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  神におけるペルソナの複数性

 
  トマス・アクィナス 『神学大全』 第30問題
 (全4項)

 
トマス・アクィナス 『神学大全』  創文社 稲垣良典訳

 
序   (中央公論社版)
 カトリック真理の教師の使命は、進んだ者たちに教授するだけではつきない。使徒が『コリント前書』第3章において、
「あたかもキリストにおける幼児に対するように、私はあなたがたに乳を飲ませ、賢い食物を与えなかった」というところによれば、
初学者を導くこともその任務に属している。そこで、この書においてわれわれの意図するのは、キリスト教に関することがらを、
初学者を導くにふさわしい仕方でつたえることである。

 じっさいわれわれの見るところ、この教の入門者たちは、さまざまな人々の書いたものによって、却って大いに妨げられている。
それは、一つには不必要な問題、項目、論証がいたずらに増加しているためであり、一つには初学者のぜひとも知るべきことがらが、
学習の順序によらず書物の解説の必要に応じ、あるいはたまたま催される討論の機会に応じてつたえられるためであり、
一つには同じことの度重なる反復が聴く者の心に倦怠と混乱とを引き起こすためである。
 そこでわれわれは、これらの、またこれに類する他の欠点を避けるように努めながら、神の助力に信頼して、聖なる教に属する
ことがらを、題材の許すかぎり簡潔明快に追及してみたいと思う。



『神学大全』第30問題(全4項)

 
神におけるペルソナの複数性について
 
 次にはペルソナの複数性についての問題である。この点をめぐって問題となることがらが四つある。
 第一 神のうちにいくつものペルソナが存するか
 第二 それはいくつあるか
 第三 神においては数詞は何を表示するか
 第四 「ペルソナ」という名称の共通性について


第一項 神のうちにいくつものペルソナがあるとすべきであるか
 
 第一については次のように進められる。― 神のうちにいくつものペルソナがあるとすべきではない、とも考えられる。けだし、
(一)ペルソナとは、「理性的本性を有する個的実体substantia」である。
それゆえ、もし、神のうちにいくつものペルソナがあるとする
ならば、神のうちにはいくつもの実体があることになるであろう。これは異端であると考えられる。

(二)関係的ならぬ絶対的な固有性がいくつもあったとしても、そのゆえにペルソナの区別が生ずるということは、神の場合にも我々の
場合にもないのであるから、いわんや関係がいくつもあるからという理由でペルソナの区別が生ずることはない。然るに神においては、
既述のごとく、関係の複数性以外に複数性はない。だからして、神においてはいくつものペルソナがあるとはいいえない。

(三)ボエティウスは、神について語って、“いかなる数もそこにはないごときものこそが、真に一なるものである”といっている。
然るに複数であるということは数を含意している。それゆえ、神のうちにはいくつものペルソナは存しない。

(四)およそ、数の存するところには、つねに全体と部分とが存している。それゆえ、もし神のうちにペルソナの数があるとするならば、
それは、神のうちに全体と部分とがあるとすることになるであろう。これは、神の単純性に背馳する。
 他面、その反対の論にいう。
 アタナシウスはいう。“御父のペルソナと、御子のペルソナとは、それぞれのものである”と。してみれば、御父・御子・聖霊は、
複数のペルソナでなくてはならぬ。


 
以上に答えて、私はこういうべきだとする。
 神において複数のペルソナが存するということは、上述から帰結するところである。すなわち、既に示されたごとく、「ペルソナ」という
名称は、神の場合にあっては、関係を「神の本性において自存するところのもの」として表示している。しかるに、これも既述されたように、
神にあってはいくつもの実在的な関係が存在している。ここよりして、神の本性において自存するものがいくつもあることが帰結する。
そしてこのことは、神においていくつものペルソナが存在しているということにほかならない。

 (一) については、それゆえ、こういわなくてはならぬ。
 
「スブスタンチア〔実体〕」substantia がペルソナの定義のうちに置かれているのは、それが本質essentia を表示するかぎりにおいてでは
なく、却って主体suppositum を表示するかぎにおいてであって、このことは「個的」 individua ということがそれに付加されているところからも
明らかである。
ギリシャ人は、こうした意味でのスブスタンチアをあらわすために、「ヒュポスタシス」という名称を用いる。
我々は、しかし、「三つのスブスタンチア」とはいわないのが普通であり、これは、スブスタンチアという名称の多義性のゆえに、
「三つの本質」という意味に誤解されることのないようにという用意から出ている。

 (二) についてはこういわなくてはならぬ。
 善性とか知恵とかのごとき関係的ならぬ絶対的な固有性は、神の場合には相互に対立するものではなく、従ってまた、そのそれぞれが
実在的に区別されているわけでもない。それゆえ、これらの固有性は自存するものであっても、だからといって、いくつもの自存するものが
あるということ―これがすなわち、いくつもペルソナがあるということであるが―にはならないのである。また、被造物における、関係的なら
ぬ絶対的固有性は、例えば白さと甘さとのごとく、実在的に区別されているものではあっても、しかしながら、その一つ一つが自存するもの
でもあるし、また相互に実在的に区別されているものでもあること、上述のごとくである。それゆえ、
神におけるペルソナが複数である
ためには、かかる関係的な固有性が複数あることをもって足りるのである。


 (三) についてはこういわなくてはならぬ。
 
神は最高度に一でありかつ単純なものであるから、関係的ならぬ絶対的な仕方で語られるとこのものの複数性は、すべて神から
排される。しかしながら、関係というものの複数性はそうではない。
けだし、諸々の関係は、いずれも或るものについて、対他的なものとして
述語されるのであって、したがってそれらは、ボエティウスが同書において教えているように、「これらの関係がそれについて語られる
ところのもの」それ自身においての複合を含意するものではないからである。

  (四) についてこういわなくてはならぬ。
 数に二通りある。すなわつ。「二」・「三」・「四」といった単純な乃至切り離された数と「二人の人間」・「二頭の馬」のごとき、数えられる
諸事物における数とである。従って、もし我々が、神の場合、切り離された乃至は抽象された仕方で数を解するのであれば、その意味
では、神において全体と部分とがあって何らさしつかえない。その場合、それは我々の知性の理解における以外のことがらではない。
数えられる諸事物から切り離された数は、知性のうちにしか存しないのだからである。もし、これに反して、我々が数を、数えられる
諸事物においてあるものとして解するならば、この意味においては、被造物にあっては、一人の人間は二人の人間の部分であり二人の
人間は三人の人間の部分であるというごとくにして、一は二の部分、二は三の部分であることはいうまでもない。
神においては、しかしながら、そうでないのであって、実際、御父はまさに全三位一体tota Trinitas と同じだけのものであること、
後に明らかにされるであろうごとくである。



第二項 神のうちに三つ以上のペルソナが存するか

 
 第二については次のように進められる。―神のうちには三つ以上のペルソナが存する、とも考えられる。けだし、
 
(一)神におけるペルソナの複数性は、既述のごとく、関係的は固有性の複数性に即するものである。しかるに、神のうちには、
既述のごとく、父性paternitas・子性filiatio・共通霊発communis ・発出processioという四つの関係が存している。だからして、
神のうちには四つのペルソナが存するはずである。

 
(二)神においては、本性と意志との相違は、本性と知性との相違以上のものではない。しかるに神においては、愛として意志の様態に
 よって発出するペルソナと、子としての本性の様態によって発出するペルソナとは別のものである。したがってまた、言として知性の様態に
よって発出するペルソナと、子として本性の様態によって発出するペルソナも、やはりそれぞれ別のものである。それゆえ、ここでも、
神のうちにあるペルソナはただ三つだけではないという帰結が生ずる。

 
(三)被造物にあっては、よりすぐれたものほど、より多くの内在的活動を有しているのであって、
例えば、人間は他の諸々の動物にまさって 知性のはたらきと意志のはたらきとを有している。
然るに、神はすべての被造物よりも無限にすぐれている。したがって、そこには、単に意志の様態によって発出するペルソナや、
知性の様態によって発出するペルソナがあるのみならず。さらに無限の多くの、
他の様態によって発出するペルソナがなくてはならぬ。かくして、神のうちには無数のペルソナが存している。

 (四)神的ペルソナを産出することによって自らを無限な仕方で伝達するということは、御父の無限の善性に基づく。しかるに、
無限の善性は聖霊のうちにも存している。それゆえ、聖霊はまた神的ペルソナを産出し、そのペルソナはさらに別のペルソナを産出し、
かくして無限に進むのである。

 (五)すべて、或る特定の数のもとに含まれるものは、「尺度によって量られるもの」である。数は一種の尺度だからである。
しかるに、神のペルソナは、アタナシウスの“御父は無量、御子は無量、聖霊は無量”ということばに明らかなように、
無量なるもの immensae である。それゆえ、神のペルソナは、三という数のもとに包含されるものではない。


 他面、その反対の論にいう。
 『ヨハネ第一書簡』終章には、“天において証をなす者が三つある。それは、御父と、御言と、聖霊である”と述べられている。
また、アウグスティヌスが『三位一体論』第7巻にいうごとく、“その三つのものは何であるか”とたずねるひとびとに対しては、
『三つのペルソナ』という答えが与えられるのである。してみれば、神のうちには、ただ三つのペルソナしか存しない。

 
以上に答えて、私はこういうべきだとする。
 上述のところよりすれば、当然、神においてはただ三つのペルソナあるのみとしなければならぬ。けだし、
複数のペルソナとは、既に示されたように、相互に実在的に区別された、複数の、自存するところの関係である。
ところで、神の諸々の関係の間に実在的は区別があるのは、
関係的対立のゆえであるほかない。
対立するところの二つの関係は、だから、二つのペルソナに属しているのでなくてはならぬ。

もし、これに反して、これらの関係が対立的なものでない場合にあっては、それら両者は、必然的に同一のペルソナに
属しているのでなくてはならない―。
かくして、父性と子性とは対立的な二つの関係であるがゆえに、
両者は必然的に二つのペルソナに属している。
かくして、自存する父性が「御父のペルソナ」であり、自存する子性が「御子のペルソナ」なのである。

然るに、他の二つの関係、霊発 spiratio 発出 processio は、父性・子性の二つの関係のいずれに対しても対立するものではなく、
ただ、お互い同志の間で対立しあっている。だから、これら両者のいずれもが、一つのペルソナに適合するというごときは
ありえない―。従って、これらのうちのいずれか一つが、御父・御子のペルソナのいずれにも適合するか、
或いは、一つは一方のペルソナに適合しいま一つは他方のペルソナに適合するのであるか、のいずれかでなくてはならぬ。

ところで、発出という関係が、御父・御子のいずれにも適合するとか、或いはそのいずれかに適合するというごときことはありえない。
というのは、そのようにして、もし、生み出すペルソナと生み出されるペルソナとが、「霊を発するもの」から発するのであるとしたならば、
知性の発出、すなわち神における出生 generato ―それに基づいて父性と子性とが認められる―は、愛の発出―それに基づいて
霊発 spiratio と発出 processio とが認められる―から生ずるという結果になるであろう。だがこれは、前述のところに反している。

それゆえ、霊発という関係が、父性に対しても子性に対しても何らの関係的な対立を持たぬものとして、御父のペルソナにも御子の
ペルソナにも属する。従ってまた、発出という関係は、「聖霊のペルソナ」と呼ばれる別のペルソナに属するのでなくてはならぬ。
このペルソナが、既述のように、愛の様態によって発出するペルソナなのである。かくして、帰するところ、神のうちには三つのペルソナ、
すなわち、御父 Pater ・ 御子 Filius ・ 聖霊 Spiritus Sanctus あるのみ、ということになる。

 (一) については、それゆえ、こういわなくてはならぬ。
神のうちには四つの関係が存しているが、そのうちの一つたる「霊発」は、御父ならびに御子のいずれのペルソナからも離れえず、
却って両者に適合する。従ってそれは、関係ではあるにしても、然し固有性 proprietas とはいわれない。
すなわちそれは、単に一つのペルソナにのみ適合するものではないし、またペルソナ的関係 relatio personalis
すなわち、ペルソナを構成するところの関係でもないからである。

これに反して、
「父性」・「子性」・「発出」という三つの関係は、いわばペルソナを構成する固有性として、
“ペルソナ的固有性 proprietates personales ”と呼ばれる。
すなわち、「父性」は御父のペルソナであり、「子性」は御子のペルソナであり、「発出」は発出する聖霊のペルソナなのである。


 
(二) についてはこういわなくてはならぬ。
 
言 verbum として知性の仕方で発出するところのものも類似という特質に即して発出するのであり、その点、本性の仕方で
発出するところのものと同様である。このゆえに、上にも、神の言の発出は、そのまま、本性の仕方によるところの出生に
ほかならないといわれたのである。愛 amor は、然しながら、愛であるかぎりにおいては、その発出のみなもとたるものの類似として
発出するのではない。
もとより、神における場合、それが神の愛であるかぎりにおいて、愛は神そのものと本質を同じくするものなのであるが―。
そしてこのゆえに、神において愛の発出は出生とはよばれないのである。

 
(三) についてはこういわなくてはならぬ。
 人間は、他の諸々の動物に比すればより完全なものとして、他の諸々の動物に比してより多くの内在的活動を有している
のであるが、このことは、人間の完全性が複合の仕方による完全性であることに基づく。だからして、さらに完全で、
同時にさらに単純であるところの天使の場合について見れば、そこには人間におけるほど多くの内在的活動は存在しない。
天使のうちには、すなわち、表象・感覚・等々のはたらきは存在しないのである。神にいたっては、実際の上ではただ一つの
はたらきがあるにすぎず、このはたらきが、そのまま神の本質にほかならない。だが、そこに、どういう仕方で
二つの発出が存在するのであるか、このことはさきに示されたところである。

 
(四)についてはこういわなくてはならぬ。
 こうした論も、もし、聖霊が御父の善性とは別個の善性を持つものであるとしたならば妥当するであろう。
つまり、その場合にあっては、御父がその善性によって神的ペルソナを産出するように、聖霊もまたその善性によって
神的ペルソナを産出するということになるであろうから―。実際は、然し、御父の善性と聖霊の善性とは同一のものでしかない。
事実また、ペルソナの諸々の関係による区別以外には、両者の間にはいかなる区別も存在しようがにあのである。

だから、聖霊に適合するところの善性は他者から得られたものとしての善性である。
神のペルソナに関しての根源という関係が聖霊の関係とともにあるということは、関係の対立という点からも、
許されないところである。聖霊とは、すなわち、神のうちにありうる他の二つのペルソナから発出するものだからである。

 
(五)についてはこういわなくてはならぬ。
 特定の数は、もしそれが知性の理解のうちにのみ存する「単純な数」と解されるのであれば、一によって量られる。
だが、もしそれが、神的ペルソナにおける「実在的なものの数」と解されるならば、その意味では、「量られる」という特質は
ここには適合しない。なぜなら、三つのペルソナそれぞれの大いさは、後で明らかにされるであろうように、
同じであり、然るに、同じものが同じものによって量られることはないのだからである。



第三項 数詞は何ものかを神において措定するか


 第三については次のように進められる。――数詞termini numeralesは神のうちに何ものかを措定するものである、
とも考えられる。けだし (一)神の一たることはその本質である。然るに数は、すべて、一ということの反覆されたものである。
従って、すべての数詞は、神の場合、本質を表示している。だから、数詞は神において何ものかを措定するものである。

 (二)およそ、神と被造物とについて語られるところのことがらは、いずれも、被造物によりも神に、より卓出した仕方で適合する。
然るに数詞は、被造物においては、何ものかを措定する。従って、神の場合にあっては、遙かにそれ以上でなくてはならぬ。

 (三)もし数詞が神のうちに何ものを措定するものでもなく、それは単に排除――すなわち、複数によって一が排除され、
一によって複数が排除されるというごとき――のためにのみ導入されるのだとするならば、そこには知性を混乱させるだけで
何ごとをも確証しない思考の循環  circulatio in rationeがあることとなる。これは不都合である。
それゆえ、数詞は神のうちに何ものかを措定するものでなくてはならない。

 他面、その反対の論にいう。
 ヒラリウスは、『三位一体論』第四巻において次のように述べている。‟神において伴侶consortiumありとする告白は
(これは、すなわち、複数性ということの告白である)、神が単独で孤独なものであるとする考えを排棄するものであった。”
また、アムブロシウスは、『信仰論』のなかで、こう語っている。‟我々が一なる神という場合、一とは複数の神々を排するものであって、
これをもって我々は、決して神のうちに量があるとするわけではない。”これらのことばよりすれば、このような諸々の名称が導入されて
いるのは、神において或る排除を行わんがためであり、決して、何ものかをそこに措定せんがためではないと考えられる。



 
以上に答えて、私はこういうべきだとする。
 ロムバルドゥスは、『命題論集』のなかで、数詞は神のうちに何ものかを措定するのではなく、却って単に除去を行うものにすぎない、
と主張している。他方、然し、これとは反対の説をなすひとびともある。
この点を、だから、明らかにするためには、以下のことを考察しなくてはならぬ。複数性 pluralitasは、すべて、何らかの分割divisioに
伴なうものである。然るに、
分割に二通りある。一つは質料的分割、すなわち、連続的なものの分割の場合におけるものである。

量の一種たる数は、こうした分割に伴う数にほかならない。ゆえに、このような数は、量を有する質料的な諸事物のうちにしか存在しない。
いま一つは、形相的分割、すなわち、相対立し乃至は相異なる形相によって生ずるものである
かかる分割によって生ずる多数性multitudoは、何らかの類のうちにあるものではなく、却って、「類を超えたもの」transcendentiaの一つ
としての多数性であり、つまり、有ensが一と多に分たれるといった意味でのそれである。非質料的な諸事物のうちに存在しうる多数性は、
このような多数性にかぎられる。

いま、或るひとびとは、非連続量quantitas discretaの一種としての多数性しか考えず、非連続量は然し神においてはありえないことが
明らかであるというところから、数詞は神のうちに何ものかを措定するものではなく、単に除去を行うものにすぎないとなしたのである。
他方、或るひとびとは、次のような説をとるにいたっているが、これもやはり、多数性を同じように考える見方の上に立つものであった。

すなわち彼らはいう。知scientiaが神において措定されるのは、知というものの本来的な特質raio propriaに従ってのことであって、
決して、知の類(いかなる質qualitasも神の場合には存在しないのだから)の特質に従うかぎりにおいてではないように、
ちょうとそれと同じく、数が神において措定されるのは、数の本来的な特質に従ってのことであって、決して数の類であるところの
量quantitasの特質に従うかぎりにおいてではない――。

我々は、然し、次のようにいうのである。数詞は、神の場合の術語づけに用いられるかぎりにおいては、量の一種としての数から
とられるのではなく、(実際、もしそうだとするならば、数は、広さ・長さ等々の諸々の物体的な固有性と同じく、
神については転喩的な仕方で語られるにすぎないこととなるであろう、)
却ってそれは、「類を超えたもの」transcendensであるかぎりにおける多数性からとられるのである。

ところで、このように解されたところの多数性が、それについて多が術語される或る多くのものに対するのは、ちょうど、有と置換される
ところの「一」が、或る一つの有に対するごとくである。ところで、このような意味での「一」は、神の一体性に関する論及に際してさきに
述べられたごとく、有の上に単なる分割の否定以外の何ものを附加するものでもない。

「一」unumとは、すなわち、「不可分の有」ens indivisumを表示するものである。だからして、「一」ということがいかなるものについて
語られる場合にあっても、そこでは、そのものの不可分ということが表示されているのであって、
例えば、人間について語られる「一」が、人間の分たれざる本性乃至は実体を表示するごとくである。
これと同じように、「多くの事物」ということが語られる場合、ここに解される多ということは、それらの事物を表示するものである
とともに、それに加えて、それらのそれぞれの不可分ということを表示している。これに反して、量の一種としての数は、
有に加えて或る附帯性を措定するものであり、数の根源principium numeriとしての「一」もまたこれに準ずる。

数詞は、だから、神の場合にあっては、「数詞がそれについて語られるところのもの」を表示し、それの上には、
上述のごとく、否定以外の何ものをも附加するわけではないのであって、このかぎりにおいては、
ロムバルドゥスが『命題論集』において主張しているところも真である。実際、「本質は一である」といわれる場合、
「一」は不可分の本質essentia indivisaを表示するのであるし、
また、
「ペルソナは一である」といわれる場合、それは、不可分のペルソナpersona indivisaを表示している。
また、「ペルソナは複数pluresである」といわれる場合、それらのペルソナが表示されるとともに、
さらに、それらの一つ一つについての不可分ということが表示されているのである。けだし、多数性の概念ratioのうちには、
「かずかずの一unitatesから成り立つものである」ことが属しているのだからである。

 
(一)については、それゆえ、こういわなくてはならぬ。
 (一)は「類を超えたもの」transcendentiaに属するゆえ、実体よりも、関係よりも、より一般的なものであり、
「多」ということも同様である。だからしてそれは、神における場合、それが結合されるところのものに適合するに従って、
実体をあらわすこともできるし、また関係をあらわすこともできる。それでいて然し、この「一」および「多」という名称によって、
その固有の表示に基づいて、或る種の分割の否定ということが本質とか関係とかの上に附加されるのである。
この点については上に述べられた。

 
(二)についてはこういわなくてはならぬ。
 被造物の場合に何ものかを措定するところの多数性は量の一種であり、これは神の述語づけに移されることはないのであって、
それの可能なのはただ類を超えた多数性multitudo transcendensのみである。
この多数性は、多数性がそれについて語られるところのものの上に、個々のものの不可分ということ以外の何ものをも附加しない。
神について語られるところの多数性は、このような多数性にほかならない。
 
 
(三) についてはこういわなくてはならぬ。
 「一」とは、多を排除するものではなく、分割を排除するものであり、分割は、一とか多とかに、概念上先立っている。
また、「多」ということは、一ということを排除するのではなく、却って、多を構成するところのそれぞれのものの分割ということを
排除するのである。こうしたことは、さきに神の一体性を論ずるにあたって、解明されたところである。

なお我々は、異論への反対として引用された典拠は、いずれも論旨を十分に証明するものでないことを知らなくてはならない。
けだし、もとより複数性によって神の孤独性が、また一ということによって神々の複数性が、神から排されるのではあるにしても、
だからといって然し、これらの名称によって、単にそれだけのことが表示されているにすぎない、ということにはならないのである。
例えば、白ということによって黒が排されるが、然し、だからといって、「白」albedoという名称によって表示されるところのものは、
単なる黒の排除ということのみに尽きるものではない――。



第四項 「ペルソナ」という名称は三つのペルソナに共通的なものでありうるか


 第四については次のように進められる。――「ペルソナ」という名称は三つのペルソナに共通的なものではありえない、
とも考えられる。けだし、(一)三つのペルソナに共通的なものは、ただ本質のみである。然るに、「ペルソナ」という名称は、
本質を直接にin recto表示するものではない。従って、それは三者に共通的なものであることはできない。

 (二)「共通的なもの」communeは「共通されえないもの」incommunicabileに対立する。然るに、さきに引用された
聖ヴィクトルのリカルドゥスの定義からも明らかなように、ペルソナの概念 ratioには、「共通されえないものであるということ」が
属している。従って、「ペルソナ」という名称は三者に共通的ではありえない。

 (三)もし三者に共通だとするならば、その共通性は、実在的にsecundum rem見出だされるものであるか、
それとも概念的にsecundum rationem見出だされるものであるかのいずれかである。然しそれは、実在的に見出だされるものではない。
というのは、もし然りとすれば、三つのペルソナは一つのペルソナであることになるだろうからである。そうかといってまた、
単に概念的に見出だされるだけのものでもない。けだし、もし然りとすれば、「ペルソナ」は普遍universaleであることになるであろうが、
神にあっては、然し、普遍とか個別とか、類とか種とかの存しないものなること、さきに示されたごとくだからである。
かくして、「ペルソナ」という名称は、三者に共通的ではありえない。

他面、その反対の論にいう。
アウグスティヌスが『三位一体論』第七巻において述べているところによれば、“その三者は何か”という問に対しては、
“三つのペルソナ”と答えられる。それは、すなわち、ペルソナであるということが三者に共通的なことがらであることによる。

 
以上に答えて、私はこういうべきだとする。
 “三つのペルソナ”と我々がいう場合、かかるいいかたそのものが、この「ペルソナ」という名称が三者に共通的なものであることを
示している。その点ちょうど、「三人の人間」という場合、これによって我々は、「人間」であるということが三者に共通的であることを
示すのと異なるところはない。

然しながら、「ペルソナ」の場合の共通性communitasということは、一つの本質が三者に共通であるといった意味での、
実在resの共通性でないことは明らかである。
というのは、もしそうだとするならば、ここでは三者の本質は一であるから、
そのようにまた三者のペルソナも一である、ということになるだろうからである。

 
ではそれはいかなる共通性であるか、それについて考究したひとびとは、いろいろな答えを与えている。
すなわち、或るひとびとの説によると、それは「否定の共通性」communitas negationisであるという。
その理由は、ペルソナの定義のうちには、「共通されえない」incommunicabileということがはいっているから、というにある。

また或るひとびとによると、それは「概念の共通性」communitas intentionisだというのであるが、その意味は、
ペルソナの定義のうちに「個」idividuumということが置かれているから、というにある。つまり、それはちょうど、
「種」speciesであるということが馬や牛に共通であるといわれるのと同様だ、と解するのである。
然しながら、
「ペルソナ」という名称は、「否定に対する名称」nomen negationisでもなければ、
「概念に対する名称」nomen intentionisでもなく、却って
「実在に対する名称」nomen reiであるということのゆえに、
これら両説は、ともに斥けられる。



 そこで我々は、次のようにいわなくてはならぬ。
すなわち、人間の場合についてみても「ペルソナ」という名称は、やはり、
概念の共通性communitas rationisによる共通的な名称であるが、ただしそれは、「類」とか「種」とのごときものではなく、
却って「不分明な個」individuum vagumのごときものである。けだし、「人間」乃至は「動物」といったような、類や種に対する名称は、
共通的本性naturae communesそのものを表示するために附与されているのであって
、決して共通的本性という概念intentiones――
すなわち「類」とか「種」とかの名称によって表示されるごとき――を表示するために附与されているわけではない。


だが、「或る人間」  aliquis homoというごとき場合の「不分明な個」は、共通的本性を表示しつつ、同時に、個体に適合する或る
一定の存在の仕方modus existendi、すなわち「他者から区別されて独立に自存する」という存在の仕方、を併せふくむものである。
はっきりと指定された単一者singulare designatumに対する名称にあっては、これに反して、
「そのものを他者から区別する或る限定されたもの」determinatum distinguensが表示されているのであって、
例えば「ソクラテス」という名称にあっては、この肉やこの骨が表示されているのであるが――。

我々の、然しながら、注意したいのは、こうした「或る人間」というのと、「ペルソナ」というのとの間における相違点である。
つまり、「或る人間」という名称は、本性または個体をば、その本性の側面から、個物に適合する存在の仕方を併せふくめつつ
表示するに対して、
「ペルソナ」という名称は、個体をば、本性の側面から表示するためではなく、却って、
「かくかくの本性において自存するところのもの」res subsistens in tali naturaを表示すべく附与されているのである。

ところで、ペルソナのそれぞれが、神の本性のうちに他のペルソナから区別されて自存している、ということは、神のいずれかの
ペルソナにも概念的に共通的なことがらである。「ペルソナ」という名称は、このような意味においては、
神の三つのペルソナに概念的にsecundum rationem共通している。

 
(一) については、それゆえ、こういわなくてはならぬ。
 こうした主張は、
実在の共通性communitas reiということを前提するものである。

 
(二) についてはこういわなくてはならぬ。
 もとより、ペルソナは共通されえないものであるが、然し、非共通的な仕方で存在するという
その存在の仕方modus existendiそれ自身は、いくつものものに共通でありうる。

 
(三) についてはこういわなくてはならぬ。
 ペルソナの共通性は概念のそれであって実在のそれではないが、だからといって、神のうちに普遍や特殊、
或いは類や種が存するということにはならない。
その理由は、一つには、人間の場合にあっても、ペルソナの共通性ということは、類や種の共通性ではないからであり、
また一つには、神の三つのペルソナはただ一つの存在 unum esseを有するものであるが、これに反して類とか種とか、
およそ普遍というものは、存在的にsecundum esse異なっているいくつものものについて述語されるのだからである。

(以上)