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  文献資料 ヘーゲル論理学の研究 ・・・準備中・・・


 ヘーゲル「小論理学」 形式規定と形式活動

  現実性と可能性 ー 条件

   - ヘーゲル「小論理学」
現実性の研究



 資本論ワールド 編集部



 ■ 目 次
 第1部 
ヘーゲル「小論理学」 現実性 §142~§153
    1. 可能性と偶然性    §145
    2. 形式活動と諸条件  §147
    3. 形式規定        §153

 
第2部 『ヘーゲル論理学入門』 
    1. 現実性と可能性
    2. 偶然性
    3. 条件
    4. 実在的可能性-フランス革命

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第2部 『ヘーゲル論理学入門』 
              有斐閣新書 1978年発行
   目 次
 序章 ヘーゲル論理学の特徴
 第Ⅰ部 有論
   1 質
   2 量
   3 限度
 
第Ⅱ部 本質論 
   4 本質   Wesen
   5 現象   Erscheinung
   
6 現実性 Wirklichkeit 
       (
現実, 現実の世界, 実際の姿, 実情
 第Ⅲ部 概念論
   7 主観的概念
   8 客観
   9 理念
  補論
   1 『論理学』と『資本論』



  
第Ⅱ部 本質論

   
6 現実性
  
    1 
現実性そのもの ―現実性は本質と現象との統一である―

   
▼ 現実性
    ヘーゲルは第4章「本質」で、事物のうちにあるその本質を分析し、事物はそこではそれ自身の本質をそれ自身のうちにもち、この本質を自己の根拠としてなりたっている一つの自立的なものとしてしめしました。第5章「現象」では、事物はすべて現象の世界のうちにあり、ここでは事物は自らのうちによるべき根拠をもたないたんなる一個の現象にすぎず、他の事物と  の連関に媒介されて存在する非自立的なものとしてしめされました。
   しかし、本質と現象はそれぞれ事物のもつ一面の真理をしめすにすぎず、現実の事物はこれらの二側面の統一としてあります。「現実性」というカテゴリーはこの現実の事物のより具体的な形態をしめすカテゴリーです。現実的なものは本質的なものの発現であるのみならず、その現象的な外的な存在そのものが、本質的なものなのです。
  ひとびとは、よく現実と理論を対立させてつぎのようにいいます。ある理論が正しく真理であることは間違いないが、しかしそうしたものは現実には存在しないかあるいは現実のうちにそれを実現させることはできない、と。しかし、こういう言い方をするひとは、理論の本質も現実の本質も正しく把握していません。なぜなら、理論(本質)はあらゆる現象を説明してこそ、意味があるのであり、現象から分離された理論は一つのドグマにすぎません。真の理論は、本質的なものからあらゆる現象を説明してこそ、現実的なものとなります。他方で、現実的なものは根拠をもたない現象的なものではありません。その底には法則的なもの(本質的なもの)が流れています。また、たんに内面的なものは外面的なものにすぎず、「心のなかでわかっているがいいあらわせない」というのは本当はわかっていないのです。本当に内面的になっていないから外面的なのです。つまり、真理は内面的なものと外面的なものとの統一なのです。



  
▼ 抽象的可能性と偶然性
 現実的なものは具体的なものであり、多様な諸規定が内的に統一されている自己同一的なものです。しかし、現実的なものはたんなる自己同一的なものではなく、変化をうちにふくんだ自己同一的なものです。つまり現実性は他のものへの可能性を抽象的な要素としてそのうぢにうちにふくんでおり、したがってその同一性はまず可能性という形態でみられることになります。
 だが、第一に、たんに可能的なものというと、あることが可能であり、またその反対のことも可能であるという意味をもっています。これが論理学上の抽象的な可能性です。これは要するに具体的な諸関係を捨象するということであり、人間の頭のなかではそのように考えることもできる、という意味です。たとえば、今夜、月が地球に落ちるということも可能です。なぜなら月は地球からはなれた物体であり、したがって空中に投げ上げられた石とおなじく落下するかもしれないからです。可能性はたんに考えることができるものという意味では無矛盾的です。しかしたんに可能的なものは一つの不可能性でもあります。なぜなら、たんなる可能性は、それが実現しない可能性でもあるのですから、一つの矛盾です。だから、こういう意味での可能性を議論することほどばかげたことはありません。
 たんに可能性であるということの第二の意味はつぎのことです。人間であれば、医者にでも政治家にでもなんにでもなりうる、というばあい、その可能性は人間であるということにありますが、この可能性はさまざまの関係からきりはなされた無規定のものであり、まったく無関係などんなものでもそこにいれうる容器であるという意味です。
 偶然性というのは、この抽象的可能性が実現したものです。たんなる可能性はたまたま実現したものであるわけですから、偶然的なものはそのようなものであってもいいし、またその反対の形であってもいいのです。ですから、たんなる可能性という価値しかもたない現実的なものは、偶然的なものなのです。



  
▼ 現実性の一側面としての可能性と偶然性
 たんなる可能性が実現すること、それが偶然性であり、偶然的なものはおこるべくしておこったものではありません。それは、その実現の根拠を自分自身のうちにではなく、他のもののうちにもつものです。それが実現するかどうかは外的な条件に依存しているのです。だから可能性と偶然性は、現実的なものの外面性をなすたんなる形式にしかすぎません。あることが可能であり偶然であるかどうかは内容にかかわっており、このばあい形式と内容がずれているわけです。
 偶然性と可能性は現実性の一面的な要素であり、それを現実性そのものと混同してはなりません。しかし、偶然性は客観的世界(自然および社会)の表面にその位置をもっています。この点でヘーゲルは偶然性を主観の様式と考えるカントに反対しています。わたしたちもこのことを認めたうえでいつまでもここにとどまるのではなく、客観的世界の法則性と必然性の洞察にすすまねばばなりません。



 
▼ 形式的可能性としての恣意の自由 (選択の自由)
 しばしば意志の自由という言葉はたんなる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志の自由、他から強制されないで自らすすんで選ぶという選択の自由と理解されています。しかし、ただ自由に選ぶというだけであれば「意志」は内容からすれば真実で正しいものを選ぶばあいでさえ、ことによれば他のものを選んだかもしれないという軽薄さをもっています。自分が選択の自由によって選んだのだから自由でもっとも主体性を発揮しているように思えても、それを選択したその根拠となるものは多かれ少なかれ外部の事情にもとづいているのです。だから、こうした恣意的な自由は本来の内容のある自由ではなくたんなる形式的な自由にすぎない、とヘーゲルはいうのです。なるほど形式的な自由についてのこのヘーゲルの見解は、一面においてはきわめて正しいものですが、他面ではそれを過少に評価するものです。個人の自由のなかにはいい内容のものでも拒否する自由があり、また選択の自由の一つとしての言論の自由においておいても、反対の意見をいう自由があります。ひとびとはいろいろ迷って自由に選択し、自らの経験と討論をつうじて本当に内容的にすぐれたものを選んでいくのです。ヘーゲルはこういう可能性を過少評価しています。



  
▼ 条件
 現実性の外面すなわち偶然性をよりたちいって考察してみますと、偶然的なものは偶然そこにあるものですが、それは他のものの可能性になります。偶然にそこにあるものを利用して他のものが実現します。偶然にそこにあるものを利用して他のものが実現します。
  たとえば、植物はそれ自体としてはたんに成長の可能性をもって存在している一つの現実的なものです。そして、その可能性が実現するためには、雨やその他のものを必要とします。ところが雨が降るかどうかはその植物にとってはまったく外的で偶然的です。したがって、植物のもつ成長の可能性は偶然に降ってきた雨に植物が関係することによって実現されて、一つの 新しい現実、つまりより成長した植物となります。偶然的なものは新しい現実の前提となっているわけです。したがって、偶然的なものはその直接的な存在それ自体が他のものの可能性であるということになります。こういうものを条件Bedingungといいます。最初の直接的な現実から新しい現実が出現したのですから、直接的な現実はそれ自体としては一つの直接的存在にすぎませんが、同時にまったく別なあるものへの可能性をそのうちにふくんでいるといえます。しかしよくよく考えてみますと、新しく出現した現実は可能性としての最初の現実が実現したものですから、なにか新しいものが生じたわけではありません。雨は植物を成長させるという可能性をもったものとしてそこにあるわけです。また現実的なものはすべて、たえず他のものとの関係のなかにありますから、他のものに媒介され利用され、他のものの条件となることによって自分を他のものへと変化させていくのです。



  
▼ 実在的可能性(相対的必然性)
  あるものの実現を可能にするための条件が全部そろっていれば、可能性は現実的にならざるをえません。こういう可能性を実在的可能性 die reale Mӧglichkeit といいます。実在的可能性においては、新しい現実のためのすべての諸条件が集まり成熟していき、新しい現実がうまれるわけです。たんなる可能性とちがって実在的可能性になると、もうほかのものではありえなくなるわけで、かならずそうなるわけです。この意味で実在的可能性は(相対的)必然性です。
  実在的可能性には二つの側面があります。一つは、新しい現実の出現のための前提として存在している個々の直接的な存在です。これを条件とよぶことはすでにのべたとおりです。実在的可能性の例としての条件はつぎのようなものです。フランスのブルジョア革命直前における絶対王制の財政的困難から生じる搾取の要求、そのことによって増大するブルジョアジーの封建的搾取にたいする経済的自由の拡大の要求、封建農民の生活の困窮等々がブルジョア革命の条件にあたります。こうした条件にパリ民衆のバスチーユ監獄の襲撃という条件などが加わって条件が全部そろえば、ブルジョア革命は開始されるのです。
 実在的可能性のもう一つの側面は、こうした諸条件の総体からうまれる可能性です。これを事柄といい、それ自体一つの条件ですが、さきにのべた条件と区別されるのは、たとえばフランス革命の個々の条件は、それ一つだけではけっしてフランス革命をうみだしはしません。ところが、事柄は、個々の直接的な現実の全体をその条件としてそのうちに芽ばえたたんなる内的なものにすぎませんが、しかし、それはうまれると同時に、それ自身、現実を動かしていく役割をもった、新しい一つの条件です。いわば、フランス革命の個々の条件から生じる総体的なフランス革命の可能性、つまりフランス革命の具体的な全体像が事柄です。
 条件は新しい現実をうむ可能性ですが、それらは事柄のために材料として使用され、事柄の内容になっていくという点では受動的なのです。また、すべての条件がそろうとものは現実化するのですから、すべての条件がそろった実在的可能性は事柄の内容にふさわしい内容となっています。前述のフランス革命のための諸条件はフランス革命の可能性、すなわち事柄の内容にふさわしい内容となっているのです。このことを事柄からみれば、事柄はこれらの条件を使用することによって現実化するわけですから、それは諸条件の総体によってこそ自分を事柄としてしめすのであり、またそれは他のなにかから出現するのではなく条件から出現するものです。実在的可能性の現実性への転化は、内的な可能性が実現して外的な直接性になるということであり、条件という外的な直接性が新たな現実の生成の過程でそのうちにとりこまれて、おなじ一つのものとなり、実現した現実の内容に転化するということです。
 ところで、フランス革命のための条件がだんだん成熟していけば、ますます事柄の内容が明瞭になっていき、つぎには事柄が諸条件の成熟をうながし、こうしてやがてフランス革命が開始されます。つまり、条件は自ら成熟して事柄をうみだすとともに、事柄は条件の成熟をさらにさらに促すようにはたらくわけです。このように事柄を現実化する運動をヘーゲルは活動Tätigkeitとよんでいます。つまり、条件、事柄、活動は必然性の三つの要素となっています。
 必然性は可能性が実現して実在的(現実的)なものとなることであり、またフランス革命の実在的な諸条件がその可能性をうむように実在的なものが可能的なものとなります。この意味で必然性は可能性と現実性との統一です。
 相対的必然性(実在的可能性)においては、事柄や活動は諸条件を前提としてなりたっているものです。しかし、この諸条件そのものは外的な直接的存在であり、事柄や活動にとってそれが現実化するための条件が全部そろうかどうかはまだ偶然的です。相対的必然性においては、条件、事柄、活動という必然性の三つの要素が、まだ完全には有機的な一体をなしておらず、おたがいにうみだしあう関係になっていません。それらは、ただ、外的に関係しあっているだけです。そこでは可能性と現実性がずれています。それでは、相対的必然性における可能性の実現は、有の移行のばあいのようにまったくの他者への移行なのかといえばそうではなく、可能性は現実性の萌芽なのですから、別のものになるのではなく、自己自身が実現するのです。



 
 ▼ 絶対的必然性
 絶対的必然性は、他の力をかりないで自分自身によって媒介されてでてきたものです。ただその媒介はここでは否定され消えてしまって、まるで自然のままにあるかのようにある直接的存在となっています。
 絶対的必然性は自分自身で自分が存在するための前提、つまり条件、事柄、活動を自分からうみだし、自らがうみだしたこれらのものによって自分自身となる、すなわち現実性となります。
 たとえば、人間は最初は石や木の枝を労働手段としてもちいて生産し、労働生産物をつくります。労働は最初は自分の外に前提をもっているのです。ところが、社会が発展してくると労働手段は人間の労働生産物になってきます。労働の前提である労働手段が労働によってうみだされ労働の結果となります。自分の条件を自分でうみだすわけです。このことは生物とか社会有機体をみれば非常に明瞭です。また、できあがった労働手段はあれやこれや工夫され、ぎくしゃくした過程をへて、つまり多くの媒介をつうじてそこにできあがったものとしてあります。しかし、そのできあがったものをみますとそうした媒介の痕跡はすっかり消えさって自然にそこにあるようにみえるのです。これが絶対的必然性です。
 絶対的必然性のもう一つの意味はつぎのことです。すなわち、それは媒介が消えて自然にそこにあるような直接性ですから、そうしたもの相互の関係においてはその内的連関は表にあらわれていません。それらは相互に無縁に直接的なものとして存在しているかのようにみえるのです。しかし、絶対的必然性は本当は相互に無縁な自立したもののあいだにひそんでいる内的連関であり、法則性です。



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絶対的相関 - 絶対的必然性のもつ内部の関係が絶対的相関である - 

 絶対的必然性においてはすべてのものは媒介されながら媒介そのものは消滅していますから、たがいに自立的に直接的に存在しています。だが、直接的なものならばそれらはたがいにまったくまったく無関係かといいますと、このばあいもやはりそうではなく、たがいに一定の関係のうちにあるのです。絶対的相関は現実的なもの、すなわち絶対的に自立的な必然性をもったものが相互にとりむすんでいる関係のことをいいます。だが、この絶対的相関においては二つの現実的なもの、二つの全体があるのかといえばそうではないのです。区別は一方ではそれぞれが一個の自立的全体であるもののあいだの区別なのですが、しかしその区別は、他方では独立性をもっていなくて、おなじ一つのものの内部の関係なのです。
 ところで、本質的相関(全体と部分、力とその発現、内と外)においては、相関する両項は一つの関係の二つの側面であり、おたがいに相手なしにはありえないような非自立的なものでした。絶対的相関では相関する二つの側面が、自立性、全体性をもっているという点で、本質的相関とはちがいます。しかしこの二つの相関は、相関する両項が非自立的であっても自立的であっても、その両項の相互依存の関係をあきらかにするものであるという点ではおなじです。
 絶対的相関には、実体と偶有の相関、因果性の相関、交互関係の三つがあります。・・・・以下、省略・・・

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