ホーム


 価値表現・方程式とヘーゲル論理学  2020.07.01

  ~ 第2部 ヘーゲル論理学 -価値表現の “ 同一性 ” ~


  →属性-性質-性格_集計」参照


   目次
   第2部 ヘーゲル論理学 -価値表現の “ 同一性

   → 第1部 価値表現と価値方程式 -商品の価値関係

 
    
***  ***

  資本論ワールド 編集部

 「 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第1章、とくに商品の分析をふくんでいる節の理解は、したがって、最大の障害 〔 meiste Schwierigkeit : 最大の困難 〕となるであろう。 そこで価値実体と価値の大きさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した
態容 (Gestalt すがた) を貨幣形態に見せている価値形態 〔Die Wertform, deren fertige Gestalt die Geldform : 価値形態・形式, すなわち 完成したGestalt すがた の貨幣形態・形式〕 は、きわめて内容にとぼしく、単純である。 ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのにお、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態・形式の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか?でき上がった生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態・形式の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力 ヘーゲル論理学の“抽象”は、§115 参照 〕 なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。」(『資本論』第1版序文)

 これから、“
最大の困難”と言われる商品の価値表現について、資本論ワールド探検隊の皆さんと探索にむかいます。商品の価値関係を 「 価値の形式 Wertform 」と 「 価値方程式 Wertgleichung 」という二つのキーワードを道しるべとして、“価値実体と価値の大きさ”の価値表現を探ってゆきます。


①  第1部 
価値表現と価値方程式 -商品の価値関係 (第1部はこちらを参照*
           参照*「新しいウィンドウで開く」を活用してください
  第1部は、『資本論』 「価値表現」の形式 -
x量商品A = y量商品B - を探究します。商品の価値関係の分析は、「ヘーゲル論理学」の手順に沿っておこなわれていますので、「-価値表現と価値方程式-(1)価値表現の形式根拠(同一性):亜麻布=上衣」から順番に探究してゆきましょう。
 また、ヘーゲル論理学の第2部本質論が、「方程式の基礎 Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.」を形成していますので、第2部で具体的に、探索します。
 価値方程式の「その基礎 Grundlage (根拠)」となっているのが、ヘーゲルの 「A 
現存在の根拠としての本質 Das Wesen als Grund der Existenz 」です。こちらも、第1部と並行して考察してゆきます。


  第2部 ヘーゲル論理学 -価値表現の “ 同一性
  『資本論』では価値の表現形式-価値表現-は、価値方程式として表現されています。
 私たちは第1部において、価値関係が、価値方程式の進展(単純な価値形式→ 展開された価値形式→ 一般的・普遍的な価値形式)をとおして、貨幣形態・Geldformに形式規定 Formbestimmung と 形式活動 Formtätigkeit (§145, §150 )の実体的同一性として、「等価形態の
」に迫りました。

 第2部では、ヘーゲル論理学の 「b 現存在 (
Die Existenz 実在)」と「Das Ding」を探索します。相関-根拠-物へと展開され、「§129 かくして物は, 質料Materie と形式Form」の相関関係-を確認してゆきます。

 §124 〔商品の価値関係として〕 現存在するものの他者への反省〔価値表現〕は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在 〔価値の実在〕 はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、 相関性 、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物 〔Ding価値物 Wertding : 『資本論』岩波文庫p.89, 他(新しいウインドウで開く)である。



 ③ ・・・


    ***  ****  ***
 

 

 第1部は、下記の下線部を検索してください↓   

  第1部 価値表現と価値方程式 -商品の価値関係

 


 
第2部 ヘーゲル論理学 -価値表現の “ 同一性

  ヘーゲル論理学 A
現存在の根拠としての本質 (§115-122)

    目 次
 A 現存在の根拠としての本質 Das reinen Reflexionsbestimmungen
 a 純粋な反省規定 Die reinen Reflexionsbestimmungen
  イ 同一性 Identität  ・・・
抽象
  ロ 区別  Der Unterschied
  ハ 根拠  Der Grund
 b 現存在  Die Existenz
 c
物     Das Ding


      
イ 同一性 (Identität) ・・・抽象・・・
 §115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性( Identität mit sich )である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、
抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。



      口 
区 別 ( Der Unterschied )
 §116
 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、
同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein )であり、媒介されて有るもの( Vermitteltsein )である。

 §117  〔
差別 Verschiedenheit と 相等性 Gleichheit

 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別( Verschiedenheit )である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、
相等性(Gleichheit : 岩波・向坂訳の“等一性”)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit )である。
 
比較というもの 〔比例関係が想定されること〕 は、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。



        ハ 
根 拠 (Der Grund)
 §121
  
根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性 〔“全体性”〕 として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する
〔価値表現の規定〕。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。

 

   現存在 (Die Existenz : 実在) 
    〔  商品価値の
実在を想定した場合、価値物 Wertding について §123-§124
 §123 
 
現存在〔実在〕は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある.

 §124
  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、
現存在するものは物 〔Ding  : *注1である。

 〔*注1 : 商品価値の実在を想定した場合、価値物 Wertding について
 --『資本論』 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実--
 「3. しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、
価値物となされる。なぜかというに、このようなものとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。」(岩波文庫p.93)

  c 
物 ( Das Ding )
      
 §125   〔Qualität としての規定性
 
物 Ding は 根拠 Grund と 現存在 Existenz という二つの規定が発展Entwicklungして一つのもののうちで定立されているものとして、統体〔Totalität; “全体性”〕である。それは、そのモメントの一つである他者内反省〔Reflexion-in-Anderes; 他者への反照〕からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物 konkretes Ding である。 
 (イ)
これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは 物の諸性質(Eigenschaften : *注2であり、それらと物との関係は、持つという関係である 。

  〔
*注2 : 岩波・向坂訳では Eigenschaft/属性 『資本論』第1章第2節岩波・向坂訳p.87 〕
 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の
属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」 
 なお、『資本論』の「属性 Eigenschaft」  「性質 Charakter / Natur 」  の用例については、こちら↑を参照してください。

  今や “あるSein” の代りに、
持つHabenという関係があらわれる。“或るものEtwas”〔注:「小論理学§90-§94」〕も自己に即してさまざまの質を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、Qualität としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなる*注3:「小論理学」§90.§90補遺からである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。・・・

  〔*注2 : 『資本論』第1章第2節 岩波・向坂訳p.87 〕
   属性と性質 Eigenschaft の翻訳比較検討 
 
『資本論』・向坂訳の属性  ヘーゲル「小論理学§125」の翻訳(物の諸性質  -岩波文庫・松村訳p.47)とは同じドイツ語 “Eigenschaft” です。

 この訳語に注目する理由は、
 
(1) 日本語訳の “属性” と “性質” の語義内容の問題
   『資本論』の属性と「小論理学」の諸性質 Eigenschaft” では、同様の意味内容で使用されています。しかし、『資本論』において、「属性
Eigenschaft」と「性質 Charakter / Natur 」では、意味内容が異なっていますので、注意が必要です。
 なお、『資本論』の「属性 Eigenschaft」  「性質 Charakter / Natur 」  の用例については、こちら↑を参照してください。

 
(2) 『資本論』第1章,第2節「商品に表わされた労働の二重性」の論理的解釈の問題
    〔*注2:『資本論』第1章第2節岩波・向坂訳p.87 〕
① 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または
抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」


  (1) “
属性” と “性質” の語義内容を「広辞苑」から検討します。
 ①
属 性 :事物の有する特徴・性質。
〔哲〕一般には
実体に依存して存在する性質・分量・関係など。狭義には偶然的な性質と区別し、物がそれなしには考えられないような本質的な性質。例えばデカルトでは、精神の属性は思惟、物体の属性は延長

 ②
性 質 :もって生まれた気質。天性。資性。
〔哲〕事物が本来もっているあり方で、それにより他の事物と種類を区別されるもの。→質→第一性質
 
 広辞苑の①属性と②性質との差異 : ①の「属性」は事物・実体との相関関係ー位置関係が重視されています。これに対し、「性質」は、他の事物と種類を区別されるが、多様な事物の特徴の一つ~特に内面的・内在的~を表現する場合にも使われます。「性格」との違いは、外形的な特徴・特質の場合に「性格」が一般的に使われます。
 用例集として、
『資本論』 性質-性格を参照。


 「2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の
属性〔Eigenschaftにおいて、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。
  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。


 §129
 かくして
物は質料と形式 Materie und Formとにわかれる
この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは
自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている(*注)。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。

   (*注) ここでは、「自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている内容について、「価値形態Wertform」の多重構造を探索する→「価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(2)」(形態・形式Formの二重性)を参照してください。

 
    
*** **** ***