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 資本論用語事典2021
 ヘーゲル概念論

 ヘーゲル概念論 2021.06.24

 1.> ヘーゲル『小論理学』概念論 §160ー§171
     松村一人訳 岩波書店 
 2.> 概念論入門 2021.06.24


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  資本論ワールド編集部 序

 『資本論』第1章第3節価値形態または交換価値における価値形態論の展開は、ヘーゲル論理学の進展に基づいていますので、『小論理学』概念論の理解が不可欠です。従来の『資本論』解説者たちがこのヘーゲル論理学を無視 ーまたは無理解ー したままで、”創意工夫” を行なっていますが、全くの不勉強と言わざるをえません。さらに、『資本論』の翻訳問題の根幹にかかわる事態です。
 まず、ヘーゲル論理学の観察から始めましょう。
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 松村一人訳『小論理学』第3部概念論
    (下) 岩波書店 1952年発行

ヘーゲル「比例論」と「価値方程式」2

 第3部 概 念 論 
  Dritte Abteilung der Logik. Die Lehre vom Begriff

 目 次
§160 〔概念Begriffは実体的な力-体系的な全体Totalitätで、諸モメントが不可分の統一を形成〕
§161 〔概念の進展は発展Entwicklung〕
§162 〔概念論の3つの理論〕
§163 〔概念のモメント-普遍Allgemeinheit、特殊Bensonderheit、個Einzelnheit〕
§164 〔概念の諸モメント-「区別」と「不可分」〕
§165 〔判断は概念の特殊性が定立されたもの-概念の区別、普遍、特殊、個のみが概念の種別をつくる〕
§166 〔個は普遍である=判断は特殊性における概念-概念の区別が原始的分割〕
§166補遺 〔概念は事物に内在し、対象を把握するとは、その概念を意識すること〕
§167 〔あらゆる事物は、個物で個別化されている普遍的なもの〕
§168 〔事物が判断であること〕
§169 〔個は普遍である-述語は普遍的でありまた主語の規定性を含んでいなければならない〕
§170 〔述語は普遍的なもの〕
§171 〔繋辞「である」を通じての判断の推理への進展〕
  ・・・以下省略・・・

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 『小論理学』第3部 概念論

§160 〔概念Begriffは実体的な力-体系的な全体Totalitätで、諸モメントが不可分の統一を形成〕
 概念(Begriff)は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体(Totalität)であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に〔〕規定されているものである。

§161 〔概念の進展は発展Entwicklung
 概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展(Entwicklung)である。なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである。

 §162 〔概念論の3つの理論〕
 概念論は(1) 主観的あるいは形式的概念の理論、(2) 直接態へ規定されたものとして概念、あるいは客観性の理論、(3) 理念、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論にわかれる。
  普通の論理学は主として、本書では第3部の一部分をなしている諸材料を含んでいるにすぎず、そのほかになお前に述べたいわゆる思惟法則と、応用論理学において認識作用にかんするいくつかの考察を含んでいる。しかしこれだけでは結局不十分であったので、心理学的な材料や形而上学的な材料、そのほか経験的な材料がこれに附加されるようになった。しかしこのためにこの学問は明確な方向を失ってしまった。――のみならずこの学問は、それだけは少くとも論理学固有の領域に属する思惟の諸形式をも、単に意識された思惟の諸規定、しかも理性的思惟ではなくて悟性的思惟の諸規定にすぎないと考えている。
 これまで述べてきた論理的諸規定、すなわち有および本質の諸規定にしても、確かに単なる思惟の諸規定ではなく、その弁証法的モメントたる移行と自己および全体への復帰とのうちで、自己が諸概念であることを示してはいる。しかしそれらは限定された概念、即自的な概念、あるいは同じことだが、われわれにとっての概念にすぎない(84節および112節をみよ)。というのは、第一に、各々の規定がそのうちへ移行し、そのうちで反照し、かくして相関的なものとして存在する他のものは特殊(Besonderes )として規定されていないし、第二に、各々の規定がそのうちで統一へ帰る第三のものは個(Einzelnes)あるいは主体(Subjekt)として規定されていないし、第三に、各々の規定は普遍(Allgemeinheit)ではないから、対立規定におけるその同一、すなわちその自由が定立されていないからである。――普通概念とは悟性の規定、あるいは単に一般的な表象とさえ考えられており、したがって一般に有限な規定と考えられている(62節をみよ)。
 概念の論理学は普通単に形式的学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の形式そのものを取扱って、或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く内容にのみ依存する、と考えられている。もし概念の諸形式が本当に、表象や思想を容れる、生命のない、無活動な容器であったら、その知識は真理にとって全く余計な、なくてもよい記述にすぎないであろう。実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神であり、現実的なもののうち、これらの形式の力で、すなわちこれらの形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理なのである。にもかかわらず、これらの形式そのものの真理は、それらの必然的連関と同じく、かつて考察されたことがないのである。

 A 主観的概念 ( Der subjective Begriff )

 a 概念そのもの ( Der Begriff als solcher )
 §163 〔概念のモメント-普遍Allgemeinheit、特殊Bensonderheit、個Einzelnheit〕

 概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。(1) 普遍( Allgemeinheit )―これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。(2) 特殊( Bensonderheit )―これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。 (3) 個 ( Einzelnheit ) ―これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、即自かつ対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである。
  個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されている。現実的なものは即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず、自分自身を産出するものである。―しかし個は、われわれが個々の物や個々の人と言う場合に意味するような、単に直接的な個の意味に解されてはならない。こうした意味を持つ規定された個は、判断においてはじめてあらわれる。概念のモメントの各々は、それ自身全体的な概念なのであるが(160節)、しかし個、主体は、統体性として定立された概念である。

 §164 〔概念の諸モメント-「区別」と「不可分」〕

 概念は絶対に具体的なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである。反省の諸規定は、対立した規定からはなれて各々それだけで理解され妥当するという意味を持っているが、概念においてはそれらの同一性が定立されているから、概念の諸モメントの各々は直接に他のモメントから、また他のモメントとともにでなければ理解できないものである。
  普遍、特殊、個は、抽象的にとれば、同一、区別、根拠と同じものである。しかし普遍は、同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるという意味をはっきりもつ自己同一者である。また特殊は、区別あるいは規定態ではあるが、しかし自己のうちに普遍を内在させ、また個として存在するという意味を持っている。同時に個も、類と種とを自己のうちに含み、そしてそれ自身実体的であるところの主体であり根抵であるという意味を持っている。ここには、概念の諸モメントが区別されていながらも不可分であることが定立されている(160節)。これがすなわち概念の透明性であって、概念のうちではいかなる区別も、中断や曇りをひきおこすことなく、あくまで透明である。
 概念は抽象的なものであるということほど普通に言われていることはない。これは、一方では、概念のエレメントが思惟一般であって、経験的な意味で具体的なものである感覚物ではないという意味では正しいし、もう一つには、概念がまだ理念ではないという意味では正しい。このかぎりにおいて主観的概念はなお形式的であるが、しかしそうだからといって、それが自分自身とは別の内容を持つとか、また受け取るとかいうようなことはけっしてない。― 概念は絶対的形式そのものであるから、規定されたもののすべてであり、しかも規定されたものの真実の姿である。したがってそれは、抽象的ではあるが、同時にまた具体的なものであり、しかも全く具体的なもの、主体そのものである。絶対に具体的なものは精神であるが(159節の注をみよ)、精神が客観から自己を区別しながら ――もっとも客観は区別されながらも、あくまで精神のものであるが―概念として現存するかぎり、絶対に具体的なものは概念であるとも言える。その他すべての具体的なものは、それがどんなに豊かであろうと、これほど内的に自己同一ではなく、したがってそれ自身に即してこれほど具体的ではなく、せいぜい普通人々が具体的と考えているようなもの、すなわち外的に結合された多様にすぎない。―― 人間とか、家とか、動物のようなものも概念、しかも特定の概念と呼ばれているが、これらは単純な規定を持った抽象的な表象にすぎない。これらの抽象物は、概念からただ普遍性の契機をのみ取り上げて、特殊と個は捨象しているのであり、したがってそれら自身に即して発展させられていず、まさに概念を看過しているのである。

 §165
〔判断は概念の特殊性が定立されたもの-概念の区別、普遍、特殊、個のみが概念の種別をつくる〕
   個( Einzelnheit )のモメントがはじめて概念の諸モメントを区別として定立する。なぜなら、個は概念の否定的な自己内反省であり、したがって最初の否定としてまず概念の自由な区別であるからである。これによって概念の規定性が定立されるが、しかしそれは特殊( Besonderheit )として定立される。言いかえれば、区別されたものは第一に、相互に概念の諸モメントの規定性を持つにすぎないが、第二には、一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性も同じく定立されている。かく概念の特殊性が定立されたものが判断(Urteil)である。
  概念をわけて、明白な(Klar)概念、明白に識別されている(deutlich)概念、および妥当な(adäquat)
概念とする普通の分類は、概念に属するものではなくて、心理学に属するものである。というのは、明白な概念および明白に識別されている概念のもとに考えられているものは表象であって、前者は抽象的な、単純な表象であり、後者はその上になお一つの徴表すなわち主観的認識の目じるしとなるなんらかの特徴が浮びあがらされている表象であるからである。徴表という好んで用いられるカテゴリーほど、論理学の浅薄と堕落を徴表するものはない。妥当概念となると、前二者よりも概念を、否理念をさえも暗示してはいるが、しかしこれもまだ概念あるいは表象のその客観(外的な事物)との一致というような、形式的なことを言いあらわしているにすぎない。――いわゆる下位概念と同位概念は、普遍と特殊を機械的に区別し、外的な比較によって両者を相関させることにもとづいている。さらに反対概念と矛盾概念、肯定的概念と否定的概念、等々というような種別の枚挙は、思想の諸形態を偶然的に拾いあげることを意味するにすぎず、しかもこれらの諸形態は、すでにその場所で考察されたように、本来有および本質の領域に属するものであって、概念の規定性そのものとは少しも関係のないものである。――概念の真の区別、普遍、特殊、個のみが概念の種別をつくるものであるが、それもそれらが外的反省によってひきはなされているかぎりにおいてのみそうである。概念が内在的に自己を区別し規定するのは、判断のうちでみられる。というのは、判断するとは概念を規定することだからである。

 b 判断 (Das Urteil )

§166 〔個は普遍である=判断は特殊性における概念-概念の区別が原始的分割〕

 判断は特殊性における概念である。というのは、判断は、向自的に存在するものとして定立されている。したがって同時に、相互にではなく自己と同一なものとして定立されている、概念の諸モメントを区別しながら関係させるものであるからである。
  判断と言うと、人々は普通まず、主語と述語という二つの項の独立を考える。すなわち、主語は事物あるいは独立の規定であり、述語はこの主語の外に、われわれの頭の中にある普遍的な規定であって、この両者を私が結合することによって判断が成立する、と考えている。しかし、「である」という繫辞(けいじ)が主語について述語を言いあらわすことによって、こうした外面的で主観的な包摂作用は再び否定され、判断は対象そのものの規定ととられる。――ドイツ語のUrteilという言葉は、語源的に一層深い意味を持っていて、それは概念の統一が最初のものであること、したがって概念の区別が原始的分割であることを言いあらわしている。これが判断の真の姿である。
 抽象的な判断は、個は普遍である(das Einzelne ist das Allgemeine )という命題である。これが、概念の諸モメントがその直接的な規定性あるいはその最初の抽象態においてとられる場合、主語と述語とが相互に持つ最初の規定である(特殊な普遍である、および個は特殊である、という命題は、判断のより進んだ規定に属する)。あらゆる判断のうちには、個は普遍である、あるいはもっとはっきり言えば、主語は述語である(例えば、神は絶対的精神である)という命題が言いあらわされているのに、この明白な事実が普通の論理学の本には少しも述べられていないのは、おどろくべき観察の不足と言わなければならない。もちろん、個と普遍、主語と述語とは異ったものではあるが、しかしあらゆる判断が両者を同一なものとして言いあらわすということは、あくまで一般的な事実である。
「である」という繋辞は、外化のうちにあっても自己と同一であるという概念の本性にもとづいているのであって、個と普遍は概念のモメントであるから、切りはなすことのできないものである。先に本質論で取扱った反省規定もまた、その相関のうちで互に関係を持ってはいる。しかしその連関は「持つ」という連関にすぎず、「である」すなわち同一性として定立された同一性あるいは普遍性ではない。それゆえに判断においてはじめて概念の真の特殊性がみられる。判断は概念の規定態あるいは区別であり、しかもこの区別は普遍性を失わないからである。

 §166補遺 〔概念は事物に内在し、対象を把握するとは、その概念を意識すること〕
 判断は普通二つの概念の結合、しかも異種の概念の結合と考えられている。このような考え方も、概念が判断の前提をなし、そして概念は判断のうちで区別の形式をとってあらわれるという点では正しいが、しかし、概念にさまざまな種類があると考えるのは正しくない。なぜなら、概念そのものは具体的なものではあるが、本質的に一つのものであり、概念のうちに含まれている諸モメントは異った種類とみるべきものではないからである。また判断の両項が結合されると考えるのも同様に誤っている。というのは、結合されると言えば、結合されるものは結合されることなく独立にも存在していると考えられるからである。こうした外面的な理解は、判断は主語に述語が附加されることによって作られると言われるとき、もっとはっきり示される。この場合、主語は外界に独立的に存在し、述語はわれわれの頭のうちにあると考えられているのである。しかし、「である」という繋辞(けいじ)がすでにこうした考え方に反している。われわれが「このばらは赤い」とか、「この絵は美しい」とか言う場合、われわれは、われわれが外からはじめてばらに赤を加え、絵に美を加えるのではなく、それらはこれらの対象自身の規定であるということを言いあらわしているのである。さらに形式論理学で普通行われている判断の解釈の欠陥は、それによれば判断一般が偶然的なもののようにみえ、概念から判断への進展が示されていない、ということである。ところが概念は、悟性が考えるように自分自身のうちに静かにとどまっているものではなく、無限の形式として、あくまで活動的なもの、言わばあらゆる生動性の核心であり、したがって自己を自己から区別するものである。このように概念は、それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するものであって、この区別の定立されたものが判断であり、したがって判断の意義は概念の特殊化と解されなければならない。概念はすでに即自的には特殊なものであるが、しかし概念そのもののうちでは特殊はまだ定立されていず、それはまだ普遍との透明な統一のうちにある。かくして例えば、先にも述べたように(160節の補遺)植物の胚はすでに根、枝、葉、等々というような特殊なものを含んでいるが、しかしこの特殊なものはようやく即自的に存在するにすぎず、それは胚が発展することによってはじめて定立されるのである。これは植物の判断とみることができる。この例はまた、概念も判断も単にわれわれの頭のうちにあるものでなく、また単にわれわれによって作られるものではない、ということをも示している。概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである。われわれがさらに対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰するのは、われわれの主観的行為ではなく、われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察するのである。

 §167 〔あらゆる事物は、個物で個別化されている普遍的なもの〕

 判断は普通主観的な意味にとられ、自己意識的な思惟においてのみみられる操作および形式と考えられている。しかしこうした区別は、論理の世界ではまだ存在していないのであって、判断は全く普遍的に解せられなければならない。あらゆる事物は判断である。言いかえれば、あらゆる事物は、自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物である。言いかえれば、個別化されている普遍的なものである。普遍と個は、事物のうちで区別されているが、しかし同時に同一でもある。
  われわれが主語に述語を附加するのだと考える、判断の単に主観的な解釈は、「ばらは赤くある」「金は金属である」というような、判断の客観的な表現に矛盾している。われわれがはじめてばらや金に何ものかを附加するのではない。――判断と命題(Satz)とはちがう。命題は、主語にたいして普遍性という関係を持っていない主語の規定、すなわち或る状態、個々の行為といったようなものを含んでいる。例えば、カエサルは某年ローマに生れたとか、10年間ガリアで戦ったとか、ルビコン河を渡った、というようなのは、命題であって決して判断ではない。さらにまた例えば、「私は昨夜よく眠った」とか、「捧げ銃」というような命題を、判断の形式に変えることができると言うのは、全く無意味である。「馬車が通っている」というような命題は、通っているものが馬車であるか、動いているのは対象であって、それをみるわれわれの立場ではないか、というようなことが疑わしい場合にのみ、主観的判断ではあるがとにかく判断となるでおろう。一口に言えば、まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合にのみ、そうした命題も判断となるのである。
  §168 〔事物が判断であること〕
 判断の立場は有限の立場である。この立場における事物の有限性は、事物が判断であること、すなわちその定有とその普遍的本性(その肉体と精神)が合一されてはいるが――でなかったら事物は無であろうから――これらのモメントはすでに異っており、また一般に分離しうる、ということにある。

  §169 〔個は普遍である-述語は普遍的でありまた主語の規定性を含んでいなければならない〕
 個は普遍であるという抽象的判断においては、主語は、否定的に自己に関係するものとして、直接に具体的なものであり、これに反して述語は抽象的なもの、無規定なもの、普遍的なものである。しかし主語と述語とは、「である」によって連関しているのであるから、述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない。かくしてこの規定性は特殊性であり、そして特殊性は主語と述語との定立された同一性である。特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である。
主語は述語においてはじめてその明確な規定性と内容を持つ。したがって主語はそれ自身では単に思い浮べられたもの、あるいは空虚な名にすぎない。「神は最も実在的なもの、等々である」とか、「絶対者は自己と同一、等々である」というような判断において、神や絶対者は単なる名にすぎず、主語が何であるかは、述語においてはじめて言いあらわされている。主語が具体的なものとしてその他なお、どのようなものであるかは、この判断には関係がないのである(31節参照)。
§170 〔述語は普遍的なもの〕
 われわれはさらに主語および述語をもっと立ち入って考察してみよう。主語は否定的な自己関係であるから(163節、166節の註釈)確固とした根抵であって、そのうちに述語がその存立を持ち、観念的に存在している(すなわち述語は主語に内属している)。そして主語は一般にかつまた直接に具体的なものであるから、述語の特定の内容は主語の多くの規定性の一つにすぎず、主語は述語より豊かで広いものである。
 逆に述語は普遍的なものであるから、独立に存立し、或る主語が存在するかどうかには無関係である。それは主語を越えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語よりも広いものである。述語の特定の内容(前節参照)のみが両者の同一をなすのである。

§171 〔繋辞「である」を通じての判断の推理への進展〕
 主語、述語、および特定の内容あるいは同一性はまず、関係のうちにありながらも、異ったもの、分離するものとして判断のうちに定立されている。しかしそれらは本来すなわち概念上同一なものである。というのは、主語の具体的な総体性は、けっして無規定の多様性を意味せず、それは個すなわち特殊と普遍とが同一になったものであり、そして述語はまさにこうした統一にほかならないからである(170節)。繋辞において主語と述語との同一が定立されてはいるが、しかしそれはさしあたり抽象的な「である」として定立されているにすぎない。しかしこの同一性にしたがえば、主語はまた述語の規定のうちにも定立されなければならないから、これによって、述語もまた主語の規定を持つようになり、かくして繋辞は充実される。これが内容豊かな繋辞を通じての判断の推理への進展である。まず判断に即して行われる進展は、最初抽象的な、感覚的な普遍性が、すべてに属するものになり、次に類および種へ進み、最後に発展した概念的普遍性になることである。
 判断の進展の認識がはじめて、普通に判断の種類として挙げられているものに、連関と意味とを与える。普通行われている判断の枚挙は全く偶然のようにみえるだけでなく、実際その区別は皮相であり、でたらめでさえある。肯定的判断、定言的判断、実然的判断というような区別は、一方では全くいきあたりばったりに作られているとともに、他方では明確に規定されないままにおかれている。しかし判断の諸種類は、次から次へと必然的に導き出されてくるものであり、概念の自己規定の進展とみられなければならない。というのは、判断とはそれ自身、規定された概念にほかならないからである。
 有および本質という先行の二領域との関係を考えてみると、諸種の判断という形をとる規定された諸概念は右の二つの領域の再現ではあるが、しかしそれらは概念の単純な関係のうちに定立されている。

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