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レーニン著 『カール・マルクス』
   
    
マルクスの経済学説


   マルクスは、『資本論』の序文のなかで、つぎのように述べている。「近代社会」、すなわち資本主義的
  ブルジョア社会の「
経済的運動法則をあらわに示すことが、本書の最後の究極目的である」。ある一定の、
  歴史的に規定された社会の生産諸関係を、その発生、発展および衰退という点から研究すること
  ―これがマルクスの経済学説の内容である。
資本主義社会では商品の生産が支配している
  それで
マルクスの分析は商品の分析からはじまっている

       価  値


 商品とは、第一に、人間のなんらかの必要をみたす物である。それは、第二に、ほかの物と交換できる物である。
物の有用性はその物を使用価値にする交換価値(あるいは単に価値)は、なによりもまず、ある種の使用価値の
ある一定数が他の種の使用価値のある一定数と交換される割合、比率である。
日々の経験がわれわれに示して
いるのは、何百万、何十億というそうした交換が、おりとあらゆる、非常にさまざまな、たがいに比較できないところの
使用価値をたえずたがいに等しいものとしていることである。社会関係のある特定の体制のなかで、たえず
たがいに等しいとされている、これらのさまざまな物のあいだに、いったいどんな共通なものがあるのか?それらに
共通なのは、それらが労働生産物だということである。生産物を交換することによって、人間は非常にさまざまな
種類の労働をたがいに等しいものとしている。商品生産は、個々の生産者たちがいろいろな生産物をつくり
(社会的分業)、そしてすべてこれらの生産物が交換の際にたがいに等しいとされる、そうした社会関係の体制である。
従って、
あらゆる商品のなかにある共通なものとは、ある特定の生産部門の具体的労働ではなく、なにかある一種の
労働ではなくて、
抽象的人間労働、人間労働一般である。すべての商品の価値の総和で表わされる、ある一定の
社会の総労働力は、まったく同一な人間労働力である。幾十億という交換の事実がそのことを証明している。従って、
個々の商品は社会的に必要な労働時間のある一定の部分をそれぞれ表わすにすぎない。価値の大きさは、
社会的に必要な労働の量、あるいはある一定の商品、ある一定の使用価値の生産のために社会的に必要な
労働時間によって決定される。「人々は彼らのいろいろな生産物を、交換において価値としてたがいに等しいとする
ことによって、彼らのいろいろな労働をたがいに等しいものとする。彼らはこのことを意識していないが、しかしそれを
行なうのである」。

 価値とは二人の人間のあいだの関係である―とある昔の経済学者は言った。ただ彼はこうつけ加えるべきであった
― 物的な外被におおわれた関係だ、と。価値とはなにかということは、ある特定の歴史的な社会構成体の社会的
生産諸関係の体制、しかも何十億回となくくりかえされている、大量的な交換現象に現われている諸関係の体制と
いう見地から、はじめて理解することができるのである。「価値としては、すべての商品はただ凝結した労働時間の
一定量であるにすぎない」。

商品に体現されている労働の二重性を詳細に分析したのち、マルクスは価値形態と貨幣
との分析にうつっている。ことでのマルクスの主要な課題は、価値の貨幣形態の起原を研究すること、個々の、偶然的
な交換行為(「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」、すなわちある商品のある一定の量が他の商品のある
一定の量と交換される場合)からはじまって、一般的価値形態、すなわちさまざまな異なった一連の商品がまったく
同一な特定の商品と交換される場合にいたるまで、さらに価値の貨幣形態、すなわち金がこの特定商品すなわち
一般的等価物となる場合にいたるまで、交換が展開してきた歴史的過程を研究することである。交換と商品生産との
発展の最高の産物としての貨幣は、私的労働の社会的性格を、市場によって結合されている個々の生産者のあいだの
社会的連関をぼかし、おおいかくす。

マルクスは、貨幣のさまざまな機能についてきわめて詳細な分析を行なっているが、その際ここでも(『資本論』の
最初の諸章では一般的にそうであるが)、抽象的な、ときには純演祥的と見える説明の形式が、実際には、交換と
商品生産との発展の歴史についての莫大な事実材料を再現しているものであることに、注目することがとくに重要で
ある。「貨幣は商品交換のある程度の高さを前提している。貨幣の特殊な諸形態、すなわち単なる商品等価物、または
流通手段、またぱ支払手段、退蔵貨幣および世界貨幣は、そのあれこれの機能の働く範囲の大小や、またそれらの
相対的な重要さに従って、社会的生産過程の非常にさまざまな諸段階を指示する」(『資本論』第一巻)。


      
 剰余価値

 商品生産のある一定の発展段階で貨幣は資本に転化する。商品流通の公式は、W(商品)―G(貨幣)―W(商品)
であった。すなわち、他の商品を買うためにある商品を売るわけである。資本の一般的公式は、これと反対に、
G-W-Gである。すなわち、売る(利潤をえて)ために買うわけである。流通に投じられた貨幣の最初の価値に対する
この増加分を、マルクスは剰余価値と名づけている。資本主義的流通においてこのように貨幣が増加する事実は
周知のことである。まさにこの「増加」こそが、貨幣を、特殊な、歴史的に特定な社会的生産関係としての資本に転化
させる。剰余価値は商品流通から発生することはできない。というのは、商品流通には等価物の交換しかないからで
ある。また価格への付加から発生することもできない。なぜなら、買手と売手との双方の損失、利得は相殺されることに
なるであろうし、またここで問題になっているのは大量的な、平均的な、社会的な現象であって、個別的な現象ではない
からである。剰余価値を手にいれるためには、「貨幣の所有者は市場で、ある商品、それの使用価値そのものが価値の
源泉であるという、独自の性状をもっているところの商品を見いたさなければならない」。すなわち、それの消費過程が
同時に価値創造の過程であるような商品である。そして、そのような商品は存在している。それは人間の労働力なので
ある。それの消費は労働であって、労働は価値を創造する。貨幣所有者は労働力をその価値どおりに買うのであって、
この価値は、他のすべての商品の価値と同様に、それの生産に必要な社会的に必要な労働時間(すなわち労働者と
その家族との生計に要する価値)によって決定される。労働力を買った以上、貨幣所有者はその労働力を消費する権利、
すなわちそれをまる一日、例えば12時間、働かせる権利をもっている。ところが、労働者は6時間のあいだ(「必要」労働
時間)に自分の生計を償うだけの生産物をつくりだし、あとの6時間のあいだ(「剰余」労働時間)に資本家によって
支払われていない「剰余」生産物すなわち剰余価値をつくりだすのである。
 
◆不変資本と可変資本
従って、生産過程の見地から、資本の二つの部分を区別する必要がある。すなわち、生産手段(機械、労働要具、
原料等)に支出される
不変資本-その価値は、そっくりそのまま、できあがった生産物へ(一度にまたは一部ずつ)
移転する―と、労働力に支出される
可変資本とである。この資本の価値は不変のままではなく、労働の過程で
剰余価値をつくりだして、増殖する
。それだから、資本による労働力の搾取の程度を表現するためには、剰余価値を
総資本とではなく、可変資本とだけ比較しなければならない。剰余価値率-マルクスはこの比率をこうよぶのであるが
―は、例えば右の例では、6/6すなわち100%になるわけである。


 資本の発生の歴史的前提は、第一に、商品生産一般が比較的高い発展水準に達している場合に、ある一定額の
貨幣が個々人の手に蓄積されていることであり、第二に、二重の意味で「自由な」労働者、すなわち労働力を売るのに
あらゆる拘束や制限から自由であるとともに、土地や、また一般に生産手段から自由な労働者、主人もちでない
労働者、労働力を売る以外にはまったく生活の道がない労働者、「プロレタリア」が、存在していることである。
 
◆相対的剰余価値
 剰余価値は二つの基本的な方法でふやすことができる。労働日の延長という方法(絶対的剰余価値)と、
必要労働日の短縮という方法(相対的剰余価値)とがそれである。第一の方法を分析しながら、マルクスは労働日の
短縮のための労働者階級の闘争と、国家権力が労働日の延長のために(14-17世紀)、ついでまたその短縮のために
(19世紀の工場立法)行なった干渉との壮大な画面をくりひろげている。『資本論』が出版されて以後、世界のあらゆる
文明国の労働運動の歴史は、この画面の例証となる幾千、幾万の新しい事実を提供している。

 相対的剰余価値の生産を分析する場合には、マルクスは資本主義による労働の生産性の向上の三つの歴史的
段階を研究している。(一)単純協業、(二)分業とマニュファクチュア、(三)機械と大工業がそれである。どれほど深く
ここで、マルクスによって、資本主義発展の基本的な、典型的な特徴が解明されているかは、とりわけ、ロシヤの
いわゆる「クスターリ」工業の研究が、右の三つの段階の最初の二つの例証となる非常に豊富な資料を提供すること
から見ても、明白である。そして、マルクスが1867年に描いた、機械制大工業の革命的作用は、そのとき以来経過した
半世紀のおいだに、幾多の「新しい」国々(ロシヤ、日本等)に現われている。

 ◆不変資本の増大
さらに、マルクスにおいて非常に重要でかつ新しい点は資本の蓄積の分析、すなわち剰余価値の一部が資本に転化
されること、それか資本家の個人的な必要ないし気まぐれに用いられないで、新たな生産に用いられることの分析で
ある。マルクスは、資本に転化できる剰余価値の全部が可変資本に向けられると想定していた、以前の
(アダム・スミス以来の)古典経済学の誤りを指摘した。実際にはそれは生産手段プラス可変資本に分かれるのである。
資本主義の発展とそれの社会主義への転化との過程で巨大な意義をもつのは、(資本の総額のうちで)不変資本の
部分が、可変資本の部分と比較して、ずっと急速に増大することなのである。

 ◆産業予備軍
 資本の蓄積は、機械による労働者の駆逐をはやめ、一方の極に富を、他方の極に貧困をつくりだすとともに、
またいわゆる「労働予備軍」、労働者の「相対的過剰」ないし「資本主義的過剰人口」をも生みだす。この過剰
人口は非常にさまざまな形態をとるものであって、非常に急速に生産を拡大する可能性を資本に与える。この可能性
は信用や、また生産手段における資本の蓄積と結びついて、とりわけ、過剰生産恐慌を理解する鍵を提供する。
このような恐慌は資本主義諸国において最初は平均的に10年ごとにおそってきたが、その後はもっと長い、かつ
もっと不確定な時間間隔でおそってくるようになった。資本主義の土台のうえで行なわれる資本蓄積といわゆる原始
蓄積とを区別しなければならない。原始蓄積とは働き手を生産手段から強制的に分離し、農民を土地から追放し、
共同体所有地を盗むこと、植民地および国債、保護関税等々の制度のことである。「原始蓄積」は一方の極に
「自由な」プロレタリアを、他方の極に貨幣の所有者、資本家をつくりだす。

 ◆資本蓄積の歴史的傾向
 「資本蓄積の歴史的傾向」を、マルクスはつぎの有名な文章で特徴づけている。「直接生産者の収奪は、きわめて
無慈悲な野蛮さをもって、またきわめて下劣な、きわめて醜悪な、きわめて卑小な憎むべき欲情の衝動のもとで遂行
される。自己の労働によってえられた、いわば個々独立な労働する個人と、その労働条件との癒合にもとづく」(農民と
手工業者との)「私的所有は、他人の、しかし形式上は自由な労働の搾取にもとづく資本主義的な私的所有によって
駆逐される。……いまや収奪さるべき者は、もはや自営的な労働者ではなく、多くの労働者を搾取しつつある資本家で
ある。この収奪は、資本主義生産そのものの内在的法則の作用によって、資本の集中によって実行される。いつも
一人の資本家が多くの資本家をうちほろぼしてゆく。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と
ならんで、ますます大規模になってゆく労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、
共同的にしか使用できない労働手段への労働手段の転化、結合された、社会的労働の生産手段として使用されること
によるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界のあらゆる国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の
国際的性格が発展する。この転化過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数がたえず減少してゆくにつれて、
貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の量が増大するが、また資本主義生産過程そのものの機構によって訓練され、
結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の
栓桔となる。生産手段の集中と労働の社会化とはそれらの資本主義的外被と両立しえなくなる点に到達する。
外被は爆破される。資本主義的私的所有の最後の鐘がなる。収奪者が収奪される」(『資本論』第一巻)。

 ◆『資本論』 第2巻
 さらに、非常に重要でかつ新しいのは、マルクスが『資本論』第2巻で行なっている、総体としての社会的資本の
再生産の分析である。ここでもマルクスは個々の現象ではなく、大量的な現象を、社会の経済の小さな細片ではなく、
総体としての社会経済をとりあげている。右に示したような古典派の誤りを訂正しながら、マルクスは社会的生産全体を
二つの大きな部門、すなわち(Ⅰ)生産手段の生産、(Ⅱ)消費対象の生産に分け、そして数字上の例をあげて、
全体としての社会資本の流通を、従来どおりの規模での再生産と、蓄積が行なわれる場合との双方について、詳しく
考察している。
 ◆『資本論』 第3巻
『資本論』の第3巻では、価値法則にもとづいて、平均利潤率の形成の問題が解決されている。マルクスによって
なされた経済科学の大きな進歩は、俗流経済学や現代の「限界効用説」がしばしばそこにとどまっているような、個々の
事例や競争の表面的な事実の見地からでなく、大量的な経済現象、社会経済の総体の見地から分析が行なわれて
いる点にある。最初にマルクスは剰余価値の出所を分析し、そのあとではじめてそれが利潤、利子、地代に分割される
問題に移ってゆくのである。利潤はある企業に投下された資本全体に対する剰余価値の比率である。「有機的構成の
高い」(すなわち、不変資本が可変資本に対して優勢を占める度合が社会的平均よりも高い)資本は、平均よりも低い
利潤率をもたらす。「有機的構成の低い」資本では、それは平均より高い。資本のあいだの競争、一部門から他部門
への資本の自由な移動があるため、双方の場合に利潤率は平均的なものに帰着させられる。ある一定の社会の
すべての商品の価値の総和は商品の価格の総和と一致するが、個々企業や個々の生産部門では、商品は競争の
影響をうけて、その価値どおりにではなく、支出された資本に平均利潤を加えたものに等しい生産価格で売られる。

 このようにして、価格が価値からずれるという、また利潤の均等という、周知の、議論の余地のない事実が、
マルクスによって
価値法則にもとづいて完全に説明されたのである。というのは、あらゆる商品の価値の総和が価格の
総和と一致するからである。しかし、一つの(社会的な)価値がさまざまな(個別的な)価格になるのは、単純な、直接的
な仕方で行なわれるのではなく、非常に復雑な仕方で行なわれる。もっぱら市場によってのみ結びつけられている、
ばらばらな商品生産者の社会では、合法則性が一方または他方への個々の偏差がたがいに相殺される平均的、
社会的、大量的な合法則性というかたちでしか現われえないということは、まったく当然なのである。


                    ‘
 労働生産性の向上は、可変資本と比較して不変資本がより急速に増大してゆくことを意味する。
ところで、剰余価値はもっぱら可変資本だけの機能であるから、利潤率(これは剰余価値の総資本に対する比率であって、
単にその可変資本部分に対するそれの比較ではない)が低下してゆく傾向があることは、明白である。マルクスはこの
傾向、およびそれを隠蔽したり、またはそれに反対の作用をおよぼす一連の事情を詳しく分析している。高利貸資本、
商業資本、貨幣資本をとりあっかっている、第3巻の非常に興味深い諸篇の紹介には立ちいらないで、われわれはもっとも
主要なもの、すなわち地代論にうつろう。農産物の価格は、土地の面積が限られていて、資本主義諸国ではそれがすべて
個々の所有主によって占められているため、平均的な土地でなく、最劣等地での、そして生産物を市場に出すうえでの
平均的でなく、最悪の条件の場合の、生産費によって決定される。この価格とより良質の土地(あるいはより良い条件の
場合の)での生産価格との差額から差額地代が生ずる。マルクスはこの地代を詳しく分析して、これが個々の地所の
肥沃度の差異から、土地への資本投下の程度の差異から発生することを指摘し、差額地代は良質の土地から順々に
悪質な土地へ移ってゆく場合にだけ生ずるものだとするリカードの誤りをあますところなく暴露した(なお『剰余価値学説史』
を見よ。ここではロードベルトゥス批判がとくに注目に値いする)。反対に、逆の移り行きもしばしばあり、ある等級の土地が
他の等級に変わる(農業技術の進歩、都市の膨張等のために)こともしばしば起こる。そして、かの評判倒れの「土地収穫
逓減の法則」は非常な誤りであって、資本主義の欠陥、限界、矛盾を自然に背負わせるものである。さらに、工業および
一般に国民経済のあらゆる部門における利潤の均等ということは、競争の完全な自由、一部門から他部門への資本の
移動の自由を前提としている。ところが、土地の私的所有はこの自由な移動の障害となる独占を生みだす。この独占の
おかけで、資本の有機的構成が比較的低く、従って個別的には利潤率が比較的高いことを特徴としている農業の
生産物は、利潤率平均化の完全に自由な過程にははいってゆかない。土地所有者は、独占者として、平均より高い
価格を維持する可能性を手にいれる。そして、この独占価格が絶対地代を生みだすのである。差額地代は資本主義が
存在している。かぎり、廃止できないが、絶対地代は廃止できる。例えば、土地の国有化、つまり土地を国家の所有に移す
ことで、それができる。このような移行は私的所有者の独占を掘りくずすことを意味するであろうし、農業における競争の
自由がずっと徹底的にずっと完全に実行されることを意味するであろう。それだから、急進ブルジョアは、歴史上いくたびも、
土地国有化というこの進歩的、ブルジョア的な要求をかかげた、ということにマルクスは注意している。しかし、この要求は
ブルジョアジーの大多数をおじけさせる、というのは、それはもう一つの独占、今日とくに重要は、そして「敏感な」独占、
すなわち生産手段一般の独占にあまりにも近く「肉薄する」からである。(マルクス自身が、資本に対する平均利潤および
絶対地代についての自分の理論を、非常に平易、簡潔、明瞭に、1862年8月2日づけのエンゲルスあての手紙のなかで、
説明している。『往復書簡集』第3巻、77-81頁を見よ。さらにまた同書、86-87頁の1862年8月9日づけの手紙も参照)。
―地代の歴史については、マルクスはつぎのような分析を指摘することも重要である。すなわち、それは労働地代(農民が
地主の土地での自分の労働によって剰余生産物をつくりだす場合)が、生産物地代、すなわち現物地代(農民が自分の
土地で剰余生産物を生産し、それを「経済外的強制」によって彼の地主に引き渡す場合)に転化し、ついで貨幣地代(右の
現物地代が商品生産の発展によって貨幣に転化されたもの、古いロシヤの「年貢金」)に転化し、そして最後に資本主義的
地代―この場合農民に代って農業上の企業家が現われ、賃労働の助けをかりて耕作をいとなむ―に転化することを、
明らかにしているのである。「資本主義的地代の発生」についての、こうした分析と関連して、注意しなければならないのぱ、
農業における資本主義の進化についての、マルクスの一連の深い(そして、ロシヤのような遅れた国々にとってはとくに
重要な)思想である。「現物地代の貨幣地代への転化は、無産の、貨幣で雇われる旦雇労働者の階級の形成を必然的に
伴うばかりでなく、このことが前者に先行することさえある。この新しい階級がまだ散在的に出現しているにすぎないその
発生期においては、比較的良い地位にいる、地代支払義務を負うている農民のあいだに、自己の計算で農業賃労働者を
搾取する習慣が必然的に発達した。これは封建時代にでに比較的富裕な隷属農民自身がまたさらに隷農を保有していた
のとまったく同様である。かようにして、彼らのもとでは、しだいに、ある程度の財産を集めて、自分自身を将来の資本家に
転化させる可能性が発展する。かようにして、以前のみずから労働する土地占有者自身のあいだに、資本家的借地農業者
の苗床が発生するが、その発展は、農村の外部での資本主義生産の一般的発展によって条件づけられている」(『資本論』
第3巻、第2部、332頁)。・・・・「農村住民の一部の収奪と駆逐とは、産業資本のために、労働者とともに、その生活手段と
その労働材料を〈解放する)だけでなく、また国内市場をつくりだす」(『資本論』第1巻、778頁)。農村住民の貧困化と零落は、
さらにまた、資本のために労働予備軍をつくりだすうえである役割を演ずる。すべての資本主義国で、「農村住民の一部は、
従って、たえず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュア(すなわち非農業的)・プロレタリアートに移行しようとしている。
相対的過剰人口のこの源泉はたえず流れている。……農村労働者は賃金の最低限にまでおしさげられ、いつでも片足を
窮民状態の沼のなかに突っこんでいる」(『資本論』第1巻、668頁)。農民が自分の耕作する土地を私有していることが、
小規模生産の基礎であり、それが繁栄し、典型的形態をとるための条件である。しかし、この小規模生産は生産および
社会の狭い、原始的な枠としか両立できない。資本主義のもとで、「農民の搾取が工業プロレタリアートの搾取と異なるのは、
ただ形態の点だけである。搾取者は同一のもの、すなわち資本である。個々の資本家は個々の農民を抵当権や高利に
よって搾取し、資本家階級は農民階級を国税によって搾取する」『フランスにおける階級闘争』)。


 「農民の細分地は、資本家が耕地から利潤、利子、地代を引きだし、農耕者がどうやって自分の賃金をしぼりだすかは
彼ら自身に配慮させるようにするための口実にすぎない」(『ブリュメール十八日』)。通常は、農民は賃金の一部までも、
資本主義社会、つまり資本家階級に引き渡し、そして「アイルランド小作人の水準に」までおちる。「―しかもこれが
私的所有者であるという口実のもとで」なのである(『フランスにおける階級闘争』)。「細分地所有の優勢な諸国における
穀物価格が、資本主義的生産様式をもつ諸国におけるよりも低いことの原因の一つは」どこにあるのか?(『資本論』第3巻、
第2部、340頁)。それは、農民が剰余生産物の一部を社会(すなわち資本家階級)に無償で引き渡すことにある。「従って」
(穀物その他の農産物の)「この低い価格は生産者たちの貧困の結果であって、決して彼らの労働の生産性の結果なの
ではない」(『資本論』第3巻、第2部、340頁)。小土地所有、すなわち小規模生産の正常な形態は、資本主義のもとでは
退化し、破壊され、滅亡する。「細分地所有は、その本性上、労働の社会的生産力の発展、」労働の社会的諸形態、
諸資本の社会的集積、大規模の牧畜、科学の累進的応用を排除する。高利と租税制度とは、いたるところでそれを
貧困化させずにはおかない。土地価格への資本の支出はその資本を耕作からとりあげる。生産手段のはてしない
分散および生産者自身の孤立化」。(小農民の協同組合は、非常に進歩的なブルジョア的役割を演ずるが、この傾向を
弱めるだけで、それをなくしはしない。忘れてならないのは、これらの協同組合は富裕な農民には多くのものを与えるが、
貧農大衆にはごく少ししか、いやほとんど何ももたらさないし、またやがては協同組合自身が賃労働の搾取者となることで
ある。)「人力の莫大な浪費、生産諸条件の累進的悪化と生産手段の累進的騰貴とは、細分地所有の必然的な法則で
ある。」資本主義が農業でも、工業の場合と同様に、生産過程を改造するのは、「生産者の殉難史」を代償としてである。
「集中が都市労働者の抵抗力を強めるのに対して、農村労働者がかなり広い地域に分散していることは、彼らの抵抗力を
くじく。都市工業の場合と同様に、近代の(資本主義的)農業においては、労働の生産力の向上とその流動化の増大とは、
労働力そのものの荒廃と衰弱とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のすべての進歩は、労働者から略奪する
技術の進歩であるばかりでなく、同時にまた土地から略奪する技術の進歩でもある。……だから、資本主義的生産は、
同時にあらゆる富の源泉である土地と労働者とを破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを
発展させるのである」(『資本論』第1巻、第13章末尾)。

以上