ペルソナと「実体の関係性」
   
     商品の物神的性格 入門
・・・その3

 
資本論ワールド編集委員会より

1.
 今年2月から始まった資本論ワールドも半年が経過しました。この間、社会的生産有機体、物質代謝、
 そしてGallertなど生命科学の道のりからヘーゲル哲学の領域を探索してきました。
 先月からは『資本論』第1章の総まとめである「商品の物神的性格・フェティシズム」の世界へいよいよ足を踏み入れる
 探検コースに向かっています。


    
「商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として相連結するということに したがって価値として
    相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、
    このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間労働の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たる
    プロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。」(第4節商品の物神的性格)
   「しかし資本は物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的社会構造に属する生産関係であって、それが一つの物において
   表示され、そしてこの物に一つの特殊な社会的性格を与えるのである。・・・」
      「かくしてここに、われわれは、一つの歴史的に作り出された社会的生産過程の諸要因の一つの、
    一定の、一見きわめて神秘的な、社会的な形態をもつのである。・・・」
   
   「資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労働賃金、この価値および富一般の諸構成部分と、
   その諸源泉との関連としての経済的三位一体〔dieser okonomischen Trinitat〕において、資本主義生産様式の神秘化、
   社会的諸関係の物化、素材的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生は、完成されている。魔法にかけられた、
   逆倒された、逆立ちさせられた世界、そこではムッシュ・ル・カピタルとマダム・ル・テル〔資本氏と土地夫人〕が社会的諸人物として、
   また同時に直接に単なる物として、彼らの魔術を行う。この虚偽な外観と欺瞞、富の種々の社会的要素相互のこの独立化と骨化、
   この物の人格化と生産諸関係の物化、この日常生活の宗教、これらのものを分解したことは、古典経済学の大きな功績である。」
                                 (『資本論』第3巻第48章三位一体の定式)



2.
 私たちは資本論入門7月号(その1、2)「商品の物神的性格」について、『経済学批判』の検討を始めています。
 入門8月号では、ヘーゲル論理学と「物神性」の関連についても焦点を当ててゆきます。
 難しいヘーゲル論理学の検討に入る前に、もう一回、回り道をしてゆきます。
 「物神的性格」(フェティシズムFetischismus)の議論では、中世キリスト教神学の「キリストのペルソナ」(神性と人性の同時並立)と
 「物の人格化(ペルソナ化)と人間(ペルソナ)の物化」(Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen)に見られるように
 「ペルソナPersona」と「受肉Inkarnation」の理解が不可欠だからです。

  
ご存知のようにフェティシズムFetischismusとは、
 フランスの思想家ド・ブロス(1709-1777年)が1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』を公刊したところから始まります。
 アフリカの原住民の間で宗教的な崇拝の対象であった神霊を自然の中に見出し、呪物崇拝(物神崇拝)している信仰形態を研究しました。
  マルクスは、この伝統的概念Fetischismusを商品分析に適用し、「商品の物神的性格・フェティシズム」によって『資本論』第1章「商品」の
 総括を行っています。具体的に、この「フェティシズムFetischismus」の分析装置として中世キリスト教神学の伝統を組み入れたのです。
 従って、私たちはまず中世キリスト教神学の概要を参考にしながら、「ペルソナ」とは何かを究明し、次に「物の人格化と人間の物化」に
 通じるキリスト教神学の「受肉」の思想を学んでゆきます。


  神のペルソナ(「三位一体」)とキリストのペルソナ(神が神性と人性の両性を体現していること)が、
 中世キリスト教神学の中軸として構成されています。
 
「受肉Inkarnation」とは、神の子のキリストがイエスとなって人間の肉体をまとって地上に出現したキリスト教の中心的教義です。

 さて、資本論ワールドでは連続的にヘーゲル論理学を探訪してきました。特に、『資本論』の価値「実体」と価値「形式・形態」についても
詳細に跡付けてきました。今回、新たに中世キリスト教神学の世界を探検してみて、ヘーゲル論理学との密接な関連を知って、
さぞ驚かれることでしょう。また、アリストテレスの「実体」も我がもの顔に登場してきます。こうした西洋伝統文化の奥深さを覗き見しながら、
『資本論』
フェティシズムの宗教的世界(受肉)を探訪してゆきましょう。


 
 「人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、
  類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、
  それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、
  人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝(Fetischismus)と名づける。それは、労働生産物が
  商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。」
  (『資本論』第4節)



3.
 『資本論』第1章商品は、伝統的西洋思想(生命科学や古代ギリシャ哲学思想など)を土台としながらも、独特な論理構成を
 形作っています。叙述の方法は、難解で従来の古典派経済学や一般科学論文とは全く異質であり、日本の伝統文化とも著しくかけ
 離れた文体形式をとっています。読書には大変な苦痛を伴い、内容を理解するにも非常な労苦が強いられます。
 そんなわけで、探検隊のメンバーも多大な困難と絶望の淵を度々体験し、数々の失敗談を重ねてきたわけですが、
 これらの経験が教訓化された結果、新たに資本論ワールド探検隊が組織されました。
 永年にわたり「商品の物神的性格とその秘密」は、謎のまま誤解され、また安易に解説・曲解され続けています。これらの困難を
 乗り越えて、物神性に包まれた資本制生産の暗闇から明るい将来展望を求め、本日探検隊・皆さんと出発してゆきます。
 
ペルソナ探索計画は次のとおりです。
 準備段階として第一は、19世紀生命科学の-物質代謝の細胞理論とGallert探検です。
  
*自然と労働の物質代謝・・・19世紀・生命過程の解明・・・参照してください。

 第二は、商品の価値形態-商品交換(物々交換)から貨幣形態の形成-の解剖学に応用されたヘーゲル論理学の現場確認です。
  
*資本論入門5月号6月号ヘーゲル論理学入門」等を参照してください。


 
第三が、今回の主要テーマのメインコースとなります。

 『資本論』読者の間では、「キリスト教神学は馴染みがない」と思われています。しかし、西洋文化の伝統から、新約聖書がギリシャ語で
書かれたように古典ギリシャやアリストテレス哲学と大変親近関係にあります。またヘーゲル哲学の「実体」は絶対者としての神であり、
むしろ、「ヘーゲル哲学出生の秘密は、キリスト教神学にある」と言えるのです。私たちは世間的な情報不足によって、キリスト教神学と
疎遠の間柄であるにすぎません。まずはご近所のお付き合い気分で始めてゆきましょう。


 
ペルソナと「実体の関係性」

 事務局:

 資本論ワールドを開始して半年が経ちました。盛りだくさんの課題に取り組みながら、過ぎてみれば実に早いものです。
ようやく第1章商品の総まとめの段階、「商品の物神的性格とその秘密」にたどりつきました。
先月から『経済学批判』の物神性に取り組んでいますので、連携を持ちながら討論をお願いしたいと思います。

司会進行役の坂井:

 先ほど、編集委員会から本日の概要説明がありました。ペルソナと「実体の関係性」と言うと、全く新しいテーマや課題が始まるように
感じられる方がいらっしゃるかと思われますが、実はこれまで議論した事柄(生命科学、ヘーゲル論理学)に新しく「宗教哲学」
(中世キリスト教神学)が加わっただけ、しかもヘーゲル哲学が形成された母体に相当するものという理解の仕方で良いのでは
ないでしょうか。あまり難しく考えないようにしましょう。
 では、今回のメイン報告者として哲学担当の近藤さんに準備をお願いしてあります。
まずは全体的な見通しをお話していただいてから、順次進めてゆきます。

哲学担当の近藤:
 半年経過したんですね。・・・振り返ってみると、必死に走り続けてきて第1章の総括段階までよく来れたなって、感慨もひとしおですね。
本日皆さんとの討論会を契機にしながら、今後の探検旅行のスケジュールや航路が決まっていくようで、少し緊張感もでてきます。
 全体の見通しですが、まず「商品の物神性」を巡る周辺状況から説明します。

1. 7月の資本論入門では、編集部から「物神性論と価値形態論の同時進行」の提案がありました。その際、私のほうから、
 概要次のような要望・意見を出しておきました。
 
①ヘーゲル論理学の「実体、属性、区別、相等性(岩波『資本論』では等一性)」について
 ②価値形態や商品の物神性は大変難しいテーマで、高度な議論となることが予想されます

 分かりやすい議論の素材提供のために、十分な工夫が必要です。その上で、新たに「ペルソナ」問題を抱え込むことになりました。
西洋哲学史に宗教論が重なり錯綜した状況ですが、意見交換を踏まえて難題の解明に努めてゆきたいと考えています。
 なんと言っても、私たち資本論ワールド探検隊は、かつて誰も立ち入ることのなかった未知の領域へ旅立ってきました。
当然分かりやすいガイドブックなどありません。この検討会の中から作ってゆく以外に打開策がないということで、相応の覚悟が必要です。

 さて、具体的に言いますと、上記の①では、ヘーゲルの『小論理学』から「実体、属性、区別、相等性」などについての基本的な手引書が
どうしても必要です。マルクスはヘーゲル特有の用語法に従いながら、『経済学批判』についても『資本論』についても「商品」の分析を
実行しています。ヘーゲルとの対比一覧表がなければ、判読が難しく、読み進めない状況が随所にあります。
まるで見知らぬ海外旅行先で現地ガイドの手助けがほしいような事態です。

 現在にいたるまで、キリスト教神学を背景とした参考文献は作成されていません。結局のところ従来の解説には、
厳密性に欠けるところが多くありまして、相互に理解可能な次元には程遠いのが現実です。
 ②については、資本論入門8月号でも取り上げられる予定がありますので、丁寧な援助を期待しています。
 さて、
2. 次に、全体の見通しについて説明します。
 ペルソナと「実体の関係性」の相互関係について大きく二つに区分します。

 第1部は「ペルソナ」についてです。

(1)
ラテン語ペルソナpersona(ドイツ語Person,英語personなど)は、辞書によれば①仮面、マスク②役柄、登場人物③役割、資格
 ④キリスト教の位格、ペルソナ⑤人格などのように、多くの訳語が出てきます。基本は、古代ギリシャ時代の演劇から始まったと
 言われています。
 西洋ラテン世界に今日的な「ペルソナ」概念が登場するのは、キリスト教が普及し、教会が形成されてゆく古代ローマ時代
(紀元4世紀~5世紀)です。「神である父と子と聖霊」の3者の相互関係と神が受肉したイエス・キリストの「神性と人性」がキリスト教の
教義として確立してゆく時代-三位一体論が公認されてゆく時代、最終的に451年カルケドン公会議で原則を確立-になります。
古代ギリシャやローマ時代に、劇場舞台用語の“仮面・登場人物”としてペルソナに相当するギリシャ語の言葉はありましたが、
「神の三位一体」とキリストのペルソナ性(神性と人性の二つの存在)をめぐる宗教会議の討議を経て、「ペルソナ」定義も公認されて
ゆきます。その後、中世の13世紀前後にトマス・アクィナスなど神学者によって現代にいたる教義上の土台が形成されてゆきます。
 (*キリスト教神学関連と
トマス・アクィナス『神学大全を参照して下さい)


 第2部は、「実体」について、三位一体と「実体の関係性」の角度から報告してゆきます。

 
(2) 実体とはふつう単一・単独の実在または存在と考えられています。「これが実体だ」「」商品価値の実体は労働だ」などと差し示す
 ことが可能なように受け取られています。したがって「実体の関係性」とは、単独の実体と実体同士が示す「存在のあり方」として
 理解されがちですが、ヘーゲル哲学では全く違っているのです。実体そのものが、「関係」として生成発展してゆく存在形式をもって
 います。この論理が実に事柄を難しくして、私たち日本人には理解しにくいのです。ところが、キリスト教の伝統(三位一体)をもつ
 西洋では、すんなりと受け入れられてしまいます。ですからこの伝統文化を私たちは経験してゆくことから始まります。
(3)「実体の関係性」は、「神の三位一体」と密接なつながりがあります。7月の新着情報で「*実体と属性の哲学史-
 アリストテレスからヘーゲルへ」において実体概念の歴史的変遷を見てきました。アリストテレスの実体からデカルトを経て、
 スピノザの実体は「神」そのものを唯一絶対の実体としています。

  ヘーゲル哲学の実体は、このスピノザの実体(「神」)概念のうえに構築されていますが、もうひとつの「顔」として、ヘーゲルの「神」は
 三位一体のペルソナでもあることから、
ヘーゲルの「実体」は神のペルソナ-三位一体-と論理構造が共有されているのです。
 ここが、「実体」やヘーゲル論理学が複雑で、非常に分かりにくくしている理由です。ヘーゲルの「実体」とは必然的に「三位一体論」と
 同じような論理構成をもった、「関係性」として神・キリストのペルソナ性(受肉)とともに存在することになっているのです。
 ここの論点が後半の焦点になります。

        *>>『資本論』の三位一体 第48章三位一体の定式 参照>>  *>>実体と属性の哲学史02・・ヘーゲルとマルクス>>


司会進行役の坂井:

  全体の見通しとして、第1部ペルソナ、第2部三位一体と「実体の関係性」について報告をいただきました。
 ここまでで、ご意見、質問をお願いします。

北部資本論研の小島:
 2、3質問、意見があります。
(イ)本日の最大テーマである「商品の物神的性格」との位置づけはどうなるのでしょうか?
(ロ)「実体」概念と「実体の関係性」との区別と言いますか、関連性がいまひとつよくわかりません。
  ヘーゲルでは、「実体は主体だ」とも言われています。「実体は関係性である」という説明は、むしろ少数意見ではないでしょうか?
(ハ)ヘーゲル哲学はキリスト教神学が母体だった、との説明ですが、そうするとこれまで私たちが学んできたヘーゲル論理学は、
 キリスト教神学の影響下に吸収されてしまうと考えられるのか、また、『資本論』とヘーゲル論理学の関係を見直すことになりはしないか、
 などです。この半年間の総括にどのような影響がでてくるのでしょうか?このあたりの説明がほしいですね。

 
小川(レポーターの一員):
 私からは、『資本論』に出てくるキリスト教の専門用語の報告をしたいと考えています。実際に『資本論』のなかで、
宗教用語はどのような役割で活用されているのか、現状の把握がまずもって大事なのではないでしょうか。この事実確認の上に立って、
その後に該当する個所の論理構造の分析が始まるものと考えています。
 
事務局:
  第4節は、第1章商品の総括的位置づけになっていますので、
 ①物神性の論理と価値形態論の展開との相互連動の解説が必要と考えています。
 ②ヘーゲル哲学がキリスト教神学を母体としているとすれば、『資本論』の第1節から進めてきた議論にどうのような影響が
 出てくるのでしょうか。それとも、第3節以降の「フェティシズム」から、神学上の課題が発生すると、理解してよいのでしょうか?


 議事進行の坂井:
 さて、3人の方から質問、意見・提案がありました。いずれも、ポイントをついた問題提議だったと思われます。
 今後の取り扱いについて討論をお願いします。
 小島:
 イ、ロ、ハと3点挙げましたが、3番目のヘーゲル論理学とキリスト教神学との関係については、
 小川さんの「現状の把握」の議論で吸収できると思います。
 哲学担当の近藤:
 小島さんの実体と「実体の関係性」については、最初に申し上げたヘーゲル用語辞典(実体、属性、区別、相等性など)の
作成準備段階で細かく議論してゆきたいと考えています。ですから、小島さんの質問のうち、第1点目のキリスト教神学と
「商品の物神的性格」に問題がしぼられてくると思います。
 それと、事務局からの問題提議があった①と②については、むしろ資本論入門8月号で行なったほうが議論に連続性が確保される
と思われます。今回のキリスト教神学の論議が土台ともなりますから、タイミングも良かったのでは。


 
議事進行役の坂井:
 では議論をまとめてみますと、①「商品の物神的性格」におけるキリスト教神学の関連性の具体的な説明が必要なこと、
 ②『資本論』で使用されるキリスト教関連用語の確定の2点に絞られましたが、結局最初に立ち戻ったように感じられます。
 近藤さんから報告の際は、この2点に特に留意しながら本題に入って下さい。
 近藤:
 それでは、第1部ペルソナについて改めて報告してゆきます。
 
第1部ペルソナについて
 第1節 『資本論』に現われるキリスト教について
 第2節 「商品の物神的性格」に現われたキリスト教とペルソナ
 第3節 キリスト教神学のペルソナについて
 第4節 人格化された資本とペルソナの三位一体について


 
 第1節 『資本論』に現われるキリスト教について


  資本論ワールド編集委員会では、*『資本論』のキリスト教神学としてすでに特集が組んでありますので
 こちらを参照しながら、提案します。 *『資本論』のキリスト教神学では、以下の内容で構成されています。

1. キリスト教神学基礎の入門書・『神学のよろこび』から代表的な5つの基礎知識が提供されています。
 ①キリスト教神学、②神学と文化との対話、③神、④人格的な神、⑤イエス、(啓示とは)です。
 
<三位一体>
① 「 神学とは何でしょう。この神学という言葉は、3世紀以来「神について語る」という意味でキリスト者が用いてきたものです。
 なぜキリスト者は、イエス・キリストが「まことに神にしてまことに人」であると信じるのでしょう。あるいは、もう一つのなじみ深い例を
 挙げれば、単純に神を信じるというのに比べ、はるかに複雑に思えるのに、なぜ私たちは神が三位一体であること、
 つまり「三つのペルソナ・位格を持った一人〔誤解を招く表現になっているので注意〕の神」を信じようとするのでしょう。

 
<トマス・アクィナス>
② 「中世の学者たちがアリストテレスを再発見したことで、物理学、哲学、倫理学を含む知的生活のあらゆる局面で有益な
 新しい財産が提供されたかに見えました。トマス・アクィナスの大作『神学大全』がその例で、
 これは、今まで書かれた神学の最も偉大な著作の一つとして誰もが認めているものです。

 
<神>
③ 「神はキリスト教神学の中心にいます。神とは誰かを明らかにするこのプロセスは、旧約聖書と新約聖書の両方に見られることです。
 旧約の預言者たちにとって、イスラエルが知り、礼拝してきたのは、イスラエルをエジプトから導き出し、約束の地へと導いた神です。
 新約においても、この考えが取り上げられ、さらに展開されているのが分かります。キリスト者は、アブラハムが信じた神と同じ神を
 信じています。この神はしかし、最終的にかつ完全にイエス・キリストにおいて明らかにされました。
 この意味でパウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と語っているのです。
 
<人格的な神・ペルソナ>
④ 「神を「羊飼い」あるいは「父」として語ることは、神についてキリスト教的に考える際にもう一つの重要な主題へと私たちを導いて
 ゆきます。すなわち、人格的な神という概念です。時代が下るにつれ、神学者も一般のキリスト教信者もみな同様に、神について
 人格的な用語で語ることをためらわなくなりました。たとえばキリスト教は、人格的な連想を強く呼び起こすように思える性質、
 たとえば愛や信頼性、目的といった一連の属性全体を神のものと見なしました。
 「初期のキリスト教神学者たちにとって「人格(person)〔ラテン語persona〕」という言葉は、彼あるいは彼女の言葉や行動によって
 その人だと見られるように、一人の人間の個人性を表現しています。とりわけそこでは、社会的関係という考え方に強調点があります。
 人格とは、社会的ドラマにおいて役割を演じ、他者と関わる存在のことです。
 人格は、社会的な関係の網の目の中で果たすべき役目を持っています。個人性(individuality)」は社会的関係を含みませんが、
 人格性(personality)」は、関係の網の中で個人の果たす役割に関係しています。

 
<イエス・キリスト>
⑤ 「キリスト教神学の最も基礎的な仕事の一つは、キリスト教信仰の中心におられる方、
イエス・キリストとは誰であるのか、またその人格の意義は何かを明らかにすることです。新約聖書がイエスに言及する際に用いる
さらに別の称号は「神の子」です。最初のキリスト者たちがイエスと神との関係をいかに密接なものとして理解していたかを示しています。
「イエス・キリストの人格についてキリスト教は、「受肉」という用語で議論されます。「受肉」とはむずかしい言葉ですが、大切な言葉です。
それはラテン語の「肉」に由来し、イエス・キリストが神にして人であるという根本的なキリスト教信仰を要約し、明確に主張しています。
受肉の考えは、キリストの秘儀についてのキリスト教的な反省のクライマックスです。」

 (啓示とは):ブーバーの方法は、キリスト教神学にとって、神の啓示とは、単に神についての事実が知らされることではなく、
  神の自己啓示のことです。神についての理念の啓示は、人格としての神の啓示、すなわち理念の内容のみならず、その方ご自身の
  現臨によって補われるべきです。「神を知る」とは、単に神についての情報を集めることではなく、一つの人格的な関係なのです。


 
 第2節  「商品の物神的性格」に現われたキリスト教とペルソナ

 『資本論』の第1篇「商品と貨幣」の構成は3つの章からなっていて、「商品の物神的性格・フェティシズム」は第1章「商品」の最後の
 第4節に登場してきます。第2章は「交換過程」、第3章は「貨幣または商品流通」です。表題の『資本論Das Kapital(CAPITAL)』ですが、
 「資本」は第2篇「貨幣の資本への転化」になってようやく取り上げられます。「資本」の導入過程は、商品→貨幣→資本の具合で進行し、
 「キリスト教的表現」は、この過程に応じて展開されてゆく特徴が見受けられます。

 
第1章:① 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、
 したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。・・・このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。
 その価値たること〔Wertsein:価値存在〕が、上衣との同一性〔Gleichheit:相等性、同等性〕に現われること、ちょうど
キリスト者の
 羊的性質が、その神の仔羊〔イエス・キリスト〕との同一性
に現われるようなものである。
                     (第3節2相対的価値形態a 相対的価値形態の内実) 
 ② 
化身〔Inkarnation:受肉〕:商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、
 一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての
 商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える
化身〔Inkarnation:受肉〕として、一般的な社会的な蛹化
 〔ヨウカ:昆虫の幼虫が、蛹(サナギ)に変態すること*胚芽・サナギ・蝶を参照〕としてのはたらきをなす
(*注1)
                       (第3節C一般的価値形態1価値形態の変化した性格)


③ 
啓示する:労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物〔Gallerten:膠状物*Gallert資本論参照〕として表示する
 一般的価値形態は、それ自身の組み立てによって、それが商品世界の社会的表現であることを示すのである。このようにして、
 一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に
人間的な性格(menschliche Charakter)が、その特殊的に社会的な性格を
 形成しているのを
啓示するのである。   (C一般的価値形態1価値形態の変化した性格)

 第2章: ④ 土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身〔受肉〕である。
  このようにして貨幣の魔術が生まれる。   (第2章交換過程)
 
第3章: ⑤ 価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの全くちがった機能を行なう。
  貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。
⑥ この物〔金や銀〕の金属としての自然形態が、すべての商品の一般的な等価形態であること、一切の人間労働の直接に
  
社会的な化身であることを妨げない。貨幣退蔵の衝動はその本性上とめどがない。
⑦ 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。
  この分業は同時に、この
化体〔Transsubstantiation:全実体変化*注2〕が成就するかどうかを、偶然のものにする。
  
     
  (*注1)社会的な蛹化:すなわちサナギの後に何かが生まれ、変化することが暗示されている。
       
(*注2)全実体変化:カトリック用語;ミサ中の聖変化の際、パンとぶどう酒をキリストの体と血に変化させること。

  
 そして、第2篇「貨幣の資本への転化」第4章第1節資本の一般定式で、
  「価値と資本」概念の説明において明確にキリスト教観念の宗教用語が採用されています。


⑧ 商品の価値は、単純なる流通において、その使用価値にたいしては、せいぜいで貨幣という独立的形態を得るのであるが、
 ここでは突如として
自己過程的な、自動的な実体(Substanz)として表わされる。この実体にとっては、商品と貨幣とは、
 ともに単なる形態である。しかしながら、さらに加わる。商品関係(Warenverhältnisse)を表示するかわりに、価値は、いまや、
 いわば自分自身にたいする一つの
私的関係(Privatverhältnis)〔御父と御子の関係〕にはいる。価値は、原初の価値としては、
 
剰余価値〔Mehrwert:増殖価値 (surplus value)〕として、自分自身から区別される。
 
父なる神(Gott Vater)が、子なる神(Gott Sohn)として自分自身から区別されるように。そして両者はおないどしである。
 そして事実上一身(eine Person:神のペルソナ:persona)をなしている外にない。
 なぜかというに、10ポンドという剰余価値〔増殖した価値〕によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本となるからである。
 それが資本となるや否や、すなわち、子が生まれ、そしてこの子によって父が生まれるや否や、その区別は再び消え、
 両者はともに一つとなる。110ポンドとなる。
⑨ こうして、
価値は自己過程的の価値となり、自己過程的の貨幣となる。そしてこのようなものとして、資本となる。


  
第3節 キリスト教神学のペルソナについて

 
1. 『資本論』に出現する「ペルソナPersona」の事柄が表現する内容について

 人々としてのペルソナPersonaから、新しく人格化personifiziertされた主体として、「資本」が生成されてゆきます
(*注3)
     
(*注3)トマス・アクィナスによれば、「神のペルソナ」においては、複数の多様なペルソナが存在している。
           『神学大全』第30問題「神におけるペルソナの複数性について」参照

① 第1章第4節:商品の物神的性格

  私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、
 はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、
 あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における
人々(Personen)の直接に社会的な関係としてではなく、
 むしろ人々の物的な諸関係(sachliche Verhaltnisse)として、
 また物(Sashen)の社会的な諸関係(gesellschaftliche Verhaltnisse)として現れる。

② 第2章:交換過程

 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、
すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって
人間(Menschen)にたいして無抵抗である。
これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに
人(Personen)として相対しなければならぬ。
彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、
ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に
私有財産所有者として、認めあわなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、
一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は経済的関係そのものによって
与えられている。
人々(Personen)はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。
叙述の進行とともに、われわれは、一般に、
人々の経済的仮装(die ökonomischen Charaktermasken der Personen)は経済諸関係の
人格化(die Personifikationen der ökonomischen Verhältnisse)にすぎず、この経済的諸関係の担い手
(Träger:例;使用価値は交換価値の素材的な担い手)として、彼らが相対しているということを見るであろう。


③ 第3章貨幣または商品流通第2節流通手段a商品の変態

 商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表さなければならない私的労働、同時にただ抽象的に
一般的な労働となされる特別な具体的労働、物の人格化(Personifizierung der Sache)と
人の物化(Versachlichung der Personen)。
―というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態〔W-G-W〕を保持している。


④ 第2篇 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般定式

 この運動〔流通過程G-W-G〕の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家となる。彼の
一身(Person:人格)
またはむしろその懐は、貨幣の発出点であり、帰着点である。かの流通の客観的内容-価値の増殖-は、資本家の主観的な目的である。そして抽象的富の取得増大のみが、彼の行動のもっぱらなる推進的動機であるかぎり、彼は、資本家として、
または
人身化せられ(personifizieren:人格化する)、意志と意識とをあたえられた資本として、機能する。



 
第4節 人格化された資本とペルソナの三位一体について

⑤ 第3篇絶対的剰余価値の生産 第8章労働日

 資本家としては、彼は単に
人格化された資本(personifizierte Kapital)にすぎない。彼の魂は資本の魂である。
しかるに、
資本はただ一つの生活衝動を、自己を増殖し剰余価値を創り出す衝動をもっている。資本は、ただ生きた労働の吸収に
よってのみ、吸血鬼のように活気づき、またそれを多く吸収すればするほど、ますます活気づく、死んだ労働である。(2-p96)

⑥ 第7編諸収入とその諸源泉 第48章三位一体の定式Die trinitarische Formel
 
資本-利潤(企業者利得プラス利子)、土地-地代、労働-労働賃金、これは、社会的生産過程の一切の秘密を
 ひそませた
三位一体の形態である。
⑦ 資本、それは資本に転化された生産手段で、生産手段それ自体が資本でないことは、金または銀それ自体が、
 貨幣でないのと同様である。

 資本は
、社会の一定部分によって独占された生産手段であり、生きた労働力に対立して独立化された、
 この同じ労働力の生産物および活動諸条件であって、これらのものが、
 この対立によって
資本において人格化される(im Kapital personifiziert werden)のである。(p1018)


⑧ さらにわれわれは次のことを見た。資本は-そして
資本家は人格化された資本(personifizierte Kapital)であるにすぎず、
 生産過程においてはただ資本の担い手としてのみ機能する-、かくして資本は、それに対応する社会的生産過程において、
 一定量の剰余労働を直接生産者から汲み出す。(p1023)
⑨ 土地所有者は資本主義的生産過程において一つの役割を演ずる、というのはそれが資本の上に加える圧力によってのみ
 ではなく、また大きな土地所有は、労働者からの労働諸条件の収奪の一前提であり、一条件であるから、
 資本主義生産のそれでもあるということによってのみでもなく、とくに、彼がもっとも本質的な
生産諸条件の人格化
 (Personifikation)として現われるということによって、その役割を演ずるのである。(p1026)

⑩ 資本と資本家-これは実際は
人格化された資本personifizierte Kapitalにほかならない-において、生産物が生産者に対して
 一つの独立した力になるように、土地所有者において
土地は人格化され〔Boden personifiziert:土地ペルソナ〕それはやはり
 後足で立ち、そして独立した力として、その助けによって生産された生産物のうちから、彼の分け前を要求する。(p1030)

 以上で、第1部ペルソナについての報告を終わります。
 先ほどの意見交換で出された貴重な指摘事項を踏まえたつもりですが、いかがでしょうか。

議事進行役の小川:
  大変長い報告をいただきました。近藤さんには、厚く御礼申し上げます。
 また長時間にわたりご一緒された探検隊の皆さん、ご苦労さまです。
 さて、第1部ではキリスト教神学とその中核理念である「ペルソナ」について全般的な、かつ簡潔に『資本論』との関連性を
 含め重要なご指摘をいただきました。私たちには不慣れなキリスト教神学ですが、『資本論』と連動した解説のおかげで、
 むしろ具体的なイメージが出来上がったとの印象を受けましたが、皆さんはどうでしょうか?
 第2部三位一体と実体の関係性に移る前に質問、ご意見の時間を取りたいと思います。
 休憩時間をはさみますのでその間にまとめておいてください。また関連資料を下記の掲載しましたので、
 併せて参考にしてください。それでは、暫時休憩とします。

 >>ペルソナと「実体の関係性」の参考資料集>>
 >>第1部キリスト教神学とペルソナについての質問・意見交換>>
 >>第2部三位一体と「実体の関係性」>>