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文献資料 
 
  完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 

    
竹田青嗣・西 研著  2020.02.15

 
 資本論ワールド 編集部

 『資本論』とヘーゲルの連携 -
マルクスによる「ヘーゲル特有の表現法」の援用- について、ヘーゲルの「思いこみ・ Meinen / Schein」 を切り口として探究を進めます。

1.  商品の物神性 -「机が商品として現れるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化(変身)する 〔:Aber sobald er(机) als Ware auftritt(登場する), verwandelt(変身する) er sich in ein sinnlich übersinnliches Ding.:机が商品として登場するや、机は感覚的・超感覚的な物に変身する〕」(第4節商品の物神的性格とその秘密)- は、「物の関係の幻影的形態と対象的外観」〔リンク先→商品の価値対象性〕として現象します。そして、マルクスはヘーゲル弁証法 -「意識の二重性と物の二重性」(西 研「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』以下「完全解読」と略す」)- を継承発展させ、価値対象性の「現象形態"Erscheinungsform"」を明らかにしました。

2.  ヘーゲルと『資本論』が難解な理由は、
 「ヘーゲル自身が作り上げた独自の話法、文法がある。そして、自分の説を展開してゆくのに、すべてをこの自分だけの話法=文法に折り込んで語る。だからヘーゲルを読むには、いわゆる″ヘーゲル語″に一定習熟しなければならない。・・・まず、かなり多岐にわたる重要なヘーゲル語(概念)を理解しておく必要がある。・・・」(竹田青嗣・西 研著「完全解読」)
 さらに、このヘーゲルを引き継いだマルクスの『資本論』は、当然に超難解となっているのです。何回もの挫折を経て、薄明かりの闇夜をさまよいながらアルプス越えを行くようなものかもしれません。・・・・
今回紹介する、竹田青嗣と西 研による完全解読『精神現象学』(2007年)によって、読みにくい・難解なヘーゲルが解きほぐされ、「意識と対象世界の在り方全体」が実感されるものと期待しています。一番の旅人泣かせである「第1章 意識」の峠が越えられると、後は、
“しめたもの”です。

3.  マルクス自ら明言するように「ヘーゲル特有の表現法」を採用した文体のために、『資本論』の物神性の理解に、ヘーゲルは欠かすことのできない、基本文献なのです。なぜなら、読者の「思いこみ(私念)Schein」は、同時にヘーゲルと『資本論』の架け橋の役割りを担っていますので、読者の挫折がそのまま財産の蓄積となってわが身に跳ね返ってきます。



 完全解読
ヘーゲル『精神現象学』 
      竹田青嗣・西 研 著 講談社 2007年発行

 
第1章 意識 (西 研) 
   目次
 Ⅰ 感覚的確信 あるいは「このもの」と思いこみ
 Ⅱ 知覚、 あるは物と錯覚
 Ⅲ 力と悟性、 現象と超感覚的世界


西 研による 第1章解説

 Ⅰ 
感覚的確信 あるは「このもの」と思いこみ
[ Die sinnliche Gewißheit ; oder das Diese und das Meinen〔Meinen:私念, 金子武蔵の訳〕 ]

  〔五 総括〕

 感覚的確信は実際にはいつも、自分の真理が個別的なものではなく普遍的なものであるという結果にまで進んでいく。〈ここ〉は樹であると言い、次にはそれを取り消して〈ここ〉は家であると言うことによって、
〈ここ〉が普遍的なものであることを経験しているのだ。だが、確信は自然的な意識(学的でない日常的な意識)であるから、この結果をいつも忘却してしまうのである。
 これは自然的な意識としては無理のないことだが、しかし、『このものないし感覚的な物としての外物の実在ないし存在は、意識に対して絶対的真理を持つ』という説(87,69)が、哲学的主張や懐疑主義の結論として唱えられるとすれば、まことに奇怪なことである。
 知恵の最下級の学校であるケレスとバッカスについての古代のエレウシスの密儀においても、人びとはパンを喰らいブドウ酒を飲むことによって感覚物の絶対性を否定している。動物さえも、感覚物を食い尽くすことによってその実在性を否定しているのである。
 哲学的な主張についてさらにいえば、それは存在する外的な対象を『現実的な、絶対に個別的な、まったく個人的な、個体的な諸物であり、それぞれは自分と絶対に同一のものをもたない諸物』として規定する。たとえば目のまえの「この紙片」がそうである、と。
 しかしこれを言葉にすることはできない。『思いこまれている感覚的な「このもの」は、自体的に(本性的に)普遍的なものである意識に所属する言葉にとっては到達できないものだからだ』。

 言葉でなく指示しようとしても同じである。私たちが指示する〈ここ〉は、純粋な点としての〈ここ〉(まったくの無媒介な、それだけとしての〈ここ〉)などではない。あくまでも、一定の空間のなかでの位置としての〈ここ〉であるはずだ。つまり、もろもろの〈ここ〉ではない“もの”としての〈ここ〉なのであり、その意味で、もろもろの〈ここ〉と“関連”した〈ここ〉なのである。『これは他のもろもろの〈ここ〉のうちのひとつの〈ここ〉であり、言い換えると
それ自身において多くの〈ここ〉の単一な集合〔*注1:Zusammen 、Sammlung〕である。

〔*注1:『資本論』「巨大なる商品集積」〕。→
つまり、普遍的なものである』。

 こうして私は、「この紙片」を、直接無媒介なものではなくて、真にあるとおりにとらえる(⇒知覚する nehme ich wahrnehme ich wahro 。 ドイツ語の「知覚する」はもともと「真にとらえる」という意味の言葉)ことになるのである。

 〔*注1:『資本論』「巨大なる商品集積(商品の集まり Warensammlung)」〕
 1-1 「資本主義的生産様式の支配的である社会の富 Der Reichtum der Gesellschaften は、「巨大なる商品集積〔"ungeheure Waren
sammlung"〕」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態 Elementarform として現われる erscheint。したがって、われわれの研究は商品 の分析をもって始まる。」
 Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "
ungeheure Warensammlung", die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
 → ① 「得体の知れない
商品の集まり・集合"ungeheure Warensammlung"」
    ② 「得体の知れない
ungeheure 」 → だから、
    ③ われわれの研究は 「商品 の分析」で、始まる.

一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。

Ⅱ 知覚、あるいは物と錯覚 
[ Die Wahrnehmung ; oder das Ding und die Täuschung ]

 〔1 性質も物も矛盾を孕む〕
 「
知覚 die Wahrnehmung 」は、もう感覚の確実性と個別性に固執しないで、自覚的に思考を働かせる。反省的な立場をとって対象の真理をつきとめようとするのが、「知覚」の態度である。
 知覚は、感覚的確信とちがって、普遍性という見方(思考)をもっている。例えば、「塩は白い・辛い」というように、対象のなかに
さまざまな「性質」があることを、知覚は見出す。知覚が対象とするのは「このもの」ではなく、さまざまな性質を備えた「物 das Ding 」なのである。そのさい重要なのは、たんなる感覚としての白と性質としての白とはちがうということだ。「性質」という捉え方には、思考が含まれているからだ。それはどういうものか。
 まず第一に、性質は「普遍的なもの」としてつかまれている。塩は「白い」が、砂糖だって「白い」。「白さ」は他の物にも共通する一般的なものなのだ。
 しかし第二に、白さはこの塩の性質でもある。「性質「(固有性
Eigenschaft) 」 とは、まさに物の特質を表現するものであり、それが他ならぬ「塩」であることをあらわすものでもある。つまり性質とは、物の独自性・固有性を表現するものでもある。
 「性質」という捉え方に含まれている思考をこのように解きほどいてみると、それはとても不思議な性格をもっていることがわかる。つまり、〈普遍性にすぎないものがどうやって物の独自性を表現できるのか〉という矛盾がそこには孕まれているのだ。
 そんなことは簡単に解決できる、と思った人もいるだろう。〈一つの性質だけを挙げるから混乱するのだ。塩には他にもいろいろな性質がある。塩は同時に、辛く、結晶が立方体でもある。諸性質が全体として塩の独自性を表現する、と考えればよい〉と。
  確かにこれはかなり説得力がある考え方といえる。「白くて、辛くて、立方体」。このように性質が3点そろえば、塩といっていいだろう。この考え方は、物を分類するのに役立つし、じっさい私たちは諸性質の組み合わせでもって物を分類することも多い。この考え方は、物を他の諸物との比較や共通性、他との連関によって定義する。物とは、相互に没交渉な諸性質を「~でもあり ……でもある」という仕方で共存させる「普遍的な媒体 das allgemeine Medium 」なのである。
  しかしそのとき、物の独自性・唯一性はやはり保たれないのではないか。物はそれ自体としては「一つ」なのではないだろうか。そう考えるならば、物の真理は、諸性質を排斥してみずからか一つであることを主張する「排斥する統一 ausschließende Einheit 」 であることになる。
  
性質において見られた矛盾は、いまや「物」に即してこういうかたちをとる。〈物の本質は一般的な諸性質の媒体=「多数」なのか。それとも「一つ」なのか。どちらが本当なのか。〉意識はこの問題に直面し、あれこれと解決策を練ろうとする。

 〔 2 知覚の経験〕
  
知覚はまず、物は真実には「一つ」である、と考える。私が見るから白く、舌で味わうから辛く、触るから立方体なのだ。つまり、多数の諸性質はあくまで「意識にとって」そう現れるだけだ。対象それ自体は、あくまで「一つ」であろう。こうして意識は、「一つ」を対象の側に、「多数」を自分の側にふりあてる。
 こうして、物の側には「一つ」という規定しか残らないことになった。しかし、新たな疑問が起きてくる。様々な物はそれぞれちがっているはずなのに、どの物も目鼻を欠いたノッペラボウの「一つ」だとするなら、物の区別がまったく成り立たなくなる。塩は、白く・辛く・立方体であるからこそ、塩といえるのだ。とすると、物自体に諸性質が備っていると考えざるをえなくなる。
  そこで、逆転が起こる。〈自分は錯覚していた。物の側にこそ「多数」の諸性質がある。それが「一つ」であるのは、意識の側がそれらをまとめて「一つ」にしているのだ〉と。
  意識はこのように、さまざまな試みをする。しかし、次第に意識はこう考えるようになる。〈自分はさっきは「一」を物にふりあて、「多」を自分にふりあてていた。今度は「多」を物にふりあてて、「一」を自分にふりあてている。これはかなり無理なことをやっているんじゃないか。物そのものに「一」と「多」が同時にそなわっている、と考えるしかないんじゃないか〉と。

 
物の本質は、一でも多でもない。一つであるものが、多数の性質としてみすからを現し出し(したがって他の諸物とも連関し)、しかもそれらの性質を一つである自分のなかに取り収める。一から多への発現と、一への収束。自分だけである状態から他との連関に身をおき、ふたたび自分のなかに戻る。物がそういう特異な存在の仕方をしていることを、意識は認めざるを得なくなる。
  このことは、意識についてもいえる。さっきの経験のなかで、意識も一つであったり多であったりした。意識じしんが一つであり、かつ、様々な性質を知覚する多数の意識となり、ふたたび自分のなかに戻って一つになる。意識も物も、このような二重の存在性格をもつのである。

(⇒)この知覚の章は、「対他存在」「対自存在」というヘーゲル独自の術語を用いて展開されているので、この二つの術語について解説しておこう。
  物が多数の諸性質の「媒体」である、というあり方は、物を他の諸物との連関において捉えることでもあった。このように、他と連関し他に対してあるあり方のことを、ヘーゲルは「対他存在 Sein für ein Andres 」と呼ぶ。これは物が独立性を失っているあり方でもある。
  これに対して、物が「一つ」である、というあり方は、物が他との連関を断ち切って独立しているあり方である。これをヘーゲルは、自分が自分だけに対面しているあり方、という意味で「対自存在 Fürsichsein 」と呼ぶ。

 さて、〈物は、真実には対他存在なのか、対自存在なのか? いや、どちらかではなく、そのどちらでもある〉というのがこの章での結論であった。しかし、この結論はかなり異常なものにみえるかもしれない。対自存在・対他存在とは、物のあり方ではなく、むしろ意識のあり方ではないだろうか。意識はたしかに、さまざまなものを意識しながらそれでも一つにとどまる、といえるだろう。でも、物に対してそういう言い方ができるのか。一であり多であるというのは、物にそなわったものではなく、意識の観点の移り変わりではないか。意識が物を一つとみたり、多数の性質とみたりするだけのことだ、と。

  たしかに、そういってかまわない。しかし、意識の場面において叙述される意識経験の学においては、意識の観点の移り変わりは対象そのものの変化でもある。物は一つとみなされ、そのかぎりで一つで「ある」。しかし多数の性質をもつとみなされるかぎりでは多数で「ある」。つまり、意識の二重性と物の二重性は、しつは同じ一つの運動なのである。ヘーゲルは本文の中でそのことをはっきり認めている、私たちからみると、これはほんらい意識の運動というべきものだろうが、この運動を物のがわにひきよせて表現すれば、物の二重性という言い方も可能なのである。
 〔編集部注:『資本論』の物神性-本文参照〕


 〔3 無制約な普遍性〕

  さて、この経験がもたらしたものは何だったのだろうか。知覚は、一つという規定と、多という規定をそれぞれ独立したものと考えていた。〈自分であること=対自存在〉と〈他との連関=対他存在〉という二つの規定も、相容れない排他的なものと考えていた。ところが、意識はこの経験をつんで、一と多、自と他が不可分に連関していることを知った。一と多、自と他という規定が、それだけでは真理たりえないことを知ったのである。真理は対自存在と対他存在とが不可分に統一されたもの、ということになるが、それはすでに「物」とはいいえないものであり、「無制約な絶対的普遍性 unbedingte absolute Allgemeinheit 」 と呼ぶのがふさわしい。


 
Ⅲ 力と悟性、現象と超感覚的世界 
[ Kraft und Verstand, Erscheinung und übersinnliche Welt ]

  〔1 力と悟性〕

  意識の二重性と物の二重性は、一つの同じ運動の異なった表現に過ぎなかった。このことを意識の経験を観察する「われわれ」ははっきり自覚している。しかし、意識はそう自覚してはいない。意識は自分自身の在り方を洞察しないで、あくまで対象の側に真理があると思い、それを追い求めるのである。だから意識は、こうした二重の性格を備える新たな対象を、物の真理として求めることになる。
 
この新たな対象は、もう「物」ではない。物は、「一つ」と「諸性質」で構成されていたが、いま求められているのは、一つでも諸性質でもないようなもの、だからだ。この新しい対象は、さしあたり、「力 Kraft 」と呼ばれる。電気や重力のような力は、様々な現象や諸性質を生み出しつつ、それ自身としては一つであるようなものだからだ。
 この新たな対象と対応する新たな意識形態は「悟性 Verstand 」と呼ばれる。これは知覚と異なって、純粋な「思想」だけを対象とするような意識である。知覚の段階では、「性質」に見られたように、感覚的なものと思想とが入り交じって捉えられていた。ところが、力とは、感覚的なものでは“ない” ものなのだ。もっとも最初のうちはどこかまだ感覚的に捉えられているが、それが
感覚を超えたもの(超感覚的なもの)であり純粋な思想であることが、悟性のつむ経験のなかで次第にはっきりしてくることになる。

 〔2 力とその発現〕 

  私たちはふつう、「力」というときに、それを何かエネルギーの塊のような実体としてイメージする。その実体としての力が外に現れ出て様々な結果を引き起こす、というふうに考えるのだ。そのとき私たちは、内側に存在していた「本来の力 die eigentliche Kraft 」と、外に現れ出た「力の発現 Ӓußerung 」とを区別した上で、前者こそが力の本質だとみなしていることになる。
 〈この「本来の力」と「その発現」とはどのような関係になっているのか。内的な力のほうが力の本質といいうるのか〉―悟性は力の本質を解明しようとして、この問題につきあたることになる。
  まず悟性が気づくのは、内的な力はそれ自体として独立している実体的なものではありえない、ということだ。力は、外に現れ出る(発現する)ことがなければ、力とはいえないだろう。力が力たりうるためには、発現することが必要なのだ。だとすれば、内的な力は独立した存在を持ちえない。
もちろん「力の発現」のほうも、独立した存在をもちえない。様々な諸現象は、それが「力の発現したもの」とみなされる以上、独立したものではありえないからだ。
  さらにいえば、「本来の力」と「力の発現」の区別も、決して実体的な区別ではない。内的な力は発現せざるを得ないのだから、すぐさま「力の発現」へと移行する。発現した力も同じで、すぐさま「内的な力」へと戻っている。
  ようするに、力とは、物のような固定的な実体ではなく、内→外→内という運動であり、「内的な力」と「発現した力」の両面を合わせ持つ全体なのである。

 (⇒)私たちはふつう、力を「対象」の側にあるものとみなしている。電気や物理的な力などは、思考とは関わりなく客観的に存在するものだと思っている。しかしヘーゲルがこの悟性の章を通じて最終的に言いたいのは、力の運動とはほんらい私たちの思考過程に他ならない、ということだ。私たちは、様々な諸現象、例えば「落雷」を見たとき、「電気という力」がそれを引き起こしている、と考える。そして、電気という力のほうから諸現象を説明しようとする。つまり、内→外→内、という力の運動の内実は、じつは私たちの思考のプロセスなのだが、そのことを私たちは見ないままに、「客観世界の本質は力にあり」と考えるのである。
  ヘーゲルはこの章で、人々が物の本質について考えつめていくと「力」という概念へとたどりつかざるを得ないという必然性と、そして力という概念がほんらい思考であり、私たちが世界を説明しようとして創り出す概念であることを示そうとしている。 〔編集部注:『
ヒッグス粒子の発見』参照〕


 〔3 現象と内なるもの〕

 次に、感覚的な世界を「現象 Erscheinung 」とみなし、その背後に「内なるもの Inneres 」(本質)を想定する意識が登場する。ここでは、意識は、感覚的なものからまったく解放された純粋な思想を対象とすることになる。
  力は「われわれ」からみると思想なのだが、意識はそれをまだどこか感覚的な実質を伴うものとイメージしてもいた。しかし、意識は「本来の力」と「力の発現」の2項目が独立した実体ではないことを知ると、なかば感覚的だったそれらの「現象」を超えて、その背後に存在するだろう「内なるもの」を求めることになるのである。
  内なるものとは、超感覚的な世界であり、彼岸である(⇒現実の感覚的世界の背後または上方に超感覚的な世界を考えるこのタイプの発想は、一般に「二世界論」と呼ばれる。イデア界を想定するプラトンもそうだし、天国を考えるキリスト教もそうだ)。しかし、この超感覚的な彼岸は最初はまったくの「空虚」である。なぜなら、それは現象(感覚的な世界)ではないもの、という規定しか持たないからだ。彼岸の内容を満たすものがあるとすれば、それを感覚的な世界から汲み上げるしかない。(⇒例えば天国や極楽も感覚的なイメージで彩られているだろう) 悟性は、彼岸のほうを「本質」と考えて感性的な世界をその「現象」とみなすが、「われわれ」からみると、むしろ現象のほうがもとになっている。われわれは感覚的な現象を説明するために本質(彼岸)をつくりあげるのである。

 つまり、本質/現象という区分は決して実体的なものではなく、本質が先にあるのでもない。内的な力/発現した力という区分が実体的なものではなく、思考のプロセスであったのとまったく同じことなのだ。私たちは感覚的な物事に出会い、それを可能にする超感覚的な本質を想定し、そこから物事をその本質の
「現象(あらわれ: Erscheinung)〔編集部注〕」として説明するのである。

 〔
編集部注: Erscheinung→erscheinen ; 姿を現す。(神・悪魔・亡霊など超自然的な存在が・・・の目に)見えてくる、体現する。〕


・・・以上、終わり・・・