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  フランクリンの労働分析 ー 「商品分析」と資本論引用注17a

 
第1章 『経済学批判』 A 商品分析の歴史 

(1) 商品を分析して二重形態の労働に、すなわち、使用価値を現実の労働または合目的的な生産的な活働に帰着させ、交換価値を労働時間に、すなわち等一なる社会的労働に帰着させることは、古典的経済学の150年以上に
わたる研究の批判的成果である。この経済学は、イギリスにおいてはウィリヤム・ペティに、フランスにおいては
ボアギュベールに始まり、イギリスにおいてはリカードで、フランスにおいてはシスモンディで終っている。

(2)  フランクリン
 交換価値を最初に意識的に、ほとんど陳腐なまでに明せきに労働時間に分析する仕事が新世界の
一人物によってなされている。ここでは、ブルジョア的生産関係が、その担い手と一緒に輸入され、ありあまる
沃土で歴史的伝統の不足を補った土壌の中に、急速にのびて行った。この人物とは、ベソジャミン・フランクリンの
ことである。彼は、1719年に書いて1721年に印刷されるようになった若き日の労作で、近代経済学の基本法則を
系統だててのべた。彼は、価値の尺度を貴金属以外に求めることが必要であると説いた。
これが労働だというのである。「銀の価値も、他のすべての物と同じように、労働によって測ることができる。
例えば、一人の人がトウモロコシを生産するために使用されるのに、他の一人は銀を掘り、精練するとしよう。
一年の終りには、または他の一定の期間の後には、トウモロコシの全生産高と銀の全生産高はおたがいの
自然価格となる。そしてもし一方が20ブシェルで他が20オンスであるとすれば、1オンスの銀は、1ブシェルの
トウモロコシの生産に費された労働に値する。しかし、もしもっと近くもっと容易に行けるような、もっと豊かな
鉱山が発見されて、一人の人がいまでは以前の20オンスと同じ容易さで40オンスの銀を生産しうるとすれば、
そして20ブシェルのトウモロコシの生産には、以前に要したと同じ労働が必要であるとすれば、2オンスの銀は、
1ブシェルのトウモロコシの生産に費された同じ労働以上に値するということはあるまい。そして以前に一オンスに
値した1ブシェルは、他の事情が同一であるならば、いまでは2オンスに当るだろう。このようにして、一国の富は、
その住民が買うことのできる労働量によって評価することができる。」 フランクリンは、労働時間を直に価値の
尺度として経済学者流に一面的に表わす。現実の生産物が交換価値に転化するということは、当然のことと
考えられ、したがって問題は、その価値の大いさに対する尺度の発見にかかるのである。彼はこうのべている、
「商業はほんらい労働に対する労働の交換に外ならないのであるから、すべの物の価値は、労働によって
秤量されるのが最も正しい。」この場合現実の労働を労働という言葉の代りにおいてみると、ある形態の労働が
他の形態の労働とそのまま混同されていることが発見される。例えば製靴労働、鉱山労働、紡績労働、
画工労働等々の交換のために商業が行われるのであるから、深靴の価値は画工労働で秤量されたのが最も
正しいといえるだろうか? フランクリンは逆に考えて、深靴、鉱石、糸、画等々は、何等特別の質をもたず、
したがって、単なる量で測られうる抽象的労働によって定められるとしている。しかし彼は、交換価値に含まれて
いる労働を、抽象的で一般的な、個人的労働の全面的な譲り渡しから生れる社会的な労働として展開させることを
しないのだから、必然的に貨幣を、この譲り渡された労働の直接の存在形態と誤認する。したがって、貨幣と
交換価値を生む労働は、彼には少しも内的関連にあるものではなく、貨幣は、むしろ技術的な便宜のために
交換に外部からもちこまれた道具である。フランクリンの交換価値の分析は、われわれの学問の一般的進展に
直接の影響をもたないままに終った。というのは、彼は経済学の個々の問題を、実際上のいろいろの機会に
取扱ったにすぎないからである

 
第2章  『資本論』と フランクリンの(注17a) 


『資本論』第1章 第3節 価値形態または交換価値
A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実 (第4,5段落)

 〔*フランクリン 注17a 〕

 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの
商品を価値抽象に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。

 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそん
でいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂路を通って初めてこういわれるのである。
機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労
働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般 (注17〕に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。



(注17a) 第二版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。
「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。
フランクリンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、―そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ[ある労働]について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をもっていない「労働」について語っている。



 
第3章 フランクリンの労働について ・・・小林の分析・・・