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ヘーゲル『小論理学』 第2部 本質論 §113 ~ §115

  第2部 本 質 論


§112


 
本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gesetzter Begriff )としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自( Fütsich )として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へ引き下げられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照( Scheinen )としての有である。・・・



§113


本質における
自己関係( Beziehung-auf-sich )は、同一性( Identität )、自己内反省( Reflexion-insich )という形式である。これは有の直接性( Unmittelbarkeit )に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
 制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。



§114



 この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なもの( das Unwesentliche )と呼ばれる。しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の
反照( Scheinen )として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象(Schein)として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有( ein Sein der Reflexion )であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。―本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。
 一つの概念があらゆるものの根抵にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの( das Positive )と否定的なもの( das Negative )とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠( Grund )であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、
現存在( Existenz )である。等々。―論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。



  A 現存在の根拠としての本質
( Das Wesen als Grund der Existenz )

 
a 純粋な反省規定 ( Die reinen Reflexionsbestimmungen )


   イ 同一性
 ( Identität )


§115


 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、
自己との同一性( Identität mit sich )である。
 この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少なくとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである、後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しかもたないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
 本質の諸規定を本質的な諸規定ととれば、それらは前提された主語の述語となる。そしてこの主語は、諸規定が本質的なのであるから、すべてのものである。このようにして生じる諸命題は、普遍的な思惟法則として言いあらわされている。かくして同一の法則は、すべてのものは自己と同一である、AはAである、と言われており、否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない、と言われている。―この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない。すでにこの命題の形式そのものがこの命題を否定している。およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければならないのに、この命題は命題の形式が要求するところを果していないからである。しかし特にこの法則を否定しているのは、この法則に続く他のいわゆる思惟法則であって、それらはこの法則と反対のものを法則としているのである。―よく人々は、この命題は証明こそできないが、あらゆる意識はそれにしたがって動いており、そして経験は、すべての人が、この命題を聞くやいなや、すぐにそれに賛成することを示している、と主張している。しかしわれわれは、そんないいかげんな学校経験にたいして、いたるところにみられる経験を対立させることができる。それによれば、いかなる意識もこうした法則にしたがって思惟したり、表象したり、語ったりしはしないし、いかなる存在も、こうした法則にしたがって存在してはいない。このような自称真理法則にしたがって語るのは(遊星は遊星である、磁気は磁気である、精神は精神である、等々)、馬鹿らしいと思われている。これがいたるところにみられる経験である。こんな法則を信じているのは、先生がただけであって、そんな先生がたは、かれらが大真面目に講義している論理学とともに、とっくに常識にも理性にも信用を失っているのである。

  ・・・以下、省略・・・