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 『資本論』 第23章第4節
 
資本主義的蓄積の一般的法則 

 
   -社会的富の現象形態-

 4. 相対的過剰人口 〔
-産業予備軍-〕 の種々の存在形態
   資本主義的蓄積の一般的法則
(Verschiedne Existenzformen der relativen Übervölkerung. Das allgemeine Gesetz der kapitalistischen Akkumulation)



   〔
社会的富と労働者は相反関係 -資本主義的蓄積の絶対的一般的法則 〕

1.  社会的富 gesellschaftliche Reichtum、機能する資本 funktionierende Kapital、その増加の大きさと精力、したがってまたプロレタリアートの絶対的大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる
資本の膨脹力が発展させられるのと同じ原因によって、利用されうる労働力が発展させられる。したがって、産業予備軍の相対的大きさは、富の諸力とともに増大する。しかしまた、この予備軍が、現役労働者軍に比して大きくなればなるほど、その窮乏がその労働苦〔の減少〕に逆比例する固定的過剰人口が、ますます大量となる。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の被救護貧民もますます増大する。これが資本主義的蓄積の絶対的一般的法則 〔
kabsolute, allgemeine Gesetz der kapitalistischen Akkumulation 絶対的, 普遍的法則 〕である。それは、すべての他の法則と同じく、その実現に際しては種々の事情によって変化を加えられるのであるが、これらの事情の分析は、ここでなさるべきものではない。
  労働者に、彼らの数を資本の価値増殖欲望に適合させよ、と説教する経済学の知恵の浅はかさがわかる。資本主義的生産と蓄積の機構は、たえずこの数を、この価値増殖欲望に適合させるのである。この適合の最初の言葉は、相対的過剰人口、または産業予備軍の創出であり、最後の言葉は、現役労働者軍のたえず増大する層の貧困と被救護貧民の死重〔幾人もつぎつぎ死ぬこと〕とである。
  たえず増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の進歩によって、累進的に減少する人間力の支出をもって動かされるという法則、― この法則は、労働者が労働手段を使用するのではなく、労働手段が労働者を使用する資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が彼らの就業手段に加える圧迫は大きくなり、したがって、他人の富の増加または資本の自己増殖のために自分の力を売るという彼らの生存条件は、ますます不安定にある、ということにおいて表現される。したがって、生産的人口の増加よりも急速な生産手段と労働生産性との増大は、資本主義的には逆に、労働者人口は資本の価値増殖欲望よりもつねにより急速に増大する、ということに表現される。



   〔 
社会的生産力の向上は労働者の犠牲において 〕

2.  資本主義体制の内部では、労働の社会的生産力を高めるためのすべての方法が個々の労働者の犠牲において実行されること、生産の発展のためのすべての手段が生産者の支配搾取手段に変じ、労働者を部分人間に不具化し、彼を機械の付属物に引下げ、彼の労働の苦痛をもって労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにしたがって労働過程の精神的諸力を彼から疎外すること、これらの手段は彼がそのもとで労働する諸条件を歪め、労働過程中きわめて狭量陰険な専制に彼を服させ、彼の生活時間を労働時間に転化し、彼の妻子を資本のジャガノート車輪の下に投げこむこと、これらのことは、第4篇において相対的剰余価値の生産の分析に際して、われわれの見たところである。しかし、剰余価値の生産のためのすべての方法は、同時に蓄積の方法であり、また蓄積の拡大は、すべて逆に、かの方法の発展のための手段となる。それゆえ、資本が蓄積されるにしたがって、労働者の状態は、彼の受ける支払いがどうあるにせよ、高いにせよ低いにせよ、悪化せざるをえないということになる。

  〔 
敵対的性格 一極における富の蓄積対極における労働苦、奴隷状態

3.  最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をして、つねに蓄積の大きさおよび精力と均衡を保たせる法則は、ヘファイストスの楔(くさび)がプロメテウスを岩に釘づけにしたよりもさらに固く、労働者を資本に釘づけにする。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積をかならず生む。したがって、一極における富の蓄積は、同時に対極における、すなわちそれ自身の生産物を資本として生産する階級の側における貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積である。
資本主義的蓄積のこの敵対的性格は、経済学者たちによって、種々の形で表明されている。もっとも、彼らは、部分的に類似してはいるが本質的に異なる前資本主義的生産様式の諸現象を、これと混同してはいるが。



   〔
一つの自然法則  貧国とは、人民が安楽に暮らしている国であり、富国とは人民が一般に貧しい国

4.  18世紀の経済学的大著述家の一人、ヴェネツィアの僧オルテスは、資本主義的生産の敵対関係を、社会的富の一般的自然法則と解する。「経済的善と経済的悪とは、一国民の内ではつねに均衡を保ち、ある人々にとって財が豊富にあることは、つねに他の人々にとって財が不足していることに等しい。ある人々の大きな富は、つねにはるかに多数の他の人々の必要物の絶対的掠奪を伴う。一国の富は、その人口に対応し、その貧困は、その富に対応する。ある人々の勤勉は、他の人々の怠惰を強要する。貧者と怠惰者とは、富者と勤勉者との必然的果実である」云々。オルテスの約10年後に、高教会の新教牧師タウンゼンドは、全く粗野なやり方で、貧困を富の必然的条件として讃美した。「労働の法律的強制には、あまりに多くの骨折りと無理と物議とを伴うが、飢餓は、平和で無口で、絶えることのない圧力であるのみではなく、勤勉と労働とへのもっとも自然的な動機として、最大の努力を呼び起こす」。したがってすべては、労働者階級のあいだの飢餓を永続的なものにすることに懸っているのであり、そしてこのことは、タウンゼンドによれば、とくに貧民のあいだに働いている人口原理の取計らうところである。「貧民がある程度まで無分別であって」(すなわち、金の匙をくわえないでこの世に生まれてくるほど無分別であって)「そのために公共社会のもっとも下賤、不潔、劣等な役目を果たす人々がつねに絶えないということは、一つの自然法則であるように思われる。人類幸福の基は、これによって非常に増され、もっとひよわい人々は、労苦から免れて、より高尚な職務に支障なくたずさわることができる。……救貧法は、神と自然とがこの世に設けたこの制度の調和と美、均斉と秩序を破壊する傾向がある」。ヴェネツィアの僧は、貧困を永遠化する運命の定めの中に、キリスト教的慈善や独身や修道院や聖堂やの存在理由を見出したが、この定めにおいて、新教の牧師は反対に、僅かばかりの公けの補助を受ける権利を貧民に与えた法律を非難するための口実を見出すのである。
  ・・・中略・・・
 シスモンディは言う、「産業と科学との進歩によって、各労働者は、自分の消費に要するよりもはるかに多くを、日々生産しうる。しかし同時に、彼の労働が富を生産するのであるが、もし彼が自らそれを消費すべきものとされるならば、この富は、彼をあまり労働に適しないものにするであろう」。彼によれば、「芸術の完成も、産業がわれわれに与える享楽も、もし労働者のなすような不断の労働をもって購わねばならないものとすれば、人間」(すなわち非労働者)「は、おそらくこれをすべて断念するであろう。……(今日では努力は、その報酬から分離されている。同じ人間がまず労働して、それから休息するのではない。そうではなく、ある人が労働するがゆえにこそ、他の人は休まねばならない。・・・したがって、労働の生産諸力の無限の増大も、無為な富者の奢侈と享楽との増加以外には、何の結果ももちえない」。
---最後に、冷血なブルジョア理論家デステュット・ドゥ・トラシは、無情にもこう宣告する、「
貧国とは、人民が安楽に暮らしている国であり、富国とは人民が一般に貧しい国である」と。(岩波文庫(三)p.229~234)

・・・以上、以下省略・・・