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<コラム14>
       アダム・スミス『諸国民の富』 解題 大内兵衛


     
7.  『諸国民の富』の流布とその影響

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8. 日本における『諸国民の富』


  『諸国民の富』の出版はロンドンでは好評で、あいついで改版が出されただけではなく、それは
直ちにドイツ、フランス、デンマルクで、つづいてアメリカ、イタリー、スイスでも翻訳が出た。こうして
18世紀末までに本書ははやくも文明諸国にゆきわたった。ことに本国イギリスにおいてはスミスには
夙くより多くの政策上の信者があり、二三の彼の税制改革は実現し、議政壇上で本書が権威として
引用されることさえあった。ことにかのピットは自らスミスの弟子と名乗ってその自由主義および
アイルランド自治政策のために奮闘した。そして次のようなエピソードをのこした。ロンドンのある宴席に、
ピットが出席していたところヘスミスがあとから入って来た。一同は起立したのでスミスが皆に着席を乞うた
とき、ピットは、「否とよ、われわれはみな貴下の弟子である」といったというのである。
 『諸国民の富』が出た年に、アメリカ独立の蜂火があがった。これはむろんスミスの言説のためでない
けれども、これが重商主義一般に対する世界的反撃であったことはいうまでもない。ついで起った
フランス革命もまたその原因の一部が自由主義であったといってよく、ナポレオンも士官学校でこの本を
よんだという話もある。フランスにおいてその正統の経済学説として、重農主義よりもスミスが正位に
ついたのはむしろ革命後の1820-30年代のことで、セーとシスモンディの祖述によるものであったであろう。
スミスのドイツへの導入は、フランスに比してより早かったのは事実であるが、それは主として外来の
新奇な学説、絶対主義に対立する自由の学説としてであった、そしてそういうものとしてこの国の
シュツルム・ウント・ドランク〔疾風怒濤〕を彩どったものにすぎなかった。その後ナポレオン反撃の時代を
通じては、この国には自己のカント学説とフランスの俗流経済学の混流が生じスミスもまたそのうちに
受容されたようである。そしてこの混流はやがてかのリスト一派の「国民経済学体系」の主流となり、それに
よって一掃される形となったのである。とはいえ、リスト彼自身はスミスを無視することはできなかったばかり
でなくスミスの世界的でしかも個人主義的な体系を前提してのみ、彼の「国民的体系」を立てたといって
よいであろう。これらの国々においてよりややおくれてイタリー、スペイン、オーストリアなどにおいても
スミスの経済学はそれぞれ国民的地位を得た。そこでたとえば、後進国ロシアでも19世紀早々に
『諸国民の富』の翻訳ができた、そしてプーシキンの『オネーギン』は彼の時代における新人を
「アダム・スミス」をよみふける造詣深い経済学者と形容したのである。


 さてスミスの祖国イギリスの自由主義化の方は、ピットが考えていたように、速くは進まなかった。
それは皮肉にもアメリカの独立、フランス革命の進行に応じて、イギリスは大陸封鎖をしなくては
ならなかったからであり、そういう軍事政権はトーリーに握られざるを得なかったからであり、そういう
軍事的必要より彼らは保護政策をとったからである。しかしこの間において一方イギリスの産業は急激に
近代化してまさに革命を経験し、それとともにおどろくべき貧困が大都市に蓄積し、高い穀物に対する
彼らのうらみはトーリー政治に対するうらみとなって爆発した。それがいわゆる穀物条例廃止運動―
自由主義であった。そしてこれを契機としてピールとグラッドストーンがイギリス政治の大転換を行い、
それによりイギリスは世界の工場となった。それによりこの国は自由主義の国といわれ、その看板に
スミスがかつぎあげられた。
 スミスの学説がこのように速くこのように圧倒的にイギリスを支配するようになったことについては、
彼の祖述者としてリカードウとマルサスがならんで出て来たという事情に負うところも大きかった。すなわち
リカードウはその『地代論』をもって、地代が分配上において不生産的な参与であるとし、マルサスはその
『人口論』をもって、貧困が社会に存するは自然で不可避なことであるとし、ともにスミスに対しては何ほどかの
修正を含みつつも彼を祖述し、三者合体していわゆる古典経済学を完成した。そしてこれがマンチェスター・
グッズとして七つの海をこえて現実にイギリスに「富」をもたらすに役立ったのである。しかし、
この古典学派そのものも永遠の真理たることができず、内在的理由によって、いろいろの点で批判を受ける
日が来た。それはすでにのべたようにこの原理にもとづいて蓄積した社会の貧困と集中した資本の暴威が
レーセ・フェール〔自由放任主義〕に突撃しはじめたからで、それは一方では社会主義他方では資本主義の
修正立法となったのである。たとえばかのジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』は後者、またかの
フリードリヒ・エングルスの『イギリス労働者階級の状態』は前者のスミスに対する全面的な批判の蜂火で
あった。そしてこの後者の外国版がかの「国民経済学体系」であった。このようにして19世紀の後半に
おいては世界の社会経済思想はスミス批判となるのであり、その資本集中論、大銀行主義論、
大植民主義論等は新時代のイデオロギーとして1875年にはスミスを圧する経済思想となるのである。
すなわち帝国主義の到来であり、彼らによってスミスは批判されるのである。彼らはみないう、スミスは
絶対に個人主義であって国民を知らないと、スミスは唯物的であって、精神的な富を知らないと、そして
スミスはコスモポリタンであって国民の国民性を知らないと。このようないわゆるブルジョア経済学はドイツ、
イタリー、日本の経済学、その「国民」経済学となり、それはやがてファシズム経済学となった。その後は
さらにまた変形して今日ケインズ以下の新しい経済学としてその生命をつづけている。ちかごろパイクという
人が『スミス入門』を書いてスミスは死んでしまったかと問い、それに答えてこういう風にいっている。
スミスが死んで200年、言論の上で、実践の上で、スミスはいろいろと否定されて来たのは事実である
けれども、企業は依然として自由でないか、財産の所有は依然として自由でないか、そしてわれわれは
依然としてマーケットの中で生活しているでないか。それを考えれば「自由の使徒」スミスはいまも生きて
おり、彼の経済学はいまもよんでおもしろく利用して有益である。スミスは死んではいないと。
『諸国民の富』は長い間にずいぶんひどく打ちのめされ、たたかれて、いまは相当にしぼんではいるが、
それはまだ死んではいないと。まさにその通りである。まことに資本主義そのものはまだ死滅しない。
『諸国民の富』はその精神として生きつづけている。

 まさにそうではあるが、われわれは、いまは別に、右の資本主義そのものは死滅すべきであり、死滅すると
いう経済学を、われわれの机上にもっている。いうまでもなくマルクスのそれである、とくにそのまとまった
体系の書『資本論』(1867-94年)である。この経済学は一方ではさきにのべたエンゲルスの
『イギリス労働者階級の状態』にのべられている事実とそれに関するエングルスの観察に、また他方では
『経済学批判』(1859年)の有名な序文の中で語られているような次第でマルクスによって形成された
「唯物史観」に立つ経済学である。この史観によれば、たとえばスミスの経済学にしても、彼がそこでどう
考えているかによってそれを判断すべきものではない、むしろそれを生んだ物質生活の中の諸矛盾から、
そこに存する生産諸力と生産関係のあいだの闘争のうちから説明されねばならぬのである。そう考えて、
マルクスは自らその説明に当たり、スミスの価値論も資本論もすでに過去の時代のそれでしかない。
それに対して現代の経済関係はすでにスミスを止揚しつつある。すなわちこの『資本論』においては
スミスの見ていた経済関係はいわゆる市民的生産関係で、それは、スミスの示したように個人主義の外観を
もっているが、よく見れば、そしてとくに「近代社会」においては、それは個人対個人の関係でなくなって、
資本と労働という特殊な関係に変っている。この関係は歴史的な特定の敵対関係で、それを規定する
ものは商品交換の法則としての価値法則、労資交換の法則としての剰余価値法則である。そうのべて彼は
これらの法則の相互性と敵対性とを解明し、すすんでその敵対のうちに、その生産力は、ついにはその
敵対関係を解消するに足る物質的な条件をもつくりだす。そのことを彼は立派に事実の論理によって証明
している。このようにしてマルクスもまたスミスと同じく商品の価値論とならんで資本蓄積論をもっているが、
その商品もその資本もスミスのそれと同質同量のものではなく、はるかに大量ではるかに自由なそれで
あった。たとえば労働力といってもマルクスのそれは完全に自己から解放されたプロレタリアの労働の
労働力であってそういうものとして完全に純粋に利潤のためにのみ使用されている。かくのごとくにして、
「資本の蓄積」もまたマルクスにおいてはスミスが夢想もしなかったような「歴史的傾向」をもっている。
すなわち多くの労働者を搾取する資本家の資本、その資本による労働者の収奪は、ここでは生産自体に
内在する法則-資本集中の法則である。ここでは一人の資本家が多くの資本家を滅ぼすのが法則であり、
それがまた資本の新しい活動形態をも発展させる。そういう発展、またその行きつく先は、楽天的で調和を
信じていたスミスの予定していたようなものでは決してない。それゆえにまた労働における協業形態、
科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、労働手段の共同使用、生産手段の合理的利用、各国民
の世界市場への進出、世界資本主義体制の組織化等々はスミスではまだそれほどの問題ではなかった
のに、マルクスはそれをくわしく説いたのである。そしてついに次のように断定さえしているのである。

  「この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本の、不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、
  堕落、搾取の度が増大するのであるが、資本主義的生産過程そのものの機構によって、訓練され、
  結集され、組織されて、しかもたえず膨脹してやまない労働者階級の、反抗も、また、増大する。
  資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と
  労働の社会化とは、それらの資本主義的外被と調和しえなくなる点に到達する。外被は爆破される。
  資本的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」 と (『資本論』第1巻第7編第24章第7節)。


 すでにのべたようにマルクスの『資本論』はその副題を「経済学批判」といっている。それは「近代社会」の
解剖書であると同時に伝来のあらゆる経済学の批判であるが、なかんずくその批判の対象となったものは
スミスであり『諸国民の富』である。そしてそういうことになったのは、この『諸国民の富』が世界史的に
成立しつつあったイギリス資本主義の誕生の産声であったという事実である。これに対していうならば、
この資本主義社会はどうあっても社会主義社会へ転化することはさけられない。そのことをもっぱら
近代社会の運動法則のうちから導き出したのが『資本論』である。そういう意味では『資本論』は近代社会の
弔鐘であるとともにかつての「資本主義の聖書」〔『諸国民の富』のこと〕の葬送曲である。パイクがいうように
資本の「市場」がいまなお大いに栄えており、『諸国民の富』はいよいよ巨大でまだ「死んではいない」。
しかし、『資本論』はそれは当分のことであるといい、『諸国民の富』がそのうちで生れ、生き、教えた社会
そのものの生命がつきる日がいつか必ず来ると予言しているのだ。そうなれば、この聖書が司っている
富の生命の論理もその生命もまた絶命する。そういう挑戦を、この本は『資本論』によって受けている。
 それにしても『諸国民の富』は、いまのところ、まだ、大いに働いている老雄である。よくそれを尊敬し正しく
それを理解するもののみがよくそれを立派に止揚するであろう。そういう意味であろうか、たとえば、
ソ連では、アニキンが新しく『アダム・スミス』を描いていると伝えられており、ドイツ民主共和国では
タールが『諸国民の富』の新訳(1963年以降)を出しつつ、それと並んで立派なスミス研究を出している
ようであり、またスミスの母校グラスゴウ大学は『諸国民の富』出版200年を記念してスミスの新しい全集を
出すそうだ。全部で6巻、1976年には『諸国民の富』はまた新装して世に出る。やがて死ぬべき定めでは
あろうがなかなか死なぬのがスミスである。


 
       
8. 日本における『諸国民の富』


 たとえば『論語』、たとえば『奥の細道』、その理解と鑑賞に日本人がどのくらいのエネルギーを費したか、
それは一方においては日本人の知情の問題であるとともに孔子なり芭蕉なりのわれわれ人間にとっての
価値にかかわる問題である。さきにスミス、ことに『諸国民の富』は世界のいかかる国においてよりも日本で
多くよまれ研究されているといったが、これはスミスにとっても日本にとってもそう軽く見ていい問題ではない。
日本には、「アダム・スミスの会」という特殊な研究会があり、その会は1965年に『アダム・スミスの味』という
本を出している。いまのべた意味での日本でのスミスの位置を理解するのに役にたつ本である。
そのうちに大河内一男・田添京二両氏の作になる

 「日本におけるアダムースミス研究の諸段階」という一論文がある。専ら西欧向けの文であるが、
われわれにとっても興味ある一文である。この文によれば、日本におけるスミス研究の第一段階は
幕末におけるオランダ、イギリス、アメリカの通俗本を通じての名前の輸入であった。つぎは彼の特殊な
政策祖述の時代であった。これにより、スミスは自由主義、自由貿易の元祖として定着した。やがて
福沢諭吉と田口卯吉とをパトロンとして石川暎作の『富国論』の翻訳がそれを完成した。スミス研究の
第三段階は明治末年から1923年まで。すなわち日本資本主義が早くも独占の段階に入った時代、また
経済学が日本において野を出でてアカデミズムの殿堂に入った時代である。このとき早く、スミスは単なる
自由主義者ではなくなった。「貧乏」の退治者または「厚生の哲学」者とよばれ、特殊な解釈をうけるように
なった。多くの研究と解釈が華のように開いたのが1923年、アダム・スミス生誕二百年祭を機とした。
東京では帝大、慶応、商大において、関西においては京大、神戸商大において記念の講演会を催し、
またこれらの大学の機関誌はスミスに関する論文をかかげてこれを祝った。日本の経済学界がこれほどの
待遇を与えた学者はほかには全くなかった。この期間において『諸国民の富』の三つの翻訳が出た。
竹内謙二訳『富国論』大正11-12年。気賀勘重訳『国富論』上巻、昭和2年、青野季吉訳『国富論』(上・下)
昭和3、4年。それぞれ多数の読者をもった。スミス研究の第四段階はこの1923年の後1940年終戦まで
であり、それは日本の恐慌と帝国主義戦争の時代である。この時代において日本の学界を特徴づけた
ものはマルクスの研究の勃興とその弾圧、それによる沈潜であったが、スミスの研究はそれに対立照応し
つつ、それのかげりであるかのごとくに、大いに栄えた。すなわちスミスに名を借りてのマルクス学説の
祖述もあった、スミスによるナチス経済学への反抗もあった、リストのスミス論の祖述による自己韜晦
〔とうかい〕もあった、スミスを通じてする重商主義についての反省もあった。そのうちにあって、たとえば
大道安次郎『スミス経済学の生成と発展』、高島善哉『経済社会学の根本問題―経済学者としてのスミスと
リスト』、大河内一男の『スミスとリスト』。この三著はこういう研究のうちで綜合的でそれぞれの面で深い
理解の上に立った優れたものであったが、そのいずれもスミスを比較西洋史学と特殊に時代的な
自由主義との結節の上に、著者の座標を定めてスミスを見ている。いまやスミスは単に自由主義の教条の
祖でなく、イギリス国の政論家でもなく、世界史上の経済的政治的大思想家である。この戦時中わたくしも
本書を『国富論』として翻訳して岩波文庫のうちに収めつつ、これが世界の社会科学のほんとうの古典で
あることを味わった。


 戦後の日本は、思想の自由を恢復し、ひろく近代思想の研究にそのエネルギーをそそいだが、
なかんずく脚光をあびたものはマルクスであった。たとえば1967年は『資本論』100年に当ったが、
雑誌『唯物史観』その他多くの社会主義誌がそれを祝賀した状況は、1923年のスミス生誕200年の祝賀を
はるかにこしてさかんなものであった。またたとえば、『資本論』の翻訳は戦後数種にのぼりいずれも文庫本、
その他の形でおそらくは合計数十万部にのぼっていたが、この年において、改訳『資本論』が、文庫本の
ほかにそれぞれ豪華な机上版として出版され、その各々が数万部というようなおどろくべき発行部数を
示した。恐らくは資本主義国で未曾有の盛事であったろう。これはいったいどういうことであろうか。すでに
スミス研究についても見て来たように、これは日本の特殊な社会事情、すなわち日本においては
古典学派をもふくめて一般に経済学がその基本から包括的に研究されるようになったということであり、
その典拠として彼らがいまや断然マルクス経済学を選んだということであろう。そしてこの間においても
『諸国民の富』もまた大いに尊重されている。しかし、この方はむしろマルクスの『剰余価値学説史』のうちに
出てくるスミス、もしくは『資本論』で批判されている自由主義というような意味で、マルクスの批判の対象と
してすでに歴史的な価値の方が注目されていると思われるふしが濃い。そういう意味で日本では思想の
歴史は後ろから前へときかのぼって探究されるのである。

 まことに世界の歴史においては「諸国民」はいつまでも同じ序列にならんではいない。あとの雁がさきに
なることもある。日本のマルクス研究がイギリスのそれに対してさきの雁であるならば、日本では
『諸国民の富』はたとえばイギリスでより早くその存在の意義を失うことになるかもしれない。そういうことが
あるにしても、ないにしても、それは、いま、われわれの問題ではない。われわれにとっては、さしあたりは
『資本論』がいかに『諸国民の富』を止揚しているか、それを学ぶことが問題であろう。というのは、すでに
成長しつくした「諸国民の富」としての「資本」、それも現代世界屈指の高度大資本にまで成長した日本の
「国民の富」は、その「資本」性を止揚する力として「労働者の団結」を、その構成要素のうちにもっている
からである。そしてこのような現実そのものの「性質と原因」とは『諸国民の富』よりも『資本論』の方により
詳細により的確に論証されているからである。そこで私は読者諸君にいう、『資本論』とならべてよまれた
ならば、『諸国民の富』が世界の資本主義諸国を作る上にどういう力であったか、それが今日はどういう
ふうに変ったか、それが将来はどうなるであろうか、そういうことが、『諸国民の富』だけを勉強するよりも
より明らかとなるであろうと。
 
要するに約200年前アダム・スミスによって建てられた経済学『諸国民の富』は世界に資本主義の
時代を開き技術を自由競争を通じて人類のために解放したモニュメントであった。それに対して、
約100年前のカール・マルクスの経済学『資本論』は、世界を資本の手から奪って社会を通じて技術を
一段ひろく人類のために解放しようというモニュメントである。後者が登高の過程で一段と高いところに
立っているのは人類がそれだけ高くのぼったからであるが、われわれは前者の段階をふまないで
マルクスの指すところについては行けないのである。

 最後に、この訳書の改訂については本書の凡例にかかげた諸訳書を参照して教えられるところが
多かった。また翻訳の進行については、担当者松川君は終始一橋大学経済研究所の同僚の鞭撻をうけた。
脚注外国語文献の校正などについては中村恒矩君の不断の協力を得た。
以上それぞれに対して心からお礼を申しあげます。
    1969年3月3日
                                           大内兵衛


   
 先頭: 『諸国民の富』 1 はしがき