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『資本論』 第1章商品 第四節 商品の物神的性格とその秘密 抄録 
    第6段落~第8段落(岩波文庫p.132-135)

1. 物の社会的な諸関係として現われる
 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。
これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触に
はいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、
私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて
社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、
あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ
人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


2. 労働の社会的性格を労働生産物の価値性格の形式で反映する
 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる
価値対象性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、
それによって有用物が交換のために生産され、したがって、事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで
考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたさせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、
二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、
そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。
これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の
有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。
toto coelo (全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、
それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、
ありうるのである。私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で
現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が
有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、
これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態〔形式〕で、反映するのである。


3. 労働生産物を交換において「価値」として置く
 したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、
単に物的な外被であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として
等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、
彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。
価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の
秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの
社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現で
あるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を
おい払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に
独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとると
いうことは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも
空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、
終局的なものに見えるのである。