世界の名著 『資本論』 鈴木鴻一郎訳 中央公論社 1973年発行

  
『資本論』とはどういう書物か 鈴木鴻一郎著 1973発行



 
『資本論』体系の方法(その1)
                          
・〔〕内の数字は資本論ワールド編集部による挿入

 ・〔1〕 商品価値の実体規定
 ・〔2〕 商品の使用価値からの抽象
 ・〔3〕 抽象的人間労働
 ・〔4〕 「分析の方法」と「移行の方法」
 ・〔5〕 本訳書について


     ・『資本論』体系の方法(その二)、(その三)、『資本論』体系とその対象、と続く。・・・以下省略



  
〔1〕 商品価値の実体規定

1.
  『資本論』を、全三巻からなる「資本」の体系的考察としてあらためて把えなおすというばあい、なによりもまず問題になるのは、現行『資本論』にみられる方法の再吟味ということであろう。この方法には、私のみるところでは、なお、疑問をいれる余地が残されているように思われるからである。もっとも、ここでとりあげられるはずの『資本論』の方法は、紙数の関係もあって、その主たるものに限られるのはやむをえない。
  『資本論』は、周知のように、資本主義的生産の流通表面をなす商品から出発するのであるが、出発と同時にたちまちにして、読む人をしてその難解を嘆ぜしめずにはおかぬようにみえる。じじつ、マルクスも自らこれを認め、うえにもふれたように、「フランス語版へのまえがき」で、「私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのないものですから、初めの諸章を読むのをかなりむずかしくしています」といっている。だがそれはマルクスにとって致し方のないことであった。彼はつづけていう、「これに対しては、……私にはどうしよりもありません。学問するのに大道はありません」 と。
「初めの諸章」がマルクスによるも「かなりむずかしい」というのは、そこでは商品形態だげがとりあげられているということもあるにちがいない。商品形態は「ブルジョア社会にとっての経済的な細胞形態」(『経済学批判』の「序説」)であり、それだけに経済学の方法が鋭くあらわれざるをえない関係にあるからである。そのかぎりでは、マルクス自身もことわっているように「どうしようもない」というほかはあるまいが、しかし「むずかしい」のはたんにそれだけの理由によるものかどうか。「初めの諸章」に用いられた「分析の方法」そのものになんらかの難点があって、それが必要以上に理解を困難にしているということはないのか。これを明らかにするために、必要なかぎりで第一章第一節の内容に少しく立ちいってみたい。


2.
 第一節では、まず、商品の使用価値の規定からはじめられ、ついで交換価値の「交換比率」または「交換関係」としての規定に移り、そのあと直ちに「二つの商品」たとえば小麦と鉄の「交換関係」を表わす等式、すなわち、1クォーターの小麦=a ツェントネルの鉄 がとりあげられ、それが「同じ大きさのある共通なもの」を含んでいるということから、この「ある共通な札の」が立ちいって追求される。だが、それは「商品の幾何学的な、物理学的な、化学的な、あるいはその他の自然的な特性ではありえない」のであり、しかも他方において「商品の交換関係をはっきりと特徴づける」ものは、「まさに商品の使用価値からの抽象」であるという。「この交換関係のなかでは、使用価値はしかるべき割合にありさえすれば、他のどの使用価値ともまったく同じように通用するから」というのが、その理由である。
 そこで、「商品体の使用価値を考慮の外におくと、そこに残っているものは、ただ一つの特性、労働生産物という特性でしかない。けれども、その労働生産物もまた、われわれの手のなかですでに変わってしまっている。労働生産物の使用価値から抽象すると、労働生産物を使用価値たらしめる物的成分や形態からも抽象してしまうわけだからである。…労働生産物の有用な性質とともに、そこに表わされている労働の有用な性質も消失してしまい、したがってこういう労働のさまざまな具体的な形態もまた消失してしまって、それらはもはや、たがいに区別されず、ことごとく同じ人間労働に、抽象的な人間労働に還元されているのである」。かくて、「労働生産物が表わしているのは、もはや、これらの物の生産に人間労働力が支出され、人間労働が堆積されているということだけでしかない。これらの物は、それらに共通なこういう社会的実体の結品として、価値-商品価値なのである」。

3. これが、マルクスのいわゆる「いかなる交換価値も表現される等式の分析を通じて価値を導きだす」方式であり、労働による価値の実体規定の論証であるが、しかし、そこには理解に困難なものがありはしないか、と考えられる。たとえば、「二つの商品」の「交換関係」または「交換価値」を表示する等式から価値実体としての抽象的人間労働を「導きだす」ことがほんとうにできるのかどうか。この疑問に答えるために、そのほとんど唯一の拠りどころとなっている「商品の交換関係をはっきりと特徴づける」ものは、「まさに商品の使用価値からの抽象である」という前掲章句の一節を、吟味してみたい。
 なるほど、マルクスのいうように、「交換関係」の内部においては、たとい「二つの商品」だけであろうと、それぞれの商品の使用価値からは「抽象」されているといってさしつかえあるまい。だが、「二つの商品」は、ここで想定されているように、貨幣の媒介なしに直接に「交換関係」に入りうるものかどうか。それは、『資本論』がその対象としている資本主義的生産様式の事実と抵触しはしないか。資本主義的生産の流通表而をなす商品は、それが資本主義的に生産されたものであると否とにかかわらず、商品たる以上すべて直接的に交換されるという関係にはないはずだからである。


   
〔2〕 商品の使用価値からの抽象

4.
 こうして、商品は貨幣の媒介なしに直接に「交換関係」に入ることはありえないといわねばならないが、そうだとすれば、直接の「交換関係」を前提として説かれている「商品の使用価値からの抽象」ももはやこれをいうことはできないといってよいであろう。だが、一歩退いて考えてみれば、この問題はそれだけのことで片づくほど簡単ではないように思われる。というのは、マルクスも第一章第一節の後段で指摘しているように、使用価値は、本来、商品にとっては、「他人のための使用価値」として、より正しくは価値を前提とする「他人のための使用価値」としてあるのであり、その意味において、「交換関係」以前の個々の商品においてもすでに「商品の使用価値からの抽象」はおこなわれているのだといえるようにも思われるからである。

 だが、そういえるためには、この「抽象」がすでに客観的過程としておこなわれているということが論証され
ねばなるまい。およそ「抽象」なるものは、それが主観的過程にとどまるかぎり、経済学的には意味をもたぬであろうからだ。そこで、「商品の使用価値からの抽象」がはたして客観的過程としておこなわれているかどうかが明らかにされねばならないが、私見によれば、そのための格好の材料が手もとに与えられているといってよい。商品の使用価値は「他人のための使用価値」だというばあいの「他人」というのが、それである。つまり、この「他人」が、商品所有者からみて、彼を除くすべての「他人」であるかどうかが、「商品の使用価値からの抽象」が客観的過程としておこなわれているかどうかのきめ手になるのではないか、というのである。
 なぜなら、いまもし右の「他人」が商品所有者以外のすべての「他人」であるとするならば、それは、およそ
商品の使用価値なるものはあげてこれらの人々にとってのものであり、これを逆にいえば、商品所有者にとってはいまや商品の使用価値はまったく意味をもたないということになるであろうからである。「商品の使用価値からの抽象」が客観的過程としておこなわれているといえるのはこういう事態を指すものといってよいが、もしそうなら、こういった事態はいかなる商品についてみることができるのかが、あらためて問われねばならない。
 だがかしこまって答えるまでもなく、一般に資本主義的商品はすべてそうであるといってよいであろう。しかし資本主義的商品についてそういうことがいえるのも、もとはといえば労働力がすでに商品として登場しているからであり、したがって問題の核心は労働力商品そのものにあるといわねばなるまい。だがここまでくればはなしはもう簡単であろう。労働力商品はこの商品の所有者である賃金労働者にとっては、これを使用価値として自分で使用することはもはやまったく不可能だからである。彼は生産手段をもたないからであるが、このことは逆に労働力商品の使用価値が、生産手段を所有する彼以外のすべての「他人」―資本家にとってはじめて、意味をもつということにほかならない。
 このように考えてくれば、「商品の使用価値からの抽象」は、商品としての労働力の登場をまって、あるいはこれを基軸として生産される資本主義的商品の登場とともに、はじめて客観的過程として完成されうるものであるということはもはや明らかであろう。もしそうなら、商品としての労働力の登場を説く以前において「商品の使用価値からの抽象」を云々することは、たんに疑問であるというだけでなく、必要以上に理解を困難にするものだといわねばなるまい。
 このように「商品の使用価値からの抽象」が疑問であり、論証されえているとはいいがたいとするならば、もはや、価値実体としての抽象的人間労働の「導きだし」あるいは労働による価値の実体規定はこれを疑間としてしりぞけて差しつかえあるまい。この論証のためには、うえにもみたように、「商品の使用価値からの抽象」がほとんど唯一の拠りどころとなっていたからである。それだけではない。この「導きだし」が疑問だということは、その証明に動揺がみられるということからも、これをいうことができるであろう。

5. たとえば、マルクスは、上例のように、「二つの商品」のあいだの最も簡単な価値等式からこれを説いているかと思うと、「展開された価値形態」のもとで、「リンネル価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝結物としてあらわれる」と説いてみたり、あるいはまた、「一般的な価値形態」にいたってはじめて、「現実のあらゆる労働が、人間労働というそれらに共通な性格に、人間労働力の支出に、還元される」と説明したりするなど、異なる理論次元において等しく労働による価値の実体規定を説こうと試みているのがそれである。

   
〔3〕 抽象的人間労働

6.
 こうして、価値実体としての抽象的人間労働の「導きだし」を、労働力商品の登場するはるか以前、第一章の範囲内で説くことは、疑間であるというほかはないが、それはもともとこの抽象的人間労働が資本主義的生産のもとでないととらえがたいということからいって、むしろ当然の帰結であつたといってよいであろう。

 では価値実体としての抽象的人間労働の資本主義的性格とはいかなることなのか。元来、抽象的人間労働そのものは、マルクスのいわゆる「人間の頭脳、筋肉、神経、手、等々の生産的支出」(第二節)でしかないという意味で、一般的あるいは普遍的な性格のものであり、したがって生産様式の歴史的形態にはかかわりなく、具体的労働と並んで、というよりもむしろ具体的労働の背後にあって、等しく生産的活動または有用的労働を形づくっているものにすぎない、といってよいであろう。おそらくは、この理由から、抽象的労働としての抽象的労働は、商品価値の実体としての抽象的労働とは異なり、これをそういうものとしてとり出すことは困難ではないかと考えられるのであるが、この同じ抽象的労働が資本主義的生産のもとにおいて商品価値を形成する労働に転化され、同じく具体的労働が商品の使用価値を形成する労働に転化されることになると、事情がちがってくる。けだし、この後者の具体的労働は、商品の使用価値がもはや「他人のための使用価値」としてあるにすぎないという事態に対応して、商品生産者にとっては、いまや、同じく「他人のための」具体的労働としてあらわれるにすぎないものとなるからである。いいかえれば、価値を形成する抽象的労働に対して、いわば消極化することになるからであり、もう一度別の言葉でいえば、その労働の担い手にとって、直接に関心を惹くとはいえぬものになるからである。このことは、その労働が、彼にとってはすでに具体的形態からに抽象された形であらわれるにすぎぬことを示すものといってよく、彼が関心をもつのはもはや労働時間の長さでしかありえないのである。

7. しかし、この関係が具体的に展開されるためには、商品経済が全面的に発展し、資本主義的生産が確立していなければならないであろう。いわゆる単純商品生産にみられるように、自家消費分を残しているかぎりは、使用価値を形成する具体的労働はなおその完全な消極化を妨げられざるをえないであろうからである。これに反し、資本主義的生産のもとにおいては、使用価値を形成する具体的労働の徹底的な消極化と、これに対応する価値を形成する抽象的労働の積極化とを、具体的に可能にする物質的条件がつくり出されるのであって、機械制大工業を基礎にしてはじめて実現せられる労働の単純化または」無内容化は、これを最も端的に示すものといってよい。いいかえれば、それは「だれでもふつうの人間なら平均的に、とくに開発されずとも、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出」(第二節)であって、ここにはじめて抽象的人間労働はこれを具体的にとらえうるものとしてあらわれることになる。この意味でわれわれは、価値実体としての抽象的人間労働は、もともと、資本主義的生産の登場をまたないとこれをとらえがたいのではないかというのである。

  〔4〕 「分析の方法」と「移行の方法」

8.
 そうだとすれば、価値を形成する抽象的人間労働はもちろんのこと、使用価値を形成する具体的有用労働も、労働力商品が登場し資本主義的生産が説かれうるまでは、これに関説することはさし控えられるべきであるといってよいが、しかし、だからといって、第一章があげて労働による価値の実体規定を説く「分析の方法」のみに終始しているというのではけっしてない。たとえば、第三節における価値形態の展開がその好個の例であって、そこでは「商品の価値関係に含まれる価値表現の、その最も単純な最も目だたない姿から光りまばゆい貨幣形態にいたる発展を、追跡していくということ」が、抽象的人間労働に関説されることなく、「価値表現」の見地から追求されているといってよいからである。
 とはいうものの、ここでも、さきにもふれたように、労働による価値の実体規定がときに強調されているとい
うだけでなく、それとの関連で「価値表現」がまたときに「交換関係」と同視されていることは否定さるべくも
ない。このことからも推測せられるように、とくに第一章においてそうであるといってよいが、労働を強調する
「分析の方法」と、労働に関説することなく商品を説く方法―いわゆる「移行の方法」とが随所に複雑なニュ
アンスをもって絡みあっているといってよく、そのことが「初めの諸章」なかんずく第一章の理解を必要以上に「むずかしい」ものにしている最大の理由ではないかと考えられるのである。だが、そうと分かれば、路はまたおのずから通ずるものがあるはずであって、「移行の方法」による展開の側面を選り分けつつ、これに沿って論理をたどっていくことが、「むずかしさ」を解きほぐすなによりの手がかりになるのではないだろうか。


9. だが、そうはいっても、「初めの諸章」のうち、まったく「移行の方法」によらずに展開されている章もあることが汪意されねばならない。「貨幣の資本への転化」の章で、ここでは、おそらく世界商業から、事実の問題として資本の流通形式G-W-G´が導き入れられ、この流通形式が含む価値増殖の要請と商品流通W-G-Wにおける等価交換の「法則」とがいわば外的に対立させられているというだけではない。これが「矛盾」として設定され、そしてこの「矛盾」を資本が回避しつつ価値増殖をするための手段として、労働力商品が資本の外部に前提された商品世界のなかからみつけだされてきているのである。こうして、ここでは「移行の方法」はまったくしりぞけられているといってよいが、そしてそれにはいろいろの理由が考えられるが、主たる理由は「商品交換は等価の交換である」という「法則」が前提されていたからだといってよい。それもここではじめて前提されたというのではない。「二つの商品」の「交換関係」を想定するとともに、したがって労働による価値の実体規定を説くとともに、前提されていたといわねばならぬ。
 じじつ、マルクスは「商品の流通は、商品価値の形態転換しかもたらさぬかぎりで、……等価の交換をもたらす。……もちろん、商品は、その価値から離れた価格で売られうるが、しかしこういう偏倚は、商品交換の法則の侵害としてあらわれる」といって、商品流通だけでなく、さかのぼって「商品交換」において、すでに等価交換の「法則」を説いているといってよい。このばあい、等価というのは、価値実体としての抽象的人間労働の等置ということであり、したがって、等価交換または等価交換の「法則」は労働による価値の実体規定と裏腹の関係にあるといえる。そうだとすれば、この「法則」も、単純な商品流通W-G-Wについてこれをいうことはできず、そうなれば等価交換が想定されたW-G-Wと対比されてとりだされたG-W-G´の「矛盾」なるものも、同じくこれを疑問とせざるを見ないであろう。

10. だが、このようにG-W-G´における「矛盾」の設定が疑問であるとすれば、この「矛盾」を資本が回避するための手段として労働力商品を資本の外部の商品世界に求め、ここから資本の生産過程の考察にはいるという方法もまたこれを疑問としなければなるまい。けだし、この方法によれば、商品世界は、資本の生産過程に対して、なおその外部にある外的世界としてとどまらざるをえないからであり、したがってまた、資本は、このような外部の流通世界から商品をひきあげるとともに、商品生産物を再びこの外部の流通世界に投ずる、たんなる個々の資本としてあらわれるしかないからである。そこで、マルクスにあっては、たんに任意の一個の資本がいわば代表単数的にとりだされ、これによって資本の生産過程が説かれるにすぎず、資本家と労働者との全社会的な関係を基軸とし、商品世界をその流通表面とする、全体としての資本主義的生産は資本の生産過程においてはとりだされるべくもなかったのである。こうして、マルクスにおいては、商品流通からの資本主義的生産への移行は明確には説かれえなかったといってよいが、それは、もともと彼がここで、商品世界を最初から価値としての同質性を完成した統一的な商品世界として前提してかかり、
ここから「移行の方法」による途をまったく塞い〔ふさい〕でしまったからだといってよい。

11. 以上、われわれは、第一巻の第一篇「商品と貨幣」および第二篇「貨幣の資本への転化」にみられる方法上の難点をみてきたわけであるが、ここで注意しておきたいことは、これら二つの篇は、資本主義的生産の直接的表面をなす商品世界の商品流通としての形成と、その商品流通の資本主義的生産への移行とを明らかにする領域としてこれをとりまとめることができるし、またそうすべきではないか、ということである。なるほど『資本論』では、この二つの篇は「資本の生産過程」の冒頭部分をなしてはいる。だが、事実上、ここでは「資本の生産過程」には関説されてはおらず、『資本論』に即していっても、これを「資本の生産過程」とは別個の俯域として処理してさしつかえないように思われるのである。

・・・『資本論』体系の方法(その二)、(その三)、『資本論』体系とその対象、と続く。・・・以下省略・・・

   
〔5〕 本訳書について

12.
 最後に、この解説の場をかりて、この邦訳に関し、二、三のことを付記しておきたい。
翻訳の底本としては lnstitut fur Marxismus‐Lenismus beim ZK der SED 編集の Karl Marx, Friedrich Engels Werke, Dietz Verlag, Berlin, Band 23-25, 1962-64 に収められている Das Kapital, Kritik der politischen Okonomieを利用した。ただし、この邦訳は全訳ではない。それは『資本論』全三巻を「世界の名著」二冊分に収録しなければならないという技術的条件によるものであった。もとより、たとえば Great Books of the Western World, No.50,1952, Chicago に収載されている『資本論』のように、第一巻だけを完訳することも考えられはした。だが、『資本論』は全三巻から成るものであり、そのうちから第一巻だけをとり出して読者に提供することは『資本論』体系の意義を損うことにならないかという考え方から、私はあえて全三巻の訳出に踏み切ることにした。しかし、なにしろ原本で二二〇〇ページにあまる大著のことであり、これを上下二冊にそのまま訳載することは技術的にとうてい不可能なことであった。そこで、『資本論』体系の意義を損わぬかぎりで、ある程度の省略がおこなわれねばならなかったが、そのために私はつぎのような方針を立ててみた。
 一. 原注は原則として省くこと。原注は第一巻に圧倒的に多くみられるが(二七五カ所、これに対して第二巻、第三巻ではそれぞれ五八ヵ所である)、その大部分はマルクス以前の経済学者からの引用から成っているといってよい。その引用は、エンゲルスもいっているように(第一巻、第三版への「まえがき」参照」、「経済理論の個々の比較的重要な進歩を、時期と創始者について確定する」という意味をもつものであったが、しかしそのことは裏を加えしていえば、理論的には本文に説かれている議論に追加するものは含んでいないということでもある。この意味で原注は原則として割愛することにしたわけだが、それはあくまで原則であって、本文の叙述を理論的に敷衍しようとしたと考えられるいくつかの原注はこれをそのまま残してある。
 一、本文は二、三の例外を除き、できるだけ収録すること。例外として省略した部分についていうと、その第一は、先行の経済学者の理論に対する批判的部分であり、第二は、事実的例証にかんする部分、そして最後に数学的例解の部分である。これらの部分はどれも本文におけるマルクスの議論を多少とも敷行するものであり、したがって多少ともその理解を助けるものであるといってよいであろうが、したがってできればそのまま収録したかったわけだが、前にあふれた技術的条件からそれはとうてい許されなかった。しかし、これらの部分を省略しても、全三巻から成る『資本論』体系の意義はおそらくは損われることはあるまい、と私は確信している。というより、これらの部分を割愛することによって、かえって理論的に引き締まった『資本論』体系を提供することができるのではないだろうか、―といえば、それは僭越にすぎるであろうか。
 なお訳出にあたってはできるだけやさしい邦語に移すことを旨とし、したがって原文に必ずしもとらわれないで意訳してあるところがある。それだけでなく、同じ趣旨から、長すぎるパラダラフのばあいは、内容にしたがってこれをいくつかの。言フグラフに分けて訳出しておいた。これは他の外国語訳にもみられるところであるが、しかしそのパラグラフの分け方は必ずしも外国語訳をそのまま踏襲してはいない。
 最後に、この邦訳は、日高普、長坂聰、塚本健の手になる下訳に私が自由に筆を入れたもので、邦訳の全責任は私にあることはいうまでもない。

・・・以上、終わり・・・