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 実体と属性の哲学史 アリストテレスからヘーゲルへ
    -商品の物神的性格入門-

>>実体と属性の哲学史 02 ・・ヘーゲルとマルクス・・・

  ★目次
 1. はじめに
 2. A 実体について
 3. B 属性について
 4. アリストテレスからヘーゲルへ
 5. アリストテレス
 6. デカルト
 7. スピノザ
 8. スピノザ 『エチカ』
 9. 
ヘーゲルとマルクス


 
はじめに


 古代ギリシャ時代以来、伝統的な西洋思想のキーワード・「実体」概念をどのように理解するか、
これを巡って多様な宇宙と世界の成り立ちについてもろもろの理論が形成されてきた。
古代から中世にいたる間、宇宙と世界を形成している主要な骨組みは、アリストテレス哲学によって説明され、
近代に至ってデカルトによる科学革命で18・19世紀への入り口が切り開かれた。
デカルトの衝撃は、今日なお言論・思想界にも多大な痕跡を残している。その影響は、私たち日本人にも翻訳文化を通じて
西洋思想の翻訳言語表現の中に根強く継続され、物質界と精神界の二分法として潜在し続けている。
 今日、『資本論』の商品価値を巡る100年にも及ぶ長い研究史を振り返るとき、私たちの眼前に翻訳文化の弊害が
立ち塞がっている。五里霧中、商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪が消えてなくなってはいない。
 日本の『資本論』解説者の間では、意識的にヘーゲル弁証法論理学を無視し続け、あるいは誤解され続けている。
ヘーゲル哲学を抜きにして『資本論』を語る人々で溢れかえっている現状は、デカルト時代の水準にさえ達しているのか
大変疑わしい。手を抜かず、現状からの一歩前進に向けた、「西洋文化の探求・価値の実体」を求めて旅立ちを始めましょう。

・・・


 西洋思想のキーワード「実体」概念の研究を通して、商品価値(商品の物神的性格)の探求を開始します。
『資本論』第1章第2節商品に表された労働の二重性では、実体と属性について以下のような説明が行われている。


 
A 「実体」について
 「上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、
 上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物(Arbeitsgallert)であるように、
 これらの価値に含まれている労働も、布や亜麻布にたいするその生産的な結びつきによるのではなく、
 ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素(Bildungselement)は、
 裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が
 上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただ
それらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、
 すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。」


 
B 「属性」について
 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である、そして
この同一の人間労働、
 または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すべての労働は、他方において、
 
特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、
 それは使用価値を生産する。」
 
 
A「実体」労働は特殊な質から抽象され、両者が同じ質―人間労働の性質、
 同一の人間労働、抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。
 
B「属性」は、特殊な目的の定まった具体的な有用労働の属性において、使用価値を生産する。
 このように、人間労働に関する二つの「属性」によって、商品価値と使用価値が規定されている。
  商品に含まれている労働の二面的な性質-
属性-の理解は、商品価値を形成する「実体」の解明に欠かせない。
 「実体」概念は西洋の永い伝統の中で、多様な変遷を経ながら現代に伝わっている。
 この歴史的概念の研究を通して、「商品価値の実体」分析を詳細に吟味することが課題となっている。


 C アリストテレスからヘーゲルへ
 「実体」という用語は、ギリシャ語のhypokeimenon(基体=根底に横たわるもの)に由来し、
それ自身によって存在するもののことである。すなわち、
変化のなかで自存し、変わらないものが実体と言われてきた。
 「実体」または「実有」と訳されるousia(ウーシア:ギリシャ語)概念を詳細に検討したアリストテレスは、主語となって、
述語とならない「この人」とか、「この馬」とかの個物を「第一実体」、他のものの述語となりうる類・普遍を「第二実体」とよんだ。
近世では、デカルトが他のものに依存しないで存在する点において、<神(Gott)>を真の実体とみなすとともに、神の協力だけで
存在する精神と物体とを有限的実体とみなした。また、スピノザは、自己の内在的原因によって自存する普遍的・全体的なものを
実体とみなし、神=自然を唯一の実体として把握した。それにたいして、実体を<主体(Subjekt)>として捉えなおしたのが、
ヘーゲルであった。(『ヘーゲル用語辞典』)
 
 また、「属性」(ラテン語attributum)は、広い意味では、ある対象を特徴づける性質を指す。たとえば花の色はその花の属性であり、
二本足であることや言葉を話すことは人間の属性であるといわれる。またより限定された意味では、属性とは実体の本質的な性質、
すなわちその性質なしにはその実体を考えることができないようなものを意味する。この意味での「属性」は、
一方では「実体」の概念と対比され、実体がそれ自体で存在しうるのに対して属性の存在は実体の存在に依存すること、
および実体が文の主語に対応するのに対して属性は述語に対応することが強調される。(『岩波哲学・思想事典』)



第1章 アリストテレスからデカルトへ


1.
アリストテレス (紀元前384-322年)
 アリストテレスの哲学は、経験のうちに与えられているすべてのものを等しく顧慮するという百科全書的傾向が説明される。
かれ以前には知られていなかった多くの学の創始者である。かれは論理学の父であるばかりでなく、倫理学、美学、博物学、
心理学、自然法の父である。特に自然哲学に関心をよせた。また歴史に精密な注意を払った最初の哲学者であり、
『形而上学』の第一巻は哲学史の最初の試みであるし、『政治学』はさまざまな国家形態および憲法の最初の批判的歴史である。
かれは『形而上学』4では先行者を批判することによって、『政治学』では現行の諸制度を批判することによって、
自分の学説をうち立てている。(シュヴェーグラー著『西洋哲学史』)
                       *アリストテレス『形而上学』第5巻「ウーシア」参照


(1)第一実体と第二実体
 ([]は翻訳者の挿入、〔〕は報告者の挿入)
 実体とは、その勝義〔仏教用語・最も優れた道理〕の・第一の・また最も主として用いられる意味では、いかなる基体[主語]の
述語ともならず、またいかなる基体のうちにも存属しないもののことである。たとえば、この人とかこの馬とか[いうようにこれと
差し示される特定の個物]である。しかし第二義的には、これら第一義的に実体といわれるこれら[この人とかこの馬とか]を
そのうちに含むところの種、およびこれらの種を含むところの類もまた、実体[第二実体]と言われる。たとえば、この人やあの人は
人間という種のうちに含まれ、そしてこの種を含むところの類は動物であるが、この場合、これら、種としての人間やその類としての
動物は、第二義的に実体[第二実体]と言われる。(『カテゴリー論』)


(2)第二実体 ― 種と類

 第二実体のうちでは、種の方が類よりもより多く実体である。なぜなら、種の方がより多く第一義の実体に接近しているからである。
というのは、ひとが第一義の実体のなにであるかを説明しようとする場合、そのひとは、当の実体の属する類を挙げるよりも
むしろその種を挙げることによって、より多く知られ易く且つその実体にいっそう多く特殊的なものを挙げて説明することに
なろうからである。たとえば、この某氏を説明しようとする場合、これを動物であるというよりも人間であると言った方が、
より多く可知的であろうから(というのは、人間であると言う方がより多くこの個人某の特殊性を示しており、動物であるというのは
あまりにも共通一般的でありすぐるから)であり、あるいはまた、この木を説明するのに植物であると言うよりも樹木であると
言った方がより多く知られ易いものを挙げることになろうからである。(『カテゴリー論』)


(3)属性 ―自体的付帯性

 「付帯性とは、定義でも特有性でも類でもないが、その事物に属するものである。また、なにか一つの同じものに属することも、
また属さないこともできるものである。たとえば、「白い」ことは或る同じものに属することも、属さないこともできるものである。
なぜなら、同じものが、或るときは白くあり、或るときは白くなくても、なんら差しつかえないからである。」(『トピカ』)
 「付帯的」と限定される事物のうちに
(イ)全く偶然的・非本質的なのと、(ロ)必然的・自体的な属性(自体的付帯性)とがある。
(ロ)の場合はたんなる偶然ではない。これは、「それぞれの物事にそれ自体において属するものであるが、
 その物事の実体(本質・定義)のうちには存しないこと」、たとえば、三角形にとってその内角の和が二直角に等しいことは、
 三角形の定義をなすものではないが三角形自体に属する必然的属性で、これは
(イ)と区別して「自体的付帯性」とも言われる。
 (出 隆著『アリストテレス哲学入門』)


2. 
デカルト (1596-1650年)
 近世哲学者であり父であるのはデカルトである。新しい、積極的な、内容豊かな哲学原理を提示し、この原理から直ちに、
一貫した論証の道を通って、その体系の根本的諸命題を導き出そうとした。かれは、その原理の無前提と新しさとによって
近世哲学に道を開いた人であり、その原理が内的に示唆に富んでいることによって近世哲学に基礎をおいた人である。
(シュヴェーグラー著『西洋哲学史』)


 
デカルト 『哲学の原理』
(1)実体とは何か

 
<51>実体とは何か、ということ。またこの名称が、神と被造物とに同義的には適合しない、ということ
 ところで、事物あるいは事物の様態とみなされるものに関していえば、これらはそれぞれ別個に考察することが必要である。
「実体」という語でわれわれの意味するところは、存在するために他のいかなるものをも必要としない、というふうに存在するもの、
にほかならない。そして実際、まったく何ものをも必要としない実体としては、ただ一つのもの、すなわち神しか考えることができない。
また、ほかのすべての実体は、神の協力が得られなければ存在しえない、ということもわれわれは知っている。
したがって実体という名称は、神と被造物とに―学院(スコラ哲学)でよく使われるいい方をすれば―「同義的」には適合しない。
いいかえると、神と被造物とに共通であるような実体という名称の意味は、判明には理解することができないのである。


<52>
実体という名称は精神と物体とに同義的に適合する、ということ。
     ならびに、実体はどのようにして知られるか、ということ

 ところが、物体的実体と、精神すなわち思惟する実体とは、いずれも被造実体としては、この共通の概念のもとに
考えれられることができる。それらは、存在するために神の協力だけしか必要としないからである。
 われわれが実体を容易に認めるのは、それのなんらかの属性からであり、無にはなんの属性も、なんの特性または性質もない、
という共通概念によってである。すなわち、ある属性が現存していると知ることから、われわれは、その属性を帰属させることの
できる、ある存在する事物、すなわち実体もまた、必然的に現存しているにちがいない、と結論するのである。


(2)属性について

 
<53>おのおのの実体には一つの主要属性がある、ということ。
      精神にとっては思惟、物体にとっては延長、というように

 そしてたしかに実体は、どのような属性からも認識されるが、しかし、おのおのの実体には一つの主要な
固有性があって、これが当の実体の本性ならびに本質を構成しており、他の固有性はすべてこれに帰属せ
しめられるのである。すなわち、長さ・幅・深さにおける延長が、物体的実体の本性を構成し、思惟が、思惟
する実体の本性を構成している。というのは、物体に属しうる他のすべてのものは、延長を前提としており、
延長をもつもののなんらかの様態であるにすぎず、同様に、精神のなかに見いだされる他のすべてのもの
は、さまざまな思惟様態にすぎないからである。


 
<56>様態、性質、属性とはなんであるか、ということ
 そしてたしかに、ここでわれわれが「様態」という語で意味するところは、別の個所で「属性」もしくは「性質」
という語で意味するところとまったく同じである。しかし、これらによって実体が影響をこうむったり、変化を受けたりすると
考えられる場合には、それらは「性質」とよばれ、そして最後に、いっそう一般的に、それらがたんに実体に内在するとのみ
みなされる場合には、それらは「属性」とよばれるのである。したがって、神においてはいかなる変化も考えられないゆえ、
われわれは、神のなかにはもともと様態や性質はなく、ただ属性があるだけだ、という。そして被造物においても。
たとえば、存在し持続する事物における存在や持続のように、それらの事物のなかでけっして多様なあり方をしないものは、
性質もしくは様態といわれるべきではなく、属性といわれるべきなのである。


第2章 スピノザ ・・・ドイツ近代哲学への道標・・


3. 
スピノザ (1632-1677年)
 スピノザの哲学は、レッシングをはじめゲーテ、カント、ヘーゲルなどドイツ思想界に多大な影響を及ぼした。
主著『エチカ』は、死後遺稿集の中から刊行されたが、その翌年には危険思想として発売が禁止された。
第5部からなり、第1部は「神について」である。すべての結果、すべての原因の究極原因であり、しかも自らは何の原因も
要しない存在者、すなわち自己原因とし、この自己原因を実体と等置し、実体を神と等置し、神を自然と等置している。
神・実体は無限に多くの属性からなり、その属性のおのおのがまたその類において無限である。
第2部は「精神の本性および起源について」、第3部は「感情の起源および本性について」、
第4部は「人間の隷属あるいは感情の力について」、第5部は「知性の能力あるいは人間の自由について」である。
 スピノザは、ポルトガル系のユダヤ人の富裕な商人の両親のもとで、アムステルダムで生まれた。
ユダヤ教から決別し破門された。スピノザの体系は三つの根本概念にもとづいていて、その理解から他のすべてが
数学的必然性をもって帰結されるようになっている。
実体(substantia)、属性(attributus)、および様態(modus)の概念がそれである。(シュヴェーグラー著『西洋哲学史』)


 
A 実体
実体とはその存在のために他のものを必要としないものである、というデカルトの実体概念からスピノザは出発する。
しかし、実体の概念をこのように考えるとき、実体はただ一つしか存在することができない。自分自身によってのみ存在するものは、
必然的に無限であり、他のものによって条件づけられたり制限されたりしていない。多くの無限というものは存在しえない。
もし存在すれば、まったく区別されないであろう。したがって、デカルトがまだ想定していたような、多くの実体ということは必然的に
矛盾である。ただ一つの実体。しかも絶対に無限の実体しかありえない。この一つの実体をスピノザは神と呼んでいる。


 
B 属性
 デカルトは、無限の実体すなわち神のほかに、神によって創造された二つの派生的実体、精神(思考)と物体(拡がり)とを
想定していた。この二つのもの、すなわち思考と拡がりとは、スピノザにおいても、その下にあらゆる現実が包摂される二つの
根本形式である。しかし、かれによれば、それらは実体ではなくて、実体の属性である。これら属性と無限の実体との関係が
どうであるかは、むずかしい問題である。かれによれば属性とは、「悟性が実体についてその本質を構成していると認めるもの」
である。二つの属性はしたがって、実体の本質が知覚する悟性にたいしてのみ、このような一定の仕方で現れる規定である。
実体そのものはこのような一定の存在の仕方につきるものではないから、それらはただ悟性(これは実体の様態にすぎない)に
たいしてのみ、実体の本質を表現するものとして現れるにすぎない。悟性がこの二つの属性のもとでのみ実体を見るということは、
実体そのものとは無関係である。実体そのものは無限に多くの属性をもっている、すなわち制限でないかぎりあらゆる可能な
属性がそのうちに措定されうる。右の二属性を実体に帰するのは人間の悟性にすぎず、しかも、その人間の悟性が理解しうる
諸概念のうちこの二つのみが真に積極的であるから、言いかえれば実在性をもっているから、この二つだけを実体に帰するので
ある。

 したがって、神すなわち実体は、悟性がこれを思考という属性のもとに考察するかぎり思考であり、拡がりという属性のもとに
考察するかぎり拡がりである。一口に言えば、この二つの属性は経験的に採用された規定であって、実体の本質をつくすものでない。
 属性相互の関係はどうかと言えば、それらは(デカルトと同じく)厳密に区別されている。それらは同一の実体の属性ではあるが、
各属性は独立である。属性のうちにその本質をあらわしている実体におとらず、どこまでも独立である。思考と拡がり、精神界と
物体界との間にはなんらの交互作用もなく、物体的なものは物体的なものしかなく原因にもつことができず、精神的なもの
(感覚、観念、意思)は精神的なものしか原因としてもつことができない。したがってこのかぎりでは、
スピノザもまたデカルトと同じく精神的なものと物体的なものとの分離を固辞しているのである。
しかし、唯一の実体という概念から見ると、二つの世界、精神と物体はふたたび同じものであって、これら二つの世界の間には
完全な一致、普遍的な並行関係が見出される。というのは、二つの属性のおのおののもとで考えられるものは、
同一の実体にすぎず、同一の実体が異なった存在形式をとって現れるにすぎないからである。


 
C 様態
 個物は、思考という属性のもとに考察すれば観念であり、拡がりという属性のもとに見れば物体であるが、スピノザはこれを
偶有性の概念、かれの言葉を用いれば様態(modus)の概念によってとらえている。様態とはしたがって、実体という普遍的存在が
特殊化する個別的な存在形態である。様態は、たえず消滅して少しも恒存しない形態として、その実体への関係は海に立つ
さざ波の海の水への関係に似ている。有限なものはそれ自身のうちに独立の存在をもたない。

・・・・
 
スピノザ 『エチカ』 神について (幾何学的秩序に従って論証された倫理学)
  (抄録)
 
定 義
1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
2 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、
 我々が常により大なる他の物体w考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。
 これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。
3 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、
 言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
4 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
5 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
6 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から
 成っている実体、と解する。
7 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
 これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、 
 あるいはむしろ強制されると言われる。
8 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。


 
公 理
1 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。
2 他のものによって考えられえないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。
3 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。
 これに反してなんら一定の原因が与えらけなければ結果の生ずることは不可能である。
4 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。
5 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに多から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない。
6 真の観念はその対象と一致しなければならぬ。
7 存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない。


定理1
 実体は本性上その変状アフェクテイオに先立つ。
証明 定義3および5から明白である。
定理2 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。
証明 これもまた定義3から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存在しなければならず
    かつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないから、である。
定理3 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たつことができない。
証明 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた(公理5により)相互に他から認識されることができない、
    したがって(公理4により)その一が他の原因たつ ことができない。Q・E・D・


定理4
 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって
     たがいに区別される。

証明 存在するすべてのものはそれ自身のうちに在るか、他のもののうちに在るかである(公理1により)。
    すなわち(定義3および5により)知性の外には、実体およびその変状のほか何ものも存在しない。
    ゆえに知性の外には、実体、あるいは同じことだが(定義4により)その属性、およびその変状のほかは、
    多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない。Q・E・D・
定理5 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
証明 もし異なった多数の実体が存在するとしたら、それらは属性の相違によってかそうでなければ変状の相違によって
    区別されなければならぬであろう(前定理により)。もし単に属性の相違によって区別されるなら、そのことからすでに、
    同一属性を有する実体は一つしか存在しないことが容認される。これに反して、もし変状の相違によって区別さるなら、
    実体は本性上その変状に先立つのだから(定理1により)、変状を考えに入れず実体をそれ自体で考察すれば、
    言いかえれば(定義3および公理6により)実体を正しく考察すれば、それは他と異なるものと考えられることはできない。
    すなわち(前定理により)同一属性を有する実体は多数存在しえず、ただ一つのみ存在しうる。Q・E・D・


定理6
 一の実体は他の実体から産出されることができない。
証明 自然のうちには同一属性を有する二つの実体は存在しえない(前定理により)、言いかえれば(定理2により)相互に
   共通点を有する二つの実体は存在しえない。したがって(定理3により)一の実体は他の実体の原因であることができない。
   あるいは一の実体は他の実体から産出されることができない。Q・E・D・
 この帰結として、実体は他の物から産出されることができないことになる。なぜなら、公理1および定義3と5から明白なように、
   自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存在しない。ところが実体は実体から産出されることが
   できない(前定理により)。ゆえに実体は絶対に他の物から産出されることができない。Q・E・D・
定理7 実体の本性には存在することが属する。
証明 実体は他の物から産出されることができない(前定理の系により)。ゆえにそれは自己原因である。
    すなわち(定義1により)その本質は必然的に存在を含む。あるいはその本性には存在することが属する。Q・E・D・


定理8
 すべての実体は必然的に無限である。
証明 同一属性を有する実体は一つしか存在せず(定理5により)、そしてその本性には存在することが属する(定理7により)。
   ゆえに実体は本性上有限なものとして存在するか無限なものとして存在するかである。しかし有限なものとして存在することは
   できない。なぜなら、有限なものとして存在すればそれは同じ本性を有する他の実体によって限定されなければならず(定義2
   により)、そしてこの実体もまた必然的に存在しなければならぬのであり(定理7により)、したがって同一本性を有する二つの
   実体が存在することになるが、これは不条理だからである(定理5により)。ゆえに実体は無限なものとして存在する。Q・E・D・

定理9 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる。
証明 定義4から明白である。
定理10 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。
証明 なぜなら、属性とは知性が実体についてその本質を構成していると知覚するものである(定義4より)。
    したがってそれは(定義3により)そえ自身によって考えられなければならぬ。
定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理7により)その本質は存在を含まない。
    ところがこれは(定理7により)不条理である。ゆえに神は必然的に存在する。Q・E・D・


定理14
 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない。
証明 神は実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対に無限な実有であり(定義6により)、そして必然的に
  存在する(定理11により)。ゆえにもし神のほかに何らかの実体が存するとすれば、その実体は神のある属性によって説明され
  なければならぬであろう。そうなれば、同じ属性を有する二つの実体が存在することになり、これは(定理5により)不条理である。
  したがって神のほかにいかなる実体も存しえない。したがってまたいかなる実体も考えられない。なぜなら、もし考えれれうると
  すれば、必然的にそれは存在するものとして考えられなくてはならぬが、これは(この証明の始めの部分により)不条理である。
  ゆえに神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない。Q・E・D・
定理15 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えらえない。
証明 神のほかにはいかなる実体も存せずまた考えられえない(定理14により)。言いかえれば(定義3により)神のほかには
   それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられる物は何もない。一方、様態は(定義5により)実体なしには在りえずまた
   考えられえない。つまり様態は神の本性のうちにのみ在りうるし、かつこれによってのみ考えられうる。ところが実体と様態のほか
   には何物も存しない(公理1により)。ゆえに何物も神なしには在りえずまた考えられえない。Q・E・D・

   (以下省略)


>> 『資本論』の道しるべとして・・第3章 実体と属性の哲学史 ヘーゲルとマルクス・・4.ヘーゲル  >>続く