ヘーゲル哲学入門 第1回 *2月月報


『精神現象学』 A 意 識 1 感覚的確信 このものと思いこみ  〔その1〕


 
 はじまりのヘーゲル哲学は、『精神現象学』の「感覚的確信」から始まります。ヘーゲルという哲学者の「問題意識のはじまり」が端的に表明されています。しかしながら、これがまた難題となっていて、これに慣れ親しんでゆくまでにかなりの労力が要求されています。
 マルクスは、『資本論』第1章のはじまりにあたり、ヘーゲル哲学の一定の理解を前提としています。したがって、一度も実際にヘーゲルを読んだことのない読者には、残念ながらマルクスの「真意」が伝わることに大変困難な状況があります。一般的な『資本論』入門書は、そういう点で親切心に欠けています。そこで、『資本論』ワールドでは、難解なヘーゲル哲学ですが、一歩前進を目指して、「最低限これだけは読んでほしい」箇所を慎重に選んでみました。ヘーゲルの文体は、決して読みやすいものではありませんので、有能な探索ガイド役(島崎隆編著ヘーゲル用語辞典、未来社)を用意しました。このガイドと一緒にヘーゲルを読み進めてゆくことをお勧めします。また『資本論』との接点も随所に指摘されてあり、入門用としてお役に立つものと期待されます。


    『ヘーゲル哲学辞典』より
   「 感覚的確信(感性的確信 sinnliche Gewisheit)とは、目の前に見いだす対象、たとえば、「いま」「ここ」にあるこの樹は直接にそれ自体で存在し、またその点で、他のものとはまったく異なる単純な個別的なもの、<このもの(Dieses)>であると確信する意識である。これほど単純な意識のあり方はなく、「このもの」という形式が対象を構成しているのである。しかし実際には、感性的(感覚的)なものですら、それほど単純な、個別的なものではない。対象はその生成の面からいっても、またそれの認識過程の面からいっても、他のものとの関係のなかで、そしてとりわけ意識自身との関係のなかで、諸性質という多様性を担う普遍的なもの(たとえば、緑である、大きい、植物である、などの性質を担う「樹」)として存在し、知られている。「この樹」を構成する形式は、じつは単純な「このもの」以上のものなのである。」
 
 では、ヘーゲル『精神現象学』から、ヘーゲル哲学の醍醐味へ入門してみましょう。

■〔直接的な感覚的確信〕  ()は翻訳者、〔〕はHP編集者による挿入

 「最初に、すなわち、直接的にわれわれの対象となる知は、それ自身直接的な知、直接的なものまたは存在するものの知にほかならない。われわれもやはり直接的な、つまり受けいれる態度をとるべきであって、現われてくる知を少しも変えてはならないし、把捉から概念把握(ただ対象を感覚的につかむのではなく、そうなることの含む論理を、発生の過程と結果を含めて、理解し概念をうること)を引き離しておかねばならない

 感覚的確信は、その具体的内容からみてそのままで最も豊かな認識であり、いや無限に豊かな認識であるように思われる。つまり、この豊かな内容がひろがっている空間と時間のなかで、われわれが出ていくときにも、またこの豊かな内容の一片をとり、それを分割してそのなかに入って行くときにも、そこに限界というものを全く見つけることができないように思われる。そのうえ、感覚的確信は最も真なるものとして現われる。というのは、この確信はまだ対象から何物をも取り去っていないし、対象を全く完全な姿で見ているからである。だが、この確信は、実際には最も抽象的で最も貧しい真理であることを、自分自身で(問わず語りに)示すことなる。この確信は、自ら知るものについて、有るということだけしか言わない、その真理は事物の有だけしか含んでいない

 意識は、意識なりに、この確信のなかにいるとき、純粋自我として有るだけである。言いかえると私はそこでは純粋のこのものとして在るだけであり、対象も純粋なこのものとして在るだけである。私、この人は、その場合意識として自らを展開し、いろいろな形で思想を動かしているという理由で、この事柄を確信しているわけではない。また、私の確信している事物が、くべつをもった数ある性質のために、それ自身で豊かな関係であるから、もしくは、他の事物に対し多様な関係をもっているからという理由で、確信しているわけでもない。そいうことは、両方とも、感覚的確信の真理には全く関係がない

 自我も事物も、ここでは、多様な媒介という意味をもってはいないし、事物も多様な性質という意味をもってはいない。そうではく、事物は有る。事物は、ただ有るから有る。事物が有るということこのことは、感覚知にとり本質的なことである。この純粋有もしくはこの単純な直接態が真理なのである。同じように、この確信は関係としても、直接的な(無媒介の)純粋な関係である。意識は自我であって、それ以上の何物でもなく、純粋のこのひとである。個別的なひとが純粋のこのもの、つまり個別的なものを知るのであう。・・・

 ■〔対象は感覚的確信通りか?〕
 
 だから対象が、感覚的確信自身においては、実際に、この確信によってそうだと言われている通りのものであるかどうか、また、実在であるというその概念は、対象が確信のなかにあるままと一致するかどうか、ということが考察されなければならない。このためにはわれわれは、対象について、それが真に在る通りを反省し、追考すべきではなく、感覚的確信が自分でもっている通りの対象を、考察するだけにしておくべきである

 だから感覚的確信は、このものとは何であるかと、自ら問うべきである。そこでこのものを、ここといまという、現に在る二つの形で受けとるならば、このものが自分でもっている弁証法は、この自身がある通りのわかり易い形をとるであろう。そこで、いまとは何であるかという問いにたいしては、われわれは、たとえば、今は夜であるという例で答える。この感覚的確信の真理を吟味するためには、単純な試みで充分である。われわれはこの真理を書きとめておこう。真理というものは書きとめられたからといって、なくなるものでもあるまい。そこで、いま、この日中に、その書きとめられた真理をもう一度ながめてみると、われわれは、それが気のぬけたものになってしまっていると言わなければならなくなる。

 
夜である今は貯えられる、すなわち、その今は、存在するものとして、示される通りのものとして現われる。いまそのものは確かに持続するであろうが、夜ではないものとしてである。同じように、今は、今である昼に対し、昼でもない或るものとして、つまり、否定的なもの一般として持続する。だから、このように持続する今は直接的(無媒介)なものではなく、媒介されたものである。なぜならば、今は他者つまり昼と夜が在るのでないことによって、永続するもの、自らを維持するものと規定されているからである。その場合、いまは前の場合と同じようにいまであり、この単純な形で、その傍らになおたわむれているものには無関心である。夜も昼もいまの有ではないけれども、また同じようにいまは昼でもあり夜でもある。いまはこの自らの他在によって全然刺激を受けない。否定を通じてあるような、これでもあれでもないもの、このものならぬものであり、これであることにも、あれであることにも無関係であるものは、一般的なものと呼ばれる。こうして、実際には一般的なものこそ感覚的確信の真理である。

 
■〔感覚的確信は一般的なもの〕
 
 
れわれは、感覚的なものをも一般的なものとして言い表わす。われわれが言い表わすものは、このもの、すなわち、一般的なこのものである、言いかえると、それは有るということ、すなわち有一般である。そのさいわれわれは、もちろん一般的なこのものとか有一般とかを表象しているのではないが、一般的なものを言い表わしている。言いかえると、われわれは、このものを感覚的確信におい思いこんで(原語はmeinen、Meinungであるが、この書では、はっきり概念的に理解していないで、何となくそう思いこんでしまっており、確信となっているため、反省されもしないような把握の一つの態度を意味する。これはこの書では度々出てくるし、重要な主題の一つでもある)いる通りの、そのままには、語っていないのである。だが、われわれの見るところでは、言葉の方が思いこみより一層真なるものである。言葉のなかでわれわれは自ら直接、われわれの思いこみにそむく、そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を言い表わすだけであるから、われわれが思いこんでいるような感覚的存在を言い表わしうるなどと到底ありえない。(『エンチュクロペディ-』20節)

 
れゆえ、感覚的確信は、それ自身において、一般的なものを自らの対象の真理であると言っているのだから、この確信にとっては、その本質としての純粋有は、持続してはいるが、直接的なものとしてではなく、否定と媒介を本質としているようなものとしてである。だから、それはわれわれが有という言葉で思いこんでいるようなものとしてではなく、抽象もしくは純粋の一般者という規定をもった有として、持続している。しかしながら、われわれの思いこみは、感覚的確信の真理を一般的なものとは考えないので、空しいたは無関心ないまとここに対立して、いつまでもそのままだということになる。

 
と対象が初めに現われてきたときの関係と、両者がこのような結果となって現われる関係とを、比較してみるならば、事態は逆になっている。感覚的確信にとり本質的なものであったはずの対象は、いまここでは、非本質的なものとなっている。なぜならば、結果として対象がそうなったもの、つまり一般的なものは、もはや、感覚的確信にとって本質的であるはずであったものではなく、いまここに至っては、反対のもののなかに、つまり。前には非本質的であったもののなかに、現存している。感覚的確信の真理は、私の(思いこみの)対象としての対象のなかに、つまり想いこみのなかにある。対象は、私がこれを知るから、有る。こうして感覚的確信は、なるほど対象から追いはらわれてはいるが、そのために廃棄されたわけではなく、自我のなかに押しもどされただけである。われわれは、確信のこの実在性について経験が示すことを、見る必要がある。・・・

 
今がこの今が示されるそれは、示されるときには、もはや存在することを止めてしまう現にあるいまは、示されたいまとは別のものである。いまとは、現に在るとき、既にもはやないような、正にそういうものであることを、われわれは知る。われわれに示されるいま、それは、あったものである。こういうのがいまの真理である。そういういまは有の真理をもっていない。それでも、いまが在ったということは真である。だがあった(gewesen)ものは、実際にはいかなる実在(Wesen)でもない。あったものは現に在るのではない。問題になっていたのは「有る」である
 ういうわけで、われわれは、この示すということのなかで、一つの運動とこの運動の次にのべるような経過とを見ているにすぎない

(1) 私
はいまを指摘する。いまは真であると主張されている。が、私は、そのいまをあったものまたは廃棄されたものとして、示す。つまり私は初めの真理を廃棄する。次に(2)私は、いまがあったということ、廃棄されていることを、いまの第二の真理として主張する。だが、(3)あったものは現にあるのではない。私はあったもの、廃棄されたもの、第二の真理を廃棄し、そうすることによって、いまの否定を否定する、こうして、いまは現にあるという最初の主張に帰る。

 
だから、いまといまを示すこととがどんな性質かといえば、いまもいまを示すことも、共に直接的(無媒介)なものではなく、いろいろな契機を自分にもっている一つの運動だ、ということになる。このものは定立されるけれども、定立されのは、むしろ、それとは別のものである。言いかえると、このものは廃棄される。この他有つまり初めのものの廃棄は、それ自身また廃棄され、こうして初めのこのものに帰る。だが、自己に帰った初めのこのものは、初めにあったもの、つまり直接的なものとそのまま全く同じであるのではない。それは、ほかでもなく、自己に帰ったものである。つまり、それは、他有において、ない自らが在るものであり続けるような単純なものであり、絶対に多くのいまであるような一つのいまである。これが真のいまであり、多くの分であり、このいまは同じように多くのいまである等々である。

 示すことはそれ自身運動である。この運動は、いまが真に何であるかを、つまり、今が一つの結果であることを、言いかえると、包括された多数態であることを、言い表わす、示すということは、いまが一般的なものであることを経験することである。〔岩波書店・金子武蔵訳:「言いかえると、集合された今の数多性であることを示すのである。そこで指摘するということは、今が普遍的なものであることを経験するゆえんである。」〕・・・

 
 そこで明らかになることは、感覚的確信の弁証法が、確信の運動、つまり経験の単純な歴史にほかならないということであり、また、感覚的確信自身が全くこの歴史にほかならない、ということである。だから、自然的意識もやはり、感覚的確信において真理であるこの結果に、引続き自ら進んで行き、それについて経験する

が、くりかえし同じようにこの結果を忘れてしまうだけで、運動を初めからやり直すことになる。それゆえ、この経験に逆らって、このものまたは感覚的なものとしての、外的事物の実在性すなわち存在が、絶対真理をもつのは、意識に対してであるという説が、一般的経験として、哲学的主張でもあり、全く懐疑論の主張でもあるとして、たてられるとすれば、それは不思議なことである。

このような主張は、自らの語っていることを知っていないと同時に、自らが言おうとしていることの反対のことを、自ら言っていることを知っていない。感覚的なこのものの真理は、意識にとってこそ、一般的な経験であると言うが、むしろその反対が一般的経験である。すべての意識はそういう真理、たとえば木であるとか、いまは真昼であるとかという真理を自ら再び廃棄して、ここは木ではなく、家であるというその反対のことを語る。初めの主張を廃棄する後の主張において、感覚的なこのものについて、また、初めに言った主張となるものを、意識はすぐさま廃棄してしまう。そして経験されることは、すべての感覚的確信において、実際には、われわれが見てきたことつまり、次のことだけであろう。すなわち、一般的なものとしてのこのものは、前の主張が一般的経験を引合いに出すにあたって、あらかじめ実際的なことに留意しても差支えはあるまい。・・・


 これまでのべたような主張をする人々は、だが、これまで注意した通り、自分達が思いこんでいるのとは反対のことを、そのまま言ってさえもいるのである。この現象は、恐らく最もよく感覚的確信の本性を考えさせることになろう。そういう人達は、外的対象の定在について語り、この対象はもっと正確には、どれも、自らに絶対に等しいものをもっていないような現実的な、絶対に個別的な、全く個人的な、個的な物として規定されうるというのである、つまり、この定在は絶対の確実性と真理をもつというのである

その人達は、私がこのことを書き、或いはむしろ書き終わったこの一枚の紙を思いこむけれども、その思いこんでいることを、言い表わしているのではない。自分達の思いこんでいる一枚の紙を現に言い表わそうとしても、しかも現に言い表わそうとしたのであるが、それはできないことである。というのも、思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに、帰属する言葉にとっては、到達できなものであるからである

だから、この一枚の紙は、言い表わそうと現に試みているうちに、腐っていしまうであろう。それを書き記そうと始める人々も、それを仕上げることができないで、他の人々にまかせるほか仕方がなくなる。がこの人々も、そういうことは、結局は、有もしないものについて語ることになると、白状するであろう。だから人々は、ここに至って前に言ったのとは、全く別のものとなっているこの一枚の紙を、なるほど思いこみはするだろうが、現実の物、外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る

つまりその人々は、それらについて一般的なものを言うだけである。それゆえ、語られえないものと呼ばれるものは、真ならぬもの、理性的ならぬもの、ただ思いこまれただけのものにほかならない。或るものについて、現実的な物とか外的対象であるというより以上のことが何も言われない場合には、それは、最も一般的なものとして語られたのであり、他のものとの区別というよりは、すべてのものと等しいことが語られているのである。私は、個別的な物と言うとき、むしろ全く一般的なものと同じものを言っているのである

なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、ひとびとの求めているものは、みなどれもこのものである。もっと正確に言えば、この一枚の紙というとき、すべての紙、どの紙も一枚の紙なのである。私はいつもただ一般的なものを語っているだけなのである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、言葉に表現できないものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている

が、私は、この一枚の紙を示すことによって、この言葉を修正しようとするならば、感覚的確信が実際に何であるかを経験することになる。私は、このものを、ここと指摘するが、これは多くの他のここのここであり、それ自身において多くのここの単一な複合であり、一般的なものである。私は、それを真に有る通りに受けとる、そして直接的なものを知るかわりに知覚する
 

 
:ヘーゲル用語辞典「知覚Wahrnehmungする」とは、この関係性(媒介性)を対象のうちにみている意識であり、その対象はたんなる「このもの」ではなく、ひとつのものでありながら白いとともに辛く、また立方体であり、これこれの重さをもつ、という多様性をもつ「この塩」のように、「多くの性質をそなえた<物Ding>」である。こうした形式をもつこの物は、これを他の多くの物と区別する諸性質の集合として数多性でありつつ、しかもひとつのものである。しかし、この矛盾を含む対象を、意識は矛盾を含まないものとして受け取ろうとする。このために意識は、「一(統一性)」でありかつ「多(数多性)」であるという物のもつこの対立する二側面を、「主観的には」「客観的には」などの異なる次元に分離して理解する。たとえば、諸性質の区別は、主観的にはわれわれの感覚器官にたいしてのみあり、それ自体は客観的にはひとつである。あるいは逆に、対象は、客観的には色素、臭素、味覚などの集合であり、主観的にはわれわれ自身がそれをひとつに総括している、と

以上



ヘーゲル 『精神現象学』 C 理性          

Ⅴ 理性の確信と真理  
 A観察する理性 a 自然の観察

有機的なものの観察 (有機的なものと成素


α 有機的なものと非有機的なものとの関係
β 目的論
γ 内なるものと外なるもの


Ⅴ 理性と確信と真理


  
個別的な意識が自体的には絶対実在であるという思想を把握するに至ると、意識は己れ自身の
うちに還帰する。もっとも不幸な意識にとっては自体存在は己れ自身の彼岸であるが、しかし、この意識
の運動こそがこの意識において成就したのは、個別性も完全に発展すると、言いかえると、個別性も現実
な意識となると、意識自身の否定的なものであるのを、即ち対象的な極であるのを定立したということで

あり、言いかえると、意識は自分の自分だけでの存在を自分から引きずり出して、これを〔対象的な〕存
在とすることを、意識自身において成就したのである。この成就と共に、意識に対しては、この普遍者と
自分との統一もまた〔対象として〕生じているが、この統一は「我々」にとっては、止揚せられた個別者
は普遍者であるが故に、もはや意識のそとに属するものではないし、また意識は自分のこのような否定性
においても己れを維持するものであるから、この統一は意識自身においてその本質をなしていることに

る。


 
有機的なものの観察  p.257
 
 
さて過程を具えながら、これを概念の単純態のうちに具えているような対象が有機的なものである。有
機的なものとは、かかる絶対の流動性であって、このうちにあっては、よってもって有機的なものがただ
他者に対してあるものにすぎなくなるような限定は解消させられている。いったい非有機的な物とは、限
定をもって本質とするものであるが故に、ただ他の物といっしょになって初めて概念の諸契機の全体をつ
くすのであり、したがって運動にはいると消えうせてしまうのであるが、これに対して有機的なものにお
いては、よってもって他者に対して己れを開くような限定はすべて有機的な単純な統一の支配のもとに

束させられている。


 
このようにして観察する意識には、二つの存在的で固定的な契機の関係としての有機的実在が「発生」
している。――これらの契機はひとつの対立のものであるが、この対立の両側面は存在的、固定的である
ので、一方では観察において与えられているように思えるし、他方では内容から言うと、有機的な目的概
念と現実との対立を表現している。そこで「我々」はひとが内なるものというときに意味しているのがほ
ぼ前者(目的概念)であり、ひとが外なるものと言うときに意味しているのがほぼ後者(現実)であるこ
とを見るが、両者の関係が「外なるものは内なるものの表現である」という法則を生み出すのである。
 そこで内なるものと外なるものとがそれぞれの存在においていかなる形態をもつかが見られなくてはな

らない。

 
有機体の実体が内なる実体として単純な魂であり、純粋な目的概念であり、言いかえると、普遍的なも
のであるが
この普遍的なものは部分となったときにも普遍的な流動性たることを保っているから、存在
するときにも働き(機能)として、言いかえると、現実は現実でも消失する現実の運動として現象してく
る。しかるにこれに対してかの存在する内なるものに対置せられた外なるものとは有機的なものの静止せ

る存在のことである

そこで法則とはかの内なるもののこの外なるものへの関係のことであるから、この
法則はその内容を一方では普遍的な諸契機ないし単純な諸本質態の呈示において、そうして他方では現実
化せられた本質態ないし形態の呈示において表現していることになる。 p.267
 再生は〔感受性と反応性とならなる〕全体として己れのうちに還帰している有機体の作用であり、もし
自己維持一般の意味に解せられるときには、再生は有機体の実在的な概念であり、ないしは全体であり、
そうしてこの全体は個体として自分自身の個々の諸部分を生産することによってか、それとも類として諸
個体を生産することによって己れのうちに還帰している


 
これらの有機的な成素がもつ今ひとつの別な意義、即ち外なるものとしてもつ意義というのは、これら
成素が形態をえたありかたのことであるが、このありかたから言うと、これらの成素は現実的な諸部分として
現にあるが、しかし同時に普遍者として、言いかえると、有機的な諸組織として現にある
。 
p.269
 
したがって有機体に固有な諸法則というのは、有機体の諸契機が一方では有機的な形態化の部分であり
、他方では限定ではあっても、かのすべての組織のうちを駆けめぐり、すべてに浸透する普遍的な流動的
な限定でもあるという二重の意義をもつところから生ずる諸契機相互の関係に関するものであ


 
有機体の抽象的な理念がかの三つの〔感受性、反応性、再生という〕契機において真実において表現せ
られているのは、これらの契機が決して静止せるものではなく、概念と運動との諸契機にほかならぬから
こそであるが、そうであるとすると、他方の形態化としても、有機体は解剖学が離れ離れのままにしてお
くような三つの限定せられた組織のうちにとじこめられているのではない


 
形態そのものの組織においては、有機体は現存は現存でも死せる現存という抽象的な側面にしたがって
把握せられているが、そう受けとられたときには、有機体の諸契機ももう解剖学のものであり、屍体のも
のであって、もう認識のものでも生ける有機体のものでもない。かかる諸部分としては、諸契機はむしろ
存在することをもうやめてしまっている。なぜなら、諸契機はもう過程として存在することをやめている
からである

有機体の場合には存在と言っても本質的に普遍態のことであり、言いかえると、己れ自身へ
の還帰のことであるから、その全体の存在も諸契機の場合と同じように解剖学的な組織のうちにあるので
はなく、かえって現実的な〔全体の〕表現も諸契機の外面性もむしろただ形態化の互いに相違する諸部分
を駆けめぐるところの運動としてのみ現にあるからであり、そうしてこの運動のうちでは、〔解剖学によ
って〕個々の組織として引きずり出されて固定化されていたものも本質的に流動的な契機であることを示
すのである。だから諸契機の実在性として妥当することを許されるものは解剖学が「見出す」ようなかの
現実ではなく、ただ過程としての現実のみであり、そうして解剖学的な諸部分が意味をもつのも、ただこ
の過程においてのみのことである



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