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  ヘーゲル『エンチュクロペディー』  2020.10.25


  ヘーゲル『自然哲学』   


      目 次
  Ⅰ シュヴェーグラー 『西洋哲学史』
   第45章 ヘーゲルへの移り行き
   第46章 ヘーゲル

   *エンチュクロペディ-
    第1篇 論理学
    第2篇 自然哲学  
    第3篇 精神哲学

  Ⅱ 
ウィキペディア」の解説と詳細目次



Ⅰ. シュヴェーグラー 『西洋哲学史』

  
第45章 ヘーゲルへの移り行き

・・・・したがってヘーゲルの哲学は、それに先行するシェリングの哲学の正反対をなしている。シェリングの哲学は次第により実在論的、スピノザ主義的、神秘的、二元論的となって行ったが、ヘーゲルの哲学はこれに反してふたたび観念的、合理主義的であり、純粋な思考一元論、思考と現実との純粋な和解である。シェリングの哲学はフィヒテの主観的観念論にかえるに客観的観念論をもってしたが、へ―ゲルの哲学はこの対立を越えており、自然的なものをふたたび精神的なものに従属させながらもしかも両者を内的には同一のものと理解する絶対的観念論をめざしているのである。

 形式から言っても、ヘーゲルの哲学は、その方法によってその先行者と根本的にちがっている。絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなくて発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なものの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別――といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別――ヘ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、われわれが絶対者へ付加するのではなくて、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者のたんなる契機であることを示さなければならない。ヘーゲルの方法はこのことを示そうとしている。それはこう主張する。各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そしてこの第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者を統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分のうちに含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。区別や対立は反省的悟性の考えているような固定したもの、独立に存在するものではなくて、概念の内在的な運動の流動的な諸契機である。絶対者も同じことである。普遍的なものがすべての特殊なものの根拠となるのは、普遍的なものが普遍的なものとして一面的なものであり、みずから自分の抽象的な普遍性をより具体的な規定性によって否定せざるをえないからである。絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生れる諸概念の体系である。

この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へ進んで行く。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動がヘーゲルの方法である。それはフィヒテの方法のように定立、反定立、綜合を主観的に定立しようとするのではなく、事柄自身の進行に従おうとする。それは存在を生み出そうとするのではなく、すでに即自的には存在しているものを、さらに思考する意識にたいして生みだそうとする。それはすべてをその内在的な連関においてとらえようとするのであるが、この連関は、内的な必然によっていたるところに統一から区別が、区別から統一が湧きでること、つまり、いたるところに対立が生れてはまた消える生動的な脈搏があることによって、与えられているのである。

 ヘーゲルは自分とシェリングとの相違を『精神の現象学』( „Phänomenologie des Geistes “ 1807年 )の序文のうちでもっとも明白に言いあらわしている。これは、以前はシェリングの信奉者と思われていたヘーゲルがはじめて独創的な哲学者としてあらわれた最初の著作である。かれはこの相違を次のような三つの適切な言葉のうちに総括している。すなわち、シェリングの哲学においては絶対者がピストルから発射されるようにとびだしている。それは、そのうちではすべての牛が黒く見える夜にすぎない。絶対者の体系への展開は、パレットの上に赤と緑との二色しかもたず、歴史画を求められればカンヴァスに赤をもって画き、風景画を乞われれば緑を用いる画家のやりかたを思わせると。第一の非難は、絶対者の理念に到達する方法、すなわち直接的で、知的直観をもってする方法をさしており、ヘーゲルはこのような飛躍を現象学のうちで一歩一歩進む秩序ある進行としたのである。第二の非難は、到達された絶対者を思考し表現する仕方、すなわち絶対者をすべての有限な諸区別の欠如とのみ考えて、自分自身のうちに諸区別の体系を内在的に定立するものと考えない仕方をさしている。ヘーゲルはこのことを、真なるものを実体(すなわち規定性の否定)としてでなく、主体(すなわち有限な諸区別の定立および産出)としてとらえかつ表現することが主要点であるという風にも言いあらわしている。第三の非難は、シェリングがその原理を自然的および精神的に与えられたものの具体的な内容へのうちへつらぬく仕方、すなわち事柄をそれ自身のうちから展開させ特殊化させないで、出来あがった図式(まず観念と実在との対立)をさまざまの対象へ適用することに向けられたものである。

特にシェリング学派にはこの図式化する形式主義が甚しく、ヘーゲルが現象学の序文でさらに次のように指摘しているのは、まずこの学派にあてはまるのである。かれはこう言っている、「自然科学上の形式主義が、悟性は電気であるとか、動物は窒素であるとか説けば、無経験な人はこのことにたいして驚歎の眼をみはり、そのうちに深い独創を認めて尊敬の念を抱くであろう。しかしこのような智慧の卜リックは、これを使用することが容易であると同じように、すぐに覚えこまれる。そしてこのトリックが繰返して用いられるのは、種のわかっている手品が繰返されるのと同じように、我慢のできないことである。天上地上のすべてのもの、自然的および精神的なすべての形態に、一般的図式の少数の規定を貼りつけるこの方法は、宇宙をして、レッテルを貼って密封した罐の列が並んでいる香料商の店頭にも等しいものとするのである。」

  『精神の現象学』の本来の目的は、ヘーゲルの意味での絶対的知識を意識の本質から基礎づけ、それが意識自身の最高の段階であることを明らかにすることである。かれはここで現象する意識の歴史(本書の表題はこれによるのである)、意識が哲学的知識にまで形成されていく途上にあるさまざまな時期の発展を述べている。意識の内的発展は、意識自身の各時期の状態が意識にたいして対象的となり(すなわち意識され)、意識が自分自身の在りかたを知ることによってたえずより高い状態に達するということである。現象学が示そうとするのは、意識がどのようにしてまたどのような必然性にょって、ある段階から次の段階へ、即自から対自へ、存在から知識へ進展するかということである。出発点はもっとも低い段階、直接的な意識である。ヘーゲルはこの節に「感覚的確信、あるいは個別的対象と個人的意識」( Die sinnliche Gewissheit oder das Dieses und das Meinen )という見出しをつけている。この段階においては自我は、「このもの」(das Dieses) あるいは「ここ」( das Hier )は何か、という問いにたいして、「ここ」は木である、と答え、「いま」(das Jezt )という問いにたいして、「いま」は夜である、と答える。しかしわれわれが身をめぐらせば、「ここ」は木ではなくて家である。また第二の問いを書きとめてしばらくしてからふたたび見れば、「いま」は夜ではなくて昼である。したがって「このもの」は「このものでないもの」( das Nicht-Dieses )、すなわち普遍的なものとなる。これは当然である。というのは、わたしがこの紙と言うならば、どの紙でも一つのこの紙であって、わたしはつねに普遍的なことを言ったにすぎないからである。このような内的弁証法を通じて、直接な感覚的確信は知覚( Wahrnehmung )へ移っていく。同じようにして、すなわち、あらゆる発展段階、哲学的思考を行う主観のあらゆる意識形態が矛盾にまきこまれ、そしてこの内的弁証法を通じてより高い意識形態へ駆りやられることによって、この発展過程は、矛盾が取りのぞかれるまで、すなわち主観と客観との間のあらゆるへだてがなくなって精神が完全に自分を認識し確信するまで、進むのである。

 この進行の諸段階をかんたんに示せば、次のごとくである。意識は最初に感覚的確信として、あるいは個別的対象および個人的意識として存在する。その次には、対象をさまざまな性質をもった物( Ding mit Eigenschaften )としてとらえる知覚( Wahrnehmung )として存在する。その次には、対象を自分のうちへ反照した本質としてとらえる、すなわち力と発現、本質と現象、外的なものと内的なものとを区別する、悟性( Verstand )として存在する。さらに、その対象および対象の諸規定のうちで自分自身だけを、すなわち自分に固有な純粋本質を把握し認識し、したがってそれにとっては他者が他者でなくなっている意識は、自己同一的な自我、自分自身の真理と確信、自己意識( Selbstbewusstsein )となる。自己意識はさらに普遍的な自己意識すなわち理性 ( Vernunft )となるが、理性も同じく一系列の発展段階を経過して次に精神( Geist )となる。精神とは、存在している理性性に媒介され、理性的な外界に飽和され、親しい自分の国としての自然的および精神的宇宙の上に拡大された理性である。精神は、素朴な人倫( unbefangene Sittlichkeit )、教養と啓蒙、道徳性( Moralität )と道徳的世界観などの諸段階を経て宗教となる。宗教そのものは啓示宗教として完成され、絶対的知識となる。この最後の段階にあっては、存在と思考とはもはや分離されていず、したがってもはや存在が思考の対象ではなくて、思考そのものが思考の対象である。哲学とは、精神の自分自身にかんする真実な知識にほかならない。
 現象学を閉じるにあたってヘーゲルは、それまで辿ってきた道を次のように回顧している。
 「到達点である絶対知、すなわち自分が精神であることを知る精神は、その行程として諸精神の回想をもっている。これらの諸精神はそれら自身のうちにあるとともに集って一つの組織的な王国をつくっているのである。それらを偶然性の形式をとって現われる自由な存在という側面にしたがって保存するのが歴史であり、それらを把握された有機的組織という側面にしたがって保存するのが現象する知識の学である。この二つをあわせたもの、すなわち把握された歴史こそ、絶対精神の回想でありゴルゴタであって、その玉座の現実性、真理、および確信をなし、これがなかったら絶対的精神は生命のないもの、孤独なものであろう。ただ『この諸精神の王国のさがずきからそれの無限性が泡だちあふれる』のである。」
 しかし現象学に見られる進展はまだ厳密に学問的とは言えない。それは「絶対的方法」の最初の生彩に富んだ適用であって、「現象する知識」の諸形態の批判によって示唆的ではあるが、そのうちで取扱われている豊かな弁証法的および歴史的素材の整理と配列とにおいては恣意的である。

     ・・・・・・・以上、第45章終わり・・・・・・


 
 第46章 ヘーゲル

 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhekm Friedrich Hegel)は1770年8月27日、シュツットガルトに生まれた。18歳のとき神学研究のためにチュービンゲン大学にはいった。大学時代のかれは特別の注意もひかなかった。年少のシェリングが断然同窓を圧していたのである。後スイスとフランクフルト・アム・マインで家庭教師をし、1801年イェーナ大学の私講師となった。はじめかれはシェリング哲学の帰依者であり擁護者であると思われていた。同年書かれた最初の小著『フィヒテとシェリングとの哲学体系の相違』(。Djfferenz des Fichteschen und Schellingschen Systems der Philosophie“)はこの精神をもって書かれている。その後まもなくシェリングと協力して『哲学批評誌』(1802-03)を刊行し、いくつかの重要な論文をそれに発表した。かれの講義ははじめ少数の者にしか喜ばれなかったが、1805年には同大学の教授となった。しかしついでまもなくイェーナを襲った政治的破局のためにふたたびその地位を失った。イェリナ戦役の砲声のもとでかれは、最初の偉大で独創的な主著であり、イェーナ時代の活動の頂点である『精神の現象学』(„Phänomenologie des Geistes“」を完成した。かれは後つねに、1807年に出版されたこの著作を探検旅行と呼んでいた。ほかに生活の資を得る道がないのでイェーナからバンベルタへ行き、そこで2年間政治新聞の編集をした。1808年の秋、ニュルンベルクのギムナジウムの校長となった。この地位にあってかれは、1812年から1816年までの間に『論理学』を書いた。すなわち、シェリングがすでにその活動を終えてしまっていたときに、へーゲルはその著作をゆっくりと成熟させ、またその文筆活動をようやく本当にはじめたわけである。1816年かれは哲学教授としてハイデルベルクへ招かれたが、1817年ここで『エンチクロペディー』)を出版し、はじめてかれの全体系を示した。しかし、かれが本当に有名になり広い影響を及ぼすようになったのは、1818年ベルリンヘ招かれてからであった。ここで、広い範囲にわたって多くの仕事をした大きな学派がかれをめぐって形成され、大臣アルテンシュタインとの結びつきによってかれは政治的および行政的にも影響をおよぼすようになり、その哲学は国家公認の哲学として通用するようになった。最後の二つのことは、かれの哲学の内面的な純粋性と道徳的信用をそこなわないではなかった。もっともヘーゲルは、1821年に著した『法の哲学』のうちでは、近代の国家生活の根本的諸要求を否認していないのであって、人民代表、出版の自由と裁判の公開、陪審裁判と団体の行政的独立を要求している。ベルリンでのヘーゲルの講義はほとんど哲学の全部門にわたっており、これはかれの死後、弟子、友人にょって出版された。かれの講義は澱みがちでぎこちなく生彩に乏しかったが、他方深い思索の直接の表現として独自の魅力がありた。かれはその交際においては学者よりも普通の人々をえらび、社交的な集りで精神的優越を示すのを好まなかった。1829年大学総長となったが、かれはその職務をフィヒテよりも実際的に果たした。ヘーゲルは1831年11月14日、すなわちライプニッツと同じ日に死んだ。かれの墓はフィヒテの墓とならんでいる。
 ヘーゲルの体系は、知識の行程によって三部門にわかれる。(1)純粋な、あらゆる精神的および自然的生命の根底にある(非時間的に先だつ)普遍的概念すなわち思考規定の発展、絶対者の論理的展開――論理学。 (2)実在する世界すなわち自然の発展――自然哲学。 (3)観念的な世界の発展、すなわち法、道徳、国家、芸術、宗教、学問のうちで自己を実現しつつある具体的な精神の発展――精神哲学。 ――体系のこの三部門は同時に、ヘーゲルの絶対的方法の三つの契機である肯定、否定および両者の統一を表現している。絶対者は最初は素材をもたぬ純粋な思想である。次にそれは純粋思想の他在、それが時間と空間のうちで分散したもの、すなわち自然である。第三にそれはこのような自己疎外から自分自身へ帰り、自然という他在を克服して、自分自身を知る真の思想、すなわち精神となる。

  
エンチュクロペディ- 
 
  哲学的な諸学のエンチュクロペディ-の綱要  (初版1817年、第3版1830年)
  Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse
第1篇 論理学
第2篇 自然哲学
第3篇 精神哲学

第1篇 論理学
予備概念
第1部 有論
第2部 本質論
第3部 概念論

第2篇 自然哲学
第1部 力学
第2部 物理学
第4部 有機的な自然学

第3篇 精神哲学
第1部 主観的精神
第2部 客観的精神
第3部 絶対的精神

……………

1. 論 理 学

 ヘーゲルの論理学は純粋な理性概念を学問的に叙述し展開しようとしたものである。純粋な理性概念とは、あらゆる思考と存在の根抵にあって、主観の認識作用の根本的規定でもあれば客観的現実に内在する魂でもあるような諸概念あるいはカテゴリーであり、そのうちで精神的なものと自然的なものとが合一点を見出す理念である。論理学の世界は被いなくそれ自身で存在している真理である、とヘーゲルは言っている。またへーゲルが比喩的に表現しているところによれば、論理学は世界および有限な精神を創造する以前の永遠な本質のうちにある神の叙述である。この点から見れば、それはとにかく影像の世界ではある。しかし他方これらの影像はあらゆる感性的素材から解放された単純な諸本質であって、全宇宙はそれらの骨組のうちに造りいれられているのである。
 理性の純粋な諸概念を集めて吟味するという仕事にはすでに幾人かの哲学者が手をつけており、アリストテレスはカテゴリー論で、ヴォルフは存在論で、カントは先験的分析論でこれをやっている。しかしかれらはそれらを完全に集めてもいないし、批判的にふるいわけしてもいないし、また(カントは別だが)一つの原理から導き出さないで、ただ経験的に拾いあげ、字引でもつくるように取扱っている。ヘーゲルの企てたことは、このような仕方とはちがって、第一に、理性の純粋な諸概念を完全に集めることであり、第二に、批判的にふるいわけること(すなわち、直観をまじえた不純な思想はすべて除去すること)であり、第三に――これがへーゲルの論理学のもっとも特徴的なところであるが――それらを弁証法的に次ぎから次ぎへと導きだして、純粋理性の内的連関をもった体系へ作りあげることであった。理性は何ものをも前提することなく、まったく自分自身のうちから知識の全体系を導きださなければならないという要求は、すでにフィヒテが提出している。ヘーゲルはこの思想を堅持しているが、しかしかれの仕方は客観的である。かれは、他のすべてのものを含蓄的に含んでおり、したがってそれによって本当に思想の進展がもたらされるのではなく、ただより詳しく規定されるにすぎないような、いくつかの最高原理を立てるのではない。かれはもっとも単純な、それ以上の根拠づけを必要としない理性概念、純粋な存在( das reine Sein )という概念から出発し、次第により豊かな諸概念へ進みながら、抽象的な概念がより具体的な概念へ発展することを示すことによって、純粋な理性的知識の全体系を導きだそうとする。この発展の挺子となっているのが、否定を通じて或る概念から他の概念へと進んでいく弁証法的方法( die dialektische Methode )である。
 ヘーゲルの言うところによれば、すべての定立は否定である。あらゆる概念はそのうちに自分自身と反対のものをもっており、したがって自己を否定して反対のものになる。しかしあらゆる否定はまた定立であり肯定である。ある概念が否定されるばあい、その結果は純粋な無、まったく否定的なものではなく、一つの具体的な肯定的なものである。すなわちそこには、先行する概念を否定しただけ豊かにされた、一つの新しい概念が生れてくる。例えば一の否定は多という概念である。ヘーゲルはこのような仕方で否定を弁証法的進展の手段としているのである。すべての先に定立された概念は否定され、そしてこの否定からより高くより豊かな概念加えられるのである。ヘーゲルはこのような、分析的であるとともに綜合的でもある方法を論理学の全体系にt貫いているのである。   
 以下われわれはヘーゲルの論理学のかんたんな概観をあたえよう。それは有論、本質論、概念論の三部にわかれている。
         A 有論( Die Lehre vom vom Sein )
 a 質( Qualität )。
論理学のはじまりは、有(Sein)という直接的で無規定的な概念である。これは内容をもたず空虚であるから、純粋な否定である無(Nichts)に等しい。したがってこの二つの概念は、絶対的に対立していると同じく絶対的に同一であり、各々は直接にその反対物のうちへ消え去る。両者のこのような振動が純粋な成(Werden)であって、詳しく言えば、無から有への移行は発生(Entstehen)、その逆は消滅(Vergehen)と呼ばれる。この生滅の過程が沈澱して、静止した単純なものとなっだのが、定有(Dasein)である。定有とは規定性(Bestimmtheit)をもっだ有、すなわち質(Qualität)であり、もっと詳しく言えば実在性(Realität )すなわち限界をもった定有である。限界をもつ定有は、自分から他のものを排除する。他のものにたいする否定的態度によって媒介されている、このような自分自身への関係を、われわれは自分自身にたいしてあること(対自有 Fürsichsein)と呼ぶ。自分自身とのみ関係して、他のものを反撥する対自有が一者(Eins)である。しかしこの反撥によって一者は直接に多くの一者を定立する。ところが多くの一者は互いに異なっていない。一者は他の二者と同じものである。したがって多くの一者は一つのものである。しかしながら一者は同じく多である。なぜなら一者の排除作用は一者と反対のものの定立である、言いかえれば、一者はこの作用によって自分を多として定立するからである。このような牽引(Attraktion)と反撥(Repulsion)との弁証法によって、質は量へ移っていく。というのは区別および質的規定性にたいする無関心が量だからである。

 b 量(Quantität)。
量とは大きさの規定性であって、このようなものとして質にたいして無関心である。多くの一者を区別されうるものとして含んでいるかぎり、量は非連続的である。言いかえれば、それは非連続性(Diskretion)の契機をもっている。反対に多くの一者が同種的であり、したがって量が無区別性という性格をもっているかぎり、それは連続的である。すなわち連続性(Kontinuität)の契機をもっている。同時にこの二つの規定は同一であって、非連続性は連続性なしには考えられないし、連続性は非連続性なしには考えられない。量の定有すなわち限界をもった量が、定量(Quantum)である。定量もまた多と単一という契機を含んでおり、いくつかの単位の集り、すなわち数(Zahl)である。定量すなわち外延量には、内包量すなわち度(Grad)が対立する。度は単純な規定性であるから、度の概念とともに量はふたたび質に近づく、量と質との統一が度合(Maß)である。

 c 度合(Maß) 〔限度 Das Mass〕
度合とは質的な定量、すなわち質がそれに依存している定量である。ある対象の質をじっさいに規定している定量の一例は、水の温度である。それは水が水のままであるか、あるいは氷となり水蒸気となるかを決定するものであって、ここではじっさいに温度の定量が水の質を規定している。したがって質と量とは、ある事物の直接的な質および量とはちがう第三の或る存在のうちでたえず転化しあう二つの規定である。直接的な有から独立している質、直接性の否定が本質(Wesen)である。本質は自分のうちにある有(Insichsein)、自分のうちで二重となっている有、有の自己分裂である。本質のすべての規定が二重性をもっているのはこのためである。

         B 本質論(Die Lehre vom Wesen)

 a 本質そのもの。
反射された有(reflektiertes Sein)としての本質は、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。このような有が反射された有と呼ばれるのは、直進して鏡面にぶつかると、それによって投げかえされる光の反射(Reflexion)になぞらえたのである。反射された光が他のものへの関係によって媒介あるいは定立されたものであるように、反射された有は他のものによって媒介あるいは根拠づけられたものとして示される有である。哲学が事物の本質を認識することを課題とするばあい、そこでは事物の直接的な有は、言わば、その背後に本質がかくされている被いあるいは幕と見られる。したがって或る対象の本質が問題となるばあい、本質に対峙している直接の有は――というのはこれなしに本質は考えられないからであるが――たんなる消極的な有すなわち仮象(Schein)へひきさげられる。有は本質に映現する(scheinen)。したがって本質は自分自身における映現(Scheinen in sich selbst)としての有である。仮象に対峙したものと考えられるとき、本質は本質的なもの(das Wesentliche)あり、本質において単に映現するものは本質のないもの、すなわち非本質的なもの( das Unwesentlishe )である。しかし本質的なものも非本質的なものにたいしてのみ存在するのであるから、後者は前者にとって本質的であり、非本質的なものが本質的なものを必要とするように、本質的なものは非本質的なものを必要とする。したがって各々は他のものにおいて映現する。言いかえれば、両者のあいだには、われわれが反射と名づけている相互的な関係がある。したがってわれわれはこの領域ではさまざまな反射規定(Reflexionsbestimmung )、すなわち各々が他のものを指示しており、他のものなしには考えられないような諸規定を取扱わなければならない(例えば、積極的なものと消極的なもの、根拠と帰結、物と諸性質、内容と形式、力と発現、など)。だから本質の発展のうちでは、有の発展におけると同じ諸規定がふたたび現れはするが、もはや直接的な形式においてではなく、反射された形式においてである。有と無とのかわりに積極的なものと消極的なもの、定有のかわりに「根拠から現われた存在」(Existenz)があらわれる、等々。
 本質は反射された有である。すなわちそれは自分自身への関係ではあるが、この自己関係は、自己のうちに映現する他のものへの関係によって媒介されている。このような反射された自己関係をわれわれは同一性(Identität)と名づける。(いわゆる思考の第一原理すなわち同一律A=Aは、この同一性を不十分に抽象的に表現しているにすぎない)。同一性は、自分自身への関係として、自分を自分自身から区別するものであるから、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。直接的な、外面的な区別が差別( Verschiedenheit)である。本質的な区別、自分自身に即した区別が対立(Gegensatz)――積極的なものと消極的なもの――である。本質の自己対立が矛盾(Widerspruch)である。同一と区別との対立は根拠の概念のうちで統一される。というのは、本質は自分を自分自身から区別するものであるから、それはまず自分と同一である本質すなわち根拠(Grund)であり、第二に、自分自身から区別され突き離された本質すなわち帰結(Folge)であるからである。根拠と帰結というカテゴリーにおいては同じ本質が二度定立され、根拠づけられたものと根拠とは同じ内容をもっている。根拠を定義するには帰結をもってしなければならず、またその逆でもあるのはこのためである。したがって両者を切りはなすのは無理な抽象であり、他方、両者は同じものであるから、このカテゴリーの適用は本来一つの形式主義である。反省が根拠を問うばあい、それは事柄をいわば二重に見ようとするのである。すなわち、一度はその事柄の直接態において、次には根拠によって定立されたものとして。

 b 本質と現象(Wesen und Erscheinung )。
現象とは本質に充たされた現れであって、もはや本質をもたぬ仮象ではない。本質がなければ現れはないが、また現象せぬ本質もない。本質といい現象といっても、その内容は同一である。現象する本質において、これまでは根拠と呼ばれていた積極的なモメントをわれわれは内容(Inhalt)と名づけ、消極的なモメントを形式(Form)と名づける。本質はすべて内容と形式との統一である、すなわち本質は現存在する(existieren)。現存在Existenzとは、直接的な有とはちがって、根拠から出た有である、すなわち根拠づけられた有である。現存在するものとしての本質をわれわれは物(Ding)と名づける。物と諸性質(Eigenschaften)との関係のうちには、内容と形式との関係が繰返されている。諸性質は物の形式的方面であり、他方、物はその内容から見れば物である。普通、物とその諸性質との関係は、直接的な同一と区別されるために、持つという動詞にょって示されている(物は諸性質を持つ、というように)。自分へ否定的に関係し、自分を自分自身から突き離して他のものへの反射(Reflexion-in-Anderes)となるものとしての本質は、力(Kraft)と発現(Äusserung)である。同一の内容が二度定立されるという関係は、このカテゴリーにおいても、本質のその他の諸カテゴリーのばあいと同様である。力は発現からのみ説明され、発現は力からのみ説明されうる。したがってこのカテゴリーをもってする説明はすべて同語反復を出ないものである。力を認識できないものと考えるのは、悟性が自分自身の行為を思い誤っているにすぎない。力と発現というカテゴリーのより高い表現は、内的なもの(Inneres)と外的なもの(Äusseres)というカテゴリーである。なぜより高いかと言えば、力が発現するには
誘発が必要であるが、内的なものは自発的に顕現する本質だからである。この二つのもの、内的なものと外的なものもまた同一であって、一方は他方なしには存在しない。例えば、人が内的に、すなわち性格的にどういう人であるかは、外的にその行為のうちにもあらわれている。したがってこの関係の真理はむしろ内的なものと外的なものとの同一性、本質と現象との同一性である。

 c 現実性( Wirklichkeit)
有と現存在とに第三のものとして現実性がつづく。現実性においては、現象は本質の完全で十分な顕現である。したがって真の現実性は、可能性(Mӧglichkeit)や偶然性(Zufälligkeit)とは反対に、必然的存在、合理的必然性(Notwendigkeit)である。現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である、というヘーゲルの有名な命題は、「現実性」を右のように理解すれば、同語反復にすぎないことがわかる。自分自身の根拠、自分と同一である根拠として定立された必然性が実体(Substanz)である。実体における現象の側面すなわち非本質的なもの、必然的なものにおける偶然的なものが偶有性(Akzidenz)である。偶有性の実体にたいする関係は、もはや現象の本質にたいする、あるいは外的なものの内的なものにたいする関係ではない。すなわち十分な顕現ではない。偶有性は実体の一時的な状態変化であり、海の表面に立つ波のように、偶然で定めない現象形態にすぎない。それは実体によって産出されたものではなく、実体のうちで亡び去るものにすぎない。実体性の関係は因果性(Kausalität)の関係へ導く。因果関係のうちでは、同一の事柄が一方では原因(Ursache)として、他方では結果(Wirkung)として定立されている。熱の原因は熱であり、その結果もやはり熱である。結果は、原因に現実的に対峙しており、原因そのものが結果となるのであるから、実体性の関係における偶有性よりも高次の概念である。しかし因果関係においては二つの側面が互いに他を前提しているかぎり、真の関係はむしろ二つの側面がおのおの原因であるとともに結果であるような関係――相互作用(Wechselwirkung)である。相互作用が因果性よりも高次の関係である理由は純粋な原因性というものはないからである。反作用のない作用はないのである。
 相互作用というカテゴリーで本質の領域は終る。本質のカテゴリーはすべて二つの側面からなる二重性として示された。相互作用においては原因と結果との対立が合一しているのであるから、二重性のかわりにふたたび自分自身との統一が現れる。したがってわれわれはふたたび、さまざまな独立したものに分れはするが、この独立したものは有そのものと直接に同一であるような有をもつわけである。有の直接性と本質の自己分裂とのこのような統一が概念(Begriff)である。

         c 概念論( Die Lehre vom Begriffe)

 概念は、他のもののうちにありながらも自分自身と同一なものである。それは、その諸契機(個と特殊)が全体(普遍)そのものであるような実体的総体であり、区別に自由を与えていると同時に、それを自分自身の内で統一している総体である。概念は次の三つにわかれる。
a 主観的概念、すなわち、多様の統一ではあるが、内容が捨象されている形式的な概念。
b 客観性、すなわち、もろもろの独立な現存在の外的な統一として、直接性の形態のうちにある概念。  
c 理念、すなわち、客観的であるとともに、客観的定有を再び自己との純粋な統一へ還元し、客観に内在的であるとともに、それ自身実在的なものの点的な統一として存在する概念。
 a`主観的概念(der subjective Begriff )普遍(Allgemeinheit)、特殊(Besonderheit)、および個(Einzelheit)の三契機を含んでいる。普遍は区別における自己同一であり、特殊は普遍との同一のうちにとどまっている区別であり、個は普遍と特殊(類と種)とを自分のうちで合一している独立の存在である。普遍的なものがそれだけで定立されたものが概念そのものである。この一面性は、普遍が個に内属するもの、主語の述語としてじっさいに定立されることによって取りのぞかれる。言いかえれば、判断(Urteil)のうちで取りのぞかれる。判断は個と普遍とが同一であることを言いあらわしている。したがって普遍的なものが分れて普遍的なものと同一である多くの独立なものとなること、すなわち概念の自己分裂を言いあらわしている。概念は判断のうちで、自分が実体や原因や力のように抽象的なものではなく、個に内在し個の世界へつながっている具体的な規定性であることを示している。判断の一面性、すなわち、判断のうちでは個が直接的に普遍と同一なものとして定立されており、したがって両者がじっさいには一致しない(普遍は個より広く、個は普遍より具体的である)という一面性は、推理(Schluss)のうちで取りのぞかれる。推理のうちで個と普遍とは、両者の間に媒概念としてはいってくる特殊によって媒介される。したがって推理は、特殊化によって個のうちに自分を実現している普遍、あるいは、特殊を介して普遍のうちにある個を表現しているのである。自分自身のうちで自分を区別して多くの個となり、そしてこれらの個はその特殊性によって普遍にたいして独立であるとともに、またその特殊性によって普遍に結びつけられ普遍と同一であるということが概念の本質であるが、この本質は推理によってはじめて完全に表現されるのである。――以上見てきたところによれば、概念はたんに主観的なものではなくて、そのもとに把握されている存在の総体のうちに実在しているのである。このように見られた概念がすなわち客観的概念である。
 b 客観性(Objektivität)は存在一般ではなく、自分のうちで完結し、概念的に規定されている存在である。その最初の形態は機械的関係(Mechanismus)である。すなわち相互に無関心で、ただ一般的な紐によってのみ全体(寄せ集め)という統一へ結びつけられている、多くの独立なものの共存である。この無関心は化学的関係(Chemismus)のうちで取りのぞかれる。化学的関係は、独立なものの相互牽引、浸透、中和であって、このようにして独立なものは相補って統一をなすのである。しかしこの統一は消極的なものにすぎず、個別的なものが全体のうちへ消え去るという統一である。したがって客観性の第三の形態は目的関係(Teleologie)である。目的は自分を実現する概念、存在を自己の手段へひきさげ、物の独立性を否定する過程のうちに自分自身を維持し完成する概念である。目的の概念のうちにある欠陥は、それがまだ客観性を外来的なものとして自分自身に対峙させているということである。この欠陥が除去されると、客観性に内在する目的という概念、客観性のうちで自分を完成し、客観性に浸透し、客観性そのもののうちで自分を実現する概念が生ずる。これが理念である。
c 理念(Idee)は、絶対者の最高の論理的定義である。それはたんに主観的な概念でもなければ、たんに客観的な概念でもなく、客体に内在し、客体を解放してまったく独立させるが、しかもそれを自分自身との統一のうちに保っている概念である。理念の直接的な形態は生命、有機体である。生命は客体と概念との直接的な統一であって、概念は客体にその魂として、生命性の原
理として浸透している。しかしここではまだ概念は自覚的でない。客体に対峙する理念が認識(Erkennen)である。認識は、概念が客観性のうちでふたたび自分を見出すものとしては真の理念であり、客体の独立性を否定し、実在的なものを高めて概念に適応させるために、自分を客観性のうちへ作り入れるものとしては善の理念である。しかしこのような理念と客体との対峙は一面的であって、認識と行為とは、主観的存在と客観的存在との同一性を必然的に前提している。したがって最高の概念は絶対的理念(absolute Idee)であり、これは生命と認識との統一、無限に現実的であるとともにその直接な現実性とは区別され、自分自身を思考しそして思考しながら実現する普遍的なものである。

 訳者註 ヘーゲルは「認識」を広い意味では、主観と客観との統一という意味に用いる。かくしてあるがままの客観への主観の一致が狭義の「認識」、客観を主観の要求に一致させるのが意志となる。

自分を外化して直接な現実となった理念が自然であり、自然から自分へ帰って、意識をもって自分自身と結びついた理念が精神である。

・・・・・・・以上、1.論理学 終わり・・・・


     2、 
自然哲学 Naturphilosophie

 自然は他在(Anderssein)の形態における理念である。すなわち論理的抽象から出て実在する特殊となり、他方そのために自分自身にとって外的となった概念である。したがって自然のうちでは概念の統一性はかくされている。哲学の任務は、自然のうちにかくれている叡智をさぐり、自然が自分を克服して精神となるまでの過程を追求することであるから、哲学は次のことを忘れてはならない。それは、分散と自己外存在が自然一般の本質をなしていて、自然の産物はまだ自分自身への関係をもたず、概念に適合せず、制御されずほしいままの偶然性のうちにはびこっている、ということである。自然は自分を抑制することを知らぬバッカスの神である。したがって自然はまた、概念的に整然とした、連続的に上昇して行く段階関係をなしていず、その本質的な諸境界はいたるところ中間的で出来のわるい諸形態によってぼかされており、このような形態が常にあらゆる明確な分類をさまたげている。概念的な諸規定を堅持できない、このような自然の無力(Ohnmacht der Natur)のために、自然哲学はいたるところで具体的な個別的形態の世界と思弁的理念の訓令との中間で、言わばかぶとを脱がざるをえないのである。
 自然哲学はその出発点と道程と到達点とをもっている。その出発点は、自然の最初のあるいは直接的な規定、自然の自己喪失の抽象的な普遍性、すなわち空間と物質である。その到達点は、理性と自己意識とをもつ個性という形態のうちで精神が自然から脱却すること、すなわち人間である。この両端を媒介するさまざまの中間項を示し、人間のうちで自己意識にまで上昇しようとする自然の漸進を一歩一歩たどって行くこと、これが自然哲学の解くべき課題である。この過程で自然は次の三つの主要段階を通過する。

 A 物質と物質の観念的な組織、すなわち力学(Mechanik)。
 物質は自然の自己外存在の普遍的な形態である。しかしそれはすでに、自然哲学をつらぬく赤い糸をなしている、向自的存在への傾向を示している。これが重力である。重力は物質の自己内存在、我にかえろうとする憧れ、主観性の最初の徴候である。物体の重心は、物体が求めている一者である。多を一に集中しようとする同じ傾向は万有引力および太陽系の根抵にも存在している。ここでは重力の根本概念である中心性が体系となっており、しかも、軌道の形、運動の速度あるいは週期が数学的請法則に還元されるかぎり、実存する合理性の体系となっている。

 B 物理学(Physik)。
 しかし物質はまだ個性をもたない。天文学においても関心の対象となるものは天体そのものではなくて、その幾何学的な諸関係にすぎない。問題となっているものは常に量的な諸規定にすぎず、まだ質的なそれではない。しかし物質は太陽系においてその中心点、自己を見出したのである。その抽象的な鈍い自己内存在は形をもつようになったのである。そこで物質は、質化された物質として、物理学の対象となる。物理学では物体すなわち個性へと自己を特殊化した物質が取扱われる。この領域にはいるのは、無機的自然とその諸形態および相互関係である。

 C 有機体学(Organik)。
 物理学の対象であった無機的自然は化学的過程のうちで亡びさる。無機的物体は、化学的過程のうちでそのあらゆる性質(凝集力、色彩、光沢、音、透明、等々)を失い、その存在のはかなさを示すが、このような相対性こそその本質である。化学的過程を克服したものが有機的なもの、生命あるものである。もちろん生物は常に化学的過程へ移行しようとしているのであって、酸素や水素や塩が常に姿をあらわそうとしてはいるが、それらはふたたび克服され、生物は死ぬまでは化学的過程に抵抗している。生命は自己保存であり自己目的である。したがって自然は物理学においては個性にまで到達したのであったが、有機体学ではさらに主観性にまで進むのである。ーー生命としての理念は三つの段階をなしている。



 ㈲ 第一の段階は、生命の一般的な像である地質学的有機体すなわち貳物界である。といっても鉱物界は、すでに過ぎさった生命と形成の過程の結果であり残りかすである。原始山脈は生命が凝固してなった結晶であり、地質学的土地は一つの巨大な屍である。永久に新しく自分を生産しつつある現在の生命、すなわち主観性の最初の活動があらわれ出るのは、 ㈲ 植物的有機体すなわち植物界においてである。植物はすでに形成過程、同化過程、および類的過程へまで進んでいる。しかしそれはまだ自分のうちで組織されている総体性ではない。植物の各部分は完全な個体であり、各七の枝は一つの完全な木である。諸部分は互いに無関係であり、断獄が根となることもできれば、根が樹冠となることもできる。植物においては生命はまだ個性の真の自己内存在に達していない。そのためには個体の絶対的統一が必要だからである。
 ㈲ 訃払昏有機体ヽ訃昏かがはじめてこのような統一でありヽ個別的な具体的主観性である動物的有機体はまず不断の栄養摂取、自由な運動、感覚をもっており、より高級なものになると体温と音声とをもっている。最後に、もっとも高級なものである人間において自然は、というよりむしろ自然をつらぬいて活動している精神は、自分を意識的な個性、すなわち自我として把握している。精神はここで自由な理性的自己となり、自然からの自己解放を完成する。

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 Ⅱ、「ウィキペディア」との解説より

エンチクロペディー(独: Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse、哲学体系の百科事典・要綱)は、ドイツの哲学者ヘーゲル(1770年 - 1831年)の主著。「エンチクロペディー」とはドイツ語で「百科事典」を意味する言葉である。

ヘーゲルがハイデルベルク大学教授時代に、講義に使うために刊行したものである。論理学(小論理学)、自然哲学、精神哲学の3部からなり、あらゆる哲学・知を体系化しようとする壮大な著書である(初版1817年,〔
第3版 1830年9月19日〕)。その後、本人によって改訂が行われ、さらに逝去後に刊行されたヘーゲル全集版(1839年)では、ヘーゲルの講義筆記(弟子たちが記録したもの)をもとに大幅に増補されている。



      『エンチュクロペディー』



  論理学
先に刊行された『論理学』(大論理学、1812 - 1816年)に対して一般に『小論理学』という。ヘーゲルによれば存在 - 本質 - 概念というのは人間の認識が深まってゆく過程であるとともに、絶対者(神)の属性でもある。例えば「神は存在する」というのはごく当然の規定でそれだけで終わっていては浅い段階に留まり、本質 - 概念、と進んで「神は絶対的理念である」というのが最も深い考察である。



予備概念
客観性に対する思想の第一の態度 形而上学
客観性に対する思想の第二の態度 経験論 批判哲学
客観性に対する思想の第三の態度 直接知
論理学の詳細な把握と区分


存在論


存在
定在
向自存在

純粋量
定量

限度
本質論
現存の根拠としての本質
純粋な反照諸規定
同一性
区別
根拠
現象
現象の世界
内容と形式
関係
現実性
実体性の関係
因果性の関係
交互作用


概念論
主観的概念
概念としての概念
判断
質的判断
反照の判断
必然性の判断
概念の判断
推論
質的な推論
反照の推論
必然性の推論
客観
機械論
化学論
目的論
理念
生命
認識
認識
意欲
絶対理念


  自然哲学

自然を考察する諸々の仕方
自然の概念


分類
力学
空間と時間
空間
時間
場所と運動
物質と運動
慣性的物質
衝撃
落下
絶対的な力学
物理学
普遍的な個体性の物理学
自由な物理的な天体

対立の天体
個体性の物体
元素
空気
対立の元素
個体的な元素
元素の過程
特殊な個体性の物理学
比重
凝集力


統体的な個体性の物理学
形態
個体的な物体の特殊化
光にたいする関係
特殊な物体性における区別
特殊な個体性における統一性、電気
化学的な過程
合一
ガルヴァーニ電気
火の過程
中性化、水の過程
その統体性における過程
分離
有機体学
地質学的自然
植物的自然
動物的有機体
形態
同化
類の過程
類と種
性関係
個体の病気
個体の死


 精神哲学

ヘーゲルによれば「精神」は単に人間の主観ではなく、世界史の過程を通して絶対的精神が自己展開してゆくことになる。

精神の概念
分類
主観的精神
人間学 心
自然な心
自然的性質
自然的変化
感覚
感ずる心
情感する心の直接態
自己感情
習慣
現実的な心
精神の現象学 意識
そのままの意識
感性的意識
知覚
悟性
自己意識
欲望
承認する自己意識
普遍的自己意識
理性
心理学 精神
理論的精神
直観
表象
想起
構想力
記憶
思惟
実践的精神
実践的感情
衝動と恣意
幸福
自由な精神
客観的精神

所有
契約
不法に対する法
道徳
計画
意図と福祉
善と悪
人倫
家族
市民社会
欲求の体系
司法
警察と組合
国家
国内法
対外法
世界史
絶対的精神
芸術
宗教
哲学
客観的精神の部分をさらに考察したものがのちに『法哲学』になる。最後の「哲学」に至って、端緒の論理学と円環を結んだ体系が完成する。

一見してわかるようにヘーゲルは『3』(三一性 Dreiheit)という数に非常にこだわって哲学体系を築き上げた(主観的 - 客観的 - 絶対的など)。こうした考えは、キリスト教の三位一体説が基になっている。ヘーゲルの弁証法の考え方は、その代表例であるが、フィヒテの弁証法にも認められるし、カントが示した12項目のカテゴリー表(分量・性質・関係・様相の各グループ)にも認められる。

ヘーゲルは、この書を含めこの世界のあらゆるものを自身の哲学体系に取り込もうとし、この世のあらゆる現象を扱う諸学問も、この体系から導出すべきだとし、ヘーゲル自身もこの体系は完成していると見なしていた。しかし、その意図は壮大であるが、それほど割り切って世界が説明できるのか、という素朴な疑問が浮かんでくるのも事実であろう。