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J.M.ロバーツ 世界の歴史
 2 創元社
古代ギリシャとアジアの文明

 これから、古代ギリシャの文明についてJ.M.ロバーツにしたがって学んでゆきます。
ロバーツによる古代ギリシャ史の長い抄録集です。
 3月特集号では、この「抄録集」を参照するように注意書きを行っています。
読者は、随時この「抄録集」を参照していただき、
特集号本文「ソフィストとプラトンの対話編」の理解に役立たせていただけば、幸いです。

古代ギリシャ文明の理解は、『資本論』の読解に欠かすことができません。
特に、第1章第1節の初めの(注2:ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することに
かんする論集、ロック氏の「考察」に答えて』ロンドン、1696年)に引用されている
「ロック・バーボン論争」は、マルクスが『資本論』第1篇全体の「問答法叙述スタイル」の
採用にあたって、冒頭論点の開示を行っているのです。

第1節から始まる「
問答法叙述スタイル」は、古代ギリシャ時代に創始された「プラトン対話編」やアリストテレスの「誤謬論」(『ソフィスト的論駁について』)に直接につながるスタイルとなっています。なぜ、このような西洋の伝統的手法をマルクスが採用しているか?
じっくりと、古代ギリシャ史を研究してゆきましょう。

                「問答法叙述スタイル」と古代ギリシャ史関連は、
                「
ソフィストの哲学」を参照してください。 ここをクリック


★ 目 次 (下線をクリック)

1. 第1章 はじめに        

2. 第2章 古代ギリシャ人    

3. 第3章 社会と政治      

4. 第4章 都市国家と民主政  

5. 第5章 ペルシャ戦争     

6. 第6章 繁栄と衰退      

7. 第7章 ぺロポネス戦争   

8. 第8章 紀元前5世紀のギリシャ文明    

9. 第9章 アテナイの民主政デモクラツィア  

 

  古代ギリシャ文明 抄録集 (章立ては、HP編集部による)


第1章 はじめに


1. 歴史の世界では、古代ギリシャ文明が最盛期をむかえた紀元前5世紀から紀元前4世紀末近くまでを「古典期」とよびます。・・・きわめて大胆にいってしまえば、この紀元前5世紀ごろを境にして、人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりをつげたといってよいでしょう。そのころにはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していたのです。

2. 東地中海に誕生したギリシャ文明は、それに先だつ古代オリエント文明やエーゲ海文明から大きな影響を受けていました。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良して、ギリシャ文字(ギリシャ・アルファベット)をつくりだしたことでしょう。

3. 地中海文明を生みだした原動力の中で、もっとも基本的な要因となったのは、もちろん地中海そのものでした。この穏やかで海上交通が盛んだった海は、古くからさまざまな文明が物資や文化をやりとりする常用な交易の場となっていたのです。・・・こうして地中海周辺の民族は、沿岸部に共通した文明を誕生させ、各地に植民市を建設することで、ひとつの新しい世界を築いていくことになりました。かれらが築いた植民市は、近代の植民地とはまったくちがう、本国(母市)から独立した都市国家でした。そうした植民市が中心となって活発な交易を行うことで、地中海世界はさらなる多様性を獲得していったのです。


第2章 古代ギリシャ人

1. 古代ギリシャ人が歴史にはっきりとして姿を現し始めた紀元前8世紀からみていくことにしましょう。この紀元前8世紀の後半になると、各地にポリス(都市国家)が成立し、400年ものあいだほとんどかわらなくなっていた歴史の流れが、少しずつ見え始めてくるのです。

2. 非常に重要な出来事の中で、年代が特定できるものも出てくるようになります。たとえば後世のギリシャの歴史家によれば、競技をともなうオリュンピア祭がはじめて開催されたのは、紀元前776年のことだったといいます。西暦がキリストの誕生の年を元年としたように、その後数世紀たつと古代ギリシャ人は、この最初のオリュンピア祭が開かれた年をギリシャ暦の元年とするようになりました。

3. 地理的環境が原因となって、エーゲ海の沿岸部には経済的に自立した小さな共同体が数多く成立することになりました。・・・紀元前10世紀にはすでに、この地域に文明が生まれる条件が整いつつあったようです。人口も増加し、人々の土地を求める欲求が非常に高まっていたものと推測されています。こうした「土地問題」は結果として、大規模な「海外」への植民活動を引き起こしました。そして紀元前6世紀にその植民活動が終息したときには、ギリシャ世界はエーゲ海にとどまらず、東は黒海、西はシチリア島、フランス、スペイン半島東のバレアレス諸島、南はリビアまで広がっていたのです。

4. 言語と並んで宗教もまた、ギリシャ人のアイデンティティにとって非常に重要な意味をもっていました。ギリシャの神々の世界は、驚くほど複雑です。・・・
ギリシャ人の宗教は神をかぎりなく人間に似た存在として位置づけた点で、ほかの民族とは大きく異なっています。ギリシャ人が信仰した神や女神は、超自然的な力はもっているものの、きわめて人間に近い存在なのです。


第3章 社会と政治

1. ポリス(都市国家)が成立した紀元前8世紀には、そのほとんどの都市で権力は王たちから貴族たちの手に移っていたと考えられているからです。国会と最高裁判所の両方の機能がはたらいていたアテナイのオレオパゴス会議は、そうした王から権力を奪いとった社会集団をメンバーとする組織の一例です。

2. 彼ら支配階級のエリートたちは、それぞれ領地をもち、土地からあがった利益で高価な武器や馬を購入して。戦争においても指導的な立場に立っていました。古代ギリシャのポリスとは、そうした土地を私有し、同時に戦闘の権利と義務をもつ貴族(もちには市民)の共同体として発展していったものと推測されています。つまりギリシャ文明では、ほかの文明のような強大な王権が確立されないまま、集団指導体制に移行していったようなのです。

3. 通貨が登場するまで財産の基本は土地だったため、持ち主が簡単に変わることはありませんでした。・・・紀元前5世紀をむかえたとき、ギリシャ社会はすでに非常に複雑になっていました。そしてこの第二次の植民活動によって、地中海世界の商業活動が一気に拡大します。ギリシャ人以外の世界との交易が盛んになり、新しい経済的は結びつきが次々と生まれていったからです。

4. その証拠として、銀貨の流通量が増えたことがあげられるでしょう。一定の重量と刻印をもつ貨幣を最初に鋳造したのはリュディアでしたが、紀元前6世紀のギリシャでは、国内、国外を問わず、貨幣が広くもちいられるようになりました(スパルタだけは、経済活動が盛んになって貧富の差が広がり、社会秩序が崩れるのを恐れて、その導入を拒んでいました)。ギリシャ人は交易を活発に行ない、各都市を専門化することで、土地不足を解消しようとしました。たとえばアテナイは大量の陶器と油を輸出して穀物を輸入し、キオスは油とワインを輸出していました。また、すでにこの時期、ギリシャのいくつかの都市は食糧をエジプトからの輸入に頼るようになっていたのです。

5. 商業の発達にともなって、土地が唯一の財産だった時代は終わりをむかえることになります。同時に多くの人々がそれまで社会的地位の象徴だった土地を買えるようになり、新興の富裕階層が誕生しました。このことは、ギリシャ人の社会に大きな変革をもたらすことになります。

6. 新興の富裕層は鎧や武器を買い入れ、強力な「重装歩兵」として部隊を編成するようになりました。この部隊はその後2世紀にわたってギリシャ軍の柱となり、ギリシャに軍事的優位をもたらすことになります。重装歩兵の強さの秘密は、個人的な勇敢さではなく、規律のとれた密集戦術にありました。


第4章 都市国家と民主政

1. ギリシャ人が政治を「発明」したのもこの時期のことなのです。つまり公けの場で集団の利益をはかるために議論を行なう「民主政デモクラツィア」という政治形態を、彼らが思いついたのです。英語の「ポリティックス(政治)」は、ギリシャ語の「ポリス(都市国家)」に由来しています。

2. ポリスに対するギリシャ人の考えは、彼らの言葉づかいによくあらわれています。ギリシャ人は、アテナイが何をするとか、テーベが何をするとはいわず、アテナイ人が何をするとか、テーベ人が何をするという言い方を好みました。つまり、あくまでも主体は国家ではなく、市民にあるというわけです。しかし、たとえ内部に激しい対立があったとしても、ポリス-ここからは「都市国家」とよぶことにしましょう-が利益と目的を共有する人々の集まりであることは、強く意識されていたのです。

3. 都市国家を運営するための理念は、基本的には重装歩兵の精神と同じだったと考えるとわかりやすいかもしれません。つまり人々は共通の目的のために、協力し、助け合い、規律のとれた行動をとらなければなりませんでした。実際、初期の市民たち(政治に参加できる人々)は重装歩兵だけに限られていました。つまり都市国家の防衛という義務を担う者だけが、市民としての権利も手にすることができたというわけです。

4. アテナイで発見された史料から判断すると、各都市国家には、現在のような形での行政、司法、立法の分立はなかったようです。日々の行政は公職者か、または法廷に頼って運営されており、現代のような公務員は存在しませんでした。しかし少なくとも、都市国家ごとに運営の方法がちがっていたことはたしかなようです。

5. 歴史時代が幕を開けたとき、すでに都市国家は存在し、それを統治していたのは貴族たちでした。しかし商工業者を中心とする新しい富裕層は、自分たちを市民として認めせるため、しだいに既存の支配層を攻撃するようになります。かつて王から権力を奪った貴族たちが、今度は攻撃の対象となったというわけです。新しい富裕層はすでに時代に合わなくなっていた貴族政に代えて、新しい行政の形をつくろうとしました。

6. 民主政への動きで先行したのはアテナイでした。アテナイは土地のやせたアッティカ地方にありましたが、土地を求める社会的な圧力に、それほど悩まされることはありませんでした。アテナイはスパルタと並んで、当時の都市国家としては例外的に大きな領土をもっていたからです。しかし紀元前6世紀になると、アテナイもほかの都市国家と同じく、富裕層と貧困層との争いに悩まされることになりました。

7. ほどなく伝説的な改革者ソロンが登場して貧困者の債務の帳消しを宣言し、債務を返済できない者が債権者の奴隷にされるというそれまでの制度も廃止しました。「ソロンの改革」とよばれる政治改革も行っています。この改革によってギリシャの全市民は「民会」に参加できるようになり、アテナイの裕福な商工業者たちは従来の貴族たちと同等の権利を得られるようになったのです。

8. そしてその後、ついにどこよりも民主的な新しい政治制度、「民主政デモクラツィア」が開始されたのです。すべての政治的決定は、原則として民会の多数決によって決められるようになりました。民会は、行政担当者と軍司令官の選任も行ない、都市部の住民の利益だけを求める党派が生まれないような制度も実施されました。「クエリステネスの改革」とよばれるこの政治改革は、全土をまず利害の対立する都市部・内陸部・海岸部の3地区に分け、さらにそれぞれを10の地区に分け、各部の1地区ずつをくじびきで組みあわせて10の行政単位に編成するという巧妙なものでした。(「10部族性」)。
こうしてここに人類史上初の「民主政」が誕生したのです。


第5章 ペルシャ戦争

1. ペルシャ戦争の原因は、アケメネス朝ペルシャの領土拡張政策にありました。紀元前540年ごろ、ペルシャはリュディア王国を滅ぼします。紀元前5世紀の最初の10年間に、小アジアのギリシャ都市がペルシャの支配に対して反旗をひるがえしました。ギリシャ本土にもこの反乱に加勢しようという動きが生まれ、アテナイとエレトリアは艦隊をイオニア地方に派遣します。

2. 紀元前490年、ペルシャ王ダレイオス1世はふたたび遠征軍を派遣し、アテナイの北東約27キロのマラトンの海岸に上陸します。このとき名将ミルティアデスにひきいられたアテナイ軍が巧妙な戦術によって、ほとんど無傷のままペルシャ軍を撃退しました。これが有名なマラトンの戦いです。つぎの戦いでは、最強の陸軍をもつスパルタがギリシャ連合軍、いわゆるぺロポネス同盟軍が中心となって戦いました。戦争が開始されるとスパルタが指揮権を握ることが定められていました。この同盟が結果的に、スパルタを全ギリシャの盟主のような地位に押し上げたのです。

3. 紀元前480年にクセルクセス1世ひきいるペルシャ軍がトラキアを通って侵攻してきたとき、エーゲ海の北岸を進んだあと、ぺロポネス半島をめざして南下してきました。ともに移動してきた大艦隊も、水路をとおってギリシャに侵入してきました。 ついに決戦の時がおとずれました。テルモピュライの戦いでは、スパルタ王レオニダスと300人の兵士が全員戦死しています。その一方、ギリシャ艦隊は、アテナイに近いサラミス海峡に集結したのです。ペルシャ艦隊はこのサラミスの海戦で惨敗しました。一連の戦いで、ペルシャは敗れました。(断続的な戦いはその後、約30年間にわたってつづきましたが)。

4. 勝利にみちびいたスパルタとアテナイは栄光につつまれ、小アジアのギリシャ植民市も解放され、ギリシャ人はこのあと自信に満ちあふれた「偉大な時代」を迎えます。世界の歴史から見ても、この対ペルシャ戦争の影響はきわめて大きなものがありました。ヨーロッパとアジアの区別が生まれるきっかけになったとも考えられるからです。



第6章 繁栄と衰退

1. 勝利をおさめたことで、古代ギリシャ文明は最盛期を迎えます。しかしその裏側では非常に深刻な問題が起こっていたのです。アテナイとスパルタの対立が、しだいに深まっていたのです。

2. ペルシャ戦の大勝利のあと、安心したスパルタ人は自国へ帰っていきました。スパルタ内部のヘイロタイ(農奴)の反乱が気がかりだったからです。その結果、アテナイがギリシャの都市国家の盟主として、対ペルシャの軍事行動をリードすることになったのです。こうして成立したのでデロス同盟でした。本部と金庫をデロス島におくこの同盟の目的は、ペルシャとの戦いにそなえて連合艦隊を結成することでした。こうしてデロス同盟は、しだいに「アテナイ帝国」とよばれるような性格をもつようになりました。同盟本部と金庫をデロス島からアテナイに写し、各都市国家の拠出金の用途もアテナイが決定し、各加盟国にアテナイ人の役人を駐在させて、重要な訴訟はアテニアの裁判所で行なうようになったのです。

3. ところが、しだいにスパルタもほかの都市国家と同じように、状況の変化を無視できなくなります。デロス同盟をめぐる対立は、参加する都市国家内部でも、まず富裕層と貧困層の対立という形で現われました。つまり税金を支払う裕福な市民は同盟に資金を出すことに反対し、金銭的な負担がなかった貧しい市民は同盟を支持したのです。アテナイの干渉を受けた都市国家では、離反を試みて土地の一部をとりあげられた国もあり、しだいにアテナイを手本とした政治制度が各国で採用されるようになりました。

4. 一方、アテナイの政治体制はその間、さまざまな苦闘を乗りこえ、確実に民主政の方向へ動きだしていました。紀元前462年のエフィアルテスの改革によって、アレオパゴス会議のもっていた権限が、民会、評議会、民衆法廷に移されます。こうしてアテナイに「民主政」が確立したため、アテナイの高圧的な外交に対するほかの都市国家の不満は、その新しい政治形態に対する批判につながっていったのです。

5. こうして反アテナイの機運が高まり、紀元前460年に対アテナイ戦争が始まることになります。この戦いにはスパルタも加わりm同盟軍の指揮をしています。紀元前431年、古代ギリシャ文明の基盤を崩壊させることになる大戦争が切って落とされるのです。それがペロポネソス戦争でした。


第7章 ペロポネソス戦争

1. ペロポネソス戦争は途中で中断された時期はあったものの、27年間(紀元前431~404年)にもわたってギリシャ世界を二分する、長く苦しい戦いとなりました。この戦争の特色をひとことでいうなら、「陸軍対海軍の戦い」だったといえるかもしれません。「陸軍」とはスパルタを中心としたコリントスなどぺロポネソス同盟軍のことで、一方、「海軍」であるアテナイ陣営のほうは、エーゲ海の島々やイオニア地方の植民市が主体で、エーゲ海沿岸に散らばっていました。

2. 当時のギリシャ世界には、要塞を陥落させるような武器はありませんでした。そのため、海軍によって制海権を掌握していたアテナイは、陸路を封鎖されても平時と同じように食料を確保することができたのです。ところが、開戦の翌年に狭い城壁内に疫病が発生し(住民の3分の1が死亡したと考えられています)、それが原因でペリクレスも紀元前429年に死去してしまったのです。

3. 戦争の終結

アテナイは、紀元前415年から413年に行われたシチリア遠征がさんたんたる失敗に終わり、致命的な打撃をこうむることになります。陸軍の半分を失い、艦隊はほとんど全滅してしまいました。一方、スパルタはペルシャに接近し、その支援をとりつけることに成功します。見返りとして小アジアのギリシャ植民市をふたたびペルシャに従属させるという密約を交わしました。こうして食料の供給を断たれたアテナイは紀元前404年の春、ついに降伏し、城壁の解体に応じることになったのです。


第8章 紀元前5世紀のギリシャ文明

1. ペロポネソス戦争が行われたまさにその時代に、世界史上、類を見ない偉大な文明の成果が生みだされていったという注目すべき事実です。この時代に起こった政治的・軍事的・文化的な出来事がギリシャ文明を方向づけ、のちの西洋文明へといたる長い道すじを決定することになったのです。

2. 経済基盤
ギリシャ文明を支える経済的な基盤は、意外なほど単純なものでした。交易以外の部門では、高度な経済活動とはまったく縁がなかったのです。たとえば貨幣が使われる時代になっても、日常的に物々交換がおこなわれていました。唯一の例外が鉱山でした。アッティカのラウレイオン銀山では何千人もの奴隷が働かされていたと考えられています(銀山の所有権は国にありました)。いずれにせよ、自給自足のための農業でした。アテナイや、毛織物の産地として有名なミレトスのように、高度な産業で知られる都市国家もありましたが、平均的な共同体の経済は、国内市場で消費される穀物やオリーブ、ブドウなどを生産する小規模農業に依存していたのです。


第9章 アテナイの民主政デモクラツィア

1. 民主政はほとんどなんの前ぶれもなく出現したため、そのような制度を見たこともなかったアテナイの保守派が危機感をつのらせたことはよく理解できます。民主政の始まりをつげたのは、紀元前6世紀に行われた制度改革(紀元前5058年クレイステネスの改革。それまでの4部族制を10部族制に改め、各部族の下部組織デーモスを基本行政単位として、市民は居住するデーモスに戸籍をもつことになりました)でした。この改革によって、それまでの血縁関係に代わって、居住区域を単位とする行政区分が導入されたのです。

2. こうして理論と法律のうえでは、血縁関係よりも地域への帰属が重要とされるようになりました。このような動きはギリシャ全土で起こったようですが、いずれも国の民主政も地域的な単位の組織に基盤をおくことになったようです。それ以後、この政治システムは2500年後の現在にいたるまで、基本的には変わっていません。

3.
アテナイではさらに改革が進んでいきました。5世紀の半ばまでには、成人男子全員に民会へ参加する権利があたえられました。このことは、成人男子全員に行政官を選出する権利があたえられたことを意味しています。古くから権力を握りつづけてきたアレオパゴス会議(議場がアレオパゴスの丘にあったことからこうよばれています)の権限はしだいに縮小され、紀元前462年のエフィアルテスの改革以降は、特定の犯罪にたいする司法権しかもたない小法廷のような存在になっていました。

その一方で民衆法廷は、陪審員に手当を支給する制度が定められた結果、貧しい市民も陪審員をつとめることができるようになり、広く民衆の意見が反映されるようになったのです。民衆法廷は行政にかかわる重要な問題の処理にもあたってため、多くの市民が政治に参加することになりました。ペロポネソス戦争直後の苦しい時代には、民会の出席者にも手当が支給されるようになっています。最後にもうひとつ、つけ加えておきましょう。アテナイ人はくじ引きによる行政官の選出を正しいものと考えていました。ほとんどの行政官をくじによって選ぶことで、地位や権力の世襲を防ごうとしていたのです。

4. 地理的にたがいにへだてられた初期のギリシャの共同体は、それぞれが独自の政治経験をつみ重ねていきました。その結果、彼らは神に認められた王たちが統治を行うという従来の体制と決別し、政治制度は市民の意志によって選択できるという新しい思想に到達したのです。そして古典期のアテナイでは、市民による政治参加への波が、人類の歴史において前例がないほど高まっていました。アテナイの市民たちは民会だけでなく、民会で討議される議事を準備する評議会の会議にも毎日出席していました。たとえ全市民が公職につく資格をもっていなかったとしても、アテナイの民主政は人類がそれまでに考えだした中で最高の政治形態だったといえるでしょう。

◆古代ギリシャ文明 抄録集 終わり

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