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『資本論』とゲーテ形態学


ゲーテ形態学変態メタモルフォーゼ  ( Metamorphose:変態

 



     ・・・ゲーテ論文抄録・要約・・・ゲーテ全集14 潮出版社 



Ⅰ.  植物生理学の予備的研究
 

  
  生理学の概念

 
植物変態論、植物生理学の基礎。
 植物変態論は、植物がそれによって形成される諸法則をわれわれにしめすものである。
 植物変態論は、われわれの目を二重の法則に向けさせる。すなわち
 1. 内的自然の法則に。植物はこの法則によって構成される。
 2. 外的環境の法則に。植物はこの法則によって変容させられる。
  ・・・~ ・・・

   

 Ⅰ-1 形態学 (Morphologie) 一般についての考察



  形態学はそれ自身一つの学説とも考えられるし、生理学の補助学とみなすこともできる。形態学は全体として博物学を基礎とし、自分の目的に沿うよう博物学からさまざまの現象を取り出す。形態学は同様にあらゆる有機体の解剖学、とりわけ動物解剖学を基礎とする


 形態学はただ記述するだけで説明しようとするのではない。それゆえ他の生理学の補助学からはできるだけ何もうけ入れない。もっとも物理学者のいう力と場の関係、化学者の扱う物質と化合の関係を無視するわけではないけれども。形態学はこのように制限されているために本来まったく特殊の学説になるべきものであり、つねに生理学の侍女とみなされ、他の補助学と並ぶものと見られるのである。


 われわれは形態学によって新しい科学をうち立てようと考えているがそれは対象が新しいというのではない。なぜなら、対象は既知のものだからである。そうではなく、ものの見方と方法に関して新しいというのであり、このものの見方と方法は、この学説そのものに独自の形を与えるにちがいないし、他の諸科学にたいしてこの形態学が占めるべき位置を示すはずである。


 形態学は形態すなわち、有機体の形成と変形・メタモルフォーゼの学説を含むことが求められる。それゆえ形態学は自然科学の一つに数えられるものである。




   Ⅱ 形態学序説  研究の意図


 自然界のいろいろな対象のなかでも特に生物に眼をむけて、そのあり方と活動の関係をつきとめようとする場合、そうした知識を得るためには、対象を個々の部分に分析してみることこそ、もっともふさわしい方法だとわれわれは考えている。実際、分析の道を歩むことは、われわれの知識をひろげるうえで大いに役立ってもいる。自然を洞察し展開するうえで、化学や解剖学がわれわれに大きく貢献してきたことは、学問に関心をもたれる方々にはあらためて言葉を費やして想起していただくまでもない。



 しかし、このような分析的な研究をたえずつづけていると、多くの欠点も生じてくる。生命ある存在を分解してゆけば、たしかに諸要素に到達はできる。だが、この諸要素を集めてみたところで、もとの生命ある存在を再構成したり、生の息吹きを与えることはできないのである。このことは、有機体Organismus はもちろん、多くの無機物についてもあてはまる。


 だからこそ学者たちもまた、いつの時代にあってもおさえがたい衝動を感じてきたのである。それは、生命ある形成物そのものをあるがままに認識し、眼にみえ手で触れられるその外なる部分部分を不可分のまとまりとして把握し、この外なる諸部分を内なるものの暗示として受けとめ、こうしてその全体を幾分なりと直感においてわがものとしよう、という衝動である。このような学問的欲求が芸術的衝動や模倣衝動とひじょうに密接な関係にあることは、事細かに述べるまでもない。



 したがって、これまでにも芸術や学問や知の歴史において、ひとつの学説をうちたて、完成させようとする試みがいくたびとなく繰り返されてきたといえるのだが、われわれとしてはこのような学説を形態学 Morphologie と名づけたいと思う。こうした試みがいかにさまざまなかたちをとって現れているかという点については、歴史を論じる部分で言及することになるだろう。


 ドイツ人は、現実にさまざまな姿をとって現れてくる存在を集約して示すために、形態Gestaltという言葉を用いている。この表現を用いれば、生動し変化するものが捨象され、いいかえれば、相互に作用しあって全体を形成するそれぞれが固定され、他とのつながりを断って、一定の性格をしめすことになる。


 しかし、あらゆる形態、なかでも特に有機体の形態を観察してみると、そこには、変化しないもの、静止したままのもの、他とのつながりをもたないものは、ひとつも見出せず、むしろすべてが運動してやむことがないといわざるをえない。それゆえ、われわれのドイツ語が、生みだされたものや生みだされつつあるものに対して形成という言葉を用いているのも、十分に理由のあることなのである。


 したがって、形態学というものを紹介しようとするならば、形態について語ることは許されない。やむをえずこの言葉を用いる場合があっても、それは、理念とか概念を、あるいは経験において一瞬間だけ固定されたものをさすときに限ってのことである。


 ひとたび形成されたものも、たちどころに変形される。だから、多少とも自然の生きた直観に到達しようとすれば、われわれ自身が、この自然の示す実例そのままに形成を行えるような、動的でのびやかな状 態に身をおいていなければならない。


 すべての生物は、一なる存在ではなく、多からなる存在である。われわれの眼に個体とみえる生物でさえも、じつはやはり生命をもついくつかの単独体の集合体なのである。これらの単独体は、理念や原状態のうえでは同一であっても、現象として現れて際には種々さまざまで、それぞれが同一であったり類似しているときもあれば、同一でもなく類似さえしていないときもある。あるものはすでに初めから結合しており、また、あるものは相手を求めてこれから結合しようとしているし、結合したものは分裂し、そして再び相手を求めあうというように、単独体はありとあらゆるやり方でさまざまな方面にむかって無限の生活を営んでゆくのである。



 植物は―たとえば樹木は―われわれにはどうみても個体のようにみえる。けれども、植物がいくつもの個別部分から成立していて、その部分が互いに同一で、全体と類似している点については、まず疑う余地もない。取り木によって繁殖する植物のなんと多いことだろう。変種を繰り返してできた一本の果樹であっても、その芽が枝を伸ばせば、この枝は再び自分と同じたくさんの芽をふかせる。種子による生殖も、まったくそれと同じことだ。種子による生殖とは、親植物の母胎から無数の同一の個体が生長してくることにほかならないからである。

 ここですぐに気づかれるように、種子による生殖の秘密も、さきに述べた原理のなかですでに語られているわけである。しかし、さらに周到な注意を払ってよく考えていただくと、われわれの眼には個体的統一を保つようにみえる種子にしても。じつは同一もしくは類似したものの集合体であることがわかっていただけるだろう。

発芽の典型的な例としてよくあげられるのは豆である。そこで、発芽する以前の、まだ完全に包みこまれている状態の豆を例にとろう。この豆を二つに割ってみると、まず二枚の子葉がみえる。この子葉を胎盤に対比させる人もいるが、適切とはいえない。というのも、二枚の子葉は正真正銘の葉であって、ただ肥大し澱粉質でみたされているにすぎず、光と空気に触れればやはり緑色に変わるからである。

さらに子葉のほかにすでに幼芽も認めされる。これもまた二枚の葉にほかならず、子葉にくらべて、ずっと葉に近づいているばかりか、これからさらに発達しうる力ももっている。ここで、すべての葉柄は現実に芽をつけていなくとも可能性のうちに芽をひそませていることを考えてみれば、われわれには単一にみえる種子も、すでにいくるかの個別部分の集合体であることが分かるだろう。この個別部分のそれぞれは、理念において同一であり、現象においては類似するといえよう




  Ⅲ メタモルフォーゼ・変態



     『動物学』



    Ⅲ 原型の構成にさいして注意すべき有機体制の法則について


 有機体は自ら摂取した養分を消化して、さまざまな一定の器官をつくってゆくが、しかもこのさい余分なものは取り除き、養分の一部だけを摂取する。つまりこの一部だけを優先させ、特別扱いする。それによってある部分を他の部分ときわめて緊密に結びつけ、こうして四肢に形を付与しながら、有機体は自分の身体をつくりあげてゆくのであるが、この形は多種多様な生命を具現しているばかりではなく、破壊されたが最後、残りの部分からはけっして再生されえないようなものなのである。


 さてこれら不完全な有機体制をもっと完全な体制と比較してみると、なるほど前者もエレメントの影響をある一定の威力や独自性をもって消化してはいるものの、こうして生まれた有機的な諸部分を、もっと完全な動物的自然の場合のように、高次の決定性や確実性へ高めることができないでいることが分かる。
そこであまりにも不完全な生物の例はさておいて、植物を例にとってみれば、植物がある順序をとって自己完成してゆく場合、同一の器官がきわめて多様な形態をとることも納得されるのである。


  植物のメタモルフォーゼ・変態を司る法則を正確に知ることは、植物を単に記載するばかりではなく、植物の内的自然のなかにも踏み入ろうとする植物学にとって、必ずや助けになることであろう。
 ここでは次の点だけを注意しておきたい。われわれが眼で見、手で触れることのできる植物の有機的な部分――葉、花、花糸、茎、さまざまな包皮、そのほか植物において認められるもののすべては同一器官であって、これは植物の連続的生長Sukzessionを通してしだいに大きく変化し、やがてもとの姿が見分けられぬまでになるのである。


 同一の器官は複葉となって完成させられることもあれば、托葉となってきわめて単純化することもある。 同じ器官が別の環境下で稔性の芽に生長することもあれば、不稔性の枝に生長することもある。萼ガク(被子植物の花被の一番外側にあって花弁をかこむ部分)が急激に生長すると花冠(花を保護する花被の内輪で、種々の色を帯びて、花の最も美麗な部分。数片から成り、その各片が花弁である。)になるし、花冠が逆行的に変化すると萼に近づく。こうして植物の多種多様な形成が可能になるのであり、観察にさいしてつねにこれらの法則を忘れない人は、それによって研究を大いに容易たらしめ、多くの利益をかちうることであろう。

 昆虫の自然史においてはその変態メタモルフォーゼを十分に考慮にいれなければならないし、この概念がなければ、昆虫界における自然の経済性を見通すことはできない。このことは、植物界の場合よりも明らかだし、事実これまでも固くそう信じられてきた。昆虫の変化それ自体を観察し、これを植物の変化と比較することはとてもやりがいのある仕事であろうが、ここではわれわれの目的にそう範囲に話を限定しよう。


 植物が個として登場するのはほとんどほんの一瞬、それも種子として母体から解き放たれた瞬間にすぎない。発芽の過程においてはすでに複合体となっている。そこでは同一の部分からまた同一の部分が生まれているばかりではなく、これらの部分が連続的変化Sukzessionによって多種多様に形成され、多様な、しかし一見するとひとまとまりになった全体が最終的にわれわれの眼の前にあらわれてくるのである。


 しかしこの一見全体とみえるものが、まったくばらばらな独立した部分から成り立っていることは、外観によっても経験によっても分かる。というのも、植物を多くの部分に切断したり、ばらばらにひきちぎっても、またもや前と同じように一見全体とみえるものが地中から数多く芽生えてくるのだから。


  
昆虫の場合はこれとは違っている。母体から離れて独立した卵が、すでに個として自己宣言しているし、その卵のなかから生まれてはい出てくる幼虫も同じように独立した単体である。その諸部分は単にたがいに結びつけられ、ある順序どおりに規定され、配列されているばかりではなく、たがいに従属的な関係にある。

これらの部分はある意志によって導かれているとまではゆかなくとも、ある欲望によって鼓舞されている。ここには明白な上下関係と決定的な前後関係があり、全器官はある順序にもとづいて成育し、どの器官も他の器官の代用をつとめることができないのである。


 しかし青虫は不完全な生物である。青虫にはあらゆる機能のなかでももっとも不可欠はものというべき生殖を行うことができない。変身の過程を経て初めて青虫はこの能力をかちとるのである。
 
植物にはある状態から次の状態への連続的変化がみられるが、この各状態は同時に併存しうるものであることを忘れてはならない。

茎が根から伸びてゆく一方で、すでに花は開花し、生殖行為が進行してゆくが、しかし前からあった生殖の準備器官も元気活発なまま生き残っている。受精した胚珠(種子植物の雌性生殖器官)が成熟して種子となるとき初めて、植物はその全体が枯れてゆくのである。


 昆虫の場合はまったくちがっている。皮は脱ぎ捨てられたが最後、すべてそのまま置き去りにされ、そして青虫を包む最後の包皮〔さなぎ〕のなかから、完全に独立した成体がはい出してくる。前につづくすべての状態は、その前の状態とは一線を画していて、後退は不可能である。青虫は変身して蝶となる


 成長が進むにつれて、次から次へと皮はつき破られ、脱ぎ捨てられる。こうして青虫はその形態を少し も変えることなく、ますます大きく成長してゆき、そしてその成長がついにそれ以上は進めない頂点にまで達すると、この生物のなかでは奇妙な変化が起きる。この生物の体節の一つともいうべき繭マユのなかから脱け出そうとすると同時に、もっと高貴な器官へと変身することを妨げる余計なものを一掃して、身を清めるのがみてとれるのである。

 これまでみてきたように、植物の場合には積み重ね式に、昆虫の場合には後退式に行われる同一部分の
連続的sukzessiv変化の概念こそ、つねに植物・昆虫の考察の基盤をなしていなければならないのであるが、次に動物体の研究にさいしては、生殖のときからすでに決定されている同時的メタモルフォーゼの概念を獲得することによって、きわめて大きな収穫を得ることができよう。

 たとえば動物の椎骨のすべてが同一の器官であることは誰にでも認められる。第一頚骨を尾骨と直接に比較しても、形態上の類似性は少しもみいだされないであろうが。 さてこのように同一的ではあるが、しかしひじょうに異なった部分を眼の前にして、しかもその同族性を否定できないということになると、その有機的関係を考察したり、そのつながりを検討したり、その相互作用を探求することによって、非常に素晴らしい解明を期待しなければならなくなる。


 というのも、有機体全体の調和は、それが同一の部分から成り立っていると同時に、その同一の部分がごく微細な点にいたるまで多様に変形してゆくからこそ可能なのである。深奥では近似しているこれらの部分は、形態、使命、作用においてはきわめて遠く隔たり、対立しているとさえいえる。このように自然は同族関係にある器官を変容することによって、きわめて異なっていると同時にじつは近似した体系をつくり出し、たがいに結びつけることができるのである。


 しかし比較的完全な動物におけるメタモルフォーゼのあらわれ方には、二種類ある。第一は先ほど椎骨において見たように、同一の部分がある模式図にもとづき、形成力の助けを借りて、きわめて粘り強く多種多様な様態に変形され、原型全体を可能にする場合であり、第二は原型において名づけられた個々の部分がその性格をけっして変えぬまま、ありとあらゆる動物の種や属を通してたえまなく変形されてゆく場合である。


 第一の例としては前に同じ例を繰り返すことになるが、椎骨は頚骨から尾骨にいたるまですべて同じ固有の性格をもっているということをあげておきたいし、第二の例としては、たとえひじょうな差異が認められるとしても、誰でもすべての動物のなかに第一頚骨と第二頚骨の存在を認めることができるであろうという点を指摘しておきたい。注意深い勤勉な観察者なら、すべての形態について同じ結論を導き出せるであろう。


 だから繰り返すが、生殖によってすでに決定されている同時的メタモルフォーゼの限定性、確実性、普遍性こそ原型を可能にしているものであると同時に、この原型が変幻自在であるおかげで、自然は部分の主要な性格を損なうことなくたいへん自由に動くことができ、また比較的完全な動物で、われわれの知っている多くの種や属がひととおり導き出せるのである。

 ・・・以下、省略・・・