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  資本論用語事典2021-2023.04.11


  向坂逸郎著 
 『
マルクス経済学の方法』 と 「方程式論」
   
  ・・価値方程式について ・・・抄録とコメント

マルクス「経済学の方法
価値方程式の形成過程
    ■ 目 次
 Ⅰ 資本論ワールド編集部 序文
      
1. 総労働の細胞形態-A商品 x 量 = B商品 y 量
      2. 価値方程式と「等式」の誤訳-資本論ワールドの位置づけ
     
 3. 『マルクス経済学の方法』とエンゲルス
 Ⅱ 向坂逸郎著 『マルクス経済学の方法』  抄録とコメント
     1. 私有財産制と社会的分業のもとで生産物は商品となる
     2. 社会の「自然法則」と生産物交換-商品
     3. 商品の交換関係は人々に対して一つの客観的存在で、人々を支配する
     4. 労働の分配は商品の交換比率-価格の動揺で行なわれる
     5. エンゲルス「交換の法則」
     6. 価値方程式 A商品x量 = B商品y量
     7. 一般的抽象的な労働の成立と社会的総労働の表現方式
     8. 経済学-人と人との関係-階級間の関係-物として現れる
     9. 価値対象性と「物」の形式・質料-ヘーゲルの現象


    資本論ワールド 編集部 序文 

1) 『資本論』翻訳者-向坂逸郎の著書 『マルクス経済学の方法』 (1959年)に補足説明を加えて、採録します。(岩波書店『資本論』文庫版1969発行)
この著書は半世紀前に出版され、ベストセラーとなったものです。宇野弘藏の経済学・宇野理論(蒸留法批判とともに、当時の日本の時代相がとても良く反映されています。

2)  『資本論』の翻訳にも色濃く反映されています。 ① 自然科学的な方法論の引用. ② 資本物神性への展望.  そして極め付きは ③ 総労働の細胞形態 - A商品 x 量 = B商品 y 量. です。(この理論的内容を理解するのに、10年の歳月が必要でした。)
   下記の 〔価値方程式 A商品x量 = B商品y量について 〕を参照してください。

3) 方程式Gleichung の誤訳-岡崎訳『資本論』第1章
補足説明として、向坂訳『資本論』にも見られる「個性」をつかみ取る作業が必要です。『マルクス経済学の方法』自体は、「入門書」的色彩が濃いものですが、キーワードとなる事項の解説に物足りなさがあります。 たとえば、上記の③総労働の細胞形態ー A商品x量=B商品y量 に対してこれを「方程式:Gleichung. 価値方程式:Wertgleichung」と翻訳・解説しています。
 (奇妙なことに他の翻訳者の大半は、誤訳で「等式」としています。大月書店マルエン全集国民文庫版 岡崎次郎訳『資本論』第1章は1972年発行ですが、誤訳「等式」が全国的に流行してゆく”先駆け”となりました。)
 一方で、向坂訳の 「 方程式Gleichung 」 については、『マルクス経済学の方法』 (1959年)以降、分かりやすい解説・出版が行なわれていません。『資本論』翻訳史の不幸な運命の始まりで、日本での→理論的な「方程式論」の説明不足は否めません。

 資本論ワールドでは、『資本論』翻訳問題のこのような現状を打開すべく、検討を重ねてた結果、この「方程式-価値方程式論」は、『資本論』の最大キーワードの筆頭項目との結論に達しました。 詳細説明は比例関係 と 方程式論の歴史的形成過程<3> ②資本論ワールドのテキスト群を参照してください。


4)  『資本論』を読み続けてゆくことは、困難極まります。日本語への翻訳問題や、ヘーゲル論理学との連携も極めて不十分で-したがって、理解しにくいのです。さらに、日本の「マルクス学」ではエンゲルスが軽視されています。意図的にエンゲルスによる『資本論』解説が回避され、無視されている状況が50年間にわたって続いています。正面きって「マルクス批判」をしない代わりに、エンゲルスを“叩く”手法で、全体的に「マルクス科学」を変質させ迂回誘導していく作戦です。日本では”宇野理論”によって典型的に『資本論』の改作が行なわれています。

5)  『マルクス経済学の方法は、エンゲルスを高く評価し、積極的に紙面に登場させています。いま、エンゲルス自身の論調 -「歴史的に、論理的に」- を一部紹介しましょう。
  「こうして論理的なとりあつかいかただけがふさわしいものであった。ところがこの論理的なとりあつかいかたは、じつは、ただ歴史的な形態と攬乱的な偶然性とをはぎとった歴史的なとりあつかいかたにほかならない。この歴史のはじまるところから、おなじく思想の道程がはじまらなければならない。そしてその後のこの道程の進行は、抽象的で理論的に一貫した形態での歴史的経過の映像にほかならないであろう。だがこの映像は、修正された映像であり、それぞれの契機が完全に成熟し、典型的に発展したところで考察されうることによって、現実の歴史的経過そのものが示す諸法則にしたがって修正されたものである。」エンゲルス『経済学批判』について1859年参照)
 なお、エンゲルスの明快な論調(『経済学批判』について)に対して、マルクスは、『資本論』第2版後書きにおいて、自らの弁証法的方法をキエフ大学の経済学教授 N・ジーベルを引用しながら報告しています。

6)  困難な読書を継続する力は、ひたすら“忍”のひと文字かもしれません。しかしながら、「継続だけが真理への道」でしょう。
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  向坂逸郎 『マルクス経済学の方法』 抄録と「方程式」コメント
                   岩波書店 1959年発行

1.  私有財産制と社会的分業にもとづいて、全社会の生産が行われるところでは、生産手段が私有されているので、各成員は、全社会の意志にしたがって、生産を行なうことがない。かれらは、みな各個人の意志にしたがって、生産する。各生産者は社会的分業を行なっているので、自分の生産するものは、自分の必要を充たすものでなく、かれの欲望の充足は他人の生産にまたなければならぬ。自分は他人の必要物を生産し、自分の必要物は、他人が生産している。かれらは、お互いに自分たちの生産物を交換する以外に、各自の欲望を充足させる方法はない。そして、各自は、この生産物の交換を自分に最も有利のように、競争する。
 このような社会では、生産物の交換が行なわれる。すなわち、生産物は商品となる。交換による以外に、生産物が必要なる手にわたる方法はない。計画的な社会で生産物の分配が、中心機関の計画的な意志によって決定されるのに反して、社会的分業と私有制の社会では、生産物は、生産者の自由意志でお互いに交換されることによって、これを必要とする社会成員の手にはいる。生産は、商品生産では、私有財産の上に独立して行なわれている、または孤立している人間の私事として、個別的に行なわれる。各人が、何をどれだけ生産するかは、社会の統一的な意志でなく、各個人の「自由な」意志にしたがって決定される。だから、かれらの生産物が、社会の必要を充たすものであるかどうか、かれらの生産物量が、社会の必要以下であるか、以上であるか、というようなことは、誰も正確に予測することはできず、ただ生産の行なわれたあとで、事実の上で、過多か過少かが判明する。つまり、現実に交換されてみるほかはない。

2.  ここにはあらかじめ社会的連繋が成立しているわけではないので、おのおの独立している私的生産者は、自由に、自分に最も有利なように生産する。社会全体の生産を計画し、統制する者はない。したがって、このような社会では意識的計画のかわりに無政府状態が支配する。商品生産では、無政府的であることが、秩序なのである。したがって、商品生産者は、独立自由であるように見えていて、じつは、非独立的であり非自由である。かれらは、他の生産者を予想しないで、存続することができない。かれら各自の生産するものは、他人の必要を充たすものであり、他人の意志にかかっており、みずから必要とするものは、他人の生産にかかっている。このように相互に依存しながら、すなわち、他人との労働協力を余儀なくされながら、他人の意志をあらかじめ知ることはできない。これは最も非自由非独立的である。それは、ちょうど自然の力を制御しえないかぎり、人間はきわめて非目由であり、自然の法則を認識し、これに適応しうるようになればなるほど、自然から独立であり、自由であるのと、同様である。かれらは、相互に依存せることを意識せず、相互に協力する意志なく、しかも、依存し、協力しなければならない。

3.  どんな社会でも、マルクスがクーゲルマンに与えた手紙に示されているように、必要な労働を社会的に確保することと、これを配分することを必要とする。それは社会の存続するかぎり、「自然法則」として厳存する。この必然は、どんな社会でも、したがって商品生産の社会でも、貫かれなければならぬ。生産的労働が、商品生産のように社会全体としての計画なく行なわれる場合でも、生産の全体は、結局において、社会全体の必要を充たすようになっていなければならぬ。つまり各自の生産的労働が、全体としては労働協力体をなしていなげればならない。すなわち、このような労働協力は、社会の無政府状態にもかかわらず成立し、貫徹されなげればならない。

4.  社会主義的生産において、このような労働協力、すなわち、総労働の確保とその適当な配分による生産の遂行は、意識的計画的な中心機関によって規制される。商品生産においては、この役割を生産物の交換が果している。この社会の存続を可能ならしめるのは、生産物の交換なのである。交換がこのような役割を果しているとき、生産物は商品となる。

5.  商品生産における交換、計画的社会における意識的統一的中心機関の意義をもつものとなる。社会的物質代謝は、この社会では交換によってはじめて可能になる。しかし、この交換の意義は、もともと計画性の欠如がもたらしたものである。だから、これは社会の人々の規制できるものではなく、交換の法則は、かれらの手のとどかないところに成立している。それは、社会成員があらかじめ定める計画にもとづくものでなく、かれらの勝手な行動の結果成立するものである。それは、かれらの行動の前でなく、後で、したがってかれらの意志のかなたに成立する。

6.  このように、交換関係は、人々に対して一つの客観的存在となり、人々によって支配されるかわりに、人々を支配するものとなる。〔資本論ワールド編集部 注1〕。
 

  
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資本論ワールド編集部 注1
   →
「①交換関係は人々に対して一つの客観的存在となり、
     
「②人々を支配するものとなる」について

  ①について 『経済学批判』から『資本論』の論点-抽象的に人間的な労働 参照
  ②について 商品の交換関係-物神性 参照

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   〔 労働の分配は商品の交換比率-価格の動揺で行なわれる  それは社会全体として見れば、各自の無意識的な行動の合成力として成立している。それはたしかに人間の行為がつくりだしたものであるが、このように人間の被造物が、逆に人間の社会的行為を支配するようになっている。生産物の交換の結果、はじめて人々は、どのていどに自分たちの存続に必要な労働協力に寄与したかを知るからである。多すぎて労働を支出した場合には、交換の法則は、いわば暴力的な方法で、すなわち、場合によったら、商品生産者の破産という方法で、必然的法則の偉力を示す。労働の配分は、交換比率という形態で遂行され、多すぎて生産した生産部門、少なすぎて生産した生産部門に労働の配分の再編成を行なう。この再編は、常に交換比率を目やすにして、すなわち、価格の動揺を通じて行なわれている。この交換比率を究極において支配するのは、このように、社会全体の労働である実を示さなければならぬ社会の有する人間労働である
 このように、交換を規制する法則、または簡単に交換の法則は、人々に対して「自然法則」の必然性をもって命令する。この法則は、人々の意志のかなたから盲目的に作用してくるものとなっている。

  
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 〔
交換関係は、人々に対して一つの客観的存在となり、人々を支配するものとなる
 〔(1) 「それゆえに、
商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の*社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。・・・商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、・・・・・人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。・・・私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。」『資本論』第4節商品の物神的性格(岩波文庫p.132)

 〔(2) 「・・・これらの物の社会的自然属性 として、反映する」ー「社会的」と「自然属性」が兼ねそろった状況を具体的にイメージすることが難しい。考古学として世界的権威であるコリン・レンフルーは、古代社会から「社会的自然属性」の解明を研究テーマとしています。先史時代と心の進化』を参照してください。〕

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7.  資本主義において商品生産は、ついに労働力をも商品として、全面的に徹底的にその性格をつくり上げた。エングルスは、交換の法則を次のように要約している。
  「このように、社会的連繋を生産物交換の媒介によって結んでいる個別的生産者、すなわち、商品生産者の社会の中に、資本主義的生産様式がはいり込んできたのであった。しかして、すべての商品生産を基礎とする社会に固有なるものは、この社会の生産者が自身の社会関係に対する支配力を失ったということである
  各人は孤立して自己の偶然的な生産手段をもって、その個人的な交換欲望のために生産するのである。何びとも自分のと同じ種類の品物がいかほど市場に現われ、そのうちのいかほどが一般に使用されるかを知らず、また何びとも、果してその個別的生産物が実際の需要を見いだすことができるか、果してかれがその費用をつぐないうるか、または一般に売れるものであるかどうかを知らない。そこに支配するものは、社会的生産の無政府状態である。とはいえ、他のすべての生産形態と同じく、商品生産もまた、それを固有にしてそれと分離すべがらざる独特の法則をもっている。そしてこれらの法則は、無政府状態にもかかわらず、この無政府状態のうちにおいて、かつそれをとおして行なわれる。これらの法則は、社会的関係の唯一の存続形態である交換のうちに現われ、個々の生産者に対しては強制的な競争の法則として作用するだから、これらの法則は始めこれらの生産者にさえも知られず、長い経験によって初めて漸次かれらによって発見されねばならない。したがって、これらの法則は、生産者から独立して、かつ生産者に対して遂行され、しかもかれらの生産形態における盲目的な自然法則として遂行される。まさに生産物が生産者を支配するのである」(『反デューリング論』新潮社版『マル・エン選集』第12巻18-19頁)。
 経済学の課題は、この盲目的に作用する法則をさぐることであった。理論経済学が近代社会とともにはじまるのは、この謎に直面したからである


 価値方程式 ――方程式のコメント

      価値方程式 A商品x量 = B商品y量について 〕 ←→検索

8.  全社会を支配する商品交換を、最も簡単な形でいいあらわすと、次の方程式になる、
     A商品x量 = B商品y量
 この方程式の示しているものは、A商品のx量はB商品のy量に「値(あたい)する」ということである。商品は、交換において、「値する」という関係におかれる。全社会の労働とその適正なる配分という必然的な法則が、商品生産では、「値する」という関係におかれる商品の運動を通じて実現される。全社会の全人間の関係である労働協力の実が、商品というものの交換比率という、物に附着して示される。全社会の存続のために、労働がなされるということは、いかなる社会にもある。このような労働が、物の交換を規制するものとして現われるとき、価値の実体をなすのである。人間労働はただ労働であるだけでは価値ではない。流動状態にある人間労働は価値ではない。「それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる」(『資本論』岩波文庫(1)102頁)とマルクスはのべている。

 A商品x量 = B商品y量という方程式で、労働の社会的性質が表現されるとき、人間労働は価値となる
社会の全労働の保有とその配分ということは、全労働として、その平均的抽象的側面を把握しなければ不可能である。A商品x量 = B商品y量は、全社会の総労働を表わす原初的な形である。総労働の細胞形態といってもよい。総労働の部分として、最も単純な形で総労働の性格を示している。

  〔総労働の細胞形態:「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態 〔A商品x量 = B商品y量〕 は経済の細胞形態である。」(第2版の後書・岩波文庫p.12)



    一般的抽象的な労働の理論的な成立
          〔 A商品x量 = B商品y量:社会的総労働の表現方式 〕

9.  どんな社会でも、労働を、それぞれ種類を異にする生産部門に配分しうるためには、これをで測りえなげればならない。現にどんな社会、例えば社会主義社会でもそうしている。労働は、一人一人をとってみれば、それぞれ個性をもっている。また布を織る労働と靴をつくる労働はちがった性質である。しかし、全社会の特定されない全人間労働としてみれば、平均的に人間労働の支出しうる量として、量化することができるはずである。社会の保有する総労働の一部分と考える場合、これを、われわれは、総体の中の平均的な部分として、その意味で一般的抽象的な労働をなしていると考えることができる。A商品x量 = B商品y量という方程式は、社会の必要とする総労働を最も単純に表現したものである
  二つの商品の一定量が等しい関係におかれるためには、両者に共通なるものが含まれていなければならない。共通なるものは個性のないものでなければならない両商品に共通な社会関係として、人間労働には、その抽象的側面が表われている。
  人間労勧は、社会の総労働の一部分として、二つの商品の交換において、平均的抽象的性質を示している。商品生産において物の交換を通じて以外に、社会の総労働が成立しえない場合には、 労働の平均的抽象的性質が、商品交換に現われ、価値の実体となる価値は、人間労慟が物に「凝結」してはじめて成立する。

10.  エンゲルスは、このことを次のようにのべている。
 「経済学は商品、すなわち、生産物 ― 個々の人のものであれ、あるいは原生的共同体のものであれ ― が相互に交換されるところの契機をもってはじまる。交換にはいってくる生産物は商品である。だがその生産物が商品であるのは単に、物、すなわち生産物に、二個人間または二共同体の関係、すなわちもはや同一個人の中に結合されてはいない生産者と消費者の関係が結びつけられているということによってである。
 ここにわれわれはただちに、全経済学を貫き、ブルジョア経済学の諸頭脳に有害な混乱をひき起した一つの特有な事実の一例をもつ経済学は物を取り扱うのではなく、人と人との関係、究極においては階級間の関係を取り扱うのである。だがこれらの関係は、常に物に結びつけられ、物として現われる」(『資本論綱要(他4篇)』岩波文庫325-326頁)。

  〔これらの関係は、常に物に結びつけられ、物として現われる
 〔(1)
「それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性 Wertgegenständlichkeit の物的形態をとる。
 
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  ◆向坂逸郎の解説価値対象性の物的形態をとる
 「商品生産において物の交換を通じて以外に、社会の総労働が成立しえない場合には、 労働の平均的抽象的性質が、商品交換に現われ、価値の実体となる価値は、人間労慟が物に「凝結」してはじめて成立する。
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 人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとる〔価値対象性という形態〕のである」 『資本論』第4節商品の物神的性格(岩波文庫p.131)〕

 〔(2) ヘーゲル『小論理学』 c 物(Das Ding)§125~§130参照.
 「
§130 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。」〕

   ・・・以下、省略・・・  
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