、そのときその市揚にあるいっさいの労働またはいっさいの労働生産物に対する一定の支配である。かれの財産の大小は、この力の大きさ、いいかえれば、その財産がかれに購買または支配させうる
ところの、他の人々の労働の量か、またはこれと同一のことであるが、他の人々の労働生産物の量か、のいずれかに正確に比例する。あらゆる物の交換価値は、それがその所有者にもたらすこの力の大きさにつねに正確に等しいにちがいないのである。

 しかしながら、たとえ労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度であっても、商品の価値がふつう評価されるのはそれによってではない。二つの異なる労働量のあいだの割合を確定することは、しばしば困難である。二つの異なる部類の仕事についやされた時間は、必ずしもつねにそれだけでこの割合を決定しないであろう。たえしのばれた辛苦、または働かされた創意のさまざまの度合もまた、同様に計算にいれなければならない。1時間のつらい作業のほうが、2時間のやさしい仕事よりもいっそう多くの労働をふくんでいるかも知れないし、また、それを習得するのに10年の労働がかかる職業についての1時間の精励のほうが、日常的で自明な仕事についての1カ月の勤務よりもいっそう多くの労働をふくんでいるかも知れないのである。けれども、辛苦または創意のいずれかについて、ある正確な尺度を発見するのはたやすいことではない。実際のところ、さまざまの部類の労働のさまざまの生産物が交換され
るばあいには、両者に対して多少のしんしゃくが加えられるのがふつうである。とはいえ、それはある正確な尺度によってではなく、たとえ正確ではないにしても、日常生活の仕事をすすめてゆくのには十分な、ある種の大づかみな等式(equality)にしたがい、市場のかけひきや約定によって調節されているのである。

 そればかりではなく、あらゆる商品は、労働と交換され、またそれによって比較されるよりも、いっそうしばしば他の諸商品と交換され、またそれらによって比較される。それゆえ、その交換価値を評価するには、それが購買しうる他の商品によるほうが、それが購買しうる労働の量によるよりもいっそう自然である。それに、大部分の人々もまた、特定商品の量というほうが、労働の量というよりもいっそうよくその意味を理解する。前者は目に見え、触知しうる物体であるが、後者は抽象的な観念であって、たとえ十分理解しうるものにすることはできるにしても、総じて前者ほど自然ではなく、また自明なものでもない。

 しかしながら、物々交換が終息して貨幣が商業の共通の用具になると、あらゆる個々の商品は、ある他の商品と交換されるよりも、いっそうしばしば貨幣と交換される。肉屋は、パンまたはビールと交換するために、自分の牛肉や羊肉をパン屋や酒屋にもって行くことはめったになく、かれはそれらを市場へもって行き、そこでそれらを貨幣と交換し、そのあとで、この貨幣をパンやビールと交換する。かれが牛肉や羊肉のかわりにえた貨幣の量は、かれがそのあとで購買しうるパンやビールの量をも規定する。それゆえ、パンやビールの量によって、つまりかれがもう一つの商品の介在によってはじめて交換しうる諸商品の量によって、牛肉や羊肉の価値を評価するよりも、貨幣の量によって、つまりかれがこれらと直接に交換する商品の量によってそうするほうが、かれにとってはいっそう自然であり、自明であって、かれの屠肉は、3ポンドまたは4ポンドのパンに値いするとか、3クォート(quart)または4クォートの弱いビールに値いするとか、というよりも、むしろ1ポンド当り3ペンスまたは4ペンスに値いするというべきものなのである。こういうわけで、あらゆる商品の交換価値は、労働の量か、またはそれと交換にえられる他のある商品の量か、のいずれかによって評価されるよりも、貨幣の量によっていっそうしばしば評価される、ということになるのである。
 とはいえ、金・銀は、あらゆる他の商品と同じようにその価値が変動し、あるときは安価であるが、あるときは高価であり、あるときはたやすく購買されるが、あるときはそれが困難である。ある特定量の金・銀で購買または支配しうる労働の量、つまりそれと交換される他の財貨の量は、このような交換がおこなわれるときにたまたま知られて
いる諸鉱山が、豊鉱が貧鉱かということにつねに依存するのである。アメリカの豊富な諸鉱山の発見は、16世紀に、ヨーロッパの金・銀の価値をそれ以前の約3分の1に縮減した。それらの金属を鉱山から市場へもたらすのには此較的わずかの労働がついやされたから、それらの金属がそこへもってこられたときにもまた、比較的わずかの労働を購買または支配しうるにすぎないのであって、金・銀の価値についてのこの変革は、おそらくは最大のものであろうけれども、歴史がそれについて多少とも報道している唯一のものではけっしてない。ところで、人間の足のながさとか、一尋(ひとひろ)とか、一握(ひとにぎり)とかいうような、それ自体の量が間断なく変動する量の尺度が他の諸物の量の正確な尺度にはけっしてなりえないように、それ自体の価値が間断なく変動する商品もまた、他の諸商品の価値の正確な尺度にはけっしてなりえないのである。等量の労働は、いつどのようなところでも、労働者にとっては等しい価値である、といってさしつかえなかろう。かれの健康・体力および精神が平常の状熊で、またかれの熟練および技巧が通常の程度であれば、かれは自分の安楽、自分の自由および自分の幸福の同一部分をつねに放棄しなければならないのである。かれが支払う価格は、それとひきかえにかれがうけとる財貨の量がおよそどのようなものであろうとも、つねに同一であるにちがいない。実際のところ、この価格が購買するこれらの財貨は、あるときは比較的多量であろうし、またあるときは比較的少量であろうが、変動するのはそれらの財貨の価値であって、それらを購買する労働の価値ではない。いつどのようなところでも、えがたいもの、つまり多くの労働をついやさなければ獲得できないものは高価であり、たやすく、つまりきわめて僅少の労働で手にいれられるものは安価である。それゆえ、それ自体の価値がけっして変動しない労働だけが、いつどのようなところでも、それによっていっさいの商品の価値が
評価され、また比較されうるところの、窮極の、しかも実質的標準である。労働はいっさいの商品の実質価格であるが、
貨幣はその名目価格(nominal price)であるにすぎない。

しかしながら、等量の労働は、たとえ労働者にとってはつねに等しい価値であっても、かれを使用する人にとっては、あるときには比較的大きな、またあるときには比較的小さな価値であるようにみえる。かれは、等量の労働を、あるときには比較的多量の、またあるときには比較的少量の財貨で購買するのであって、かれにとっては、労働の価格は他のいっさいの物のそれと同じように変動するように思われる。かれにとっては、前者のばあいにはそれが高価で、後者のばあいにはそれが安価であるようにみえる。けれども、実際には、前者のばあいに安価で、後者のばあいに高価なのは財貨なのである。
 それゆえ、この通俗の意味では、労働は諸商品と同じように、実質価格と名目価格とをもっている、といってさし
つかえなかろう。
その実質価格は、それと交換にあたえられる生活必需品および便益品の量に存しその名目価格は貨幣の量に存する、といってさしつかえなかろう。労働者が、富んでいるかまずしいか、その報酬が十分か不十分かは、その労働の実質価格に比例してであって、名目価格に比例してではない。

 諸商品や労働の実質価格と名目価格とを区別するのは、単なる思索のうえでの問題ではなぐて、ばあいによってはかなりの実用をともなう問題であろう。同一の実質価格はつねに同一の価値であるが、金・銀の価値が変動するために、同一の名目価格があるときはひじょうに異なった価値であることがある。それゆえ、土地財産(landed estate)が永代地代(perpetual renr)を留保して売却されるばあい、もしこの地代をつねに同一価値にしておこうと意図するならば、この地代を留保してもらう家族にとって重要なのは、それが特定額の貨幣でないようにしておくことである。その価値は、このばあい二つの異なる種類の変動からの影響をまぬかれぬことになるであろう。すなわち、その第一は、同一名称の鋳貨に含有される金・銀の量が、さまざまの時代に異なることから生じる変動であり、第二は、等量の金・銀の価値が、さまざまの時代に異なることから生じる変動である。

君主や独立国は、かれらの鋳貨に含有されている純金属の量を減少させるのを一時的な利益だとしばしば空想した
が、それを増加することを利益だとはめったに空想しなかった。したがって、鋳貨に含有されている金属の量は、わたしはすべての国民についてそう信じているが、ほとんど間断なく滅少し、増加することはめったになかった。それゆえ、このような変動は、ほとんどつねに貨幣地代の価値を減少させる傾向があったのである。

 アメリカの諸鉱山の発見は、ヨーロッパの金銀の価値を減少させた。この減少は、わたしはたしかな証拠はないと思うが、ふつうに想像されているところでは、いまなおだんだんと進行し、これからもながいあいだ減少しつづけそうである。それゆえ、この仮定にもとづくならば、たとえ貨幣地代が、これこれの名称の鋳貨のこれこれの量(たとえばなんポンド・スターリング)で支払われずに、純銀か一定標準の銀かのいずれかのなんオンスで支払われるという約定になっているにしたところで、このような変動は、貨幣地代の価値を増加するよりも、減少させるみこみがいっそう多いのである。

・・・・以下、省略・・・