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  文献資料 2020.03.25


  
   カール・マルクス 
資本論 第1部草稿 森田成也訳

  
直接的生産過程の諸結果 光文社 2016年発行



 
  資本論ワールド 編集部 まえがき

 資本論第1部草稿 「直接的生産過程の諸結果」は、光文社・森田成也訳(2016)と大月書店・岡崎次郎訳(1970)のほか、岩波書店・向坂逸郎訳(『資本論綱要』に所収.1953)が入手可能ですが、今回は、光文社・森田成也訳を参照してゆきます。
  「直接的生産過程の諸結果」の特徴は、比較的短い文章で、仕上げられています。文献資料集の
社会の富」と古典派経済学 の続編としても、貴重な文献資料となっています。
 また、訳者の森田成也氏による訳語-「物」 「物象」 「人格化」-の解説も一部を除いて、要領よくまとまっていますので、『資本論』の第1章全体像を鳥瞰する格好のテキストとなっています。

  Ⅰ.  「直接的生産過程の諸結果」(1863~64年執筆) の第6章は、資本の生産物としての「商品」の文脈上の位置づけがスッキリと、簡単明瞭にーマルクスの文体からは珍しくー記述されています。
  ―ブルジョア的富の
要素形態elementarische Form des bürgerlichen Reichtums:*注1. 元素の形式〕 としての商品がわれわれの出発点であり、資本が発生するための前提であった。他方で、商品は今では資本の生産物として現われている。― (森田成也訳 光文社p.117)
   つまり、
1.  商品と貨幣資本の要素的前提〔elementarische Voraussetzungen des Kapitals:資本の元素的な前提〕であるとはいえ、両者はある一定の条件下ではじめて資本に発展する。 商品交換、商品取引は、資本の発生条件の一つである。

2.  生産物が必然的に商品という形態 〔形式〕 を取り、したがってそれを手に入れるには生産物を譲渡するという形態〔形式〕を必然的に取ることは、十分に発達した社会的分業〔-社会的生産の形式-〕を前提としている。

3.  商品生産が必然的に資本主義的生産になるのは、労働者が生産諸条件の一部であるような状態(奴隷制、農奴制)がなくなるか、あるいは自然発生的な共同体が土台でありつづけている状態(インド)がなくなるときであり、労働力そのものが総じて商品になる瞬間からである 〔『資本論』第6篇労働賃金第17章労働力の価値または価格の労働賃金への転化,参照〕 。

4.  商品はまた、それが生産物の一般的な・普遍的な要素形態であるかぎりでは、本質的に資本主義的生産過程の産物でありその結果として現われる。 それゆえ、資本主義的生産の発生とともに、使用価値もまたはじめて一般的・普遍的に交換価値によって媒介されるようになる。こうして、 商品は、富の一般的な要素形態〔 allgemeine elementarische Form des Reichtums : *注2.富の普遍的に元素的な形式〕 になる。

5.  資本主義的生産が、つまりは資本が発展すればするほど、商品に関して一般的に展開してきた諸法則―たとえば価値に関わるそれ―もまた、貨幣流通のさまざまな諸形態 〔諸形式〕 のうちに実現されていく*注3元素と周期律の関係参照〕 のである。


  
Ⅱ.  要素形態について  〔『資本論』第1章第1節成素形態 Elementarform〕
        (
*注1. 注2.要素形態 *注3. 諸形態のうちに実現)

  『資本論』冒頭の文章-「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態 〔Elementarform:元素形式〕 として現われる erscheint。」-は、「資本論第1部草稿」を継承し、「要素形態」は、「さまざまな諸形態のうちに実現されていく」展開となります。

 
① ブルジョア的富の要素形態 〔elementarische Form des bürgerlichen Reichtums:*注1. 元素の形式〕、
 ② 商品は、富の一般的な要素形態 〔*注2. allgemeine elementarische Form des Reichtums : 富の普遍的に元素的な形式〕
 ③ さまざまな諸形態のうちに実現されていく 〔「元素と周期律の関係」〕。 この展開過程が、『資本論』の論理学を形成してゆきます。具体例としては、
『資本論』第1節「社会の」を参照
 ④ 
『経済学批判』では、以下のように第1章を締めくくっています。
   ー 交換過程は同時に貨幣の形成過程であり、別々の過程の経過となって表われる交換過程の全体が、流通過程 -
 「 商品世界では分業の発達が前提となっている。あるいは分業の発達は、むしろ直接に使用価値の多様性に表われているといってよい。それらの使用価値は、特殊の商品としてals besondere Waren 相対し、その中に、同じように多様な労働様式がかくされている。特別な besondern 生産的活動様式の全体としての分業は、素材的側面から見た社会的労働の総体が、使用価値を生産する労働として考察されたものである。しかしながら、このような労働として、商品の立場から交換過程の内部で見るならば、分業は、ただこの労働の結果に、すなわち 商品そのものが特殊のもの Besonderung der Waren に分れるということに存するものである。」
 「 商品の交換は、社会的物質代謝〔 社会の新陳代謝 gesellschaftliche Stoffwechsel〕、すなわち、私的個人の特殊の besonderen 生産物の交換が、同時に一定の社会的生産諸関係の生産となる過程であって、諸個人はこの物質代謝においてこの生産諸関係を結んでいるのである。諸商品がおたがいに働きかけ合う関係は、一般的等価関係のさまざまな規定 〔als unterschiedene (Unterschied:区別)Bestimmungen(規定) des allgemeinen Äquivalents, 普遍的な等価の様々に区別された規定 〕 になって結晶し、したがって、交換過程は同時に貨幣の形成過程である。別々の過程の経過となって表われる交換過程の全体が、流通過程である。」 (『経済学批判』新潮社版p.79)


  
Ⅲ. 本書では訳者あとがきに、「訳語に関してⅠ― 「物」 「物象」 「人格化」の解説があります。
 『資本論』本文に準じた「解説本」としては、かなり良心的な出来具合となっています。翻訳にあたって、訳者の問題意識が克明に記述されていますが、当世の風潮からは異質の部類でしょう。以下、紹介を兼ねながら、資本論ワールドと関連性について探索してゆきます。

  
Ⅳ. 森田成也氏による 「訳者あとがき に添えて
  「訳者あとがき」の
 訳語に関して Ⅰ ― 「物 Ding」 「物象 Sache」 「人格 Person 化」 には 残念なことに「ヘーゲル論理学」との関連性について言及してはいません。『資本論』の研究では、マルクスによるヘーゲル論理学の批判的継承を避けて通るわけにはいきません。参考までに『ヘーゲル用語事典』から紹介します。
 ■
 物・Ding について
 「 知覚 <知覚(Wahrnehmung)>とは、この関係性(媒介性)を対象のうちにみている意識であり、その対象はたんなる「このもの」ではなく、ひとつのものでありながら白いとともに辛く、また立方体であり、これこれの重さをもつ、という多様性をもつ「この塩」のように、「
多くの性質をそなえた<物(Ding)>」である。こうした形式をもつこの物 Ding は、これを他の多くの物と区別する諸性質の集合として数多性であり、しかもひとつのものである。しかし、この矛盾を含む対象を、意識は矛盾を含まないものとして受け取ろうとする。・・・」


 ■ 事柄 (物象) ・Sache (物象:訳者あとがき参照) について
 「 
事柄 Sache と 事物 Ding
 論理学では、「事柄(事 Sache)」は《事物(物 Ding)》から区別される。 『大論理学』 では、事柄Sacheは本質論の最初の「根拠」の段階で扱われ、事物Dingはつぎの「現象」(現存在)の段なで扱われる。
 さて、なにか或るものは直接的に捉えられるのではなく、根拠をもったものと捉えられる(→内谷-形式)。なにかをそのものたらしめるような根拠があますところなく現われ出たものが「事柄(事柄そのもの)」である。日常語でも、「事柄が問題である」といわれるが、事柄は、なにかの確固とした実質内容を意味する。事柄は、一定の条件のもとで根拠から出現する。より根本的にいえば、事柄は、根拠や条件を自分の構造にとり込んだ全体的なものである。事柄はのちの段階では、「概念」が現われ出たものと捉え直される。事柄の具体的な姿が「現存在( Existenz )」であり、現存在する個々のものが「事物 Ding」である。
 事物 Dingはさまざまな「性質(Eigenschaften)」をもつ。事物の性質は事物に固有の(eigentlich)ものといわれるが、それはじつは他の事物との接触や相互作用によって生じる。たとえば、色は事物と光との相互作用から生じる。事物が他の事物から区別され、自立的であるのは、さまざまな性質を独自の仕方で結合することによってである。有論で、或るものと他のものとの関係、対自存在と対他存在との関係、或るものとその質の関係といわれたものが(→定有)、ここではより深く捉えられる。だが、本質論の段階では、事物はまだ他の事物との相関関係にあるものとみられ、概念論におけるように真に自立的なものとはみられない。
  『小論理学』では、事柄と事物とのカテゴリー的順序は逆転されるが、内容の理解の点で『大論理学』とのあいだに大差はない。『小論理学』では、事物Dingは本質論の第一段階の「根拠」で扱われ、事柄Sacheはその第三段階の「現実性 Wirklichkeit」で扱われる。事物は、根拠が現われ出て現存するものと捉えられる。
 これにたいして、事柄は可能性と現実性との関係の考察のさいに扱われる。事柄は、一定の条件のもとで可能的なものが現実的なものへ転化することによって生じる。事柄は条件を活動の素材として利用し、自分の内容へとり入れると同時に、活動の成果を新たな活動の条件に転化させる。だが、本質論の段階では事柄、活動、条件の結合はまだ外的・表面的にすぎず、これらが内的に結合されるのは「概念 Begriff 」の段階においてである。」


  ***  ***  ***

  カール・マルクス 資本論 第1部草稿  森田成也訳
    
第6章 直接的生産過程の諸結果

 この章では次の三つの点を考察しなければならない。
  (1)資本の生産物としての、資本主義的生産の産物としての商品。
  (2)資本主義的生産が剰余価値の生産であること。
  (3)最後に、資本主義的生産が、この直接的生産過程を独自に資本主義的なものとして特徴づける諸関係全体の生産と再生産であること。
これら三つの項目のうち、(1)は、印刷前の最終版では最初ではなく最後の位置に置かれるべきである。というのも、それは、第2部―資本の流通過程―への移行をなすものだからだ。だが、ここでは叙述の都合上、この項目から始めることにしよう。



  
(I) 資本の生産物としての商品

 
ブルジョア的富の要素形態としての商品がわれわれの出発点であり、資本が発生するための前提であった。他方で、商品は今では資本の生産物として現われている。
 われわれの叙述がとるこのような円環は、資本の歴史的発展とも合致する。というのも、商品交換、商品取引は、資本の発生条件の一つだからである。そして、この条件そのものは過去のさまざまな生産段階の上で形成され、そこでは、資本主義的生産がまだまったく存在していないか、所々にしか存在していないことが共通の特徴となっている。他方、商品交換が全面的に発達し、商品という形態がはじめて生産物の一般的で必然的な社会形態となるのは、それ白身、資本主義的生産様式の結果に他ならないのである。
 他方で、資本主義的生産が全面的に発達した社会を考察するなら、そこでは商品は、[一方では]資本の恒常的な要素的前提として現われ、他方では資本主義的生産過程の直接の結果としても現われるのである。

 商品と貨幣は資本の要素的前提であるとはいえ、両者はある一定の条件下ではじめて資本に発展する。資本形成が起こるのはただ、商品流通(貨幣流通を含む)にもとづく場合のみであり、したがって商業がすでに一定の規模にまで成長した段階においてである。だがその反対に、商品生産と商品流通はいささかも資本主義的生産様式をその定在の前提としていないのであって、むしろ、私がすでに示したように、「前ブルジョア的社会形態に属している」。両者は資本主義的生産様式の歴史的前提である。



  しかし他方では、商品がはじめて生産物の一般的形態になるのは、すなわち、あらゆる生産物が商品の形態を取らなければならず、売買が生産の余剰分のみならずその実体そのものをも捉えるようになり、さまざまな生産諸条件それ自体が総じて商品として登場し、そういうものとして流通から生産過程へと入っていくことになるのは、資本主義的生産の基礎上においてのみである。したがって、商品が一方では資本形成の前提として現われるとすれば、他方では、商品はまた、それが生産物の一般的な要素形態であるかぎりでは、本質的に資本主義的生産過程の産物でありその結果として現われるのである。それ以前の生産段階においては生産物は部分的にのみ商品の形態を取る。それに対して資本は生産物を必然的に商品として生産する。したがって、資本主義的生産が、つまりは資本が発展すればするほど、商品に関して一般的に展開してきた諸法則―たとえば価値に関わるそれ―もまた、貨幣流通のさまざまな諸形態のうちに実現されていくのである。



 (1)マルクス 『経済学批判』、ベルリン、1859年、74ページ[邦訳『マルクス・エングルス全集』第13巻、77頁」。
 (2)シスモンディ [『経済学研究』第2巻、ブリュッセル、1838年、161ページ」。

 ここで明らかになるのは、以前の生産時代に属する経済的諸範躊[商品や貨幣]でさえ、資本主義的生産様式の基礎上では、以前とは異なった独自の歴史的性格を帯びるようになることである。

 貨幣の資本への転化(貨幣それ自体も商品の転化形態でしかない)は、労働能力が労働者自身にとっての商品に転化してはじめて生じる。つまり、商品取引という範躊が、かつてはこの範躊から排除されていたか部分的にのみそれに含まれていたにすぎない領域を捉えるようになってはじめて生じる。労働する人々が客体的な労働諸条件の一つでなくなるか、あるいは、商品生産者として市場に登場しなくなり、自分の労働の生産物を売るのではなく労働そのものを、より正確には自己の労働能力を売るようになってはじめて、生産はその全範囲において、その深さと広がりの全体において、商品生産となる。その時はじめてすべての生産物は商品となり、あらゆる生産部門の対象的諸条件そのものも商品として市場に登場するようになる。資本主義的生産の基礎上でのみ、商品は実際に富の一般的な要素形態に
なるのである

 たとえば資本がまだ農業を征服していないならば、生産物の大部分は直接的にはまだ生活手段として生産されており、商品としては生産されていないだろう。労働人口の大部分はまだ賃労働者になっていないだろうし、労働諸条件の大部分はまだ資本に転化していないだろう。このことが意味しているのは、社会の内部で偶然的に現われる分業の発達と、作業場の内部での資本主義的分業とは相互に条件づけあい生み出しあっていることである。というのも、[二方では] 生産物が必然的に商品という形態を取り、したがってそれを手に入れるには生産物を譲渡するという形態を必然的に取ることは、十分に発達した社会的分業を前提としているからであり、他方では、資本主義的生産の基礎上でのみ、したがって作業場内での資本主義的分業にもとづく場合のみ、すべての生産物は必然的に商品という形態を取り、したがってすべての生産者は必然的に商品生産者となるからである。それゆえ、資本主義的生産の発生とともに、使用価値もまたはじめて一般的に交換価値によって媒介されるようになるのである。

 
ここでの三つのポイント
 (1) 資本主義的生産がはじめて商品をあらゆる生産物の一般的形態〔 allgemeinen Form : 普遍的形式〕にする。
 (2) 商品生産が必然的に資本主義的生産になるのは、労働者が生産諸条件の一部であるような状態(奴隷制、農奴制)がなくなるか、あるいは自然発生的な共同体が[生産の]土台でありつづけている状態(インド)がなくなるときであり、労働力(Arbeitskraft)そのものが総じて商品になる瞬間からである。
 (3)資本主義的生産は商品生産の土台を止揚する ( aufheben )。つまり、分散した独立生産と商品所持者間の交換を、つまりは等価物交換を止揚する。資本と労働力との交換は形式的な〔formell : うわべだけの〕 ものになる。

   [
農業の事例 : 訳者の注 ]
 こうした観点からするなら、生産諸条件そのものがどのような形で労働過程に入っていくのかは、まったくどうでもいいことである。たとえば、それが不変資本の一部である機械等々のように、その価値だけを生産物に少しずつ移転させるのか、それとも、原料の場合のように物質的に生産物の中に入っていくのか、あるいは、生産物の一部が、たとえば農業における種子のように、生産者白身によって労働手段として直接に再利用されるのか、それとも、生産物がまずは販売されてその後改めて労働手段に転化するのかといったことは、どうでもよいことである。生産されたすべての労働手段は、生産過程において使用価値としてどのように役立つのであれ、今では価値増殖過程における諸要素としても機能している。それらが現実の貨幣に転化されなくとも、計算貨幣に転化されるのであり、したがって交換価値として扱われ、それらが何らかの形で生産物につけ加える価値要素が正確に計算されるようになる。
 たとえば、農業が資本主義的に営まれる一産業部門になるにつれて―つまり資本主義的生産が農村でその地歩を固め広げるにつれて―、また農業が市場のために生産するようになり、直接的な自己消費のためではなく販売のための物品である商品を生産するようになるにつれて、それと同じ度合いで、農業はその投入物[の価値]を計算するようになり、その各項目(第三者から購人したものであれ、自己自身から、つまり自らの生産から直接調達したものであれ)を商品として扱うようになり、したがってまた、商品が自立した交換価値として扱われるかぎりでは、貨幣として扱うようになる。それゆえ、小麦、干し草、畜牛、さまざまな種子、等々が商品として売られるようになると―そして、それらは売られることなしにはもはや生産物とみなされることもない、―それらは商品として、あるいは貨幣として生産の中に入っていく。生産物が商品になるにつれて、したがって必然的に生産諸条件も生産物の諸要素も商品になるにつれて―というのも、かの生産[農業]にあっては両者は同一の物だから[生産物としての穀物は種子という生産条件でもある]――、価値増殖過程が考察されるかぎりでは、それらは交換価値の自立した形態として、すなわち一定の貨幣額として計算される。直接的生産過程は、ここでは常に労働過程および価値増殖過程と不可分であり、それはちょうど生産物が使用価値と交換価値との統一すなわち商品であるのと同じである。

 だが、このような形態的な面は脇に置こう。たとえば借地農業者(farmer)がその投入物を購入する事態が発展するにつれて、種子、肥料、繁殖用の牛、等々の取引も増大し、その一方で彼は自分の収穫物を販売するようになる。したがって、個々の借地農業者にとっては、これらの生産諸条件は実際に流通から引き出されて自分の生産過程へと入っていくようになり、流通は事実上彼の生産の前提となる。なぜなら、生産諸条件はますます実際に購入された(あるいは購入可能な)商品となるからである。いずれにせよ借地農業者にとって、生産諸条件はすでに物品として、労働手段として商品なのであって、それらは同時に彼の資本の価値の一部を構成している(したがって、それらが現物のままで生産に再利用される場合でも、彼はそれらを生産者としての自分に売られたものとして計算する)。そして実際、こうしたことは、農業で資本主義的生産様式が発展するにつれて、したがってまた農業がますます工場的に営まれるにつれて発展する。

   〔
生産物の大量性と多様性
 生産物の一般的で必然的な形態としての商品、つまり資本主義的生産様式の産物としての商品の独自の特徴は、資本主義的生産の発展とともに生じる大規模生産のうちに、そして生産物の一面性と大量性のうちに、手に取るようにはっきりと示される。このことは生産物に、社会的諸連関に厳格に結びつけられた社会的性格を押しつけるのだが、それに対して、生産者たちの諸欲求を満たすという使用価値としての生産物の直接的な連関の方は、まったく偶然的で、無関心で、非本質的なものとして現われる。この大量生産物は交換価値として実現されなければならず、商品の変態を通過しなければならない。それは、資本家として生産を行なっている生産者の生存にとって必要であるだけでなく、生産過程そのものの更新と連続性のためにも必要である。それゆえ、生産物は商人の手に引き渡される。その買い手はもはや直接の消費者ではなく、商人であり、商人は自分の独自の仕事として商品の変態を遂行する。生産物が最終的に商品としての性格を発展させ、それとともにその交換価値としての性格を発展させるのは、資本主義的生産につれて、さまざまな生産部門の多様性が絶え間なく増していき、したがって生産物の交換可能性の諸領域が絶え間なく増大していくからである。

 ・・・以下、省略・・・





   訳者あとがき 

  新訳の意義・・・(p.449-略-)
  
訳語に関して Ⅰ ― 「物」 「物象」 「人格化」  (p.456)
 次に訳語についてだが、基本的に訳語の選択はいずれも常識の範囲内で行なっており、とくに奇をてらったものはない。だが、最後の最後まで訳語の選択に迷ったものがある。それは、基本的に「物」を意味する「Ding」と「Sache」とを訳し分けるべきかどうか、同じく、その形容詞形で基本的に「物的」を意味する「dinglich」と「sachlich」、さらに同じ系列で基本的に「物化」を意味する「Verdinglichung」(「諸結果」では形容詞形で登場している)と「Versachlichung」とをそれそれ訳し分けるべきかどうか、であった。

  一般に「Ding」系列の諸単語が使用価値的な意味での単なる「物」に関わる概念を意味するのに対して、「Sache」系列の諸単語は、貨幣や資本のような、社会関係性を帯びた独特の「社会的な物」に関わる概念を意味するとされている。それゆえ、最近では、「Sache」「sachlich」「Versachlichung」はそれぞれ「物象」「物象的な」「物象化」と訳され、それに対して「Ding」「dinglich」「Verdinglichung」はそれぞれ「物」「物的な」「物化」と訳すというように、厳密な訳し分けがなされるようになっている。

  また論者によっては、「Versachlichung」と「Verdinglichung」にそれぞれ異なった意味内容を対応させるという解釈もなされている。このような区別論はそれなりに魅力的なのだが、しかし、実際にそれらの単語が使われている文脈を見ると、マルクス自身が必ずしも両系列の諸単語を厳密に使い分けてはおらず、単なる使用価値的な意味での「物」や「物的」を指す場合も、しばしば「Sache」系列の諸単語を用いていることがわかる。

  マルクスはおそらく、「Ding」系列の諸単語と「Sache」系列の諸単語とを厳密に区別していたわけではなく(もしそうなら、マルクス自身がどこかでそう説明しているはずである)、部分的に重なった意味の範囲を持った言葉として、それぞれの文脈において半ば無意識的にどちらかを選択していたにすぎないと思われる。
  よく考えれば、自然に生まれた近接語というのは、どの言語にあってもそういうものであろう。たとえば、「同意」と「合意」という近接語を、われわれは半ば無意識に文脈に応じてある程度使いわけている。「合意」の方が相手の自発性をより尊重しているようなニュアンスを帯びているのに対して、「同意」はもっと形式的で、相手に押しつける場合にも用いることができる。しかしだからといって、「同意」と「合意」とを常に意識的に使い分けているのかと問われれば、そんなことはないと答えるだろう。また文脈によっては「同意」と表現しても「合意」と表現しても、ほとんど意味が変わらない場合もいくらでもあるだろう。

 「Ding」系列の諸単語と「Sache」系列の諸単語の場合も同じである。両者には明らかにニュアンスの相違がある。たとえば「Sache」は「事柄」や「問題」という意味でも用いられ、「Ding」よりも社会性を帯びて聞こえるが、「Ding」はころっとした「物」というニュアンスが強い。実際、「資本はけっして物ではない」という文脈の場合には必ず「Ding」の方が使われる。そしてこのニュアンスの相違は当然その意味内容にも一定の影響を及ぼす。しかし、他方では、両者には意味の重なりあう部分もあるのであり、置さかえ可能な文脈も多い。それゆえ、これらの単語に異なった訳語を機械的に割り当てるわけにはいかないのである。

  そこで私は当初、「Sache」と「Ding」はどちらも「物」と訳しつつ(「Sache」が「事柄」や「問題」という意味で登場している場合を除いて)、形容詞形の「sachlich」に関しては、文脈に応じて、明らかに単なる「物」を越えた意味を帯びて使われていると思われる場合には、「物象的」と訳し、そうでない場合は「物的」と訳すことにした。しかし、訳を見なおすたびごとに、今度は、たくさん登場する「Sachlich」のどれを「物象的」と訳し、どれを「物的」と訳すかで、大いに迷いが生じた。また、「物象的」と訳したとしても、では突然登場する「物象的」の意味をマルクスがどこかで説明しているかというと、そういうわけでもない。訳者が注をつけて説明してもいいのだが、その注釈がマルクスの意図と一致しているかどうか実に心もとない。というのも、「物象的」という日本語はあくまでも、日本独自の造語であって、別にマルクス自身が「物象的」と文字どおり表現したわけではないからだ。マルクスは単に「Sachlich」と書いたすぎない(逆に言えば、各々の論者が、「物象」「物象化」という言葉を自分なりに定義して使う分には何の問題もない、問題になるのは、それらがマルクス自身の何らかの特定のドイツ語の訳語だと称する場合である)。

  というわけで、迷いに迷った末、両系列の諸単語をすべて区別せず、「物」「物的」「物化」と訳すことにし、その代わりそれぞれの原語が何であるのかを読者にわかるよう、( )して原語を入れることにした。読者自身の判断で、ここは「物象」「物象的」「物象化」等々と訳すべきだとか、ここは「物」「物的」「物化」のままでよい、等々と判断できるようにしたわけである。
  同じく、「人格化」に関しても、マルクスは二種類の単語を用いている。「Personnificirung」と「Personnification」である(現代のドイツ語では前者は「Personifizierung」で後者は「Personifikation」)。激しい論争が行なわれている「Versachlichung」と「Verdinglichung」との区別論と違って、この二種類の「人格化」については、何らかの概念上の区別があるとする論者はほとんどいない。私の知るかぎりでは、ミヒャエル・ハインリッヒの『「資本論」の新しい読み方』(堀之内出版、2014年)があるが、230頁の注で一言触れているだけである。しかし、少なくともこの第1部草稿でのマルクスの使用法を見るかぎりでは、両者に何らかの概念上の区別があるとはとうてい思えない。その区別は基本的に技術的なものであって、形容詞か副詞的用法で登場するときはすべて「Personnificirung」の形容詞形が用いられ(8箇所)、名詞形で登場するときはほとんどが「Personnification」が用いられており(8箇所)、名詞形の「Personnificirung」はごくわずかである(2箇所)。だが、こちらの方も念のため、いくつか代表的な箇所にかぎって、( )して原語を示しておいた。ちなみに新メガの「事項索引」では、「Personifikation」だけが取り上げられていて、「Personifizierung」は無視されているが、挙げられている頁は両者の登場箇所である(だがその登場箇所のすべてが網羅されているわけではない。新メガの事項索引の捕捉率はあまり高くない)。
・・・・以下、省略・・・