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コラム. 4
 人類の進化と社会性 (1)


 
資本論ワールド編集委員会より
 まえがき
 本シリーズは、「人類の進化と社会性」をテーマに、「こころと脳科学」を考えてゆく企画です。
第1回目として、「コラム.4」に紹介する長谷川眞理子氏の論文の特徴は、
生物学者として、「人類の進化学」のキーワードが簡潔に報告されています。
 ① ホモ・サピエンスと言語機能遺伝子
 ② ヒトの形質―進化的歴史の99パーセントは狩猟採集生活者
 ③ 言語は社会的コミュニケーションの道具
 ④ ミラー・ニューロン―他者と自己の概念形成の端緒
など。
 現在、第一線で活躍されている人々の思考と思いを実感して頂ければ、編集委員会として望外の喜びです。



 
『こころと言葉』 進化と認知科学のアプローチ 東京大学出版会  2008年11月

 
長谷川眞理子著  第3章 「ヒトの進化と言語獲得の背景」 抄録・要約

 
長谷川眞理子氏の紹介
  現職:総合研究大学院大学 理事、先導科学研究科 教授
  専門:行動生態学、自然人類学
  野生のチンパンジー、イギリスのダマジカ、野生ヒツジ、スリランカのクジャクなどの研究を行ってきた。
 最近は人間の進化と適応の研究を行なっている。 
 
★ホームページより
 「1990年に招待された2つのクローズドの国際シンポジウムがきっかけで、「人間の本性の進化的探求」という
 大きな目標に、方向転換しました。やっと人間に興味が出てきたのです。人間を扱う自信も出てきたということでしょう。
 これまで多くの動物を見て進化生物学、行動生態学をやってきた成果の全部を投入して、人間というもっとも複雑な対象に
 取り組んでいます。2000年には早稲田大学政治経済学部に移りました。早稲田の政経では、「地球環境問題の行方」と
 いうゼミを持ち、優秀な学生たちとの討論を通じて、政治学、経済学など、人間社会を研究する社会科学に、
 私自身が目を開かれました。生態学と経済学の橋渡し、政治学と社会心理学と進化心理学の橋渡しなどを、ここ数年
 行っています。現在、自分でデータ分析している研究は、殺人についてと、死亡率性さについてです。
 それから、認知神経科学の人たちといっしょに、言語の進化の生物学的基盤について考察しています。
 今後は、複雑適応系としての生物個体、個体群、生態系について、従来とはまた違った形の進化学が構築できるのでは
 ないかと、楽しみに構想しています。」
         (
国立大学法人総合研究大学院大学HPより https://www.soken.ac.jp/intro_researcher/2213/ )



 長谷川眞理子著 「ヒトの進化と言語獲得の背景」 
(注:中見出しは編集部が作成)
 はじめに
 この言語というものは、どのようにしてできたのだろうか?言語の進化と言った場合、問題は大きく2つに分けられる。
1つは、言語は 人間しか持っていない形質であるらしいので、類人猿から分かれて現在のホモ・サピエンスに至る
系統のどこで、どのような前駆体をもとに現在のような言語が進化したのかという、系統的起源の問題である。
もう1つは、どのような適応的機能があったから進化したのかという、機能の問題である。答えはわからないのであるから、
どちらの問いに対しても、理論的には2つの仮想的答えがある。・・・
 私は、言語には前駆体があったと考えるし、言語自体に適応的な機能があったからこそ進化したのだと考える。・・・
本章では、言語の進化そのものについてというよりは、言語の進化を可能にした、さまざまなヒトの特徴について抽出し、
それらの特徴の生態学的、行動学的意味を考察することで、言語の進化を可能にした基盤を考えるための、新しい視点を
提供したい。言語は、それだけが孤立して進化したのではなく、人類という生き物の生き方、暮らし方、その生態の総体の
中で進化した。言語がヒトに固有の生き方、暮らし方、その生態の中に、言語を生み出した基盤があるはずである。
言語の進化は、そのような人間の暮らしの総合的な全体像の中でとらえなければ解明できないと考えるからである。



 1. 直立ニ足歩行と脳容量


 人類と他の霊長類を分ける特徴は、直立二足歩行という移動様式であり、このような生物最初に現われたのは、およそ
600万年前のアフリカであるらしい。ゲノムの解析によると、現生の霊長類の中でヒトにもっとも近縁なのはチンパンジーであり、
ヒトとチンパンジーの分岐はおよそ600万年前である。ここ数年のうちにアフリカで発見された、サヘラントロプス
〔通称名:トゥ‐マイ〕 などの化石はおよそ600万年前にさかのぼり、直立二足歩行していたことが示されている。
直立二足歩行する人類の系統がおよそ600万年以前に出現したということは、これで、遺伝学と形態学の両方から確証されたと
言ってよいだろう。その後は、アルディピテクス、アウストラロピテクスと呼ばれる化石群が出現する。しかし、彼らの脳容量は
400㏄前後であった。現在のチンパンジーの脳容量がおよそ370㏄、わたしたちサピエンスの平均が1400㏄である。

 2. 出アフリカと道具の使用


 やがて、250万年ほど前から、ホモ属と分類される人類が出現するようになる。彼らの脳容量は900㏄前後に増加した。
このホモ属は、およそ180万年前にアフリカ大陸を出てユーラシア大陸全土に広がった。そして、
各地で固有の集団が生じたが、それらを総称してホモ・エレクトスと呼ぶ。エレクトスの脳容量は900から1100㏄であり、
彼らはアシュレアンと呼ばれる石器を持ち、木製の槍なども使用していた。火の使用もしていたらしい。

 3. ホモ・サピエンスの出現

 現生のヒト、つまりわれわれは、ホモ・サピエンスという種に属する。化石および遺伝学的な証拠によると、現生の
ホモ・サピエンスは、ほぼ20万年から14万年前にアフリカで出現した。つまり、それ以前に存在したホモ・エレクトスは、
どうやら絶滅したようである。そして、アフリカに住んでいたエレクトスの集団の一部から、新しいタイプが生じ、
再び全世界に広がった。



 4. FOXP2-言語機能遺伝子の可能性

 最近の遺伝子の研究によると、FOXP2という遺伝子が、言語機能と関連している可能性が示唆されている。
FOXP2はさまざまな機能をもった調節遺伝子であり、哺乳類の中ではほとんど変異がない。チンパンジー、ゴジラ、
アカゲザルのFOXP2遺伝子は互いに同じで、ネズミのそれとは1ヵ所のアミノ酸で異なるだけである。
しかし、ヒトのFOXP2 はチンパンジーなどと2ヵ所で異なる。この変異がいつごろ起こったのかを計算したところ、
およそ20万年前ということであった。これは、まさにサピエンスの出現の時期である。もしも、FOXP2が本当に
言語機能の獲得に決定的な役割を果たしたのならば、言語は、サピエンスになってから出現したと考えられることになる。


 5. 言語と社会性


 「ヒトの形質」とは、近現代の文明社会のヒトではなく、ヒトの本来の生業形態である狩猟採集社会に暮らすヒトの特徴である。
ヒトは、その進化的歴史の99パーセントを狩猟採集者として暮らしてきたのであり、ヒトの遺伝的な基盤は、狩猟採集生活を
送る中で築かれた。言語はヒトの生物学的形質の1つであるので、それが進化した背景を考えるには、現代のヒトの暮らしでは
なく、狩猟採集生活者としてのヒトの暮らしを考えねばならない。

 6. 言語は社会的コミュニケーションの道具

 言語は社会的コミュニケーションの道具であり、言語コミュニケーション行動の適応的価値は、それが表現される社会的
関係の性質に依存する。ヒトが、チンパンジーとは違うどのような社会生活を送るようになったかは、また、
ヒトの生活史パラメータの変化と密接に関連している。したがって、この3つ (①生活史戦略の違い、
②社会関係の違い、③認知・感情の違い)の性質を合わせて考えるべきである。

 
① 生活史戦略の違い
 チンパンジーでは、離乳から性成熟までの「子ども期」において、採食はすでに完全に独立して行い、移動その他の
日常の活動のほとんども独立して行うようになる。社会的なサポートは必要であるものの、子どもの生活はかなりの
程度に独立している。
 それとは対照的に、ヒトの「子ども期」はまだまだ親による多大な世話を必要とする。食物の採集と調理と加工ができず、
子どもは、離乳後も長い間にわたって食べることをおとなに依存している。移動能力も十分ではない。独立して生活を
営むためのさまざまな技術の習得にはさらに長い年月がかかり、それらをおとなから教わらねばならない。また、心理的、
社会的なサポートも長く必要である。

 
② 社会関係の違い
 チンパンジーの母親は、基本的に単独で子育てをする。1つの集団に属する大人の雌どうしに血縁関係はなく、彼女らの
間の関係はそれほど緊密ではない。また、特定の雄と雌との間に長く続く緊密な関係も存在しない。チンパンジーの集団は、
離合集散しながらも1つのなわばりの中で一緒に暮らしてはいるが、集団の個体どうしが協力しあって共同作業することは
ほとんどない。
 一方、ヒトでは、血縁、非血縁を問わず、女性どうしが、たがいに緊密な関係を持っており、シングル・マザーが単独で
子育てするのが普通であるような社会は存在しない。一生その関係が持続するかどうかはともかく、特定の男性と女性との
間に強い絆が存在する。これはペア・ボンドと呼ばれる。そして集団の構成員全員が共同作業することも珍しくない。
要は、ヒトにおいては、チンパンジーよりもずっと個体間の協力と親密さが濃厚である。

 
③ 認知・感情の違い
 チンパンジーにはかなり高度な認知能力はあるものの、文法理解に基づく言語の能力は存在しない。それに関連して、
チンパンジーには、入れ子構造(たとえば、○○は「○○は○○と言った」と言った、など)の理解が難しい。
文法は、本質的に入れ子構造を備えているが、文法のみならず、箱をもう1つの箱の中に入れ、またそれをもう1つの箱に
入れ、といった入れ子の物体の全体を1つとして扱う、ということもチンパンジーはしない。
 また、ヒトの子どもは発話したがり、「あれ、ワンワン」など世界の様子を描写するだけの叙述的なセンテンスをしばしば発する。
しかし、言語訓練を受けたチンパンジーが発する「言葉」のほとんどは要求であり、叙述的なセンテンスを自ら発することは
ほとんどない。ヒトの子どもは、物を指し示す指示的コミュニケーションを難なく理解し、しばしばそれを行なうが、
野生のチンパンジーは指示的コミュニケーションを行なわない。
 チンパンジーが他者の心をどう理解しているかは、2002年、プレマックらが「心の理論」の仮説を出して以来の主要な
研究テーマである。チンパンジーは、さまざまな顔面表情を持ち、その表出によって非言語的コミュニケーションを行なっては
いるが、他者に対して感情移入を行ない、共感の感情を持つことを示す証拠はきわめて少ない。闘争が起こると、強者に
攻撃をやめさせようとする「なだめ」の行動は見られるが、攻撃を受けた弱者に「なぐさめ」の行動を見せることは少ない。

 成長の遅延、長い子ども期、密接な母子関係、比較的平等なさまざまな個体関の協力、他者への共感、他者の心とからだを
自分の心とからだに重ね合わせること、などが、ヒトに固有の特徴を形成している。これらが、言語を導く生物学的背景に
なったのではないだろうか?その具体的な因果関係について以後、本章の後半で分析してみる。



 
7. 脳の大型化

 
2004年に発表された興味深い研究によると、ヒトの系統において顕著に起こったのは、まず、食物をかみ砕くのに
使われる咬筋・側頭筋の退縮であった。ホモ・サピエンスでは咬筋が非常に小さく、咬筋の付着部が側頭の一部に
限られるので、食物を咀嚼しても頭頂に大きな圧力がかかることはない。
 この咬筋の筋繊維であるミオシンを作る遺伝子を調べたところ、ヒトの系統ではここに変異が起こって遺伝子が
不活性化したため、その結果作られるミオシン繊維が細く、その総量も少なくなっていた。この不活性化の変異が
いつごろ生じたのかを計算したところ、240万年±30万年前であった。つまり、ホモ属が出現したころである。
 
小さな咬筋でも生きていける条件が整っていなければならない。堅い植物性食物をすりつぶして咬む必要がなくなって
いれば、咬筋が小さくても生き延びられただろう。この変異が生じたころまでに、肉食の割合が増え、何らかの火の利用が
あれば、それは可能であったろう。こうして最大1250㏄にまで脳容量が増えたのが、ホモ・エレクトスである。

 8. ミラー・ニューロン

 
1996年、ミラー・ニューロンという特殊な神経細胞があることがサル類で確認されている
これは、意図をもった動作をするときに発火するが、他者が同じような意図をもった動作をしているのを見ている
だけでも同じように発火する。
さらに、そのような意図をもった動作に伴う音など、異なる感覚モダリティを通じても発火する。サル類に存在するものは、
類人猿やヒトにも存在するはずだ。
 このような神経細胞があるならば、これが動作模倣の基盤になってよいはずだが、最近、京都大学霊長類研究所の
「有名チンプ」であるアイとアユムの研究から、チンパンジーにも新生児模倣があることがわかった。
 一方、ヒトは、親自身に、明確な自己の概念や心の理論の理解や共感の感情があるため、新生児模倣に対して
積極的に反応し、それを強化する。そして、それが互いの愛着の強化にもつながり、やがて、それが動作模倣にも発展して
いくことになる。ヒトの赤ん坊は、手を伸ばすこと、そして指差すことが、あるものを指示することであると学習していく。
いったん、この指示的身振りの理解が確立すると、それは、身振りと物との対応を確立させるようになる。
それは、意味性の獲得である。
 ミラー・ニューロンがあり、明確化された自己の概念があり、動作模倣ができれば、ある身振りがある「物」や「事柄」を
意味するというレベルでの、意味ある記号の理解とその共有が可能になるだろう。



 ヒトは、高度な認知能力を持ったために、その認知が生み出した産物をさらに文化的遺産として後生に蓄積して
伝達することができる。その結果、後生のヒトは、より複雑な刺激を受けて育つことになり、それがなければ作られないような
神経間の連結を発達過程で作り出しているかもしれない。言語、されに書字言語は、こうして、ヒトの遺伝的性質を
変えることなく、世代を経るごとにさらにヒトを高次な活動へと引っ張っていった可能性がある。
    
 (*初出:本章は『言語』(大修館書店)2005年に掲載の同名の論文に修正を加えたものである。)