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 『資本論』のヘーゲル論理学研究 (1)

 『資本論』とヘーゲルの「無関心」について



  『資本論』の「拡大された価値形態」(第1章3節価値形態または交換価値)において、マルクスは使用価値に関連して次のように述べています。
「いまや亜麻布は、その価値形態〔拡大された価値形態〕によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、
* 使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、 無関心で*注1あることにもなるわけである。」(同第3p115)

 ここで言われている「商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、
“ 無関心である ” 」とはどういうことでしょう。日本語の「無関心」をインターネットで検索してみると、次のような事例が出てきます。



  # 「無関心」とは、「関心」がない事、つまり「興味をもたず気にもかけない事」です。対象を心にもかけない、自分には関係がないと思う事です。「無関心を装う」、「あの人は何に対しても無関心だ」と使用する事があります。 また、 無関心な人は「他者とのコミュニケーションをあまり取らない」という特徴があります。これは無関心な人が、人と接する事に苦手意識を抱いているからでしょう。過去にいじめを受けた経験がある、信じていた人に裏切られた経験がある場合、対人関係にトラウマをもっています。「二度と辛い思いをしたくない」という気持ちが、「何にも興味を持たなければいい」と思わせているのでしょう。最初から関心を持たなければ自分に関わりがないので、傷つかずに済むと考えている結果の行動です。 ― Mayonez 「IT人材のためのキャリアライフスタイルマガジン」より https://mayonez.jp/topic/4021 ―
 また、広辞苑では 「
心にかけないこと。興味を持たないこと。」 とあります。



 いずれにしても、「
関心が持たれない」ことが共通した内容となっていることが分ります。『資本論』の場合でも「商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、特別な形態にたいして、無関心である」すなわち、「商品価値は使用価値に無関心」と一般的に理解が可能となるように読み取れます。しかしながら、この個所には、その前段に「亜麻布は・・・商品世界と社会関係に立って・・・世界の市民」という規定をしていますので、とても “ 無関心 ” でいられません。そこで、「無関心」と翻訳されたドイツ語 gleichgültig を探索すると、 「 無関心な、むとんちゃくな、重要でない」「どちらでも同じ、どちらでも構わない、どうでもよい(廣川書店独英和辞典)」などと辞書にありますので、やはり翻訳どおりと思われそうですが、少し変だなと考え直してみます。そこで、ヘーゲルの何処かで聞き覚えがあることが思い出されます。



 そこで「無関心」についてヘーゲルの『小論理学』で記憶を探っていきますと、
『小論理学』(岩波文庫)第2部本質論「A現存在の根拠としての本質」に、「無関心な、無関係な、どちらでも構わない」関係として次のようにあります。
 以下探索された ①から⑤ は、a 純粋な反省規定(イ 同一性、ロ 区別、ハ 根拠)の§117から§120 の中にあり、「イ.同一性」 (§113 本質における自己関係は、同一性、自己内反省という形式である。これは有の直接性に代わってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。) から引き続いてゆく文脈となっています。また、これらは第2部本質論の出発点に該当する個所であることが分ります。「本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである」 (p.9)という、意味深長な導入部となっていますが、まずは当該箇所を探訪してみましょう。



 
  p.23 無関心で gleichgültig
 
ロ. 区別 「§117 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、そこと他のものとの関係には “ 無関心で ” ある。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして “ 無関心で 〔 どちらでも構わないことで 〕 あるから、区別は差別されたもの以外の第3者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられたものの同一性としては、相等性 ( Gleichheit) 〔『資本論』向坂訳では Gleichheit が “ 等一性 ” と翻訳されている〕 であり、それらの不同一性としては、不等性 ( Ungleichheit )である。」



 p.25 無関係なもの Gleichgültigkeit
 「§117補遺 悟性が同一性を考察しはじめるとき、それは実際はすでに同一性を超えているのであって、それが目前にもっているのは、単なる差別の姿のうちにある区別である。例えば、われわれが同一の原理といういわゆる思惟法則にしたがって、海は海である、空気は空気である、月は月である、等々と言う場合、われわれはこれらの対象を相互に
“ 無関係なもの ” と考えているのであり、したがってわれわれがみているのは、同一性ではなくて区別である。しかし、私たちは諸事物を単に異なったものとみるにとどまらず、さらにそれらを相互に比較し、そして比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる。」



 p.26 無関係で gleichgültig
 「§118 相等性とは、同じでないもの、互いに同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、“
無関係で 〔どちらでも構わない〕 ” 別々の側面あるいは見地ではなく、互いに反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。」



 p.32 無関係な gleichgültig
 「現代の自然科学は、まず磁気において極(Polarität)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑いもなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみなしながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を互いに “
無関係な 〔どちらでも構わない〕 ”、また単に量的な区別とみている。」



p.34 無関係で gleichgültig
 「§120 肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ “
無関係で 〔無関心で〕 ”あってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。・・・両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。・・・」



 同一性、区別、差別など、 “ それらを相互に比較し、そして比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる ” 関係の文脈にたいして、“ gleichgültig ”は、
反語的に作用していることが読み取れます。参考までに広辞苑で「反語」を見ると-
 「はん‐ご【反語】
 
(1) 断定を強めるために、言いたい内容の肯定と否定とを反対にし、かつ疑問の形にした表現。「そんな事知るものか」の類。
 
(2) 表現面と真に表したい事とをわざと反対にし、しかも真意をほのめかす表現。朝寝坊をした人に「早起きですね」という類。

 ヘーゲルの場合、“ 無関係 ” どころか、広辞苑の(1) に近い「断定を強めるために」、「互いに反照しあうもので」、「特定の区別となる」ような用法を用いていることが理解されます。



 
それでは、次に『資本論』本文 「 無関心で gleichgültig 」 (岩波文庫p.116)に該当する文脈を探索してみます。
 『資本論』の場合、「無関心でgleichgültig」 ―
「商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、“無関心である”」 ― は、(3)複数の選択肢がある中で、 “ どれを選び出したら適切であるか ” に応答する場面設定時に 反語的に 「 gleichgültig 」 が登場していることが分ります。



<1>
 p.80 どうでもいいことなので gleichgültig (第2節商品に表わされた労働の二重性)
 「 だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、
“ どうでもいいことなので ” ある。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。」



<2>
 p.90  なんでもいい gleichgültig (第3節価値形態または交換価値)
 「 最も単純な価値形態は、明らかに、ある商品が、他の
“ なんでもいい ” が、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。」



<3>
 p.114 どうでもよいので gleichgültig (第3節価値形態または交換価値)
 「 だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全く
“ どうでもよいので ” ある。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する。」



<4>
 p.145 どうでもいいもの gleichgültig (第4節商品の物神的性格とその秘密、注32)
 「 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全く
“ どうでもいいものと ” して、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。」



<5>
 p.240 どうでもよいものと gleichgültig (第3章貨幣または商品流通)
 「 恐慌においては、商品とその価値態容である貨幣との間の対立が、絶対的矛盾にまで高められる。したがって貨幣の現象形態は、ここでは、
“ どうでもよいものと ” なる。貨幣飢餓は、金で支払われようと、信用貨幣たとえば銀行券で支払われようと、かまってはいない。」



 『資本論』の
“ 無関心で gleichgültig ” 場合は、広辞苑でいう(2)の用法にやや近い感じがしますが、もう一度、本文で確認してみると、―
 「 同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、
“ 無関心で ” あることにもなるわけである。」
 このように、言葉どおりの “ 無関心で ” あるのではなく、
正反対の反語として使用されています。また、ヘーゲルと同様に、 “ 無関心 ” どころか、広辞苑の(1)に近い 「断定を強めるために」、「互いに反照しあう」ような用法を用いているのです。
 では、どうしてマルクスは反語的な用法をわざわざ使用しているのでしょうか? その包括的な解説を行っているのが、大内兵衛著 『経済学』 第2篇第4章 商品、その価値
す。引き続き、探索をしてみてください。



 以上の探索を踏まえると、『資本論』の叙述過程ではヘーゲルが不可欠です。翻訳された用語だけに頼っては、マルクス特有の文体の真意が見過ごされてしまいます。
以上