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 ヘーゲル 『大論理学』 第2巻 本質論


  
第1章 仮 象 Der Schein


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  『大論理学』  第2巻 本質論   

 
〔1、有から本質への過程〕 

 
有の真理は本質である。
 有は直接的なものである。知識が有の即且向自的な真の相を認識しようとするときは、知識はこの直接的なものとその諸規定にとどまらず、この有の背後に有そのものとは異なる何か他のものが存在し、その背後こそ有の真理をなしているものだという前提をもって、この直接的なものを貫き抜ける。このような認識は媒介された知識である。というのは、この認識は本質の下で、また本質の中で直接的に見出されるものではなくて、むしろ或る他者から、即ち有から出発して、その有を超出する道、或いはむしろ有の中への沈潜の道を予め歩まなければならないからである。そして知識が、この直接的な有の中から自己を想起する〔内化する〕ときはじめて、知識はこの媒介を通して本質を見出すのである。動詞のSein(有る)という言葉は、その過去の時称 gewesen の中に Wesen (本質)を含んでいる。というのは、本質は過ぎ去った〔過去になった〕有であるが、しかも無時間的に過ぎ去った有だからである。
 
だが、この運動を知識の行程と考えるとすると、この有からの出発と、この有を止揚して、媒介されたものとしての本質に達するところの進行とは、有に對して外面的で、有自身の本性とは無関係な認識の活動であるかのように見える。
 けれども、この行程は有自身の運動である。それで、この行程において明らかにせられたことは、有がその本性によって自己を想起〔内化〕し、この自己内行( Insichgehen )を通して本質となるということである。
それ故に、絶對者は最初には有と規定されたが、いまは本質と規定される。認識は一般に多様な定有にとどまることはできないが、それはまた有、純粋有にとどまることもできない。そこで認識は直ちに反省を行うことになる。その反省は即ち、この純粋有、即ち、すべての有限的なものの否定が、直接的定有を純粋有にまで純化した想起〔内化〕と運動とを前提しているという反省である。有は、それによって本質として規定される。即ち、すべての規定的なものと有限的なものとがその中で否定されているような有として規定される。その意味で、本質は無規定的で単純な統一であって、この統一からは規定的なものは或る外面的な仕方で取り除かれているのである。だから規定的なものそのものは、この統一に對して外面的な存在であったし、それはこの除去の後にも依然この統一に對立している。というのは、この規定的なものは即自的に〔それ自身として〕止揚されているのではなくて、相對的に、即ち、ただこの統一との関係においてのみ止揚されているからである。―すでに前に注意したように、もしこの純粋な本質がすべての実在性の総括と規定される場合には、これらの実在性はまた規定性という性質の下に、従ってまた抽象を行う反省の下におかれることになり、その結果この総括は空虚な単純性に還元されてしまうことになる。このような仕方では本質は単に産出されたもの、即ち一つの製作物にすぎない。即も抽象にほかならないところの外面的否定が、本質として残るところのものから有の諸規定性を全く剥ぎ取るのである。従って本質は、これらの規定性を云わば次々と或る他の場所に移し加えてみるだけで、それらが有的な規定性である点は前と少しもちがわない。しかし本質は、このような仕方では即自的にも、また向自的にも存在しない。本質は或る他者、即ち外面的な、抽象的な反省を通してあることになる。即ち或る他者に對するものとしてある。即ち抽象に對してのみあり、従って一般に、あくまでも本質に對立するところの有的なものに對するものとしてのみある。だから、このような規定の中では本質は死んだ、空な没規定性である。
 けれども、ここに現われて来たところの本質は、真の相における本質である。それは自己に外的な否定を通して現われたものではなく、自己自身の運動、即ち有の無限の運動を通じて現われたものである。それは即且向自的有である。即ち、この本質は有のすべての規定性に無関心であって、そこでは他在と他者への関係とが全く止揚されている点で、絶對的な即自有である。しかし、それは単にこのような即自有にとどまらない。単なる即自有であれば、本質は、ただ純粋な本質という抽象にすぎないであろう。そうではなくて、本質は同様にまた本質的に向自有でもある。即ち本質そのものは、このような否定性であり、他在と規定性との自己止揚なのである。

 
〔2、本質の本性 〕 

 本質は有の完全な自己復帰であるから、最初は無規定的な本質である。有の諸々の規定性は、その中では止揚されている。本質は、それらを即自的には含んでいるが、しかし本質において措定されているところの規定性としてではない。このような自己の単純性の中にある絶對的本質は何らの定有をももたない。けれども、それは定有へ移行しなければならない。なぜなら、それは即且向自有だからである。云いかえると、本質は、その即自的に含むところの各規定を区別するものだからである。即ち絶對的本質は自己反発であり、或いは自己に對する無関心性であり、自己に對する否定的関係である故に、それは自己を自己自身に對立させるのであって、しかもこの自己との区別の中にありながら自己との統一であるという意味でのみ、無限的な向自有なのである。― そこで、この本質の規定作用は有の領域における規定作用とはちがった性質をもっている。また本質の諸規定は有の諸規定性とは別種の性格をもつ。本質は即且向自有という絶對的統一である。だから本質の規定は、どこまでもこの統一の中にとどまるものであって、それは生成でも、移行でもない。またその各々の規定そのものも他者としての他者ではなく、また他者への関係でもない。各規定は自立的なものであるが、しかしそれらが相互の統一の中にあるところの規定だという意味でのみそうである。― 本質は、はじめは単純な否定性であるが故に、次にそれは、それが単に即自的にのみ含んでいるところの規定性を自己の領域の中で措定しなければならない。それは、自己に定有を、また更に向自有を与えるためにである。

 本質は全体としては、有の領域の中で量として現われたものである。即ち限界に對する絶對的無関心心性である。量は、しかし直接的な規定の中にある無関心性であって、限界は量においては直接的に外的な規定性であり、量は定量に移行する。外的限界は量にとっては必然のものであって、従ってそれは量においては有的で〔直接的に〕ある。これに反して本質においては、規定性は有るのでは〔直接的では〕ない。それは本質そのものによって措定されているのである。即ち、それは自由にあるのではなくて、ただ本質の統一に對する関係の中にのみある。― 本質の否定性は反省〔反映〕である。従って各規定は反省された規定であり、即ち本質自身によって措定されたところの、しかも止揚されたものとして、あくまでも本質の中にとどまっているところの規定である。
 本質は有と概念との間に立ち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。本質は即且向自有であるが、ただし即自有の規定の中にあるところの即且向自有である。というのは、本質の一般的規定は、有から出て来たという点、云いかえると有の最初の否定であるという点にあるからである。本質の運動は、否定または規定を自己の中に措定し、それによって自身に定有を与え、またそこから無限的な向自有となって、本来の本質そのものとなることにある。こうして本質は自己の即自有に等しいところの定有を自己に与えて、概念となる。そのわけは、概念とは定有の中にあって絶對的または即且向自的であるところの絶對者を意味するからである。けれども、本質が自身に与えるところの定有は、まだ即且向自的な定有ではない。それは、あくまでも本質が与える定有という意味を脱しない。云いかえると、それは措定された定有である。だから概念の定有とは、まだ区別がある。

 
〔3、区分〕 

 本質は、まず第一には、自己自身の中へ
映現〔Scheinen:照り返し〕する。云いかえると、それは反省( Reflexion )である。
 第二に、それは
現象する
 第三に、それは
自己を啓示する。故に本質の運動は次のような規定をとる。
 
 自己の内部の各規定の中にとどまっているところの単純な、即自有的本質という規定。
 
 定有の中へ現われ出たものという規定、云いかえると、その実存( Existenz )と現象( Erscheinung )という面での規定。
 
 その現象と合一したところの本質、即ち現実性( Wirklichkeit )としての規定。


 ◆目次
 第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen
 第1篇 自己自身における反省としての本質 Das Wesen als Reflexion in ihm selbst
 第1章 仮象 Der Schein
   A 本質的存在と非本質的存在 Das Wesentliche und das Unwesentliche
   B 仮象 Der Schein
   C 反省Die Reflexion
 第2章 本質性または反省規定 Die Wesenheiten oder die Reflexionsbestimmungen
 第3章 根拠 Der Grund
 第2篇 現象 Die Erscheinung
 第3篇 現実性 Die Wirklichkeit


 第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen


 第1篇 自己自身における反省としての本質


 本質は有から出て来る。そのかぎりにおいて、本質はそのまま即且向自的であるのではなく、有の運動の結果である。云いかえると、本質は最初は直接的な本質と見られるから、本質は一つの規定的な定有であって、それに對しては或る他の規定的定有が對立している。即ち、それは非本質的な定有に對立する本質的な定有にすぎない。しかし、本質は帥且向自的に止揚された有である。そして本質に對立するところのものは単に仮象( Schein )にすぎない。けれども、仮象は本質自身の措定である。
 本質は第一に反省である。反省は自己を規定する。即ち反省の両規定は被措定有( Gesetztsein )であるが、この被措定有は同時に自己への反省( Reflexions in sich )であるようなそれである。
 第二に、これらの反省規定( Reflexions-bestimmung )または本質性( Wesenheit )が考察されなければならない。
 第三に、本質は規定作用の自己自身への反省として、自己を根拠( Grund )とする。そこで次に、この本質は実存と現象とに移って行く。

  
第1章  仮 象

 本質は有から出て来たものとして、有に對立するように見える。そしてこの直接的な有はまず差し当っては非本質的存在( das Unwesentliche )である。
 けれども第二に、この有は単に非本質的な有よりも以上のものであって、それはむしろ本質を欠くところの有、即ち仮象である。
 第三に、この仮象は外面的なもの、本質に對する他者ではなくて、むしろ
本質自身の仮象である。そしてこの本質のそれ自身における仮現が反省である



   
A 本質的存在と非本質的存在

 〔1、本質的存在と非本質的存在〕 
 本質は止揚された有である。本質は自己との単純な同等性であるが、しかしそのことは本質が有の領域の一般的否定であるかぎりにおいてである。それ故に本質は、直接性〔有〕が本質の生成の源であって、この止揚の過程〔本質の生成〕の中に保存され、維持されているものとして、その直接性を自己に對立させる。このような規定の中にあるために、本質自身も有的な、直接的な本質であって、また有もただ本質との関係における否定的なものにすぎず、即且向自的にあるものではない。それ故に、本質は一つの規定的な否定である。有と本質とは、このような仕方で再び互に他者一般として関係しあう。というのは、その各々は一つの有、即ち相互に無関心な直接性をもつのであって、この有の点では両者の価値は同等だからである。
 けれども、同時に有は本質に對立するものとして非本質的存在であって、有は本質に對しては止揚されたものという規定をもつ。だが、この有が一般に他者として本質に関係するかぎり、本質も本来の意味での本質ではなくて、有とは別の仕方で規定された定有、即ち本質的存在( das Wesentliche )にすぎない。

 
〔2、第三者の外面的見地による両者の区別 〕 
本質的存在と非本質的存在との区別は本質を再び定有の領域に逆行させる。というのは本質は、この最初の形では直接的な有的本質として、従って有に對して単に他者として規定されているにすぎないからである。そのために、定有の領域が、その根底におかれている。それで、この定有の中にある有の真相が即且向自有であるということは、ずっと高次の規定で、定有そのものにとっては外面的な規定である。逆にまた、本質はたしかに即且向自有ではあるが、しかしそれもただ或る他者に比べてみてのことで、一定の顧慮〔見地〕の下で、そうであるにすぎない。― だから、定有の形で本質的存在と非本質的存在之が互に区別されるかぎり、この区別は一つの外面的な措定である。定有そのものの核心には触れないところの分離であり、定有の或る面と他の面との分離にすぎない。つまり、第三者が行うところの分離である。従って、その場合には、何が本質的存在に属し、何か非本質的存在に属すかは不定である。即ち、この区別を立てるものは何らかの外面的な顧慮と考察とであって、それ故に同一の内容が時には本質的と見られ、時には非本質的と見られることになる。

 
〔3、仮象への移行〕 
 しかし更によく考えてみると、本質が非本質的存在に對立するところの単に本質的存在となるのは、本質が止揚された有、または定有とせられるからである。けれども、このような仕方では、本質は単に最初の否定にすぎず、または規定性としての否定にすぎない。即ち、この否定によって有は単に定有になり、定有は単に他者となるにすぎない。ところが、本質は有の絶對否定性である。本質は有そのものではあるが、しかし単に他者として規定されているのではなくて、直接的有としても、或る他在に結びついているような否定としての直接的否定としても止揚されたところの有である。従ってまた、有または定有も自己を本質とは別のものとして〔本質との関係において〕保持しているのではない。それで、この本質と全く区別されたところの直接的なものは単に非本質的な定有ではなくて、むしろ即且向自的に〔全く〕空な直接者である。それは草に非本質( das Unwesen )にすぎず、仮象にすぎない。
        
  B 仮 象 

   (*注:
直接性:Unmittelbarkeit」について→用語解説を参照してください

 1 〔
仮象としての有〕 
 有は仮象である。仮象の有は全くただ有が止揚されているという点、有の空無性の点でのみありうる。有は、この空無性を本質の中でもつのであって、仮象は、その空無性を離れては、云いかえると本質を離れては存在しない。仮象は否定的なものとして措定されているところの否定的なものである。
 仮象は有の領域からまだ残っているところの唯一の残り物である。しかし、それはなお本質から独立した直接的な面をもち、本質の他者一般であるような観を呈する。他者は一般に定有と非定有との二契機を含んでいる。ところが、非本質的存在はもはや有をもたないから、それにとっては、その他在の面の中で全くの非定有の契機だけが残されている。仮象とは、この直接的な非定有である。即ち他者に對する関係の中でのみ、即ち自己の非定有の中でのみ定有をもつという意味における有の規定性の中にある直接的な非定有である。即ち自己の否定の中にあるところの非自立的な存在である。それ故に、非本質的存在に残されているのは、ただ直接性という純粋な規定性のみである。即ち、この非本質的存在は反省された直接性として存在する。即ち反省された直接性とは、自己の否定をその媒介とすることによってのみ存在するところのものであり、従って、それは〔媒介のないものであるから〕その媒介に對しては、むしろ単に非定有の直接性という空か規定にほかならない。
  ―この意味で、仮象は懐疑論のいう幻影〔 Phänomenフェノメーン〕である。或いはまた、観念論の現象〔 Erscheinungエアシャイヌング〕も、このような
直接性(*注:Unmittelbarkeit )である。これは〔客観的糊立的な〕或る物でもなく、また物でもなく、一般に自己の規定性、従って主観に對する開係を離れてあるような無開心な有ではない。懐疑論にとっては「何かが有る」と云うことは許されない。また近代の観念論には、認識を物自信の知識と見ることは許されない。即ち懐疑論の仮象は一般に何ら有の根底をもつべきではなく、また物自体は、この観念論の認識の中へ這入りこむべきではない。けれども同時に懐疑論は、仮象の多様な規定を認容した。或いはむしろ、その仮象が世界の多種多様な事象の全体を、その内容としてもつものと見る。同様に観念論の現象も、この多様な規定性の全範團を、その中に包容する。即ち前者の仮象も、後者の現象も、直接的にこのような多様な規定をもっている。それ故に、実際この内容の根底には如何なる有も、物も、物自膿も存在する必要はあるまい。内容は内容だけで内容としてある。内容は有から仮象へ移し変えられているにすぎない。そのために、仮象は仮象そのものの中に、そのような多様な規定性を、即ち直接的で、有的な、互に他者であるような多様な規定性をもつのである。それ故に仮象は、それ自身一つの直接的に規定されたものである。仮象は、これやあれやのいろいろの内容をもつことができるが、しかしどのような内容をもつにしても、それは仮象自身によって措定されたものではない。仮象は内容を直接的にもつのである。ライプニッツ、或いはカント、フィヒテの観念論ならびに、その観念論の諸形式は、懐疑論と同様に、規定性としての有を、即ち上述の直接性を超越していない。懐疑論にも、その仮象の内容が与えられることはできる。けれども、如何なる内容をもつにせよ、それは懐疑論にとっては、直接的にある。ライプニッツの単子は、それ自身の中から、その表象を展開する。けれども、単子は生産力または結合力ではなく、諸々の表象は、あたかも気泡のように単子の中に浮び出て来る。即も、これらの表象は互に無関心で、直接的であって、従って単子自身に對しても無開心である。同様にカントの現象も所与の知覚内容である。この内容は感覚を前提し、主観の諸々の規定を予想するが、これらの規定は相互にも、また主観に對しても直接的にある。フィヒテの観念論における無限の衝撃は、なるほど物自体をその根底とするものではなく、従ってそれは純粋に自我の中の規定性を意味するといってよい。けれども、この規定性もまた、それを自己自身の規定性となし、その外面性を止揚するところの自我に對して直接的な規定性である。即ち、それは自我の制限である。この制限は自我がそれを越えることのできるものではあるけれども、しかしそれはまた、その中に無関心性の面をもち、その無関心性の面では制限は自我の中にあるにかかわらず、また自我の直接的非有という意味をももっている。

 2 〔
仮象の本性-仮象と本質〕 
 このように仮象は一つの直接的な前提を、即ち本質に對して猫立的な一面を含んでいる。しかし仮象が本質と区別されているかぎり、仮象について、それが自己を止揚して本質の中へ復帰するということは示され得ない。というのは、有は全体として本質の中へ復帰したのであり、仮象はそれ自身空なものだからである。そこで、ここに明らかにしなければならない唯一の点は、仮象を本質と区別するところの諸規定が本質自身の規定であるということ、及びこの本質の規定性、即ち仮象は本質そのものの中では止揚されているということである。

 
仮象を形成しているところのものは非有の直接性*注)である。しかし、この非有は本質のそれ自身における否定性にほかならない。有は本質の中での非有である。〔Es ist die Unmittelbarkeit des Nichtseins, welche den Schein ausmacht; dies Nichtsein aber ist nichts anderes als die Negativität des Wesens an ihm selbst. Das Sein ist Nichtsein in dem Wesen.〕

 (*注:直接性:Unmittelbarkeit」について→用語解説を参照

有の空無性は即自的には本質そのものの否定的な本性である。しかも、この非有が含むところの直接性または無関心性は本質自身の絶對的な即自有である。即ち本質の否定性は本質の自己同等性、または本質の単純な直接性であり、無関心性である。本質が、その無限な否定性の中に、このような自己同等性をもつかぎりで、有は本質の中で自己を保持しているのである。その点で、本質自身が有である。だから、規定性が仮象の中で本質に對してもつところの直接性は、本質自身の直接性にほかならない。もっとも、それは有的な直接性なのではなくて、全く媒介された、即ち反省された直接性であって、この直接性が仮象なのである。―即ち、それは有としての有ではなくて、単に媒介に對してあるところの有の規定性としての有であり、即ち契機としての有である。
 それ故に、この2契機、即ち空無性ではあるがしかし存立としての空無性と、有ではあるがしかし契機としての有とは、云いかえると仮象の2契機を形成しているところの即自有的な否定性と反省した直接性とは、本質それ自身の二つの契機である。即ち有の仮象が本質の中に存在するのでもなければ、また本質の仮象が有の中に存在するのでもない。本質の中にあるところの仮象は或る他者の仮象ではない。仮象は即自的な仮象であり、本質自身の仮象である。

 仮象は有の規定性の中にあるところの本質そのものである。本質が仮象をもつのは、本質がそれ自身の中で規定され、そのために自己の絶對的統一から区別されることによる。けれども、この規定性は同様にまた全くそれ自身において止揚されている。なぜなら、本質は自立的なものであり、本質自身であるところの自己の否定によって自己を自己と媒介するものとして有るものだからである。それ故に、本質は絶對的否定性と直接性との同一的な統一である。
―否定性は即自的な否定性である。即ち、それは否定性の自己への闘係である。故に否定性は即自的には直接性である。けれども、否定性は自己への否定的な開係であり、自己自身を反発する否定作用であるから、この即自有的な直接性は否定的なものであり、或いは直接性に對して規定されているものである。しかし、この規定性は、それ自身絶對的な否定性であり、また規定するものとして、そのまま自己自身の止揚、即ち自己への復帰であるような規定作用である。

 仮象は否定的なものである。しかし、この否定的なものは有をもってはいるか、これを他者の中で、即ち自己の否定の中でもつところの否定的なものである。故に仮象は、それ自身止揚されたものであり、空かものであるような非自立性である。この意味で、仮象は自己に復蹄するところの否定的なものであり、それ自身において非自立的なものとしての非自立的存在である。このような否定的存在または非自立性の自己への関係が、仮象の直接性である。従って、この関係〔即ち、この意味の直接性〕は、否定的なものそのものとは別のものである。この関係は否定的なものが自己に對立するところの規定性であり、云いかえると否定的なものに對する否定である。けれども、否定的なものに對する否定とは、ただ自己にのみ関係するところの否定性であり、即ち規定性そのものの絶對的止揚である。
 それ故に、本質の中における仮象であるところの規定性は無限的な規定性である。それは全く自己と合致する否定的なものにほかならない。故に、この規定性はこういう規定性として自立性であって、従って規定されていないような規定性である。― 逆に、自立性は自己に関係する直接性として、同様に全くの規定性であり、契機であって、ただ自己に関係する否定性としてのみある。―このような直接性と同一のものであるところの否定性、従ってまた否定性と同一のものであるところの直接性が、本質である。それ故に、仮象は本質そのものである。但しそれは、単に本質の契機にすぎないような規定性の中にあるところの本質である。こうして本質は、自己の自己自身の中における
映現Scheinenである。

 〔3、仮象の反省への移行〕 
 有の領域においては、直接的存在としての有に對立して同様に直接的存在としての非有が生起するのであって、両者の真理は成である。ところが、本質の領域においては、第一に本質と非本質的存在とが、次に本質と仮象とが對立する。そして非本質的存在と仮象とは有の残り物である。けれども、この両者ならびに両者と本質とのに別が成り立つのは、本質がまず一つの直接的な本質と見られて、その真の相において見られなかったこと、云いかえると純粋な媒介または絶對的否定性として直接性であるような直接性として見られなかった故にほかならない。従って、前の最初の直接性は単に直接性の規定性にすぎない。だから、本質のこのような規定性の止揚が成り立つためには、次の点を明らかにすればよい。即ち非本質的存在は仮象にすぎないものだということ、しかも本質は、この仮象をむしろ自己における無限の運動として自己自身の中に含んでいるということ、そしてこの自己の中における無限の運動は本質の直接性を否定性として規定すると共に、またその否定性を直接性として規定するのであって、その意味で本質の自己自身の中における映現であるということが、それである。ところで、このような自己運動の中にあるところの本質は、即ち反省である。



     
 C 反  省
 〔1、反省の本性〕 
仮象は反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己の中に復帰したところの、従ってその直接性を離脱したところの仮象に對して、われわれは外國語の反省( Reflexion )という言葉を使う。
 本質は反省である。それは自己自身の中にとどまるところの生成と移行との運動であって、それにおいては区別された存在は全くそれ自身否定的なものとして、仮象として規定されているにすぎない。-有の場合の成においては、規定性の根底に有が存在していて、その規定性は他者への関係であった。これに反して、反省的運動は否定それ自身としての他者であって、この否定は自己に関係する否定という意味でのみ有をもっている。或いは、この自己への関係は、まさにこのような否定の否定である故に、否定は否定として存在するのであり、即ち自己の否定態の中に自己の有をもつような否定として、言いかえると仮象として存在する。それ故に他者は、この場合には否定または限界を伴うところの有なのではなくて、否定をともなうところの否定なのである。・・・

・・・以下、省略・・・