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〔資本論ワールド編集部:ペティとその時代 (1)〕

コラム11> 重商主義(1) ・・・越村信三郎の解説(日本大百科全書)

                    ★越村信三郎(元横浜国立大学学長。経済学博士1907 - 1988年)

   
重商主義 ( 英語 mercantilism ドイツ語 Merkantilismus )

1. 16世紀末から18世紀〔1500年代後半から1700年代末〕にかけてヨーロッパの国々を支配した経済思想をさす。
 資本主義生産は、15世紀末に行われた新大陸〔南北アメリカ大陸〕の発見や、東インド航路の開拓によって
新しい転機を迎えた。地理上の発見によって世界市場は急速に広がり、それとともに新市場の生産物と資源、
植民地の獲得をめぐって、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの諸国の間に激しい商業戦が展開された。
とくに16世紀のなかばごろ、ボリビアとメキシコで金鉱や銀鉱が発見され、それによってヨーロッパの金銀の
貯蔵量は飛躍的に増大した。
 こうした歴史的な背景のもとに、重商主義とよばれる経済思想が生まれてきたのは自然の成り行きであった。
16世紀には、いわゆる初期重商主義、あるいは重金主義とよばれる主張が生まれ、17世紀からは後期の、
発展した本来の重商主義体系が出現した。なお、重商主義ということばは、この派に属する人々によっては
使われず、のちに重商主義に対して批判的立場にたったフランスの重農主義者や、イギリス古典学派の
アダム・スミスによって用いられたのである。

2. 重商主義者たちはルネサンスの影響を受けて、経済現象を、いたずらに宗教的に、倫理的に価値づけたり、
非難したりしないで、それを客観的に、因果論的に観察した。しかも彼らは、アリストテレスや中世の寺院法学者
によって卑しいものと決めつけられていた金もうけの方法や商業を、経済の中心に引き上げ、それを振興する
ことを一国の経済政策の指導原理としたのである。
 普通、重商主義者とよばれている人々の見解は、個々の点についてみるとかなり違っており、一貫した体系を
なしていないけれども、その主眼とするところは、次の点に要約される。第一に、重商主義者たちは、一国の富の
うち、金銀貨幣をもっとも貴重な、永久不滅の財宝とみなし、一国の経済政策の重点を、この財宝の増大に
置いたことである。第二に、貨幣を重視する重商主義者は、利潤を獲得することと、貨幣を増やすことをまったく
同じものと考え、そして貨幣は、商品を安く仕入れて高く売ることから、つまり売買の差額から生まれてくるものと
理解した。だから利殖という点からすると、農業や工業よりも商業のほうが優位にたつものとみなされるように
なった。第三に、商業は利潤の獲得の強力な手段ではあるが、国内の商業は一国の富の増進に寄与しない。
なぜなら、売り手の利益は買い手の損失であって、一国全体としてみると、そこに積極的な利潤が発生しない
からである。しかもヨーロッパでは金銀の国内産出量はわずかであって、その大半は新大陸から、主として
スペインを通じて入手していたのである。そこで、第四に、彼らは次のような一般的結論に達した。一国の
金銀を積極的に増やすには、商品の輸入額よりも輸出額を多くし、外国貿易の差額を有利にして、その差額
だけ金銀を自国に流れ込むようにしなければならないというのである。

3. 重商主義者たちはこのような観点にたって金銀の増加策を研究した。しかも初期の重金主義者たちは、
貨幣を蓄財家の目をもって眺め、いったん国内に流れ込んだ貨幣はしっかりと握り締めて、絶対に国外に
流出させまいとした。彼らの主張に基づいて、ヨーロッパの国々は厳重な金銀の輸出禁止策を採用し、法律を
破って金銀を国外に持ち出す者を厳しく罰したのである。しかし、このような政策はかえって外国貿易の発展を
妨げ、金銀を獲得する良策でないということに気がついた。そこで後期の発展した重商主義者たちは、貨幣を
蓄財家の目で眺めないで、それを運転することによって利潤を得たほうが賢明であると説いた。彼らは、初期の
重金主義者のように、外国から商品を輸入することを制限したり、金銀を持ち出すことを禁止したりしないで、
輸入した商品よりも多くの額の商品を輸出することによって、金銀の流入を図ろうと努力した。重商主義の
学説は、貨幣差額論から貿易差額論へと発展したのである。

4. 重商主義は、資本の、とりわけ商業資本の通弁として現れてきた。だからこの主義の主唱者の多くは商人
階級から出ている。ボーダン、トーマス・マン、セラAntonio Serra(1580―?)、モンクレティアンAntoine de
Montchr tien(1575/76―1621)などが、代表的な重商主義者に数えられている。とりわけイギリスの東インド
会社の重役であったトーマス・マンは、生涯をイギリスの外国貿易の発展のために捧(ささ)げるとともに、
『外国貿易によるイギリスの財宝』という遺言書を息子のジョンのために書き残した。それはトーマスの死後
1664年に出版された。アダム・スミスが批評したように、この本に盛られた方策は、イギリスばかりでなく他の
すべての商業国の経済政策の基本となったのである。

 重商主義の貿易政策は、外国品の輸入禁止や、高率の輸入関税政策や、さらにそれと並んで、輸出奨励金
制度、輸出品工業の保護伸長政策、および冒険商人や国策会社の活動を奨励する政策に向けられていった。
1600年に創設されたイギリスの東インド会社は、重商主義政策の花形として国際舞台のうえで活躍した。
同種の会社は、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデン、プロシアなどの諸国で相次いで設立され、
それらの間で激しい商業上の競争が展開された。とりわけフランスでは、ルイ14世の大蔵大臣コルベールが
極端な重商主義政策を強行したので、その方策はコルベルティスムColbertismeともよばれるようになった。

 重商主義もまた矛盾に突き当たらざるをえなかった。一国が重商主義政策をとると、他国もまたこの方策を
もって対抗し、互いに関税の障壁を設けて、輸入を抑制し、外国貿易を阻害するようになるからである。
重農主義や古典学派の自由貿易政策は、重商主義を克服するために提唱されたのである。[越村信三郎]
                         『小林昇著『重商主義の経済理論』(1952・東洋経済新報社)』

以上
  
 資本論ワールド編集部:ペティとその時代 (2) 商人資本に関する歴史的考察 (『資本論』)