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 ***  *** 編集作業中です ***2020.03.25

 『資本論』経済学批判 序文  『資本論』経済学批判 目次

 『資本論』経済学批判 第1章 第1節   ヘーゲル『小論理学』

 Das Kapital  Capital

 『資本論』経済学批判-

  
 ヘーゲルに特有の表現法
  
② 古典派経済学の批判的継承-第1章第1節 
  ③ 交換価値が表現される方程式の分析
  
 商品の価値形態は、経済の細胞形態


『資本論』には副題に「経済学批判 Kritik der politischen Ökonomie」とあります。



Das Kapital.
Kritik der politischen Ökonomie

Von

Karl Marx


Erster Band.

Buch Ⅰ: Der Produktionsprozeß des Kapitals

1867
ーーー

『資本論』
経済学批判
カール・マルクス
第1部

第1巻 資本の生産過程
   1867〔初版〕



 Ⅰ. 『資本論』の副題「経済学批判」について、マルクスは『資本論』初版(1867年)で次のように注意書きをしています。

 「この著作は、1859年に公けにした私の著書『経済学批判』の続きであって、私はここにその第1巻を読者に提供する。・・右の旧著の内容は、この第1巻の第1章に要約されている。旧著の読者は、第1章の注で、これらの理論の歴史にたいする新たな資料が提供されているのをみられるであろう。・・・」(岩波文庫p.11)

 旧著の『経済学批判』には、「A 商品分析の歴史、B 貨幣の尺度単位に関する諸学説」が編集されています。『資本論』では、「A」、「B」ともに本文の「注」の形で引き継がれ、“経済学批判”の文脈が継続されています。
 
 今回の「文献資料」ー『資本論』経済学批判ー は、旧著『経済学批判』の趣旨が生かされるように構成しています。以下3点に重点を置いて、マルクスの指示に従っています。

(岩波・向坂訳の翻訳法は、ヘーゲルに特有の表現法に対して、❝禍根を残す❞ 箇所が多々あります。)

(1) 「私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した〔Ich bekannte mich daher offen als Schüler jenes großen Denkers :公言した〕。そして価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法取ってみたりした〔und kokettierte sogar hier:しかもそのうえ、媚びを売って〕。

〔英語訳は:Ich bekannte mich daher offen als Schüler jenes großen Denkers und kokettierte sogar hier → I therefore openly avowed myself the pupil of that mighty thinker, ・・・ coquetted with the modes of expression peculiar to him.〕

 弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。」(第2版の後書・岩波文庫p.32)

(2)「 第1章第1節で、一切の交換価値が表現される方程式の分析 〔 Analyse der Gleichungen〕 を通じて価値を導き出すことは、科学的にずっと厳密にやっておいた 〔wissenschaftlich strenger durchgeführt〕。同じく、第1版で示唆を与えただけにとどまっていた価値実体と社会的に必要なる労働時間による価値の大きさの規定との間の関連は、はっきりと強調しておいた。第1章第3節(価値形態)は全部書き改めた。・・・― 第1章の最期の節「商品の物神的性格云々」大部分書き改めた。第3章第1節(価値の尺度)には綿密な訂正を加えた。」(第2版の後書・岩波文庫p.19)

(3)「私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めての諸章を読むのはかなりむずかしいのです。」(フランス語版序文・岩波文庫p.35)

 「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。」(第2版の後書・岩波文庫p.12)


 Ⅱ.『資本論』経済学批判 本文の注解・構成について

 上記3点をもとに、本文のキーワードに注解を行っています。注解には、下線を引いて参照ページで詳しい説明と、参考文献を掲示しています。
 必要に応じて、「用語資料」を散策してください。

  ■資本論ワールドによる編集注意事項

(1)マルクスによる本文「注」は「原注」と表記。編集部による「注」は「*1」のように「*」の後に数字を記入し、リンクを貼った
 また本文中のドイツ語の挿入は、岩波版向坂訳ではドイツ語の同じ単語であっても、意訳があり、元のドイツ語を表示した。さらに、ヘーゲル「小論理学」との関連を表示して、ヘーゲルに特有の表現法の手引きとなるように工夫をおこなった。

(例)向坂訳「
Gleichheit : 同一性 (岩波文庫p.97)、等一性:(岩波文庫p.109)」
 
ヘーゲル小論理学 §117 「相等性Gleichheit
(他の箇所では、「社会的
等一性:gesellschaftlichen Einheit 」(岩波文庫p.89)などとある。)

(2)『資本論』の理解を正確に分かりやすくなると思われる場合、他の翻訳者の参照を行った。特に、
*第6篇労働賃金では、中山元訳(日経BP社)が役立つ。両者の比較検討によって、『資本論』理解が深まり、キーワードの手助けとなる。 

(3)ヘーゲルに特有の表現法は、第1章第1節から始まり、古典派経済学と西洋科学史の伝統を踏襲している。したがって、第1章と第1節に編集部注が集中している。

 
★参考例 1

 1-1 
資本主義的生産様式〔 kapitalistische Produktionsweise:資本制生産の方法〕の支配的である*1 社会の富は、「*2 巨大なる商品集積〔”ungeheure Warensammlung":そら恐ろしい商品の集まり・集合 〕(原注1)」として現われ、個々の商品はこの富の*3 成素形態 〔Elementarform:元素形式〕 として*4 現われる erscheint。

 
社会の富:古典派経済学との批判的連続性を意図している。
 
巨大なる商品集積 : 「商品集積 sammlung」は、商品の集まり・集合を表示し、ヘーゲル『精神現象学』の「物が諸物質の集合となる」事態へ、展開してゆく。
 
成素形態 Elementarform は、古代ギリシャ時代・アリストテレス『形而上学』原理としての実体(エレメント)とヘーゲル論理学の「Form(形式)」を合成して、『資本論』のキーワードを創造している。 
 最後に、
「個々の商品は・・・現れる」論理構成を形成し、ヘーゲル論理学の「現象 Erscheinung」論で締めくくっている。

 第1章第1節・編集部注一覧 はこちら
 『資本論』本文の下線部をクリックすると、用語解説と辞書に移行する。

 ★参考例 2 

 第1章第3節 価値形態または交換価値
 「A 単純な,個別的な,または偶然的な価値形態」のドイツ語原本は、「ヘーゲル論理学」の用法をそのまま踏襲しています。この説明は、全くなされていません。読者には「ヘーゲルに特有の表現法」が翻訳されていない事態なのです。
 「
A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform」
ヘーゲル「小論理学」連携解説はこちら。なお、2020.05月号に特集予定です。


 ■ 古典派経済学-ペティ価値論

 ドイツ語原本 ■中山元訳 第6篇労働賃金   ■ヘーゲル『小論理学』


 ■『資本論』経済学批判 ー検索利用向き・参照中心の文献資料
   資本論ワールド編集部による探究と検索

 『資本論』経済学批判 序文

 
  1.  第1版の序文 1867年

「この著作は、1859年に公けにした私の著書『経済学批判』の続きであって、私はここにその第1巻を読者に提供する。・・右の旧著の内容は、この第1巻の第1章に要約されている。旧著の読者は、第1篇の注で、これらの理論の歴史にたいする新たな資料が提供されているのをみられるであろう。

 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第1章、とくに商品の分析をふくんでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。 そこで価値実体と価値の大きさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容(すがた)を貨幣形態に見せている価値形態は、きわめて内容にとぼしく、単純である。ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのにお、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか?でき上がった生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力 Abstraktionskraft なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。」

 〔抽象力 Abstraktionskraft
 
 経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力 Abstraktionskraft なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。

 
① 抽象 Abstraktion「小論理学」§115

 「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性( Identität mit sich )である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、
抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。

 
② 力 Kraft (c相関Verhältnis)§135-137.

 「§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。」 


「ここでは、個人は、経済的範疇の人格化〔Personifikation ökonomischer Kategorien〕であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史(的)過程〔naturgeschichtlishen Prozeß〕として理解しようとするものであって、・・・それは、支配階級のうちにおいてすら、現在の社会が硬い結晶体ではなく変化しうるもので、不断の変転の過程をたどっている有機体であるということが、ほのかに感じられはじめているのを示すものである。」    1867年7月25日カール・マルクス

     ****  ****

 2. 第2版の後書 1873年

「私は第1版の読者にたいして、まず第2版中でなされた変更について報告しておこう。目立った変更は、各篇をずっと見渡し易いように分けたことである。追記した注は、みな第2版中と明記しておいた。本文そのものについては、もっとも重要なのは次のようことである。

 第1章第1節で、一切の交換価値が表現される方程式の分析〔Analyse der Gleichungen〕を通じて価値を導き出すことは、科学的にずっと厳密にやっておいた〔wissenschaftlich strenger durchgeführt〕。同じく、第1版で示唆を与えただけにとどまっていた価値実体と社会的に必要なる労働時間による価値の大きさの規定との間の関連は、はっきりと強調しておいた。第1章第3節(価値形態)は全部書き改めた。・・・― 第1章の最期の節「商品の物神的性格云々」大部分書き改めた。第3章第1節(価値の尺度)には綿密な訂正を加えた。」

「かの筆者(I・I・カウフマン)は私の方法の唯物論的基礎を論じた『経済学批判』の序文から引用をなしたあとで、こう続けている。
 「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。すなわち彼が研究に 従事している諸現象の法則を発見すること、これである。そして彼には、これらの現象が完成した形態をとり、与えられた期間に観察されるような一つの関連に立っているかぎり、これを支配する法則が重要であるばかりでない。彼にとっては、なおとくに、その変化、その発展の法則、すなわち一つの形態から他のそれへの移行、関連の一定の秩序から他のそれへの移行ということが、重要なのである。ひとたび彼がこの法則を発見したとなると、彼は詳細に諸結果を研究する。法則はこの結果となって、社会生活の中に現れるのである。・・・マルクスは、社会の運動を自然史(的)過程として考察する。・・・あらゆる歴史時代はその固有の法則をもっている。・・・人の世は、与えられた発展期間を生き終わり、ある与えられた段階から他のそれに移行すると、また他の諸法則によって支配されはじめる。要するに、経済生活は、われわれにとって、生物学の他の諸領域における発展史に似た現象を示す。・・・
現象をより深く分析してみると、社会的有機体〔soziale Organismen〕は、お互いに、植物有機体や動物有機体〔Pflanzen-und Tierorganismen〕のちがいと同様に、根本的にちがっているということが証明された。・・・
否、一つの同じ現象が、全くちがった諸法則の支配に服するのであって、それは、かの有機体の全構造がちがっている結果であり、またその個々の器官のちがい、さらにそれらの諸器官の機能する諸条件がちがっている結果なのである、等々。・・・

 このような探究の科学的価値は、ある与えられた社会的有機体〔gesellschaftlichen Organismus〕の成立・存続・発展・死滅と、この有機体の他のより高いそれによる代替等のことを規制する特別の法則が明瞭にされるところにある。そして事実、マルクスのこの書はこのような価値をもっている。」

 私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。・・・しかし、ちょうど私が『資本論』第1巻の述作をつづけていた時には、いま教養あるドイツで大言壮語しているあの厭わしい不遜な凡庸の亜流が、誇り顔に、レッシングの時代に勇ましいモーゼス・メンデルスゾーンがかのスピノザを取り扱ったようにすなわち、「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。したがって私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した。

 そして価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。・・・」           1873年1月24日カール・マルクス


 3. フランス語版にたいする序文と後書  1872年


「すなわち、私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めての諸章を読むのはかなりむずかしいのです。それでこういうおそれがありましょう。すなわち、フランスの読者は、結末を知るのにいつも気をあせり、一般原則と自分たちの現に心を奪われている問題との関連を識るに急であるために、つづけて読むのを厭うようになるであろうということです。というのは、彼らにすぐ最初のところで一切がわかるというわけではないのですから。・・・
真理を求めている読者に心の準備をさせておくほかありません。学問には坦々たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労こんぱいをいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。」   
1872年3月18日カール・マルクス

 エンゲルス 『経済学批判』について 1859年

 〔 科学はどのように取り扱われるべきか 〕

 〔■ヘーゲルからマルクスへ〕

 「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明は姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。・・・

 この方法ではわれわれは、歴史的に、事実上われわれのまえにある最初の、そしてもっとも単純な関係から、したがっていまのばあいには、われわれのみいだす最初の経済的関係から出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということが含まれている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう。だがわれわれがここで考察するのは、われわれの頭のなかだけで生じる抽象的な思考過程ではなくて、いつのときにか実際に生じた、あるいはいまなお生じつつある現実の事象であるから、これらの矛盾もまた実際に発展して、おそらくその解決を見出しているであろう。われわれはこの解決のしかたを追求しよう。そうすれば、それが一つのあたらしい関係の相対立する二つの側面を、いまやわれわれが説明しなければならないことなどが、わかるであろう。

 〔■人と人との関係が物と物の関係として現われる〕

 経済学は商品をもって、すなわち、諸生産物―それが個々人のものであれ、原生的共同体のものであれ―が相互に交換されるのを契機としてはじまる。交換にはいりこむ生産物は商品である。だが生産物が商品であるのは、ただ、生産物という物に、二人の人間または二つの共同体のあいだの関係が、このばあいはもはや同一個人のなかに結合されていない生産物と消費者のあいだの関係が、結びつくからである。・・・
 経済学は物をとりあつかうのではなく、人と人との関係を、究極においては階級と階級とのあいだの関係をとりあつかうのである。だがこれらの関係は、つねに物にむすびつけられ、物としてあらわれる。
 さてわれわれが、商品を、しかも二つの原始的共同体間の原生的な物々交換においてかろうじて発展したばかりの商品ではなく、完全に発展しつくした商品を、そのことなる側面について考察するならば、それはわれわれに、使用価値と交換価値という二つの観点のもとにあらわれる。そしてここでわれわれは、ただちに経済学上の論争の領域にはいりこむのである。・・・・」

 『資本論』経済学批判 目次

第1篇 商品と貨幣

第1章 商 品
 第1節 商品の2要素 使用価値と価値
     (価値実体、価値の大いさ)
 第2節 商品に表わされた労働の二重性
 第3節 価値形態または交換価値
 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
  1 価値表現の両極、
      すなわち相対的価値形態と等価形態 
  2 相対的価値形態
   a 相対的価値形態の内実
   b 相対的価値形態の量的規定性
  3 等価形態
  4 単純な価値形態の総体
 B 総体的または拡大された価値形態
  1 拡大された相対的価値形態
  2 特別な等価形態
  3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
 C 一般的価値形態
  1 価値形態の変化した性格
  2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
  3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
 D 貨幣形態
 第4節 商品の物神的性格とその秘密
第2章 交換過程
第3章 貨幣または商品流通
 第1節 価値の尺度
 第2節 流通手段
  a 商品の変態
  b 貨幣の流通 ウムラウフ
  c 鋳貨 価値標章
 第3節 貨幣
  a 貨幣退蔵
  b 支払手段
  c 世界貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化 
第4章 貨幣の資本への転化
 第1節 価値の尺度
 第2節 a 商品の変態
.
 ・・・   ・・・
 *第6篇 労働賃金  中山元訳 日経BPクラシックス
  第17章 労働力の価値または価格の労働賃金への転化Verwandlung
 * *
*** 
***

『資本論』経済学批判 向坂逸郎訳 岩波書店 1967年発行
 (1969年1月16日 岩波文庫版発行)

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項

(1)マルクスによる本文「注」は「原注」と表記。編集部による「注」は「*1」のように「*」の後に数字を記入し、リンクを貼った
 また本文中のドイツ語の挿入は、岩波版向坂訳ではドイツ語の同じ単語であっても、意訳があり、元のドイツ語を表示した。さらに、ヘーゲル「小論理学」との関連を表示して、ヘーゲルに特有の表現法の手引きとなるように工夫をおこなった。

(例)向坂訳「等一性:Gleichheit 」は、
     
ヘーゲル「小論理学」§117 「相等性:Gleichheit,」
『資本論』他の箇所では、「社会的
等一性:gesellschaftlichen Einheit 」とある。


(2)『資本論』の理解を正確に分かりやすくなると思われる場合、他の翻訳者の参照を行った。特に、第6篇労働賃金では、中山元訳(日経BP社)が役立つ。両者の比較検討によって、『資本論』理解が深まり、キーワードの手助けとなる。

(3)ヘーゲルに特有の表現法は、第1章第1節から始まり、古典派経済学と西洋科学史の伝統を踏襲している。したがって、第1節に編集部注が集中している。

(4)第1章第1節・編集部注一覧 はこちら 
 『資本論』本文の下線部をクリックすると、用語解説と辞書に移行する。


 資本論 経済学批判

第1篇 商品と貨幣  第1章 商品

第1章 第1節


 ■キーワードー「第1版」または「ヘーゲル論理学」との関連

 ・社会の富 ・商品集積 ・成素形態 ・『経済学批判』 1-5 交換価値
 
      第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)

1-1 資本主義的生産様式〔 kapitalistische Produktionsweise:資本制生産の方法〕の支配的である*1 社会の富は、「*2 巨大なる商品集積〔”ungeheure Warensammlung":そら恐ろしい商品の集まり・集合 〕(原注1)」として現われ、個々のeinzelne 商品はこの富の*3 成素形態 〔Elementarform:元素形式〕 として*4 現われる erscheint。したがって、われわれの研究は*4商品の分析をもって始まる〔『資本論』草稿第1部「直接的生産過程の諸結果」を参照〕

 (注1) カール・マルクス『経済学批判』1859年、新潮社版第7巻p.57
「市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在であることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(1)という二重の観点で現われる。」
   〔*『経済学批判』*5 アリストテレスの注(1):「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダル の使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換 する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法 ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸 財貨についても、事情はこれと同じである。」(新潮社版p.57)
 〔リカードなど古典派経済学のについてはこちら



 〔*注: マルクスの文体研究『資本論』の相関図(1)〕

 『資本論』冒頭の以下①~④の文脈は、第1章の骨格を提示しています。

 ①「資本主義的生産様式の支配的である*1 社会の富は、
 ②「*2 巨大なる商品集積」として現われ、
 ③ 個々のeinzelne 商品はこの富の*3成素形態として
 ④*4 現われる erscheint。
 ⑤ したがって、われわれの研究は*4商品の分析をもって始まる。」

 ①は、「社会の富」は、古典派経済学の批判的継承から始め、
 ②は、「商品の集まり」は、ヘーゲル『精神現象学』の「ungeheure」であり、
 ③は、「個々の商品」は、「社会の富」を元素の形式で、
 ④は、ヘーゲル『小論理学』(B 現象§131)のように「本質が現われるerscheint」。
 ⑤は、①から④の相関関係を探究して「商品の分析」を始める。

 *各々の探究は、『資本論』第1章・注一覧 参照 2020.04



1-2
 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その*6 属性Eigenschaftによって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの*7 物 Ding である。こ れらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、こ との本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人 間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
   
(原注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的なものである。・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させるからである」(*8 ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』 ロンドン、1696年、2-3ページ)。


1-3
 鉄・紙等々のような一切の*7 有用なる物 nützliche Dingは、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、*9 歴史的行動(原注3/バーボン)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。

 (*8 原注3:バーボン)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。*10 磁石(電極・関連コラム)の鉄を引きつける属性は、人がその性質を利用して磁極性を発見するにいたって初めて有用となった。


1-4
 *7 一つの物の有用性Die Nützlichkeit eines Dingsは、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は 空中に浮かんでいるものではない。それは、*6 商品体の属性Eigenschaften des Warenkörpers によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格 Charakterは、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容 stofflichen Inhalt des Reichtumsをなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、*11 使用価値は同時に-交換価値の素材的な担 い手stofflichen Träger des - Tauschwertsをなしている。
 
(原注4) 「あらゆる物の自然価値(natural worth)とは、必要なる欲望を充足させ、あるいは人間生活の快適さに役立つ、物の適性のことである」(ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』 1691年、『著作集』版、ロンドン、1777年、第2巻、28ページ)。第17世紀において、まだしばしばイギリスの著述家の間に „worth“ を使用価値の意味に、„value“ を交換価値の意味に、用いるのが見られる。全く、直接的の事物をゲルマン系語で、反省的事物をローマン系語で言い表わすことを愛する言語の精神にもとづくのである。

(原注5) ブルジョア社会においては、すべての人は商品の買い手〔アドラツキー版には売り手。エンゲルス版・カウツキー版・英語版・フランス語版およびディーツ版『全集』ではすべて買い手となっている。……訳者〕として、百科辞典的商品知識をもっているという法的擬制(fictio juris)が、当然のことになっている。



  〔*注: マルクスの文体研究『資本論』の相関図(2)〕

(1) 「われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に交換価値の素材的な担い手をなしている」― これからは、「第3節価値形態または交換価値」への伏線・導入部に相当し、「価値形態論ーA 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 Einfache, einzelne oder zufällge Wertform 」の研究テーマが次第に明らかにされる。「われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。」

(2) 「1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として・・・現われる」「交換価値は、何か偶然的なるもの(Zufälliges)、・・・」
 (この「偶然的な zufällge 、偶然的なるもの Zufälliges 」の用法については、ヘーゲル「小論理学」第3部概念論 §166補遺,§173補遺,§186,を参照。)
 こうして、第1節の「これから考察しよう」は、第3節「もっとも単純な価値関係einfachste Wertverhältnis は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である」ところの「A 単純なEinfache、個別的な、または偶然的な zufällge 価値形態」に継承される。

 


 1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(原注6)。したがって、*12 交換価値は、何か偶然的なるもの〔Zufälliges:偶然的な価値形態 〕、純粋に 相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)*(contradictio in adjecto)のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。


 (原注6)「価値は一つの物と他の物との間、一定の生産物の量と他のそれの量との間に成立する交換関係である」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』、『重農学派』デール版、パリ、1846年、889ページ)。
 
 (*13 原注7)「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない」(N・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』6ページ)、

〔ここの(注7)のバーボン引用文「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない」は、次の(注8)「同一価値の物には相違も差別も存しない。」と矛盾している。バーボンはこれに気がついていない。*「ロックーラウンズ・バーボン論争」を参照〕

 またはバットラのいうように、
 「物の価値なるものはそれがちょうど持ち来すだけのものである。」
 

1-6
 一定の商品、1クォーターの小麦は、*14 例えばx量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき*14 内在物の 表現方式〔Ausdrucksweise:表現の仕方〕、すなわち、その「現象形態〔 "Erscheinungsform"〔現象の形式〕」でありうるにすぎない。
 

1-7
 さらにわれわれは二つの商品、*14 例えば小麦と鉄をとろう*。その交換価値がどうであれ、 この関係〔Austauschverhältnis:交換関係〕はつねに一つの*14 方程式Gleichung に表わすことができるそこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。*14 例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。
 こ の方程式は何を物語るか

二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。*15 両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない〔拡大されることを予知している〕
 
1-8 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければなら ない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。
 

1-9
 この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性 körperlichen Eigenschaften は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、し たがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに*16 商品の使用価値からの抽象で ある。この交換関係の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の 割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの*17 老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違 または差別がない(原注8)。」

 (原注8: N・バーボン)「*17 一商品種は、もし価値が同一であれば、他の商品種と同じものである。同一価値の物には相違も差別も存しない。・・・・100ポンドの価値ある鉛または鉄は、100ポンドの価値ある銀や金と同一の大いさの交換価値をもっている」(N・バーボン、前掲書、53・57ページ)。
 

1-10
 使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値と しては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値を も含んでいない。
 

1-11
 *18 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわ れわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労 働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それは もはや指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物 でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性 質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。
 

1-12 われわれはいま*18 労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、*19 妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮すること のない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残って いない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累 積されているということを表わしているだけである。*19これらの物は、おたがいに共通な、こ の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である


1-13 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。*18 もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。*19 商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、*20 われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして考察せらるべきものである。
 

1-14
 このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている「価値形成実休」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時・日等のようか一定の時間部分としてその尺度標準がある。
 
1-15 *18 もしある商品の価値が、その生産の間に支出された労働量によって規定されるならば、ある男が怠惰であり、または不熟練であるほど、その商品は価値が高いということになりそうである。というのは、その商品の製造に、この男はそれだけより多くの時間を必要とするからである。だが、価値の実体をなす労働は、等一の人間労働である。同一人間労働力の支出である。商品世界の価値に表わされている社会の全労働力は、ここにおいては同一の人間労働力となされる。もちろんそれは無数の個人的労働力から成り立っているのであるが。これら個人的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間をのみ用いるというかぎりにおいて、他のものと同一の人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現に存する社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値仝造り出すために必要とされる労働時間である。例えば、イギリスに蒸気織機が導入されたのちには、一定量の撚糸を織物に変えるために、おそらく以前の半ばほどの労働で足りた。イギリスの手織職人は、この織物に変えるために、実際上は前と同じように、同一の労働時間を要した。だが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではわずかに半分の社会的労働時間を表わしているだけとなった。したがって、その以前の価値の半ばに低落した。
 

1-16 そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである(原注9)。個々の商品は、このばあい要するに、その種の平均見本にされてしまう。(原注10)同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値にたいする比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。
*21 価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」(原注11)
 
 (原注9) 第二版への注。「使用対象の価値は、それらが相互に交換されるときには、その生産に必然的に要せられ、通例として投下される労働の量によって規定される」(『一般金利、とくに公債等における金利にかんする二、三の考察』ロンドン、三六ページ)。この注目すべき前世紀の匿名書には日付がない。だが、それがジョージ2世治下、およそ1739年または1740年に刊行されたものであることは、その内容から明らかである。
 
 (原注10)「すべて同一種の産物は、本来、その価格が一般的にかつ特別の事情を考慮することなく規定される一つの集塊であるにすぎない」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』893ページ)。
 
 (*21 原注11)カール・マルクス『批判』6ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、18ページ。邦訳、岩波文庫版、26ページ。■新潮社版『選集』第7巻、60ページ〕。
 

1-17
 したがって、ある商品の価値の大いさは、*18 もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変であるしかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。労働の生産力は、種々の事情によって規定される。なかでも、労働者の熟練の平均度、科学とその工学的応用の発展段階、生産過程の社会的組み合わせ、生産手段の規模と作用力とによって、さらに自然的諸関係によって、規定される。同一量の労働は、例えば豊年には 8ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年には僅か4ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殼中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのために、ダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表わしている。ジェーコブは、金はいまだかつてその価値を完全に支払われたことはあるまい、といっている。このことは、もっとつよくダイヤモンドにあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖栽培とコーヒー栽培の1ヵ年半の平均生産物の価格にも達しなかった。ダイヤモンド総産出高の方が、より多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしていたのは勿論のことであったが。より豊かな鉱山では、同一の労働量がより多くのダイヤモンドに表わされ、その価値は低下するであろう。もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は練瓦以下に低下することになるだろう。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。*18 逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する
 

  *第1版には、次の一文がつづく。「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは、労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。*22 価値をまさに交換価値にしてしまうその形態は、これから分析するだが、その前に、すでにここで見出された規定を、いま少し詳しく述べておかなければならぬ。」―ディーツ版編集者
 

1-18  物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気・処女地・自然の草地・野生の樹木等々がそうである。物によっては、有用であり、また人間労働の生産物であって、商品でないばあいがある。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。*23 商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち、社会的使用価値を生産しなければならぬ
(そしてただに他の人々にたいして生産するだけではない。中世の農民は封建領主のために年貢の穀物を、僧侶のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、この年貢穀物も10分の1税穀物も、それらが他の人々のために生産されたということによって、商品となったわけではない。商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他の人にたいして、交換によって移譲されるのでなければならない。(注11a))最後にどんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできない。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値をも形成しない。

 (注11a)第4版への注。私はこのカッコ内の文句を入れた。というのは、この文旬を除くと、生産者以外の人々によって消費される生産物はすべてマルクスにおいて商品と考えられているという誤解が、きわめてしばしば生じたからである。― F・E(Friedrich Engels フリードリヒ・エンゲルス) 

 

 第2節 商品に表わされた労働の二重性

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

 ペティー使用価値による価値形成論

2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

  (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。



 第3節 価値形態または交換価値

3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

3-2 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ 〔シェイクスピアの『ヘンリー4世』等の中の人物。……訳者〕とちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性gesellschaftlichen Einheitである人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。

3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。


3-5  A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
   A Einfache、einzelne、oder zufällige  Wertform

   *ヘーゲル「小論理学」の用語→「 単純な  個別的な  偶然的な 
       ― “新しいウィンドウで開く”を選択 ー

3-6   x量商品A = y量商品B あるいは、x量の商品Aは y量の商品B に値する (亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する)。

3-7 1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態

 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。

3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。

3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ = 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。

3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。


3-12

 2 相対的価値形態

  a 相対的価値形態の内実

1.  どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。

  (注17) S・ベイリーのように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論にも到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量にたいする支配が、……価値をなすものである」(S・ベイリー『貨幣とその価値変動』ロンドン、1837年、11ページ)。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

3. しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようなものとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される、すなわち、独立の表現を得る。なぜかというに、ただ価値としてのみ亜麻布は、等価物としての、あるいは自分と交換されうるものとしての、上衣に関係するからである。このようにして、酪酸は蟻酸プロピルとはちがった物体である。しかし、この両者は同一の化学的実体―炭素(C)、水素(H)および酸素(O)―から、しかも同一割合の組成、すなわち、C4H8O2から成り立っている。そこで、もし酪酸に蟻酸プロピルが等しい関係に置かれるとすれば、この関係においては、第一に蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態とされ、第二に酪酸もまたC4H8O2から成り立つということがいわれるであろう。こうして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。

4. 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。

5. 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。

(注17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。フランクリンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、―そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ「ある労働」について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をもっていない「労働」について語っている。

6. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、  すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態でin geronnenem Zustand,、すなわち、対象的な形態でin gegenständlicher Form価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。

7. 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものqualitativ Gleichesとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。したがって、上衣はここでは価値の現われるerscheint物として、またはその掴みうる自然形態で、価値を表示している物となされている。ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体Körper der Rockwareは、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜財布と同じように、価値を表現するものではない。このことは、ただ次のことを立証するだけである。すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたかも多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。

 *笹縁(ささべり)をつけた上衣:eines galonierten Rockes >galonieren: 飾りひも<モール>を縫いつける。 >Galon: (金・銀の)組みひも、 金<銀>モール

8. 上衣の生産においては、事実上裁縫の形態で人間労働力が支出された。したがって、人間労働は上衣の中に堆積されている。この側面から見れば、上衣は「価値の保持者」である。もちろん、この上衣の属性そのものは、どんなに糸目がすいていても、のぞいて見えるわけではないが。そして亜麻布の価値関係においては、上衣はただこの側面からのみ、したがって、体現された価値としてのみ、価値体としてのみ取り上げられている。上衣がどんなにすまし顔で現われても、亜麻布は、彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが、上衣は彼女にたいして、同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、したがってなお容貌や毛髪やその他多くのものが、その都度の国君とともに変わるということなくしては、陛下として相対するわけにはいかない。

9. 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが、上衣との同一性 Gleichheit に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。

10.  商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。ただ、亜麻布は、その思いを自分だけにずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。ついでに述べておくと、商品の言葉も、ヘブライ語でほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をもっている。ドイツ語の„Wertsein“〔価値あり〕という言葉は、例えば、ローマン語の動詞 valere, valer, valoir 〔上から順次にイタリア語・スペイン語・フランス語。……訳者〕 ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。パリは確かにミサに値する!(Paris vant bien une messe !)〔アンリ4世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者〕。

11.  したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値の価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値かがみとなる(18)。商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。

  (18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係ずることによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パウルなるものの全身が、そのパウル的肉体性のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。



  2 相対的価値形態 

  b 相対的価値形態の量的規定性   

1. 価値の表現せられるべきあらゆる商品は、15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒー等というように、一定量の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさをも表現しなければならぬ。商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば20エレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば1着の上衣が等しいと置かれるのである。


2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。


3.  I 亜麻布の価値は変化するが(19)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、2倍となったとすれば、その価値は2倍となる。亜麻布20エレ=上衣1着のかわりに、われわれは亜麻布20エレ=上衣2着という式をもつことになる。というのは、1着の上衣は、いまでは20の亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。したがってこんどは亜麻布20エレ=上衣1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としても、商品Aの価値に正比例して上騰したり、低下したりするのである。

 (19) 「価植」(„Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったたように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


4.  Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のもとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截〔せんせつ:はさみで断ち切ること〕が不便とたったために、2倍となったとすれば、われわれは亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上衣2着という式を得ることになる。したがって商品Aの価値を不変としても、商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。

5.  I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。


6.  Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着である。この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。


7.  Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。
 このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでも、剰(あま)すところなく反映されるわけでもない。一商品の相対的価値は、その価値が不変であっても変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化しても、不変でありうる。そして最後に、その価値の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである(20)。

 (20) 第2版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしても、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか。そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。……もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとする力らば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、1842年、11・14ページ)。
  ブロードハースト氏は、これと同じように、こうも言うことができたのだ。こころみに10/20、10/50、10/100等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる20,50,100にたいする相対的な大いさは、不断に減少している。だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。

・・・以上、「b 相対的価値形態の量的規定性」 終わり・・・


  3 等価形態

 1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態〔価値の形式〕、すなわち、等価の形態〔等価の形式〕を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。 一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。


2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
 上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
 その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
  等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。


4. 等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。

5. 商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、このquid pro quo〔とりちがえ〕は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜(てきぎ)な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ起こるということなのである。いかなる商品も、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。
 いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を自分自身の価値形態にしなければならぬ。


6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
  鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。
  従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。


8. 一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば、上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。

 このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。

 (21)このような反省規定は、総じて奇妙なところがあるものである。この人間が、例えば王であるのは、ただ他の人間が彼にたいして臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。


9. 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくる〔ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。訳者〕ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。
  すなわちこの物体にたいして、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない、労働の凝結物(ぎょうけつぶつ)であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何ものをも反映してはならない。


10. 裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は歪(ゆが)められる。
  例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性おいて、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち亜麻布等価物を作りだす具体的労働が、抽象的に人間的な労働の摑(つか)みうべき実現形態として、対置されるのである。


11. それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。

12. しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性Gleichheit の形態をもち、したがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。

13. 最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探求者にさかのぼって見るとき、もっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。


14. 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
    「しとね〔寝台〕5個=家1軒」〔ギリシャ語省略〕
 ということは
    「しとね〔寝台〕5個=貨幣一定額」〔ギリシャ語省略〕
 ということと「少しも区別はない」と。

15. 彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性 Gleichheitなくしては、通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。彼はこう述べている。「交換は等一性Gleichheitなくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」〔ギリシャ語省略〕と。しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
  「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」〔ギリシャ語省略〕。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


16. アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
  なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。

17. しかしながら、商品価値の形態〔形式〕においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているものとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態〔Warenform:商品の形式〕が労働生産物の一般的形態〔die allgemeine Form:普遍的な形式〕 であり、しがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
  アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係 Gleichheitsverhältnis を発見しているということに輝いている。 ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げとなって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。


 4 単純な価値形態の総体 

1. ある商品の単純な価値形態は、その商品の他の異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているように、商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、その自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるとともに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにもっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。

2. われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てへるものではない。だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール(22)等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるとともに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている。―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにしても売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。
 (22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係で見た政府の考察』パリ、1805年、およびシャルル・ガニール『経済学体系』第2版、パリ、1821年。

3. 商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。それゆえに、商品の中に包みこまれている使眉価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち、二つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現されるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をもって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、この商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。

4.  労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる。

5. 一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。

6. なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性qualitative Gleichheit と量的比率とを示すものではないのである。ある商品の単純なる相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態〔 Äquivalentform 当量形式, chemisches Äquivalent 化学当量。〕が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである*。
 〔*編集部注:元素と周期律・表を参照〕

7. だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでもよいのである。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する(22a)。それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである*。
 〔*編集部注:したがって、価値表現の形式である x量商品A=y量商品B は、「価値等式」が誤りで、「価値方程式」と理解しなければならない。→「価値方程式の源流参照〕

  (22a) 第2版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。


 第3節 価値形態または交換価値



 B 総体的または拡大せる価値形態

 z量商品A= u量商品B または v量商品C または = w量商品D または = x量商品E または =その他
(亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =コーヒー40ポンド または =小麦1クウォーター または =金2オンス または =鉄1/2トン または =その他 )

 1 拡大された相対的価値形態


1. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる(23)。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることにもなるわけである。

(23) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との〕交換におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、布価値……という風に語ることができるわけである。したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり、商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある。そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺 度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して』『所信の形成と公表にかんする諸論』の著者による。ロンドン、1825年、39ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、54ページ〕)。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。だが、彼自身の偏狭固陋にもかかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。例えば『ウェストミンスター・レヴュー』所載。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 という第1の形態においては、これら二つの商品が、一定の交換比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。


 2 特別な等価形態

 上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。


 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥

1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。

2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば

    亜麻布20エレ=上衣1着
    亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々

3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、

    上衣1着=亜麻布20エレ
    茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々

4. 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者もまた、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。―かくて、もしわれわれが、亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =その他 というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際にはすでに序列の中に合まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。


 C 一般的価値形態


 上着1着      = 
 茶10ポンド    =
 コーヒー40ポンド =
 小麦1クォーター   =   } 亜麻布20エレ
 金2オンス     =
 鉄1/2トン      =
 A商品x量     =
 その他の商品量   =

 1 価値形態の変化した性格  Veränderter Charakter der Wertform

 諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。
 第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
 第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


 新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する、例えば亜麻布で、そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される。したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。



 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係


1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。

2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。

3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。

4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。

5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。

6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。

 (24) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極の陽性が他の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、事実上すこしも見ようとしない。したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra (絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードンの社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレーその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。なぜかというに、 「ちょうど概念のない所へ詞(ことば)が猶予なく差し出ているものだ」〔ゲーテ『ファウスト』第1部、1995、森林太郎訳による〕から。


7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。

 


 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


1.  一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることがで
きる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第3形態)にあるのである。そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。

2.  そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品
となり。または貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。この特別の地位を、第2形態で亜麻布の`別の等価たる役を演じ、また第3形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち、金である。したがって、われわれが、第3形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。


 D 貨幣形態

   亜麻布20エレ    =
   上衣1着      =
   茶20封度      =
   コーヒー40封度   =  } 金2オンス
   小麦1クォーター  =
   鉄1/2トン     =
   A商品x量       =

1.  第1形態から第2形態へ、第2形態から第3形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じて
いる。これに反して、第4形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をもつに至ったということ以外には、第3形態と少しもことなるところはない。金は第4形態で亜麻布が第3形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。

2. 金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品
として相対したからである。すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬闇に、やっと第4形態が第3形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。

3. すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、
      亜麻布20エレ=金2オンス
  または、もし2オンスの金の鋳貨名が、2ポンド・スターリングであるならば、
      亜麻布20エレ=2ポンド・スターリング
 である。

4. 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素〔konstituierendes Element:構成する成素〕は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量である。したがって、単純なる商品形態〔すなわち、A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚、胚芽〕である。


  第4節 商品の物神的性格とその秘密 
   Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

 〔■第4節 目次〕
 1. 感覚的にして超感覚的な物
 2. お互いの労働は社会的の形態を得る
 3. 謎にみちた性質はこの形態から
 4. 商品形態の神秘・・・物神的性格・・・
 5. 私的労働の複合が社会的総労働
 6. 私的労働の二重の社会的性格
 7. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」
 8. 彼等の社会的運動は物の運動形態をとる
 9. 価値性格の確定は貨幣表現から
 10. 商品世界の神秘

  第4節 商品の物神的性格とその秘密
 
                                     
   〔 感覚的にして超感覚的な物 〕

1. 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈(けいじじょうがくてきこりくつ)と神学的偏屈(へんくつ)にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的なsinnlich übersinnliches Ding に転化する。机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである(注25)。

    (注25)シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


  〔 お互いの労働は社会的の形態を得る 〕

2. だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から粉(まご)うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものである(注26)。 最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
   
 (注26)第2版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがって はかられた。したがって、一モルゲンは(日仕事)(男仕事)(男力)(男草地)(男刈地)等々と呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウレル『マルク・農園・村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、1854年


  〔 謎にみちた性質はこの形態から 〕

3. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


  〔 商品形態の神秘 ・・・物神的性格・・・ 〕

4. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。


 〔 商品世界の物神的性格・・・労働の独特な社会的性格・・・〕

5. 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように〔*注1〕、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


   〔 私的労働の複合が社会的総労働の形成 〕

6. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


  〔 私的労働の二重の社会的性格 〕

7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


  〔 労働生産物の価値発見は人類史上の画期をなす 〕

8. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。〔→新約聖書「ヨハネの黙示録」〕 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐(お)い払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである(注27)。

 (注27)第2版への注。したがって、ガリアニが、価値は人々の間の関係であるといっているとすれば、彼はこう付け加えなければならなかったであろう、すなわち、物的外皮の下にかくされた関係と(ガリアニ『貨幣について』221ページ。クストディ編『イタリア古典経済学著作集』近代篇、第3巻、ミラノ、1803年)

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   〔 物の運動の形態をとりその運動に規制される 〕

9. 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが(注3)、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。
労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

 (注28)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか?それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである」 (フリードリヒ・エンゲルス 『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌(アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年)


   〔 価値性格の確定は、貨幣表現から 〕

10. 人間生活の諸形態に関する思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は、(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺(お)し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって、私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯(とうさく)は、目を射るように明らかである。しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが、金や銀に―関係せしめるとすれば、彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。

   〔 商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる 〕

11. このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇(しょはんちゅう)をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。

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12 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、ラクバを馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈禱その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。彼の生産的な仕事がいろいろとあるにもかかわらず、彼は、それらの仕事が同じロビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。
彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まもなく自分自身について記帳しはじめる。彼の財産目録は、彼がもっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

 (注29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、1817年ロンドンの取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。″オーウェン氏の平行四辺形″は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』38.39ページ〔岩波文庫版、69.70ページ。新潮社版『選集』第7巻、86.87ページ〕)。

14 いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰惨なヨーロッパの中世に移ろう。ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す―農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、物質的生産の社会的諸関係にも、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容ihrer Realität verschiedne phantastische Gestaltをとる必要はない。それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態Die Naturalform der Arbeitと、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性Allgemeinheitではなく、その特殊性Besonderheitとが、ここでは労働の直接に社会的な形態unmittelbar gesellschaftliche Formである。径役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが、各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。

僧侶にたいして納むべき10分の1税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装die Charaktermaskenをどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにしても彼ら自身の人的の関係persönlichen Verhältnisseとして現われ〔gegenübertreten:向かい合って歩み出る〕、 物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいないsind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.。

15 共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。もっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能gesellschaftliche Funktionenをなしている。というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業naturwüchsige Teilung der Arbeitをもって行なわれている家族の機能であるからである。性別や年齢別、ならびに季節の変化とともに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

 (注30) 第2版への注。
「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラブ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、なお依然として存している。アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、21ページ。邦訳、岩波文庫版、31ページ。新潮社版『選集』第7巻、63ページ〕)。


  〔 社会の生産有機体 〕
16 最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられてそれは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体 gesellschaftlichen Produktionsorganismus 自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。

17 商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。古代アジア的な、古代的な、等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であり明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にもとづいているのである。これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。

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18 さて経済学は不完全ではあるが (注31) 価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人問のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている(注33)。

 (注31) リカードの価値の大いさの分析
 ―そしてこれは最良のものである―に不十分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの*1本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカード『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、1821年、〔邦訳、岩波文庫版、下巻、19ページ〕。〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、1826年、35・36ページ、参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では*1富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してT・J・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。

 (注32) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、 そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくたる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニール等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として言言する、ということに限られているのである。

 (注33) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと、自然的なそれである。封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジーの制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗政は、すべて人間の作ったものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カール・マルクス 『哲学の貧困。プルードン氏の″貧困の哲学″に答えて』 1847年、112ページ〔ディーツ版『全集』第4巻、139ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、132-133ページ。新潮社版『選集』第3巻、93-94ページ〕)。

古代ギリシア人やローマ人が掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきものが、ここになければならない。いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程をもっていたようである。したがって、ブルジョア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済をもっていたようである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのようなこびと経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?

―私はこの機会を摑んで、私の著書『経済孚批判』(1859年)の刊行に際して、一ドイツ語アメリカ新聞によってなされた抗議を駁しておきたい。この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち、かつこれにたいして一定の社会的意識形態が相応する現実的基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式が社会的政治的および精神的生活過程一般を条件づける」〔ディーツ版『全集』第13巻、8-9ページ。邦訳、岩波文庫版、13ページ。新潮社版『選集』第7巻、54ページ〕ということ、―すべてこれらのことは、物質的利益が支配している今日の社会にとっては正しいが、カトリック教が支配していた中世にたいしても、政治が支配していたアテネやローマにたいしても、当たらないというのである。まず第一に、おかしなことは、中世と古代世界にかんする、よく人の言うこれらのきまり文句を、誰か知っていない者がいると、前提したがる男がいることである。これだけのことは明らかである。すなわち、中世はカトリック教によって生きていられたわけでなく、古代世界は政治によって生きえたのでもない。彼らがその生活を維持していた仕方が、逆に、なぜ古代に政治が主役をつとめ、なぜ中世にカトリック教が主役であったかを説明するのである。なお、土地所有の歴史が、その秘密を語っているということを知るためには、例えばローマ共和国の歴史にそれほど通暁している必要はない。他方において、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士が、社会のどんな経済形態とでも同じように調和するものだ、と妄信していた誤りにたいして、充分につぐないをうけた。

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19 一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。交換価値は、ある物の上に投ぜられた労働を表現する一定の社会的な仕方であるのだから、それはちょうど為替相場と同じように、少しの自然素材Naturstoffも含みえない。

20 商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発達の形態であり、そのために商品形態は今日と同じように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格Fetischcharakterは、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観dieser Schein der Einfachheit.すら消える。重金主義(モネタル・ジュステム)の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表わしているが、特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下している近代経済学も、資本を取扱うようになると、物神礼拝Fetischismusにつかれていることが明白にならないか?地代が土地から生じて、社会から生ずるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?

21 だが、あまり先まわりしないために、ここではなお商品形態自身について、一例をあげるだけで沢山だろう。もし商品が話すことが出来たら、こういうだろう、われらの使用価値が人間の関心事なのであろう。使用価値は物としてわれらに属するものではない。が、われらに物として与えられているものは、われらの価値である。商品物としてのわれら自身の交易が、このことを証明している。われらはお互いに交換価値としでのみ、関係しているのである。そこでいかに経済学者が商品の心を読みとって語るかを聴け。曰く「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。この意味で価値は必然的に交換を含んでいるが、富はそうでない(注34)」。「富(使用価値)は人間の特性であるが、価値は商品の特性である。一人の人間または一つの社会は富んでいる。一個の真珠または一個のダイヤモンドには価値がある。……一個の真珠または一個のダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(注35)」。

 (注34) „Value is a property of things, riches of men. Value,in this sense, necessarily implies exchange, riches do not.“ (『経済学におけるある種の言葉の争いについての考察、とくに価値ならびに需要および供給に関連して』ロンドン、1821年、16ページ)

 (注35) „Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable. ・・・・・ A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond.“ (S・ベイリー『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』165ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』151ページ〕)

22 これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。しかし、特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値が、その物的属性から独立しているのに反して、その価値は、物としての属性に属しているということを発見している。彼らがここで立証することは、物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され、したがって、物と人間との間の直接的関係において実現されるのに、逆にそれらの価値は交換においてのみ、すなわち、社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。誰かここであの愛すべきドッグベリを思い出さないであろうか。彼は夜警人のシーコールにこう教えている、「立派な容貌の男であるのは境遇の賜物だが、読み書きが出来るということは生まれつきだ(注36)」〔シェイクスピア『むだ騒ぎ』。……訳者〕。

 (注36) 『考察』の著者およびS・ベイリーは、リカードを非難して、彼は交換価値を、相対的にすぎないものから、何か絶対的なものに転化したと言っている。逆だ。彼は、これらの物、例えばダイヤモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性を、この外観の背後にかくれている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのそれらの物の相対性に、約元したのである。リカード派の人々がベイリーにたいして粗雑に答えて、的確に答えなかったとすれば、これはただ彼らが、リカード自身に、価値と価値形態または交換価値との間の内的関連について、少しも解明を見出さなかったからであるにすぎない。

・・・以上、第4節 終わり・・・

  第2章 交換過程

1. 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。

  
 (注37)―略―
 (注38)―略―

2. 商品所有者をとくに商品から区別するものは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。・・・訳者〕よりもっと醜い様子をしていても、心だけでなく、肉体も換える用意をしている。商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。そうでなければ、彼はこれを市場に心ってば行かない。商品は他人にたいする使用価値をもっているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。


(39) 「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。―その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるものである。両者ともにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分でもっていないものと、例えば、食物と交換する人でも、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のだめにあるのではないからである」(アリストテレス『デ・レプブリカ』第1巻、第9章)。
〔注:この注(39)は、『経済学批判』では第1章最初の第1回の注となっている。『アリストテレス全集』第15巻岩波書店p.23〕

3. 他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。

4. あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をもつ他の商品にたいして譲渡するだけである。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって、一般的に社会的な過程である。だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもつぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。

5. もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価besondres Äquivalentとなっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価allgemeines Äquivalentとなる。しかしながら、すべての商品所有者が、同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的の等価allgemeines Äquivalentではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較さるべき、なんらの一般的相対的価値形態allgemeine relative Wertformをもっていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである。

6. わが商品所有者たちは、困りはてて、ファウストのように考える。初めに行ないありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである。商品性質Warennaturの諸法則は、商品所有者の自然本能Naturinstinktの中に活動していた。彼らは、その商品をただ価値としてのみ、それゆえにまたただ商品としてのみ、相互に相関係せしめることができるのであるが、それをなすのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価としてのなんらかの他の商品にたいして相関係せしめていたのである。これを商品の分析は明らかにした。しかし、ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価となすことができるのである。したがって、すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。このことによって、この商品の自然形態は、社会的に用いられる等価形態となる。一般的な等価であることは、社会的の過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうして、この商品は―貨幣となる。「彼らは心を一つにして己が能力と権威とを獣にあたう。この徽章をもたぬすべての者に売買することを得ざらしめたり。その徽章は獣の名、もしくは其の名の数字なり」(ヨハネ黙示録、第17章13節および第13章17節)。

7. 貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使川価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そしてこの独立形態が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって、終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる(40)。

 (40) このことによって、小ブルジョア社会主義の狡猾さを判断してもらいたい。それは商品生産を永久化し、同時に「貨幣と商品の対立」を、したがってまた貨幣自身を―なぜかというに貨幣はただこの対立があってのみ存するのであるから―なくそうとするのである。これと同じように、人は教皇をなくして、カトリック教を存続させることができるかもしれない。このことにかんするもっと詳細なことは、拙著『経済学批判』61ページ以下〔・・・邦訳、岩波文庫版、103ページ以下。新潮社版『選集』第7巻、106ページ以下〕において見られたい。

8. 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である(41)。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。物は、それ自身としては人間にたいして外的のものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、たいすることが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態をとろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。その量的交換比率は、まず初めは全く偶然的のものである。それらの物は、その所有者が、これを相互的に譲渡し合おうという意志行為によって、交換されうるものである。だが、他人の使用対象にたいする欲望は、次第に固定化する。交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。したがって時の経過とともに、少なくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方においては直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する。その使用価値はその交換価値から分離する。他方において、それらが交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる。習慣は、それらの生産物を価値の大いさとして固定化する。

 (41)まだ二つのちがった使用対象が交換されず、われわれがこれをしばしば未開人に見るように、雑多なものが、第三の一つの物にたいして等価として提供されるかぎり、直接の生産物交換自身は、やっとその玄関にある。

9. 直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては等価Äquivalentである。もちろん、それがこの非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。したがって、交換物品は、まだなんらそれ自身の使用価値から、または交換者の個人的欲望から、独立した価値形態を得ていない。この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。商品所有者が自分の物品を、ほかのいろいろな物品と交換し、比較する交易は、各種の商品所有者の各種の商品が、その交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う。このような第三の商品は、各種の他の商品にたいして等価Äquivalentとなることによって、狭い限界内においてではあるが、直接に、一般的なまたは社会的な等価形態allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentformとなる。このような一般的等価形態は、これを発生させた瞬間的な社会的接触とともに成立し、消滅する。この一般的等価形態は、あの商品へこの商品へと、常なくかわるがわる与えられる。しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種besondere Warenartenに付着する、すなわち、結晶して貨幣形態kristallisiert zur Geldformとなる。どの商品種に付着してしまうかは、まず初めは偶然である。だが、大体においては二つの事情が決定する。貨幣形態は、あるいは、外域からのもっとも重要な交換品目に付着する。それらの物品は事実上、領域内生産物の交換価値の自然発生的な現象形態である。あるいはまた、例えば家畜のように、領域内の譲渡しうべき所有物の主要素をなす使用対象に付着する。遊牧民族が、最初に貨幣形態Formを発展させる。というのは、彼らの一切の財産は動かしうる、したがって直接に譲渡しうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式は、彼らをつねに他の共同体と接触させ、したがって、生産物交換をひき起こしていくからである。人間は、しばしば人間自身を、奴隷の姿で最初の貨幣材料にした。しかしまだかつて、土地を貨幣材料にしたことはない。このような思想は、ただ、すでに完成したブルジョア社会においてのみ、出現することができた。それは17世紀の最後の3分の1期にあらわれた。そしてその実行は、国民的規模において、やっと一世紀後にフランス人のブルジョア革命で試みられたのである。


10. 商品交換が全く地方的な束縛を突き破るのに比例して、したがって、商品価値が人間労働一般の体化物Materiaturに拡がっていくのに比例して、貨幣形態は、本来一般的等価の社会的機能に適する商品、すなわち、貴金属に移行する。


11. そこで「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である(42)」ということが、それらのものの自然属性とその機能との一致を示している(43)。だが、これまでわれわれは、商品価値の現象形態として役立ち、または商品の価値の大いさが社会的に表現される材料として役立つという、貨幣の一つの機能を識っているのみである。価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがってまた等一な人間労働の体化物となりうるものは、ただその見本のどれをとっても、同一の、ことなるところのない質をもっているような物質だけである。他方において、価値の大いさの差異は、純粋に量的なものであるから、貨幣商品は、純粋に量的差異を表わしえなければならない。したがって、随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。しかして金と銀とは、このような属性をほんらいもっている。

(42) カール・マルクス『経済学批判』〔新潮社版『選集』第7巻166ページ〕「これらの金属は・・・ほんらい貨幣である」(ガリアニ『貨幣について』クストディの叢書、近代篇、第3巻、72ページ)

(43) これにかんする詳細は、私のすぐ前に引用した著書の「貴金属」の節にある。

12. 貨幣商品の使用価値は二重となる。商品としてのその特別な使用価値、例えば、金は、むし歯を充填するためとか。奢侈商品の原料等々に用いられるほかに、その特殊な社会的機能から生ずる、一つの形式的な使用価値〔formalen Gebrauchswert:形式上の使用価値〕を得るのである。

13. すべての他の商品は、貨幣の特別の等価besondre Äquivalente des Geldesにすぎず、貨幣はそれらの一般的等価allgemeines Äquivalentなのであるから、それらの商品は、一般的商品allgemeinen Ware(44)としての貨幣にたいして、特別の商品besondre Warenとしてたいするわけである。

  (44)「貨幣は一般的商品である」(ヴェリ『経済学にかんする考察』16ページ)。

14. 貨幣形態は、ただ、他の一切の商品の関係が、一商品に固着して反射されているものであるにすぎないことを知ったのである。したがって、貨幣が商品であること(45)は、その完成した姿から出発して、後からこれを分析しようとする人にとって、一つの発見であるにすぎない。交換過程は、貨幣に転化する商品に、その価値を与えるのではなく、その特殊な価値形態を与えるのである。両規定を混同すると、金と銀の価値を想像的なものと考えるような誤りにおちいる(46)。貨幣は一定の機能においては、それ自身の単なる標章によって置き代えられうるのであるから、貨幣が単なる標章であると考えるような、他の誤りも生じた。他方において、この誤りの中には、物の貨幣形態は、物自身にとっては外的のものであり、その背後にかくされている人間関係の単なる現象形態であるという予感がはいっていた。この意味では、あらゆる商品は一つの標章であろう。というのは、価値としては、ただ商品に支出された人間労働の物財的の外被にすぎないからである(47)。しかしながら、人は、物財が一定の生産様式の基礎の上に得る社会的性格、または労働の社会的規定が一定の生産様式の基礎の上に得る物財的性格、これらのものを、単なる標章と称えることによって、同時にこれらのものを人間の恣意的な想像の産物と称することになるのである。それは第18世紀愛好の啓蒙風であって、成立過程をまだ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相〔rätselhaften Gestalten:謎のような状態、形状〕から、少なくとも一応無知の外観を除こうとしたのである。

 (45) 「われわれが『貴金属』という一般的な名称で表わしうる銀と金そのものが、・・・商品・・・であって、価値・・・において上騰したり低落したりする。もし、その比較的小量にたいして、生産物またはその国の製造品等の比較的大量を取得することができるならば、貴金属により高い価値のあることが判定できる」(『相互関係として観た貨幣、商業および為替の一般的観念にかんする一論。一商人著』ロンドン、1695年、7ページ)。「銀と金とは、鋳造されようと、されまいと、すべての他の物にたいする尺度標準として用いられるが、しかし、葡萄酒、油、煙草、布、または服地と同じように商品である」(『商業、とくに東インドのそれにかんする一論』ロンドン、1689年、2ページ)。わが王国の財産と富とは、貨幣からのみ成っているわけではない。また金と銀とを商品でないと考えるのも、当をえない」(〔トーマス・パピロン〕、『最も有利な貿易としての東インド貿易』ロンドン、1677年、4ページ)。

(46) 「金と銀は、それが貨幣である前に、金属として価値をもっている」(ガリアニ『貨幣について』72ページ)。ロックはこう述べている、「人間の一般的な合意は、銀にたいして、その貨幣に適した性質のために、一つの想像的価値を与えた」〔ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』1691年。『著作集』版、1777年。第2巻、15ページ〕と。これにたいしてローは、「どうしていろいろの国民が、なんらかの物財に想像的の価値を与えることができようか。・・・・あるいは、どうしてこの想像的な価値が、保持されえたであろうか?」といっている。しかし、その彼自身は、どんなに事柄を理解していなかったかを次のことが示している。すなわち「銀は、それがもっていた使用価値にしたがって交換された。すなわち、その実際の価値にしたがって。その貨幣・・・・としての性質によって、銀は付加的の価値(une valeur additionelle)を得た」(ジョン・ロー『鋳貨と商業にかんする考察』、『第18世紀の金融経済学者』デール版、469・470ページ)。

(47) 「貨幣はその(商品の)標章である」(V・ドゥ・フォルボネ『商業の基礎概念』新版、ライデン、1766年、第2巻、143ページ)。「標章として、貨幣は、商品によって引きつけられる」(前掲書、155ページ)。「貨幣は物財の標章であって、これを代表している」(モンテスキュー『法の精神』、『全集』ロンドン、1767年、第2巻、3ページ〔邦訳、宮沢俊義訳『法の精神』岩波文庫版、下巻、98ページ〕)。「貨幣は、決して単純な標章ではない。なぜかというに、貨幣自身が富であるからである。貨幣は価値物を代表するのではない。それは価値物にたいして価値を等しくするのである」(ル・トゥローヌ。『社会的利益について』910ページ)。「価値の概念を考察するならば、物財そのものは、ただ一つの標章と考えられるのみである。物財はそれ自身として意味をもつことなく、それが値するところのものとして、意味をもつのである」(ヘーゲル『法の哲学』100ページ)。経済学者たちよりずっと以前に、法律家は、貨幣の観念を、単なる標章として、また貴金属の純粋に想像的な価値として、大いに論じていたのであった。彼らは、これで王権にお追従のつとめをしていたのである。その鋳貨の悪鋳権を、彼らは、全中世を通じて、ローマ帝国の伝統とパンデクテンの貨幣概念によって支持していたのであった。その呑込のいい生徒たる、フィリップ・ドゥ・ヴァロアは、1346年の勅令でこう言っている、「貨幣事務、鋳造、品位、在高および鋳貨をわれらの自由に一定の価格で流通に投ずるに必要な一切の鋳貨関係命令、これらのことが全くわが国とわが陛下の権能に属するということは、何びとも疑いえず、また疑うべからざるものである」。皇帝が貨幣価値を制定するということは、ローマ法の信条であった。貨幣を商品として取り扱うことを、明文をもって禁じていた。「だが貨幣を買うことは、何びとにも許さるべきでない。なぜかというに、一般の使用のために作られたるものであって、それは商品であってはならないからである」。G・F・パニニのこれらにかんするすぐれた論議がある。G・F・パニニ『ローマ人の物の正当価格。正しき鋳貨価値および商業にかんする試論』1751年(クストディ編、近代篇、第2巻)。とくにこの書の第2部で、パニニは法律家諸君にたいして論駁している。

15. 先に述べたように、ある商品の等価形態は、その価値の大いさの量的規定を含んでいない。金が貨幣であり、したがって、すべての他の商品と直接に交換されうるということを知っても、これによっては、例えば10ポンドの金は、どれだけの価値をもっているかを知ったことにはならない。すべての商品と同じように、金〔カウツキー版・ポール英訳版では金、初版から第3版までは貨幣、エンゲルス版も貨幣、アドラツキー版・ディーツ『全集』版も貨幣であるが、前後の関係から金とした。……訳者〕は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。そして一切の他の商品の一定量で表現される。これら商品にも同一量の労働時間が凝結している(48)。このように金の相対的な価値の大いさの確定は、その生産源でなされる直接の物々交換で行なわれる。それが貨幣として流通にはいると同時に、その価値はすでに与えられている。すでに第17世紀の最後の10年間に、貨幣が商品であるということを知るために、ずっと突き進んだ貨幣分析の開始がなされているのであるが、これはやはり開始にすぎないものである。困難は、貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある(49)。

 (48) 「人間が1オンスの銀をペルーの地中から、1ブッシェルの穀物を生産するために要すると同一時間で、ロンドンにもって来ることができるとすれば、前者は後者の自然価格である。もし彼がいま新しい、より生産的な鉱山の採掘によって、以前の1オンスと同一の投下時間に2オンスの銀を得ることができるとすれば、穀物は、以前に1ブッシェル当り5シリングの価格であったのが、いまでは10シリングの価格となるであろう、caeteris paribus(他の条件を同一とすれば)」(ウィリアム・ペテイ『租税および貢納にかんする論策』ロンドン、1667年、31ページ)。

(49)ロッシェル教授がわれわれに、「貨幣のあやまれる定義は二つの主要群に分かたれる、すなわち、一つは貨幣を商品以上のものに考え、一つはこれを商品以下のものに考えているのである」ということを教えてくれたのち、貨幣制度にかんする混乱した著書目録が続く。これによっては、理論の真実の歴史へのかすかな洞察さえも見られない。それにお説教が続く、「しかして、大多数の近代国民経済学者が、貨幣を他の商品から区別する(では、一体商品以上のものか以下のものか?)諸特性を、充分に念頭に浮かべていないということは、否定すべくもない。……そのかぎりにおいて、ガニールの半重商主義的反動は、……全く理由のないことでもない』(ヴィルヘルム・ロッシェル『国民経済学大綱』第3版、1858年、207-210ページ)。以上―以下―充分でない―そのかぎり―全く・・・・ではない! そしてこのような折衷的な大学教授的たわごとを、ロッシェル氏は謙遜して経済学の「解剖学的・生理学的方法」と名づけている! だが、一つの発見だけは、彼に負うものである。すなわち、貨幣は「快適な商品」であるということである。

 この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕


16. A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕がどうして固定していくかを追究した。この外観は、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し〔verwachsen:合体する、合生する〕、または貨幣形態に結晶する〔kristallisiert:結晶する、明確な形をとる〕とともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身Inkarnationである。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿sachliche Gestaltは、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。

・・・以上、第2章終わり・・・



 第3章 貨幣または商品流通

  第1節 価値の尺度


 (第3章_第1節-第1段落=3s_1-1)
 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
 金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
 諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。



 (50) なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、したがって、例えば一紙幣がX労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、という問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわち、その反対物として、取り扱われることができないかの問題に帰着する。私は商品生産を基礎とする「労働貨幣」ということが浅薄な空想であるわけを、他の個所で詳しく論じておいた(カール・マルクス『批判』61ページ以下〔邦訳、岩波文庫版103ページ以下。新潮社版106ページ〕



 ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。



 商品の価格または貨幣形態は、その価値形態一般と同じく、手でつかみうるような、その実在的の物体形態とちがった、したがって理念的または観念化された形態にすぎない。鉄、亜麻布、小麦等々の価値は、見ることはできないが、これらの物そのものの中に存在している。それはこれらの物の金との等一性によって、すなわち、金にたいするいわばその頭脳の中に棲んでいる連結によって、表示される。したがって、商品番人は商品の代弁をしてやるか、商品に紙片をはりつけてやるかして、その価格を外界に知らせねばならない。金における商品価値の表現は、観念的なものであるから、この表現を実際に行なうためには、また観念的の、または理念としての金が用いられればいいのである。どんな商品番人も、自分が商品の価値に価格の形態を、または観念となった金形態を与えても、まだ決して彼の商品を金に化しているのではないということ、そして金で幾百万の商品価値を評価するためには、一片の現実の金をも必要としないということを、知っている。したがって貨幣は、その価値尺度の機能においては、―ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる。この事情は、きわめて馬鹿げた理論を考え出させるにいたった。観念となった貨幣のみが価値尺度の機能に用いられるとしても、価格は全く実在的な貨幣材料に依存しているのである。価値、すなわち、例えば1トンの鉄の中に含まれている人間労働の一定量は、同一量の労働を含んでいる一定の観念化された貨幣商品の量の中に表現される。したがって、金、銀または銅が、価値尺度として用いられるにしたがって、それぞれ1トンの鉄の価値は、全くちがった価格表現を受ける。いいかえれば、全くちがった量の金、銀または銅で表わされる。


 
 したがって、例えば金および銀なる二つのちがった商品が、同時に価値尺度として用いられるとすれば、すべての商品は二つのちがった価格表現をもつことになる。金価格と銀価格であって、銀の金にたいする価値比率が不変であつて、例えば1対15であるかぎり、これは悠々と並んで行なわれる。だが、この価値比率が少しでも変化すると、商品の金価格と銀価格の比率は撹乱される。このようにして価値尺度の二重化が、その機能に矛盾することは、事実の上で立証される。

 価格のさだまった商品は、すべてA商品a量=金x量、B商品b量=金z量、C商品c量=金y量 等々の形態で表示される。このばあい、a、b、cは商品種A、B、Cの一定量を、x、z、yは金の一定量を表わすのである。したがって、商品価値は各種の大いさの観念化された金量に転化される。だから、商品体の種類は雑多であるが、同一名目の大いさ、すなわち、金の大いさに表わされる。それらの商品価値は、このような各種の金量として、相互に比較され、測定される。そして技術的に、これらの価値を、尺度単位としての一つの固定した量目の金にたいして、関係させようとする必然性が展開してくる。この尺度単位自身は、さらに各可除部分に分割されて、尺度標準に発展する。金や銀や銅は、貨幣となる以前に、すでにその金属重量で、このような尺度標準をもっている。こうして、例えば1ポンドが尺度単位として用いられ、一方には、さらに小分されてオンス等になり、他方では加算されてツェッントネル等になるのである。したがって、すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち、価格の尺度標準の最初の名称ともなっている。


  (第3章_第1節-第8段落=3s_1-8)

 Das Kapital  Der Produktionsprozeß des Kapitals  


   
    
Das Kapital.

  
Kritik der politischen Ökonomie

       Erster Band.

  Buch Ⅰ: Der Produktionsprozeß des Kapitals  

        1867

 

■資本論』第1巻目次
『資本論』 経済学の批判  Das Kapital.  Kritik der politischen Ökonomie
 第1巻 資本の生産過程 Erster Band.  Buch Ⅰ:
Der Produktionsprozeß des Kapitals
第1篇  商品と貨幣  ERSTER ABSCHNITT -
  Ware und Geld
第1章  商品  Erstes Kapitel. Die Ware
第1節  商品の2要素 使用価値と価値
  (価値実体、価値の大いさ)
1 Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert  und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)
第2節  商品に表わされた労働の二重性 2  Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
第3節  価値形態または交換価値 3  Die Wertform oder der Tauschwert
 A  単純な,個別的な,または
   偶然的な価値形態
A  Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
1  価値表現の両極、すなわち
  相対的価値形態と等価形態
1  Die beiden Pole des Wertausdrucks : Relative Wertform undÄquivalentform
2  相対的価値形態 2  Die relative Wertform
a  相対的価値形態の内実 a)  Gehalt der relativen Wertform
b  相対的価値形態の量的規定性 b)  Gehalt der relativen Wertform
3  等価形態 3  Die Äquivalentform
4  単純な価値形態の総体 4  Das Ganze der einfachen Wertform
 B 総体的または拡大された価値形態 B  Totale oder entfaltete Wertform
1  1 拡大された相対的価値形態 1  Die entfaltete relative Wertform
2  特別な等価形態 2  Die besondere Äquivalentform
3  総体的または
 拡大された価値形態の欠陥
3  Mängel der totalen oder entfalteten Wertform
 C  一般的価値形態 C  Allgemeine Wertform
1  価値形態の変化した性格 1  Veränderter Charakter der Wertform
2  相対的価値形態と
  等価形態の発展関係
2  Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform
  und Äquivalentform
3  一般的価値形態から
  貨幣形態への移行
3 Übergang aus derallgemeinen Wertform zur Geldform
D  貨幣形態 D  Geldform
第4節  商品の物神的性格とその秘密  Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
第2章  交換過程  Zweites Kapitel.
 Der Austauschprozeß
第3章  貨幣または商品流通  Drittes Kapitel Das Geld und     die Warenzirkulation
第1節  価値の尺度 1  Maß der Werte
第2節  流通手段 2  Zirkulationsmittel
a  商品の変態 a)  Die Metamorphose der Waren
b  貨幣の流通 ウムラウフ b)  Der Umlauf des Geldes
c  鋳貨 価値標章 c)  Die Münze. Das Wertzeichen
第3節  貨幣 3  Geld
a  貨幣退蔵 a)  Schatzbildung
b  支払手段 b)  Zahlungsmittel
c  世界貨幣 c)  Weltgeld
第2篇  貨幣の資本への転化   ZWEITER ABSCHNITT -Die Verwandlung von Geld
in Kapital
第4章  貨幣の資本への転化 ViertesKapitel.Die Verwandlung von Geld in Kapital
*第6篇 労働賃金  中山元訳 日経BPクラシックス

第17章 労働力の価値
または価格の労働賃金への転化
Verwandlung

D.『資本論』第1章-第3章

  『資本論』経済学批判  第1篇 商品と貨幣   第1章 商品 

  Das Kapital.
 Kritik der politischen Ökonomie
  Erster Band.
  Buch Ⅰ: Der Produktionsprozeß des Kapitals  
    1867

 ■ERSTES KAPITEL
  Die Ware

1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)


1. <49> Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung"(1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.

2. Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppelten Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen <50> Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat (3). So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

3. Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.

4. Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.

5. Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.

6. Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.

7. Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.

8. Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:
"Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert."(8)

9. Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.

10. Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.

11. Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.

12. <53> Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.

13. Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen "wertbildenden Substanz", der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.

14. Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

15. <54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. "Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."(11)

16. Die Wertgröße einer Ware bliebe daher konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft und ihrer technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsprozesses, und durch Naturverhältnisse. Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit. Folglich stellen sie in wenig Volumen viel Arbeit dar. Jacob bezweifelt, daß Gold jemals seinen vollen Wert bezahlt <55> hat. Noch mehr gilt dies vom Diamant. Nach Eschwege hatte 1823 die achtzigjährige Gesamtausbeute der brasilischen Diamantgruben noch nicht den Preis des 11/2jährigen Durchschnittsprodukts der brasilischen Zucker oder Kaffeepflanzungen erreicht, obgleich sie viel mehr Arbeit darstellte, also mehr Wert. Mit reichhaltigeren Gruben würde dasselbe Arbeitsquantum sich in mehr Diamanten darstellen und ihr Wert sinken. Gelingt es, mit wenig Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von Ziegelsteinen fallen. Allgemein: Je größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert. Umgekehrt, je kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit. <1. Auflage folgt: Wir kennen jetzt die Substanz des Werts. Es ist die Arbeit. Wir kennen sein Größenmaß. Es ist die Arbeitszeit. Seine Form, die den Wert eben zum Tausch-Wert stempelt, bleibt zu analysieren. Vorher jedoch sind die bereits gefundenen Bestimmungen etwas näher zu entwickeln.>

17. Ein Ding kann Gebrauchswert sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen für den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfräulicher Boden, natürliche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Gebrauchswert für andre, gesellschaftliche Gebrauchswert. {Und nicht nur für andre schlechthin. Der mittelalterlichen Bauer produzierte das Zinskorn für den Feudalherrn, das Zehntkorn für den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehnkorn wurden dadurch Ware, daß sie für andre produziert waren. Um Ware zu werden, muß das Produkt dem andern, dem es als Gebrauchswert dient, durch den Austausch übertragen werden.}(11a) Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.


2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit


2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit

1. <56> Ursprünglich erschien uns die Ware als ein Zwieschlächtiges, Gebrauchswert und Tauschwert. Später zeigte sich, daß auch die Arbeit, soweit sie im Wert ausgedrückt ist, nicht mehr dieselben Merkmale besitzt, die ihr als Erzeugerin von Gebrauchswerten zukommen. Diese zwieschlächtige Natur der in der Ware enthaltenen Arbeit ist zuerst von mir kritisch nachgewiesen worden.(12) Da dieser Punkt der Springpunkt ist, um den sich das Verständnis der politischen Ökonomie dreht, soll er hier näher beleuchtet werden.

2. Nehmen wir zwei Waren, etwa einen Rock und 10 Ellen Leinwand. Der erster habe den zweifachen Wert der letzteren, so daß, wenn 10 Ellen Leinwand = W, der Rock = 2 W.

3. Der Rock ist ein Gebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es einer bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist bestimmt durch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtspunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt.

4. Wie Rock und Leinwand qualitativ verschiedne Gebrauchswerte, so sind die ihr Dasein vermittelnden Arbeiten qualitativ verschieden - Schneiderei und Weberei. Wären jene Dinge nicht qualitativ verschiedne Gebrauchswerte und daher Produkte qualitativ verschiedner nützlicher Arbeiten, so könnten sie sich überhaupt nicht als Waren gegenübertreten. Rock tauscht sich nicht aus gegen Rock, derselbe Gebrauchswert nicht gegen denselben Gebrauchswert.

5. In der Gesamtheit der verschiedenartigen Gebrauchswerte oder Warenkörper erscheint eine Gesamtheit ebenso mannigfaltiger, nach Gattung, Art, Familie, Unterart, Varietät verschiedner nützlicher Arbeiten - eine gesellschaftliche Teilung der Arbeit. Sie ist Existenzbedingung der Warenproduktion, obgleich Warenproduktion nicht umgekehrt die Existenzbedingung gesellschaftlicher Arbeitsteilung. In der altindischen Gemeinde ist die Arbeit gesellschaftlich geteilt, ohne daß die Produkte zu Waren werden. Oder, ein näher liegendes Beispiel, in jeder Fabrik ist die Arbeit syste- <57> matisch geteilt, aber diese Teilung nicht dadurch vermittelt, daß die Arbeiter ihre individuellen Produkte austauschen. Nur Produkte selbständiger und voneinander unabhängiger Privatarbeiten treten einander als Waren gegenüber.

6. Man hat also gesehn: in dem Gebrauchswert jeder Ware steckt eine bestimmte zweckmäßig produktive Tätigkeit oder nützliche Arbeit. Gebrauchswerte können sich nicht als Waren gegenübertreten, wenn nicht qualitativ verschiedne nützliche Arbeiten in ihnen stecken. In einer Gesellschaft, deren Produkte allgemein die Form der Ware annehmen, d.h. in einer Gesellschaft von Warenproduzenten, entwickelt sich dieser qualitative Unterschied der nützlichen Arbeiten, welche unabhängig voneinander als Privatgeschäfte selbständiger Produzenten betrieben werden, zu einem vielgliedrigen System, zu einer gesellschaftlichen Teilung der Arbeit.

7. Dem Rock ist es übrigens gleichgültig, ob er vom Schneider oder vom Kunden des Schneiders getragen wird. In beiden Fällen wirkt er als Gebrauchswert. Ebensowenig ist das Verhältnis zwischen dem Rock und der ihn produzierenden Arbeit an und für sich dadurch verändert, daß die Schneiderei besondre Profession wird, selbständiges Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Wo ihn das Kleidungsbedürfnis zwang, hat der Mensch jahrtausendelang geschneidert, bevor aus einem Menschen ein Schneider ward. Aber das Dasein von Rock, Leinwand, jedem nicht von Natur vorhandnen Element
des stofflichen Reichtums, mußte immer vermittelt sein durch eine spezielle, zweckmäßig produktive Tätigkeit, die besondere Naturstoffe besondren menschlichen Bedürfnissen assimiliert. Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängige Existenzbedingung des Menschen, ewige Naturnotwendigkeit, um den Stoffwechsel zwischen Mensch und Natur, also das menschliche Leben zu vermitteln.

8. Die Gebrauchswerte Rock, Leinwand usw., kurz die Warenkörper, sind Verbindungen von zwei Elementen, Naturstoff und Arbeit. Zieht man die Gesamtsumme aller verschiednen nützlichen Arbeiten ab, die in Rock, Leinwand usw. stecken, so bleibt stets ein materielles Substrat zurück, das ohne Zutun des Menschen von Natur vorhanden ist. Der Mensch kann in seiner Produktion nur verfahren, wie die Natur selbst, d.h. nur die Formen der Stoffe ändern.(13) Noch mehr. In dieser Arbeit der Formung <58> selbst wird er beständig unterstützt von Naturkräften. Arbeit ist also nicht der einzige Quelle der von ihr produzierten Gebrauchswerte, des stofflichen Reichtums. Die Arbeit ist sein Vater, wie William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.

9. Gehen wir nun von der Ware, soweit sie Gebrauchsgegenstand, über zum Waren-Wert.
Nach unsrer Unterstellung hat der Rock den doppelten Wert der Leinwand. Dies ist aber nur ein quantitativer Unterschied, der uns zunächst noch nicht interessiert. Wir erinnern daher, daß, wenn der Wert eines Rockes doppelt so groß als der von 10 Ellen Leinwand, 20 Ellen Leinwand dieselbe Wertgröße haben wie ein Rock. Als Werte sind Rock und Leinwand Dinge von gleicher Substanz, objektive Ausdrücke gleichartiger Arbeit. Aber Schneiderei und Weberei sind qualitativ verschiedne Arbeiten. Es gibt jedoch Gesellschaftszustände, worin derselbe Mensch abwechselnd schneidert und webt, diese beiden verschiednen Arbeitsweisen daher nur Modifikationen der Arbeit desselben Individuums und noch nicht besondre feste Funktionen verschiedner Individuen sind, ganz wie der Rock, den unser Schneider heute, und die Hosen, die er morgen macht, nur Variationen derselben individuellen Arbeit voraussetzen. Der Augenschein lehrt ferner, daß in unsrer kapitalistischen Gesellschaft, je nach der wechselnden Richtung der Arbeitsnachfrage, eine gegebene Portion menschlicher Arbeit abwechselnd in der Form von Schneiderei oder in der Form von Weberei zugeführt wird. Dieser Formwechsel der Arbeit mag nicht ohne Friktion abgehn, aber er muß gehn. Sieht man ab von der Bestimmtheit der produktiven Tätigkeit und daher vom nützlichen Charakter der Arbeit, so bleibt das an ihr, daß sie eine Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ist. Schneiderei und Weberei, obgleich qualitativ verschiedne produktive Tätigkeiten, sind beide produktive Verausgabung von menschlichem Hirn, Muskel, Nerv, Hand usw., und in diesem Sinn beide mensch- <59> liche Arbeit. Es sind nur zwei verschiedne Formen, menschliche Arbeitskraft zu verausgaben. Allerdings muß die menschliche Arbeitskraft selbst mehr oder minder entwickelt sein, um in dieser oder jener Form verausgabt zu werden. Der Wert der Ware aber stellt menschliche Arbeit schlechthin dar, Verausgabung menschlicher Arbeit überhaupt. Wie nun in der bürgerlichen Gesellschaft ein General oder Bankier eine große, der Mensch schlechthin dagegen eine sehr schäbige Rolle spielt (14), so steht es auch hier mit der menschlichen Arbeit. Sie ist Verausgabung einfacher Arbeitskraft, die im Durchschnitt jeder gewöhnliche Mensch, ohne besondere Entwicklung, in seinem leiblichen Organismus besitzt. Die einfache Durchschnittsarbeit selbst wechselt zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen ihren Charakter, ist aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben. Kompliziertere Arbeit gilt nur als potenzierte oder vielmehr multiplizierte einfache Arbeit, so daß ein kleineres Quantum komplizierter Arbeit gleich einem größeren Quantum einfacher Arbeit. Daß diese Reduktion beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung. Eine Ware mag das Produkt der kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.(15) Die verschiednen Proportionen, worin verschiedne Arbeitsarten auf einfache Arbeit als ihre Maßeinheit reduziert sind, werden durch einen gesellschaftlichen Prozeß hinter dem Rücken der Produzenten festgesetzt und scheinen ihnen daher durch das Herkommen gegeben. Der Vereinfachung halber gilt uns im Folgenden jede Art Arbeitskraft unmittelbar für einfache Arbeitskraft, wodurch nur die Mühe der Reduktion erspart wird.

10. Wie also in den Werten Rock und Leinwand von dem Unterschied ihrer Gebrauchswerte abstrahiert ist, so in den Arbeiten, die sich in diesen Werten darstellen, von dem Unterschied ihrer nützlichen Formen, der Schneiderei und Weberei. Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft. Bildungselemente der Gebrauchs- <60> werte Rock und Leinwand sind Schneiderei und Weberei eben durch ihre verschiednen Qualitäten; Substanz des Rockwerts und Leinwandwerts sind sie nur, soweit von ihrer besondren Qualität abstrahiert und beide gleiche Qualität besitzen, die Qualität menschlicher Arbeit.

11. Rock und Leinwand sind aber nicht nur Werte überhaupt, sondern Werte von bestimmter Größe, und nach unsrer Unterstellung ist der Rock doppelt soviel wert als 10 Ellen Leinwand. Woher diese Verschiedenheit ihre Wertgrößen? Daher, daß die Leinwand nur halb soviel Arbeit enthält als der Rock, so daß zur Produktion des letzteren die Arbeitskraft während doppelt soviel Zeit verausgabt werden muß als zur Produktion der erstern.

12. Wenn also mit Bezug auf den Gebrauchswert die in der Ware enthaltene Arbeit nur qualitativ gilt, gilt sie mit Bezug auf die Wertgröße nur quantitativ, nachdem sie bereits auf menschliche Arbeit ohne weitere Qualität reduziert ist. Dort handelt es sich um das Wie und Was der Arbeit, hier um ihr Wieviel, ihre Zeitdauer. Da die Wertgröße einer Ware nur das Quantum der in ihr enthaltenen Arbeit darstellt, müssen Waren in gewisser Proportion stets gleich große Werte sein.

13. Bleibt die Produktivkraft, sage aller zur Produktion eines Rocks erheischten nützlichen Arbeiten unverändert, so steigt die Wertgröße der Röcke mit ihrer eignen Quantität. Wenn 1 Rock x, stellen 2 Röcke 2 x Arbeitstage dar usw. Nimm aber an, die zur Produktion eines Rocks notwendige Arbeit steige auf das Doppelte oder falle um die Hälfte. Im ersten Fall hat ein Rock soviel Wert als vorher zwei Röcke, im letztern Fall haben zwei Röcke nur soviel Wert als vorher einer, obgleich in beiden Fällen ein Rock nach wie vor dieselben Dienste leistet und die in ihm enthaltene nützliche Arbeit nach wie vor von derselben Güte bleibt. Aber das in seiner Produktion verausgabte Arbeitsquantum hat sich verändert.

14. Ein größres Quantum Gebrauchswert bildet an und für sich größren stofflichen Reichtum, zwei Röcke mehr als einer. Mit zwei Röcken kann man zwei Menschen kleiden, mit einem Rock nur einen Menschen usw. Dennoch kann der steigenden Masse des stofflichen Reichtums ein gleichzeitiger Fall seiner Wertgröße entsprechen. Diese gegensätzliche Bewegung entspringt aus dem zwieschlächtigen Charakter der Arbeit. Produktivkraft ist natürlich stets Produktivkraft nützlicher, konkreter Arbeit und bestimmt in der Tat nur den Wirkungsgrad zweckmäßiger produktiver Tätigkeit in gegebnem Zeitraum. Die nützliche Arbeit wird daher reichere oder dürftigere Produktenquelle im direkten Verhältnis zum Steigen oder Fallen ihrer Produktivkraft. Dagegen trifft ein Wechsel der Produktivkraft die im <61> Wert dargestellte Arbeit an und für sich gar nicht. Da die Produktivkraft der konkreten nützlichen Form der Arbeit angehört, kann sie natürlich die Arbeit nicht mehr berühren, sobald von ihrer konkreten nützlichen Form abstrahiert wird. Dieselbe Arbeit ergibt daher in denselben Zeiträumen stets dieselbe Wertgröße, wie immer die Produktivkraft wechsle. Aber sie liefert in demselben Zeitraum verschiedene Quanta Gebrauchswerte, mehr, wenn die Produktivkraft steigt, weniger, wenn sie sinkt. Derselbe Wechsel der Produktivkraft, der die Fruchtbarkeit der Arbeit und daher die Masse der von ihr gelieferten Gebrauchswerte vermehrt, vermindert also die Wertgröße dieser vermehrten Gesamtmasse, wenn er die Summe der zu ihrer Produktion notwendigen Arbeitszeit abkürzt. Ebenso umgekehrt.

15. Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andrerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besondrer zweckbestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte.(16)


 3. Die Wertform oder der Tauschwert


3. Die Wertform oder der Tauschwert

1. <62> Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.

2. Die Wertgegenständlichkeit der Waren unterscheidet sich dadurch von der Wittib Hurtig, daß man nicht weiß, wo sie zu haben ist. Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenkörper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlicher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegenständlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie nur im gesellschaftlichen Verhältnis von Ware zu Ware erscheinen kann. Wir gingen in der Tat vom Tauschwert oder Austauschverhältnis der Waren aus, um ihrem darin versteckten Wert auf die Spur zu kommen. Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.


3. Jedermann weiß, wenn er auch sonst nichts weiß, daß die Waren eine mit den bunten Naturalformen ihrer Gebrauchswerte höchst frappant kontrastierende, gemeinsame Wertform besitzen - die Geldform. Hier gilt es jedoch zu leisten, was von der bürgerlichen Ökonomie nicht einmal versucht ward, nämlich die Genesis dieser Geldform nachzuweisen, also die Entwicklung des im Wertverhältnis der Waren enthaltenen Wertausdrucks von seiner einfachsten unscheinbarsten Gestalt bis zur blendenden Geldform zu verfolgen. Damit verschwindet zugleich das Geldrätsel.

4. Das einfachste Wertverhältnis ist offenbar das Wertverhältnis einer Ware zu einzigen verschiedenartigen Ware, gleichgültig welcher. Das Wertverhältnis zweier Waren liefert daher den einfachsten Wertausdruck für eine Ware.


 A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform


 A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform


 x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
 (20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform


1. Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.

2. Es spielen hier zwei verschiedenartige Waren A und B, in unsrem Beispiel Leinwand und Rock, offenbar zwei verschiedene Rollen. Die Leinwand drückt ihren Wert aus im Rock, der Rock dient zum Material dieses Wertausdrucks. Die erste Ware spielt eine aktive, die zweite eine passive Rolle. Der Wert der ersten Ware ist als relativer Wert dargestellt, oder sie befindet sich in relativer Wertform. Die zweite Ware funktioniert als Äquivalent oder befindet sich in Äquivalentform.

3. Relative Wertform und Äquivalentform sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme, d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht. Ich kann z.B. den Wert der Leinwand nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Gebrauchsgegenstandes Leinwand. Der Wert der Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h. in andrer Ware. Die relative Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befindet. Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer Ware das Material.

4. Allerdings schließt der Ausdruck: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert, auch die Rückbeziehungen ein: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock ist 20 Ellen Leinwand wert. Aber so muß ich doch die Gleichung umkehren, um den Wert des Rocks relativ ausdrücken, und sobald ich das tue, wird die Leinwand Äquivalent statt des Rockes. Dieselbe Ware kann also in demselben Wertausdruck nicht gleichzeitig in beiden Formen auftreten. Diese schließen sich vielmehr polarisch aus.

5. <64> Ob eine Ware sich nun in relativer Wertform befindet oder in der entgegengesetzten Äquivalentform, hängt ausschließlich ab von ihrer jedesmaligen Stelle im Wertausdruck, d.h. davon, ob sie die Ware ist, deren Wert, oder aber die Ware, worin Wert ausgedrückt wird.


 2. Die relative Wertform

 

 a) Gehalt der relativen Wertform


1. Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)

2. Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

3. Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.

4. Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.

5. Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).

6. Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

7. Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.

8. In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

9. Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.

10. Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>

11. Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.


 b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform



 b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform


1. Jede Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, ist ein Gebrauchsgegenstand von gegebnem Quantum, 15 Scheffel Weizen, 100 Pfd. Kaffee usw. Dieses gegebne Warenquantum enthält ein bestimmtes Quantum menschlicher Arbeit. Die Wertform hat also nicht nur Wert überhaupt, sondern quantitativ bestimmten Wert oder Wertgröße auszudrücken. Im Wertverhältnis der Ware A zur Ware B, der Leinwand zum Rocke, wird daher die Warenart Rock nicht nur als Wertkörper überhaupt der Leinwand qualitativ gleichgesetzt, sondern einem bestimmten Leinwandquantum, z.B. 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Wertkörpers oder Äquivalents, z.B. 1 Rock.

2. Die Gleichung: "20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert" setzt voraus, daß in 1 Rock gerade so viel Wertsubstanz steckt als in 20 Ellen Leinwand, daß beide Warenquanta also gleich viel Arbeit kosten oder gleich große Arbeitszeit. Die zur Produktion <68> von 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock notwendiger Arbeitszeit wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Weberei oder der Schneiderei. Der Einfluß solcher Wechsel auf den relativen Ausdruck der Wertgröße soll nun näher untersucht werden.


3. I. Der Wert der Leinwand wechsle (19), während der Rockwert konstant bleibt. Verdoppelt sich die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit, etwa infolge zunehmender Unfruchtbarkeit des flachstragenden Bodens, so verdoppelt sich ihr Wert. Statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock hätten wir 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, da 1 Rock jetzt nur halb so viel Arbeitszeit enthält als 20 Ellen Leinwand. Nimmt dagegen die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit um die Hälfte ab, etwa infolge verbesserter Webstühle, so sinkt der Leinwandwert um die Hälfte. Demgemäß jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Der relative Wert der Ware A, d.h. ihr Wert ausgedrückt in der Ware B, steigt und fällt also direkt wie der Wert der Ware A, bei gleichbleibenden Wert der Ware B.

4. II. Der Wert der Leinwand bleibe konstant, während der Rockwert wechsle. Verdoppelt sich unter diesen Umständen die zur Produktion des Rockes notwendige Arbeitszeit, etwa infolge ungünstiger Wollschur, so haben wir statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Fällt dagegen der Wert des Rockes um die Hälfte, so 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke. Bei gleichbleibendem Wert der Ware A fällt oder steigt daher ihr relativer, in der Ware B ausgedrücker Wert im umgekehrten Verhältnis zum Wertwechsel von B.

5. Vergleicht man die verschiednen Fälle sub I und II, so ergibt sich, daß derselbe Größenwechsel des relativen Werts aus ganz entgegengesetzten Ursachen entspringen kann. So wird aus 20 Ellen Leinwand = 1 Rock: 1. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, entweder weil der Wert der Leinwand sich verdoppelt oder der Wert der Röcke um die Hälfte fällt, und 2. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock, entweder weil der Wert der Leinwand um die Hälfte sinkt oder der Wert des Rockes auf das Doppelte steigt.

6. III. Die zur Produktion von Leinwand und Rock notwendigen Arbeitsquanta mögen gleichzeitig, in derselben Richtung und derselben Proportion wechseln. In diesem Falle nach wie vor 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, wie immer ihre Werte verändert seien. Man entdeckt ihren Wertwechsel, so- <69> bald man sie mit einer dritten Ware vergleicht, deren Wert konstant blieb. Stiegen oder fielen die Werte aller Waren gleichzeitig und in derselben Proportion, so würden ihre relativen Werte unverändert bleiben. Ihren wirklichen Wertwechsel ersähe man daraus, daß in derselben Arbeitszeit nun allgemein ein größeres oder kleineres Warenquantum als vorher geliefert würde.

7. IV. Die zur Produktion von Leinwand und Rock resp. notwendigen Arbeitszeiten, und daher ihre Werte, mögen gleichzeitig in derselben Richtung wechseln, aber in ungleichem Grad, oder in entgegengesetzter Richtung usw. Der Einfluß aller möglichen derartigen Kombinationen auf den relativen Wert einer Ware ergibt sich einfach durch Anwendung der Fälle I, II und III.

8. Wirkliche Wechsel der Wertgröße spiegeln sich also weder unzweideutig noch erschöpfend wider in ihrem relativen Ausdruck oder in der Größe des relativen Werts. Der relative Wert einer Ware kann wechseln, obgleich ihr Wert konstant bleibt. Ihr relativer Wert kann konstant bleiben, obgleich ihr Wert wechselt, und endlich brauchen gleichzeitige Wechsel in ihrer Wertgröße und im relativen Ausdruck dieser Wertgröße sich keineswegs zu decken.(20)


 3. Die Äquivalentform


 3. Die Äquivalentform

1. <70> Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.

2. Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab. Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.

3. Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was? 2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken. Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.

4. Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.

5. <71> Die Naturalform der Ware wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.

6. Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen. Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen. In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.

7. Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.

8. Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt. Umgekehrt mit der Äquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der <72> Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten. Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.

9. Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit. Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.

10. In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen. All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner <73> konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.

11. Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.

12. Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.

13. Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.

14. Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:
"5 Polster = 1 Haus"
Kliuai pente anti oik iaz
< Griechisch: Clinai pente anti oicias>
"unterscheidet sich nicht" von:
"5 Polster = soundso viel Geld"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
< Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

15. Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("out isothz mh oushz summetria z"). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (th men oun alhdeia adunaton), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".

16. Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.

17. Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.


 4. Das Ganze der einfache Wertform


4. Das Ganze der einfache Wertform

1. Die einfache Wertform einer Ware ist enthalten in ihrem Wertverhältnis zu einer verschiedenartigen Ware oder im Austauschverhältnis mit derselben. Der Wert der Ware A wird qualitativ ausgedrückt durch die unmittelbare Austauschbarkeit der Ware B mit der Ware A. Er wird quantitativ ausgedrückt durch die Austauschbarkeit eines bestimmten Quantums der Ware B mit dem gegebenen Quantum der Ware A. In andren Worten: <75> Der Wert einer Ware ist selbständig ausgedrückt durch seine Darstellung als "Tauschwert". Wenn es im Eingang dieses Kapitels in der gang und gäben Manier hieß: Die Ware ist Gebrauchswert und Tauschwert, so war dies, genau gesprochen, falsch. Die Ware ist Gebrauchswert oder Gebrauchsgegenstand und "Wert". Sie stellt sich dar als dies Doppelte, was sie ist, sobald ihr Wert eine eigne, von ihrer Naturalform verschiedene Erscheinungsform besitzt, die des Tauschwerts, und sie besitzt diese Form niemals isoliert betrachtet, sondern stets nur im Wert- oder Austauschverhältnis zu einer zweiten, verschiedenartigen Ware. Weiß man das jedoch einmal, so tut jene Sprechweise keinen Harm, sondern dient zur Abkürzung.

2. Unsere Analyse bewies, daß die Wertform oder der Wertausdruck der Ware aus der Natur des Warenwerts entspringt, nicht umgekehrt Wert und Wertgröße aus ihrer Ausdrucksweise als Tauschwert. Dies ist jedoch der Wahn sowohl der Merkantilisten und ihrer modernen Aufwärmer, wie Ferrier, Ganilh usw. (22), als auch ihrer Antipoden, der modernen Freihandels-Commis-Voyageurs, wie Bastiat und Konsorten. Die Merkantilisten legen das Hauptgewicht auf die qualitative Seite des Wertausdrucks, daher auf die Äquivalentform der Ware, die im Geld ihre fertige Gestalt besitzt - die modernen Freihandelshausierer dagegen, die ihre Ware um jeden Preis losschlagen müssen, auf die quantitative Seite der relativen Wertform. Für sie existiert folglich weder Wert noch Wertgröße der Ware außer in dem Ausdruck durch das Austauschverhältnis, daher nur im Zettel des täglichen Preiskurants. Der Schotte Macleod, in seiner Funktion, die kreuzverwirrten Vorstellungen von Lombardstreet möglichst gelehrt herauszuputzen, bildet die gelungene Synthese zwischen den abergläubigen Merkantilisten und den aufgeklärten Freihandelshausierern.

3. Die nähere Betrachtung des im Wertverhältnis zur Ware B enthaltenen Wertausdrucks der Ware A hat gezeigt, daß innerhalb desselben die Naturalform der Ware A nur als Gestalt von Gebrauchswert, die Naturalform der Ware B nur als Wertform oder Wertgestalt gilt. Der in der Ware eingehüllte innere Gegensatz von Gebrauchswert und Wert wird also dargestellt durch einen äußeren Gegensatz, d.h. durch das Verhältnis zweier Waren, worin <76> die eine Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, unmittelbar nur als Gebrauchswert, die andre Ware hingegen, worin Wert ausgedrückt wird, unmittelbar nur als Tauschwert gilt. Die einfache Wertform einer Ware ist also die einfache Erscheinungsform des in ihr enthaltenen Gegensatzes von Gebrauchswert und Wert.

4. Das Arbeitsprodukt ist in allen gesellschaftlichen Zuständen Gebrauchsgegenstand, aber nur eine historisch bestimmte Entwicklungsepoche, welche die in der Produktion eines Gebrauchsdings verausgabte Arbeit als seine "gegenständliche" Eigenschaft darstellt, d.h. als seinen Wert, verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware. Es folgt daher, daß die einfache Wertform der Ware zugleich die einfache Warenform des Arbeitsprodukts ist, daß also auch die Entwicklung der Warenform mit der Entwicklung der Wertform zusammenfällt.

5. Der erste Blick zeigt das Unzulängliche der einfachen Wertform, dieser Keimform, die erst durch eine Reihe von Metamorphosen zur Preisform heranreift.

6. Der Ausdruck in irgendwelcher Ware B unterscheidet den Wert der Ware A nur von ihrem eignen Gebrauchswert und setzt sie daher auch nur in ein Austauschverhältnis zu irgendeiner einzelnen von ihr selbst verschiednen Warenart, statt ihre qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalität mit allen andren Waren darzustellen. Der einfachen relativen Wertform einer Ware entspricht die einzelne Äquivalentform einer andren Ware. So besitzt der Rock, im relativen Wertausdruck der Leinwand, nur Äquivalentform oder Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit Bezug auf diese einzelne Warenart Leinwand.

7. Indes geht die einzelne Wertform von selbst in eine vollständigere Form über. Vermittelst derselben wird der Wert einer Ware A zwar in nur einer Ware von andrer Art ausgedrückt. Welcher Art aber diese zweite Ware, ob Rock, ob Eisen, ob Weizen usw., ist durchaus gleichgültig. Je nachdem sie also zu dieser oder jener andren Warenart in ein Wertverhältnis tritt, entstehn verschiedne einfache Wertausdrücke einer und derselben Ware.(22a) Die Anzahl ihrer möglichen Wertausdrücke ist nur beschränkt durch die Anzahl von ihr verschiedner Warenarten. Ihr vereinzelter Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verlängerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdrücke.

 
 B) Totale oder entfaltete Wertform

 B) Totale oder entfaltete Wertform

1. <77> z Ware A = u Ware B oder = v Ware C oder = w Ware D oder = x Ware E oder = etc.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 40 Pfd. Kaffee oder = 1 Quarter Weizen oder = 2 Unzen Gold oder = 1/2 Tonne Eisen oder = etc. )

 1. Die entfaltete relative Wertform

 1. Die entfaltete relative Wertform

1. Die Wert einer Ware, der Leinwand z.B., ist jetzt ausgedrückt in zahllosen andren Elementen der Warenwelt. Jeder andre Warenkörper wird zum Spiegel des Leinwandwerts.(23) So erscheint dieser Wert selbst erst wahrhaft als Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit. Denn die ihn bildende Arbeit ist nun ausdrücklich als Arbeit dargestellt, der jede andre menschliche Arbeit gleichgilt, welche Naturalform sie immer besitze und ob sie sich daher in Rock oder Weizen oder Eisen oder Gold usw. vergegenständliche. Durch ihre Wertform steht die Leinwand daher jetzt auch in gesellschaftlichem Verhältnis nicht mehr zu nur einer einzelnen andren Warenart, sondern zur Warenwelt. Als Ware ist sie Bürger dieser Welt. Zugleich liegt in der endlosen Reihe seiner Ausdrücke, daß der Warenwert gleichgültig ist gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, worin er erscheint.

2. <78> In der ersten Form: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock kann es zufällige Tatsache sein, daß diese zwei Waren in einem bestimmten quantitativen Verhältnisse austauschbar sind. In der zweiten Form leuchtet dagegen sofort ein von der zufälligen Erscheinung wesentlich unterschiedner und sie bestimmender Hintergrund durch. Der Wert der Leinwand bleibt gleich groß, ob in Rock oder Kaffee oder Eisen etc. dargestellt, in zahllos verschiednen Waren, den verschiedensten Besitzern angehörig. Das zufällige Verhältnis zweier individueller Warenbesitzer fällt fort. Es wird offenbar, daß nicht der Austausch die Wertgröße der Ware, sondern umgekehrt die Wertgröße der Ware ihre Austauschverhältnisse reguliert.


 2. Die besondre Äquivalentform

1. Jede Ware, Rock, Tee, Weizen, Eisen usw., gilt im Wertausdruck der Leinwand als Äquivalent und daher als Wertkörper. Die bestimmte Naturalform jeder dieser Waren ist jetzt eine besondre Äquivalentform neben vielen andren. Ebenso gelten die mannigfaltigen in den verschiedenen Warenkörpern enthaltenen bestimmten, konkreten, nützlichen Arbeitsarten jetzt als ebenso viele besondre Verwirklichungs- oder Erscheinungsformen menschlicher Arbeit schlechthin.


 3. Mängel der totalen oder entfalteten Wertform


3. Mängel der totalen oder entfalteten Wertform

1. Erstens ist der relative Wertausdruck der Ware unfertig, weil seine Darstellungsreihe nie abschließt. Die Kette, worin eine Wertgleichung sich zur andern fügt, bleibt fortwährend verlängerbar durch jede neu auftretende Warenart, welche das Material eines neuen Wertausdrucks liefert. Zweitens bildet sie eine bunte Mosaik auseinanderfallender und verschiedenartiger Wertausdrücke. Wird endlich, wie dies geschehn muß, der relative Wert jeder Ware in dieser entfalteten Form ausgedrückt, so ist die relative Wertform jeder Ware eine von der relativen Wertform jeder andren Ware verschiedne endlose Reihe von Wertausdrücken. - Die Mängel der entfalteten relativen Wertform spiegeln sich wider in der ihr entsprechenden Äquivalentform. Da die Naturalform jeder einzelnen Warenart hier eine besondre Äquivalentform neben unzähligen andren besondren Äquivalentformen ist, existieren überhaupt nur beschränkte Äquivalentformen, von denen jede die andre ausschließt. Ebenso ist die in jedem besondren Warenäquivalent enthaltene bestimmte, konkrete, nützliche Arbeitsart nur be- <79> sondre, also nicht erschöpfende Erscheinungsform der menschlichen Arbeit. Diese besitzt ihre vollständige oder totale Erscheinungsform zwar in dem Gesamtumkreis jener besondren Erscheinungsformen. Aber so besitzt sie keine einheitliche Erscheinungsform.

2. Die entfaltete relative Wertform besteht jedoch nur aus einer Summe einfacher relativer Wertausdrücke oder Gleichungen der ersten Form, wie:

20 Ellen Leinwand = 1 Rock
20 Ellen Leinwand = 10 Pfd. Tee usw.

3. Jede dieser Gleichungen enthält aber rückbezüglich auch die identische Gleichung:
1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.

4. In der Tat: Wenn ein Mann seine Leinwand mit vielen andren Waren austauscht und daher ihren Wert in einer Reihe von andren Waren ausdrückt, so müssen notwendig auch die vielen andren Warenbesitzer ihre Waren mit Leinwand austauschen und daher die Werte ihrer verschiednen Waren in derselben dritten Ware ausdrücken, in Leinwand. - Kehren wir also die Reihe: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = usw. um, d.h., drücken wir die der Sache nach schon in der Reihe enthaltene Rückbeziehung aus, so erhalten wir:

 
 C) Allgemeine Wertform


1 Rock       =
10 Pfd. Tee     =
40 Pfd. Kaffee   =
1 Qrtr. Weizen   =  }20 Ellen Leinwand
2 Unzen Gold    =
1/2 Tonne Eisen  =
x Ware A      =
usw. Ware      =


 1. Veränderter Charakter der Wertform


1. Die Waren stellen ihre Werte jetzt 1. einfach dar, weil in einer einzigen Ware und 2. einheitlich, weil in derselben Ware. Ihre Wertform ist einfach und gemeinschaftlich, daher allgemein.

2. <80> Die Formen I und II kamen beide nur dazu, den Wert einer Ware als etwas von ihrem eigne Gebrauchswert oder ihrem Warenkörper Unterschiedenes auszudrücken.

3. Die erste Form ergab Wertgleichungen wie: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand, 10 Pfd. Tee = 1/2 Tonne Eisen usw. Der Rockwert wird als Leinwandgleiches, der Teewert als Eisengleiches usw. ausgedrückt, aber Leinwandgleiches und Eisengleiches, diese Wertausdrücke von Rock und Tee, sind ebenso verschieden wie Leinwand und Eisen. Diese Form kommt offenbar praktisch nur vor in den ersten Anfängen, wo Arbeitsprodukte durch zufälligen und gelegentlichen Austausch in Waren verwandelt werden.

4. Die zweite Form unterscheidet vollständiger als die erste den Wert einer Ware von ihrem eignen Gebrauchswert, denn der Wert des Rocks z.B. tritt jetzt seiner Naturalform in allen möglichen Formen gegenüber, als Leinwandgleiches, Eisengleiches, Teegleiches usw., alles andre, nur nicht Rockgleiches. Andrerseits ist hier jeder gemeinsame Wertausdruck der Waren direkt ausgeschlossen, denn im Wertausdruck je einer Ware erscheinen jetzt alle andren Waren nur in der Form von Äquivalenten. Die entfaltete Wertform kommt zuerst tatsächlich vor, sobald ein Arbeitsprodukt, Vieh z.B., nicht mehr ausnahmsweise, sondern schon gewohnheitsmäßig mit verschiednen andren Waren ausgetauscht wird.

5. Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wert jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendadurch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese Form bezieht daher wirklich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen.

6. Die beiden früheren Formen drücken den Wert je einer Ware, sei es in einer einzigen verschiedenartigen Ware, sei es in einer Reihe vieler von ihr verschiednen Waren aus. Beidemal ist es sozusagen das Privatgeschäft der einzelnen Ware, sich eine Wertform zu geben, und sie vollbringt es ohne Zutun der andren Waren. Diese spielen ihr gegenüber die bloß passive Rolle des Äquivalents. Die allgemeine Wertform entsteht dagegen nur als gemeinsames Werk der Warenwelt. Eine Ware gewinnt nur allgemeinen Wertausdruck, weil gleichzeitig alle andren Waren ihren Wert in demselben Äquivalent ausdrücken, und jede neu auftretende Warenart muß das nachmachen. Es kommt damit zum Vorschein, daß die Wertgegenständlichkeit der Waren, weil sie das bloß "gesellschaftliche Dasein" dieser Dinge ist, <81> auch nur durch ihre allseitige gesellschaftliche Beziehung ausgedrückt werden kann, ihre Wertform daher gesellschaftlich gültige Form sein muß.

7. In der Form von Leinwandgleichen erscheinen jetzt alle Waren nicht nur als qualitativ Gleiche, Werte überhaupt, sondern zugleich als quantitativ vergleichbare Wertgrößen. Weil sie ihre Wertgrößen in einem und demselben Material, in Leinwand bespiegeln, spiegeln sich diese Wertgrößen wechselseitig wider. Z.B. 10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand, und 40 Pfd. Kaffee = 20 Ellen Leinwand. Also 10 Pfd. Tee = 40 Pfd. Kaffee. Oder in 1 Pfd. Kaffee steckt nur 1/4 soviel Wertsubstanz, Arbeit, als in 1 Pfd. Tee.

8. Die allgemeine relative Wertform der Warenwelt drückt der von ihr ausgeschlossenen Äquivalentware, der Leinwand, den Charakter des allgemeinen Äquivalents auf. Ihre eigne Naturalform ist die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt, die Leinwand daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar. Ihre Körperform gilt als die sichtbare Inkarnation, die allgemeine gesellschaftliche Verpuppung aller menschlichen Arbeit. Die Weberei, die Privatarbeit, welche Leinwand produziert, befindet sich zugleich in allgemein gesellschaftlicher Form, der Form der Gleichheit mit allen andren Arbeiten. Die zahllosen Gleichungen, woraus die allgemeine Wertform besteht, setzen der Reihe nach die in der Leinwand verwirklichte Arbeit jeder in andrer Ware enthaltenen Arbeit gleich und machen dadurch die Weberei zur allgemeinen Erscheinungsform menschlicher Arbeit überhaupt. So ist die im Warenwert vergegenständlichte Arbeit nicht nur negativ dargestellt als Arbeit, worin von allen konkreten Formen und nützlichen Eigenschaften der wirklichen Arbeiten abstrahiert wird. Ihre eigne positive Natur tritt ausdrücklich hervor. Sie ist die Reduktion aller wirkliche Arbeiten auf den ihnen gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit, auf die Verausgabung menschlicher Arbeitskraft.

9. Die allgemeine Wertform, welche die Arbeitsprodukte als bloße Gallerten unterschiedsloser menschlicher Arbeit darstellt, zeigt durch ihr eignes Gerüste, daß sie der gesellschaftliche Ausdruck der Warenwelt ist. So offenbart sie, daß innerhalb dieser Welt der allgemein menschliche Charakter der Arbeit ihren spezifisch gesellschaftlichen Charakter bildet.


 2. Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform

1. Dem Entwicklungsgrad der relativen Wertform entspricht der Entwicklungsgrad der Äquivalentform. Aber, und dies ist wohl zu merken, die Entwicklung der Äquivalentform ist nur Ausdruck und Resultat der Entwicklung der relativen Wertform.

2. <82> Die einfache oder vereinzelte relative Wertform einer Ware macht eine andre Ware zum einzelnen Äquivalent. Die entfaltete Form des relativen Werts, dieser Ausdruck des Werts einer Ware in allen andren Waren, prägt ihnen die Form verschiedenartiger besonderer Äquivalente auf. Endlich erhält eine besondre Warenart die allgemeine Äquivalentform, weil alle andren Waren sie zum Material ihrer einheitlichen, allgemeinen Wertform machen.

3. In demselben Grad aber, worin sich die Wertform überhaupt entwickelt, entwickelt sich auch der Gegensatz zwischen ihren beiden Polen, der relativen Wertform und Äquivalentform.

4. Schon die erste Form - 20 Ellen Leinwand = 1 Rock - enthält diesen Gegensatz, fixiert ihn aber nicht. Je nachdem dieselbe Gleichung vorwärts oder rückwärts gelesen wird, befindet sich jedes der beiden Warenextreme, wie Leinwand und Rock, gleichmäßig bald in der relativen Wertform, bald in der Äquivalentform. Es kostet hier noch Mühe, den polarischen Gegensatz festzuhalten.

5. In den Form II kann immer nur je eine Warenart ihren relativen Wert total entfalten oder besitzt sie selbst nur entfaltete relative Wertform, weil und sofern alle andren Waren sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befinden. Hier kann man nicht mehr die zwei Seiten der Wertgleichung - wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 1 Qrtr. Weizen etc. - umsetzen, ohne ihren Gesamtcharakter zu verändern und sie aus der totalen in die allgemeine Wertform zu verwandeln.

6. Die letztere Form, Form III, endlich gibt der Warenwelt allgemeingesellschaftliche relative Wertform, weil und sofern, mit einer einzigen Ausnahme, alle ihr angehörigen Waren von der allgemeinen Äquivalentform ausgeschlossen sind. Eine Ware, die Leinwand, befindet sich daher in der Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit allen andren Waren oder in unmittelbar gesellschaftlicher Form, weil und sofern alle andren Waren sich nicht darin befinden.(24)

7. <83> Umgekehrt ist die Ware, die als allgemeines Äquivalent figuriert, von der einheitlichen und daher allgemeinen relativen Wertform der Warenwelt ausgeschlossen. Sollte die Leinwand, d.h. irgendeine in allgemeiner Äquivalentform befindliche Ware, auch zugleich an der allgemeinen relativen Wertform teilnehmen, so müßte sie sich selbst zum Äquivalent dienen. Wir erhielten dann: 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand, eine Tautologie, worin weder Wert noch Wertgröße ausgedrückt ist. Um den relativen Wert des allgemeinen Äquivalents auszudrücken, müssen wir vielmehr die Form III umkehren. Es besitzt keine mit den andren Waren gemeinschaftliche relative Wertform, sondern sein Wert drückt sich relativ aus in der endlosen Reihe aller andren Warenkörper. So erscheint jetzt die entfaltete relative Wertform oder Form II als die spezifische relative Wertform der Äquivalentware.


 3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform


1. Die allgemeine Äquivalentform ist eine Form des Werts überhaupt. Sie kann also jeder Ware zukommen. Andrerseits befindet sich eine Ware nur in allgemeiner Äquivalentform (Form III), weil und sofern sie durch alle andren Waren als Äquivalent ausgeschlossen wird. Und erst vom Augenblick, wo diese Ausschließung sich endgültig auf eine spezifische Warenart beschränkt, hat die einheitliche relative Wertform der Warenwelt objektive Festigkeit und allgemein gesellschaftliche Gültigkeit gewonnen.

2. Die spezifische Warenart nun, mit deren Naturalform die Äquivalentform gesellschaftlich verwächst, wird zur Geldware oder funktioniert als Geld. Es wird ihre spezifisch gesellschaftliche Funktion, und daher ihr gesellschaftliches Monopol, innerhalb der Warenwelt die Rolle des allgemeinen Äquivalents zu spielen. Diesen bevorzugten Platz hat unter den <84> Waren, welche in Form II als besondre Äquivalente der Leinwand figurieren und in Form III ihren relativen Wert gemeinsam in Leinwand ausdrücken eine bestimmte Ware historisch erobert, das Gold. Setzen wir daher in Form III die Ware Gold an die Stelle der Ware Leinwand, so erhalten wir:


 D) Geldform

20 Ellen Leinwand  =
1 Rock        =
10 Pfd. Tee      =
40 Pfd. Kaffee    =  }2 Unzen Gold
1 Qrtr. Weizen    =
1/2 Tonne Eisen   =
x Ware A       =


1. Es finden wesentliche Veränderungen statt beim Übergang von Form I zu Form II, von Form II zu Form III. Dagegen unterscheidet Form IV sich durch nichts von Form III, außer daß jetzt statt Leinwand Gold die allgemeine Äquivalentform besitzt. Gold bleibt in Form IV, was die Leinwand in Form III war - allgemeines Äquivalent. Der Fortschritt besteht nur darin , daß die Form unmittelbarer allgemeiner Austauschbarkeit oder die allgemeine Äquivalentform jetzt durch gesellschaftliche Gewohnheit endgültig mit der spezifischen Naturalform der Ware Gold verwachsen ist.

2. Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in vereinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Warenäquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle im Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereits Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform.

3. Die einfache relative Wertausdruck einer Ware, z.B. der Leinwand, in der bereits als Geldware funktionierenden Ware, z.B. dem Gold, ist Preisform. Die "Preisform" der Leinwand daher:
20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold
oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,
20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.

4. <85> Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.


 Fußnoten

(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=

(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=

(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=

(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=

(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=

(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=

(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=

(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=

(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

1. Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken. Soweit sie Gebrauchswert, ist nichts Mysteriöses an ihr, ob ich sie nun unter dem Gesichtspunkt betrachte, daß sie durch ihre Eigenschaften menschliche Bedürfnisse befriedigt oder diese Eigenschaften erst als Produkt menschlicher Arbeit erhält. Es ist sinnenklar, daß der Mensch durch seine Tätigkeit die Formen der Naturstoffe in einer ihm nützliche Weise verändert. Die Form des Holzes z.B. wird verändert, wenn man aus ihm einen Tisch macht. Nichtsdestoweniger bleibt der Tisch Holz, ein ordinäres sinnliches Ding. Aber sobald er als Ware auftritt, verwandelt er sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. Er steht nicht nur mit seinen Füßen auf dem Boden, sondern er stellt sich allen andren Waren gegenüber auf den Kopf und entwickelt aus seinem Holzkopf Grillen, viel wunderlicher, als wenn er aus freien Stücken zu tanzen begänne.(25)

2. Der mystische Charakter der Ware entspringt also nicht aus ihrem Gebrauchswert. Er entspringt ebensowenig aus dem Inhalt der Wertbestimmungen. Denn erstens, wie verschieden die nützlichen Arbeiten oder produktiven Tätigkeiten sein mögen, es ist eine physiologische Wahrheit, daß sie Funktionen des menschlichen Organismus sind und daß jede solche Funktion, welches immer ihr Inhalt und ihre Form, wesentlich Verausgabung von menschlichem Hirn, Nerv, Muskel, Sinnesorgan usw. ist. Was zweitens der Bestimmung der Wertgröße zugrunde liegt, die Zeitdauer jener Verausgabung oder die Quantität der Arbeit, so ist die Quantität sogar sinnfällig von der Qualität der Arbeit unterscheidbar. In allen Zuständen mußte die Arbeitszeit, welche die Produktion der Lebensmittel kostet, den Men- <86> schen interessieren, obgleich nicht gleichmäßig auf verschiedenen Entwicklungsstufen.(26) Endlich, sobald die Menschen in irgendeiner Weise füreinander arbeiten, erhält ihre Arbeit auch eine gesellschaftliche Form.

3. Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst. Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten erhält die sachliche Form der gleichen Wertgegenständlichkeit der Arbeitsprodukte, das Maß der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft durch ihre Zeitdauer erhält die Form der Wertgröße der Arbeitsprodukte, endlich die Verhältnisse der Produzenten, worin jene gesellschaftlichen Bestimmungen ihrer Arbeiten betätigt werden, erhalten die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte.

4. Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhältnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. So stellt sich der Lichteindruck eines Dings auf den Sehnerv nicht als subjektiver Reiz des Sehnervs selbst, sondern als gegenständliche Form eines Dings außerhalb des Auges dar. Aber beim Sehen wird wirklich Licht von einem Ding, dem äußeren Gegenstand, auf ein andres Ding, das Auge, geworfen. Es ist ein physisches Verhältnis zwischen physischen Dingen. Dagegen hat die Warenform und das Wertverhältnis der Arbeitsprodukte, worin sie sich darstellt, mit ihrer physischen Natur und den daraus entspringenden dinglichen Beziehungen absolut nichts zu schaffen. Es ist nur das bestimmte gesellschaftliche Verhältnis der Menschen selbst, welches hier für sie die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen annimmt. Um daher eine Analogie zu finden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eignem Leben begabte, untereinander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Produkte der menschlichen Hand. Dies <87> nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.

5. Dieser Fetischcharakter der Warenwelt entspringt, wie die vorhergehende Analyse bereits gezeigt hat, aus dem eigentümlichen gesellschaftlichen Charakter der Arbeit, welche Waren produziert.

6. Gebrauchsgegenstände werden überhaupt nur Waren, weil sie Produkte voneinander unabhängig betriebner Privatarbeiten sind. Der Komplex dieser Privatarbeiten bildet die gesellschaftliche Gesamtarbeit. Da die Produzenten erst in gesellschaftlichen Kontakt treten durch den Austausch ihrer Arbeitsprodukte, erscheinen auch die spezifisch gesellschaftlichen Charaktere ihrer Privatarbeiten erst innerhalb dieses Austausches. Oder die Privatarbeiten betätigen sich in der Tat erst als Glieder der gesellschaftlichen Gesamtarbeit durch die Beziehungen, worin der Austausch die Arbeitsprodukte und vermittelst derselben die Produzenten versetzt. Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.

7. Erst innerhalb ihres Austauschs erhalten die Arbeitsprodukte eine von ihrer sinnlich verschiednen Gebrauchsgegenständlichkeit getrennte, gesellschaftlich gleiche Wertgegenständlichkeit. Diese Spaltung des Arbeitsprodukts in nützliches Ding und Wertding betätigt sich nur praktisch, sobald der Austausch bereits hinreichende Ausdehnung und Wichtigkeit gewonnen hat, damit nützliche Dinge für den Austausch produziert werden, der Wertcharakter der Sachen also schon bei ihrer Produktion selbst in Betracht kommt. Von diesem Augenblick erhalten die Privatarbeiten der Produzenten tatsächlich einen doppelten gesellschaftlichen Charakter. Sie müssen einerseits als bestimmte nützliche Arbeiten ein bestimmtes gesellschaftliches Bedürfnis befriedigen und sich so als Glieder der Gesamtarbeit, des naturwüchsigen Systems der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit, bewähren. Sie befriedigen andrerseits nur die mannigfache Bedürfnisse ihrer eignen Produzenten, sofern jede besondre nützliche Privatarbeit mit jeder andren nützlichen Art Privatarbeit austauschbar ist, also ihr gleichgilt. Die Gleichheit toto coelo <völlig> verschiedner Arbeiten kann nur in einer Abstraktion von ihrer wirklichen Ungleichheit bestehn, in der Reduktion auf den <88> gemeinsamen Charakter, den sie als Verausgabung menschlicher Arbeitskraft, abstrakt menschliche Arbeit, besitzen. Das Gehirn der Privatproduzenten spiegelt diesen doppelten gesellschaftlichen Charakter ihrer Privatarbeiten nur wider in den Formen, welche im praktischen Verkehr, im Produktenaustausch erscheinen - den gesellschaftlich nützlichen Charakter ihrer Privatarbeiten also in der Form, daß das Arbeitsprodukt nützlich sein muß, und zwar für andre - den gesellschaftlichen Charakter der Gleichheit der verschiedenartigen Arbeiten in der Form des gemeinsamen Wertcharakters dieser materiell verschiednen Dinge, der Arbeitsprodukte.

8. Die Menschen beziehen also ihre Arbeitsprodukte nicht aufeinander als Werte, weil diese Sachen ihnen als bloß sachliche Hüllen gleichartig menschlicher Arbeit gelten. Umgekehrt. Indem sie ihre verschiedenartigen Produkte einander im Austausch als Werte gleichsetzen, setzen sie ihre verschiednen Arbeiten einander als menschliche Arbeit gleich. Sie wissen das nicht, aber sie tun es.(27) Es steht daher dem Werte nicht auf der Stirn geschrieben, was er ist. Der Wert verwandelt vielmehr jedes Arbeitsprodukt in eine gesellschaftliche Hieroglyphe. Später suchen die Menschen den Sinn der Hieroglyphe zu entziffern, hinter das Geheimnis ihres eignen gesellschaftlichen Produkts zu kommen, denn die Bestimmung der Gebrauchsgegenstände als Werte ist ihr gesellschaftliches Produkt so gut wie die Sprache. Die späte wissenschaftliche Entdeckung, daß die Arbeitsprodukte, soweit sie Werte, bloß sachliche Ausdrücke der in ihrer Produktion verausgabten menschlichen Arbeit sind, macht Epoche in der Entwicklungsgeschichte der Menschheit, aber verscheucht keineswegs den gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Charakter der Arbeit. Was nur für diese besondre Produktionsform, die Warenproduktion, gültig ist, daß nämlich der spezifisch gesellschaftliche Charakter der voneinander unabhängigen Privatarbeiten in ihrer Gleichheit als menschliche Arbeit besteht und die Form des Wertcharakters der Arbeitsprodukte annimmt, erscheint, vor wie nach jener Entdeckung, den in den Verhältnissen der Warenproduktion Befangenen ebenso endgültig, als daß die wissenschaftliche Zersetzung der Luft in ihre Elemente die Luftform als eine physikalische Körperform fortbestehn läßt.

9. <89> Was die Produktenaustauscher zunächst praktisch interessiert, ist die Frage, wieviel fremde Produkte sie für das eigne Produkt erhalten, in welchen Proportionen sich also die Produkte austauschen. Sobald diese Proportionen zu einer gewissen gewohnheitsmäßigen Festigkeit herangereift sind, scheinen sie aus der Natur der Arbeitsprodukte zu entspringen, so daß z.B. eine Tonne Eisen und 2 Unzen Gold gleichwertig, wie ein Pfund Gold und ein Pfund Eisen trotz ihrer verschiednen physikalischen und chemischen Eigenschaften gleich schwer sind. In der Tat befestigt sich der Wertcharakter der Arbeitsprodukte erst durch ihre Betätigung als Wertgrößen. Die letzteren wechseln beständig, unabhängig vom Willen, Vorwissen und Tun der Austauschenden. Ihre eigne gesellschaftliche Bewegung besitzt für sie die Form einer Bewegung von Sachen, unter deren Kontrolle sie stehen, statt sie zu kontrollieren. Es bedarf vollständig entwickelter Warenproduktion, bevor aus der Erfahrung selbst die wissenschaftliche Einsicht herauswächst, daß die unabhängig voneinander betriebenen, aber als naturwüchsige Glieder der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit allseitig voneinander abhängigen Privatarbeiten fortwährend auf ihr gesellschaftlich proportionelles Maß reduziert werden, weil sich in den zufälligen und stets schwankenden Austauschverhältnissen ihrer Produkte die zu deren Produktion gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit als regelndes Naturgesetz gewaltsam durchsetzt, wie etwas das Gesetz der Schwere, wenn einem das Haus über dem Kopf zusammenpurzelt.(28) Die Bestimmung der Wertgröße durch die Arbeitszeit ist daher ein unter den erscheinenden Bewegungen der relativen Warenwerte verstecktes Geheimnis. Seine Entdeckung hebt den Schein der bloß zufälligen Bestimmung der Wertgrößen den Arbeitsprodukte auf, aber keineswegs ihre sachliche Form.

10. Das Nachdenken über die Formen des menschlichen Lebens, also auch ihre wissenschaftliche Analyse, schlägt überhaupt einen der wirklichen Entwicklung entgegengesetzten Weg ein. Es beginnt post festum und daher mit den fertigen Resultaten des Entwicklungsprozesses. Die Formen, welche Arbeitsprodukte zu Waren stempeln und daher der Warenzirkulation vor- <90> ausgesetzt sind, besitzen bereits die Festigkeit von Naturformen des gesellschaftlichen Lebens, bevor die Menschen sich Rechenschaft zu geben suchen nicht über den historischen Charakter dieser Formen, die ihnen vielmehr bereits als unwandelbar gelten, sondern über deren Gehalt. So war es nur die Analyse der Warenpreise, die zur Bestimmung der Wertgröße, nur der gemeinschaftliche Geldausdruck der Waren, der zur Fixierung ihres Wertcharakters führte. Es ist aber ebendiese fertige Form - die Geldform - der Warenwelt, welche den gesellschaftlichen Charakter der Privatarbeiten und daher die gesellschaftlichen Verhältnissen der Privatarbeiter sachlich verschleiert, statt sie zu offenbaren. Wenn ich sage, Rock, Stiefel usw. beziehen sich auf Leinwand als die allgemeine Verkörperung abstrakter menschlicher Arbeit, so springt die Verrücktheit dieses Ausdrucks ins Auge. Aber wenn die Produzenten von Rock, Stiefel usw. diese Waren auf Leinwand - oder auf Gold und Silber, was nichts an der Sache ändert - als allgemeines Äquivalent beziehn, erscheint ihnen die Beziehung ihrer Privatarbeiten zu der gesellschaftlichen Gesamtarbeit genau in dieser verrückten Form.

11. Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftlich gültige, also objektive Gedankenformen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen Produktionsweise, der Warenproduktion. Aller Mystizismus der Warenwelt, all der Zauber und Spuk, welcher Arbeitsprodukte auf Grundlage der Warenproduktion umnebelt, verschwindet daher sofort, sobald wir zu andren Produktionsformen flüchten.

12. Da die politische Ökonomie Robinsonaden liebt (29), erscheine zuerst Robinson auf seiner Insel. Bescheiden, wie er von Haus aus ist, hat er doch verschiedenartige Bedürfnisse zu befriedigen und muß daher nützliche Arbeiten verschiedner Art verrichten, Werkzeuge machen, Möbel fabri- <91> zieren, Lama zähmen, fischen, jagen usw. Vom Beten u. dgl. sprechen wir hier nicht, da unser Robinson daran sein Vergnügen findet und derartige Tätigkeit als Erholung betrachtet. Trotz der Verschiedenheit seiner produktiven Funktionen weiß er, daß sie nur verschiedne Betätigungsformen desselben Robinson, also nur verschiedne Weisen menschlicher Arbeit sind. Die Not selbst zwingt ihn, seine Zeit genau zwischen seinen verschiednen Funktionen zu verteilen. Ob die eine mehr, die andre weniger Raum in seiner Gesamttätigkeit einnimmt, hängt ab von der größeren oder geringeren Schwierigkeit, die zur Erzielung des bezweckten Nutzeffekts zu überwinden ist. Die Erfahrung lehrt ihn das, und unser Robinson, der Uhr, Hauptbuch, Tinte und Feder aus dem Schiffbruch gerettet, beginnt als guter Engländer bald Buch über sich selbst zu führen. Sein Inventarium enthält ein Verzeichnis der Gebrauchsgegenstände, die er besitzt, der verschiednen Verrichtungen, die zu ihrer Produktion erheischt sind, endlich der Arbeitszeit, die ihm bestimmte Quanta dieser verschiednen Produkte im Durchschnitt kosten. Alle Beziehungen zwischen Robinson und den Dingen, die seinen selbstgeschaffnen Reichtum bilden, sind hier so einfach und durchsichtig, daß selbst Herr M. Wirth sie ohne besondre Geistesanstrengung verstehn dürfte. Und dennoch sind darin alle wesentlichen Bestimmungen des Werts enthalten.

13. Versetzen wir uns nun von Robinsons lichter Insel in das finstre europäische Mittelalter. Statt des unabhängigen Mannes finden wir hier jedermann abhängig - Leibeigne und Grundherrn, Vasallen und Lehnsgeber, Laien und Pfaffen. Persönliche Abhängigkeit charakterisiert ebensosehr die gesellschaftlichen Verhältnisse der materiellen Produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönliche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und Produkte nicht eine von ihrer Realität verschiedne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und Naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduktion, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre unmittelbar gesellschaftliche Form. Die Fronarbeit ist ebensogut durch die Zeit gemessen wie die Waren produzierende Arbeit, aber jeder Leibeigne weiß, daß es ein bestimmtes Quantum seiner persönlichen Arbeitskraft ist, die er im Dienst seines Herrn verausgabt. Der dem Pfaffen zu leistende Zehnten ist klarer als der Segen des Pfaffen. Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihre eignen persönlichen <92> Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.

14. Für die Betrachtung gemeinsamer, d.h. unmittelbar vergesellschafteter Arbeit brauchen wir nicht zurückzugehn zu der naturwüchsigen Form derselben, welche uns an der Geschichtsschwelle aller Kulturvölker begegnet.(30) Ein näherliegendes Beispiel bildet die ländlich patriarchalische Industrie einer Bauernfamilie, die für den eignen Bedarf Korn, Vieh, Garn, Leinwand, Kleidungsstücke usw. produziert. Diese verschiednen Dinge treten der Familie als verschiedne Produkte ihrer Familienarbeit gegenüber, aber nicht sich selbst wechselseitig als Waren. Die verschiednen Arbeiten, welche diese Produkte erzeugen, Ackerbau, Viehzucht, Spinnen, Weben, Schneiderei usw. sind in ihrer Naturalform gesellschaftliche Funktionen, weil Funktionen der Familie, die ihre eigne, naturwüchsige Teilung der Arbeit besitzt so gut wie die Warenproduktion. Geschlechts- und Altersunterschiede wie die mit dem Wechsel der Jahreszeit wechselnden Naturbedingungen der Arbeit regeln ihre Verteilung unter die Familie und die Arbeitszeit der einzelnen Familienglieder. Die durch die Zeitdauer gemeßne Verausgabung der individuellen Arbeitskräfte erscheint hier aber von Haus aus als gesellschaftliche Bestimmung der Arbeiten selbst, weil die individuellen Arbeitskräfte von Haus aus nur als Organe der gemeinsamen Arbeitskraft der Familie wirken.

15. Stellen wir uns endlich, zur Abwechslung, einen Verein freier Menschen vor, die mit gemeinschaftlichen Produktionsmitteln arbeiten als eine gesellschaftliche Arbeitskraft verausgaben. Alle Bestimmungen von Robinsons Arbeit wiederholen sich hier, nur gesellschaftlich statt individuell. Alle Produkte Robinsons <93> waren sein ausschließlich persönliches Produkt und daher unmittelbar Gebrauchsgegenstände für ihn. Das Gesamtprodukt des Vereins ist ein gesellschaftliches Produkt. Ein Teil dieses Produkts dient wieder als Produktionsmittel. Er bleibt gesellschaftlich. Aber ein anderer Teil wird als Lebensmittel von den Vereinsgliedern verzehrt. Er muß daher unter sie verteilt werden. Die Art dieser Verteilung wird wechseln mit der besondren Art des gesellschaftlichen Produktionsorganismus selbst und der entsprechenden geschichtlichen Entwicklungshöhe der Produzenten. Nur zur Parallele mit der Warenproduktion setzen wir voraus, der Anteil jedes Produzenten an den Lebensmitteln sei bestimmt durch seine Arbeitszeit. Die Arbeitszeit würde also eine doppelte Rolle spielen. Ihre gesellschaftlich planmäßige Verteilung regelt die richtige Proportion der verschiednen Arbeitsfunktionen zu den verschiednen Bedürfnissen. Andrerseits dient die Arbeitszeit zugleich als Maß des individuellen Anteils des Produzenten an der Gemeinarbeit und daher auch an dem individuell verzehrbaren Teil des Gemeinprodukts. Die gesellschaftlichen Beziehungen der Menschen zu ihren Arbeiten und ihren Arbeitsprodukten bleiben hier durchsicht ig einfach in der Produktion sowohl als in der Distribution.

16. Für eine Gesellschaft von Warenproduzenten, deren allgemein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darin besteht, sich zu ihren Produkten als Waren, also als Werten, zu verhalten und in dieser sachlichen Form ihre Privatarbeiten aufeinander zu beziehn als gleiche menschliche Arbeit, ist das Christentum mit seinem Kultus des abstrakten Menschen, namentlich in seiner bürgerlichen Entwicklung, dem Protestantismus, Deismus usw., die entsprechendste Religionsform. In den altasiatischen, antiken usw. Produktionsweisen spielt die Verwandlung des Produkts in Ware, und daher das Dasein der Menschen als Warenproduzenten, eine untergeordnete Rolle, die jedoch um so bedeutender wird, je mehr die Gemeinwesen in das Stadium ihres Untergangs treten. Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft. Jene alten gesellschaftlichen Produktionsorganismen sind außerordentlich viel einfacher und durchsichtiger als der bürgerliche, aber sie beruhen entweder auf der Unreife des individuellen Menschen, der sich von der Nabelschnur des natürlichen Gattungszusammenhangs mit andren noch nicht losgerissen hat, oder auf unmittelbaren Herrschafts- und Knechtschaftsverhältnissen. Sie sind bedingt durch eine niedrige Entwicklungsstufe der Produktivkräfte der Arbeit und entsprechend befangene Verhältnisse der Menschen innerhalb ihres materiellen Lebenserzeugungsprozesses, daher zueinander und zur Natur.

17. <94> Diese wirkliche Befangenheit spiegelt sich ideell wider in den alten Natur- und Volksreligionen. Der religiöse Widerschein der wirklichen Welt kann überhaupt nur verschwinden, sobald die Verhältnisse des praktischen Werkeltagslebens den Menschen tagtäglich durchsichtig vernünftige Beziehungen zueinander und zur Natur darstellen. Die Gestalt des gesellschaftlichen Lebensprozesses, d.h. des materiellen Produktionsprozesses, streift nur ihren mystischen Nebelschleier ab, sobald sie als Produkt frei vergesellschafteter Menschen unter deren bewußter planmäßiger Kontrolle steht. Dazu ist jedoch eine materielle Grundlage der Gesellschaft erheischt oder eine Reihe materieller Existenzbedingungen, welch selbst wieder das naturwüchsige Produkt einer langen und qualvollen Entwicklungsgeschichte sind.

18. Die politische Ökonomie hat nun zwar, wenn auch unvollkommen (31) Wert und Wertgröße analysiert und den in diesen Formen versteckten In- <95> halt entdeckt. Sie hat niemals auch nur die Frage gestellt, warum dieser Inhalt jene Form annimmt, warum sich also die Arbeit im Wert und das Maß der Arbeit durch ihre Zeitdauer in der Wertgröße des Arbeitsprodukts darstellt?(32) Formen, denen es auf der Stirn geschrieben steht, daß sie einer Gesellschaftsformation angehören, worin der Produktionsprozeß die Menschen, der Mensch noch nicht den Produktionsprozeß bemeistert, gelten ihrem bürgerlichen Bewußtsein für ebenso selbstverständliche Naturnot- <96> wendigkeit als die produktive Arbeit selbst. Vorbürgerliche Formen des gesellschaftlichen Produktionsorganismus werden daher von ihr behandelt wie etwa von den Kirchenvätern vorchristliche Religionen.(33)

19. <97> Wie sehr ein Teil der Ökonomen von dem der Warenwelt anklebenden Fetischismus oder dem gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Arbeitsbestimmungen getäuscht wird, beweist u.a. der langweilig abgeschmackte Zank über die Rolle der Natur in der Bildung des Tauschwerts. Da Tauschwert eine bestimmte gesellschaftliche Manier ist, die auf ein Ding verwandte Arbeit auszudrücken, kann er nicht mehr Naturstoff enthalten als etwa der Wechselkurs.

20. Da die Warenform die allgemeinste und unentwickeltste Form der bürgerlichen Produktion ist, weswegen sie früh auftritt, obgleich nicht in derselben herrschenden, also charakteristischen Weise wie heutzutag, scheint ihr Fetischcharakter noch relativ leicht zu durchschauen. Bei konkreteren Formen verschwindet selbst dieser Schein der Einfachheit. Woher die Illusionen des Monetarsystems? Es sah dem Gold und Silber nicht an, daß sie als Geld ein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darstellen, aber in der Form von Naturdingen mit sonderbar gesellschaftlichen Eigenschaften. Und die moderne Ökonomie, die vornehm auf das Monetarsystem herabgrinst, wird ihr Fetischismus nicht handgreiflich, sobald sie das Kapital behandelt? Seit wie lange ist die physiokratische Illusion verschwunden, daß die Grundrente aus der Erde wächst, nicht aus der Gesellschaft?

21. Um jedoch nicht vorzugreifen, genüge hier noch ein Beispiel bezüglich der Warenform selbst. Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander. Man höre nun, wie der Ökonom aus der Warenseele heraus spricht:
"Wert" (Tauschwert) "ist Eigenschaft der Dinge, Reichtum" (Gebrauchswert) "des Menschen. Wert in diesem Sinn schließt notwendig Austausch ein, Reichtum nicht."(34) "Reichtum" (Gebrauchswert) "ist ein Attribut des Menschen, Wert ein Attribut der Waren. Ein Mensch oder ein Gemeinwesen ist reich; eine Perle oder ein Diamant ist wertvoll ... Eine Perle oder ein Diamant hat Wert als Perle oder Diamant."(35)

22. <98> Bisher hat noch kein Chemiker Tauschwert in Perle oder Diamant entdeckt. Die ökonomischen Entdecker dieser chemischen Substanz, die besondren Anspruch auf kritische Tiefe machen, finden aber, daß der Gebrauchswert der Sachen unabhängig von ihren sachlichen Eigenschaften, dagegen ihr Wert ihnen als Sachen zukommt. Was sie hierin bestätigt, ist der sonderbare Umstand, daß der Gebrauchswert der Dinge sich für den Menschen ohne Austausch realisiert, also im unmittelbaren Verhältnis zwischen Ding und Mensch, ihr Wert umgekehrt nur im Austausch, d.h. in einem gesellschaftlichen Prozeß. Wer erinnert sich hier nicht des guten Dogberry, der den Nachtwächter Seacoal belehrt:
"Ein gut aussehender Mann zu sein ist eine Gabe der Umstände, aber lesen und schreiben zu können kommt von Natur."(36)


Fußnoten

(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=



ZWEITES KAPITEL
Der Austauschprozeß 第2章交換過程

1. <99>Die Waren können nicht selbst zu Markte gehn und sich nicht selbst austauschen. Wir müssen uns also nach ihren Hütern umsehn, den Warenbesitzern. Die Waren sind Dinge und daher widerstandslos gegen den Menschen. Wenn sie nicht willig, kann er Gewalt brauchen, in andren Worten, sie nehmen.(37)Um diese Dinge als Waren aufeinander zu beziehn, müssen die Warenhüter sich zueinander als Personen verhalten, deren Willen in jenen Dingen haust, so daß der eine nur mit dem Willen des andren, also jeder nur vermittelst eines, beiden gemeinsamen Willensakts sich die fremde Ware aneignet, indem er die eigne veräußert. Sie müssen sich daher wechselseitig als Privateigentümer anerkennen. Dies Rechtsverhältnis, dessen Form der Vertrag ist, ob nun legal entwickelt oder nicht, ist ein Willensverhältnis, worin sich das ökonomische Verhältnis widerspiegelt. Der Inhalt dieses Rechts- oder Willensverhältnisses ist durch das ökonomische Verhältnis selbst gegeben.(38)Die Personen existieren hier nur <100>füreinander als Repräsentanten von Ware und daher als Warenbesitzer. Wir werden überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden, daß die ökonomischen Charaktermasken der Personen nur die Personifikationen der ökonomischen Verhältnisse sind, als deren Träger sie sich gegenübertreten.


2. Was den Warenbesitzer namentlich von der Ware unterscheidet, ist der Umstand, daß ihr jeder andre Warenkörper nur als Erscheinungsform ihres eignen Werts gilt. Geborner Leveller und Zyniker, steht sie daher stets auf dem Sprung, mit jeder andren Ware, sei selbe auch ausgestattet mit mehr Unannehmlichkeiten als Maritorne, nicht nur die Seele, sondern den Leib zu wechseln. Diesen der Ware mangelnden Sinn für das Konkrete des Warenkörpers ergänzt der Warenbesitzer durch seine eignen fünf und mehr Sinne. Seine Ware hat für ihn keinen unmittelbaren Gebrauchswert. Sonst führte er sie nicht zu Markt. Sie hat Gebrauchswert für andre. Für ihn hat sie unmittelbar nur den Gebrauchswert, Träger von Tauschwert und so Tauschmittel zu sein.(39)Darum will er sie veräußern für Ware, deren Gebrauchswert ihm Genüge tut. Alle Waren sind Nicht-Gebrauchswerte für ihre Besitzer, Gebrauchswerte für ihre Nicht-Besitzer. Sie müssen also allseitig die Hände wechseln. Aber dieser Händewechsel bildet ihren Austausch, und ihr Austausch bezieht sie als Werte aufeinander und realisiert sie als Werte. Die Waren müssen sich daher als Werte realisieren, bevor sie sich als Gebrauchswerte realisieren können.


3. Andrerseits müssen sie sich als Gebrauchswerte bewähren, bevor sie sich als Werte realisieren können. Denn die auf sie verausgabte menschliche Arbeit zählt nur, soweit sie in einer für andre nützlichen Form verausgabt <101>ist. Ob sie andren nützlich, ihr Produkt daher fremde Bedürfnisse befriedigt, kann aber nur ihr Austausch beweisen.

4. Jeder Warenbesitzer will seine Ware nur veräußern gegen andre Ware, deren Gebrauchswert sein Bedürfnis befriedigt. Sofern ist der Austausch für ihn nur individueller Prozeß. Andrerseits will er seine Ware als Wert realisieren, also in jeder ihm beliebigen andren Ware von demselben Wert, ob seine eigne Ware nun für den Besitzer der andren Ware Gebrauchswert habe oder nicht. Sofern ist der Austausch für ihn allgemein gesellschaftlicher Prozeß. Aber derselbe Prozeß kann nicht gleichzeitig für alle Warenbesitzer nur individuell und zugleich nur allgemein gesellschaftlich sein.

5. Sehn wir näher zu, so gilt jedem Warenbesitzer jede fremde Ware als besondres Äquivalent seiner Ware, seine Ware daher als allgemeines Äquivalent aller andren Waren. Da aber alle Warenbesitzer dasselbe tun, ist keine Ware allgemeines Äquivalent und besitzen die Waren daher auch keine allgemeine relative Wertform, worin sie sich als Werte gleichsetzen und als Wertgrößen vergleichen. Sie stehn sich daher überhaupt nicht gegenüber als Waren, sondern nur als Produkte oder Gebrauchswerte.




6. In ihrer Verlegenheit denken unsre Warenbesitzer wie Faust. Im Anfang war die Tat. Sie haben daher schon gehandelt, bevor sie gedacht haben. Die Gesetze der Warennatur betätigten sich im Naturinstinkt der Warenbesitzer. Sie können ihre Waren nur als Werte und darum nur als Waren aufeinander beziehn, indem sie dieselben gegensätzlich auf irgendeine andre Ware als allgemeines Äquivalent beziehn. Das ergab die Analyse der Ware. Aber nur die gesellschaftliche Tat kann eine bestimmte Ware zum allgemeinen Äquivalent machen. Die gesellschaftliche Aktion aller andren Waren schließt daher eine bestimmte Ware aus, worin sie allseitig ihre Werte darstellen. Dadurch wird die Naturalform Ware gesellschaftlich gültige Äquivalentform. Allgemeines Äquivalent zu sein wird durch den gesellschaftlichen Prozeß zur spezifisch gesellschaftlichen Funktion der ausgeschlossenen Ware. So wird sie - Geld.

7. "Illi unum consilium habent et virtutem et potestatem suam bestiae tradunt. Et ne quis possit emere aut vendere, nisi qui habet characterem aut nomen bestiae, aut numerum nomisis ejus." <"Die haben eine Meinung und werden ihre Kraft und Macht geben dem Tier, daß niemand kaufen oder verkaufen kann, er habe denn das Malzeichen, nämlich den Namen des Tiers oder die Zahl seines Namens."> (Apokalypse)

8. Der Geldkristall ist ein notwendiges Produkt des Austauschprozesses, worin verschiedenartige Arbeitsprodukte einander tatsächlich gleichgesetzt <102>und daher tatsächlich in Waren verwandelt werden. Die historische Ausweitung und Vertiefung des Austausches entwickelt den in der Warennatur schlummernden Gegensatz von Gebrauchswert und Wert. Das Bedürfnis, diesen Gegensatz für den Verkehr äußerlich darzustellen, treibt zu einer selbständigen Form des Warenwerts und ruht und rastet nicht, bis sie endgültig erzielt ist durch die Verdopplung der Ware in Ware und Geld. In demselben Maße daher, worin sich die Verwandlung der Arbeitsprodukte in Waren, vollzieht sich die Verwandlung von Ware in Geld.(40)


9. Der unmittelbare Produktenaustausch hat einerseits die Form des einfachen Wertausdrucks und hat sie andrerseits noch nicht. Jene Form war x Ware A = y Ware B. Die Form des unmittelbaren Produktenaustausches ist: x Gebrauchsgegenstand A = y Gebrauchsgegenstand B.(41)Die Dinge A und B sind hier nicht Waren vor dem Austausch, sondern werden es erst durch denselben. Die erste Weise, worin ein Gebrauchsgegenstand der Möglichkeit nach Tauschwert ist, ist sein Dasein als Nicht-Gebrauchswert, als die unmittelbaren Bedürfnisse seines Besitzers überschießendes Quantum von Gebrauchswert. Dinge sind an und für sich dem Menschen äußerlich und daher veräußerlich. Damit diese Veräußerung wechselseitig, brauchen Menschen nur stillschweigend sich als Privateigentümer jener veräußerlichen Dinge und eben dadurch als voneinander unabhängige Personen gegenüberzutreten. Solch ein Verhältnis wechselseitiger Fremdheit existiert jedoch nicht für die Glieder eines naturwüchsigen Gemeinwesens, habe es nun die Form einer patriarchalischen Familie, einer altindischen Gemeinde, eines Inkastaates usw. Der Warenaustausch beginnt, wo die Gemeinwesen enden, an den Punkten ihres Kontakts mit fremden Gemeinwesen oder Gliedern fremder Gemeinwesen. Sobald Dinge aber einmal im auswärtigen, werden sie auch rückschlagend im innern Gemeinleben zu Waren. Ihr quantitatives Austauschverhältnis ist zunächst ganz zufällig. Austausch- <103>bar sind sie durch den Willensakt ihrer Besitzer, sie wechselseitig zu veräußern. Indes setzt sich das Bedürfnis für fremde Gebrauchsgegenstände allmählich fest. Die beständige Wiederholung des Austausches macht ihn zu einem regelmäßigen gesellschaftlichen Prozeß. Im Laufe der Zeit muß daher wenigstens ein Teil der Arbeitsprodukte absichtlich zum Behuf des Austausches produziert werden. Von diesem Augenblick befestigt sich einerseits die Scheidung zwischen der Nützlichkeit der Dinge für den unmittelbaren Bedarf und ihrer Nützlichkeit zum Austausch. Ihr Gebrauchswert scheidet sich von ihrem Tauschwerte. Andrerseits wird das quantitative Verhältnis, worin sie sich austauschen, von ihrer Produktion selbst abhängig. Die Gewohnheit fixiert sie als Wertgrößen.


10. Im unmittelbaren Produktenaustausch ist jede Ware unmittelbar Tauschmittel für ihren Besitzer, Äquivalent für ihren Nichtbesitzer, jedoch nur soweit sie Gebrauchswert für ihn. Der Tauschartikel erhält also noch keine von seinem eignen Gebrauchswert oder dem individuellen Bedürfnis der Austauscher unabhängige Wertform. Die Notwendigkeit dieser Form entwickelt sich mit der wachsenden Anzahl und Mannigfaltigkeit der in den Austauschprozeß eintretenden Waren. Die Aufgabe entspringt gleichzeitig mit den Mitteln ihrer Lösung. Ein Verkehr, worin Warenbesitzer ihre eignen Artikel mit verschiednen andren Artikeln austauschen und vergleichen, findet niemals statt, ohne daß verschiedne Waren von verschiednen Warenbesitzern innerhalb ihres Verkehrs mit einer und derselben dritten Warenart ausgetauscht und als Werte verglichen werden. Solche dritte Ware, indem sie Äquivalent für verschiedne andre Waren wird, erhält unmittelbar, wenn auch in engen Grenzen, allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentform. Diese allgemeine Äquivalentform entsteht und vergeht mit dem augenblicklichen gesellschaftlichen Kontakt, der sie ins Leben rief. Abwechselnd und flüchtig kommt sie dieser oder jener Ware zu. Mit der Entwicklung des Warenaustausches heftet sie sich aber ausschließlich fest an besondere Warenarten oder kristallisiert zur Geldform. An welcher Warenart sie kleben bleibt, ist zunächst zufällig. Jedoch entscheiden im großen und ganzen zwei Umstände. Geldform heftet sich entweder an die wichtigsten Eintauschartikel aus der Fremde, welche in der Tat naturwüchsige Erscheinungsformen des Tauschwerts der einheimischen Produkte sind, oder an den Gebrauchsgegenstand, welcher das Hauptelement des einheimischen veräußerlichen Besitztums bildet, wie z.B. Vieh. Nomadenvölker entwickeln zuerst die Geldform, weil all ihr Hab und Gut sich in beweglicher, daher unmittelbar veräußerlicher Form befindet, und weil ihre Lebensweise sie beständig mit fremden Gemeinwesen in Kontakt bringt, daher zum <104>Produktenaustausch sollizitiert. Die Menschen haben oft den Menschen selbst in der Gestalt des Sklaven zum ursprünglichen Geldmaterial gemacht, aber niemals den Grund und Boden. Solche Idee konnte nur in bereits ausgebildeter bürgerlicher Gesellschaft aufkommen. Sie datiert vom letzten Dritteil des 17. Jahrhunderts, und ihre Ausführung, auf nationalem Maßstab, wurde erst ein Jahrhundert später in der bürgerlichen Revolution der Franzosen versucht.


11. In demselben Verhältnis, worin der Warenaustausch seine nur lokalen Bande sprengt, der Warenwert sich daher zur Materiatur menschlicher Arbeit überhaupt ausweitet, geht die Geldform auf Waren über, die von Natur zur gesellschaftlichen Funktion eines allgemeinen Äquivalents taugen, auf die edlen Metalle.

12. Daß nun, "obgleich Gold und Silber nicht von Natur Geld, Geld von Natur Gold und Silber ist" (42), zeigt die Kongruenz ihrer Natureigenschaften mit seinen Funktionen.(43)Bisher kennen wir aber nur die eine Funktion des Geldes, als Erscheinungsform des Warenwerts zu dienen oder als das Material, worin die Wertgrößen der Waren sich gesellschaftlich ausdrücken. Adäquate Erscheinungsform von Wert oder Materiatur abstrakter und daher gleicher menschlicher Arbeit kann nur eine Materie sein, deren sämtliche Exemplare dieselbe gleichförmige Qualität besitzen. Andrerseits, da der Unterschied der Wertgrößen rein quantitativ ist, muß die Geldware rein quantitativer Unterschiede fähig, also nach Willkür teilbar und aus ihren Teilen wieder zusammensetzbar sein. Gold und Silber besitzen aber diese Eigenschaften von Natur.

13. Der Gebrauchswert der Geldware verdoppelt sich. Neben ihrem besondren Gebrauchswert als Ware, wie Gold z.B. zum Ausstopfen hohler Zähne, Rohmaterial von Luxusartikeln usw. dient, erhält sie einen formalen Gebrauchswert, der aus ihren spezifischen gesellschaftlichen Funktionen entspringt.

14. Da alle andren Waren nur besondre Äquivalente des Geldes, das Geld ihr allgemeines Äquivalent, verhalten sie sich als besondre Waren zum Geld als der allgemeinen Ware.(44)


15. <105>Man hat gesehn, daß die Geldform nur der an einer Ware festhaftende Reflex der Beziehungen aller andren Waren. Daß Geld Ware ist (45), ist also nur eine Entdeckung für den, der von seiner fertigen Gestalt ausgeht, um sie hinterher zu analysieren. Der Austauschprozeß gibt der Ware, die er in Geld verwandelt, nicht ihren Wert, sondern ihre spezifische Wertform. Die Verwechslung beider Bestimmungen verleitete dazu, den Wert von Gold und Silber für imaginär zu halten.(46)Weil Geld in bestimmten Funktionen durch bloße Zeichen seiner selbst ersetzt werden kann, entsprang der andre Irrtum, es sei ein bloßes Zeichen. Andrerseits lag darin die Ahnung, daß die Geldform des Dings ihm selbst äußerlich und bloß Erscheinungsform dahinter versteckter menschlicher Verhältnisse. In diesem Sinn wäre jede Ware ein Zeichen, weil als Wert nur sachliche Hülle der auf sie verausgabten menschlichen Arbeit.(47)Indem man aber die gesellschaftlichen Charak- <106>tere, welche Sachen, oder die sachlichen Charaktere, welche gesellschaftliche Bestimmungen der Arbeit auf Grundlage einer bestimmten Produktionsweise erhalten, für bloße Zeichen, erklärt man sie zugleich für willkürliches Reflexionsprodukt der Menschen. Es war dies beliebte Aufklärungsmanier des 18. Jahrhunderts, um den rätselhaften Gestalten menschlicher Verhältnisse, deren Entstehungsprozeß man noch nicht entziffern konnte, wenigstens vorläufig den Schein der Fremdheit abzustreifen.

16. Es ward vorhin bemerkt, daß die Äquivalentform einer Ware die quantitative Bestimmung ihrer Wertgröße nicht einschließt. Weiß man, daß Gold Geld, daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar ist, so weiß man deswegen nicht, wieviel z.B. 10 Pfund Gold wert sind. Wie jede Ware kann das Geld seine eigne Wertgröße nur relativ in andren Waren ausdrücken. Sein eigner Wert ist bestimmt durch die zu seiner Produktion erheischte Arbeitszeit und drückt sich in dem Quantum jeder andren Ware aus, worin gleichviel Arbeitszeit geronnen ist.(48)Diese Festsetzung seiner <107>relativen Wertgröße findet statt an seiner Produktionsquelle in unmittelbarem Tauschhandel. Sobald es als Geld in die Zirkulation eintritt, ist sein Wert bereits gegeben. Wenn es schon in den letzten Dezennien des 17. Jahrhunderts weit überschrittner Anfang der Geldanalyse, zu wissen, daß Geld Ware ist, so aber auch nur der Anfang. Die Schwierigkeit liegt nicht darin zu begreifen, daß Geld Ware, sondern wie, warum, wodurch Ware Geld ist.(49)



17. Wir sahen, wie schon in dem einfachsten Wertausdruck, x Ware A = y Ware B, das Ding, worin die Wertgröße eines andren Dings dargestellt wird, seine Äquivalentform unabhängig von dieser Beziehung als gesellschaftliche Natureigenschaft zu besitzen scheint. Wir verfolgten die Befestigung dieses falschen Scheins. Er ist vollendet, sobald die allgemeine Äquivalentform mit der Naturalform einer besondren Warenart verwachsen oder zur Geldform kristallisiert ist. Eine Ware scheint nicht erst Geld zu werden, weil die andren Waren allseitig ihre Werte in ihr darstellen, sondern sie scheinen umgekehrt allgemein ihre Werte in ihr darzustellen, weil sie Geld ist. Die vermittelnde Bewegung verschwindet in ihrem eignen Resultat und läßt keine Spur zurück. Ohne ihr Zutun finden die Waren ihre eigne Wertgestalt fertig vor als einen außer und neben ihnen existierenden Warenkörper. Diese Dinge, Gold und Silber, wie sie aus den Eingeweiden der Erde herauskommen, sind zugleich die unmittelbare Inkarnation aller menschlichen Arbeit. Daher die Magie des Geldes. Das bloß <108>atomistische Verhalten der Menschen in ihrem gesellschaftlichen Produktionsprozeß und daher die von ihrer Kontrolle und ihrem bewußten individuellen Tun unabhängige, sachliche Gestalt ihrer eignen Produktionsverhältnisse erscheinen zunächst darin, daß ihre Arbeitsprodukte allgemein die Warenform annehmen. Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsel des Warenfetischs.



Fußnoten

(37)Im 12., durch seine Frömmigkeit so berufenen Jahrhundert, kommen unter diesen Waren oft sehr zarte Dinge vor. So zählt ein französischer Dichter jener Zeit unter den Waren, die sich auf dem Markt von Landit einfanden, neben Kleidungsstoffen, Schuhen, Leder, Ackergeräten, Häuten usw. auch "femmes folles de leur corps" <"Frauen mit feurigem Körper"> auf. <=

(38)Proudhon schöpft erst sein Ideal der Gerechtigkeit, der justice éternelle <ewigen Gerechtigkeit>, aus den der Warenproduktion entsprechenden Rechtsverhältnissen, wodurch, nebenbei bemerkt, auch der für alle Spießbürger so tröstliche Beweis geliefert wird, daß die Form der Warenproduktion ebenso ewig ist wie die Gerechtigkeit. Dann umgekehrt will er die wirkliche Warenproduktion und das ihr entsprechende wirkliche Recht diesem Ideal gemäß ummodeln. Was würde man von einem Chemiker denken, der, statt die wirklichen Gesetze des Stoffwechsels zu studieren und auf Basis derselben bestimmte Aufgaben zu lösen, den Stoffwechsel durch die "ewigen Ideen" der "naturalié" <"Natürlichkeit"> und der "affinité" <"Verwandschaft"> ummodeln wollte? Weiß man etwa mehr über den "Wucher", wenn man sagt, er widerspreche der "justice éternelle" und der "équité éternelle" <"ewigen Billigkeit"> und der "mutualité éternelle" <"ewigen Gegenseitigkeit"> und andren "vérités éternelles" <"ewigen Wahrheiten">, als die Kirchenväter wußten, wenn sie sagten, er widerspreche der "grâce éternelle", der "foi éternelle", der "volonté éternelle de dieu" <"ewigen Gnade", dem "ewigen Glauben", dem "ewigen Willen Gottes">? <=

(39)"Denn zweifach ist der Gebrauch jedes Guts. - Der eine ist dem Ding als solchem eigen, der andre nicht, wie einer Sandale, zur Beschuhung zu dienen und austauschbar zu sein. Beides sind Gebrauchswerte der Sandale, denn auch wer die Sandale mit dem ihm Mangelnden, z.B. der Nahrung austauscht, benutzt die Sandale als Sandale. Aber nicht in ihrer natürlichen Gebrauchsweise. Denn sie ist nicht da des Austausches wegen." (Aristoteles, "De Rep.", l. I, c. 9.) <=

(40)Danach beurteile man die Pfiffigkeit des kleinbürgerlichen Sozialismus, der die Warenproduktion verewigen und zugleich den "Gegensatz von Geld und Ware", also das Geld selbst, denn es ist nur in diesem Gegensatze, abschaffen will. Ebensowohl könnte man den Papst abschaffen und den Katholizismus bestehen lassen. Das Nähere hierüber sieh in meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", p. 61 sqq. < Siehe Band 13, S. 66 ff.> <=

(41)Solange noch nicht zwei verschiedne Gebrauchsgegenstände ausgetauscht, sondern, wie wir das bei Wilden oft finden, eine chaotische Masse von Dingen als Äquivalent für ein Drittes angeboten wird, steht der unmittelbare Produktenaustausch selbst erst in seiner Vorhalle. <=

(42)Karl Marx, l.c. p. 135. < Siehe Band 13, S.131> "Die Metalle ... sind von Natur Geld."(Galiani, "Della Moneta" in Custodis Sammlung, Parte Moderna, t. III, p. 137.) <=

(43)Das Nähere darüber in meiner eben zitierten Schrift, Abschnitt: "Die edlen Metalle". <=

(44)"Das Geld ist die allgemeine Ware."(Verri, l.c.p. 16.) <=

(45)"Silber und Gold an sich, die wir mit dem allgemeinen Namen Edelmetall bezeichnen können, sind im ... Werte ... steigende und fallende ... Waren ... Dem Edelmetall kann man dann einen höheren Wert zuerkennen, wenn ein geringeres Gewicht davon eine größere Menge des Produkts oder Fabrikats des Landes etc. kauft." ([S. Clement,] "A Discourse of the General Notions of Money, Trade, and Exchange, as they stand in relations to each other. By a Merchant", Lond. 1695, p. 7.) "Silber und Gold, gemünzt oder ungemünzt, werden zwar als Maßstab für alle anderen Dinge gebraucht, sind aber nicht weniger eine Ware als Wein, Öl, Tabak, Tuch oder Stoffe." ([J. Child,] "A Discourse concerning Trade, and that in particular of the East-Indies etc.", London 1689, p. 2.) "Vermögen und Reichtum des Königreiches können genaugenommen nicht auf Geld beschränkt, noch können Gold und Silber als Waren ausgeschlossen werden." (Th. Papillon,] "The East India Trade a most Profitable Trade", London 1677, p. 4.) <=

(46)"Gold und Silber haben Wert als Metalle, bevor sie Geld sind." (Galiani, l.c.[p. 72.]) Locke sagt:" Die allgemeine Übereinstimmung der Menschen legte dem Silber, wegen seiner Qualitäten, die es zum Geld geeignet machten, einen imaginären Wert bei." [John Locke, "Some Considerations etc.", 1691, in "Works", ed. 1777, v. II, p. 15.] Dagegen Law: "Wie könnten verschiedne Nationen irgendeiner Sache einen imaginären Wert geben ... oder wie hätte sich dieser imaginäre Wert erhalten können?" Wie wenig er selbst aber von der Sache verstand: "Das Silber tauschte sich aus nach dem Gebrauchswert, den es hatte, also nach seinem wirklichen Wert; durch seine Bestimmung als Geld erhielt es einen zuschüssigen Wert (une valeur additionnelle)." (Jean Law, "Considérations sur le numéraire et le commerce" in E. Daires Édit. der "Économistes Financiers du XVIII. siécle", p. 469, 470.) <=

(47)"Das Geld ist ihr" (der Waren) "Zeichen."(V. de Forbonnais, "Éléments du Commerce", Nouv. Édit. Leyde 1766, t. II, p. 143.)"Als Zeichen wird es von den Waren angezogen." (l.c.p. 155.) "Das Geld ist Zeichen für eine Sache und vertritt sie." (Montesquieu, "Esprit des Lois", Oeuvres, Lond. 1767, t. II, p. 3.) "Das Geld ist nicht bloßes Zeichen, denn es ist selbst Reichtum; es vertritt nicht die Werte, es ist ihr Äquivalent." (Le Trosne, l.c.p. 910.) "Betrachtet man den Begriff des Werts, so wird die Sache selbst nur als ein Zeichen angesehn, und sie gilt nicht als sie selber, sondern als was sie wert ist." (Hegel, l.c.p. 100.) Lange vor den Ökonomen brachten die Juristen die Vorstellung von Geld als bloßem Zeichen und dem nur imaginären Wert der edlen Metalle in Schwung, im Sykophantendienst der königlichen Gewalt, deren Münzverfälschungsrecht sie das ganze Mittelalter hindurch auf die Traditionen des römischen Kaiserreichs und die Geldbegriffe der Pandekten stützten. "Niemand kann und darf Zweifel hegen", sagt ihr gelehriger Schüler, Philipp von Valois, in einem Dekret von 1346, "daß nur Uns und Unserer königlichen Majestät zukommt ... das Münzgeschäft, die Herstellung, die Beschaffenheit, der Vorrat und alle die Münzen betreffenden Verordnungen, sie so und zu solchem Preis in Umlauf zu setzen, wie es Uns gefällt und gutdünkt." Es war römisches Rechtsdogma, daß der Kaiser den Geldwert dekretiert. Es war ausdrücklich verboten, das Geld als Ware zu behandeln. "Geld jedoch zu kaufen soll niemand gestattet sein, denn zum allgemeinen Gebrauch geschaffen, darf es nicht Ware sein." Gute Auseinandersetzung hierüber von G. F. Pagnini, "Saggio sopra il giusto pregio delle cose", 1751, bei Custodi, Parte Moderna, t. II. Namentlich im zweiten Teil der Schrift polemisiert Pagnini gegen die Herren Juristen. <=

(48)"Wenn jemand eine Unze Silber aus dem Innern der Erde Perus in derselben Zeit nach London bringen kann, die er zur Produktion eines Bushel Korn brauchen würde, dann ist das eine der natürliche Preis des anderen; wenn er nun durch Abbau neuer und ergiebigerer Bergwerke statt der einen zwei Unzen Silber mit dem gleichen Aufwand gewinnen kann, wird das Korn bei einem Preis von 10 Shilling pro Bushel ebenso billig sein wie vorher bei einem Preis von 5 Shilling, caeteris paribus <unter sonst gleichen Umständen>."(William Petty, "A Treatise of Taxes and Contributions", Lond. 1667, p. 31.) <=

(49)Nachdem Herr Professor Roscher uns belehrt: "Die falschen Definitionen von Geld lassen sich in zwei Hauptgruppen teilen: solche, die es für mehr, und solche, die es für weniger halten als eine Ware", folgt ein kunterbunter Katalog von Schriften über das Geldwesen, wodurch auch nicht die entfernteste Einsicht in die wirkliche Geschichte der Theorie durchschimmert, und dann die Moral: "Zu leugnen ist übrigens nicht, daß die meisten neueren Nationalökonomen die Eigentümlichkeiten, welche das Geld von andren Waren unterscheiden" (also doch mehr oder weniger als Ware?), "nicht genug im Auge behalten haben ... Insofern ist die halbmerkantilistische Reaktion von Ganilh etc. nicht ganz unbegründet." (Wilhelm Roscher, "Die Grundlagen der Nationalökonomie", 3. Aufl., 1858, p. 207-210.) Mehr - weniger - nicht genug - insofern - nicht ganz! Welche Begriffsbestimmungen! Und dergleichen eklektische Professoralfaselei tauft Herr Roscher bescheiden "die anatomisch-physiologische Methode" der politischen Ökonomie! Eine Entdeckung ist ihm jedoch geschuldet, nämlich, daß Geld "eine angenehme Ware" ist. <=

DRITTES KAPITEL
Das Geld und die Warenzirkulation

1. Maß der Werte

1. <109> Ich setze überall in dieser Schrift, der Vereinfachung halber, Gold als die Geldware voraus.
2. Die erste Funktion des Goldes besteht darin, der Warenwelt das Material ihres Wertausdrucks zu liefern oder die Warenwerte als gleichnamige Größen, qualitativ gleiche und quantitativ vergleichbare, darzustellen. So funktioniert es als allgemeines Maß der Werte, und nur durch diese Funktion wird Gold, die spezifische Äquivalentware, zunächst Geld.
3. Die Waren werden nicht durch das Geld kommensurabel. Umgekehrt. Weil alle Waren als Werte vergegenständlichte menschliche Arbeit, daher an und für sich kommensurabel sind, können sie ihre Werte gemeinschaftlich in derselben spezifischen Ware messen und diese dadurch in ihr gemeinschaftliches Wertmaß oder Geld verwandeln. Geld als Wertmaß ist notwendige Erscheinungsform des immanenten Wertmaßes der Waren, der Arbeitzeit.(50)
4. <110> Der Wertausdruck einer Ware in Gold - x Ware A = y Geldware - ist ihre Geldform oder ihr Preis. Eine vereinzelte Gleichung, wie 1 Tonne Eisen = 2 Unzen Gold, genügt jetzt, um den Eisenwert gesellschaftlich gültig darzustellen. Die Gleichung braucht nicht länger in Reih und Glied mit den Wertgleichungen der andren Waren aufzumarschieren, weil die Äquivalentware, das Gold, bereits den Charakter von Geld besitzt. Die allgemeine relative Wertform der Waren hat daher jetzt wieder die Gestalt ihrer ursprünglichen, einfachen oder einzelnen relativen Wertform. Andrerseits wird der entfaltete relative Wertausdruck oder die endlose Reihe relativer Wertausdrücke zur spezifisch relativen Wertform der Geldware. Diese Reihe ist aber jetzt schon gesellschaftlich gegeben in den Warenpreisen. Man lese die Quotationen eines Preiskurants rückwärts und man findet die Wertgröße des Geldes in allen möglichen Waren dargestellt. Geld hat dagegen keinen Preis. Um an dieser einheitlichen relativen Wertform der andren Waren teilzunehmen, müßte es auf sich selbst als sein eignes Äquivalent bezogen werden.


5. Der Preis oder die Geldform der Waren ist, wie ihre Wertform überhaupt, eine von ihrer handgreiflich reellen Körperform unterschiedne, also nur ideelle oder vorgestellte Form. Der Wert von Eisen, Leinwand, Weizen usw. existiert, obgleich unsichtbar, in diesen Dingen selbst; er wird vorgestellt durch ihre Gleichheit mit Gold, eine Beziehung zum Gold, die sozusagen nur in ihren Köpfen spukt. Der Warenhüter muß daher seine Zunge in ihren Kopf stecken oder ihnen Papierzettel umhängen, um ihre Preise der Außenwelt mitzuteilen.(51) Da der Ausdruck der Warenwerte in <111> Gold ideell ist, ist zu dieser Operation auch nur vorgestelltes oder ideelles Gold anwendbar. Jeder Warenhüter weiß, daß er seine Waren noch lange nicht vergoldet, wenn er ihrem Wert die Form des Preises oder vorgestellte Goldform gibt, und daß er kein Quentchen wirkliches Gold braucht, um Millionen Warenwerte in Gold zu schätzen. In seiner Funktion des Wertmaßes dient das Geld daher - als nur vorgestelltes oder ideelles Geld. Dieser Umstand hat die tollsten Theorien veranlaßt.(52) Obgleich nur vorgestelltes Geld zur Funktion des Wertmaßes dient, hängt der Preis ganz vom reellen Geldmaterial ab. Der Wert, d.h. das Quantum menschlicher Arbeit, das z.B. in einer Tonne Eisen enthalten ist, wird ausgedrückt in einem vorgestellten Quantum der Geldware, welches gleich viel Arbeit enthält. Je nachdem also Gold, Silber oder Kupfer zum Wertmaß dienen, erhält der Wert der Tonne Eisen ganz verschiedne Preisausdrücke oder wird in ganz verschiednen Quantitäten Gold, Silber oder Kupfer vorgestellt.
6. Dienen daher zwei verschiedne Waren, z.B. Gold und Silber, gleichzeitig als Wertmaße, so besitzen alle Waren zweierlei verschiedne Preisausdrücke, Goldpreise und Silberpreise, die ruhig nebeneinander laufen, solange das Wertverhältnis von Silber zu Gold unverändert bleibt, z.B. = 1:15. Jede Veränderung dieses Wertverhältnisses stört aber das Verhältnis zwischen den Goldpreisen und den Silberpreisen der Waren und beweist so tatsächlich, daß die Verdopplung des Wertmaßes seiner Funktion widerspricht. (53)
7. <112> Die preisbestimmten Waren stellen sich alle dar in der Form: a Ware A = x Gold, b Ware B = z Gold, c Ware C = y Gold usw., wo a, b, c bestimmte Massen der Warenarten A, B, C vorstellen, x, z, y bestimmte Massen des Goldes. Die Warenwerte sind daher verwandelt in vorgestellte Goldquanta von verschiedner Größe, also, trotz der wirren Buntheit der Warenkörper, in gleichnamige Größen, Goldgrößen. Als solche verschiedne Goldquanta vergleichen und messen sie sich untereinander, und es entwickelt sich technisch die Notwendigkeit, sie auf ein fixiertes Quantum Gold als ihre Maßeinheit zu beziehn. Diese Maßeinheit selbst wird durch weitere Einteilung in aliquote Teile zum Maßstab fortentwickelt. Vor ihrer Geldwerdung besitzen Gold, Silber, Kupfer bereits solche Maßstäbe in ihren Metallgewichten, so daß z.B. ein Pfund als Maßeinheit dient und nach der einen Seite wieder in Unzen usw. abgeteilt, nach der andren in Zentner usw. zusammenaddiert wird.(54) Bei aller metallischen Zirkulation bilden daher die vorgefundenen Namen des Gewichtsmaßstabs auch die ursprünglichen Namen des Geldmaßstabs oder Maßstabs der Preise.

8. <113> Als Maß der Werte und als Maßstab der Preise verrichtet das Geld zwei ganz verschiedne Funktionen. Maß der Werte ist es als die gesellschaftliche Inkarnation der menschlichen Arbeit, Maßstab der Preise als ein festgesetztes Metallgewicht. Als Wertmaß dient es dazu, die Werte der bunt verschiednen Waren in Preise zu verwandeln, in vorgestellte Goldquanta; als Maßstab der Preise mißt es diese Goldquanta. Am Maß der Werte messen sich die Waren als Werte, der Maßstab der Preise mißt dagegen Goldquanta an einem Goldquantum, nicht den Wert eines Goldquantums am Gewicht des andren. Für den Maßstab der Preise muß ein bestimmtes Goldgewicht als Maßeinheit fixiert werden. Hier, wie in allen andren Maßbestimmungen gleichnamiger Größen, wird die Festigkeit der Maßverhältnisse entscheidend. Der Maßstab der Preise erfüllt daher seine Funktion um so besser, je unveränderlicher ein und dasselbe Quantum Gold als Maßeinheit dient. Als Maß der Werte kann Gold nur dienen, weil es selbst Arbeitsprodukt, also der Möglichkeit nach ein veränderlicher Wert ist.(55)
9. Es ist zunächst klar, daß ein Wertwechsel des Goldes seine Funktion als Maßstab der Preise in keiner Weise beeinträchtigt. Wie auch der Goldwert wechsle, verschiedne Goldquanta bleiben stets in selbem Wertverhältnis zueinander. Fiele der Goldwert um 1.000%, so würden nach wie vor 12 Unzen Gold 12mal mehr Wert besitzen als eine Unze Gold, und in den Preisen handelt es sich nur um das Verhältnis verschiedner Goldquanta zueinander. Da andrerseits eine Unze Gold mit dem Fallen oder Steigen ihres Werts keineswegs ihr Gewicht verändert, verändert sich ebensowenig das ihrer aliquoten Teile, und so tut das Gold als fixer Maßstab der Preise stets denselben Dienst, wie immer sein Wert wechsle.
10. Der Wertwechsel des Goldes verhindert auch nicht seine Funktion als Wertmaß. Er trifft alle Waren gleichzeitig, läßt also caeteris paribus ihre <114> wechselseitigen relativen Werte unverändert, obgleich sie sich nun alle in höheren oder niedrigeren Goldpreisen als zuvor ausdrücken.
11. Wie bei der Darstellung des Werts einer Ware im Gebrauchswert irgendeiner andren Ware, ist auch bei der Schätzung der Waren in Gold nur vorausgesetzt, daß zur gegebnen Zeit die Produktion eines bestimmten Goldquantums ein gegebnes Quantum Arbeit kostet. In bezug auf die Bewegung der Warenpreise überhaupt gelten die früher entwickelten Gesetze des einfachen relativen Wertausdrucks.
12. Die Warenpreise können nur allgemein steigen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte steigen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert fällt. Umgekehrt. Die Warenpreise können nur allgemein fallen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte fallen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert steigt. Es folgt daher keineswegs, daß steigender Geldwert proportionelles Sinken der Warenpreise und fallender Geldwert proportionelles Steigen der Warenpreise bedingt. Dieses gilt nur für Waren von unverändertem Wert. Solche Waren z.B., deren Wert gleichmäßig und gleichzeitig steigt mit dem Geldwert, behalten dieselben Preise. Steigt ihr Wert langsamer oder rascher als der Geldwert, so wird der Fall oder das Steigen ihrer Preise bestimmt durch die Differenz zwischen ihrer Wertbewegung und der des Geldes usw.


13. Kehren wir nun zur Betrachtung der Preisform zurück.
14. Die Geldnamen der Metallgewichte trennen sich nach und nach von ihren ursprünglichen Gewichtnamen aus verschiednen Gründen, darunter historisch entscheidend: 1. Einführung fremden Geldes bei minder entwickelten Völkern, wie z.B. im alten Rom Silber- und Goldmünzen zuerst als ausländische Waren zirkulierten. Die Namen dieses fremden Geldes sind von den einheimischen Gewichtnamen verschieden. 2. Mit der Entwicklung des Reichtums wird das minder edle Metall durch das edlere aus der Funktion des Wertmaßes verdrängt. Kupfer durch Silber, Silber durch Gold, sosehr diese Reihenfolge aller poetischen Chronologie widersprechen mag.(56) Pfund war nun z.B. Geldname für ein wirkliches Pfund Silber. Sobald Gold das Silber als Wertmaß verdrängt, hängt sich derselbe Name vielleicht an 1/15 usw. Pfund Gold, je nach dem Wertverhältnis von Gold und Silber. Pfund als Geldname und als gewöhnlicher Gewichtname des Goldes sind jetzt getrennt.(57) 3. Die Jahrhunderte fort- <115> gesetzte Geldfälschung der Fürsten, welche vom ursprünglichen Gewicht der Geldmünzen in der Tat nur den Namen zurückließ.(58)
15. Diese historischen Prozesse machen die Trennung des Geldnamens der Metallgewichte von ihrem gewöhnlichen Gewichtsnamen zur Volksgewohnheit. Da der Geldmaßstab einerseits rein konventionell ist, andrerseits allgemeiner Gültigkeit bedarf, wird er zuletzt gesetzlich reguliert. Ein bestimmter Gewichtsteil des edlen Metalls, z.B. eine Unze Gold, wird offiziell abgeteilt in aliquote Teile, die legale Taufnamen erhalten, wie Pfund, Taler usw. Solcher aliquote Teil, der dann als die eigentliche Maßeinheit des Geldes gilt, wird untergeteilt in andre aliquote Teile mit gesetzlichen Taufnamen, wie Shilling, Penny etc.(59) Nach wie vor bleiben bestimmte Metallgewichte Maßstab des Metallgeldes. Was sich geändert, ist Einteilung und Namengebung.
16. Die Preise, oder die Goldquanta, worin die Werte der Waren ideell verwandelt sind, werden jetzt also ausgedrückt in den Geldnamen oder gesetzlich gültigen Rechennamen des Goldmaßstabs. Statt also zu sagen, der Quarter Weizen ist gleich einer Unze Gold, würde man in England sagen, er ist gleich 3 Pfd.St. 17 sh. 101/2 d. Die Waren sagen sich so in ihren Geldnamen, was sie wert sind, und das Geld dient als Rechengeld, sooft es gilt, eine Sache als Wert und daher in Geldform zu fixieren.(60)


17. Der Name einer Sache ist ihrer Natur ganz äußerlich. Ich weiß nichts vom Menschen, wenn ich weiß, daß ein Mensch Jacobus heißt. Ebenso verschwindet in den Geldnamen Pfund, Taler, Franc, Duktat usw. jede Spur des Wertverhältnisses. Die Wirre über den Geheimsinn dieser kabbalistischen Zeichen ist um so größer, als die Geldnamen den Wert der Waren und zugleich aliquote Teile eines Metallgewichts, des Geldmaßstabs, aus- <116> drücken.(61) Andrerseits ist es notwendig, daß der Wert im Unterschied von den bunten Körpern der Warenwelt sich zu dieser begriffslos sachlichen, aber auch einfach gesellschaftlichen Form fortentwickle.(62)
18. Der Preis ist der Geldname der in der Ware vergegenständlichten Arbeit. Die Äquivalenz der Ware und des Geldquantums, dessen Name ihr Preis ist, ist daher eine Tautologie (63), wie ja überhaupt der relative Wertausdruck einer Ware stets der Ausdruck der Äquivalenz zweier Waren ist. Wenn aber der Preis als Exponent der Wertgröße der Ware Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld, so folgt nicht umgekehrt, daß der Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld notwendig der Exponent ihrer Wertgröße ist. Gesellschaftlich notwendige Arbeit von gleicher Größe stelle sich in 1 Quarter Weizen und in 2 Pfd.St. (ungefähr 1/2 Unze Gold) dar. Die 2 Pfd.St. sind Geldausdruck der Wertgröße des Quarter Weizens, oder sein Preis. Erlauben nun die Umstände, ihn zu 3 Pfd.St., oder zwingen sie, ihn zu 1 Pfd.St. zu notieren, so sind 1 Pfd.St. und 3 Pfd.St. als Aus- <117> drücke der Wertgröße des Weizens zu klein oder zu groß, aber sie sind dennoch Preise desselben, denn erstens sind sie seine Wertform, Geld, und zweitens Exponenten seines Austauschverhältnisses mit Geld. Bei gleichbleibenden Produktionsbedingungen oder gleichbleibender Produktivkraft der Arbeit muß nach wie vor zur Reproduktion des Quarter Weizen gleich viel gesellschaftliche Arbeitszeit verausgabt werden. Dieser Umstand hängt vom Willen weder des Weizenproduzenten noch der andren Warenbesitzer ab. Die Wertgröße der Ware drückt also ein notwendiges, ihrem Bildungsprozeß immanentes Verhältnis zur gesellschaftlichen Arbeitszeit aus. Mit der Verwandlung der Wertgröße in Preis erscheint dies notwendige Verhältnis als Austauschverhältnis einer Ware mit der außer ihr existierenden Geldware. In diesem Verhältnis kann sich aber ebensowohl die Wertgröße der Ware ausdrücken, als das Mehr oder Minder, worin sie unter gegebnen Umständen veräußerlich ist. Die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Preis und Wertgröße, oder der Abweichung des Preises von der Wertgröße, liegt also in der Preisform selbst. Es ist dies kein Mangel dieser Form, sondern macht sie umgekehrt zur adäquaten Form einer Produktionsweise, worin sich die Regel nur als blindwirkendes Durchschnittsgesetz der Regellosigkeit durchsetzen kann.


19. Die Preisform läßt jedoch nicht nur die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Wertgröße und Preis, d.h. zwischen der Wertgröße und ihrem eignen Geldausdruck zu, sondern kann einen qualitativen Widerspruch beherbergen, so daß der Preis überhaupt aufhört, Wertausdruck zu sein, obgleich Geld nur die Wertform der Waren ist. Dinge, die an und für sich keine Waren sind, z.B. Gewissen, Ehre usw., können ihren Besitzern für Geld feil und so durch ihren Preis die Warenform erhalten. Ein Ding kann daher formell einen Preis haben, ohne einen Wert zu haben. Der Preisausdruck wird hier imaginär wie gewisse Größen der Mathematik. Andrerseits kann auch die imaginäre Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht ist, ein wirkliches Wertverhältnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.
20. Wie die relative Wertform überhaupt, drückt der Preis den Wert einer Ware, z.B. einer Tonne Eisen, dadurch aus, daß ein bestimmtes Quantum Äquivalent, z.B. eine Unze Gold, unmittelbar austauschbar mit Eisen, aber keineswegs umgekehrt, daß seinerseits das Eisen unmittelbar austauschbar mit Gold ist. Um also praktisch die Wirkung eines Tauschwerts auszuüben, muß die Ware ihren natürlichen Leib abstreifen, sich aus nur vorgestellten Gold in wirkliches Gold verwandeln, obgleich diese Trans- <118> substantiation ihr "saurer" ankommen mag als dem Hegelschen "Begriff" der Übergang aus der Notwendigkeit in die Freiheit oder einem Hummer das Sprengen seiner Schale oder dem Kirchenvater Hieronymus das Abstreifen des alten Adam.(64) Neben ihrer realen Gestalt, Eisen z.B., kann die Ware im Preise ideelle Wertgestalt oder vorgestellte Goldgestalt besitzen, aber sie kann nicht zugleich wirklich Eisen und wirklich Gold sein. Für ihre Preisgebung genügt es, vorgestelltes Gold ihr gleichzusetzen. Durch Gold ist sie zu ersetzen, damit sie ihrem Besitzer den Dienst eines allgemeinen Äquivalents leiste. Träte der Besitzer des Eisens z.B. dem Besitzer einer weltlustigen Ware gegenüber und verwiese ihn auf den Eisenpreis, der Geldform sei, so würde der Weltlustige antworten, wie im Himmel der heilige Petrus dem Dante, der ihm die Glaubensformel hergesagt:
"Assai bene è trascorsa
D'esta moneta già la lega e'l peso,
Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa."
<"Gar wohl durchgangen
ist jetzo Schrot und Korn schon jener Münze
Doch sprich, ob du sie hast in deiner Börse.">
21. Die Preisform schließt die Veräußerlichkeit der Waren gegen Geld und die Notwendigkeit dieser Veräußerung ein. Andrerseits funktioniert Gold nur als ideelles Wertmaß, weil es sich bereits im Austauschprozeß als Geldware umtreibt. Im ideellen Maß der Werte lauert daher das harte Geld.

2. Zirkulationsmittel
a) Die Metamorphose der Waren

1. Man sah, daß der Austauschprozeß der Waren widersprechende und einander ausschließende Beziehungen einschließt. Die Entwicklung der Ware hebt diese Widersprüche nicht auf, schafft aber die Form, worin sie sich bewegen können. Dies ist überhaupt die Methode, wodurch sich wirkliche Widersprüche lösen. Es ist z.B. ein Widerspruch, daß ein Körper <119> beständig in einen andren fällt und ebenso beständig von ihm wegflieht. Die Ellipse ist eine der Bewegungsformen, worin dieser Widerspruch sich ebensosehr verwirklicht als löst.
2. Soweit der Austauschprozeß Waren aus der Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand überträgt, worin sie Gebrauchswerte, ist er gesellschaftlicher Stoffwechsel. Das Produkt einer nützlichen Arbeitsweise ersetzt das der andren. Einmal angelangt zur Stelle, wo sie als Gebrauchswert dient, fällt die Ware in die Sphäre der Konsumtion aus der Sphäre des Warenaustauschs. Letztre allein interessiert uns hier. Wir haben also den ganzen Prozeß nach der Formseite zu betrachten, also nur den Formwechsel oder die Metamorphose der Waren, welche den gesellschaftlichen Stoffwechsel vermittelt.
3. Die durchaus mangelhafte Auffassung dieses Formwechsels ist, abgesehn von Unklarheit über den Wertbegriff selbst, dem Umstand geschuldet, daß jeder Formwechsel einer Ware sich vollzieht im Austausch zweier Waren, einer gemeinen Ware und der Geldware. Hält man an diesem stofflichen Moment, dem Austausch von Ware mit Gold, allein fest, so übersieht man grade, was man sehn soll, nämlich was sich mit der Form zuträgt. Man übersieht, daß Gold als bloße Ware nicht Geld ist und daß die andren Waren sich selbst in ihren Preisen auf Gold als ihre eigne Geldgestalt beziehn.
4. Die Waren gehn zunächst unvergoldet, unverzuckert, wie der Kamm ihnen gewachsen ist, in den Austauschprozeß ein. Er produziert eine Verdopplung der Ware in Ware und Geld, einen äußeren Gegensatz, worin sie ihren immanenten Gegensatz von Gebrauchswert und Wert darstellen. In diesem Gegensatz treten die Waren als Gebrauchswerte dem Geld als Tauschwert gegenüber. Andrerseits sind beide Seiten des Gegensatzes Waren, also Einheiten von Gebrauchswert und Wert. Aber diese Einheit von Unterschieden stellt sich auf jedem der beiden Pole umgekehrt dar und stellt dadurch zugleich deren Wechselbeziehung dar. Die Ware ist reell Gebrauchswert, ihr Wertsein erscheint nur ideell im Preis, der sie auf das gegenüberstehende Gold als ihre reelle Wertgestalt bezieht. Umgekehrt gilt das Goldmaterial nur als Wertmateriatur, Geld. Es ist reell daher Tauschwert. Sein Gebrauchswert erscheint nur noch ideell in der Reihe der relativen Wertausdrücke, worin es sich auf die gegenüberstehenden Waren als den Umkreis seiner reellen Gebrauchsgestalten bezieht. Diese gegensätzlichen Formen der Waren sind die wirklichen Bewegungsformen ihres Austauschprozesses.


5. Begleiten wir nun irgendeinen Warenbesitzer, unsren altbekannten Leinweber z.B., zur Szene des Austauschprozesses, dem Warenmarkt. <120> Seine Ware, 20 Ellen Leinwand, ist preisbestimmt. Ihr Preis ist 2 Pfd.St. Er tauscht sie aus gegen 2 Pfd.St. und, Mann von altem Schrot und Korn, tauscht die 2 Pfd.St. wieder aus gegen eine Familienbibel vom selben Preis. Die Leinwand, für ihn nur Ware, Wertträger, wird entäußert gegen Gold, ihre Wertgestalt, und aus dieser Gestalt rückveräußert gegen eine andre Ware, die Bibel, die aber als Gebrauchsgegenstand ins Weberhaus wandern und dort Erbauungsbedürfnisse befriedigen soll. Der Austauschprozeß der Ware vollzieht sich also in zwei entgegengesetzten und einander ergänzenden Metamorphosen - Verwandlung der Ware in Geld und ihre Rückverwandlung aus Geld in Ware.(65) Die Momente der Warenmetamorphose sind zugleich Händel des Warenbesitzers - Verkauf, Austausch der Ware mit Geld; Kauf, Austausch des Gelds mit Ware, und Einheit beider Akte: verkaufen, um zu kaufen.
6. Besieht sich der Leinweber nun das Endresultat des Handels, so besitzt er Bibel statt Leinwand, statt seiner ursprünglichen Ware eine andre vom selben Wert, aber verschiedner Nützlichkeit. In gleicher Weise eignet er sich seine andren Lebens- und Produktionsmittel an. Von seinem Standpunkt vermittelt der ganze Prozeß nur den Austausch seines Arbeitsprodukts mit fremdem Arbeitsprodukt, den Produktenaustausch.
7. Der Austauschprozeß der Ware vollzieht sich also in folgendem Formwechsel:
Ware - Geld - Ware.
W - G - W.
Nach ihrem stofflichen Inhalt ist die Bewegung W - W, Austausch von Ware gegen Ware, Stoffwechsel der gesellschaftlichen Arbeit, in dessen Resultat der Prozeß selbst erlischt.
8. W - G. Erste Metamorphose der Ware oder Verkauf. Das Überspringen des Warenwerts aus dem Warenleib in den Goldleib ist, wie ich es anderswo bezeichnet <Siehe Band 13, S. 71>, der Salto mortale der Ware. Mißlingt er, so ist zwar nicht die Ware geprellt, wohl aber der Warenbesitzer. Die gesellschaftliche Teilung der Arbeit macht seine Arbeit ebenso einseitig als seine Bedürfnisse vielseitig. Ebendeswegen dient ihm sein Produkt nur als Tauschwert. Allgemeine gesellschaftlich gültige Äquivalentform erhält es aber nur im Geld, <121> und das Geld befindet sich in fremder Tasche. Um es herauszusiehn, muß die Ware vor allem Gebrauchswert für den Geldbesitzer sein, die auf sie verausgabte Arbeit also in gesellschaftlich nützlicher Form verausgabt sein oder sich als Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit bewähren. Aber die Teilung der Arbeit ist ein naturwüchsiger Produktionsorganismus, dessen Fäden hinter dem Rücken der Warenproduzenten gewebt wurden und sich fortweben. Vielleicht ist die Ware Produkt einer neuen Arbeitsweise, die ein neu aufgekommenes Bedürfnis zu befriedigen vorgibt oder auf eigne Faust ein Bedürfnis erst hervorrufen will. Gestern noch eine Funktion unter den vielen Funktionen eines und desselben Warenproduzenten, reißt sich eine besondre Arbeitsverrichtung heute vielleicht los von diesem Zusammenhang, verselbständigt sich und schickt ebendeswegen ihr Teilprodukt als selbständige Ware zu Markt. Die Umstände mögen reif oder unreif sein für diesen Scheidungsprozeß. Das Produkt befriedigt heute ein gesellschaftliches Bedürfnis. Morgen wird es vielleicht ganz oder teilweise von einer ähnlichen Produktenart aus seinem Platze verdrängt. Ist auch die Arbeit, wie die unsres Leinwebers, patentiertes Glied der gesellschaftlichen Arbeitsteilung, so ist damit noch keineswegs der Gebrauchswert grade seiner 20 Ellen Leinwand garantiert. Wenn das gesellschaftliche Bedürfnis für Leinwand, und es hat sein Maß wie alles andre, bereits durch nebenbuhlerische Leinweber gesättigt ist, wird das Produkt unsres Freundes überschüssig, überflüssig und damit nutzlos. Einem geschenkten Gaul sieht man nicht ins Maul, aber er beschreitet nicht den Markt, um Präsente zu machen. Gesetzt aber, der Gebrauchswert seines Produkts bewähre sich und Geld werde daher angezogen von der Ware. Aber nun fragt sich's, wieviel Geld? Die Antwort ist allerdings schon antizipiert im Preis der Ware, dem Exponenten ihrer Wertgröße. Wir sehn ab von etwaigen rein subjektiven Rechenfehlern des Warenbesitzers, die auf dem Markt sofort objektiv korrigiert werden. Er soll auf sein Produkt nur den gesellschaftlich notwendigen Durchschnitt von Arbeitszeit verausgabt haben. Der Preis der Ware ist also nur Geldname des in ihr vergegenständlichten Quantums gesellschaftlicher Arbeit. Aber ohne Erlaubnis und hinter dem Rücken unsres Leinwebers gerieten die altverbürgten Produktionsbedingungen der Leinweberei in Gärung. Was gestern zweifelsohne gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit zur Produktion einer Elle Leinwand war, hört heute auf, es zu sein, wie der Geldbesitzer eifrigst demonstriert aus den Preisquotationen verschiedner Nebenbuhler unsres Freundes. Zu seinem Unglück gibt's viele Weber auf der Welt. Gesetzt endlich, jedes auf dem Markt vorhandne Stück Leinwand enthalte nur gesellschaftlich notwendige <122> Arbeitszeit. Trotzdem kann die Gesamtsumme dieser Stücke überflüssig verausgabte Arbeitszeit enthalten. Vermag der Marktmagen das Gesamtquantum Leinwand, zum Normalpreis von 2 sh. per Elle, nicht zu absorbieren, so beweist das, daß ein zu großer Teil der gesellschaftlichen Gesamtarbeitszeit in der Form der Leinweberei verausgabt wurde. Die Wirkung ist dieselbe, als hätte jeder einzelne Leinweber mehr als die gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit auf sein individuelles Produkt verwandt. Hier heißt's: Mitgefangen, mitgehangen. Alle Leinwand auf dem Markt gilt nur als ein Handelsartikel, jedes Stück nur als aliquoter Teil. Und in der Tat ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur desselben gesellschaftlich bestimmten Quantums gleichartiger menschlicher Arbeit. <In einem Brief vom 28. November 1878 an N. F. Danielson, den russischen Übersetzer des "Kapitals", ändert Marx den letzten Satz wie folgt: "Und in der Tat ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur eines Teils des im Gesamtquantum der Ellen verausgabten gesellschaftlichen Arbeitsquantums." Die gleichen Korrektur befindet sich auch in Marx' persönlichem Exemplar der zweiten deutschen Ausgabe des 1. Bandes des "Kapitals", jedoch nicht von seiner Hand.>


9. Man sieht, die Ware liebt das Geld, aber "the course of true love never does run smooth" <"der Weg wahrer Liebe ist niemals eben">. Ebenso naturwüchsig zufällig wie die qualitative ist die quantitative Gliederung des gesellschaftlichen Produktionsorganismus, der seine membra disjecta im System der Teilung der Arbeit darstellt. Unsre Warenbesitzer entdecken daher, daß dieselbe Teilung der Arbeit, die sie zu unabhängigen Privatproduzenten, den gesellschaftlichen Produktionsprozeß und ihre Verhältnisse in diesem Prozeß von ihnen selbst unabhängig macht, daß die Unabhängigkeit der Personen voneinander sich in einem System allseitiger sachlicher Abhängigkeit ergänzt.
10. Die Teilung de Arbeit verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware und macht dadurch seine Verwandlung in Geld notwendig. Sie macht es zugleich zufällig, ob diese Transsubstantiation gelingt. Hier ist jedoch das Phänomen rein zu betrachten, sein normaler Vorgang also vorauszusetzen. Wenn es übrigens überhaupt vorgeht, die Ware also nicht unverkäuflich ist, findet stets ihr Formwechsel statt, obgleich abnormal in diesem Formwechsel Substanz - Wertgröße - eingebüßt oder zugesetzt werden mag.
11. Dem einen Warenbesitzer ersetzt Gold seine Ware und dem andren Ware sein Gold. Das sinnfällige Phänomen ist der Hände- oder Stellenwechsel von Ware und Gold, von 20 Ellen Leinwand und 2 Pfd.St., d.h. ihr Austausch. Aber womit tauscht sich die Ware aus? Mit ihrer eignen allgemeinen Wertgestalt. Und womit das Gold? Mit einer besondren Gestalt <123> seines Gebrauchswerts. Warum tritt Gold der Leinwand als Geld gegenüber? Weil ihr Preis von 2 Pfd.St. oder ihr Geldname sie bereits auf Gold als Geld bezieht. Die Entäußerung der ursprünglichen Warenform vollzieht sich durch die Veräußerung der Ware, d.h. in dem Augenblicke, wo ihr Gebrauchswert das in ihrem Preis nur vorgestellte Gold wirklich anzieht. Die Realisierung des Preises oder der nur ideellen Wertform der Ware ist daher zugleich umgekehrt Realisierung des nur ideellen Gebrauchswerts des Geldes, die Verwandlung von Ware in Geld zugleich Verwandlung von Geld in Ware. Der eine Prozeß ist zweiseitiger Prozeß, vom Pol des Warenbesitzers Verkauf, vom Gegenpol des Geldbesitzers Kauf. Oder Verkauf ist Kauf, W - G zugleich G - W.(66)


12. Wir kennen bisher kein ökonomisches Verhältnis der Menschen außer dem von Warenbesitzern, ein Verhältnis, worin sie fremdes Arbeitsprodukt nur aneignen, indem sie eignes entfremden. Einem Warenbesitzer kann der andre daher nur als Geldbesitzer gegenübertreten, entweder weil sein Arbeitsprodukt von Natur die Geldform besitzt, also Geldmaterial ist, Gold usw., oder weil seine eigne Ware sich bereits gehäutet und ihre ursprüngliche Gebrauchsform abgestreift hat. Um als Geld zu funktionieren, muß das Gold natürlich an irgendeinem Punkt in den Warenmarkt eintreten. Dieser Punkt liegt an seiner Produktionsquelle, wo es sich als unmittelbares Arbeitsprodukt mit andrem Arbeitsprodukt von demselben Wert austauscht. Aber von diesem Augenblick stellt es beständig realisierte Warenpreise vor.(67) Abgesehn vom Austausch des Golds mit Ware an seiner Produktionsquelle, ist das Gold in der Hand jedes Warenbesitzers die entäußerte Gestalt seiner veräußerten Ware, Produkt des Verkaufs oder der ersten Warenmetamorphose W -G.(68) Ideelles Geld oder Wertmaß wurde das Gold, weil alle Waren ihre Werte in ihm maßen und es so zum vorgestellten Gegenteil ihre Gebrauchsgestalt, zu ihrer Wertgestalt machten. Reelles Geld wird es, weil die Waren durch ihre allseitige Veräußerung es zu ihrer wirklich entäußerten oder verwandelten Gebrauchsgestalt und daher zu ihrer wirklichen Wertgestalt machen. In ihrer Wertgestalt streift die Ware jede Spur ihres naturwüchsigen Gebrauchswerts und der <124> besondren nützlichen Arbeit ab, welcher sie den Ursprung verdankt, um sich in die gleichförmige gesellschaftliche Materiatur unterschiedsloser menschlicher Arbeit zu verpuppen. Man sieht dem Geld daher nicht an, welchen Schlags die in es verwandelte Ware. Eine sieht in ihrer Geldform grade aus wie die andre. Geld mag daher Dreck sein, obgleich Dreck nicht Geld ist. Wir wollen annehmen, daß die zwei Goldfüchse, wogegen unser Leinweber seine Ware veräußert, die verwandelte Gestalt eines Quarters Weizen sind. Der Verkauf der Leinwand, W - G, ist zugleich ihr Kauf, G - W. Aber als Verkauf der Leinwand beginnt dieser Prozeß eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil endet, mit dem Kauf der Bibel; als Kauf der Leinwand endet er eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil begann, mit dem Verkauf des Weizens. W - G (Leinwand - Geld), diese erste Phase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich G - W (Geld - Leinwand), die letzte Phase einer andren Bewegung W - G - W (Weizen - Geld - Leinwand). Die erste Metamorphose einer Ware, ihre Verwandlung aus der Warenform in Geld, ist stets zugleich zweite entgegengesetzte Metamorphose einer andren Ware, ihre Rückverwandlung aus der Geldform in Ware.(69)


13. G - W. Zweite oder Schlußmetamorphose der Ware: Kauf. - Weil die entäußerte Gestalt aller andren Waren oder das Produkt ihrer allgemeinen Veräußerung, ist Geld die absolut veräußerliche Ware. Es liest alle Preise rückwärts und spiegelt sich so in allen Warenleibern als dem hingebenden Material seiner eignen Warenwerdung. Zugleich zeigen die Preise, die Liebesaugen, womit ihm die Waren winken, die Schranke seiner Verwandlungsfähigkeit, nämlich seine eigne Quantität. Da die Ware in ihrer Geldwerdung verschwindet, sieht man dem Geld nicht an, wie es in die Hände seines Besitzers gelangt oder was in es verwandelt ist. Non olet <Es stinkt nicht>, wessen Ursprungs auch immer. Wenn es einerseits verkaufte Ware repräsentiert, so andrerseits kaufbare Ware.(70)
14. G - W, der Kauf ist zugleich Verkauf, W - G; die letzte Metamorphose einer Ware daher zugleich die erste Metamorphose einer andren Ware. Für unsren Leinweber schließt der Lebenslauf seiner Ware mit der Bibel, worin er die 2 Pfd.St. rückverwandelt hat. Aber der Bibelverkäufer setzt die vom <125> Leinweber gelösten 2 Pfd.St. in Kornbranntwein um. G - W, die Schlußphase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich W - G, die erste Phase von W - G - W (Bibel - Geld - Kornbranntwein). Da der Warenproduzent nur ein einseitiges Produkt liefert, verkauft er es oft in größeren Massen, während seine vielseitigen Bedürfnisse ihn zwinge, den realisierten Preis oder die gelöste Geldsumme beständig in zahlreiche Käufe zu zersplittern. Ein Verkauf mündet daher in viele Käufe verschiedner Waren. Die Schlußmetamorphose einer Ware bildet so eine Summe von ersten Metamorphosen andrer Waren.
15. Betrachten wir nun die Gesamtmetamorphose einer Ware, z.B. der Leinwand, so sehn wir zunächst, daß sie aus zwei entgegengesetzten und einander ergänzenden Bewegungen besteht, W - G und G - W. Diese zwei entgegengesetzten Wandlungen der Ware vollziehn sich in zwei entgegengesetzten gesellschaftlichen Prozessen des Warenbesitzers und reflektieren sich in zwei entgegengesetzten ökonomischen Charakteren desselben. Als Agent des Verkaufs wird er Verkäufer, als Agent des Kaufs Käufer. Wie aber in jeder Wandlung der Ware ihre beiden Formen, Warenform und Geldform, gleichzeitig existieren, nur auf entgegengesetzten Polen, so steht demselben Warenbesitzer als Verkäufer ein andrer Käufer und als Käufer ein andrer Verkäufer gegenüber. Wie dieselbe Ware die zwei umgekehrten Wandlungen sukzessiv durchläuft, aus Ware Geld und aus Geld Ware wird, so wechselt derselbe Warenbesitzer die Rollen von Verkäufer und Käufer. Es sind dies also keine festen, sondern innerhalb der Warenzirkulation beständig die Personen wechselnden Charaktere.


16. Die Gesamtmetamorphose einer Ware unterstellt, in ihrer einfachsten Form, vier Extreme und drei personae dramatis <handelnde Personen>. Erst tritt der Ware das Geld als ihre Wert-Gestalt gegenüber, die jenseits, in fremder Tasche, sachlich harte Realität besitzt. So tritt dem Warenbesitzer ein Geldbesitzer gegenüber. Sobald die Ware nun in Geld verwandelt, wird letztres zu ihrer verschwindenden Äquivalentform, deren Gebrauchswert oder Inhalt diesseits in andren Warenkörpern existiert. Als Endpunkt der ersten Warenwandlung ist das Geld zugleich Ausgangspunkt der zweiten. So wird der Verkäufer des ersten Akts Käufer im zweiten, wo ihm ein dritter Warenbesitzer als Verkäufer gegenübertritt.(71)
17. <126> Die beiden umgekehrten Bewegungsphasen der Warenmetamorphose bilden einen Kreislauf: Warenform, Abstreifung der Warenform, Rückkehr zur Warenform. Allerdings ist die Ware selbst hier gegensätzlich bestimmt. Am Ausgangspunkt ist sie Nicht-Gebrauchswert, am Endpunkt Gebrauchswert für ihren Besitzer. So erscheint das Geld erst als der feste Wertkristall, worin sich die Ware verwandelt, um hinterher als ihre bloße Äquivalentform zu zerrinnen.
Die zwei Metamorphosen, die den Kreislauf einer Ware, bilden zugleich die umgekehrten Teilmetamorphosen zweier andren Waren. Dieselbe Ware (Leinwand) eröffnet die Reihe ihrer eignen Metamorphosen und schließt die Gesamtmetamorphose einer andren Ware (des Weizens). Während ihrer ersten Wandlung, dem Verkauf, spielt sie diese zwei Rollen in eigner Person. Als Goldchrysalide dagegen, worin sie selbst den Weg alles Fleisches wandert, endet sie zugleich die erste Metamorphose einer dritten Ware. Der Kreislauf, den die Metamorphosenreihe jeder Ware beschreibt, verschlingt sich also unentwirrbar mit den Kreisläufen andrer Waren. Der Gesamtprozeß stellt sich dar als Warenzirkulation.


18. Die Warenzirkulation ist nicht nur formell, sondern wesentlich vom unmittelbaren Produktenaustausch unterschieden. Man werfe nur einen Rückblick auf den Vorgang. Der Leinweber hat unbedingt Leinwand mit Bibel vertauscht, eigne Ware mit fremder. Aber dies Phänomen ist nur wahr für ihn. Der Bibelagent, der dem Kühlen Heißes vorzieht, dachte nicht daran, Leinwand für Bibel einzutauschen, wie der Leinweber nicht davon weiß, daß Weizen gegen seine Leinwand eingetauscht worden ist usw. Die Ware des B ersetzt die Ware des A, aber A und B tauschen nicht wechselseitig ihre Waren aus. Es kann in der Tat vorkommen, daß A und B wechselweis voneinander kaufen, aber solche besondre Beziehung ist keineswegs durch die allgemeinen Verhältnisse der Warenzirkulation bedingt. Einerseits sieht man hier, wie der Warenaustausch die individuellen und lokalen Schranken des unmittelbaren Produktenaustausches durchbricht und den Stoffwechsel der menschlichen Arbeit entwickelt. Andrerseits entwickelt sich ein ganzer Kreis von den handelnden Personen unkontrollierbarer, gesellschaftlicher Naturzusammenhänge. Der Weber kann nur Leinwand verkaufen, weil der Bauer Weizen, Heißsporn nur die Bibel, weil der Weber Leinwand, der Destillateur nur gebranntes Wasser, weil der andre das Wasser des ewigen Lebens bereits verkauft hat usw.
19. Der Zirkulationsprozeß erlischt deswegen auch nicht, wie der unmittelbare Produktenaustausch, in dem Stellen- oder Händewechsel der Gebrauchswerte. Das Geld verschwindet nicht, weil es schließlich aus der <127> Metamorphosenreihe einer Ware herausfällt. Es schlägt immer nieder auf eine durch die Waren geräumte Zirkulationsstelle. Z.B. in der Gesamtmetamorphose der Leinwand: Leinwand - Geld - Bibel fällt erst die Leinwand aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle, fällt dann die Bibel aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle. Der Ersatz von Ware durch Ware läßt zugleich an dritter Hand die Geldware hängen.(72) Die Zirkulation schwitzt beständig Geld aus.


20. Nichts kann alberner sein als das Dogma, die Warenzirkulation bedinge ein notwendiges Gleichgewicht der Verkäufe und Käufe, weil jeder Verkauf Kauf und vice versa <umgekehrt>. Meint dies, daß die Zahl der wirklich vollzogenen Verkäufe gleich derselben Zahl von Käufen, so ist es platte Tautologie. Aber es soll beweisen, daß der Verkäufer seinen eignen Käufer zu Markt führt. Verkauf und Kauf sind ein identischer Akt als Wechselbeziehung zwischen zwei polarisch entgegengesetzten Personen, dem Warenbesitzer und dem Geldbesitzer. Sie bilden zwei polarisch entgegengesetzte Akte als Handlungen derselben Person. Die Identität von Verkauf und Kauf schließt daher ein, daß die Ware nutzlos wird, wenn sie, in die alchimistische Retorte der Zirkulation geworfen, nicht als Geld herauskommt, nicht vom Warenbesitzer verkauft, also vom Geldbesitzer gekauft wird. Jene Identität enthält ferner, daß der Prozeß, wenn er gelingt, einen Ruhepunkt, einen Lebensabschnitt der Ware bildet, der länger oder kürzer währen kann. Da die erste Metamorphose der Ware zugleich Verkauf und Kauf, ist dieser Teilprozeß zugleich selbständiger Prozeß. Der Käufer hat die Ware, der Verkäufer hat das Geld, d.h. eine Ware, die zirkulationsfähige Form bewahrt, ob sie früher oder später wieder auf dem Markt erscheine. Keiner kann verkaufen, ohne daß ein andrer kauft. Aber keiner braucht unmittelbar zu kaufen, weil er selbst verkauft hat. Die Zirkulation sprengt die zeitlichen, örtlichen und individuellen Schranken des Produktenaustausches ebendadurch, daß sie die hier vorhandne unmittelbare Identität zwischen dem Austausch des eignen und dem Eintausch des fremden Arbeitsprodukts in den Gegensatz von Verkauf und Kauf spaltet. Daß die selbständig einander gegenübertretenden Prozesse eine innere Einheit bilden, heißt ebensosehr, daß ihre innere Einheit sich in äußeren Gegensätzen bewegt. Geht die äußerliche Verselbständigung der innerlich Unselbständigen, weil einander <128> ergänzenden, bis zu einem gewissen Punkt fort, so macht sich die Einheit gewaltsam geltend durch eine - Krise. Der der Ware immanente Gegensatz von Gebrauchswert und Wert, von Privatarbeit, die sich zugleich als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit darstellen muß, von besondrer konkreter Arbeit, die zugleich nur als abstrakt allgemeine Arbeit gilt, von Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen - dieser immanente Widerspruch erhält in den Gegensätzen der Warenmetamorphose seine entwickelten Bewegungsformen. Diese Formen schließen daher die Möglichkeit, aber auch nur die Möglichkeit der Krisen ein. Die Endwicklung dieser Möglichkeit zur Wirklichkeit erfordert einen ganzen Umkreis von Verhältnissen, die vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch gar nicht existieren.(73)
21. Als Vermittler der Warenzirkulation erhält das Geld die Funktion des Zirkulationsmittels.


b) Der Umlauf des Geldes
***   ***
第6篇 労働賃金 第17章 

  D.第6篇労働賃金2020.01.25
岩波文庫(3)p.58

Man begreift daher die entscheidende Wichtigkeit重要さ der Verwandlung von Wert und Preis der Arbeitskraft in die Form des Arbeitslohns oder in Wert und Preis der Arbeit selbst. Auf dieser Erscheinungsform現象形態, die das wirkliche現実の Verhältnis unsichtbar目に見えない macht und grade sein Gegenteil zeigt指し示す, beruhn起因・依拠する alle Rechtsvorstellungen des Arbeiters wie des Kapitalisten, alle Mystifikationen der kapitalistische Produktionsweise, alle ihre Freiheitsillusionen自由の幻想, alle apologetischen Flause・nごまかし der Vulgärökonomie.
  *Mystifikationen:mystifizierenすること、神秘化する。神秘のベールをかぶせる。
Braucht die Weltgeschichte viele Zeit, um hinter das Geheimnis des Arbeitslohns zu kommen, so ist dagegen nichts leichter zu verstehen als die Notwendigkeit, die raisons d'être <Gründe des Daseins> dieser Erscheinungsform.
16. Kapitel. Verschiedne Formeln für die Rate des Mehrwerts | Inhalt | 18. Kapitel. Der Zeitlohn
Seitenzahlen verweisen auf: Karl Marx - Friedrich Engels - Werke, Band 23, "Das Kapital", Bd. I, Sechster Abschnitt, S. 557 - 564
Dietz Verlag, Berlin/DDR 1968

http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_557.htm

Sechster Abschnitt
Der Arbeitslohn
__________
SIEBZEHNTES KAPITEL
Verwandlung von Wert resp. Preis der Arbeitskraft in Arbeitslohn
<557> Auf der Oberfläche der bürgerlichen Gesellschaft erscheint der Lohn des Arbeiters als Preis der Arbeit, ein bestimmtes Quantum Geld, das für ein bestimmtes Quantum Arbeit gezahlt wird. Man spricht hier vom Wert der Arbeit und nennt seinen Geldausdruck ihren notwendigen oder natürlichen Preis. Man spricht andrerseits von Marktpreisen der Arbeit, d.h. über oder unter ihrem notwendigen Preis oszillierenden Preisen.
Aber was ist der Wert einer Ware? Gegenständliche Form der in ihrer Produktion verausgabten gesellschaftlichen Arbeit. Und wodurch messen wir die Größe ihres Werts? Durch die Größe der in ihr enthaltnen Arbeit. Wodurch wäre also der Wert z.B. eines zwölfstündigen Arbeitstags bestimmt? Durch die in einem Arbeitstag von 12 Stunden enthaltnen 12 Arbeitsstunden, was eine abgeschmackte Tautologie ist.(21)
<558> Um als Ware auf dem Markt verkauft zu werden, müßte die Arbeit jedenfalls existieren, bevor sie verkauft wird. Könnte der Arbeiter ihr aber eine selbständige Existenz geben, so würde er Ware verkaufen und nicht Arbeit.(22)
Von diesen Widersprüchen abgesehn, würde ein direkter Austausch von Geld, d.h. vergegenständlichter Arbeit, mit lebendiger Arbeit entweder das Wertgesetz aufheben, welches sich grade erst auf Grundlage der kapitalistischen Produktion frei entwickelt, oder die kapitalistische Produktion selbst aufheben, welche grade auf der Lohnarbeit beruht. Der Arbeitstag von 12 Stunden stellt sich z.B. in einem Geldwert von 6 sh. dar. Entweder werden Äquivalente ausgetauscht, und dann erhält der Arbeiter für zwölfstündige Arbeit 6 sh. Der Preis seiner Arbeit wäre gleich dem Preis seines Produkts. In diesem Fall produzierte er keinen Mehrwert für den Käufer seiner Arbeit, die 6 sh. verwandelten sich nicht in Kapital, die Grundlage der kapitalistischen Produktion verschwände, aber grade auf dieser Grundlage verkauft er seine Arbeit und ist seine Arbeit Lohnarbeit. Oder er erhält für 12 Stunden Arbeit weniger als 6 sh., d.h. weniger als 12 Stunden Arbeit. Zwölf Stunden Arbeit tauschen sich aus gegen 10, 6 usw. Stunden Arbeit. Diese Gleichsetzung ungleicher Größen hebt nicht nur die Wertbestimmung auf. Ein solcher sich selbst aufhebender Widerspruch kann überhaupt nicht als Gesetz auch nur ausgesprochen oder formuliert werden.(23)
Es nützt nichts, den Austausch von mehr gegen weniger Arbeit aus dem Formunterschied herzuleiten, daß sie das eine Mal vergegenständlicht, das andre Mal lebendig ist.(24) Dies ist um so abgeschmackter, als der Wert einer <559> Ware nicht durch das Quantum wirklich in ihr vergegenständlichter, sondern durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendigen lebendigen Arbeit bestimmt wird. Eine Ware stelle 6 Arbeitsstunden dar. Werden Erfindungen gemacht, wodurch sie in 3 Stunden produziert werden kann, so sinkt der Wert auch der bereits produzierten Ware um die Hälfte. Sie stellt jetzt 3 statt früher 6 Stunden notwendige gesellschaftliche Arbeit dar. Es ist also das zu ihrer Produktion erheischte Quantum Arbeit, nicht deren gegenständliche Form, wodurch ihre Wertgröße bestimmt wird.
Was dem Geldbesitzer auf dem Warenmarkt direkt gegenübertritt, ist in der Tat nicht die Arbeit, sondern der Arbeiter. Was letztrer verkauft, ist seine Arbeitskraft. Sobald seine Arbeit wirklich beginnt, hat sie bereits aufgehört, ihm zu gehören, kann also nicht mehr von ihm verkauft werden. Die Arbeit ist die Substanz und das immanente Maß der Werte, aber sie selbst hat keinen Wert.(25)
Im Ausdruck: "Wert der Arbeit" ist der Wertbegriff nicht nur völlig ausgelöscht, sondern in sein Gegenteil verkehrt. Es ist ein imaginärer Ausdruck, wie etwa Wert der Erde. Diese imaginären Ausdrücke entspringen jedoch aus den Produktionsverhältnissen selbst. Sie sind Kategorien für Erscheinungsformen wesentlicher Verhältnisse. Daß in der Erscheinung die Dinge sich oft verkehrt darstellen, ist ziemlich in allen Wissenschaften bekannt, außer in der politischen Ökonomie.(26)
Die klassische politische Ökonomie entlehnte dem Alltagsleben ohne weitere Kritik die Kategorie "Preis der Arbeit", um sich dann hinterher <560> zu fragen, wie wird dieser Preis bestimmt? Sie erkannte bald, daß der Wechsel im Verhältnis von Nachfrage und Angebot für den Preis der Arbeit, wie für den jeder andren Ware, nichts erklärt außer seinem Wechsel, d.h. die Schwankung der Markpreise unter oder über eine gewisse Größe. Decken sich Nachfrage und Angebot, so hört, unter sonst gleichbleibenden Umständen, die Preisoszillation auf. Aber dann hören auch Nachfrage und Angebot auf, irgend etwas zu erklären. Der Preis der Arbeit, wenn Nachfrage und Angebot sich decken, ist ihr vom Verhältnis der Nachfrage und Angebot unabhängig bestimmter, ihr natürlicher Preis, der so als der eigentlich zu analysierende Gegenstand gefunden ward. Oder man nahm eine längere Periode der Schwankungen des Marktpreises, z.B. ein Jahr und fand dann, daß sich ihr Auf und Ab ausgleicht zu einer mittlern Durchschnittsgröße, einer konstanten Größe. Sie mußte natürlich anders bestimmt werden als die sich kompensierenden Abweichungen von ihr selbst. Dieser über die zufälligen Marktpreise der Arbeit übergreifende und sie regulierende Preis, der "notwendige Preis" (Physiokraten) oder "natürliche Preis" der Arbeit (Adam Smith) kann, wie bei andren Waren, nur ihr in Geld ausgedrückter Wert sein. In dieser Art glaubte die politische Ökonomie durch die zufälligen Preise der Arbeit zu ihrem Wert vorzudringen. Wie bei den andren Waren wurde dieser Wert dann weiter durch die Produktionskosten bestimmt. Aber was sind die Produktionskosten - des Arbeiters, d.h. die Kosten, um den Arbeiter selbst zu produzieren oder zu reproduzieren? Diese Frage schob sich der politischen Ökonomie bewußtlos für die ursprüngliche unter, da sie mit den Produktionskosten der Arbeit als solcher sich im Kreise drehte und nicht vom Flecke kam. Was sie also <561> Wert der Arbeit (value of labour) nennt, ist in der Tat der Wert der Arbeitskraft, die in der Persönlichkeit des Arbeiters existiert und von ihrer Funktion, der Arbeit, ebenso verschieden ist wie eine Maschine von ihren Operationen. Beschäftigt mit dem Unterschied zwischen den Marktpreisen der Arbeit und ihrem sog. Wert, mit dem Verhältnis dieses Werts zur Profitrate, zu den vermittelst der Arbeit produzierten Warenwerten usw., entdeckte man niemals, daß der Gang der Analyse nicht nur von den Marktpreisen der Arbeit zu ihrem vermeintlichen Wert, sondern dahin geführt hatte, diesen Wert der Arbeit selbst wieder aufzulösen in den Wert der Arbeitskraft. Die Bewußtlosigkeit über dies Resultat ihrer eignen Analyse, die kritiklose Annahme der Kategorien "Wert der Arbeit", "natürlicher Preis der Arbeit" usw. als letzter adäquater Ausdrücke des behandelten Wertverhältnisses, verwickelte, wie man später sehn wird, die klassische politische Ökonomie in unauflösbare Wirren und Widersprüche, während sie der Vulgärökonomie eine sichere Operationsbasis für ihre prinzipiell nur dem Schein huldigende Flachheit bot.
Sehn wir nun zunächst, wie Wert und Preise der Arbeitskraft sich in dieser verwandelten Form als Arbeitslohn darstellen.
Man weiß, daß der Tageswert der Arbeitskraft berechnet ist auf eine gewisse Lebensdauer des Arbeiters, welcher eine gewisse Länge des Arbeitstags entspricht. Nimm an, der gewohnheitsmäßige Arbeitstag betrage 12 Stunden und der Tageswert der Arbeitskraft 3 sh., der Geldausdruck eines Werts, worin sich 6 Arbeitsstunden darstellen. Erhält der Arbeiter 3 sh., so erhält er den Wert seiner während 12 Stunden funktionierenden Arbeitskraft. Wird nun dieser Tageswert der Arbeitskraft als Wert der Tagesarbeit ausgedrückt, so ergibt sich die Formel: Die zwölfstündige Arbeit hat einen Wert von 3 sh. Der Wert der Arbeitskraft bestimmt so den Wert der Arbeit oder, in Geld ausgedrückt, ihren notwendigen Preis. Weicht dagegen der Preis der Arbeitskraft von ihrem Wert ab, so ebenfalls der Preis der Arbeit von ihrem sog. Wert.
Da der Wert der Arbeit nur ein irrationeller Ausdruck für den Wert der Arbeitskraft, ergibt sich von selbst, daß der Wert der Arbeit stets kleiner sein muß als ihr Wertprodukt, denn der Kapitalist läßt die Arbeitskraft stets länger funktionieren, als zur Reproduktion ihres eignen Werts nötig ist. Im obigen Beispiel ist der Wert der während 12 Stunden funktionierenden Arbeitskraft 3 sh., ein Wert, zu dessen Reproduktion sie 6 Stunden braucht. Ihr Wertprodukt ist dagegen 6 sh., weil sie in der Tat während 12 Stunden funktioniert, und ihr Wertprodukt nicht von ihrem eignen Werte, sondern von der Zeitdauer ihrer Funktion abhängt. Man erhält so das auf den <562> ersten Blick abgeschmackte Resultat, daß Arbeit, die einen Wert von 6 sh. schafft, einen Wert von 3 sh. besitzt.(27)
Man sieht ferner: Der Wert von 3 sh., worin sich der bezahlte Teil des Arbeitstags, d.h. sechsstündige Arbeit darstellt, erscheint als Wert oder Preis des Gesamtarbeitstags von 12 Stunden, welcher 6 unbezahlte Stunden enthält. Die Form des Arbeitslohns löscht also jede Spur der Teilung des Arbeitstags in notwendige Arbeit und Mehrarbeit, in bezahlte und unbezahlte Arbeit aus. Alle Arbeit erscheint als bezahlte Arbeit. Bei der Fronarbeit unterscheiden sich räumlich und zeitlich, handgreiflich sinnlich, die Arbeit des Fröners für sich selbst und seine Zwangsarbeit für den Grundherrn. Bei der Sklavenarbeit erscheint selbst der Teil des Arbeitstags, worin der Sklave nur den Wert seiner eignen Lebensmittel ersetzt, den er in der Tat also für sich selbst arbeitet, als Arbeit für seinen Meister. Alle seine Arbeit erscheint als unbezahlte Arbeit.(28) Bei der Lohnarbeit erscheint umgekehrt selbst die Mehrarbeit oder unbezahlte Arbeit als bezahlt. Dort verbirgt das Eigentumsverhältnis das Fürsichselbstarbeiten des Sklaven, hier das Geldverhältnis das Umsonstarbeiten des Lohnarbeiters.


Man begreift daher die entscheidende Wichtigkeit der Verwandlung von Wert und Preis der Arbeitskraft in die Form des Arbeitslohns oder in Wert und Preis der Arbeit selbst. Auf dieser Erscheinungsform, die das wirkliche Verhältnis unsichtbar macht und grade sein Gegenteil zeigt, beruhn alle Rechtsvorstellungen des Arbeiters wie des Kapitalisten, alle Mystifikationen der kapitalistische Produktionsweise, alle ihre Freiheitsillusionen, alle apologetischen Flausen der Vulgärökonomie.

Braucht die Weltgeschichte viele Zeit, um hinter das Geheimnis des Arbeitslohns zu kommen, so ist dagegen nichts leichter zu verstehen als die Notwendigkeit, die raisons d'être <Gründe des Daseins> dieser Erscheinungsform.

<563> Der Austausch zwischen Kapital und Arbeit stellt sich der Wahrnehmung zunächst ganz in derselben Art dar wie der Kauf und Verkauf aller andren Waren. Der Käufer gibt eine gewisse Geldsumme, der Verkäufer einen von Geld verschiednen Artikel. Das Rechtsbewußtsein erkennt hier höchstens einen stofflichen Unterschied, der sich ausdrückt in den rechtlich äquivalenten Formeln: Do ut des, do ut facias, facio ut des, und facio ut facias. <Ich gebe, damit du gibst; ich gebe, damit du tust; ich tue, damit du gibst; und ich tue, damit du tust.>
Ferner: Da Tauschwert und Gebrauchswert an und für sich inkommensurable Größen sind, so scheint der Ausdruck: "Wert der Arbeit", "Preis der Arbeit" nicht irrationeller als der Ausdruck "Wert der Baumwolle", "Preis der Baumwolle". Es kommt hinzu, daß der Arbeiter gezahlt wird, nachdem er seine Arbeit geliefert hat. In seiner Funktion als Zahlungsmittel realisiert das Geld aber nachträglich den Wert oder Preis des gelieferten Artikels, also im gegebnen Fall den Wert oder Preis der gelieferten Arbeit. Endlich ist der "Gebrauchswert", den der Arbeiter dem Kapitalisten liefert, in der Tat nicht seine Arbeitskraft, sondern ihre Funktion, eine bestimmte nützliche Arbeit, Schneiderarbeit, Schusterarbeit, Spinnarbeit usw. Daß dieselbe Arbeit nach einer andren Seite hin allgemeines wertbildendes Element ist, eine Eigenschaft, wodurch sie sich von allen andren Waren unterscheidet, fällt außerhalb des Bereichs des gewöhnlichen Bewußtseins.
Stellen wir uns auf den Standpunkt des Arbeiters, der für zwölfstündige Arbeit z.B. das Wertprodukt sechsstündiger Arbeit erhält, sage 3 sh., so ist für ihn in der Tat seine zwölfstündige Arbeit das Kaufmittel der 3 sh. Der Wert seiner Arbeitskraft mag variieren mit dem Wert seiner gewohnheitsmäßigen Lebensmittel von 3 auf 4 sh. oder von 3 auf 2 sh., oder bei gleichbleibendem Wert seiner Arbeitskraft mag ihr Preis, infolge wechselnden Verhältnisses von Nachfrage und Angebot, auf 4 sh. steigen oder auf 2 sh. fallen, er gibt stets 12 Arbeitsstunden. Jeder Wechsel in der Größe des Äquivalents, das er erhält, erscheint ihm daher notwendig als Wechsel im Wert oder Preis seiner 12 Arbeitsstunden. Dieser Umstand verleitete umgekehrt Adam Smith, der den Arbeitstag als eine konstante Größe behandelt (29), zur Behauptung, der Wert der Arbeit sei konstant, obgleich der Wert der Lebensmittel wechsle und derselbe Arbeitstag sich daher in mehr oder weniger Geld für den Arbeiter darstelle.
<564> Nehmen wir andrerseits den Kapitalisten, so will er zwar möglichst viel Arbeit für möglichst wenig Geld erhalten. Praktisch interessiert ihn daher nur die Differenz zwischen dem Preis der Arbeitskraft und dem Wert, den ihre Funktion schafft. Aber er sucht alle Ware möglichst wohlfeil zu kaufen und erklärt sich überall seinen Profit aus der einfachen Prellerei, dem Kauf unter und dem Verkauf über dem Wert. Er kommt daher nicht zur Einsicht, daß, wenn so ein Ding wie Wert der Arbeit wirklich existierte, und er diesen Wert wirklich zahlte, kein Kapital existieren, sein Geld sich nicht in Kapital verwandeln würde.

Zudem zeigt die wirkliche Bewegung des Arbeitslohns Phänomene, die zu beweisen scheinen, daß nicht der Wert der Arbeitskraft bezahlt wird, sondern der Wert ihrer Funktion, der Arbeit selbst. Diese Phänomene können wir auf zwei große Klassen zurückführen. Erstens: Wechsel des Arbeitslohns mit wechselnder Länge des Arbeitstags. Man könnte ebensowohl schließen, daß nicht der Wert der Maschine, sondern der ihrer Operation bezahlt wird, weil es mehr kostet, eine Maschine für eine Woche als für einen Tag zu dingen. Zweitens: Der individuelle Unterschied in den Arbeitslöhnen verschiedner Arbeiter, welche dieselbe Funktion verrichten. Diesen individuellen Unterschied findet man, aber ohne Anlaß zu Illusionen, auch im System der Sklaverei, wo frank und frei, ohne Schnörkel, die Arbeitskraft selbst verkauft wird. Nur fällt der Vorteil einer Arbeitskraft die über dem Durchschnitt, oder der Nachteil einer Arbeitskraft, die unter dem Durchschnitt steht, im Sklavensystem dem Sklaveneigner zu, im System der Lohnarbeit dem Arbeiter selbst, weil seine Arbeitskraft in dem einen Fall von ihm selbst, in dem andern von einer dritten Person verkauft wird.

Übrigens gilt von der Erscheinungsform, "Wert und Preis der Arbeit" oder "Arbeitslohn", im Unterschied zum wesentlichen Verhältnis, welches erscheint, dem Wert und Preis der Arbeitskraft, dasselbe, was von allen Erscheinungsformen und ihrem verborgnen Hintergrund. Die ersteren reproduzieren sich unmittelbar spontan, als gang und gäbe Denkformen, der andre muß durch die Wissenschaft erst entdeckt werden. Die klassische politische Ökonomie stößt annähernd auf den wahren Sachverhalt, ohne ihn jedoch bewußt zu formulieren. Sie kann das nicht, solange sie in ihrer bürgerlichen Haut steckt.



Fußnoten
(21) "Ricardo, geistreich genug, vermeidet eine Schwierigkeit, die auf den ersten Blick seiner Theorie entgegenzustehen scheint, daß nämlich der Wert von der in der Produktion verwandten Arbeitsmenge abhängig ist. Hält man an diesem Prinzip streng fest, so folgt daraus, daß der Wert der Arbeit abhängt von der zu ihrer Produktion aufgewandten Arbeitsmenge - was offenbar Unsinn ist. Durch eine geschickte Wendung macht deshalb Ricardo den Wert der Arbeit abhängig von der Menge der Arbeit, die zur Produktion des Lohnes erforderlich ist; oder, um mit seinen eigenen Worten zu sprechen, er behauptet, daß der Wert der Arbeit nach der Arbeitsmenge zu schätzen sei, die zur Produktion des Lohnes benötigt wird; worunter er die Arbeitsmenge versteht, die zur Produktion des Geldes oder der Ware notwendig ist, die dem Arbeiter gegeben werden. Gerade so gut könnte man sagen, daß der Wert von Tuch nicht nach der zu seiner Produktion verwandten Arbeitsmenge geschätzt werde, sondern nach der Arbeitsmenge, die zur Produktion des Silbers verwandt wurde, gegen welches das Tuch eingetauscht wird." ([S. Bailey,] "A Critical Dissertation on the Nature, etc., of Value", pp. 50, 51) <=
(22) "Wenn ihr Arbeit eine Ware nennt, so ist sie doch nicht einer Ware gleich, die zuerst zum Zweck des Tausches produziert und dann auf den Markt gebracht wird, wo sie mit anderen Waren, die grade auf dem Markte sind, in entsprechendem Verhältnis ausgetauscht wird; Arbeit wird in dem Augenblick geschaffen, in dem sie auf den Markt gebracht wird, ja sie wird auf den Markt gebracht, bevor sie geschaffen ist." ("Observations on some verbal disputes etc.", p. 75, 76.) <=
(23) "Wenn man Arbeit als eine Ware und Kapital, das Produkt von Arbeit, als eine andre behandelt, dann würde sich, wenn die Werte jener beiden Waren durch gleiche Arbeitsmengen bestimmt würden, eine gegebene Menge Arbeit ... gegen eine solche Menge Kapital austauschen, die durch die gleiche Arbeitsmenge erzeugt worden wäre; vergangene Arbeit würde ... gegen die gleiche Menge eingetauscht wie gegenwärtige. Aber der Wert der Arbeit, im Verhältnis zu anderen Waren ... wird eben nicht durch gleiche Arbeitsmengen bestimmt." (E. G. Wakefield in s. Edit. von A. Smiths, "Wealth of Nations", Lond. 1835, v. I, p. 230, 231, Note.) <=
(24) "Man mußte vereinbaren" (auch eine Ausgabe des "contrat social" <"Gesellschaftsvertrags">), "daß, wann immer geleistete Arbeit gegen zu leistende Arbeit ausgetauscht wird, der letztere" (le capitaliste <der Kapitalist>) "einen höheren Wert erhalten müßte als der erstere" (le travailleur <der Arbeiter>). (Simonde (i.e. Sismondi) "De la Richesse Commerciale", Genève 1803, t. I, p. 37) <=
(25) Arbeit, der ausschließliche Maßstab des Wertes ... die Schöpferin allen Reichtums, ist keine Ware." (Th. Hodgskin, l.c.p. 186.) <=
(26) Solche Ausdrücke dagegen für bloße licentia poetica <dichterische Freiheit> zu erklären, zeigt nur die Ohnmacht der Analyse. Gegen Proudhons Phrase: "Man sagt von der Arbeit, daß sie einen Wert hat, nicht als eigentliche Ware, sondern im Hinblick auf die Werte, welche man in ihr potentiell enthalten annimmt. Der Wert der Arbeit ist ein figürlicher Ausdruck etc.", bemerke ich daher: "Er sieht in der Ware Arbeit, die eine furchtbare Realität ist, nur eine grammatische Ellipse. Demgemäß ist die ganze heutige, auf den Warencharakter der Arbeit begründete Gesellschaft von jetzt an eine poetische Lizenz, auf einen figürlichen Ausdruck begründet. Will die Gesellschaft 'alle Unzuträglichkeiten ausmerzen', unter denen sie zu leiden hat, nun, so merze sie die anstößigen Ausdrücke aus, so ändere sie die Sprache, und sie braucht sich zu diesem Behufe nur an die Akademie zu wenden, um von ihr eine neue Ausgabe ihres Wörterbuchs zu verlangen." (K. Marx, "Misère de la Philosophie", p. 34, 35 <Siehe Band 4, S. 87/88>.) Noch bequemer ist es natürlich, sich unter Wert gar nichts zu denken. Man kann dann ohne Umstände alles unter diese Kategorie subsumieren. So z.B. J. B. Say. Was ist "valeur" <"Wert">? Antwort: "Das, was eine Sache wert ist" und was ist "prix <"Preis">? Antwort: "Der Wert einer Sache ausgedrückt in Geld." Und warum hat "die Arbeit der Erde ... einen Wert? Weil man ihr einen Preis zuerkennt". Also Wert ist, was ein Ding wert ist, und die Erde hat einen "Wert", weil man ihren Wert "in Geld ausdrückt". Dies ist jedenfalls eine sehr einfache Methode, sich über das why <Warum> und wherefore <Weswegen> der Dinge zu verständigen. <=
(27) Vgl. "Zur Kritik der politischen Oekonomie", p. 40 <Siehe Band 13, S. 47>, wo ich ankündige, daß bei Betrachtung des Kapitals das Problem gelöst werden soll: "Wie führt Produktion auf Basis des durch bloße Arbeitszeit bestimmten Tauschwerts zum Resultat, daß der Tauschwert der Arbeit kleiner ist als der Tauschwert ihres Produkts?" <=
(28) Der "Morning Star", ein bis zur Albernheit naives Londoner Freihandelsorgan, beteuerte während des Amerikanischen Bürgerkriegs wieder und wieder mit aller menschenmöglichen moralischen Entrüstung, daß die Neger in den "Confederate States" ganz umsonst arbeiteten. Es hätte gefälligst die Tageskosten eines solchen Negers mit denen des freien Arbeiters im East End von London z.B. vergleichen sollen. <=
(29) A. Smith spielt nur zufällig auf die Variation des Arbeitstags an bei Gelegenheit des Stücklohns. <=


 ■英 語 Section One

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Capital: A Critique of Political Economy
by Karl Marx
1867
Volume One: The Process of Capitalist Production
Part One: Commodities and Money

  →SECTION 2.—THE TWOFOLD CHARACTER OF THE LABOUR EMBODIED IN COMMODITIES. 

Chapter One :  Commodities


Section One: The Two Factors of a Commodity: Use-Value and Value
(The Substance of Value and the Magnitude of Value)


1-1 The wealth of those societies in which the capitalist mode of
production prevails, presents itself as "an immense accumulation
of commodities,"(1*) its unit being a single commodity. Our
investigation must therefore begin with the analysis of a
commodity.

1-2 A commodity is, in the first place, an object outside us, a
thing that by its properties satisfies human wants of some sort
or another. The nature of such wants, whether, for instance, they
spring from the stomach or from fancy, makes no difference.(2*)
Neither are we here concerned to know how the object satisfies
these wants, whether directly as means of subsistence, or
indirectly as means of production.

1-3 Every useful thing, as iron, paper, etc., may be looked at
from the two points of view of quality and quantity. It is an
assemblage of many properties, and may therefore be of use in
various ways. To discover the various uses of things is the work
of history.(3*) So also is the establishment of
socially-recognised standards of measure for the quantities of
these useful objects. The diversity of these measures has its
origin partly in the diverse nature of the objects to be
measured, partly in convention.

1-4 The utility of a thing makes it a use value.(4*) But this
utility is not a thing of air. Being limited by the physical
properties of the commodity, it has no existence apart from that
commodity. A commodity, such as iron, corn, or a diamond, is
therefore, so far as it is a material thing, a use value,
something useful. This property of a commodity is independent of
the amount of labour required to appropriate its useful
qualities. When treating of use value, we always assume to be
dealing with definite quantities, such as dozens of watches,
yards of linen, or tons of iron. The use values of commodities
furnish the material for a special study, that of the commercial
knowledge of commodities.(5*)
Use values become a reality only by use or consumption they
also constitute the substance of all wealth, whatever may be the
social form of that wealth. In the form of society we are about
to consider, they are, in addition, the material depositories of
exchange-value.

1-5 Exchange-value, at first sight, presents itself as a
quantitative relation, as the proportion in which values in use
of one sort are exchanged for those of another sort,(6*) a
relation constantly changing with time and place. Hence exchange
value appears to be something accidental and purely relative, and
consequently an intrinsic value, i.e., an exchange-value that is
inseparably connected with, inherent in commodities, seems a
contradiction in terms.(7*) Let us consider the matter a little
more closely.

1-6 A given commodity, e.g., a quarter of wheat is exchanged for
x blacking, y silk, or z gold, etc.-- in short, for other
commodities in the most different proportions. Instead of one
exchange value, the wheat has, therefore, a great many. But since
x blacking, y silk, or z gold, etc., each represent the
exchange-value of one quarter of wheat, x blacking, y silk, z
gold, etc., must, as exchange values, be replaceable by each
other, or equal to each other. Therefore, first: the valid
exchange-values of a given commodity express something equal;
secondly, exchange-value, generally, is only the mode of
expression, the phenomenal form, of something contained in it,
yet distinguishable from it.

1-7 Let us take two commodities, e.g., corn and iron. The
proportions in which they are exchangeable, whatever those
proportions may be, can always be represented by an equation in
which a given quantity of corn is equated to some quantity of
iron: e.g., 1 quarter corn = x cwt. iron. What does this equation
tell us? It tells us that in two different things -- in 1 quarter
of corn and x cwt. of iron, there exists in equal quantities
something common to both. The two things must therefore be equal
to a third, which in itself is neither the one nor the other.
Each of them, so far as it is exchange-value, must therefore be
reducible to this third.

1-8 A simple geometrical illustration will make this clear. In
order to calculate and compare the areas of rectilinear figures,
we decompose them into triangles. But the area of the triangle
itself is expressed by something totally different from its
visible figure, namely, by half the product of the base into the
altitude. In the same way the exchange values of commodities must
be capable of being expressed in terms of something common to
them all, of which thing they represent a greater or less
quantity.

1-9 This common "something" cannot be either a geometrical, a
chemical, or any other natural property of commodities. Such
properties claim our attention only in so far as they affect the
utility of those commodities, make them use values. But the
exchange of commodities is evidently an act characterised by a
total abstraction from use-value. Then one use value is just as
good as another, provided only it be present in sufficient
quantity. Or, as old Barbon says, "one sort of wares are as good
as another, if the values be equal. There is no difference or
distinction in things of equal value... An hundred pounds' worth
of lead or iron, is of as great value as one hundred pounds'
worth of silver or gold."(8*) As use-values, commodities are,
above all, of different qualities, but as exchange-values they
are merely different quantities, and consequently do not contain
an atom of use-value.

1-10 If then we leave out of consideration the use-value of
commodities, they have only one common property left, that of
being products of labour. But even the product of labour itself
has undergone a change in our hands. If we make abstraction from
its use-value, we make abstraction at the same time from the
material elements and shapes that make the product a use-value;
we see in it no longer a table, a house, yarn, or any other
useful thing. Its existence as a material thing is put out of
sight. Neither can it any longer be regarded as the product of
the labour of the joiner, the mason, the spinner, or of any other
definite kind of productive labour. Along with the useful
qualities of the products themselves, we put out of sight both
the useful character of the various kinds of labour embodied in
them, and the concrete forms of that labour; there is nothing
left but what is common to them all; all are reduced to one and
the same sort of labour, human labour in the abstract.

1-11 Let us now consider the residue of each of these products; it
consists of the same unsubstantial reality in each, a mere
congelation of homogeneous human labour, of labour-power expended
without regard to the mode of its expenditure. All that these
things no tell us is, that human labour-power has been expended
in their production, that human labour is embodied in them. When
looked at as crystals of this social substance, common to them
all, they are -- Values.

1-12 We have seen that when commodities are exchange, their
exchange-value manifests itself as something totally independent
of their use value. But if we abstract from their use-vale, there
remains their Value as defined above. Therefore, the common
substance that manifests itself in the exchange-value of
commodities, whenever they are exchanged, is their value. The
progress of our investigation will show that exchange-value is
the only form in which the value of commodities can manifest
itself or be expressed. For the present, however, we have to
consider the nature of value independently of this, its form.

1-13 A use-value, or useful article, therefore, has value only
because human labour in the abstract has been embodied or
materialised in it. How, then, is the magnitude of this value to
be measured? Plainly, by the quantity of the value-creating
substance, the labour, contained in the article. The quantity of
labour, however, is measured by its duration, and labour-time in
its turn finds its standard in weeks, days, and hours.

1-14 Some people might think that if the value of a commodity is
determined by the quantity of labour spent on it, the more idle
and unskilful the labourer, the more valuable would his commodity
be, because more time would be required in its production. The
labour, however, that forms the substance of value, is
homogeneous human labour, expenditure of one uniform labour-
power. The total labour-power of society, which is embodied in
the sum total of the values of all commodities produced by that
society, counts here as one homogeneous mass of human
labour-power, composed though it be of innumerable individual
units. Each of these units is the same as any other, so far as it
has the character of the average labour power of society, and
takes effect as such; that is, so far as it requires for
producing a commodity, no more time than is needed on an average,
no more than is socially necessary. The labour time socially
necessary is that required to produce an article under the normal
conditions of production, and with the average degree of skill
and intensity prevalent at the time. The introduction of
powerlooms into England probably reduced by one half the labour
required to weave a given quantity of yarn into cloth. The
handloom weavers, as a matter of fact, continued to require the
same time as before; but for all that, the product of one hour of
their labour represented after the change only half an hour's
social labour, and consequently fell to one-half its former
value,

1-15 We see then that that which determines the magnitude of the
value of any article is the amount of labour socially necessary,
or the labour-time socially necessary for its production.(9*)
Each individual commodity, in this connection, is to be
considered as an average sample of its class.(10*) Commodities,
therefore, in which equal quantities of labour are embodied, or
which can be produced in the same time, have the same value. The
value of one commodity is to the value of any other, as the
labour time necessary for the production of the one is to that
necessary for the production of the other. "As values, all
commodities are only definite masses of congealed
labour-time."(11*)

1-16 The value of a commodity would therefore remain constant, if
the labour time required for its production also remained
constant. But the latter changes with every variation in the
productiveness of labour. This productiveness is determined by
various circumstances, amongst others, by the average amount of
skill of the workmen, the state of science, and the degree of its
practical application, the social organisation of production, the
extent and capabilities of the means of production, and by
physical conditions. For example, the same amount of labour in
favourable seasons is embodied in 8 bushels of corn, and in
unfavourable, only in four. The same labour extracts from rich
mines more metal than from poor mines. Diamonds are of very rare
occurrence on the earth's surface, and hence their discovery
costs, on an average, a great deal of labour time. Consequently
much labour is represented in a small compass. Jacob doubts
whether gold has ever been paid for at its full value. This
applies still more to diamonds. according to Eschwege, the total
produce of the Brazilian diamond mines for the eighty years,
ending in 1823, had not realised the price of one-and a-half
years' average produce of the sugar and coffee plantations of the
same country, although the diamonds cost much more labour, and
therefore represented more value. With richer mines, the same
quantity of labour would embody itself in more diamonds, and
their value would fall. If we could succeed at a small
expenditure of labour, in converting carbon into diamonds, their
value might fall below that of bricks. In general, the greater
the productiveness of labour, the less is the labour time
required for the production of an article, the less is the amount
of labour crystallised in that article. and the less is its
value; and vice versa, the less the productiveness of labour, the
greater is the labour time required for the production of an
article, and the greater is its value. The value of a commodity,
therefore, varies directly as the quantity, and inversely as the
productiveness, of the labour incorporated in it.

1-18 A thing can be a use-value, without having value. This is the
case whenever its utility to man is not due to labour. Such are
air, virgin soil, natural meadows, etc. A thing can be useful,
and the product of human labour, without being a commodity.
Whoever directly satisfies his wants with the produce of his own
labour, creates, indeed, use-values, but not commodities. ln
order to produce the latter, he must not only produce use values,
but use values for others, social use values. (And not only for
others, without more. The medieval peasant produced
quit-rent-corn for his feudal lord and tithe corn for his parson.
But neither the quit rent corn nor the tithe-corn became
commodities by reason of the fact that they had been produced for
others. To become a commodity a product must be transferred to
another, whom it will serve as a use-value, by means of an
exchange.) Lastly nothing can have value, without being an object
of utility. If the thing is useless, so is the labour contained
in it; the labour does not count as labour, and therefore creates
no value.

NOTES:

1. Karl Marx, "A Contribution to the Critique of Political
Economy" 1859, London, p. 19.

2. "Desire implies want; it is the appetite of the mind, and as
natural as hunger in the body... The greater number (of things)
have their value from supplying the wants of the mind." Nicolas
Barbon: "A Discourse on coining the new money lighter, in answer
to Mr. Locke's Considerations" etc. London, 1696, p. 2, 3.

3. "Things have an intrinsick virtue" (this is Barbon's special
term for value in use) "which in all places have the same virtue;
as the loadstone to attract iron." (l.c. p. 6). the property
which the magnet possesses of attracting iron, became of use only
after by means of that property the polarity of the magnet had
been discovered.

4. "The natural worth of anything consists in its fitness to
supply the necessities, or serve the conveniences of human life."
(John Locke, "Some Considerations on the consequences of the
lowering of interest, 1691," in Works Edit. London, 1777. Vol.
II, p. 28.) In English writers of the 17th century we frequently
find "worth" in the sense of value in use, and "value" in the
sense of exchange value. This is quite in accordance with the
spirit of a language that likes to use a Teutonic word for the
actual thing, and a Romance word for its reflexion.

5. In bourgeois societies the economical fictio juris prevails,
that every one, as a buyer, possesses an encyclopaedic knowledge
of commodities.

6. "La valeur consiste dans le rapport d'echange qui se trouve
entre telle chose et telle autre, entre telle mesure d'une
production, et telle mesure d'une autre." (Le Trosne: De
l'Interet Social. Physiocrates, Ed. Dalre, Paris, 1846, p. 889.)

7. "Nothing can have an intrinsick value." (N. Barbon, l.c., p.
6) or as Butler says --
"The value of a thing
Is just as much as it will bring."

8. N. Barbon, l.c., p. 53 and 7.

9. "The value of them (the necessaries of life), when they are
exchanged the one for another, is regulated by the quantity of
labour necessarily required, and commonly taken in producing
them." (Some Thoughts on the Interest of Money in general and
particularly in the Publick Funds, etc., London, p. 36) This
remarkable anonymous work, written in the last century bears no
date. It is clear, however, from internal evidence, that it
appeared in the reign of George II, about 1739 or 1740.

10. "Toutes les productions d'un meme genre ne forment proprement
qu'une masse, dont le pris se determine en general et sans egard
aux circonstances particulieres." (Le Trosne, l.c., p. 893.)

11. K. Marx, l.c., p. 24
 ■英 語 section02

Capital: A Critique of Political Economy, Vol. I. The Process of Capitalist Production
By Karl Marx


SECTION 2.—THE TWOFOLD CHARACTER OF THE LABOUR EMBODIED IN COMMODITIES.

At first sight a commodity presented itself to us as a complex of two things—use-value and exchange-value. Later on, we saw also that labour, too, possesses the same two-fold nature; for, so far as it finds expression in value, it does not possess the same characteristics that belong to it as a creator of use-values. I was the first to point out and to examine critically this two fold nature of the labour contained in commodities. As this point is the pivot on which a clear comprehension of political economy turns, we must go more into detail.


Let us take two commodities such as a coat and 10 yards of linen, and let the former be double the value of the latter, so that, if 10 yards of linen=W, the coat=2W.


The coat is a use-value that satisfies a particular want. Its existence is the result of a special sort of productive activity, the nature of which is determined by its aim, mode of operation, subject, means, and result. The labour, whose utility is thus represented by the value in use of its product, or which manifests itself by making its product a use-value, we call useful labour. In this connexion we consider only its useful effect.


As the coat and the linen are two qualitatively different use-values, so also are the two forms of labour that produce them, tailoring and weaving. Were these two objects not qualitatively different, not produced respectively by labour of different quality, they could not stand to each other in the
relation of commodities. Coats are not exchanged for coats, one use-value is not exchanged for another of the same kind.


To all the different varieties of values in use there correspond as many different kinds of useful labour, classified according to the order, genus, species, and variety to which they belong in the social division of labour. This division of labour is a necessary condition for the production of commodities, but it does not follow conversely, that the production of commodities is a necessary condition for the division of labour. In the primitive Indian community there is social division of labour, without production of commodities. Or, to take an example nearer home, in every factory the labour is divided according to a system, but this division is not brought about by the operatives mutually exchanging their individual products. Only such products can become commodities with regard to each other, as result from different kinds of labour, each kind being carried on independently and for the account of private individuals.


To resume, then: In the use-value of each commodity there is contained useful labour,
i.e., productive activity of a definite kind and exercised with a definite aim. Use-values cannot confront each other as commodities, unless the useful labour embodied in them is qualitatively different in each of them. In a community, the produce of which in general takes the form of commodities,
i.e., in a community of commodity producers, this qualitative difference between the useful forms of labour that are carried on independently by individual producers, each on their own account, develops into a complex system, a social division of labour.


Anyhow, whether the coat be worn by the tailor or by his customer, in either case it operates as a use-value. Nor is the relation between the coat and the labour that produced it altered by the circumstance that tailoring may have become a special trade, an independent branch of the social division of labour. Wherever the want of clothing forced them to it, the human race made clothes for thousands of years, without a single man becoming a tailor. But coats and linen, like every other element of material wealth that is not the spontaneous produce of nature, must invariably owe their existence to a
special productive activity, exercised with a definite aim, an activity that appropriates particular nature-given materials to particular human wants. So far therefore as labour is a creator of use-value, is useful labour, it is a necessary condition, independent of all forms of society, for the existence of the human race; it is an eternal nature-imposed necessity, without which there can be no material exchanges between man and Nature, and therefore no life.


The use-values, coat, linen, &c.,
i.e., the bodies of commodities, are combinations of two elements—matter and labour. If we take away the useful labour expended upon them, a material substratum is always left, which is furnished by Nature without the help of man. The latter can work only as Nature does, that is by changing the form of matter.
*21 Nay more, in this work of changing the form he is constantly helped by natural forces. We see, then, that labour is not the only source of material wealth, of use-values produced by labour. As William Petty puts it, labour is its father and the earth its mother.


Let us now pass from the commodity considered as a use-value to the value of commodities.


By our assumption, the coat is worth twice as much as the linen. But this is a mere quantitative difference, which for the present does not concern us. We bear in mind, however, that if the value of the coat is double that of 10 yds. of linen, 20 yds. of linen must have the same value as one coat. So far as they are values, the coat and the linen are things of a like substance, objective expressions of essentially identical labour. But tailoring and weaving are, qualitatively, different kinds of labour. There are, however, states of society in which one and
the same man does tailoring and weaving alternately, in which case these two forms of labour are mere modifications of the labour of the same individual, and not special and fixed functions of different persons; just as the coat which our tailor makes one day, and the trousers which he makes another day, imply only a variation in the labour of one and the same individual. Moreover, we see at a glance that, in our capitalist society, a given portion of human labour is, in accordance with the varying demand, at one time supplied in the form of tailoring, at another in the form of weaving. This change may possibly not take place without friction, but take place it must.


Productive activity, if we leave out of sight its special form, viz., the useful character of the labour, is nothing but the expenditure of human labour-power. Tailoring and weaving though qualitatively different productive activities, are each a productive expenditure of human brains, nerves, and muscles, and in this sense are human labour. They are but two different modes of expending human labour-power. Of course, this labour-power, which remains the same under all its modifications, must have attained a certain pitch of development before it can be expended in a multiplicity of modes. But the value of a commodity represents human labour in the abstract, the expenditure of human labour in general. And just as in society, a general or a banker plays a great part, but mere man, on the other hand, a very shabby part,
*22 so here with mere human labour. It is the expenditure of simple labour-power,
i.e., of the labour-power which, on an average, apart from any special development, exists in the organism of every ordinary individual. Simple average labour, it is true, varies in character in different countries and at different times, but in a particular society it is given. Skilled labour counts only as simple labour intensified, or rather, as multiplied simple labour, a given quantity of skilled being considered equal to a greater quantity of simple labour. Experience shows that this reduction is constantly being made. A commodity may be the product of the most skilled labour, but its value, by equating it to the product of simple unskilled labour, represents a
definite quantity of the latter labour alone.
*23 The different proportions in which different sorts of labour are reduced to unskilled labour as their standard, are established by a social process that goes on behind the backs of the producers, and, consequently, appear to be fixed by custom. For simplicity’s sake we shall henceforth account every kind of labour to be unskilled, simple labour; by this we do no more than save ourselves the trouble of making the reduction.


Just as, therefore, in viewing the coat and linen as values, we abstract from their different use-values, so it is with the labour represented by those values: we disregard the difference between its useful forms, weaving and tailoring. As the use-values, coat and linen, are combinations of special productive activities with cloth and yarn, while the values, coat and linen, are, on the other hand, mere homogeneous congelations of indifferentiated labour, so the labour embodied in these latter values does not count by virtue of its productive relation to cloth and yarn, but only as being expenditure of human labour-power. Tailoring and weaving are necessary factors in the creation of the use-values, coat and linen, precisely because these two kinds of labour are of different qualities; but only in so far as abstraction is made from their special qualities, only in so far as both possess the same quality of being human labour, do tailoring and weaving form the substance of the values of the same articles.


Coats and linen, however, are not merely values, but values of definite magnitude, and according to our assumption, the coat is worth twice as much as the ten yards of linen. Whence this difference in their values? It is owing to the fact that the linen contains only half as much labour as the coat, and consequently, that in the production of the latter, labour-power must have been expended during twice the time necessary for the production of the former.


While, therefore, with reference to use-value, the labour contained in a commodity counts only qualitatively, with reference
to value it counts only quantitatively, and must first be reduced to human labour pure and simple. In the former case, it is a question of How and What, in the latter of How much? How long a time? Since the magnitude of the value of a commodity represents only the quantity of labour embodied in it, it follows that all commodities, when taken in certain proportions, must be equal in value.


If the productive power of all the different sorts of useful labour required for the production of a coat remains unchanged, the sum of the values of the coat produced increases with their number. If one coat represents x days’ labour, two coats represent 2x days’ labour, and so on. But assume that the duration of the labour necessary for the production of a coat becomes doubled or halved. In the first case, one coat is worth as much as two coats were before; in the second case, two coats are only worth as much as one was before, although in both cases one coat renders the same service as before, and the useful labour embodied in it remains of the same quality. But the quantity of labour spent on its production has altered.


An increase in the quantity of use-values is an increase of material wealth. With two coats two men can be clothed, with one coat only one man. Nevertheless, an increased quantity of material wealth may correspond to a simultaneous fall in the magnitude of its value. This antagonistic movement has its origin in the two-fold character of labour. Productive power has reference, of course, only to labour of some useful concrete form; the efficacy of any special productive activity during a given time being dependent on its productiveness. Useful labour becomes, therefore, a more or less abundant source of products, in proportion to the rise or fall of its productiveness. On the other hand, no change in this productiveness affects the labour represented by value. Since productive power is an attribute of the concrete useful forms of labour, of course it can no longer have any bearing on that labour, so soon as we make abstraction from those concrete useful forms. However then productive power may vary, the same labour, exercised during equal periods of time, always yields equal amounts of value. But it will yield, during equal
periods of time, different quantities of values in use; more, if the productive power rise, fewer, if it fall. The same change in productive power, which increases the fruitfulness of labour, and, in consequence, the quantity of use-values produced by that labour, will diminish the total value of this increased quantity of use-values, provided such change shorten the total labour-time necessary for their production; and
vice versâ.


On the one hand all labour is, speaking physiologically, an expenditure of human labour-power, and in its character of identical abstract human labour, it creates and forms the value of commodities. On the other hand, all labour is the expenditure of human labour-power in a special form and with a definite aim, and in this, its character of concrete useful labour, it produces use-values.
*24


SECTION 3.—THE FORM OF VALUE OR EXCHANGE VALUE.

Commodities come into the world in the shape of use-values, articles, or goods, such as iron, linen, corn, &c. This is their plain, homely, bodily form. They are, however, commodities,
only because they are something twofold, both objects of utility, and, at the same, time, depositories of value. The manifest themselves therefore as commodities, or have the form of commodities, only in so far as they have two forms, a physical or natural form, and a value form.


The reality of the value of commodities differs in this respect from Dame Quickly, that we don’t know “where to have it.” The value of commodities is the very opposite of the coarse materiality of their substance, not an atom of matter enters into its composition. Turn and examine a single commodity, by itself, as we will. Yet in so far as it remains an object of value, it seems impossible to grasp it. If, however, we bear in mind that the value of commodities has a purely social reality, and that they acquire this reality only in so far as they are expressions or embodiments of one identical social substance, viz., human labour, it follows as a matter of course, that value can only manifest itself in the social relation of commodity to commodity. In fact we started from exchange value, or the exchange relation of commodities, in order to get at the value that lies hidden behind it. We must now return to this form under which value first appeared to us.


Every one knows, if he knows nothing else, that commodities have a value form common to them all, and presenting a marked contrast with the varied bodily forms of their use-values. I mean their money form. Here, however, a task is set us, the performance of which has never yet even been attempted by
bourgeois economy, the task of tracing the genesis of this money form, of developing the expression of value implied in the value relation of commodities, from its simplest, almost imperceptible outline, to the dazzling money form. By doing this we shall, at the same time, solve the riddle presented by money.


The simplest value relation is evidently that of one commodity to some one other commodity of a different kind. Hence the relation between the values of two commodities supplies us with the simplest expression of the value of a single commodity.


A.
Elementary or Accidental Form of Value.

x commodity A=y commodity B, or

x commodity A is worth y commodity B.

20 yards of linen=1 coat, or

20 yards of linen are worth 1 coat.


1.
The two poles of the expression of value: Relative form and Equivalent form.

The whole mystery of the form of value lies hidden in this elementary form. Its analysis, therefore, is our real difficulty.


Here two different kinds of commodities (in our example the linen and the coat), evidently play two different parts. The linen expresses its value in the coat; the coat serves as the material in which that value is expressed. The former plays an active, the latter a passive, part. The value of the linen is represented as relative value, or appears in relative form. The coat officiates as equivalent, or appears in equivalent form.


The relative form and the equivalent form are two intimately connected, mutually dependent and inseparable elements of the expression of value; but, at the same time, are mutually exclusive, antagonistic extremes—
i.e., poles of the same expression. They are allotted respectively to the two different commodities brought into relation by that expression. It is not possible to express the value of linen in linen. 20 yards of linen=20 yards of linen is no expression of value. On the contrary, such an equation merely says that 20 yards of linen are nothing else than 20 yards of linen, a definite quantity of the use-value linen. The value of the linen can therefore be expressed only relatively—
i.e., in some other commodity. The relative form of the value of the linen pre-supposes, therefore, the presence of some other commodity—here the coat—under the form of an equivalent. On the other hand, the commodity that figures as the equivalent cannot at the same time assume the relative form. That second commodity is not the one whose value is expressed. Its function is merely to serve as
the material in which the value of the first commodity is expressed.


No doubt, the expression 20 yards of linen=1 coat, or 20 yards of linen are worth 1 coat, implies the opposite relation: 1 coat=20 yards of linen, or 1 coat is worth 20 yards of linen. But, in that case, I must reverse the equation, in order to express the value of the coat relatively; and, so soon as I do that the linen becomes the equivalent instead of the coat. A single commodity cannot, therefore, simultaneously assume, in the same expression of value, both forms. The very polarity of these forms makes them mutually exclusive.


Whether, then, a commodity assumes the relative form, or the opposite equivalent form, depends entirely upon its accidental position in the expression of value—that is, upon whether it is the commodity whose value is being expressed.


2.
The Relative form of value.
(a.)
The nature and import of this form.

In order to discover how the elementary expression of the value of a commodity lies hidden in the value relation of two commodities, we must, in the first place, consider the latter entirely apart from its quantitative aspect. The usual mode of procedure is generally the reverse, and in the value relation nothing is seen but the proportion between definite quantities of two different sorts of commodities that are considered equal to each other. It is apt to be forgotten that the magnitudes of different things can be compared quantitatively, only when those magnitudes are expressed in terms of the same unit. It is only as expressions of such a unit that they are of the same denomination, and therefore commensurable.
*25


Whether 20 yards of linen=1 coat or=20 coats or=x
coats—that is, whether a given quantity of linen is worth few or many coats, every such statement implies that the linen and coats, as magnitudes of value, are expressions of the same unit, things of the same kind. Linen=coat is the basis of the equation.


But the two commodities whose identity of quality is thus assumed, do not play the same part. It is only the value of the linen that is expressed. And how? By its reference to the coat as its equivalent, as something that can be exchanged for it. In this relation the coat is the mode of existence of value, is value embodied, for only as such is it the same as the linen. On the other hand, the linen’s own value comes to the front, receives independent expression, for it is only as being value that it is comparable with the coat as a thing of equal value, or exchangeable with the coat. To borrow an illustration from chemistry, butyric acid is a different substance from propyl formate. Yet both are made up of the same chemical substances, carbon (C), hydrogen (H), and oxygen (O), and that, too, in like proportions—namely, C
4H
8O
2. If now we equate butyric acid to propyl formate, then, in the first place, propyl formate would be, in this relation, merely a form of existence of C
4H
8O
2; and in the second place, we should be stating that butyric acid also consists of C
4H
8O
2. Therefore, by thus equating the two substances, expression would be given to their chemical composition, while their different physical forms would be neglected.


If we say that, as values, commodities are mere congelations of human labour, we reduce them by our analysis, it is true, to the abstraction, value; but we ascribe to this value no form apart from their bodily form. It is otherwise in the value relation of one commodity to another. Here, the one stands forth in its character of value by reason of its relation to the other.


By making the coat the equivalent of the linen, we equate the labour embodied in the former to that in the latter. Now it is true that the tailoring, which makes the coat, is concrete labour of a different sort from the weaving which makes the linen. But the act of equating it to the weaving, reduces the
tailoring to that which is really equal in the two kinds of labour, to their common character of human labour. In this roundabout way, then, the fact is expressed, that weaving also, in so far as it weaves value, has nothing to distinguish it from tailoring, and, consequently, is abstract human labour. It is the expression of equivalence between different sorts of commodities that alone brings into relief the specific character of value-creating labour, and this it does by actually reducing the different varieties of labour embodied in the different kinds of commodities to their common quality of human labour in the abstract.
*26


There is, however, something else required beyond the expression of the specific character of the labour of which the value of the linen consists. Human labour-power motion, or human labour, creates value, but is not itself value. It becomes value only in its congealed state, when embodied in the form of some object. In order to express the value of the linen as a congelation of human labour, that value must be expressed as having objective existence, as being a something materially different from the linen itself, and yet a something common to the linen and all other commodities. The problem is already solved.


When occupying the position of equivalent in the equation of value, the coat ranks qualitatively as the equal of the linen, as something of the same kind, because it is value. In this position it is a thing in which we see nothing but value, or whose palpable bodily form represents value. Yet the coat itself, the body of the commodity, coat, is a mere use-value. A coat as such no more tells us it is value, than does the first piece of linen we take hold of. This shows that when placed in value
relation to the linen, the coat signifies more than when out of that relation, just as many a man strutting about in a gorgeous uniform counts for more than when in mufti.


In the production of the coat, human labour-power, in the shape of tailoring, must have been actually expended. Human labour is therefore accumulated in it. In this aspect the coat is a depository of value, but though worn to a thread, it does not let this fact show through. And as equivalent of the linen in the value equation, it exists under this aspect alone, counts therefore as embodied value, as a body that is value. A, for instance, cannot be “your majesty” to B, unless at the same time majesty in B’s eyes assumes the bodily form of A, and, what is more, with every new father of the people, changes its features, hair, and many other things besides.


Hence, in the value equation, in which the coat is the equivalent of the linen, the coat officiates as the form of value. The value of the commodity linen is expressed by the bodily form of the commodity coat, the value of one by the use-value of the other. As a use-value, the linen is something palpably different from the coat; as value, it is the same as the coat, and now has the appearance of a coat. Thus the linen acquires a value form different from its physical form. The fact that it is value, is made manifest by its equality with the coat, just as the sheep’s nature of a Christian is shown in his resemblance to the Lamb of God.


We see then, all that our analysis of the value of commodities has already told us, is told us by the linen itself, so soon as it comes into communication with another commodity, the coat. Only it betrays its thoughts in that language with which alone it is familiar, the language of commodities. In order to tell us that its own value is created by labour in its abstract character of human labour, it says that the coat, in so far as it is worth as much as the linen, and therefore is value, consists of the same labour as the linen. In order to inform us that its sublime reality as value is not the same as its buckram body, it says that value has the appearance of a coat, and consequently that so far as the linen is value, it and the coat are as like as two peas. We may here remark, that the language
of commodities has, besides Hebrew, many other more or less correct dialects. The German “werthsein,” to be worth, for instance, expresses in a less striking manner than the Romance verbs “valere,” “valer,” “valoir,” that the equating of commodity B to commodity A, is commodity A’s own mode of expressing its value. Paris vaut bien une messe.


By means, therefore, of the value relation expressed in our equation, the bodily form of commodity B becomes the value form of commodity A, or the body of commodity B acts as a mirror to the value of commodity A.
*27 By putting itself in relation with commodity B, as value in
propriâ personâ, as the matter of which human labour is made up, the commodity A converts the value in use, B into the substance in which to express its, A’s own value. The value of A, thus expressed in the use-value of B, has taken the form of relative value.


(b.)
Quantitative determination of Relative value.

Every commodity, whose value it is intended to express, is a useful object of given quantity, as 15 bushels of corn, or 100 lbs. of coffee. And a given quantity of any commodity contains a definite quantity of human labor. The value-form must therefore not only express value generally, but also value in definite quantity. Therefore, in the value relation of commodity A to commodity B, of the linen to the cost, not only is the latter, as value in general, made the equal in quality of the linen, but a definite quantity of coat (1 coat) is made the equivalent of a definite quantity (20 yards) of linen.


The equation, 20 yards of linen=1coat, or 20 yards of linen are worth one coat, implies that the same quantity of value-substance (congealed labour) is embodied in both; that the two commodities have each cost the same amount of labour or the same quantity of labour time. But the labour time necessary for the production 20 yards of linen or 1 coat
varies with every change in the productiveness of weaving or tailoring. We have now to consider the influence of such changed on the quantitative aspect of the relative expression of value.


I. Let the value of the linen vary,
*28 that of the coat remaining constant. If, say in consequence of the exhaustion of flax-growing soil, the labour time necessary for the production of the linen be doubled, the value of the linen will also be doubled. Instead of the equation, 20 yards of linen=1 coat, we should have 20 yards of linen=2 coats, since 1 coat would now contain only half the labour time embodied in 20 yards of linen. If, on the other hand, in consequence, say, of improved looms, this labour time be reduced by one half, the value of the linen would fall by one half. Consequently, we should have 20 yards of linen=½ coat. The relative value of commodity A, i.e., its value expressed in commodity B, raises and falls directly as the value of A, the value of B being supposed constant.


II. Let the value of the linen remain constant, while the value of the coat varies. If, under these circumstances, in consequence, for instance, of a poor crop of wool, the labour time necessary for the production of a coat becomes doubled, we have instead of 20 yards of linen=1 coat, 20 yards of linen=½ coat. If, on the other hand, the value of the coat sinks by one half, then 20 yards of linen=2 coats. Hence, if the value of commodity A remain constant, its relative value expressed in commodity B rises and falls inversely as the value of B.


If we compare the different cases in I. and II., we see that the same change of magnitude in relative value may arise from totally opposite causes. Thus, the equation, 20 yards of linen=1 coat, becomes 20 yards of linen=2 coats, either, because, the value of the linen has doubled, or because the value of the coat has fallen by one half; and it becomes 20 yards of linen=½ coat, either, because the value of the linen has fallen by one half, or because the value of the coat has doubled.


III. Let the quantities of labour time respectively necessary
for the production of the linen and coat vary simultaneously in the same direction and in the same proportion. In this case 20 yards of linen continue equal to 1 coat, however much their values may have altered. Their change of value is seen as soon as they are compared with a third commodity, whose value has remained constant. If the values of all commodities rose or fell simultaneously, and in the same proportion, their relative value would remain unaltered. Their real change of value would appear from the diminished or increased quantity of commodities produced in a given time.


IV. The labour time respectively necessary for the production of the linen and the coat, and therefore the value of these commodities may simultaneously vary in the same direction, but at unequal rates, or in opposite directions, or in other ways. The effect of all these possible different variations, on the relative value of a commodity, may be deduced from the results of I., II., and III.


Thus real changes in the magnitude of value are neither unequivocally nor exhaustively reflected in their relative expression, that is in the equation expressing the magnitude of relative value. The relative value of a commodity may vary, although its value remains constant. Its relative value may remain constant, although its value varies; and finally, simultaneous variations in the magnitude of value and in that of its relative expression by no means necessarily correspond in amount.
*29


3.
The Equivalent form of value.

We have seen that commodity A (the linen), by expressing its value in the use-value of a commodity differing in kind (the coat), at the same time impresses upon the latter a specific form of value, namely that of the equivalent. The commodity linen manifests its quality of having a value by the fact that the coat, without having assumed a value form different from its bodily form, is equated to the linen. The fact that the latter therefore has a value is expressed by saying that the coat is directly exchangeable with it. Therefore, when we say that a commodity is in the equivalent form, we express the fact that it is directly exchangeable with other commodities.


When one commodity, such as a coat, serves as the equivalent of another, such as linen, and coats consequently acquire the characteristic property of being directly exchangeable with linen, we are far from knowing in what proportion the two are exchangeable. The value of the linen being given in magnitude, that proportion depends on the value of the coat. Whether the coat serves as the equivalent and the linen as relative value, or the linen as the equivalent and coast as relative value, the magnitude of the coat’s value is determined, independently of its value form, by the labour time necessary for its production. But whenever the coat assumes in the equation of value, the position of equivalent, its value acquires no quantitative expression; on the contrary, the commodity coat now figures only as a definite quantity of some article.


For instance, 40 yards of linen are worth—what? 2 coats. Because the commodity coat here plays the part of equivalent, because the use-value coat, as opposed to the linen, figures as an embodiment of value, therefore a definite number of coats suffices to express the definite quantity of value in the linen. Two coats may therefore express the quantity of value of 40 yards of linen, but they can never express the quantity of their own value. A superficial observation of this fact, namely, that
in the equation of value, the equivalent figures exclusively as a simple quantity of some article, of some use-value, has misled Bailey, as also many others, both before and after him, into seeing, in the expression of value, merely a quantitative relation. The truth being, that when a commodity acts as equivalent, no quantitative determination of its value is expressed.


The first peculiarity that strikes us, in considering the form of the equivalent, is this; use-value becomes the form of manifestation, the phenomenal form of its opposite, value.


The bodily form of the commodity becomes its value form. But, mark well, that this quid pro quo exists in the case of any commodity B, only when some other commodity A enters into a value relation with it, and then only within the limits of this relation. Since no commodity can stand in the relation of equivalent to itself, and thus turn its own bodily shape into the expression of its own value, every commodity is compelled to choose some other commodity for its equivalent, and to accept the use-value, that is to say, the bodily shape of that other commodity as the form of its own value.


One of the measures that we apply to commodities as material substances, as use-values, will serve to illustrate this point. A sugar-loaf being a body, is heavy, therefore has weight: but we can neither see nor touch this weight. We then take various pieces of iron, whose weight has been determined beforehand. The iron, as iron, is no more the form of manifestation of weight, than is the sugar-loaf. Nevertheless, in order to express the sugar-loaf as so much weight, we put it into a weight-relation with the iron. In this relation, the iron officiates as a body representing nothing but weight. A certain quantity of iron therefore serves as a measure of the weight of the sugar, and represents, in relation to the sugar-loaf, weight embodied, the form of manifestation of weight. This part is played by the iron only within this relation, into which the sugar or any other body, whose weight has to be determined, enters with the iron. Were they not both heavy, they could not enter into this relation, and the one could therefore not serve as the expression of the weight of the other. When we throw both into the scales, we see in reality, that as weight
they are both the same, and that, therefore, when taken in proper proportions, they have the same weight. Just as the substance iron, as a measure of weight, represents in relation to the sugar-loaf weight alone, so, in our expression of value, the material object, coat, in relation to be linen represents value alone.


Here, however, the analogy ceases. The iron, in the expression of the weight of the sugar-loaf, represents a natural property common to both bodies, namely their weight; but the coat in the expression of value of the linen, represents a non-natural property of both, something purely social, namely, their value.


Since the relative form of value of a commodity—the linen, for example—expresses the value of that commodity, as being something wholly different from its substance and properties, as being, for instance, coat-like, we see that this expression itself indicates that some social relation lies at the bottom of it. With the equivalent form it is just the contrary. The very essence of this form is that the material commodity itself—the coat—just as it is, expresses value, and is endowed with the form of value by Nature itself. Of course this holds good only so long as the value relation exists, in which the coat stands in the position of equivalent to the linen.
*30 Since, however, the properties of a thing are not the result of its relations to other things, but only manifest themselves in such relations, the coat seems to be endowed with its equivalent form, its property of being directly exchangeable, just as much by Nature as it is endowed with the property of being heavy, or the capacity to keep us warm. Hence the enigmatical character of the equivalent form which escapes the notice of the bourgeois political economist, until this form, completely developed, confronts him in the shape of money. He then seeks to explain away the mystical character of gold and silver, by substituting for them less dazzling commodities, and by reciting, with ever renewed satisfaction, the catalogue of all possible commodities which at one time or another have played the part of equivalent. He
has not the least suspicion that the most simple expression of value, such as 20 yds. of linen=1 coat, already propounds the riddle of the equivalent form for our solution.


The body of the commodity that serves as the equivalent, figures as the materialism of human labour in the abstract and is at the same time the product of some specifically useful concrete labour. The concrete labour becomes, therefore, the medium for expressing abstract human labour. If on the one hand the coat ranks as nothing but the embodiment of abstract human labour, so, on the other hand, the tailoring which is actually embodied in it, counts as nothing but the form under which that abstract labour is realised. In the expression of value of the linen, the utility of the tailoring consists, not in making clothes, but in making an object, which we at once recognise to be Value, and therefore to be a congelation of labour, but of labour indistinguishable from that realised in the value of the linen. In order to act as such a mirror of value, the labour of tailoring must reflect nothing besides its own abstract quality of being human labour generally.


In tailoring, as well as in weaving, human labour-power is expended. Both, therefore, possess the general property of being human labour, and may, therefore, in certain cases, such as in the production of value, have to be considered under this aspect alone. There is nothing mysterious in this. But in the expression of value there is a complete turn of the tables. For instance, how is the fact to be expressed that weaving creates the value of the linen, not by virtue of being weaving, as such, but by reason of its general property of being human labour? Simply by opposing to weaving that other particular form of concrete labour (in this instance tailoring), which producés the equivalent of the product of weaving. Just as the coat in its bodily form became a direct expression of value, so now does tailoring, a concrete form of labour, appear as the direct and palpable embodiment of human labour generally.


Hence, the second peculiarity of the equivalent form is that concrete labour becomes the form under which its opposite, abstract human labour, manifests itself.


But because this concrete labour, tailoring in our case, ranks as, and is directly indentified with, undifferentiated human labour, it also ranks as identical with any other sort of labor, and therefore with that embodied in linen. Consequently, although, like all other commodity-producing labour, it is the labour of private individuals, yet, at the same time, it ranks as labour directly social in its character. This is the reason why it results in a product directly exchangeable with other commodities. We have then a third peculiarity of the Equivalent form, namely, that the labour of private individuals takes the form of its opposite, labour directly social in its form.


The two latter peculiarities of the Equivalent form will become more intelligible if we go back to the great thinker who was the first to analyse so many forms, whether of thought, society, or nature, and amongst them also the form of value. I mean Aristotle.


In the first place, he clearly enunciates that the money form of commodities is only the further development of the simple form of value—
i.e., of the expression of the value of one commodity in some other commodity taken at random; for he says

5 beds=1 house

(
)

is not to be distinguished from

5 beds=so much money.

(
)


He further sees that the value relation which gives rise to this expression makes it necessary that the house should qualitatively be made the equal of the bed, and that, without such an equalization, these two clearly different things could not be compared with each other as commensurable quantities. “Exchange,” he says, “cannot take place without equality, and equality not without commensurability” (
). Here, however, he comes to a stop, and gives up the further analysis of the form of value. “It is, however, in reality, impossible (
), that such unlike things can be commensurable”—
i.e., qualitatively equal. Such an equalisation can only be something foreign to their real nature, consequently only “a make-shift for practical purposes.”


Aristotle therefore, himself, tells us, what barred the way to his further analysis; it was the absence of any concept of value. What is that equal something, that common substance, which admits of the value of the beds being expressed by a house? Such a thing, in truth, cannot exist, says Aristotle. And why not? Compared with the beds, the house does represent something equal to them, in so far a it represents what is really equal, both in the beds and the house. And that is—human labour.


There was, however, an important fact which prevented Aristotle from seeing that, to attribute value to commodities, is merely a mode of expressing all labour as equal human labour, and consequently as labour of equal quality. Greek society was founded upon slavery, and had, therefore, for its natural basis, the inequality of men and of their labour powers. The secret of the expression of value, namely, that all kinds of labour are equal and equivalent, because, and so far as they are human labour in general, cannot be deciphered, until the notion of human equality has already acquired the fixity of a popular prejudice. This, however, is possible only in a society in which the great mass of the produce of labour takes the form of commodities, in which, consequently, the dominant relation between man and man, is that of owners of commodities. The brilliancy of Aristotle’s genius is shown by this alone, that he discovered, in the expression of the value of commodities, a relation of equality. The peculiar conditions of the society in which he lived, alone prevented him from discovering what, “in truth,” was at the bottom of this equality.


4.
The Elementary form of value considered as a whole.

The elementary form of value of a commodity is contained in the equation, expressing its value relation to another commodity of a different kind, or in its exchange relation to the same. The value of commodity A is qualitatively expressed by the fact that commodity B is directly exchangeable with it. Its value is quantitively expressed by the fact, that a definite quantity of B is exchangeable with a definite quantity of A. In other words, the value of a commodity obtains independent
and definite expression, by taking the form of exchange value. When, at the beginning of this chapter, we said, in common parlance, that a commodity is both a use-value and an exchange value, we were, accurately speaking, wrong. A commodity is a use-value or object of utility, and a value. It manifests itself as this two-fold thing, that it is, as soon as its value assumes an independent form—viz., the form exchange value. It never assumes this form when isolated, but only when placed in a value or exchange relation with another commodity of a different kind. When once we know this, such a mode of expression does no harm; it simply serves as an abbreviation.


Our analysis has shown, that the form or expression of the value of a commodity originates in the nature of value, and not that value and its magnitude originate in the mode of their expression as exchange value. This, however, is the delusion as well of the mercantilists and their recent revivors, Ferrier, Ganilh,
*31 and others, as also of their antipodes, the modern bagmen of Free Trade, such as Bastiat. The mercantilists lay special stress on the qualitative aspect of the expression of value, and consequently on the equivalent form of commodities, which attains its full perfection in money. The modern hawkers of Free Trade, who must get rid of their article at any price, on the other hand, lay most stress on the quantitative aspect of the relative form of value. For them there consequently exists neither value, nor magnitude of value, anywhere except in its expression by means of the exchange relation of commodities, that is, in the daily list of prices current. MacLeod, who has taken upon himself to dress up the confused ideas of Lombard Street in the most learned finery, is a successful cross between the superstitious mercantilists, and the enlightened Free Trade bagmen.


A close scrutiny of the expression of the value of A in terms of B, contained in the equation expressing the value relation of A to B, has shown us that, within that relation, the bodily form
of A figures only as a use-value, the bodily form of B only as the form or aspect of value. The opposition or contrast existing internally in each commodity between use-value and value, is, therefore, made evident externally by two commodities being placed in such relation to each other, that the commodity whose value it is sought to express, figures directly as a mere use-value, while the commodity in which that value is to be expressed, figures directly as mere exchange value. Hence the elementary form of value of a commodity is the elementary form in which the contrast contained in that commodity, between use-value and value, becomes apparent.


Every product of labour is, in all states of society, a use-value; but it is only at a definite historical epoch in a society’s development that such product becomes a commodity, viz., at the epoch when the labour spent on the production of a useful article becomes expressed as one of the objective qualities of that article,
i.e., as its value. It therefore follows that the elementary value-form is also the primitive form under which a product of labour appears historically as a commodity, and that the gradual transformation of such products into commodities, proceeds
pari passu with the development of the value-form.


We perceive, at first sight, the deficiencies of the elementary form of value: it is a mere germ, which must undergo a series of metamorphoses before it can ripen into the Price-form.


The expression of the value of commodity A in terms of any other commodity B, merely distinguishes the value from the use-value of A, and therefore places A merely in a relation of exchange with a single different commodity, B; but it is still far from expressing A’s qualitative equality, and quantitative proportionality, to all commodities. To the elementary relative value-form of a commodity, there corresponds the single equivalent form of one other commodity. Thus, in the relative expression of value of the linen, the coat assumes the form of equivalent, or of being directly exchangeable, only in relation to a single commodity, the linen.


Nevertheless, the elementary form of value passes by an easy transition into a more complete form. It is true that by means
of the elementary form, the value of a commodity A, becomes expressed in terms of one, and only one, other commodity. But that one may be a commodity of any kind, coat, iron, corn, or anything else. Therefore, according as A is placed in relation with one or the other, we get for one and the same commodity, different elementary expressions of value.
*32 The number of such possible expressions is limited only by the number of the different kinds of commodities distinct from it. The isolated expression of A’s value, is therefore convertible into a series, prolonged to any length, of the different elementary expressions of that value.


B.
Total or Expanded form of value.

z Com. A=u Com. B or=v Com. C or=w Com. D or=x Com. E or=&c.

(20 yards of linen=1 coat or=10 lb tea or=40 lb coffee or=1 quarter corn or=2 ounces gold or=½ ton iron or=&c.)


1.
The Expanded Relative form of value.

The value of a single commodity, the linen, for example, is now expressed in terms of numberless other elements of the world of commodities. Every other commodity now becomes a mirror of the linen’s value.
*33 It is thus, that for the first time
this value shows itself in its true light as a congelation of undifferentiated human labour. For the labour that creates it, now stands expressly revealed, as labour that ranks equally with every other sort of human labour, no matter what its form, whether tailoring, ploughing, mining, &c. and no matter, therefore, whether it is realised in coats, corn, iron, or gold. The linen, by virtue of the form of its value, now stands in a social relation, no longer with only one other kind of commodity, but with the whole world of commodities. As a commodity, it is a citizen of that world. At the same time, the interminable series of value equations implies, that as regards the value of a commodity, it is a matter of indifference under what particular form, or kind, of use-value it appears.


In the first form, 20 yds. of linen=1 coat, it might for ought that otherwise appears be pure accident, that these two commodities are exchangeable in definite quantities. In the second form, on the contrary, we perceive at once the background that determines, and is essentially different from, this accidental appearance. The value of the linen remains unaltered in magnitude, whether expressed in coats, coffee, or iron, or in numberless different commodities, the property of as many different owners. The accidental relation between two individual commodity-owners disappears. It becomes plain, that it is not the exchange of commodities which regulates the magnitude of their value; but, on the contrary, that it is the magnitude of their value which controls their exchange proportions.


2.
The particular Equivalent form.

Each commodity, such as coat, tea, corn, iron, &c., figures in the expression of value of the linen, as an equivalent, and consequently as a thing that is value. The bodily form of each of these commodities figures now as a particular equivalent form, one out of many. In the same way the manifold concrete form, one out of many. In the same way the manifold concrete useful kinds of labour, embodied in these different commodities,
rank now as so many different forms of the realisation, or manifestation, of indifferentiated human labour.


3.
Defects of the Total or Expanded form of value.

In the first place, the relative expression of value is incomplete because the series representing it is interminable. The chain of which each equation of value is a link, is liable at any moment to be lengthened by each new kind of commodity that comes into existence and furnishes the material for a fresh expression of value. In the second place, it is a many-coloured mosaic of disparate and independent expressions of value. And lastly, if, as must be the case, the relative value of each commodity in turn, becomes expressed in this expanded form, we get for each of them a relative value-form, different in every case, and consisting of an interminable series of expressions of value. The defects of the expanded relative-value form are reflected in the corresponding equivalent form. Since the bodily form of each single commodity is one particular equivalent form amongst numberless others, we have, on the whole, nothing but fragmentary equivalent forms, each excluding the others. In the same way, also, the special, concrete, useful kind of labour embodied in each particular equivalent, is presented only as a particular kind of labour, and therefore not as an exhaustive representative of human labour generally. The latter, indeed, gains adequate manifestation in the totality of its manifold, particular, concrete forms. But, in that case, its expression in an infinite series is ever incomplete and deficient in unity.


The expanded relative value form is, however, nothing but the sum of the elementary relative expressions or equations of the first kind, such as

20 yards of linen=1 coat

20 yards of linen=10 lbs. of tea, etc.


Each of these implies the corresponding inverted equation,

1=coat=20 yards of linen

10 lbs. of tea=20 yards of linen, etc.


In fact, when a person exchanges his linen for many other commodities, and thus expresses its value in a series of other
commodities, it necessarily follows, that the various owners of the latter exchange them for the linen, and consequently express the value of their various commodities in one and the same third commodity, the linen. If then, we reverse the series, 20 yards of linen=1 coat or=10 lbs. of tea, etc., that is to say, if we give expression to the converse relation already implied in the series, we get,


C.
The General form of value.

1 coat

10 lbs. of tea

40 lbs. of coffee

1 quarter of corn

2 ounces of gold

½ a ton of iron

x com. A., etc. =20 yards of linen

1.
The altered character of the form of value.

All commodities now express their value (1) in an elementary form, because in a single commodity; (2) with unity, because in one and the same commodity. This form of value is elementary and the same for all, therefore general.


The forms A and B were fit only to express the value of a commodity as something distinct from its use-value or material form.


The first form, A, furnishes such equations as the following:—1 coat=20 yards of linen, 10 lbs. of tea=½ ton of iron. The value of the coat is equated to linen, that of the tea to iron. But to be equated to linen, and again to iron, is to be as different as are linen and iron. This form, it is plain, occurs practically only in the first beginning, when the products of labour are converted into commodities by accidental and occasional exchanges.


The second form, B, distinguishes, in a more adequate manner than the first, the value of a commodity from its use-value; for the value of the coat is there placed in contrast under all possible shapes with the bodily form of the coat; it is equated
to linen, to iron, to tea, in short, to everything else, only not to itself, the coat. On the other hand, any general expression of value common to all is directly excluded; for, in the equation of value of each commodity, all other commodities now appear only under the form of equivalents. The expanded form of value comes into actual existence for the first time so soon as a particular product of labour, such as cattle, is no longer exceptionally, but habitually, exchanged for various other commodities.


The third and lastly developed form expresses the values of the whole world of commodities in terms of a single commodity set apart for the purpose, namely, the linen, and thus represents to us their values by means of their equality with linen. The value of every commodity is now, by being equated to linen, not only differentiated from its own use-value, but from all other use-values generally, and is, by that very fact, expressed as that which is common to all commodities. By this form, commodities are, for the first time, effectively brought into relation with one another as values, or made to appear as exchange values.


The two earlier forms either express the value of each commodity in terms of a single commodity of a different kind, or in a series of many such commodities. In both cases, it is, so to say, the special business of each single commodity to find an expression for its value, and this it does without the help of the others. These others, with respect to the former, play the passive parts of equivalents. The general form of value C, results from the joint action of the whole world of commodities, and from that alone. A commodity can acquire a general expression of its value only by all other commodities, simultaneously with it, expressing their values in the same equivalent; and every new commodity must follow suit. It thus becomes evident that, since the existence of commodities as values is purely social, this social existence can be expressed by the totality of their social relations alone, and consequently that the form of their value must be a socially recognised form.


All commodities being equated to linen now appear not only
as qualitatively equal as values generally, but also as values whose magnitudes are capable of comparison. By expressing the magnitudes of their values in one and the same material, the linen, those magnitudes are also compared with each other. For instance, 10 lbs. of tea=20 yards of linen, and 40 lbs. of coffee=20 yards of linen. Therefore, 10 lbs. of tea=40 lbs. of coffee. In other words, there is contained in 1 lb, of coffee only one-fourth as much substance of value—labour—as is contained in 1 lb. of tea.


The general form of relative value, embracing the whole world of commodities, converts the single commodity that is excluded from the rest, and made to play the part of equivalent—here the linen—into the universal equivalent. The bodily form of the linen is now the form assumed in common by the value of all commodities; it therefore becomes directly exchangeable with all and every of them. The substance linen becomes the visible incarnation, the social chrysalis state of every kind of human labour. Weaving, which is the labour of certain private individuals producing a particular article, linen, acquires in consequence a social character, the character of equality with all other kinds of labour. The innumerable equations of which the general form of value is composed, equate in turn the labour embodied in the linen to that embodied in every other commodity, and they thus convert weaving into the general form of manifestation of undifferentiated human labour. In this manner the labour realised in the values of commodities is presented not only under its negative aspect, under which abstraction is made from every concrete form and useful property of actual work, but its own positive nature is made to reveal itself expressly. The general value-form is the reduction of all kinds of actual labour to their common character of being human labour generally, of being the expenditure of human labour power.


The general value form, which represents all products of labour as mere congelations of undifferentiated human labour, shows by its very structure that it is the social resumé of the world of commodities. That form consequently makes it
indisputably evident that in the world of commodities the character possessed by all labour of being
human labour constitutes its specific social character.


2.
The interdependent development of the Relative form of value, and of the Equivalent form.

The degree of development of the relation form of value corresponds to that of the equivalent form. But we must bear in mind that the development of the latter is only the expression and result of the development of the former.


The primary or isolated relative form of value of one commodity converts some other commodity into an isolated equivalent. The expanded form of relative value, which is the expression of the value of one commodity in terms of all other commodities, endows those other commodities with the character of particular equivalents differing in kind. And lastly, a particular kind of commodity acquires the character of universal equivalent, because all other commodities make it the material in which they uniformly express their value.


The antagonism between the relative form of value and the equivalent form, the poles of the value form, is developed concurrently with that form itself.


The first form, 20 yds. of linen=one coat, already contains this antagonism, without as yet fixing it. According as we read this equation forwards or backwards, the parts played by the linen and the coat are different. In the one case the relative value of the linen is expressed in the coat, in the other case the relative value of the coat is expressed in the linen. In this first form of value, therefore, it is difficult to grasp the polar contrast.


Form B shows that only one single commodity at a time can completely expand its relative value, and that it acquires this expanded form only because, and in so far as, all other commodities are, with respect to it, equivalents. Here we cannot reverse the equation, as we can the equation 20 yds. of linen=1 coat, without altering its general character, and converting it from the expanded form of value into the general form of value.


Finally, the form C gives to the world of commodities a general social relative form of value, because, and in so far as, thereby all commodities, with the exception of one, are excluded from the equivalent form. A single commodity, the linen, appears therefore to have acquired the character of direct exchangeability with every other commodity because, and in so far as, this character is denied to every other commodity.
*34


The commodity that figures as universal equivalent, is, on the other hand, excluded from the relative value form. If the linen, or any other commodity serving as universal equivalent, were, at the same time, to share in the relative form of value, it would have to serve as its own equivalent. We should then have 20 yds. of linen=20 yds. of linen; this tautology expresses neither value, nor magnitude of value. In order to express the relative value of the universal equivalent, we must rather reverse the form C. This equivalent has no relative form of value in common with other commodities, but its value is relatively expressed by a never ending series of other commodities. Thus, the expanded form of relative value, or form B, now shows itself as the specific form of relative value for the equivalent commodity.


3.
Transition from the General form of value to the Money form.

The universal equivalent form is a form of value in general. It can, therefore, be assumed by any commodity. On the
other hand, if a commodity be found to have assumed the universal equivalent form (form C), this is only because and in so far as it has been excluded from the rest of all other commodities as their equivalent, and that by their own act. And from the moment that this exclusion becomes finally restricted to one particular commodity, from that moment only, the general form of relative value of the world of commodities obtains real consistence and general social validity.


The particular commodity, with whose bodily form the equivalent form is thus socially identified, now becomes the money commodity, or serves as money. It becomes the special social function of that commodity, and consequently its social monopoly, to play within the world of commodities the part of the universal equivalent. Amongst the commodities which, in form B, figure as particular equivalents of the linen, and in form C, express in common their relative values in linen, this foremost place has been attained by one in particular—namely, gold. If, then, in form C we replace the linen by gold, we get,


D.
The Money form.

20 yards of linen =
1 coat =
10 lb of tea =
40 lb of coffee = 2 ounces of gold.
1 qr. of corn =
½ a ton iron =
x commodity A =

In passing from form A to form B, and from the latter to form C, the changes are fundamental. On the other hand, there is no difference between forms C and D, except that, in the latter, gold has assumed the equivalent form in the place of linen. Gold is in form D, what linen was in form C—the universal equivalent. The progress consists in this alone, that the character of direct and universal exchangeability—in other words, that the universal equivalent form—has now, by social custom, become finally identified with the substance, gold.


Gold is now money with reference to all other commodities only because it was previously, with reference to them, a simple commodity. Like all other commodities, it was also capable of serving as an equivalent, either as simple equivalent in isolated exchanges, or as particular equivalent by the side of others. Gradually it began to serve, within varying limits, as universal equivalent. So soon as it monopolises this position in the expression of value for the world of commodities, it becomes the money commodity, and then, and not till then, does form D become distinct from form C, and the general form of value become changed into the money form.


The elementary expression of the relative value of a single commodity, such as linen, in terms of the commodity, such as gold, that plays the part of money, is the price form of that commodity. The price form of the linen is therefore

20 yards of linen=2 ounces of gold, or, if 2 ounces of gold when coined are £2, 20 yards of linen=£2.


The difficulty in forming a concept of the money form, consists in clearly comprehending the universal equivalent form, and as a necessary corollary, the general form of value, form C. The latter is deducible from form B, the expanded form of value, the essential component element of which, we saw, is form A, 20 yards of linen=1 coat or x commodity A=y commodity B. The simple commodity form is therefore the germ of the money form.


SECTION 4.—THE FETISHISM OF COMMODITIES AND THE SECRET THEREOF.

A commodity appears, at first sight, a very trivial thing, and easily understood. Its analysis shows that it is, in reality, a very queer thing, abounding in metaphysical subtleties and theological niceties. So far as it is a value in use, there is nothing mysterious about it, whether we consider it from the point of view that by its properties it is capable of satisfying human wants, or from the point that those properties are the product of human labour. It is as clear as noon-day, that man, by his industry, changes the forms of the materials furnished by nature, in such a way as to make them useful to him. The
form of wood, for instance, is altered, by making a table out of it. Yet, for all that the table continues to be that common, every-day thing, wood. But, so soon as it steps forth as a commodity, it is changed into something transcendent. It not only stands with its feet on the ground, but, in relation to all other commodities, it stands on its head, and evolves out of its wooden brain grotesque ideas, far more wonderful than “table-turning” ever was.


The mystical character of commodities does not originate, therefore, in their use-value. Just as little does it proceed from the nature of the determining factors of value. For, in the first place, however varied the useful kinds of labour, or productive activities, may be, it is a physiological fact, that they are functions of the human organism, and that each such function, whatever may be its nature or form, is essentially the expenditure of human brain, nerves, muscles, &c. Secondly, with regard to that which forms the ground-work for the quantitative determination of value, namely, the duration of that expenditure, or the quantity of labour, it is quite clear that there is a palpable difference between its quantity and quality. In all states of society, the labour-time that it costs to produce the means of subsistence must necessarily be an object of interest to mankind, though not of equal interest in different stages of development.
*35 And lastly, from the moment that men in any way work for one another, their labour assumes a social form.


Whence, then, arises the enigmatical character of the product of labour, so soon as it assumes the form of commodities? Clearly from this form itself. The equality of all sorts of human labour is expressed objectively by their products all being equally values; the measure of the expenditure of labour-power by the duration of that expenditure, takes the form of the quantity of value of the products of labour; and finally, the mutual relations of the producers, within which the social
character of their labour affirms itself, take the form of a social relation between the products.


A commodity is therefore a mysterious thing, simply because in it the social character of men’s labour appears to them as an objective character stamped upon the product of that labour; because the relation of the producers to the sum total of their own labour is presented to them as a social relation, existing not between themselves, but between the products of their labour. This is the reason why the products of labour become commodities, social things whose qualities are at the same time perceptible and imperceptible by the senses. In the same way the light from an object is perceived by us not as the subjective excitation of our optic nerve, but as the objective form of something outside the eye itself. But, in the act of seeing, there is at all events, an actual passage of light from one thing to another, from the external object to the eye. There is a physical relation between physical things. But it is different with commodities. There, the existence of the things
quâ commodities, and the value relation between the products of labour which stamps them as commodities, have absolutely no connection with their physical properties and with the material relations arising therefrom. There it is a definite social relation between men, that assumes, in their eyes, the fantastic form of a relation between things. In order, therefore, to find an analogy, we must have recourse to the mist-enveloped regions of the religious world. In that world the productions of the human brain appear as independent beings endowed with life, and entering into relation both with one another and the human race. So it is in the world of commodities with the products of men’s hands. This I call the Fetishism which attaches itself to the products of labour, so soon as they are produced as commodities, and which is therefore inseparable from the production of commodities.


This Fetishism of commodities has its origin, as the foregoing analysis has already shown, in the peculiar social character of the labour that produces them.


As a general rule, articles of utility become commodities, only because they are products of the labour of private individuals
or groups of individuals who carry on their work independently of each other. The sum total of the labour of all these private individuals forms the aggregate labour of society. Since the producers do not come into social contact with each other until they exchange their products, the specific social character of each producer’s labour does not show itself except in the act of exchange. In other words, the labour of the individual asserts itself as a part of the labour of society, only by means of the relations which the act of exchange establishes directly between the products, and indirectly, through them, between the producers. To the latter, therefore, the relations connecting the labour of the individual with that of the rest appear, not as direct social relations between individuals at work, but as what they really are, material relations between persons and social relations between things. It is only by being exchanged that the products of labour acquire, as values, one uniform social status, distinct from their varied forms of existence as objects of utility. This division of a product into a useful thing and a value becomes practically important, only when exchange has acquired such an extension that useful articles are produced for the purpose of being exchanged, and their character as values has therefore to be taken into account, beforehand, during production. From this moment the labour of the individual producer acquires socially a two-fold character. On the one hand, it must, as a definite useful kind of labour, satisfy a definite social want, and thus hold its place as part and parcel of the collective labour of all, as a branch of a social division of labour that has sprung up spontaneously. On the other hand, it can satisfy the manifold wants of the individual producer himself, only in so far as the mutual exchangeability of all kinds of useful private labour is an established social fact, and therefore the private useful labour of each producer ranks on an equality with that of all others. The equalization of the most different kinds of labour can be the result only of an abstraction from their inequalities, or of reducing them to their common denominator, viz., expenditure of human labour power or human labour in the abstract. The two-fold social character of the labour of the individual appears to him, when
reflected in his brain, only under those forms which are impressed upon that labour in everyday practice by the exchange of products. In this way, the character that his own labour possesses of being socially useful takes the form of the condition, that the product must be not only useful, but useful for others, and the social character that his particular labour has of being the equal of all other particular kinds of labour, takes the form that all the physically different articles that are the products of labour, have one common quality, viz, that of having value.


Hence, when we bring the products of our labour into relation with each other as values, it is not because we see in these articles the material receptacles of homogeneous human labour. Quite the contrary; whenever, by an exchange, we equate as values our different products, by that very act, we also equate, as human labour, the different kinds of labour expended upon them. We are not aware of this, nevertheless we do it.
*36 Value, therefore, does not stalk about with a label describing what it is. It is value, rather, that converts every product into a social hieroglyphic. Later on, we try to decipher the hieroglyphic, to get behind the secret of our own social products; for to stamp an object of utility as a value, is just as much a social product as language. The recent scientific discovery, that the products of labour, so far as they are values, are but material expressions of the human labour spent in their production, marks, indeed, an epoch in the history of the development of the human race, but, by no means, dissipates the mist through which the social character of labour appears to us to be an objective character of the products themselves. The fact, that in the particular form of production with which we are dealing, viz., the production of commodities, the specific social character of private labour carried on independently, consists in the equality of every kind of the labour, by virtue of its being human labour, which character, therefore, assumes
in the product the form of value—this fact appears to the producers, notwithstanding the discovery above referred to, to be just as real and final, as the fact, that, after the discovery by science of the component gases of air, the atmosphere itself remained unaltered.


What, first of all, practically concerns producers when they make an exchange, is the question, how much of some other product they get for their own? in what proportions the products are exchangeable? When these proportions have, by custom, attained a certain stability, they appear to result from the nature of the products, so that, for instance, one ton of iron and two ounces of gold appear as naturally to be of equal value as a pound of gold and a pound of iron in spite of their different physical and chemical qualities appear to be of equal weight. The character of having value, when once impressed upon products, obtains fixity only by reason of their acting and re-acting upon each other as quantities of value. These quantities vary continually, independently of the will, foresight and action of the producers. To them, their own social action takes the form of the action of objects, which rule the producers instead of being ruled by them. It requires a fully developed production of commodities before, from accumulated experience alone, the scientific conviction springs up, that all the different kinds of private labour, which are carried on independently of each other, and yet as spontaneously developed branches of the social division of labour, are continually being reduced to the quantitive proportions in which society requires them. And why? Because, in the midst of all the accidental and ever fluctuating exchange-relations between the products, the labour-time socially necessary for their production forcibly asserts itself like an over-riding law of nature. The law of gravity thus asserts itself when a house falls about our ears.
*37 The determination of the magnitude of value by labour-time is therefore a secret, hidden under the apparent
fluctuations in the relative values of commodities. Its discovery, while removing all appearance of mere accidentality from the determination of the magnitude of the values of products, yet in no way alters the mode in which that determination takes place.


Man’s reflections on the forms of social life, and consequently, also, his scientific analysis of those forms, taken a course directly opposite to that of their actual historical development. He begins, post festum, with the results of the process of development ready to hand before him. The characters that stamp products as commodities, and whose establishment is a necessary preliminary to the circulation of commodities, have already acquired the stability of natural, self-understood forms of social life, before man seeks to decipher, not their historical character, for in his eyes they are immutable, but their meaning. Consequently it was the analysis of the prices of commodities that alone led to the determination of the magnitude of value, and it was the common expression of all commodities in money that alone led to the establishment of their characters as values. It is, however, just this ultimate money form of the world of commodities that actually conceals, instead of disclosing, the social character of private labour, and the social relations between the individual producers. When I state that coats or boots stand in a relation to linen, because it is the universal incarnation of abstract human labour, the absurdity of the statement is self-evident. Nevertheless, when the producers of coats and boots compare those articles with linen, or, what is the same thing with gold or silver, as the universal equivalent, they express the relation between their own private labour and the collective labour of society in the same absurd form.


The categories of bourgeois economy consist of such like forms. They are forms of thought expressing with social validity the conditions and relations of a definite, historically determined mode of production, viz., the production of commodities. The whole mystery of commodities, all the magic and necromancy that surrounds the products of labour as long as they take the form of commodities, vanishes therefore, so soon as we come to other forms of production.


Since Robinson Crusoe’s experiences are a favorite theme with political economists,
*38 let us take a look at him on his island. Moderate though he be, yet some few wants he has to satisfy, and must therefore do a little useful work of various sorts, such as making tools and furniture, taming goats, fishing and hunting. Of his prayers and the like we take no account, since they are a source of pleasure to him, and he looks upon them as so much recreation. In spite of the variety of his work, he knows that his labour, whatever its form, is but the activity of one and the same Robinson, and consequently, that it consists of nothing but different modes of human labour. Necessity itself compels him to apportion his time accurately between his different kinds of work. Whether one kind occupies a greater space in his general activity than another, depends on the difficulties, greater or less as the case may be, to be overcome in attaining the useful effect aimed at. This our friend Robinson soon learns by experience, and having rescued a watch, ledger, and pen and ink from the wreck, commences, like a true-born Briton, to keep a set of books. His stock-book contains a list of the objects of utility that belong to him, of the operations necessary for their production; and lastly; of the labour time that definite quantities of those objects have, on an average, cost him. All the relations between Robinson and the objects that form this wealth of his own creation, are here so simple and clear as to be intelligible without exertion, even to Mr. Sedley Taylor. And yet those relations contain all that is essential to the determination of value.


Let us now transport ourselves from Robinson’s island bathed in light to the European middle ages shrouded in darkness. Here, instead of the independent man, we find everyone
dependent, serfs and lords, vassals and suzerains, laymen and clergy. Personal dependence here characterises the social relations of production just as much as it does the other spheres of life organized on the basis of that production. But for the very reason that personal dependence forms the groundwork of society, there is no necessity for labour and its products to assume a fantastic form different from their reality. They take the shape, in the transactions of society, of services in kind and payments in kind. Here the particular and natural form of labour, and not, as in a society based on production of commodities, its general abstract form is the immediate social form of labour. Compulsory labour is just as properly measured by time, as commodity-producing labour; but every serf knows that what he expends in the service of his lord, is a definite quantity of his own personal labour-power. The tithe to be rendered to the priest is more matter of fact than his blessing. No matter, then, what we may think of the parts played by the different classes of people themselves in this society, the social relations between individuals in the performance of their labour, appear at all events as their own mutual personal relations, and are not disguised under the shape of social relations between the products of labour.


For an example of labour in common or directly associated labour, we have no occasion to go back to that spontaneously developed form which we find on the threshold of the history of all civilized races.
*39 We have one close at hand in the patriarchal industries of a peasant family, that produces corn, cattle, yarn, linen, and clothing for home use. These different articles are, as regards the family, so many products of its labour, but as between themselves, they are not commodities. The different kinds of labour, such as tillage, cattle tending,
spinning, weaving and making clothes, which result in the various products, are in themselves, and such as they are, direct social functions, because functions of the family, which just as much as a society based on the production of commodities, possesses a spontaneously developed system of division of labour. The distribution of the work within the family, and the regulation of the labour-time of the several members, depend as well upon differences of age and sex as upon natural conditions varying with the seasons. The labour-power of each individual, by its very nature, operates in this case merely as a definite portion of the whole labour-power of the family, and therefore, the measure of the expenditure of individual labour-power by its duration, appears here by its very nature as a social character of their labour.


Let us now picture to ourselves, by way of change, a community of free individuals, carrying on their work with the means of production in common, in which the labour-power of all the different individuals is consciously applied as the combined labour-power of the community. All the characteristics of Robinson’s labour are here repeated, but with this difference, that they are social, instead of individual. Everything produced by him was exclusively the result of his own personal labour, and therefore simply an object of use for himself. The total product of our community is a social product. One portion serves as fresh means of production and remains social. But another portion is consumed by the members as means of subsistence. A distribution of this portion amongst them is consequently necessary. The mode of this distribution will vary with the productive organization of the community, and the degree of historical development attained by the producers. We will assume, but merely for the sake of a parallel with the production of commodities, that the share of each individual producer in the means of subsistence is determined by his labour-time. Labour-time would, in that case, play a double part. Its apportionment in accordance with a definite social plan maintains the proper proportion between the different kinds of work to be done and the various wants of the community. On the other hand, it also
serves as a measure of the portion of the common labour borne by each individual and of his share in the part of the total product destined for individual consumption. The social relations of the individual producers, with regard both to their labour and to its products, are in this case perfectly simple and intelligible, and that with regard not only to production but also to distribution.


The religious world is but the reflex of the real world. And for a society based upon the production of commodities, in which the producers in general enter into social relations with one another by treating their products as commodities and values, whereby they reduce their individual private labour to the standard of homogeneous human labour—for such a society, Christianity with its
cultus of abstract man, more especially in its bourgeois developments, Protestantism, Deism, &c., is the most fitting form of religion. In the ancient Asiatic and other ancient modes of production, we find that the conversion of products into commodities, and therefore the conversion of men into producers of commodities, holds a subordinate place, which, however, increases in importance as the primitive communities approach nearer and nearer to their dissolution. Trading nations, properly so called, exist in the ancient world only in its interstices, like the gods of Epicurus in the Intermundia, or like Jews in the pores of Polish society. Those ancient social organisms of production are, as compared with bourgeois society, extremely simple and transparent. But they are founded either on the immature development of man individually, who has not yet severed the umbilical cord that unites him with his fellow men in a primitive tribal community, or upon direct relations of subjection. They can arise and exist only when the development of the productive power of labour has not risen beyond a low stage, and when, therefore, the social relations within the sphere of material life, between man and man, and between man and Nature, are correspondingly narrow. This narrowness is reflected in the ancient worship of Nature, and in the other elements of the popular religions. The religious reflex of the real world can, in any case, only then finally vanish,
when the practical relations of everyday life offer to man none but perfectly intelligible and reasonable relations with regard to his fellowmen and to nature.


The life-process of society, which is based on the process of material production, does not strip off its mystical veil until it is treated as production by freely associated men, and is consciously regulated by them in accordance with a settled plan. This, however, demands for society a certain material groundwork or set of conditions of existence which in their turn are the spontaneous product of a long and painful process of development.


Political economy has indeed analysed, however incompletely,
*40 value and its magnitude, and has discovered what lies beneath these forms. But it has never once asked the question why labour is represented by the value of its product
and labour time by the magnitude of that value.
*41 These formulæ, which bear stamped upon them in unmistakeable letters, that they belong to a state of society, in which the process of production has the mastery over man, instead of being controlled by him, such formulæ appear to the bourgeois intellect to be as much a self-evident necessity imposed by nature as productive labour itself. Hence forms of social production that preceded the bourgeois form, are treated by the bourgeoisie in much the same way as the Fathers of the Church treated pre-Christian religions.
*42


To what extent some economists are misled by the Fetishism inherent in commodities, or by the objective appearance of the social characteristics of labour, is shown, amongst other ways, by the dull and tedious quarrel over the part played by Nature in the formation of exchange value. Since exchange value is a definite social manner of expressing the amount of labour bestowed upon an object, Nature has no more to do with it, than it has in fixing the course of exchange.


The mode of production in which the product takes the form of a commodity, or is produced directly for exchange, is the most general and most embryonic form of bourgeois production. It therefore makes its appearance at an early date in history, though not in the same predominating and characteristic manner as now-a-days. Hence its Fetish character is comparatively easy to be seen through. But when we come to more concrete forms, even this appearance of simplicity vanishes. Whence arose the illusions of the monetary system? To it gold and silver, when serving as money, did not represent a social relation between producers, but were natural
objects with strange social properties. And modern economy, which looks down with such disdain on the monetary system, does not its superstition come out as clear as noon-day, whenever it treats of capital? How long is it since economy discarded the physiocratic illusion, that rents grow out of the soil and not out of society?


But not to anticipate, we will content ourselves with yet another example relating to the commodity form. Could commodities themselves speak, they would say: Our use-value may be a thing that interests men. It is no part of us as objects. What, however, does belong to us as objects, is our value. Our natural intercourse as commodities proves it. In the eyes of each other we are nothing but exchange values. Now listen how those commodities speak through the mouth of the economist. “Value”—(
i.e., exchange value) “is a property of things, riches”—(
i.e., use-value) “of man. Value, in this sense, necessarily implies exchanges, riches do not.”
*43 “Riches” (use-value) “are the attribute of men, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable…A pearl or a diamond is valuable” as a pearl or diamond.
*44 So far no chemist has ever discovered exchange value either in a pearl or a diamond. The economical discoverers of this chemical element, who by-the-bye lay special claim to critical acumen, find however that the use-value of objects belongs to them independently of their material properties, while their value, on the other hand, forms a part of them as objects. What confirms them in this view, is the peculiar circumstances that the use-value of objects is realised without exchange, by means of a direct relation between the
objects and man, while, on the other hand, their value is realised only by exchange, that is, by means of a social process. Who fails here to call to mind our good friend, Dogberry, who informs neighbour Seacoal, that, “To be a well-favoured man is the gift of fortune; but reading and writing comes by nature.”


10.
Karl Marx “A Contribution to the Critique of Political Economy,” 1859. London, p. 19.

11.
“Desire implies want; it is the appetite of the mind, and as natural as hunger to the body…. The greatest number (of things) have their value from supplying the wants of the mind.” Nicolas Barbon: “A Discourse on coining the new money lighter, in answer to Mr. Locke’s Considerations,” &c. London, 1695. p. 2, 3.

12.
“Things have an intrinsic virtue” (this is Barbon’s special term for value in use) “which in all places have the same virtue; as the loadstone to attract iron” (l. c. p. 6). The property which the magnet possesses of attracting iron, became of use only after by means of that property the polarity of the magnet had been discovered.

13.
“The natural worth of anything consists in its fitness to supply the necessities, or serve the conveniences of human life.” (John Locke, “Some considerations on the consequences of the lowering of interest, 1691,” in Works Edit. London, 1777, Vol. II., p. 28.) In English writers of the 17th century we frequently find “worth” in the sense of value in use, and “value” in the sense of exchange value. This is quite in accordance with the spirit of a language that likes to use a Teutonic word for the actual thing and a Romance word for its reflexion.

14.
In bourgeois societies the economical fictio juria prevails, that every one, as a buyer, possesses an encyclopædic knowledge of commodities.

15.
“La valeur consiste dans le rapport d’échange qui se trouve entre telle chose et telle autre, entre telle mesure d’une production, et telle mesure d’une autre.” (Le Trosne: De l’ Intérêt Social. Physiocrates, Ed. Daire. Paris, 1845. P. 889.)

16.
“Nothing can have an intrinsick value.” (N. Barbon, l. c., p. 6); or as Butler says—
“The value of a thing

Is just as much at it will bring.”

17.
N. Barbon, l. c. p. 53 and 7.

18.
The value of them (the necessaries of life), when they are exchanged the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them.” (Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Publick Funds, &c., Lond., p. 36.) This remarkable anonymous work, written in the last century, bears no date. It is clear, however, from internal evidence, that it appeared in the reign of George II. about 1739 or 1740.

19.
“Toutes les productions d’un même genre ne forment proprement qu’une masse, dont le prix se détermine en général et sans egard aux circonstances particulières.” (Le Trosne, l. c. p. 893.)

20.
K. Marx, l. c. p. 24

21.
Tutti i fenomeni dell’ universo, sieno essi prodotti della mano, dell’ uomo, ovvero delle universali leggi della fisica, non ci danno idea di attuale creazione, ma unicamente di una modificazione della materia. Accostare e separare sono gli unici elementi che l’ingegno umano ritrova analizzando l’idea della riproduzione: e tanto é riproduzione di valore (value in use, although Verri in this passage of his controversy with the Physiocrats is not himself quite certain of the kind of value he is speaking of) e di ricchezze se la terra l’aria e l’acqua ne’ campi si trasmutino in grano, come se colla mano dell’ uomo il glutine di un insetto si trasmuti in velluto ovvero alcuni pezzetti di metallo si organizzino a formare una ripetizione.”—Pietro Verri. “Meditazioni sulla Economia Politica” [first printed in 1773] in Custodi’s edition of the Italian Economists, Parte Moderna, t. xv. p. 22.

22.
Comp. Hegel, Philosophie des Rechts. Berlin, 1840, p. 250 § 190.

23.
The reader must note that we are not speaking here of the wages or value that the labourer gets for a given labour time, but of the value of the commodity in which that labour time is materialised. Wages is a category that, as yet, has no existence at the present stage of our investigation.

24.
In order to prove that labour alone is that all-sufficient and real measure, by which at all times the value of all commodities can be estimated and compared, Adam Smith says, “Equal quantities of labour must at all times and in all places have the same value for the labourer. In his normal state of health, strength and activity, and with the average degree of skill that he may possess, he must always give up the same portion of his rest, his freedom, and his happiness.” (Wealth of Nations, b. I. ch. v.) On the one hand, Adam Smith here (but not everywhere) confuses the determination of value by means of the quantity of labour expended in the production of commodities, with the determination of the values of commodities by means of the value of labour, and seeks in consequence to prove that equal quantities of labour have always the same value. On the other hand, he has a presentiment, that labour, so far as it manifests itself in the value of commodities, counts only as expenditure of labour power, but he treats his expenditure as the mere sacrifice of rest, freedom, and happiness, not as the same time the normal activity of living beings. But then, he has the modern wage-labourer in his eye. Much more aptly, the anonymous predecessor of Adam Smith, quoted above in Note 1, p.6 says, “one man has employed himself a week in providing this necessary of life…and he that gives him some other in exchange, cannot make a better estimate of what is a proper equivalent, than by computing what cost him just as much labour and time; which in effect is no more than exchanging one man’s labour in one thing for a time certain, for another man’s labour in another thing for the same time.” (l. c. p. 39.) [The English language has the advantage of possessing different words for the two aspects of labour here considered. The labour which creates Use-Value, and counts qualitatively, is
Work, as distinguished from Labour; that which creates Value and counts quantitatively, is
Labour as distinguished from Work.—ED.]

25.
The few economists, amongst whom is S. Bailey, who have occupied themselves with the analysis of the form of value, have been unable to arrive at any result, first, because they confuse the form of value with value itself; and second, because, under the coarse influence of the practical bourgeois, they exclusively give their attention to the quantitative aspect of the question. “The command of quanity…constitutes value.” (Money and its Vicissitudes.” London, 1837, p. 11. By S. Bailey.

26.
The celebrated Franklin, one of the first economists, after Wm. Petty, who saw through the nature of value, says: “Trade in general being nothing else but the exchange of labour for labour, the value of all things is…most justly measured by labour.” (The works of B. Franklin, &c., edited by Sparks, Boston, 1836, Vol. II., p. 267.) Franklin is unconscious that by estimating the value of everything in labour, he makes abstraction from any difference in the sorts of labour exchanged, and thus reduces them all to equal human labour. But although ignorant of this, yet he says it. He speaks first of “the one labour,” then of “the other labour,” and finally of “labour,” without further qualification, as the substance of the value of everything.

27.
In a sort of way, it is with man as with commodities. Since he comes into the world neither with a looking glass in his hand, nor as a Fichtian philosopher, to whom ” I am I ” is sufficient, man first sees and recognises himself in other men. Peter only establishes his own identity as a man by first comparing himself with Paul as being of like kind. And thereby Paul, just as he stands in his Pauline personality, becomes the Peter the type of the genus homo.

28.
Value is here, as occasionally in the preceding pages, used in the sense of value determined as to quantity, or of magnitude of value.

29.
This incongruity between the magnitude of value and its relative expression has, with customary ingenuity, been exploited by vulgar economists. For example—”Once admit that A falls, because B, with which it is exchanged, rises while no less labour is bestowed in the meantime on A, and your general principle of value falls to the ground…If he [Ricardo] allowed that when A rises in value relatively to B, B falls in value relatively to A, he cut away the ground on which he rested his grand proposition, that the value of commodity is ever determined by the labour embodied in it; for if a change in the cost of A alters not only its own value in relation to B, for which it is exchanged, but also the value of B relatively to that of A, though no change has taken place in the quantity of labour to produce B, then not only the doctrine falls to the ground which asserts that the quantity of labour bestowed on an article regulates its value, but also that which affirms the cost of an article to regulate its value.” (J. Broadhurst: Political Economy, London, 1842, p. 11 and 14.
Mr Boadhurst might just as well say: consider the fractions 10/20, 10/50, 10/100, &c., the number 10 remains unchanged, and yet its proportional magnitude, its magnitude relatively to the numbers 20, 50, 100, &c., continually diminishes, Therefore the great principle that the magnitude of a whole number, such as 10, is “regulated” by the number of times unity is contained in it. falls to the ground—[The author explains in section 4 of this chapter, p. 93, note 1, what he understands by “Vulgar Economy.”—Ed.]


30.
Such expressions of relations in general, called by Hegel reflex-categories, form a very curious class. For instance, one man is king only because other men stand in the relation of subjects to him. They, on the contrary, imagine that they are subjects because he is king.

31.
F. L. Ferrier, sous-inspecteur des douanes, “Du gouvernement considerè dans ses rapports avec le commerce,” Paris, 1805; and Charles Ganilh, “Des Systèmes d’Economic politique,” 2nd ed., Paris, 1821.

32.
In Homer, for instance, the value of an article is expressed in a series of different things, II. VII., 472-475.

33.
For this reason, we can speak of the coat-value of the linen when its value is expressed in coats, or of its corn-value when expressed in corn, and so on. Every such expression tells us, that what appears in the use-values, coat, corn, &c., is the value of the linen. “The value of any commodity denoting its relation in exchange, we may speak of it as…corn-value, cloth-value, according to the commodity with which it is compared; and hence there are a thousand different kinds of value, as many kinds of value as there are commodities in existence, and all are equally real and equally nominal.” (A Critical Dissertation on the Nature, Measure and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the author of “Essays on the Formation, &c., of Opinions.” London, 1825, p. 39.) S. Bailey, the author of this anonymous work, a work which in its day created much stir in England, fancied that, by thus pointing out the various relative expressions of one and the same value, he had proved the impossibility of any determination of the concept of value. However narrow his own views may have been, yet, that he laid his finger on some serious defects in the Ricardian Theory, is proved by the animosity with which he was attacked by Ricardo’s followers. See the
Westminster Review for example.

34.
It is by no means self-evident that this character of direct and universal exchangeability is, so to speak, a polar one, and as intimately connected with its opposite pole, the absence of direct exchangeability, as the positive pole of the magnet is with its negative counterpart. It may therefore be imagined that all commodities can simultaneously have this character impressed upon them, just as it can be imagined that all Catholics can be popes together. It is, of course, highly desirable in the eyes of the petit bourgeois, for whom the production of commodities is the ne plus ultra of human freedom and individual independence, that the inconveniences resulting from this character of commodities not being directly exchangeable, should be removed. Proudhon’s socialism is a working out of this Philistine Utopia, a form of socialism which, as I have elsewhere shown, does not possess even the merit of originality. Long before his time, the task was attempted with much better success by Gray, Bray, and others. But, for all that, wisdom of this kind flourishes even now in certain circles under the name of “science.” Never has any school played more tricks with the word science, than that of Proudhon, for
“wo Begriffe fehlen

Da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein.”

35.
Among the ancient Germans the unit for measuring land was what could be harvested in a day, and was called Tagwerk, Tagwanne (jurnale, or terra jurnalis, or diornalis), Mannsmaad, &c. (See G. L. von Maurer Einleitung zur Geschichte der Mark—, &c. Verfassung, München, 1859, p. 129-59.)

36.
When, therefore, Galiani says: Value is a relation between persons—”La Ricchezza è una ragione tra due persone,”—he ought to have added: a relation between persons expressed as a relation between things. (Galiani: Della Monets, p. 221, V. III. of Custodi’s collection of “Scrittori Classici Italiani di Economia Politicia.” Parte Moderna, Milano, 1803.)

37.
“What are we to think of a law that asserts itself only by periodical revolutions? It is just nothing but a law Nature, founded on the want of knowledge of those whose action is the subject of it.” (Friedrich Engels: Umrisse zu einer Kritik der Nationa Lökonomie,” in the “Deutsch-französische Jahrbücher,” edited by Arnold Ruge and Karl Marx. Paris, 1844.

38.
Even Ricardo has his stories à la Robinson. “He makes the primitive hunter and the primitive fisher straightway, as owners of commodities, exchange fish and game in the proportion in which labour-time is incorporated in these exchange values. On this occasion he commits the anachronism of making these men apply to the calculation, so far as their implements have to be taken into account, the annuity tables in current use on the London Exchange in the year 1847. ‘The parallelograms of Mr. Owen’ appear to be the only form of society, besides the bourgeois form, with which he was acquainted.” (Karl Marx: “Critique,” &c., p. 69-70.)

39.
“A ridiculous presumption has latterly got abroad that common property in its primitive form is specifically a Slavonian, or even exclusively Russian form. It is the primitive form that we can prove to have existed amongst Romans, Teutons, and Celts, and even to this day we find numerous examples, ruins though they be, in India. A more exhaustive study of Asiatic, and especially of Indian forms of common property, would show how from the different forms or primitive common property, different forms of its dissolution have been developed. Thus, for instance, the various original types of Roman and Teutonic private property are deducible from different forms of Indian common property,” (Karl Marx. “Critique,” &c., p. 29, footnote.)

40.
The insufficiency of Ricardo’s analysis of the magnitude of value, and his analysis is by far the best, will appear from the 3rd and 4th book of this work. As regards values in general, it is the weak point of the classical school of political economy that it nowhere, expressly and with full consciousness, distinguishes between labour, as it appears in the value of a product and the same labour, as it appears in the use-value of that product. Of course the distinction is practically made since this school treats labour, at one time under its quantitative aspect, at another under its qualitative aspect. But it has not the least idea, that when the difference between various kinds of labour is treated as purely quantitative, their qualitative unity or equality, and therefore their reduction to abstract human labour, is implied. For instance, Ricardo declares that he agrees with Destutt de Tracy in this proposition: “As it is certain that our physical and moral faculties are alone our original riches, the employment of those faculties, labour of some kind, is our only original treasure, and it is always from this employment that all those things are created, which we call riches…. It is certain, too, that all those things only represent the labour which has created them, and if they have a value, or even two distinct values, they can only derive them form that (the value) of the labour from which they emanate,” (Ricardo, The Principles of Pol. Econ. 3 Ed. Lond. 1821, p. 334.) We would here only point out that Ricardo puts his own more profound interpretation upon the words of Destutt. What the latter really says is, that on the one hand all things which constitute wealth represent the labour that creates them, but that on the other hand, they acquire their “two different values” (use-value and exchange-value) from “the value of labour.” He thus falls into the commonplace error of the vulgar economists, who assume the value of one commodity (in this case labour) in order to determine the values of the rest. But Ricardo reads him as if he had said, that labour(not the value of labour) is embodied both in use-value and exchange-value. Nevertheless, Ricardo himself pays so little attention to the two-fold character of the labour which has a two-fold embodiment, that he devotes the whole of his chapter on “Value and Riches, Their Distinctive Properties,” to a laborious examination of the trivialities of a J. B. Say. And at the finish he is quite astonished to find that Destutt on the one hand agrees with him as to labour being the source of value, and on the other hand with J. B. Say as to the notion of value.

41.
It is one of the chief failings of classical economy that it has never succeeded, by means of its analysis of commodities, and, in particular, of their value, in discovering that form under which value becomes exchange-value. Even Adam Smith and Ricardo, the best representatives of the school, treat the form of value as a thing of no importance, as having no connection with the inherent nature of commodities. The reason for this is not solely because their attention is entirely absorbed in the analysis of the magnitude of value. It lies deeper. The value form of the product of labour is not only the most abstract, but is also the most universal form, taken by the product in bourgeois production, and stamps that production as a particular species of social production, and thereby gives it its special historical character. If then we treat this mode of production as one eternally fixed by nature for every state of society, we necessarily overlook that which is the differentia specifica of the value-form, and consequently of the commodity-form, and of its further developments, money-form, capital-form, &c. We consequently find that economists, who are thoroughly agreed as to labour time being the measure of the magnitude of value, have the most strange and contradictory ideas of money, the perfected form of the general equivalent. This is seen in a striking manner when they treat of banking, where the commonplace definitions of money will no longer hold water. This led to the rise of a restored mercantile system (Ganilh, &c.), which sees in value nothing but a social form, or rather the unsubstantial ghost of that form. Once for all I may here state, that by classical political economy, I understand that economy which, since the time of W. Petty, has investigated the real relations of production in bourgeois society, in contradistinction to vulgar economy, which deals with appearances only, ruminates without ceasing on the materials long since provided by scientific economy, and there seeks plausible explanations of the most obtrusive phenomena, for bourgeois daily use, but for the rest, confines itself to systematizing in a pedantic way, and proclaiming for everlasting truths, the trite ideas held by the self-complacent bourgeoisie with regard to their own world, to them the best of all possible worlds.

42.
“The economists have a singular manner of proceeding. There are for them only two kinds of institutions, those of art and those of nature. Feudal institutions are artificial institutions, those of the bourgeoisie are natural institutions. In this they resemble the theologians, who also establish two kinds of religion. Every religion but their own is an invention of men, while their own religion is an emanation from God…. Thus there has been history, but there is no longer any.” Karl Marx, The Poverty of Philosophy, A Reply to ‘La Philosophie de la Misère’ by Mr. Proudhon. 1847, p. 100. Truly comical is M. Bastiat, who imagines that the ancient Greeks and Romans lived by plunder alone. But when people plunder for centuries, there must always be something at hand for them to seize; the objects of plunder must be continually reproduced. It would thus appear that even Greeks and Romans had some process of production, consequently, an economy, which just as much constituted the material basis of their world, as bourgeois economy constitutes that of our modern world. Or perhaps Bastiat means, that a mode of production based on slavery is based on a system of plunder. In that case he treads on dangerous ground. If a giant thinker like Aristotle erred in his appreciation of slave labour, why should a dwarf economist like Bastiat be right in his appreciation of wage labour?—I seize this opportunity of shortly answering an objection taken by a German paper in America, to my work, “Critique of Political Economy, 1859.” In the estimation of that paper, my view that each special mode of production and the social relations corresponding to it, in short, that the economic structure of society, is the real basis on which the juridical and political superstructure is raised, and to which definite social forms of thought correspond; that the mode of production determines the character of the social, political, and intellectual life generally, all this is very true for our own times, in which material interests preponderate, but not for the middle ages, in which Catholicism, nor for Athens and Rome, where politics, reigned supreme. In the first place it strikes one as an odd thing for any one to suppose that these well-worn phrases about the middle ages and the ancient world are unknown to anyone else. This much, however, is clear, that the middle ages could not live on Catholicism, nor the ancient world on politics. On the contrary, it is the mode in which they gained a livelihood that explains why here politics, and there Catholicism, played the chief part. For the rest, it requires but a slight acquaintance with the history of the Roman republic, for example, to be aware that its secret history is the history of its landed property. On the other hand, Don Quixote long ago paid the penalty for wrongly imagining that knight errantry was compatible with all economical forms of society.

43.
Observation on certain verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value and to demand and supply. Lond., 1821, p. 16.

44.
S. Bailey, 1. c., p. 165.
The author of “Observations” and S. Bailey accuse Ricardo of converting exchange value from something relative into something obsolute. The opposite is the fact. He has explained the apparent relation between objects, such as diamonds and pearls, in which relation they appear as exchange values, and disclosed the true relation hidden behind the appearances, namely, their relation to each other as mere expressions of human labour. If the followers of Ricardo answer Bailey somewhat rudely, and by no means convincingly, the reason is to be sought in this, that they were unable to find in Ricardo’s own works any key to the hidden relations existing between value and its form, exchange value.

Part I, Chapter II.