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 ヘーゲル「小論理学」 第2部本質論
   形式-形式規定-形式活動


  資本論ワールド 編集部 

 1. 形式 「Form」 の翻訳問題
 2. ヘーゲル 「Form」の用法
 3. ヘーゲル論理学の「形式規定」 「形式活動」
 4. 『資本論』 価値形態論(Die Wertform oder der Tauschwert)と
   ヘーゲル論理学の価値形式 (Wertform) について

  
 目 次

 はじめに
  第2部本質論- 「 形式 Form 」の抄録について

 第2部 本質論
 
A 現存在の根拠としての本質 (Das reinen Reflexionsbestimmungen)
   
a 純粋な反省規定 (Die Wesen als Grund der Existenz)
    
イ 同一性 (Identität)
     §115
   
b 現存在 (Die Existenz)
     §123
     §123 ▼補遺

 
B 現象 (Die Erscheinung)
     §131
   
a 現象の世界 (Die Welt der Erscheinung)
     §132
   
b 内容と形式 (Inhalt und Form)
     §133
     §133 ▼補遺
     §134
   
c 相関 (Verhältnis)
     §135
     §135 ▼補遺
     §140  〔形式規定Formbestimmungen〕

 
C 現 実 性 ( Die Wirklichkeit )
     §142
     §143
     §145  〔 形式規定 Formbestimmungen 〕
     §147  〔§147「真下真一 宮本十蔵訳」 岩波書店〕
     §147 (ハ)  〔松村一人訳〕
     §148
     §149
   
a 実体性の相関 
     §150 〔 形式活動 Formtätigkeit〕
     §151 〔 形式活動 Formtätigkeit〕
     §152
   
b 因果性の相関 ( Kausalitäts - Verhältnis )
     §153 〔 形式規定 Formbestimmungen〕
      ****  ****



  A 現存在の根拠としての本質
   a 純粋な反省規定 イ 同一性
 §115
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(Identität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。

  b 現存在 (Die Existenz)
 §123
 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。

§123 ▼補遺
 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語の existere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein )を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

 B 現象 ( Die Erscheinung )
 §131
 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。



 a 現象の世界 (Die Welt der Erscheinung)
 §132
 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。 

 b 内容と形式 (Inhalt und Form)
 §133
 現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 

 §133 ▼補遺
 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。・・・



 §134
 しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis )であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。

  c 相関 (Verhältnis)
 §135
 (イ) 直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile )とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(der Form 形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。

 §135  ▼補遺
 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。

 §140  〔形式規定Formbestimmungen〕
 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。・・・



  C 現 実 性 ( Die Wirklichkeit )

 §142
 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

§143 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。
 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit) 、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。


 §145  〔形式規定Formbestimmungen〕
 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。
 
**§147 〔 §147「真下真一 宮本十蔵訳」 岩波書店〕
 そのように展開された外面性は可能性と直接的現実性という両規定の一つの円であり、それらの相互による媒介は実在的可能性 reale Mӧglichkeit 一般である。そのような円としてそれは、さらに言えば、統体性 〔Totalität:全体性〕であり、かくて内容 Inhaltであり、即自かつ対自的に規定された事柄であるし、同じくまたこの一体性のなかでの両規定の区別 Unterschiede からすれば、それは対自的な形式の具体的統体性 〔konkrete Totalität : 具体的全体性〕であり、内なるものの外なるものへの、また外なるものの内なるものへの直接的な自己転化 Sishübersetzenである。形式のこの自己運動 Sichbewegen は自己を現実性へ揚棄していく実在的根拠としての事柄のはたらき Betätigung der Sache、実証的活動であるとともに、偶然的現実性 zufälligen Wirklichkeit、諸条件の実証的活動でもある。すなわちこれらの条件が自己の内へ反照して自己を他の現実性へ、つまり事柄の現実性へ揚棄することである。あらゆる条件が現にあるときには、事柄は現実的とならざるをえないのであって、事柄はそれ自身、諸条件の一つである。なぜならそれはまず内なるものそのものとして一つの前提されたものにほかならないからである。展開された現実性は、内なるものと外なるものとの合一する交替 〔Wechsel: 移り変わり〕、一つの運動に合一したそれらの対立した運動の交替 〔Wechsel: 移り変わり〕として、必然性である。
  必然性が可能性と現実性との一体性 〔Einheit: 統一性、単一性〕 として規定されたのは確かに正しい。しかしただそう言いあらわされるだけではこの規定は皮相であって、したがって不可解である。必然性の概念 Begriff はひじょうにむずかしいのであって、 しかもそのわけは、必然性は概念そのものであるが、その概念の諸契機はまだ現実性として存在していながら、 この現実性は同時になおただ形式としてのみ、内的に支離滅裂であって 〔gebrochene :欠陥があって、不完全で〕、移行していく形式としてのみ、理解されるべきものだからである。したがって私は次の両節において必然性を構成する諸契機をもっとくわしく説明しよう。

 §147(ハ)  〔松村一人訳〕
 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。


 §148
 
条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。
 
b 事柄 も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。
 
c 活動 (Tätigkeit)も (イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


 §149
 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。


  a 実体性の相関

 §150 〔形式活動 Formtätigkeit〕
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

 §151  〔形式活動 Formtätigkeit〕
 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否的、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。

 §152
 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。



  b 因果性の相関 ( Kausalitäts - Verhältnis )
 §153  〔形式規定 Formbestimmungen〕
 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。
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