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 デカルト著 『哲学の原理』

  桝田啓三郎訳 解説 澤瀉久敬  河出書房新社 1974年発行



 
資本論ワールド編集部 まえがき

 河出書房新社・世界の大思想の「デカルト」(知能指導の規則、方法序説、省察、哲学の原理、情念論)には、澤瀉久敬(おもだか ひさゆき1904-1995)による解説(1965年)があります。そのうち『哲学の原理』の解説箇所を紹介し、デカルト革命の要点として、「編集部まえがき」に代えます。


 
解説 澤瀉久敬
 「この『哲学の原理』は4部からなり、第1部では「人間的認識の原理について」述べられ、第2部では「物質的事物の原理について」、第3部「目に見える世界について」、第4部「地球について」論ぜられているのであって、彼自身のプランとしては更に「動物および植物の本性について」および「人間の本性について」の2部が含まれる予定であったが、その2部はそれらの問題を論ずるための実証的材料がなお不足していることから、それの執筆を中止したのである。

 ところで、この『哲学の原理』の構成を見ることによって、われわれはデカルトにとって哲学とはいかなるものであるかを推測することができる。執筆されなかった二つの部のことは考慮の外におくとしても、『哲学の原理』4部のうち、第1部だけが認識論および形而上学ないしは存在論についての論考であり、残りの3部は自然学に関するものである。しかも、全分からいえば、第1部は全巻の8分の1の頁を占めるにすぎない。もっともこの第1部は『方法序説』や『省察』で論ぜられた彼の哲学的考察が76節にわけて別の叙述形式で展開されているのであって、今日、大学その他の哲学演習において第1部だけが使用されるのも理由のあることである。しかしながら、デカルト自身の見解からすれば、この第1部は彼の哲学全体の基礎論にすぎないのである。

 彼が哲学全体を一本の樹になぞらえ、形而上学はその根にすぎないとしたことは周知のことと思うが、第1部はまさにその根の部分であり、彼にとって哲学とはその上に築きあげられた自然学に他ならないのである。彼が「一国はその国の人々がよりよく哲学すればするほど、その国はより文明国である」といっているのは、もちろんいわゆる哲学的思索を無視するのではないが、ただ形而上学にのみ留まらず自然学の進歩する国こそ文明国であることを説くものと考えるべきであろう。もっとも、科学偏重の感じさえある現在の日本の状況からいえば、自然学の底にはまず形而上学が必要であることをデカルトが説いていることをはっきり知らなければならないのである。ともかく、デカルトはどこまでも確固たる基礎の上に自然学を建設することこそ哲学者の真の使命であると考えているのである。

 なお、『哲学の原理』はラテン語で書かれたが、それは1647年ピコ師によって仏訳された。そうしてその仏訳にデカルトは非常に満足するが、この仏訳出版に際してデカルトはフランス語の序文を加えた。この序文で彼は彼自身の過去の諸著作についてだけではなく、彼の哲学の全体を述べている。そうして一層大切なことは、この序文においては彼自身の哲学についてだけではなく、一般に哲学とは何であるかを簡明に、しかも極めて独創的な見地において論じているのであって、デカルト哲学研究にとって、この『哲学の原理』仏文序文は極めて重要な文献であることをここに一言しておきここで話を少し戻したい。

  ・・・以下、省略・・・


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 デカルト著『哲学の原理』
  
  桝田啓三郎訳 河出書房新社 1974年発行
  世界の大思想21 デカルト

 (目次)
  著者の手紙
  エリザベト公女への献辞
  第1部 人間的認識の原理について
  第2部 物質的事物の原理について
  第3部 目に見える世界について
  第4部 地球について
・・・・  ・・・・  ・・・・


 
 『哲学の原理』


 
 第1部 人間的認識の原理について

59
  普遍者はどのようにして生じるか。また、ふつう知られている5つの普遍者、すなわち類、種、種差、特有性、偶有性とは何か
 この普遍者は、私たちが一つの同じ観念を用いて、お互いに類似しているあらゆる個物を思惟しようとするところから生じるものにほかならない。だからまた私たちは、この観念によって表現されるすべてのものに同じ一つの名を与えるのである。この名が普遍者である。たとえば、私たちが2つの石を見て、その石の本性には心をとめずにただそれが2つあることだけに注意するとき、私たちは2個と呼ばれる数の観念を形づくる、それから後で、2羽の鳥を見たり2本の木を見たりしてやはりそれらの本性を考えずにただ2つであるということだけを考慮するならば、私たちはふたたび以前と同じ観念をうる、したがって、この観念は普遍者なのであって、そこで私たちはこの数を2という同一の普遍的な名で呼ぶにいたるのである。同じように、3つの線で囲まれた図形を考察するときには、私たちはそれについて或る観念を形成し、これを三角形の観念と呼ぶ。そしてその後で、それを普遍者として用いて、3つの線で囲まれた他のすべての図形を私たちの精神に示すのである。また、三角形のなかには1つの直角をもつものともたないものとがあることに気がつくと、私たちはここに直角三角形という普遍的な観念を形成する。これは、先のよりいっそう一般的な観念との関係〔
〕においてと呼ばれる。そして、その角が直角であるということは
普遍的な
種差であって、これによってすべての直角三角形が他の三角形から区別されるのである。そして、その底辺の2乗が他の2辺の2乗の和に等しいということは、すべての直角三角形にあてはまり、しかも直角三角形だけにあてはまる特有性である。終りに、これらの3つの角のうち或るものは動き他のものは動かないと想定すれば、これはそれらの三角形の普遍的な偶有性だということになろう。このようにして、ふつうつぎの5つの普遍者が数えられる、すなわち類、種、種差、特有性、偶有性である。



 
第2部 物質的事物の原理について


4
  物体の本性は、重さや堅さや色などにあるのではなく、ただ延長にあるそのようにしてみると、物質あるいは広い意味で物体というものの本性は、堅さや重さや色をもつもの、あるいはその他なんらかの仕方で感覚を刺激するものであるということにあるのではなく、ただ長さと幅と深さとに延長しているものであるというところにある、ということがわかる。すなわち、堅さというものは、私たちが手で触る時その手の運動に堅い物体の部分が抵抗するということ以外には、私たちに感じられない。だから、私たちの手が何かに向かって動いて行っても、その前進につれて、そこにあるすべての物体が、手の近づくのと同じ速度で後退して行ったとしたら、私たちは堅さというものを感覚することはないであろう。しかし、そのように後退して行く物体が、だからといって物体の本性を失ってしまうとは、どうしても考えられない。してみると、物体の本性は堅さには存しないのである。同じような理由で、重さも色も、そのほか物体的物質のうちに感覚される同じようなあらゆる性質も、それを物体から除いても、物体の本性は完全に存続しうることがわかる。したがって、物体の本性は、そういう性質のどれにも依存するものでないことになる。



  
第3部 目に見える世界について

4
 現象または経験について、それらは哲学にどう役立つか。
 しかし、私たちのすでに発見した諸原理は、そのおよぶ幅がたいへん広く、かつ実り豊かなものなので、それらの原理から出てくる結果は、私たちがこの目に見える世界で見るものよりもはるかに多く、そればかりか、私たちの精神が思惟によっていつか究めうるであろうものよりもはるかに多くさえある。そこで、私たちはここで今、重要な自然現象(これの原因がここで探求されねばならないのであるが)を簡単に叙述することにしよう。むろんそれは、私たちが何かを論証するためにそれらの現象をいわば根拠として使おうためではない、なぜかといって、
私たちは結果の説明を原因から導き出そうと欲しているのであって、それとは逆に、原因の説明を結果から導き出そう欲しているのではないからである。そうではなくてむしろ、ただ、同一の原因から生じうるものと私たちの判断する無数の結果のなかで、他の結果よりも一方の結果を考察するように私たちの精神をふり向けようためにほかならないのである。



  
第4部 地球について


201
  感覚されない物体の微小部分がある

  
個々の物体のうちには、感覚では知覚されないような微小部分がたくさんあると私は考えるが、これは、自分自身の感覚を認識の尺度とする人々のおそらく賛同しないところであろう。けれども、どんな感覚によっても私たちの認めえないほど小さい物体がたくさんあることを、誰が疑いえようか。
 ゆっくりと成長してゆくものに瞬間ごとに何がつけ加えられつりあるか、また<同じように>徐々に縮小してゆくものから何が取り去られつつあるかを考えてみただけでも、疑いようはあるまい。
木は日ごとに成長する、その木は、何か他の物体がそれに加えられると考えるのでなければ、以前よりも大きくなると考えられることはできない。しかし、この成長してゆく木に一日のうちにつけ加わるその小物体がどんなものか、感覚で認めた者があるだろうか。少なくとも、<哲学者のなかで>量というものが無限に分割されるものだと認める人たちなら、物体の部分が<分割されると>どんな感覚でも知覚されないほど小さくされうるものだということを認容せざるをえないであろう。私たちが非常に微細な物体を感覚しえないからといって、少しも驚くにはあたらないのである。感覚を生ずるためには対象によって動かされねばならない私たちの神経自体が、ごく微小なものではなく、目の細かい絹のように、いっそう小さい多くの微小部分で複合されたものである。それだから、私たちの神経は極微な物体によって動かされることができないのである。小さい物体に起りはするがそれが小さいばっかりに感覚できないというようなものについて説明するのには、大きい物体に起こることで私たちが感覚で知覚できるようなことがらを模範にして判断する方が、何かしら新しい、感覚されるものとなんらの類似性をももたないようなものを考え出したりするよりも、はるかにまさっていることは、およそ理性を用いる人なら、否定されるようなことはあるまい、と私は考える。

202  デモクリトスの哲学は、私たちの哲学とも、また一般の哲学とも違っている

 デモクリトスも、さまざまな形と大きさと運動をもつ或る微小物体を想像し、それが積み重なったりお互いに衝突したりするところから、あらゆる感覚的な物体ができてくる、とした。けれども、彼の哲学はたいていすべての人々によって公然と拒否されている。しかしながら、彼の哲学では、感覚できないほど微小でさまざまな大きさと形と運動とをもっているといわれる或る物体が考えられているといって、彼の哲学を斥けた人はかつてない。〔それは当然で〕上に明らかにされたように、そういうものが実際にたくさんあることは、だれも疑うことはできないからである。むしろ彼の哲学が拒否されたのは、まず
第一には、彼がその微小物体を不可分だと想定したからであって、この点では私も彼の哲学を排斥せざるをえない。第二には、それらの微小物体のまわりに空虚があると想像したからであるが、そういう空虚がありえないことは私の論証したところである。第三には、その微小物体に重さを認容したことであるが、私はいかなる物体もそれ自身で重さをもつとは認めず、ただ物体が他の諸物体の位置と運動とに依存しそれに関係させられる限りにおいてのみ、重さが認められるのだと考える。そして最後に、<彼の哲学が拒否されたのは、>どうして個々の事物がただ微小物体の集合だけから生ずるのかを、彼が明らかにしなかったからであり、あるいは、若干の場合にはそれを説明しているけれども、その理由のすべてが必ずしも互いに一致していないからである。少なくとも、遺し伝えられた彼の見解から判断できる限りでは、そうである。ところで、私が哲学についてこれまで書いてきたことどもが充分によく互いに一致しているかどうかについては、私はこれを他の人々の判断に委ねよう。



203
  感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか。


1.
 私は、感覚できないものだといっておきながら、まるで私が見でもしたかのように、物体の感覚できない微小部分に一定の形や大きさや運動があるとするのだから、そこでおそらく、いったいどこから私がそんなものがあることを知るのか、とたずねる人があることだろう。

2. これにたいして私は答えよう。私はまず第一に、私たちの心に生まれながらその知識の与えられている最も単純な、そして最もよく知られている諸原理から、ただ微小であるというだけのために感覚できない諸物体の大きさと形と位置とにどういう主な差異がありうるかを、そしてそれらの〔感覚できない微小〕物体のさまざまな集合からどういう感覚できる結果が生ずるかを、考察したのである。
次いで、私は、感覚できる諸物体のうちに、或る同じような結果〔が見られること〕を発見した時、その〔感覚できる〕諸物体がそういう〔感覚できない諸微小〕物体の同じような集合から生じたものだと見なした、ことに、それ〔らの感覚できる物体〕を説明すべき方法を私はそのほかに考え出すことができないと思われたからである。

3. このこと〔の発見〕に少なからず役立ってくれたのは、技術によって作られたものであった。なぜかといえば、技術によって作られたものと自然的物体とのあいだに認められる相違は、ただ、技術によって作られたものの結果はたいてい、感覚で容易に知覚できるだけの大きさの道具を用いて作り上げられるもので、人間によって作られることができるためには、この〔感覚できるという〕ことがどうしても必要なわけなのであるが、これに反して自然的な結果というものは、ほとんどいつでも、どんな感覚でも知覚できないほど微小な或る器官に依存している、ということだけだからである。ところが、もちろん力学でおこなわれる規則はすべて自然学にもあてはまる、力学は自然学の一部ないし一種だからである。

4. あれこれといくつかの歯車を組み合わせてできている時計が時を示すのは、一定の種子から発生した木が一定の果実を結ぶのと同じように、自然なことなのである。それだから、自動機械の観察になれた人は、何かの機械の使い方を知っていてその機械の一部分を見ると、この部分から推して、自分の見ない他の諸部分がどんなふうに作られているかを知ることができるように、私もまた、自然的な事物の感覚できる結果や部分から、それらの事物の原因と感覚できない微小部分とがどんなものであるかを、探求しようと試みたのである。


204
  感覚できない事物については、たとえそうではないかも知れないとしても、いかにありうるかを私が説明できれば足りる


  ・・・「私たちの感覚が知覚しない事物に関しては、それがいかにありうるかということを説明すれば足りる。アリストテレスの努力した仕事はすべてそれである。」・・・

1. すべての自然的な事物がどのようにして造られることができたかが、おそらくこのように理解されるとしても、それだけからといって自然物が実際にそのように造られたと結論するわけにはゆかない。なぜかというに、同じ〔時計〕職人によって2つの時計が作られ、その2つの時計が同じように正確に時を指し示し、外から見たのでは全く同じであるのに、内部は、たいへん違った歯車の組み立て方でできているということがありうるわけだが、それと同じように、事物の最高の製作者〔である神〕であれば、私たちの見る一切のものを、種々さまざまに創りたまうこともできたであろうことは疑いないことである。

2. 確かにそのとおりだと、私は喜んでこの意見に賛成する、そして、私の書いたものが自然のあらゆる現象にぴったりと一致するようなものであってくれさえすれば、私の果たすべき課題が充分にかなえられたものと私は信ずるものである。そしてこれもまた人生に充分役立つであろう、というのは、医学にしても力学にしても、<一般に>自然学の助けをかりていとなまれることのできるその他のあらゆる学芸にしても、すべてただ感覚的なものだけを、したがってまた自然現象に数えられるものだけを、その目的としているのだからである。だからアリストテレスはみずから、彼がそれ以上のことを成しとげたとか、成しとげようと思ったとかと信ずる人のないように、彼の『気象学』第1巻第7章の冒頭(*編集部注)において、感覚に現われないものについては、私が説明するようなふうにして作られうるということが明らかになりさえすれば、私は充分な理由と論証を供しえたものと考える、とはっきりといい遣しているのである。


(*編集部注)
アリストテレス自然学方法論の時代的特徴がよく表れています。また、デカルトの自動機械の観察や機械論的自然観の概要が参照できます。以下(1)、(2)を参照してください。

(1) アリストテレス『気象学』 第1巻第7章の冒頭
 「しかし、感覚にとって明らかでないことがらについてわれわれが或る結論をみちびいたとしても、それが不可能なものでなかったなら、それは推論によってじゅうぶん証明されたものとみなされるのである。そこでひとは、現在明らかになったところから出発していけば、これらの問題にかんするつぎの説明がきわめて正しいことを認めうるだろう。」

(2)前記
デカルト 「203 感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか」
4. あれこれといくつかの歯車を組み合わせてできている時計が時を示すのは、一定の種子から発生した木が一定の果実を結ぶのと同じように、自然なことなのである。それだから、自動機械の観察になれた人は、何かの機械の使い方を知っていてその機械の一部分を見ると、この部分から推して、自分の見ない他の諸部分がどんなふうに作られているかを知ることができるように、私もまた、自然的な事物の感覚できる結果や部分から、それらの事物の原因と感覚できない微小部分とがどんなものであるかを、探求しようと試みたのである。」「「私たちの感覚が知覚しない事物に関しては、それがいかにありうるかということを説明すれば足りる。アリストテレスの努力した仕事はすべてそれである。」


・・・以上で、『哲学の原理』抄録要約、終わり・・・