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種瀬、富塚、浜野編 資本論体系

             2 商品・貨幣 有斐閣 1984年発行



     第1部 原典解説



 
 『資本論』第1部 資本の生産過程
    第1篇 商品および貨幣
    
第1章 商品


1 商品の二つの要因―使用価値と価値 
(価値の実体,価値の大きさ)
  
  A 研究の対象―単純な商品生産


 『資本論』の最終目的は資本主義社会の経済的運動法則を明らかにすることである。そのために,
概念や法則を体系的に展開して,叙述している。それには,抽象的なものから具体的なものへと論理を展開する方法がとられている。
 マルクスはこの『資本論』の冒頭で,「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は,商品の巨大な集りとして現われ,個々の商品はその富の要素形態として現われるので,われわれの研究は商品の分析から始まる」という有名な書き出しで,本文を開始している。この第1章はまさに商品の分析にあてられている。ここで研究の対象とする商品がどんな性格のものか,資本主義的商品かそれとも資本主義社会以前にあった単純な商品か,などをめぐって大きな論争が続けられている。それはマルクスの経済学の方法にかかわる重大な意味をもつ論争である。ここではマルクスにそくして一つの理解を示しておこう。

 『資本論』の体系的叙述のためには、前提として研究の過程がある。われわれの研究対象は資本主義社会であり,その客観的現実を目の前におき,それを抽象し,分析し,与えられた表象の奥に,本質的なものをとらえ,それを概念としてとらえる。この作業過程が研究の過程である。こうしてえられた概念や法則を抽象的なものから具体的なものへと体系的に展開して叙述する。この論理的体系が『資本論』であり,それによってわれわれは,資本主義社会の経済的運動法則を把握する。
 さて,この研究の方法にしたがって,われわれは,資本主義社会の現実を抽象し,その基礎にあるものとしてとらえられたのが,単純な商品生産の社会関係である。そこで単純なという意味は資本関係を抽象しているということである。資本,賃労働,剰余価値,利潤など資本の運動に特殊的に関連ある事実を捨象する。そうすると単純な商品生産の社会関係をわれわれはとらえることになる。

 もちろんこの研究過程の抽象の作業はわれわれの頭脳の抽象力によって行なっているのであって,
研究対象たる資本主義社会の現実は目の前に客観的に存在している。そこからわれわれは抽象力によって単純な商品生産をひき出している。したがってこの単純な商品生産も空想や仮設ではなく,日々経験している商品生産,商品流通の現実であり,それを抽象力によってわれわれがとらえたものである。

 単純な商品生産の社会関係は,資本主義社会の現実を抽象した,理論的にはその一般的基礎であり,歴史的には前提である。われわれはまず,この単純な商品生産を分析し,そこで商品と貨幣を概念的に把握する。『資本論』第1篇「商品および貨幣」がこれを行なっている。それらの把握を基礎として次に,
第2篇以下で,資本そのものの分析に進む。したがってこの第1篇は『資本論』全体の序論にあたるわけである。
 
この第1篇で対象とされる商品が,資本主義的商品か,それとも資本主義社会以前の歴史的な単純な商品か,について多くの論争がある。ここでは以上のように,われわれの研究対象は資本主義的商品であり,その資本的性格を捨象した単純な商品が,いま当面の分析対象である。
そして
これが単純な商品であるかぎり,資本主義社会以前の単純な商品も同じであり,それゆえ歴史的には前提となる。この点について、論理の歩みは歴史的発展に照応しなければならないという見解があり、それをめぐっての論争がつづけられている。
以上述べたところは,この論理=歴史説にはたっていない。

  
 B 商品の2要因―使用価値と価値

 第1章「商品」は,以上のように抽象してとらえられた単純商品の生産関係を対象にして,さらにそこから貨幣を抽象し,もっぱら商品を対象として,分析する。 われわれはまず,
相互に交換されつつある商品を目の前におき,これを研究しようとしている。そこでまず,そのうちの一つの商品をとり出して,それを分析する。それは無数の商品の一つを,代表見本としてとり出したのであり,その本性を明らかにすれば,他の商品すべても明らかとなる。

 
第1章の第1,2節では,この代表見本たる商品が分析されて,その内容が明らかになる。その内容は,第1節の標題に示されているように,商品は「二つの要因―使用価値と価値」から成り立っている,ということである。つづいて第3節では,商品の形態が分析される。商品は内容としての二要因に対応して自然形態と価値形態という二つの形態をとるが,とくに問題とされるのは価値形態である。
こうして商品は,内容と形態が明らかにされ,商品とはいったい何であるかが明らかとなる。
 そこで,われわれの目の前に現われているままの一商品をとり上げ,分析しよう。

 
(1)使用価値

 商品はなによりもまず,人間の欲求を満足させる物である。物のこの有用性が,その物を使用価値にする。物の有用性はその物の性質によるのであるから,その物―商品体―をはなれては存在しない。商品を使用価値としてとらえることは,有用な物としてとらえることである。それは人間と物との関係で,人間に満足をあたえる属性をもつ物としてとらえることである。
 したがって「使用価値は,富の社会的形態がどのようなものであろうと,富の素材的内容をなしている」。どのような社会であっても,使用価値は使用価値として通用する。 いま考察している商品生産の社会関係においても、使用価値はただの使用価値であって、なんの神秘的な性質ももたない。しかし、商品の場合、この使用価値が「交換価値の素材的担い手」となっている。
これはどんなことなのか。次に商品のもう一つの側面を明らかにしよう。

 
(2)交換価値一価値
    
以下 1.~8. の文脈をベーム・バヴェルクが批判しています

1. われわれは,交換されつつある諸商品の一つをとり出して,分析の対象としている。たとえば,1クォーターの小麦はx量の靴墨,y量の絹,x量の金,z量の金、aキロの鉄などと交換されている。この小麦をとり出して分析する。それはまず食料として役立つという使用価値としての物であることがわかった。しかし商品はそれだけではない。靴墨等々と交換される。小麦は交換価値をもっている。 この表象として与えられている交換価値とは何か,を分析しよう。

2. 一商品の交換価値は他の多くの商品との交換比率で表わされている。1クォーターの小麦の交換価値は何か,といえば,x量の靴墨,y量の絹,z量の金、aキロの鉄,等々である。1クォーターの小麦はx量の靴墨に値する, 等々という。これが小麦の交換価値である。そこでこの小麦の交換価値は時と所によってたえず変動し,まったく相対的なものとして現われている。

3. 小麦の交換価値は靴墨等々によって示されている。小麦はさまざまな交換価値をもっている。
 しかしそれらはどれもみな1クォーターの小麦の交換価値であるから,一つのものを表わしているのである
。 すなわち,交換価値は交換価値自体とはちがった,ある一つの内実を表わしている現象形態であることがわかる。

4. その内実とは何であろうか。それが交換価値と区別される価値である。その価値とは何であろうか。 いま前例の交換のなかから二商品の交換をとり出してみよう。たとえば,1クォーターの小麦=aキロの鉄。 1クォーターの小麦の交換価値は aキロの鉄である。これが表わされている。

5. この小麦と鉄との交換の等式をみてみよう。小麦と鉄とは使用価値としては異なった質をもっている。 それだからこそ交換されるのである。同質のもの,小麦どうしが相互に交換されはしない。しかし,交換される。


.6.  つまり両者が等しいとされるのであるから,これら異質の二つの物のなかに,同じ大きさの一つの「共通物」が存在する両者が等置されることは,「共通物」の存在を意味している。
 この「共通物」は、したがって,小麦でもなく鉄でもない。使用価値としての小麦や鉄は異質なものを表わしているから,「共通物」ではありえない。そこでこの「共通物」は,それぞれの使用価値とはちがう「第三のもの」である。二商品の交換による等置は,二商品をこの「第三のものに還元」するのである。
 この「共通物」「第三のもの」とは何であろうか。

7. それは,商品の物としての性質,つまり物の有用性,使用価値ではありえない。それは前にみたとおりである。そこで「共通物」「第三のもの」を求めるためには,「使用価値を捨象」しなければならないそうして商品に残るもの,それが商品の価値である
 われわれは表象としての商品の交換価値を分析して,価値に至った。この価値とは何であろうか。それはいままでのところ,使用価値とは異なる「共通物」「第三のもの」としか,とらえられていない。

8. われわれは価値をさらにいっそう分析して,その実体を明らかにして,価値とは何かをとらえる。そのために,商品を生産する労働を分析する。この労働は,使用価値を生産する労働としては,具体的有用労働である。小麦,鉄等々をつくる農業労働,鉄工場労働等々である。われわれはさきに,諸商品の「使用価値を捨象」して,価値に到達した。そこでこの労働についても同様に,その有用性,感性的性質を捨象しなければならない。労働の有用的性質が消え去ると,その労働は,「同じ人間的労働,すなわち抽象的人間労働に還元」される。

 商品から「使用価値を捨象」して残る価値とは,この抽象的人間労働の「凝固体」「それらに共通の、
この社会的実体の結晶」である。すなわち,価値とは「区別のない人間的労働の、すなわち支出の形態にかかわりのない人間的労働力の支出の凝固体」なのである。価値の実体は抽象的人間労働である。この「社会的実体の結晶」が価値である。たしかに価値は「まぼろしのような対象性」で把握しにくいが,われわれは以上において,交換価値を分析し,抽象力によって,それが商品の一要因であることを把握した。
そこで当初表象として与えられた交換価値はこの価値の表現,現象形態である、ということになる。これまでのところ交換価値を分析してその本質が価値であることをとらえた。逆に価値がどのようにしてこの現象形態をとるのか、を解明するのが第3節「価値形態または交換価値」の一課題となる。

  ・・・・〔
以上で、第Ⅰ部 「B商品の2要因」を終わります〕



  第Ⅱ部 論点 Bマルクス理論の形成過程


 (4) 『経済学批判』の商品論 
1859年

 『経済学批判』第1部「資本について」第1篇「資本一般」の
第1章「商品」は,『資本論』の商品論の輪郭を形成する。『経済学批判』の商品論は『資本論』の原稿の仕上げの段階まで生かされる予定であった16)。内容をみることにしよう。
 『経済学批判』ではじめて商品を分析的に考察する視点と商品が現実に交換される過程を考察する視点とが区別される。まず,ブルジョア的富の原基形態としての商品が使用価値と交換価値とに分析される。使用価値は人間の欲望の対象であり,それで交換価値が表わされる素材的土台をなしている。交換価値は諸使用価値の交換関係として現われる。交換価値としては使用価値はそれが適当な量さえあれば他の使用価値と同じものである。商品は使用価値としての自然的な定有とは無関係に,互いに一致し,交換で置き代わりあい,等価物として通用する。どのように交換価値は規定されるか。

 交換価値は質的区別のない,一様な,無差別な単純労働の結晶である。交換価値の実体を形成する労働は労働する者の個性が抹消されている労働,抽象的な一般的労働である。交換価値の量の尺度は労働時間であり,いずれの商品も交換価値としては凝固した労働の一定量である。

 交換価値が労働時間で規定されることは次のことを意味する。
 ブルジョア社会で圧倒的な大量をなす平均的な労働,単純労働へすべての労働が還元され,労働する個人が労働そのもののたんなる器管として現われる。さらに交換価値を規定する労働時間とは,一般的な生産条件のもとでその商品を生産するために必要な労働時間である。

 交換価値を生む労慟の独自な社会的性格は諸個人の労働の同等性にある。諸個人の労働が一般的労働時間として,一般的生産物として関係することによってお互いのための労働,社会的労働となる。つまり個別の私的労働が「抽象的・一般性」の形態をとり、一般的等価物に結果することによってのみ媒介される。だから交換価値を生む労働においては人と人との社会的な生産関係が,逆に物と物との対象的な関係として現われる。
 労働の社会的性格のこうした迂回的な形態は,他の社会たとえば家父長的農村工業や賦役と現物給付の中世や原生的な共同体にはみちれない独自なものである。

 素材的富である使用価値をつくる労働は具体的に特殊な労働,人間の合目的的な有用労働であり,それは人間存在の自然条件である。交換価値を生む労働は抽象的な一般的労働であり,それは労働の独自な社会的形態である。労働の二重性の分析が明確にされる。


 〔
以下の解説文面に、ベーム・バヴェルクに批判されている欠点が端的に表現されています〕

次に
交換価値の表現をみることにしよう。
 
 一商品の交換価値が他商品の使用価値で表現されるという価値の表現の迂回性の根拠が, 一商品の使用価値は他商品の使用価値と一般的・社会的労働の対象化として互いに関係づけられるという点に求められる

『要綱』からの継続であるとともに,
価値は使用価値とは無縁の独自な社会的なものであるから,自分自身の使用価値では表現できないで他商品との交換関係において他商品の身体で表現するという見地へ歩もうとしている。しかし『資本論』でみる 交換価値 価値 抽象的人間労働 という三者の関係,とくに媒介環となる価値範疇が交換価値から明確に区別されないため,価値表現の回り道や両極の形態規定,等価物の独自性などの中心問題が曖昧である。さらに交換価値をあますところなく表現する等式の系列と交換価値の共通の尺度の導出も試みられるが,不十分なままに終わっている
全体として『経済学批判』の交換価値の表現は,価値の実体規定にひきずられた「等価表現」の色彩がつよくでている。

 商品分析につづき「移行規定」を介して商品の交換過程が考察される。まず使用価値としての商品の全面的外化と交換価値としての商品の実現の「困難」が述べられ,さらに「新たな困難」による一般的労働時間の対象化としての
一般的等価物の形成が,一系列の交換価値の表現の「逆転」によってなされる。しかし交換価値の,したがって価値の表現の分析が徹底されていないため,一般的等価物形成の証明は不十分に終わっている
なお『経済学批判』の「A商品分析の史的考察」およびエングルスの書評(1859年)も参照されたい。

 ・・・・
〔以上、(4)『経済学批判』の商品論 終わります。〕



 
 第Ⅲ部 研究と論争

  
2 <価値の実体>規定をめぐる論争

     
A 〈価値の実体〉の抽出

 
(1) ベーム・バヴェルクのマルクス批判

 マルクスは『資本論』第1章第1節「商品の二要因」で,使用価値の分析につづいて,価値を解明するが,それは次のように説かれている。
 
まず交換されつつあるなかから一商品をとり出す。 17クォーターの小麦=500キロの鉄が与えられた交換の等式である。 17クォーターの小麦は500キロの鉄に値する。小麦のこの交換価値を分析して,「共通のもの」「第三者」を求めて,「使用価値の捨象」を行なう。商品に残るものはただの労働生産物である。
商品を生産する労働についてみると,使用価値をつくり出す具体的有用労働が捨象されて,抽象的人間労働の生産物となっている
この抽象的人間労働が「共通の社会的実体」であり,その「凝固体」「結晶」が価値である。

以上のようにマルクスは,現実の商品の交換価値を分析し,その本質が価値であり,さらに,
その実体が抽象的人間労働である,と解明した。
 このマルクスの分析にたいして,交換される諸商品に「共通のもの」は,必ずしも抽象的人間労働の結晶としての価値であるとは限らない,といい,マルクスの論証は誤っている,という批判がベーム・バヴェルク(E.v. Böhm-Bawerk)によって提起された。ベーム・バヴェルクは,この共通物を使用価値一般ととらえ,しかもそれを個人の主観的評価すなわち効用とし,それを彼の経済学体系の基礎とした。
 ベーム・バヴェルクは次のように批判を展開する。

① マルクスは,分析の対象として交換される商品を労働生産物に限定している。自然物(たとえば土地)も商品である。それを含めれば、価値が労働量によって規定されるという根本命題が成立しないのは明らかである
1)

② 使用価値を捨象するにあたって「これらの商品の使用価値がこのように現象するであろう特殊な様相は,なるほど捨象されるけれども,しかし,使用価値一般は,けっして捨象されはしない」2)。

③ 諸商品に「共通なもの」として,
使用価値を捨象しても,労働生産物だけが残るわけではない。その他の属性として,財の稀少性,需給の対象であること,所有されていること,「自然物」であること,費用がかかること,等々があげられる3)。要するに,マルクスの論証を逆手にとれば,諸商品を使用価値一般によって比較し,使用価値の凝固物とすることができる,と結論する4)。


 
(2) ヒルファーディングの反論
  〔
*編集部注:この反論は、全くベーム・バヴェルクの反論を形成していない〕

1. ベーム・バヴェルクの批判にたいして,ヒルファーディング(R. Hilferding)は次のように反論した。
  
(a) ここでマルクスが分析の対象としているのは,歴史的に独自な性格をもつ物としての商品である。 商品は「一方では自然物として,他方では社会的な物として登場する」5)。商品生産関係すなわち「私有制と分業とによってその原子にまで分解されている社会の社会的連関は,生産物の交換によって樹立されているのである。/かくして,商品というのは経済的表現である。すなわち,相互に独立した生産者たちが財貨によって媒介されるかぎりにおいて,かれらの社会的関係を発現するものである」6)。

2. この社会的関係はどのようにしてとらえられるのか。「社会の構成員は,かれらが相互のために労働することによってのみ,相互に経済的関連をむすぶことができる。こうした物質的関連は,その歴史的な形態規定性において,商品の交換のうちに現象する。総労働生産物は,総価値として― 個々の商品のうちに交換価値としての量的規定性において現象するところの総価値として,あらわれるのである」7)。

3.  「したがって,労働が価値の原理であり,そして価値法則が現実性をもつのは,労働が,原子にまで分解されている社会をむすびつける社会的紐帯にほかならないからであって,労働が技術的に最も重要なる事実であるからではない。
マルクスはかくして,社会的必要労働を出発点とすることによって,私有制と分業とを基礎とする社会の内面的機構を暴露することができた。かれにとっては,人間と財貨とのあいだの個人的関係は前提されている。交換のうちにかれが見いだすものは,個人的な価値評価の差異ということではなくして,歴史的に規定された生産関係の同等性である。この生産関係においてのみ,人格的関係の象徴として,それの物的表現として,社会的労働の担い手として,財貨は商品となる。」8)

   
(b) 使用価値の捨象において,「使用価値一般」は共通物として抽出される,というベーム・バヴェルクの見解にたいして,ヒルファーディンダは反論する。
  「わたくしが,『 使用価値がそのもとで現象するところの特殊な状況 』 を,すなわち具体性のままの 
使用価値を捨象するばあいには,わたくしは,わたくしにとって使用価値一般を捨象したのである。なぜなら使用価値は,わたくしにとってはこのようなそれの具体性においてのみ,これこれの性質をもつ使用価値として存在するものだからである」9)。

  そして
効用を基礎とする主観価値説を批判する。「使用価値から,したがって物の自然的属性から,…… 出発するところのあらゆる価値論は,人間相互の社会的関係から出発するものではなくて,ある物とある人との個人的関係から出発するものである。それと同時にこのような価値論は,こうした主観的な・関係―これは主観的価値評価の出発点でありうる―から,ある客観的な・社会的な尺度をみちびき出そうとする誤謬におちいる。……このような価値論の考察方法は,非歴史的であり,かつ非社会的である。その範疇は,自然的かつ永久的範躊である」10)。
  これにたいしてマルクスは,労働を基礎とした価値法則によって,商品生産社会の歴史的な客観的な合法則性をとらえたのである。

  
(c) 自然的(とくに土地)が商品となっていることを,労働価値説はどのようにとらえるのか。
  「非労働生産物は,派生的生産関係の表現としてのみ,商品性格をうけとる」11)。土地所有が資本主義的生産関係に包摂されれば,剰余価値の転形である地代が資本還元されることによって,土地価格が形成されることが明らかにされる。 またベーム・バヴェルクは,労働以外になお商品に共通なものとして,雑然と諸属性をあげているが,これらは以上にみた彼の自然的規定と社会的規定との混同から,主として生じている12)。

  
以上のようにヒルファーディングはベーム・バヴェルクの批判に反論している。ベームの見解がマルクスの方法にかんする無理解に基因することは明らかである。

  〔
*編集部注: なんら問題は解決されていないことが証明されています〕


 〔
以上で、『資本論体系』研究と論争 2 <価値の実体〉規定をめぐる論争 抄録を終わります。