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資本論入門12月号関連付属資料 -『大論理学』 比例論の要約- 

 
    第3部 ヘーゲル論理学の比例論について


   目 次
  1. アリストテレスの存在論
  2. ヘーゲル『哲学入門』
  3.  ヘーゲル論理学の「比例論」について
  4.  大論理学Wissenschaft der Logik』
  5.  第1篇 規定性(質)
  6.  第2篇 大いさ(量)〔Die Grose (Quantitat)〕
  7.  
第3章 量的比例 Das quantitative Verhaltnis
  8.  第3篇 度量 比率的度量と実在的度量
  9.  第3章 本質の生成 ・ 第2巻本質論への移行・・・



  
はじめに


  アリストテレスからヘーゲルへ、「存在論」の推移を簡略的に紹介しておきます。
  アリストテレスは古代ギリシャ思想の集大成を行なった哲学者として、西洋思想史に巨大な科学的、
 思想的な影響を及ぼしています。ヘーゲルは、アリストテレスの学問的継承者として、近代思想史に
 弁証法を新たに構築しました。
 『資本論』の商品「物神性」には、過去二千年余にわたる西洋思想が構成され凝縮されています。
 商品価値の「感覚的にして超感覚的な」存在を解読してゆく手立てと陣立てが必要となります。
 アリストテレスとヘーゲルを結ぶ存在論の確認作業から探索を始めましょう。



 
 1. アリストテレスの存在論―第一哲学(形而上学)


  「存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもをも研究する一つの学がある。
 この学は、いわゆる部分的諸学のうちのいずれの一つとも同じでない。というのは、他の諸学のいずれの一つも、
 存在を存在として全体的に考察しはしないで、ただそれの或る部分を抽出し、これについてこれに付帯する諸属性を
 研究しているだけだからである、たとえば数学的諸学がそうである。さて、われわれが諸原理や最高の諸原因を
 探求しているからには、明らかにそれらは或る自然[実在]の原因としてそれら自体で存在するものであらねばならない。
 ところで、存在するものどもの構成要素ストイケイアを求めた人々も、もしこうした諸原理を求めていたのだとすれば、
 存在としての存在の構成要素であらねばならない。それゆえにわれわれもまた、存在としての存在の第一の諸原因を
 とらえねばならない。(『形而上学』第4巻第1章)



   
2. ヘーゲル論理学について-『哲学入門』第二過程精神現象論と論理学


 (1) 常識は、ただそれが知ろうとする相手の対象だけを表象するが、しかし同時に自分を、すなわち知識そのものを
 表象しない。しかし、知識の中にある全体は対象だけでなく、知るところの自我でもあり、自我と対象との相互の関係
 でもあり、つまり意識である。
 
 (2) 哲学においては、知識の規定は、ただ一方的に物の規定だとは見られない。むしろ物の規定と物とを共に
 含むところの知識が問題である。言いかえると、知識の規定は客観的規定としてのみでなく、また主観的規定ともみられる。
 またむしろ客観と主観との相互の関係の特定の形態だとも言える。

 (3) そこで、知識の中には物とその規定とがあるから、一面から言えばそれらは全く意識の外にあって、意識に対しては
 全く外来品、出来合品として与えられたものであると考えることも可能である。しかし他面では、意識は知識にとって同様に
 本質的なものであるから、意識はこの自分の世界を自分自身で定立し、その世界の諸規定を自分の態度と活動によって
 全部または一部を自分で作り出し、または変容すると考えることも可能である。第一の見方は実在論、他の見方は観念論と
 名付けられる。しかし、ここでは、物の一般的な諸規定は一般にただ客観の主観への特定の関係と見なければならない。
  (第1篇精神現象論または意識の学)

 (4) 論理学は純粋思惟の体系である。有(Sein:存在)はまず①直接的なものである。②内的なものである。
 諸々の思惟規定はここで再び自分に帰る。普通の形而上学の対象は物、世界、精神、神である。
 それに応じて形而上学の種類、すなわち存在論(Ontologie)、宇宙論、精神論、神学が生ずる。

 (5) 概念が叙述するものも存在するもの(Seindes)であるが、それはまた本質的なものでもある。
 
有は抽象的なものであるから、間接的なものである本質に関係をもっている。諸々の物は一般に存在する。
 けれども、物の有(存在)はそれ自身本質を指し示している。そこで、有はその自身本質になる。

 このことを我々は「有は本質を前提する」というように言い表わすこともできる。ところが、本質は有との関係から言えば
 媒介されたものと見られるが、しかし実は本質は根源的なものである。有は本質の中で自分の根拠に帰る。
 有は本質の中で止揚される。有の本質はこういう仕方で生成したものであり、言いかえると産出されたものである。
 しかし、生成したものと見られるものがむしろ根源的なものでもある。無常なものはその根底に本質をもたねばならない。
 またそれは本質から生ずる。

 (6) 我々は諸々の概念を作る。それで、これらの概念は我々にとって定立されたものであるが、
 しかし
概念は事柄〔Sache:ザッヘ・現象、存在の中に本質が見られたもの、すなわち現実的な本質〕そのものを
 その中に含んでいる。だから、概念に対する関係から見ると、本質はまた再び定立されたものである。
 しかしこの定立されたものは、やはり真なるものである。(第2篇論理学)


  第3部 ヘーゲル論理学の「比例論」について


 
 はじめに
 1. ヘーゲル論理学には、『論理学』(1812-16年)と『エンチクロペディ』(1817.1827.1830年)「第1部論理学」(通称『小論理学』)の
  二つが著作として刊行されています。『(大)論理学』(『エンチクロペディー』での「論理学」と区別するため、原書にはない「大」を
  付けています)では、特に「
比例関係Verhaltnis」に特徴がでています。目次編成の章別からも伺い知ることが出来ます。

 2. 『大論理学』の構成について
  ヘーゲルの『大論理学』は、第1巻有論(存在論)、第2巻本質論、第3巻概念論の3部構成となっています。
  これは、『小論理学』でも同じ3部構成です。
  第1巻有論は、
存在していること、すなわち「有る」ことはどういうことかを論じています。存在する事物を始元・質として「規定」して
  ゆきます。第二の段階で「量」として「有る」ことに移ってゆきます。
「定量」それ自身が比例として措定されてゆきます
  第三段階の「限度」は、存在する事物は、すべて質と量の統一として固有の限度を有しています。
  そして
発展してゆく諸定量間の「比例」関係は、第2巻本質論への移行過程を準備してゆきます。

 
3.  『大論理学 Wissenschaft der Logik』 (1812-16年) 

  目 次
  第1巻 有 論 〔Sein 存在論〕
        有の一般的区分
   第1篇 規定性〔Bestimmtheit〕(質)
   第1章 有〔Sein:存在〕
   第2章 定有〔Das Dasein:定在〕
   第3章 向自有〔Das Fursichsein〕

 第2篇 大きさ (量) 〔Die Grose:大いさ (Quantitat)〕
   第1章 量 〔Die Quantitat〕 
   第2章定量〔Quantum〕
   第3章 
量的比例〔Das quantitative Verhaltnis〕

 第3篇 度 量 〔Das Mas:限度、尺度〕 
   第1章 比率的量 〔Die spezifische Quantitat〕
   第2章 実在的度量 Das reale Mas
   第3章 
本質の生成 Das Werden des Wesens



 
『大論理学』 第1巻 有 論 〔Sein:存在論〕


Ⅰ: 有の一般的区分


1. 有はまず第一には、一般に他者に対立するものという規定をもつ。
 第二に、有は有自身の内部で自分を規定するものである。
 第三に、この区分の先行の面を除いて見れば、有は抽象的な無規定性と直接性であって、その点で有は始元でなければならない。
(Ⅰ)第一の規定から見れば、有は本質と区別される。というのは、後に有が展開するとき、有の全体がただ一つ別の領域
  [本質の立場]が対立して来るからである。
(Ⅱ)第二の規定から見れば、有は内部に有の反省の諸規定と全運動とを含むところの領域である。有はここでは次の3つの規定に
  分けられる。
 1. 規定性(Bestimmtheit)そのものとしての、即ち質(Qualitat)としてのそれ。
 2. 止揚された規定性、即ち大きさ、量(die Grosse, Quantitat)としてのそれ。
 3. 質的に規定された量、即ち度量[尺度](Maass)としてのそれ。

 
[1.質と量について]
  ただ、普通に量の規定が質のカテゴリーの前におかれること、―この点について、一言述べておく。
 質と量とを比較してみれば、質が本性上最初のものであることは容易にわかる。というのは、量はすでに否定的になった質だからである。・・・
 質的規定性はその有と一つのものであって、有の直接的な制限性なのである。だから、質は直接的な規定性として最初のものであり、
 従って質こそ始元となすべきものなのである。
[2.度量について]
 度量は一種の関係であるが、しか関係一般ではなくて、規定的な、質と量との相互の関係なのである。


 Ⅱ: 第1篇 規 定 性 (質)

      
      第1章 有 (Sein:存在)
      第2章 定有 (Dasein)
      第3章 向自有 ((Fursichsein))

  有は無規定的な直接的のものである。有は本質に対立するというその規定性から自由であるとともに、また有が有自身の内部で
 もち得るすべての被規定性からも自由である。こういう没反省的な有は直接にただ、それ自身においてあるところの有である。
 それで有は無規定的である故に、質をもたない有である。

 
第1章 有 (Sein:存在)

 A. 純粋有、〔有るということ〕それ以上の一切の規定をもたないもの。
 B. 無Nichts、無は自分自身との単純な同等性であり、完全な空虚性であり、まったくの没規定性と没内容性である。
 C. 成 両者[有と無]の真理はこういう一方が他方の中でそのまま消滅するという運動、すなわち成Werdenである。
  C-3. 成の止揚 そこで、このように有と無との統一への推移となるとき、しかもこの統一が存在するものという形をとった統一であり、
      言いかえると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態をもつようになるとき、その成は即ち定有Daseinなのである。
 
 
<注釈:止揚という言葉>
  止揚[止揚する](aufheben)と止揚されたもの(観念的なもの)というのは、極めて重要な哲学の概念の一つであり、
 われわれが至るところで必ず出くわす根本規定であるから、その意義を明確に理解するようにし、特にこれを無と区別しておくことが
 必要である。―止揚されたものは、そのことによって無になるのではない。無は直接的なものである。これに反して止揚されたものは
 媒介されたものである。それは非存在ではあるが、しかし有から出発して到達した結果としての非存在である。
 だから、その出発の前にもっていたところの規定性をまだ即自的に保有している。
  止揚という言葉の中には二重の意味があり、「保存する」「維持する:という意味が含まれているとともに、同時にまた「止めさせる」
 「終わらせる」という意味がある。「保存」という言葉そのものがすでに「もの」を維持するために、この「もの」からその直接性と、
 従ってまた外部からの作用や影響に委ねられている定有の面を取り除くという否定的な意味を含んでいる。―この意味で、
 止揚されたものとは同時に保存されたものを意味するが、この保存されたものはその直接性だけは失っているが、それかといって全然、
 否定されたのではないような存在である。



 
第2章 定有 〔Das Dasein:定在〕・・・『経済学批判』第1章の「定有・ダーザイン」に該当します・・・

  定有は規定された有である。定有の規定性は存在する規定性、即ち質(Qualitat)である。
 或るもの(Etwas)はその質の点で他の物(ein Anderes)に対立するのであり、その点で変化するものであり、有限的(endlich)である。
 またその点で単に他の物に対立するものという規定をもつのみでなく、またそれ自身においてそのまま否定的なものとして規定されている。
 ところで、この有限的な或る物に対立するものとして最初に現われるこの或る物の否定は
 無限者[無限なもの、無限という性質](das Unendliche)である。そこで、次に、この有限者[有限という性質]と無限者という二つの規定が
 最初にとる抽象的な対立は、対立のない無限性に、即ち向自有(Fursichsein)の中に解消する。
  この意味で、定有の論は次の3部に分かれる。
 A、 定有そのもの
 B、 或る物と他の物、即ち有限性(Etwas und Anderes, die ENdlichkeit)
 C、 質的無限性(die qualitative Unendlichkeit)



 
第3章 向自有 (Fursichsein)

  質的な有は向自有の中で完成する。向自有は無限的な有である。始元の有は没規定的であった。 
 これに対して定有は止揚された有であったが、しかしただ直接的に使用されたにすぎない有であった。
 その意味で、定有はまずただ最初の、それ自身直接的な否定を含むにとどまる。有の面もまたたしかに含まれており、
 否定と有とは定有の中では単純な統一をなしてはいるが、しかしまさにこの単純性のために両者はそれ自身まだ互いに不等で、
 両者の統一はまだ措定されてはいない。・・・・
  しかし、有限性の中で否定は無限性に、即ち措定された否定の否定に推移したのであったから、
 この否定はいまや[否定の否定が即ち肯定として]単純な自己関係となり、それ故にその否定自身の中で有との和解[調停]となる。
 ― 即ちそれは絶対定な規定有となる。
 (1) 向自有はまず第一に直接的な向自存在、即ち一者[一なるもの](Eins)である。
 (2) 第二に一者は一者の多、即ち反発に推移する。ところで、この反発を表わす一者の他在は一者の観念性、
    即ち牽引(Attrktion)の中で止揚される。
 (3) 第三に反発と牽引との交互規定が起こり、両者はこの交互規定の中で平衡の中へ崩壊して行き、また質はこの向自有の中で
    その頂点まで昇りつめて、量(Quantitat)に推移する。



  
Ⅲ: 第2篇 大いさ (量) 〔Die Grose (Quantitat)〕

     第1章 量
     第2章 定量
     第3章 
量的比例

 1. 質は最初の直接的な規定性であるが、量は有に無関心となった規定性であり、また限界でないところの限界である。それは向他有と
 全く同一的な向自有であり、―多くの一者の反発であるが、その反発はそのまま非反発、即ち一者の連続性であるような反発である。

 2. まず純量(die reine Quantitat)を更に規定されたものとしての量、即ち定量(das Quantum)から区別しなければならない。
 量はまず第一に純量として自分に復帰した、実在的な向自有であるが、それはまだ何らの規定性をももたないものである。
 それは、純粋な、自己連続的な無限統一としてある。
  この量は第二に規定性に進む。しかし、この規定性はそれ自身は如何なる規定性でもない規定性として、即ち単に外面的な規定性に
 すぎないような規定性として措定される。即ち純量は定量となる。定量は無関心な規定性である。言いかえると、自分を超越する
 ところの規定性であり、自分自身を否定するところの規定性である。こうして定量は、この他在の他在として無限累進に陥る。
 けれども、この無限的定有はまだ止揚された無関心的規定性であって、それは即ち質の回復である。

 3. 第三に。質的形式の中にある定量は量的比例(das quantitative Verhaltniss)である。定量は単に一般に自分を超えて進んでいくに
 すぎないが、しかし量的比例の中では、それは次のようになる。即ち、ここでは定量が他在の中で自分の規定をもつと同時に、
 他在も措定されて一個の他の定量であることになる。こうして、ここには定量の自己復帰と、それの他在の中における自分への
 関係とが存在することになる。

 4. この比例の根底には、まだ定量の外面性がある。互いに関係しあうものは互いに無関心的な定量である。即ちこの定量は、
 このような自己外存在の中に、その自己関係をもつものである。―したがって比例は質と量との形式的統一にすぎない。
 そこで、この比例の弁証法は両者の絶対的統一、即ち度量(das Mass)への推移となる。

 5. 注釈 
[量的大いさと質的大いさ]
  或るものにおいては、質としてのその限界が本質的に、その或るものの規定性である。しかし限界が量的限界を意味する場合には、
 例えば畑がその量的限界を変ずるときでも、畑は依然として畑である。これに反して、その質的限界が変化するときは、
 畑を畑たらしめているところのその規定性が変わり、畑は野、森などとなる。―赤は濃くても淡くても、つねに赤である。
 しかし、その質が変化すると、赤は赤であることをやめて、青などとなるであろう。―上述の定量としての大きさの規定、
 即ち自分のもつ規定性に無関心であるような恒常なものとしての有が根底をなすという定量としての大きさの規定は、
 他のいろいろの例においても見ることができる。



 
第1章 量

 
A 純 量
  量は止揚された向自有である。自分自身の排斥する相手の一者に対して単に否定的の態度をとっていた反発的一者は、
 その相手の一者との関係に推移し、その他者と同一的に関係することになり、それによって自分の規定を喪失する。
 
注 釈 1
  純量は、まだ何らの限界をももたない。言いかえると、それはまだ定量ではない。

 B 連 続 量 と 分 離 量
 量は連続量と分離量との二契機をもつ。量は量の二契機としてのこの二契機から見られねばならない。
 
 
C 量 の 限 定
 分離量は第一に一者(das Eins)をその原理にもつが、第二には一者の数多性(Vuelheit der Eins)であり、第三に、本質的に恒常的である。



  
第2章 定 量 (das Quantum)

  定量はまず第一には、規定性または限界を伴うところの量一般であるが、その定量が完全な規定性においてあるとき、
 それは数(die Zahl)である。
  第二に、定量は自分を区別して、(a)外延量となるが、この外延量においては限界は定有する数多性の制限としてある。
 (b)次に、この定有が向自有に推移することによって定量は内包量、即ち度(Grad)となる。ところが、この内包量は向自的であり、
 従ってその点で無関心的な限界であると同時に、それがそのまま自己外的でもあって、自分の規定性を他者の中にもつものである。
 このように定量は単純に自身の中で規定されているものであるとともに、また自分の規定性を自分の外にもち、自分の規定性を自分の
 外のものとして表わすところの措定された矛盾であるから、この定量は
  第三に、それ自身において外的な被措定有として量的無限性に推移する。


  (A) 数

  
  量は定量である。或いは量は限界をもつ。それが連続量としてあるにせよ、分離量としてあるにせよ、そのことにかわりはない。
 量は一者、即ち絶対的な被規定性を量自身の契機として含むものであり、それ故に、この契機は量の連続性または量の統一の中に
 措定されたものとして量の限界だからである。・・・
  定量がこの三規定〔(α)自己関係的限界、(β)包容的限界、(γ)排他的限界〕をもつものとして完全に措定されるとき、
 それは
数(die Zahl)である。

 
(B) 外 延 量 と 内 包 量
  <
定 量 の 変 化
  外延量と内包量との区別は定量の規定性そのものにとっては、どうでもよいことである。しかし一般的に言えば、
 定量は止揚されたところの規定性であり、無関心的な限界であり、また同時に自分自身の否定でもあるような規定性である。・・・・
  すなわち大きさの規定は、その他者に連続するのであり、しかも他者とのこのような連続性の中で、はじめて自分の有(存在)を
 もつのである。つまり、大きさの規定は存在的な限界ではなくて、生成的な限界である。
  一者は無限的なものである。言いかえると、一者は自己関係的な否定である。従って自分自身の反発である。
 同様に定量も無限的なもので、自己関係的な否定性として措定されている。定量も自分自身を自分で反発する。
 しかし定量は規定された一者であり、定有と限界とに推移した一者である。それ故に定量は規定性の自己反発であって、・・・
 自分の他在の産出である。こうして、ここに定量が自分を超えて他者となるものであることが、定量それ自身の中に措定されている。
 増加し、または減少するところに、定量の本性がある。即ち増減ということは、定量がそれ自身においてもつ規定性の外面性なのである。
 それ故に定量は自分自身で自分を超えて行くことになる。こうして定量は他者となるが、この他者もはじめは、それ自身一個の定量である。


 
(C) 量 的 無 限 性

1. 定量は変化して、他の定量となる。ところで、変化が無際限に進行するというこの変化のもう一つ進んだ規定は、定量が
 それ自身において自己矛盾的なものとせられるところから生ずる。―定量は他者となる。しかし、定量は自分の他在に自分を連続させる。
 それ故に、この他者もまた一個の定量である。・・・
 それは限定されたものとしての定量の否定者であり、従って定量の非限定性、即ち無限性である。・・・

2. 
(量的比例への推移:p85)
 
  定量は無関心な限界として自分を超えて無際限に進んでいく。・・・
 以上を要約すると、定量は止揚された質である。しかし定量は無限的なものであって自分を乗り越えて進む。即ち定量は自分の否定となる。
 それ故に、この定量の自己超出は即自的には、否定された質の否定であり、即ち質の回復である。こうして、ここに前に彼岸として
 立ち現われたところの外面性が定量自身の契機であるということが推定されることになる。
  こうして定量は自己反発的なものとして措定される。そのために、ここには二つの定量があることになるが、両者は止揚されて
 単に一個の統一の契機となる。そして、この統一こそ定量の規定性である。―ところで、定量がこのように、その外面性の中で無関心な
 限界として自分自身に関係することになり、従って質的に措定されることになると、定量はここに量的比例(das quantitative Verhaltniss)と
 なる。―比例の中では定量は自分に外面的となり、自分自身と差別されることになる。しかし、この定量の外面性は一つの定量の
 他の定量に対する関係であり、両者の各々はただ自分の他者に対する関係の中でのみ自分の存在をもつことになる。
 従って、この関係が定量の規定性を構成することになる。即ち定量はいまや、このような統一として存在するのである。
 定量は、ここではもはや無関心的な規定をもつのではなく、質的規定をもつのである。つまり定量は、このような自分の外面性の中で
 自分に復帰したのであり、外面性の中で本来の自分自身となったのである。

3. 
(比例の契機:p93)

  われわれが比例の契機としての定量の表現の種々の段階を考察し、定量がまだ定量そのものとしてあるところの最低の段階から、
 本来の無限量の意味と表現とを獲得することになる高次の段階に至るまでの各段階を考察してみるなら、無限の概念そのものが、
 いっそう明瞭になるであろう。


4. 
(無限性の契機:p94)
  
  まず第一に、分数という比例の中にある定量をとってみよう。例えば2/7という分数は1,2,3等のような定量ではない。
 もちろん、その分数は ふつうの有限数ではあるが、しかし整数のような直接的な数ではない。分数として、互いに集合数と単位との
 関係にある他の二つの数によって間接的に規定されている。その場合、単位もまた一定の集合数である。しかし集合数と単位との
 相互がもつこの[分数比例にあるという]ヨリ具体的な規定を捨象して、単に両者が現にもっている質的関係からして定量として
 取扱われているその面だけから見れば、2と7とは普通には互いに無関心な定量である。けれども両者は、ここではいずれも契機にすぎず、
 他方の定量の一方であり、従って第三者(すなわち指数と呼ばれる定量)の契機としてあるものであるから、両者は直ちに2と7として
 あるのではなくて、ただ両者相互の規定性の面からのみ見られている。それ故にまた、2と7との代わりに4と14、6と21等のものが、
 無彩限に立てられることができる。そうして、それらのものもまた質的性格をもち始める。もし両者が単に定量と見られるときは、
 2は単に2であり、7は単に7であるにすぎない。4、14、6、21等は2と7という数とは全然、別個のもので、従ってそれらが単に直接的な定量で
 あるかぎり、一方の二つの定量を他方の二つの定量の代わりにおきかえることはできない。けれども2と7が、このような定量という規定性の
 面から見られるのでないかぎり、両者の無関心的な限界は止揚されている。従って、この面から言えば、両者はそれ自身の中に無限性の
 契機をもっている。というのは、両者はもはや単に両者ではなくて、両者の量的規定性は即自的にある質的規定性となるからである。
 ということは、両者が比例の中にある両者という面から見られるということである。こうして無限に多くの他の数が両者の代わりに
 おきかえられ得ることになり、しかも分数の値は比例がとる規定性によって変わることはないということになる。


 5. 
(比例の契機:質的な定有)

  比例の中のみにあるようなものは、むしろ定量ではないのである。定量とは、比例を離れて全く無関心的な定有をもつような規定であり、
 その規定にとっては、その規定の他者との区別は無関心のもの[どうでもよいもの]となっている。これに反して質的な定有は、
 それの他者との区別[従って比例などの関係]の中においてのみ真に自分自身であるようなものを意味する。
 だから、あの無限的な大きさは比較可能であるのみでなく、むしろ比較の両契機としてのみ、即ち比例の両契機としてのみ存在するのである。
  ・・・以下省略(比例と方程式の本性が規定されることなど)・・・

 


   
第3章 量的比例 Das quantitative Verhaltnis

 1.
 (無限的定量は比例)
  
  定量の無限性が定量そのものの否定的彼岸〔限界のその先、向こう側〕であることが、これまでのところで明らかになった。
 ところで、この彼岸は質的なもの一般である。そこで、無限的定量は量的規定性と質的規定性との二契機の統一として、
 まず比例(das Verhaltniss)である。

 2. 
(定量の連続性)

  比例の中では定量は、もはや単に無関心的な規定性をもつにすぎないものではなくて、その彼岸に絶対的に関係づけられたものとして
 質的に規定されている。定量は、その彼岸に連続する。それで、この彼岸もさしあたっては他の定量一般である。しかし本質的には両者は
 互いに外的な定量として関係しているのではなくて、むしろ各々の定量はこの他者への関係の中に自分の規定性をもつのである。

 3. 
(他者の中の定量)

  むしろこの他者の中で自分の規定性に到達したということである。即ち定量は、その彼岸の中に、即ち他の定量であるその彼岸の中に
 自分自身を見出す。定量の質、定量の概念規定性は定量のもつ外面性一般である。そこで定量は、いまやこの比例の中において、
 自分の規定性を、その外面性の中に、即ち他の定量の中にもち、その彼岸の中で真の自分自身であるものとして措定されることになる。

 4. 
(諸定量の相互関係)

  定量は、いまや以上のような相互の関係をもつものである。のみならず、この関係そのものもまた一つの大きさである。
 即ち定量は単に比例の中にあるのみでなく、むしろ定量それ自身が比例として措定されているのである。


 5. 
(定量の比例性)

  定量は、いまいう質的規定性を自分の内部にもつところの一個の定量一般なのである。このように比例という形で、定量は自分を
 それ自身において完結的な全体として表現するのであり、また限界に対する定量の無関心性を表現する。そこでは定量は、その規定性の
 外面性を定量自身の内部にもち、この外面性の中でただ自分にのみ関係し、そのいみでそれ自身において無限なのだからである。

 6.  
比例は一般に以下の3つ
 (1)直接的比例(正比例:das direkte Varhaltniss)
 (2)間接的比例(反比例、逆比例das indirekte Varhaltniss)
 (3)べき比例(das Potexen Varhaltniss)
 7. 量そのものは最初は質に対立するものとして現われる。しかし量は、それ自身一個の質であり、自己関係的な規定性一般である。
  もっともこの質は、質そのものという量にとってもともと他の規定性であるものとは異なる。・・・
 8. 定量は、いまや無関心的な、または外面的な規定としての定量であるが、この定量は同時に定量そのものとしては止揚されて、
  質となったのであり、或るものを或るものたらしめるものとなったのである。ところで、このような定量こそ、定量の真理であり、
  度量(Mas 限度)であることにほかならない。



  Ⅲ : 第3篇 度 量

      
      第1章 比率的度量
      第2章 実在的度量
      第3章 本質の生成

 1. 
(度量の区別)

  抽象的に言うと、度量の中では質と量とが統一されている。(a)有そのものは規定性の直接的な自分自身との同等性〔Gleichheit〕である。
 しかし、この規定性の直接性は自分を止揚した。(b)量は自分に復帰した有であるが、そのためにこの有は規定性に対する無関心性としての
 単純な自己同等性となっている。けれども、この無関心性は、規定性を自分自身の中にもつのではなくて、他のものの中にもつところの
 外面性にすぎない。(c)ところが、第三のもの(度量)は、自分自身に関係するところの外面性である。即ち、この第三のものは自分への
 関係として、同時に止揚された―外面性である。従って、それ自身の中に自分の区別をもっている。―区別とは、外面性である点で
 量的契機であり、自分の中に取り戻されたそれ(外面性)である点で質的契機であるという区別だということである。

2. 
(度量と本質論)

  度量の中には、すでに本質〔das Wesen本質論〕の観念が含まれている。・・・・
 度量として、それ自身は質的なものと量的なものとの有的な(存在的な、直接的な)統一である。度量の二契機は定有としてあり、
 即ち質とその質の定量としてある。この二契機(質的、量的)の区別と同時に両者の関係も含まれているから、度量の展開は、
 この二契機が即自的にもっている同一性が両者相互の関係となるにあり、言いかえると同一性が両者相互の関係として措定されること
 にある。度量は本質に推移している。



   
第1章 比率的度量

  質的な量は、第一には、直接的な比率的(特殊的)定量(ein unmittelbares spezifisches Quantum)である。この比率的定量は、
 第二には、他のものに関係するものとして、量的な比率化となる。即ち無関心的な定量の止揚となる。
 そのかぎり、この度量は一つの規則(eine Regel)であって、度量の二つの契機、即ち即自的にある量的規定性と外面的定量とを
 区別されたものとしてもっている。けれども、この二面は、このような区別の中で二つの質となり、規則はこの二つの質の比例となる。
 だから度量は、第三に、まずただ一個の度量をもつところの二つの質の比例として立ち現われる。
 しかし次に、この一個の度量は自分を多くの度量の区別に比率化して行く。


  
A 比率的定量
 1. 
(定量の自己関係-事物の規定)

  定量の単純な自己関係、定量がそれ自身においてもつ定量自身の規定性が度量である。その意味で定量は質的である。
 度量は最初は直接的な度量として、直接的な(それ故に、或る一定の定量としての)定量である。同様に、この定量のもっている質も
 直接的であり、或る一定の質である。―定量は、こういうような、もはや無関心的な限界ではなくて、
 このような自己関係的な外面性であるから、それ自身が質である。・・・・
  定量はいまや事物(Sache)の規定である。即ち、この定量を超えて増減するときには、
 事物そのものが滅亡するという意味における事物の規定なのである。

 2. 
(自然的度量)
  比率的な諸物のもつ自然的度量がその尺度の上に表示されるのでなければならない。従って、その自然的度量がその尺度に基づいて、
 一つの規則に従って、一個の一般的度量の(即ち自然的諸度量の一般的身体のもつ度量の)比率化として認識されることにならねばならない。



  
B 比率化的度量

 1. (度量の相互関係)
  比率化的度量は、第一に、規則である、即ち単なる定量に対して外面的なものとしての定量である。
 第二に、外面的な定量を規定するところの比率的な量(spezifische Quantitat)である。
 第三に、この比率的な量の規定性のもつ二つの質としての両面は、互いに一個の度量として関係しあう。



  
C 度量における向自有

  
1. (比率化)
  この比率化された大きさの比例も、量的なものとしては、普通の外面的な定量をそれ自身の中にもっている。
 けれども、この外面的定量は定量一般ではなくて、本質的には比そのものの規定契機としての定量である。

 
2. (度量の規定性)
  度量は、このような統一として比をもっている。即ち、この比においては、二つの大きさは二つの質の性質によって規定されて、
 差別的なものとして措定されるが、またこの比の規定性は全く内在的で独立的であると同時に、直接的定量の向自有の中へ統一されており、
 即ち直接的比例の各指数の中で結合されている。即ち度量の自己規定は、以上の関係の中で否定されることになる。
 というのは度量は、この自分の他者(直接的比例)の中に最後の、向自有的な(独立的な)規定性をもつことになるからである。


  第2章 実在的度量


 
1. (度量の物質的実存)
  度量はここに、種々の独立的な或るものの、もっと一般的な言葉で言えば、物の質を構成するところの多くの度量の関係にまで達した。
 すぐ前に考察した度量の比例は空間と時間というような抽象的な質に属するものであった。ところが、ここでの考察の対象となる度量の
 比例の例を挙げるとすれば、それは比重であり、進んでは諸々の化学的特性であって、即ち諸々の物質的実存の諸規定となるところの
 ものである。空間と時間もまた、このような諸々の度量の契機である。

 
2. (物質性の比率化)
  次に、これらの比例相互の間の比例(関係)の展開を考察しなければならない。
 このように、いまや実在的である度量は、 第一に、物体性のもつ独立的な度量である。この度量は他の物体性に関係し、
 この関係において、この他の物体性を、従ってまた独立的な物質性をも比率化する。この比率化は一般に数多くの他者に対する
 外面的な関係として、他の諸比例の産出であり、従ってまた度量の中における他の諸比例の産出である。

 
3. ( 選択的親和性)
  前の節でも「中和性」、「神話性」という言葉は使ったが、ここでは「選択的親和性」という表現を用いる。いずれも化学的な比例に関係を
 もる言葉である。なぜかと言えば、化学の領域では物質的なものの特殊的規定性は本質的に、他者との関係の中にあるものだからである。


 
4. (化学的成分の比例関係)
  化学的成分は、度量の規定をなすものを全く他のいろいろのものとの比例関係のかたちでもつところの二つの度量契機として
 存在するような度量の、最もよい例である。(p.248)

 
5. (比例体系の形成)
  化学的親和性と選択的親和性とに関係する度量の比例の諸形式の外に、質化されて一個の体系となるような多くの量に関する、
 更に別種の形式がある。(p.259)いま、それを考察しておこう。化学的物体は飽和との関係から比例の体系を形成する。
 飽和そのものが一定の割合に基づくものであり、その割合において互いに特殊的な物質的な実存をもつ二つの集合が結合されるのである。


 6. (度量規定の進展―度量比例)(p.271)

  度量が通過してきた規定の進展を概観してみると、この進展の諸契機は次のように総括される。
 最初に度量は、普通の定量の形での質と量との直接的統一であるが、但しその定量は比率的なものであった。そのために度量は、
 他のものにではなくて、自分に関係する量の規定性として、本質的に比例である。
  即ち度量の中の区別は、一般に概念の中の区別が常にそうであるように、区別の二契機の各々が、それ自身、質的なものと
 量的なものとの統一であるという形で存在する。こうして生じた実在的な区別は、それぞれ形式的な全体性としてそれ自身において
 独立的であるような、多くの度量比例を生み出す。



  
第3章 本質の生成 ・・・・第2巻本質論への移行・・・

 A 絶対的無差別

 
 
1. (無差別の存在)
 
  有は抽象的無関心性である。この無関心性は、それ自身が有と考えられるべきものであるから、この有の抽象的無関心性に対しては
 無差別という言葉が用いられた。―即ち、そこにはまだ如何なる種類の規定性もないはずである。純量は、あらゆる規定を容れ得るものとして
 無差別である。・・・
  ここに絶対的無差別と名づけられた無差別は、有のすべての規定性、即ち質、量、及びその両者の最初の直接的統一である度量の
 否定を経て自分を自分と媒介して、単純な統一となったところの無差別である。言いかえると、無差別を基体とするところの質的な
 外面的存在としてあるにすぎない。

 
2. (無差別の媒介-否定と比例)
  
  ところが、このように質的な外面的存在と規定されたところのものは単に消滅するものにすぎない。
 このように有(基体)に対して外面的となると、自分自身の反対のものとなり、単に自分を止揚するものとなる。規定性(質)は、
 こうして基体の上に精々空しい区別として措定されたものにすぎないことになる。けれども、この空しい区別こそ、結果としての
 無差別そのものなのである。しかも、まさにこの意味において、無差別は具体的なものであり、有のすべての規定の否定を経て
 自分自身の中で自分と媒介したものにほかならない。また、このような媒介として、無差別は否定と比例とを含んでいる。



  
B 両因子の逆比例としての無差別
  
C 本質への推移

 
1. (絶対的無差別)
   絶対的無差別は有が本質となる以前における最後の規定である。しかし絶対的無差別は、まだ本質に到達していない。

 
2. (自己止揚)
  この無差別の規定の自己止揚は、すでに開始されている。即ち無差別は、その被措定有の展開の中で、
 あらゆる面で自分が矛盾であることを 明らかにしたのである。
 
 
3. (自己否定的関係)
  無差別は自分に対する単純で無限な否定的関係となり、自分の自分自身との相克となり、自分自身の自己反発となる。規定することと
 規定されることは、もはや推移でもなければ、外面的な変化でもなく、或いはまた各規定の無差別の中での出現でもない。それは、
 むしろ無差別自身の自己関係であるが、この自己関係こそ無差別自身の、即ち無差別の即自有のもつ否定性にほかならない。


 4. (措定の相関性)


  各規定は有の全領域におけるように存在的なものではなくて、いまや全くただ措定されたもの(das Gesetzte)としてある。言いかえると、
 各規定は全く各規定の統一に関係しており、従って各々が他方の規定と否定とに関係しているという規定と意味とをもつところの
 措定されたもの、―このような両者の相関性(Relativitat)をもっているところの措定されたものなのである。

 
5. (本質-有の独立性と自己同一性)
  
  こうして有一般と、区別された諸規定の有または直接的な前提された全体性ではあるにしても、いまやこの統一は、
 この前提の止揚によって媒介されたものとしてはじめて、このような単純な自己関係なのであり、従ってこの前提されたものと直接的な
 有そのものが単にこの統一の反発の契機にすぎないものだという意味におけるそれである。即ち根源的な独立性と自己同一性とは、
 いまやただ結果として現われる無限な自分との一致としてのみ存在する。―こうして有は本質(das Wesen)となる。
 即ち有は、有の止揚によって自分と一つになった単純な有としての有となったのである。

以上