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 文献資料: デカルトとマルクス

 2019 資本論入門 11月号-1 
 
デカルト系列の探求 Element-Elementarform (1)  

 
   Ⅰ. デカルトとマルクス

    Ⅱ. 文献資料 
  (1) 
『資本論』のGallert・膠状物(凝結物)とゲル化 (2016.4月号)
  (2) 
<コラム2> Gallert・ 膠状物と 萌芽 Keim (2016.12.06)
     -人間労働のゲル化・Gallert と 胚細胞・Keim-


  資本論ワールド編集部 はじめに

 デカルトは、「従って何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのこと」を指針として、デカルト科学の体系を形成しました。マルクスは、『経済学批判』と『資本論』の“価値方程式”において、デカルトの「比例と方程式」を継承していますが、 “ 価値 ” は、つねに「商品の物神性」として現象するー「感覚的にして超感覚的な物に転化する」-ために事柄が複雑になります。
 “ 価値概念 ”の探索にあたり、デカルトとマルクスの関連を手引きにしてゆきます。第一にデカルトの「事物の系列」を参照します。第二に「事物の比例と関係」ーいかなる構造を内に蔵しているか-において、古代ギリシア以来の伝統的思考である比例性に焦点をあて、第三に、商品の物神性として現象する“価値方程式”を解読してゆきます。


  デカルトとマルクス 目次
 
Ⅰ. デカルト「事物の系列」
 Ⅱ. 事物の比例と関係
 Ⅲ. 商品の物神性と“価値方程式”


 ・・・~  ・・・~   
  ・・・~「何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣用されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis。編集部参照)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。」 (「規則」第4 p.30) ・・・~



 Ⅰ. デカルトー事物の系列について 

       精神指導の規則  「規則第6」 (野田又男訳 岩波書店)


  〔事物の系列ー比例論の構成―比例論の基底にある単純な本質―Element〕

1.
 「最も単純な事物を複雑な事物から区別しかつ順序正しく探求するためには、若干の真理を他の真理から直接的に演繹して成り立ったところの、事物の系列の一つ一つについて、何が最も単純であるか、どんなふうに他のすべてのものがこの単純者から、或いはより多く、或いはより少なく、或いは等しく、隔たっているかを、観察すべきである。

2.  「第二に注意すべきは、純粋な単純な本質-Element-それは何にも先立ってかつそれ自身によって、他のいかなるものにも依存せずに、或いは経験そのものにおいて或いはわが内に宿れる或る光明によって、直観せられうる―の数は、厳密にいえば、ごく少ない、ということである。しかして上述のごとくわれわれはこれらを細心に観察せねばならない。というのは、それこそ、われわれが各々の系列において最も単純なものと呼ぶところなのであるから。」

3. 「そうして始めて、それらの複合物が、第一の最も単純な命題から、或いはより多い段階によって隔てられているか或いはより少ない段階によってか、をわれわれは知るのである。そしてどの場合でも推論の連鎖なるものは、かかるものであって、この連鎖からして、探究すべき事物の系列が生れるのであり、またかような系列にこそ、すべての問題を―確実な方法によりそれを吟味しえんがためには―還元すべきなのである。」

4. 「すなわち、事物の比例すなわち関係について提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか、またいかなる順序に従ってこれらの問題は探究さるべきであるか、を。そしてただこれだけのことの中に、純粋数学の核心全体が含まれているのである。」
  
   
編集部参照→普遍数学

5. 「従って、同様にしてすべての場合に、どれか二つの量の間の比が見出されたならば、互いに同じ比を有する他の無数の組を示すことができるのである。」



 Ⅱ. 事物の比例と関係・・・・方程式を見いだす・・・

    デカルト著 『幾何学』 (デカルト著作集.1 白水社)

  
第1巻 「問題を解くに役立つ方程式にどのように到達すべきか」
                   
1. 注意深く反省すれば、事物の間の比例(proportiones)すなわち関係(habitudines)について提起されうるあらゆる問題がいかなる理由で内臓されているか、またこれらの問題がどんな順序で研究されねばならないかを私は理解する。純粋数学という学問全体の要諦はただこの点にのみ含まれている。

2. そこで、何らかの問題を解こうとする場合、まず、それがすでに解かれたものと見なし、未知の線もそれ以外の線も含めて、問題を作図するのに必要と思われるすべての線に名を与えるべきである。次に、これら既知の線と未知の線の間に何の区別も設けずに、それらがどのように相互に依存しているかを最も自然に示すような順序に従って難点を調べ上げて、ある同一の量を2つの仕方で表す手段を見いだすようにすべきである。この最後のものは方程式と呼ばれる。 なぜならば、これら2つの仕方の一方の諸項は他方の諸項に等しいからである。そして、仮定した未知の線と同じだけ、このような方程式を見いだすべきである。



 Ⅲ. デカルトとマルクス-商品の物神性と“価値方程式” 

1. 方程式の系列 ー 価値方程式の形成 (比例と方程式)

 「価値方程式の形成過程」について、マルクスは、1859年の『経済学批判』において詳細に分析を行っています。 『資本論』(1867年)の「価値」を総体として理解するために、『経済学批判』が欠かすことのできない文献となっています。これにより、「デカルト比例と方程式」がマルクスによって継承発展された“普遍数学(普遍学)”の西洋伝統を探索できます。

2. 
マルクス 『経済学批判』- 価値方程式の形成過程と商品・貨幣の物神性


 -『経済学批判』 第1章 商品  (<>内の数字は段落を示す)

<1> 
使用価値と交換価値 

 市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在elementarisches Daseinであることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる。

<3> 
使用価値の形態規定

 「経済上の形態規定に対して、その範囲にはいるのは、ただ使用価値自身が形態規定 〔形式規定:Formbestimmung〕を持っている場合のみである。直接的には、使用価値は、特定の経済関係、すなわち交換価値が表われる素材的な基礎である。」

<4> 交換価値は、まず第一に、使用価値が相互に交換される量的な比率(quantitatives Verhältnis)であることを示している(erscheint)。この比率においては、これらの使用価値は、同じ交換の大いさである。

<5> 交換価値に表わされている労働の性格
 「使用価値は、直接には生活手段である。しかし、逆に、これらの生活手段そのものは、社会的生活の生産物、すなわち、支出された人間の生命力の成果であり、対象化された労働である。
社会的労働の物質化として、すべての商品は同じ等一物(Einheit:均一性)の結晶である。この等一物、すなわち、交換価値に表わされている労働の一定の性格、これをいま考察しようというのである。」

<7> 労働時間は労働の量として生きた正体(Dasein:定有、存在)
 「1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、同じ大いさの交換価値または等価であるとすれば、1オンスの金、2分の1トンの鉄、3ブシェルの小麦及び5エルレの絹は、全くちがった大いさの交換価値である。そしてこの量的な相違(Unterschied)ということは、これらのものがそもそも交換価値として示すことのできる唯一の相違である。これらのものは、ちがった大いさの交換価値としては、交換価値の実体をなしているかの単純な、一様の、抽象的で一般的な労働の大小、すなわち、その量が大きいか小さいかを示している。
 これらの定量をどうして測るかが問題となる。あるいはむしろかの労働そのものの量的な正体(Dasien)はどういうものであるかが問題となる。というのは、商品の交換価値としての大いさの相違は、ただこれらの商品に対象化されている労働の大いさの相違にすぎないからである。運動の量的な正体が時間であるように、労働の量的な正体は労働時間である。
 
労働そのものの継続のちがい(相違・差別:Verschiedenheit)が、労働の質を与えられたものと前提すれば、可能な唯一の相違(区別:Unterschied)である 〔ヘーゲル『小論理学』第116、117節参照〕 。労働は、労働時間としては、自然的な時間標準である。時、日、週等々というように分けて、その尺度標準をつくっている。労働時間は、労働の生きた正体であって、その形態、その内容、その個性には無関係である。それは、同時に内在的な基準をもった、労働の量としての生きた正体である。同時にその商品の使用価値に対象化されている労働時間は、これらの使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。同一労働時間が対象化されているちがった使用価値の相関的な量が等価 Äquivalenteである。
 あるいはすべての使用価値は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて等価 ( alle Gebrauchswerte sind Äquivalente in den Proportionen )である。交換価値としては、すべての商品は、
膠結した労働時間凝結せる festgeronnener →gerinnen ゲル化する・膠状化する・Gallertの関連語〕の一定の量であるにすぎない。」

<11> 一切の労働が同一種の労働
「交換価値の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件(Bedingung)は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である。しかし、社会的といっても一般的にただ社会的であるというのではなく、特殊な様式をもつ社会的という意味である。それは、社会性の特殊な種である。・・・・
 各個人の労働は、それが交換価値に表われる限りにおいて、等一性(Gleichhei:相等性)というこの社会的性格をもつのである。そしてこの労働は、それがすべての他の個人の労働に対して等一なるものとして相関係するかぎりでのみ、交換価値に表われるのである。

<12> 
個人の労働時間が一般的労働時間 allgemeine Arbeitszeit となる
 
・・・この第12節はヘーゲル『小論理学』第163節普遍・特殊・個別参照・・・

 さらに、交換価値においては、個々の個人の労働時間が、直接に
一般的労働時間として現われる。そして個別的な労働のこの一般的性格 (allgemeine Charakter)が、その労働の社会的性格 (gesellschaftlicher Charakter) として現われる。その労働の社会的性格(gesellschaftlicher Charakter)として現われる。交換価値に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別(Unterschied)されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる個々の個人の労働時間である。・・・・ すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいてのみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価 ( allgemeinen Äquivalent ) に、 すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。すなわち、彼等の労働がそれぞれのための社会的な固有性 gesellschaftliche Dasein をもつことになる。」

<13> 交換価値を生む労働の物神性

 「最後に、人間の社会的関係( gesellschaftliche Beziehung der Personen ) が、いわば逆さに、すなわち、物の社会的関係( gesellschaftliches Verhältnis der Sachen )として、表われるというのが交換価値を生む労働の特徴となるのである。一の使用価値が他のそれに対して交換価値として関係するかぎりにおいてのみ、それぞれちがった人間の労働がたがいに、等一な一般的な労働としてあい関係する。したがって、もし交換価値は人間の間の関係である、ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係であるということが付け加えられなければならない。1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。
 かくて、
交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性(gesellschaftliche Naturbestimmtheit der Gebrauchswerte)として、すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。そしてこの性質規定のために、これらの使用価値は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、化学的等価 ( chemische Äquivalent ) をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価 ( Äquivalent )をなしている
 社会的生産関係が対象の形態をとり、その結果人間の関係がその労働において、むしろ物相互の間及び物と人間との間にとる関係として表わされるということは、日常の生活習慣にすぎないものであって、それは少しもめずらしくない自明のこととして表われる。商品ではこの神秘化(Mystifikation)はまだ極めて単純である。ここでは商品の交換価値としての関係は、むしろ人間の相互的な生産活動に対する関係であるということが、多かれ少なかれ、まだすべての人々の目に浮ぶ。」

<14> 交換価値-人間の社会的関係であり、物(Sache)の社会的関係として、物的な外被におおわれた関係

 最後に、人間の社会的関係(die gesellschaftliche Beziehung der Personen)が、いわば逆さに、すなわち、物(Sache)の社会的関係として、表われるというのが
交換価値を生む労働の特徴となるのである。交換価値は人間の間の関係である、ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係である。
 同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。かくて、
交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性― ( gesellschaftliche Naturbestimmtheit) として、 すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。


  
商品の使用価値は比例関係・Verhältnisに置かれる 
     ・・・比例関係のもとで、社会性が生成する
 

 - この個々の商品の交換価値を十分に表現するには、他のすべての商品の使用価値がその等価をなしている
無限に多数の方程式をもってくる外ない ー

<20>  商品の交換価値は、それ自身の使用価値のうちに表われるものではない。だが、一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の使用価値と比例関係におかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されている。実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価である。例えば、1エルレの亜麻布は2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の交換価値は、コーヒーという使用価値で、しかもこの使用価値の特定の量で表現されている。この割合が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーでいい表わすことができる。一商品、例えば亜麻布の交換価値は、他の特別な一商品、例えば、コーヒーがその等価をなしている比例関係でつきているものでないことは明らかである。

 
一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の使用価値の無限に多様な分量に実現されている。あらゆる他の商品の使用価値が等量の労働時間を表わしている割合にしたがって、それらの商品の使用価値は、1エルレの亜麻布の等価をなしている。したがって、この個々の商品の交換価値を十分に表現するには、他のすべての商品の使用価値がその等価をなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない

 これらの方程式の総計、または一商品が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係の総体においてのみ、この商品は一般的等価として、あますところなく表現される。

<21>  例えば
方程式の系列
  1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
  1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
  1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン
  1エルレ 亜麻布 = 6エルレ キャラコ
 は、次のように表わされうる、
 1エルレ 亜麻布 = 1/8ポンド 茶 + 1/2ポンド コーヒー + 2ポンド パン + 1・1/2エルレ キャラコ

〔*注 :1エルレ 亜麻布=1/8ポンド 茶 +・・・
この右辺の項(茶からキャラコまで)を、1つ にまとめた式にまとめることで、連記された「4つの 例えば 方程式の系列 」が連立方程式であることを意味表示している


    
商品の物神性と貨幣形成
<34> 
一般的労働時間の成立と一般的等価形態

 「交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別の使用価値に
一般的労働時間を 体現 (Dasein ダーザイン) している商品に、関係するのである。したがって、すべての商品は、それぞれ特別の商品として、一般的商品としてのある特別の商品に相対立する。
 このようにして商品所有者たちがおたがいにその一般的社会的労働としての労働に関係するということは、次のような形で示されている、すなわち、彼等がその交換価値としての商品に対してあい関係しあっている 〔
デカルトの系列 〕 ということ、また交換過程における交換価値としての諸商品の相互関係が、それらの商品の交換価値の適合した表現としてのある特別な商品に対するその全面的な関係として現われているということ 〔デカルトの“いかなる構造を内に蔵しているか”〕 、このことは、逆にまた、この特別の商品の他のすべての商品に対する特殊な関係として、したがってまた、一定のいわばある物の自然発生的に社会的な性格として現われる、ということである。」

 このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、これが
貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するおたがいの交換価値の結晶である。したがって、一方で諸商品は、交換過程の内部ですべての形態規定性をはぎとり、その直接的な素材態容であい関係し合うことによって、おたがいのための使用価値となるとすれば、相互に交換価値として現われるためには、新しい形態規定性 〔 neue Formbestimmtheit :新しい明確な規定の形式
をとり、貨幣形成にすすまなければならない。貨幣は象徴ではない。

それは使用価値が商品として存在しても、象徴でないのと同じである。個人たちの外に存する対象として社会的生産関係が、すなわち個人たちの社会的生活の生産過程で結ばれる一定の諸関係が、一つの物の特殊な属性 spezifische Eigenschaften eines Dings として表わされるということ、この錯倒と想像的でない、散文的に
現実的な神秘化とが、交換価値を生む労働のすべての社会形態を特徴づけている。貨幣においては、この神秘化は、商品におけるよりはるかに驚嘆に値するものとなっているだけのことである。」

 ・・・以上で、デカルトとマルクス、終わり・・・
  
(
関連詳細資料は、こちら→『経済学批判』における― 商品の物神的性格について (2)

   ・・・~   ・・・~  ・・・~

 
以下は、既述の参考資料です。
 文献資料:デカルト 『精神指導の規則』 より 

  
資本論ワールド編集部 はじめに
1. デカルトの知名度は大変大きいのですが、最近では話題の上ることはほとんどありません。そのため、古代ギリシャから近代にいたる科学ー数学思想が「デカルト革命」を画期として、新しい時代が開拓された“歴史”は、専門的な数学史研究者の間でしか流通していません。


2. 『資本論』の “価値方程式” は、ヘーゲル論理学「比例論」が土台となっています。そのヘーゲルは、デカルトの機械論自然学を敬遠 ー毛嫌いかも?- していますので、ヘーゲル学者の間でも「デカルト革命」を題材とした研究書は見当たりません。その影響もあって、 “価値方程式” がデカルト「普遍数学」の一翼を担っている科学思想の展開過程は、不明のまま残されています。
 
デカルトの「比例と方程式」は、『資本論』科学思想の源流を明らかにする課題に応えたものです。
 『精神指導の規則』は、「デカルト革命」誕生の扉を開く歴史上の一大イベントでした。


3. デカルト翻訳者の野田又男(1910-2004)は、「発見の方法」で、次のように解説しています。
 「そこで代数が分析であるということの意味は、・・・すなわち第一に、未知量を導入し、解答が与えられたものと仮定して出発するという手続き、
簡単にいえば方程式をたてることそのことが分析なのである。・・・代数学に、分析の課題を与えるものは「自然」である。・・・幾何学に代数を応用することがただちに自然研究を分析的に行なうことを意味した。それゆえ「代数」を「分析」と名づける理由は、たんに数学の領域のみにあったのでなくてむしろそれが自然研究にはたらく数量的分析なる点に存する。つまり「代数」は自然研究の「方法」である。」


4.  普遍数学 ・・・規則第4・・・
 「
何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣用されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。」 (p.30)


5.  
比例すなわち関係 ・・・規則第6・・・
 「事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか、またいかなる順序に従ってこれらの問題は探究さるべきであるか、を。そしてただこれだけのことの中に、純粋数学の核心全体が含まれているのである。」(p.40)

6.  
比例をも単純化して、未知のものが或る既知のものに等しいことを見出そう ・・・規則第14・・・

  「延長をもつ対象について論ずる。・・・われわれは、すべての問題をおしつめて行って、求めるところがもはや、或る延長をば他の既知の延長をば他の延長との比較によって認識することよりほかにない、という点にまで至ったものと想定する。実際、ここでわれわれは何らあらたな存在の認識を期待してはおらず、ただいかに複雑な比例をも単純化して、未知のものが或る既知のものに等しいことを見出そうと欲するもにであるから、他の主体の中に存在する比例のすべての差異が、二つまたはそれ以上の延長の間にもまた、見出されうること、確実である。従ってわれわれの目的のためには、延長そのものにおいて、比例の差異の解明を助けるすべての事柄を、考察すれば足りる。そしてそれはただ3つのものとして示される。すなわち、次元(dimensio)、単位(unitas)、及び図形(figura)。 」(p.113)
      ・・・~  ・・・~  ・・・~  ・・・~  ・・・~  ・・・~

  『精神指導の規則』  野田又男訳 岩波書店 1974年改訳発行
Ⅰ. 
『精神指導の規則』 「規則第4」 p.29

1.  こうした考えが私を導いて、数論や幾何学の特殊な研究から、数学の一般的な研究へと戻らせた。
そこで私はまず第一に、数学という名にすべての人は正確には何を意味せしめているか、またなにゆえに、上述の二つの学問のみならず星学・音楽・光学・力学その他多くの学問が、数学(Mathematica)の部分であるといわれるか、を探ねた。実際、この点についてはこの語の起原を考察するだけでは充分でないのである。というのは数学(Mathesis)なる語はただ学問(disciplina)というだけの意味である以上、他の学問も幾何学自身と同じく数学(Mathematica)と呼ばれる権利をもつからである。

2.  しかし一方われわれの見るところ、ほんの少しでも学問をしたことのある人ならほとんど誰でも、示される事物のどれが数学に属しどれが他の学問に属するかをたやすく区別するのである。そしてこの点をさらに注意深く考察するなら人はついに次のことに気づくであろう、すなわち、順序(ordo)或いは計量的関係(mensura)の研究せられるすべての事物しかもただそれのみが、数学に関係し、かつそういう計量的関係が、数において或いは図形において或いは星において或いは音においてまたその他のいかなる対象において、求ぬられるかは、問題でない、ということ。

 
従って何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣川されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。(p.30)

・・・・・・以下、省略・・→本文『精神指導の規則』 「規則第4」はこちら