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  文献資料 A 関係性ー構造と機能システム (1)

  
   「価値表現」の基礎  ー ヘーゲル論理学と 『資本論』


 
 現実性とその条件について


 『資本論』 価値表現と価値方程式

 → ヘーゲル論理学入門』要約と抄録

物 Ding 」の相関 §125-130

   資本論ワールド 編集部


1.
  『資本論』の「価値表現」形式 - A商品x量=B商品y量 - において、採用されている「ヘーゲル論理学」のなかでも、第2部本質論が、「方程式の基礎 Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.」を形成しています。そして、「その基礎 Grundlage (根拠)」となっているのが、ヘーゲルの 「A 現存在の根拠としての本質 Das Wesen als Grund der Existenz 」です。

2. さらに、「価値形態 Wertform (価値の形式)」の論理展開の根底・根拠には、ヘーゲル論理学の「C 現実性 Die Wirklichkeit 」があります。
3. 「価値表現」(価値表現の両極 Die beiden Pole des Wertausdrucks、すなわち相対的価値形態と等価形態)では、ヘーゲル「同一性 Identität」概念が不可欠であり、また、「価値形態の展開」では、ヘーゲルの「事柄と条件」が、価値概念(事柄)の進展を“条件”づけしています。これらの相関関係の分析によって、はじめて「貨幣形式」の端緒形態である商品体を体感することが可能となります。
4. 今回のテーマは、『資本論』の価値表現-「A 現存在の根拠としての本質」 と 「価値形態」ー「C 現実性」の相関関係を探究してゆきます。


   ヘーゲル「論理学」と『資本論』の「価値表現」
   
現実性とその条件について  
  目次
  
 『第2部本質論』 同一性と必然性 -「条件」
  
 『ヘーゲル論理学入門』  現実性と条件について
  Ⅲ 『資本論』の「価値表現の同一性」と「価値形態の条件」 (作業中です)


  Ⅰ 
『第2部本質論』 同一性と必然性 - 「条件」


    ヘーゲル『小論理学』 松村一人訳 岩波文庫  

 §115  〔
同一性 Identität と 抽象 Abstraktion
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  
この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。

§117  〔
区別 Unterschied と 相等性 Gleichheit
 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit )である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性( Ungleichheit )である。
 
比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。



 §143  〔
現実性 Wirklichkeit と可能性 Mӧglichkeit
 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit )、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。

 §145  〔
可能性と偶然性 Möglichkeit und Zufälligkeitー形式規定と内容
 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。


 §146   偶然性と条件 §145-§148
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは
条件(Bedingung)である。

§146 ▼補遺
 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。


   ****  ****   ****

  C 現実性-§147  *ヘーゲル 「小論理学」 第2部本質論
   ヘーゲル全集1 真下真一 宮本十蔵 訳 岩波書店1996年発行
 
 §147   〔実在的可能性 reale Mӧglichkeit ―
    
形式のこの自己運動 Sichbewegen は自己を現実性へ揚棄していく実在的根拠としての事柄のはたらき Betätigung der Sache

 そのように展開された外面性は可能性と直接的現実性という両規定の一つの円であり、それらの相互による媒介は
実在的可能性 reale Mӧglichkeit 一般である。そのような円としてそれは、さらに言えば、統体性 〔Totalität:全体性〕であり、かくて内容 Inhaltであり、即自かつ対自的に規定された事柄であるし、同じくまたこの一体性のなかでの両規定の区別 Unterschiede からすれば、それは対自的な形式の具体的統体性 〔konkrete Totalität : 具体的全体性〕であり、内なるものの外なるものへの、また外なるものの内なるものへの直接的な自己転化 Sishübersetzenである。形式のこの自己運動 Sichbewegen は自己を現実性へ揚棄していく実在的根拠としての事柄のはたらき Betätigung der Sache、実証的活動であるとともに、偶然的現実性 zufälligen Wirklichkeit、諸条件の実証的活動でもある。すなわちこれらの条件が自己の内へ反照して自己を他の現実性へ、つまり事柄の現実性へ揚棄することである。あらゆる条件が現にあるときには、事柄は現実的とならざるをえないのであって、事柄はそれ自身、諸条件の一つである。なぜならそれはまず内なるものそのものとして一つの前提されたものにほかならないからである。展開された現実性は、内なるものと外なるものとの合一する交替 〔Wechsel: 移り変わり〕、一つの運動に合一したそれらの対立した運動の交替 〔Wechsel: 移り変わり〕として、必然性である。

  
必然性が可能性と現実性との一体性 〔Einheit: 統一性、単一性〕 として規定されたのは確かに正しい。しかしただそう言いあらわされるだけではこの規定は皮相であって、したがって不可解である。必然性の概念 Begriff はひじょうにむずかしいのであって、 しかもそのわけは、必然性は概念そのものであるが、その概念の諸契機はまだ現実性として存在していながら、 この現実性は同時になおただ形式としてのみ、内的に支離滅裂であって 〔gebrochene :欠陥があって、不完全で〕、移行していく形式としてのみ、理解されるべきものだからである。したがって私は次の両節において必然性を構成する諸契機をもっとくわしく説明しよう。

 §148  〔 条件 - 事柄 - 活動 〕
 
条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 
条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 
事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 
活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。

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  Ⅱ 現実性と条件 -ヘーゲル論理学入門

    ヘーゲル論理学「現実性」について
  ヘーゲルの『小論理学』 C現実性(§142-149)では、短く簡潔に解説されていますが、難解な文章が続いています。これから見てゆく『ヘーゲル論理学入門』には、これらについて要領よくまとめてあります。

 
ヘーゲル論理学入門 有斐閣新書 1978年発行
   目次
 序章 ヘーゲル論理学の特徴
 第Ⅰ部有論
   1 質
   2 量
   3 限度
 第Ⅱ部本質論
   4 本質
   5 現象
   6 現実性
    ▼ 現実性
    ▼ 抽象的可能性と偶然性
    ▼ 現実性の一側面としての可能性と偶然性
    
条件
    
実在的可能性(相対的必然性)
    ▼ 絶対的必然性
 第Ⅲ部概念論
   7 主観的概念
   8 客観
   9 理念
 補論
   1 『論理学』と『資本論』

 
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 ヘーゲル論理学入門

 第Ⅱ部 本質論
  
6 現実性
    1 現実性そのもの ―現実性は本質と現象との統一である―

  ▼
現実性
  ヘーゲルは第4章「本質」で、事物のうちにあるその本質を分析し、事物はそこではそれ自身の本質をそれ自身のうちにもち、この本質を自己の根拠としてなりたっている一つの自立的なものとしてしめしました。第5章「現象」では、事物はすべて現象の世界のうちにあり、ここでは事物は自らのうちによるべき根拠をもたないたんなる一個の現象にすぎず、他の事物と  の連関に媒介されて存在する非自立的なものとしてしめされました。
  しかし、本質と現象はそれぞれ事物のもつ一面の真理をしめすにすぎず、現実の事物はこれらの二側面の統一としてあります。「現実性」というカテゴリーはこの現実の事物のより具体的な形態をしめすカテゴリーです。現実的なものは本質的なものの発現であるのみならず、その現象的な外的な存在そのものが、本質的なものなのです。
 ひとびとは、よく現実と理論を対立させてつぎのようにいいます。ある理論が正しく真理であることは間違いないが、しかしそうしたものは現実には存在しないかあるいは現実のうちにそれを実現させることはできない、と。しかし、こういう言い方をするひとは、理論の本質も現実の本質も正しく把握していません。なぜなら、理論(本質)はあらゆる現象を説明してこそ、意味があるのであり、現象から分離された理論は一つのドグマにすぎません。真の理論は、本質的なものからあらゆる現象を説明してこそ、現実的なものとなります。他方で、現実的なものは根拠をもたない現象的なものではありません。その底には法則的なもの(本質的なもの)が流れています。また、たんに内面的なものは外面的なものにすぎず、「心のなかでわかっているがいいあらわせない」というのは本当はわかっていないのです。本当に内面的になっていないから外面的なのです。つまり、真理は内面的なものと外面的なものとの統一なのです。


  
抽象的可能性と偶然性
 現実的なものは具体的なものであり、多様な諸規定が内的に統一されている自己同一的なものです。しかし、現実的なものはたんなる自己同一的なものではなく、変化をうちにふくんだ自己同一的なものです。つまり現実性は他のものへの可能性を抽象的な要素としてそのうぢにうちにふくんでおり、したがってその同一性はまず可能性という形態でみられることになります。
 だが、第一に、たんに可能的なものというと、あることが可能であり、またその反対のことも可能であるという意味をもっています。これが論理学上の抽象的な可能性です。これは要するに具体的な諸関係を捨象するということであり、人間の頭のなかではそのように考えることもできる、という意味です。たとえば、今夜、月が地球に落ちるということも可能です。なぜなら月は地球からはなれた物体であり、したがって空中に投げ上げられた石とおなじく落下するかもしれないからです。可能性はたんに考えることができるものという意味では無矛盾的です。しかしたんに可能的なものは一つの不可能性でもあります。なぜなら、たんなる可能性は、それが実現しない可能性でもあるのですから、一つの矛盾です。だから、こういう意味での可能性を議論することほどばかげたことはありません。
 たんに可能性であるということの第二の意味はつぎのことです。人間であれば、医者にでも政治家にでもなんにでもなりうる、というばあい、その可能性は人間であるということにありますが、この可能性はさまざまの関係からきりはなされた無規定のものであり、まったく無関係などんなものでもそこにいれうる容器であるという意味です。
 偶然性というのは、この抽象的可能性が実現したものです。たんなる可能性はたまたま実現したものであるわけですから、偶然的なものはそのようなものであってもいいし、またその反対の形であってもいいのです。ですから、たんなる可能性という価値しかもたない現実的なものは、偶然的なものなのです。


  ▼
現実性の一側面としての可能性と偶然性
 たんなる可能性が実現すること、それが偶然性であり、偶然的なものはおこるべくしておこったものではありません。それは、その実現の根拠を自分自身のうちにではなく、他のもののうちにもつものです。それが実現するかどうかは外的な条件に依存しているのです。だから可能性と偶然性は、現実的なものの外面性をなすたんなる形式にしかすぎません。あることが可能であり偶然であるかどうかは内容にかかわっており、このばあい形式と内容がずれているわけです。
 偶然性と可能性は現実性の一面的な要素であり、それを現実性そのものと混同してはなりません。しかし、偶然性は客観的世界(自然および社会)の表面にその位置をもっています。この点でヘーゲルは偶然性を主観の様式と考えるカントに反対しています。わたしたちもこのことを認めたうえでいつまでもここにとどまるのではなく、客観的世界の法則性と必然性の洞察にすすまねばばなりません。


 ▼
形式的可能性としての恣意の自由(選択の自由)
 しばしば意志の自由という言葉はたんなる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志の自由、他から強制されないで自らすすんで選ぶという選択の自由と理解されています。しかし、ただ自由に選ぶというだけであれば「意志」は内容からすれば真実で正しいものを選ぶばあいでさえ、ことによれば他のものを選んだかもしれないという軽薄さをもっています。自分が選択の自由によって選んだのだから自由でもっとも主体性を発揮しているように思えても、それを選択したその根拠となるものは多かれ少なかれ外部の事情にもとづいているのです。だから、こうした恣意的な自由は本来の内容のある自由ではなくたんなる形式的な自由にすぎない、とヘーゲルはいうのです。なるほど形式的な自由についてのこのヘーゲルの見解は、一面においてはきわめて正しいものですが、他面ではそれを過少に評価するものです。個人の自由のなかにはいい内容のものでも拒否する自由があり、また選択の自由の一つとしての言論の自由においておいても、反対の意見をいう自由があります。ひとびとはいろいろ迷って自由に選択し、自らの経験と討論をつうじて本当に内容的にすぐれたものを選んでいくのです。ヘーゲルはこういう可能性を過少評価しています。



 
条件
 現実性の外面すなわち偶然性をよりたちいって考察してみますと、偶然的なものは偶然そこにあるものですが、それは他のものの可能性になります。偶然にそこにあるものを利用して他のものが実現します。偶然にそこにあるものを利用して他のものが実現します。
  たとえば、植物はそれ自体としてはたんに成長の可能性をもって存在している一つの現実的なものです。そして、その可能性が実現するためには、雨やその他のものを必要とします。ところが雨が降るかどうかはその植物にとってはまったく外的で偶然的です。したがって、植物のもつ成長の可能性は偶然に降ってきた雨に植物が関係することによって実現されて、一つの 新しい現実、つまりより成長した植物となります。偶然的なものは新しい現実の前提となっているわけです。したがって、偶然的なものはその直接的な存在それ自体が他のものの可能性であるということになります。こういうものを条件Bedingungといいます。最初の直接的な現実から新しい現実が出現したのですから、直接的な現実はそれ自体としては一つの直接的存在にすぎませんが、同時にまったく別なあるものへの可能性をそのうちにふくんでいるといえます。しかしよくよく考えてみますと、新しく出現した現実は可能性としての最初の現実が実現したものですから、なにか新しいものが生じたわけではありません。雨は植物を成長させるという可能性をもったものとしてそこにあるわけです。また現実的なものはすべて、たえず他のものとの関係のなかにありますから、他のものに媒介され利用され、他のものの条件となることによって自分を他のものへと変化させていくのです。


  
実在的可能性(相対的必然性)
  あるものの実現を可能にするための条件が全部そろっていれば、可能性は現実的にならざるをえません。こういう可能性を実在的可能性 die reale Mӧglichkeit といいます。実在的可能性においては、新しい現実のためのすべての諸条件が集まり成熟していき、新しい現実がうまれるわけです。たんなる可能性とちがって実在的可能性になると、もうほかのものではありえなくなるわけで、かならずそうなるわけです。この意味で実在的可能性は(相対的)必然性です。
  実在的可能性には二つの側面があります。一つは、新しい現実の出現のための前提として存在している個々の直接的な存在です。これを条件とよぶことはすでにのべたとおりです。実在的可能性の例としての条件はつぎのようなものです。フランスのブルジョア革命直前における絶対王制の財政的困難から生じる搾取の要求、そのことによって増大するブルジョアジーの封建的搾取にたいする経済的自由の拡大の要求、封建農民の生活の困窮等々がブルジョア革命の条件にあたります。こうした条件にパリ民衆のバスチーユ監獄の襲撃という条件などが加わって条件が全部そろえば、ブルジョア革命は開始されるのです。
 実在的可能性のもう一つの側面は、こうした諸条件の総体からうまれる可能性です。これを事柄といい、それ自体一つの条件ですが、さきにのべた条件と区別されるのは、たとえばフランス革命の個々の条件は、それ一つだけではけっしてフランス革命をうみだしはしません。ところが、事柄は、個々の直接的な現実の全体をその条件としてそのうちに芽ばえたたんなる内的なものにすぎませんが、しかし、それはうまれると同時に、それ自身、現実を動かしていく役割をもった、新しい一つの条件です。いわば、フランス革命の個々の条件から生じる総体的なフランス革命の可能性、つまりフランス革命の具体的な全体像が事柄です。
 条件は新しい現実をうむ可能性ですが、それらは事柄のために材料として使用され、事柄の内容になっていくという点では受動的なのです。また、すべての条件がそろうとものは現実化するのですから、すべての条件がそろった実在的可能性は事柄の内容にふさわしい内容となっています。前述のフランス革命のための諸条件はフランス革命の可能性、すなわち事柄の内容にふさわしい内容となっているのです。このことを事柄からみれば、事柄はこれらの条件を使用することによって現実化するわけですから、それは諸条件の総体によってこそ自分を事柄としてしめすのであり、またそれは他のなにかから出現するのではなく条件から出現するものです。実在的可能性の現実性への転化は、内的な可能性が実現して外的な直接性になるということであり、条件という外的な直接性が新たな現実の生成の過程でそのうちにとりこまれて、おなじ一つのものとなり、実現した現実の内容に転化するということです。
 ところで、フランス革命のための条件がだんだん成熟していけば、ますます事柄の内容が明瞭になっていき、つぎには事柄が諸条件の成熟をうながし、こうしてやがてフランス革命が開始されます。つまり、条件は自ら成熟して事柄をうみだすとともに、事柄は条件の成熟をさらにさらに促すようにはたらくわけです。このように事柄を現実化する運動をヘーゲルは活動Tätigkeitとよんでいます。つまり、条件、事柄、活動は必然性の三つの要素となっています。
 必然性は可能性が実現して実在的(現実的)なものとなることであり、またフランス革命の実在的な諸条件がその可能性をうむように実在的なものが可能的なものとなります。この意味で必然性は可能性と現実性との統一です。
 相対的必然性(実在的可能性)においては、事柄や活動は諸条件を前提としてなりたっているものです。しかし、この諸条件そのものは外的な直接的存在であり、事柄や活動にとってそれが現実化するための条件が全部そろうかどうかはまだ偶然的です。相対的必然性においては、条件、事柄、活動という必然性の三つの要素が、まだ完全には有機的な一体をなしておらず、おたがいにうみだしあう関係になっていません。それらは、ただ、外的に関係しあっているだけです。そこでは可能性と現実性がずれています。それでは、相対的必然性における可能性の実現は、有の移行のばあいのようにまったくの他者への移行なのかといえばそうではなく、可能性は現実性の萌芽なのですから、別のものになるのではなく、自己自身が実現するのです。


  ▼
絶対的必然性
 絶対的必然性は、他の力をかりないで自分自身によって媒介されてでてきたものです。ただその媒介はここでは否定され消えてしまって、まるで自然のままにあるかのようにある直接的存在となっています。
 絶対的必然性は自分自身で自分が存在するための前提、つまり条件、事柄、活動を自分からうみだし、自らがうみだしたこれらのものによって自分自身となる、すなわち現実性となります。
 たとえば、人間は最初は石や木の枝を労働手段としてもちいて生産し、労働生産物をつくります。労働は最初は自分の外に前提をもっているのです。ところが、社会が発展してくると労働手段は人間の労働生産物になってきます。労働の前提である労働手段が労働によってうみだされ労働の結果となります。自分の条件を自分でうみだすわけです。このことは生物とか社会有機体をみれば非常に明瞭です。また、できあがった労働手段はあれやこれや工夫され、ぎくしゃくした過程をへて、つまり多くの媒介をつうじてそこにできあがったものとしてあります。しかし、そのできあがったものをみますとそうした媒介の痕跡はすっかり消えさって自然にそこにあるようにみえるのです。これが絶対的必然性です。
 絶対的必然性のもう一つの意味はつぎのことです。すなわち、それは媒介が消えて自然にそこにあるような直接性ですから、そうしたもの相互の関係においてはその内的連関は表にあらわれていません。それらは相互に無縁に直接的なものとして存在しているかのようにみえるのです。しかし、絶対的必然性は本当は相互に無縁な自立したもののあいだにひそんでいる内的連関であり、法則性です。



   2  
絶対的相関 - 絶対的必然性のもつ内部の関係が絶対的相関である - 

 絶対的必然性においてはすべてのものは媒介されながら媒介そのものは消滅していますから、たがいに自立的に直接的に存在しています。だが、直接的なものならばそれらはたがいにまったくまったく無関係かといいますと、このばあいもやはりそうではなく、たがいに一定の関係のうちにあるのです。絶対的相関は現実的なもの、すなわち絶対的に自立的な必然性をもったものが相互にとりむすんでいる関係のことをいいます。だが、この絶対的相関においては二つの現実的なもの、二つの全体があるのかといえばそうではないのです。区別は一方ではそれぞれが一個の自立的全体であるもののあいだの区別なのですが、しかしその区別は、他方では独立性をもっていなくて、おなじ一つのものの内部の関係なのです。
 ところで、本質的相関(全体と部分、力とその発現、内と外)においては、相関する両項は一つの関係の二つの側面であり、おたがいに相手なしにはありえないような非自立的なものでした。絶対的相関では相関する二つの側面が、自立性、全体性をもっているという点で、本質的相関とはちがいます。しかしこの二つの相関は、相関する両項が非自立的であっても自立的であっても、その両項の相互依存の関係をあきらかにするものであるという点ではおなじです。
 絶対的相関には、実体と偶有の相関、因果性の相関、交互関係の三つがあります。

  ・・・・以下、省略・・・