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文献資料 近代ドイツの科学史


 近代弁証法の源流 カント・ゲーテ・ヘーゲル

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カントへの移り行き-「批判哲学」と数学論


   シュヴェーグラー 『西洋哲学史』カント-



第38章 カントヘの移り行き
 これまでわたしがたどってきた観念論および実在論の発展系列は、いずれも一面性をもって終っている。思考と存在という対立物を本当にかつ内面的に調和させるかわりに、それらはいずれもどちらか一方の要因を否定する結果にたちいたっている。実在論は一面的に物質を、観念論は一面的に経験的な自我を、絶対へ高めた。この極端に達して、哲学は哲学でなくなろうとする危険におびやかされていた。じっさいドイツでは哲学は、フランスと同じく、浅薄きわまる通俗哲学にまでなりさがっていたのである。そこヘカントが現れて、互いにはなればなれとなって砂地のうちで涸れようとしていた二つの流れを、ふたたび一つの河床のうちへ合流させた。カントは、先行者たちの一面的な哲学的努力を一つの結び目のように統一と総体とへ総括した、哲学の偉大な革新者である。かれはあらゆる哲学者にたいして、一部分は敵対的で一部分は親和的な、なんらかの関係に立っている。ロックにたいしてもヒュームにたいしても同じであり、スコットランド哲学者にたいしてもそれ以前のイギリスおよびフランスのモラリストにたいしても同じであり、ライプニッツ・ヴォルフ哲学にたいしてもフランス啓蒙時代の唯物論およびドイツ啓蒙時代の幸福説にたいしても同じである。――とくに、一面的な観念論と一面的な実在論とにたいするカントの関係は次のごとくである。

経験論は自我に純粋な受動性、感性的外界への従属という役割を与え、観念論は自我に純粋な能動性、自律、感性界への君臨という役割を与えていた。カントはこの両者の要求を次のような決着をつけることによって調停しようとする。すなわち、自我は実践的な自我としては自由であり自律的であって、自分自身の無制約的な立法者であるが、理論的な自我としては受容的であり経験の世界によって制約されている。しかしそれはまた理論的な自我としてもそれ自身に二つの側面をもっている。なぜなら、一方、われわれのあらゆる認識の素材が経験に由来し、経験こそわれわれの認識の唯一の領域であるかぎりにおいて、経験論が正しいとすれば、他方、経験するためには、経験によっては与えられずア・プリオリにわれわれの悟性のうちに含まれている概念が必要であるから、合理主義が認識のア・プリオリな要因および素地を強調するのは正しいのである、と。

 ここでわたしは、カント哲学の非常にこみ入った構造の概観をたやすくするため、その根本概念に予備的な説明を与え、その主要な命題および帰結を簡単に述べることとしよう。 カントは人間の認識活動一般、われわれの経験の起源をその批判的研究の課題としている。その哲学が批判哲学あるいは批判主義と呼ばれるのは、それが根本においてわれわれの認識能力の吟味であろうとしているからである。またいち名それが先験哲学と言われるのは、カントは理性が客観にたいする自己の関係を反省することを先験的考察と呼んでいるからであり(先験的 transzendental という言葉は超験的 traszendent いう言葉と区別されねばならない)、また言葉をかえて言えば、「対象とではなくて、われわれが対象を認識する仕方――この認識がア・プリオリに可能であるかぎり――と関係する」認識を先験的認識と呼んでいるからである。
 カントが『純粋理性批判』(„Kritik der reinen Vernunft “)において行った認識能力の吟味の結果は次のごとくである。一切の認識は、認識する主観と外界という二つの要因の産物である。一つの要因である外界はわれわれの認識に素材、すなわち経験の材料を与え、もう一つの要因である認識する主観は形式、すなわちそれによってはじめて連関のある認識、さまざまな知覚を経験の全体へ綜合することが可能となる悟性概念を与える。もし外界がなかったら現象もまたないであろう。もし悟性がなかったら、無限に多様であるところのこれらの現象あるいは知覚は相互に結合されず、結合されて統一ある表象となることはないであろう、すれば経験はないであろう。したがって、概念のない直観は盲目であり、直観のない概念は空虚である。(„ Anschauungen ohne Begriffe sind blind, Begriffe ohne Anschauungen sind blind “) 認識は、概念の枠に経験の素材をみたし、経験の素材を悟性概念の網に捕えることによって、両者をあわせたものであるにもかかわらず、われわれは物をあるがままに認識するのではない。第一に、それはわれわれの悟性の形式であるカテゴリーのためである。すなわち、われわれは認識の材料としての与えられた多様に、認識の形式であるわれわれ自身の概念をつけ加えるから、これによって客観にはあきらかに変化が生ずる。客観はあるがままに思考されるのでなく、われわれがそれを把握するように思考されるにすぎない。それはカテゴリーをまじえてのみわれわれに現象するのである。このような主観の付加物にさらにもう一つの付加物が加わる。すなわち、第二に、われわれが悟性概念の枠のうちで捕える直観さえまったく無色のものではなく、同じくすでに主観的な媒介物、すなわちあらゆる感官対象の普遍的な形式である時間と空間とを通過したものであるから、われわれは物をあるがままには認識しないのである。空間と時間もまた主観の付加するものであって悟性の根本概念すなわちカテゴリーと同様に、本源的にわれわれの心に備わっているところの感性的直観の形式である。われわれが直観的に表象するものを、われわれは空間と時間とのうちに置かなければならず、それらなしに直観は不可能である。このことから、われわれが認識するものは現象にすぎず、空間性と時間性とをはなれた物自体の真の性質ではない、という帰結が生れる。



 このようなカントの原理を表面的に理解すると、カントの批判主義は、本質上ロックの経験論の立場以上のものではないと思われるかもしれない。しかしそれは、ほかの点をすべて看過するとしても、すでに悟性概念の研究によってロックを越えている。原因と結果、実体と属性、その他人間の悟性が現象のうちへ考えいれなければならず、人間の悟性が思考するあらゆるものをそのうちで思考しているところの諸根本概念が、経験に由来するものでないこと、このことをカントはヒュームとともに承認せざるをえなかった。例えば、われわれがいろいろな方面から刺激をうけて、白い色、甘い味、ざらざらした表面などを知覚し、そして一個の角砂糖のような一つの物について語るばあいを考えて見る。このばあい、われわれが外部から与えられるものといえば、さまざまな感覚にすぎず、統一の概念は感覚を通して来るのではなく、多様なものへ付加された一つの概念、カテゴリーである。しかしカントはそのために悟性概念の実在性を否定することなく、さらに進んでこのような思考形式を経験的素材に付与するところの悟性の活動に固有の領域を割当て、これらの思考形式が人間の認識能力に内在する法則であり、悟性自身の運動法則であることを示し、また思考活動の分析によってこれらの形式を完全に取り出そうとした。(このような形式は12あって、単一性-数多性—全体性、実在性-否定性-制限性、実体性-因果性-相互性、可能性-現実性-必然性  Einheit, Vielheit, Allgemeinheit, ; Realität, Negation, Limitation ; Substantialität, Kausalität, Wechselwirkung ;   Mӧglichkeit, Wirklichkeit, Notwendigkeit ; がそれである。) ヘーゲルはこの点に基づいて建築を続けたのである。



 以上述べたことから、三つの主要原理が導き出される。カントの認識論はその三つの主要原理のうちに概括され、そしてそこでは次に来るものが先だつものの帰結をなしている。
(1)われわれは現象を認識するにすぎず、物自体を認識するのではない。外界から与えられる感覚的素材は、われわれ自らこれに付加するもの(なぜならわれわれはこれをまず時間および空間という主観的な枠のうちに、次に悟性概念という同じく主観的な形式のうちに、把握するのであるから)によって整頓あるいは変化されるので、あたかもガラスの表面でさまざまに屈折させられる発光体の反射のように、物そのものの本来の性質を純粋にまじり気なく示すことはできない。
(2)にもかかわらず経験のみがわれわれの認識の範囲であって、無制約的なものにかんする学は存在しない。これは当然である。なぜなら、すべての認識は経験的材料と悟性的概念との産物であり、感性と悟性の協同にもとづいているから、以上の二つの要因の一つである経験的材料が欠けている事物にかんする認識は、不可能だからである。つまり、悟性的概念だけによる認識というものは幻想である。というのは、悟性がつくりだす無制約者という概念にたいして、感性はそれに照応する無制約的な対象を示すことができないからである。したがってカントがその批判のはじめに提出している問題、いかにしてア・プリオリな綜合判断(これをカントはまた拡張的判断ともよび、たんに分析的な判断すなわち解説的判断と区別している)は可能であるか、とい問題、すなわちわれわれはア・プリオリに、思考だけによって、われわれの知識を感性的経験をこえて拡張することができるかという問題は、超感性的なものの認識が考えられているかぎり、無条件的に否定されなければならない。
(3) それでもなお人間の認識が経験という自分に課された限界をふみ越えようとするならば、すなわち超越的となろうとするならば、それはこの上もなく大きな矛盾に巻きこまれる。心理学的理念、宇宙論的理念、神学的理念という三つの理念( Vernunftidee )すなわち、a 絶対的主観の理念、すなわち魂あるいは不死の理念、b あらゆる制約および現象の総体としての世界の理念、c もっとも完全な存在の理念――これらは経験的な現実にはまったく適用できず、構成的原理( Konstitutives Prinzip )ではなくて規制的原理( regulatives Prinzip )であり、なんらの対象も感性的経験内ではそれに対応していないところのたんなる理性の産物にすぎない。したがってそれらは、それでもなお経験に適用されるとき、すなわち現実に存在する客体と考えられるとき、まったくの論理的誤謬、甚しい誤謬推理と詭弁におちいる。カントは、これらの論理的誤謬を――それらのあるものは誤謬推理とごまかしであり、あるものは理性のさけがたい自己矛盾であるが――すべての理念にかんして示そうとしている。一例として宇宙論的理念をとろう。理性がこの理念にかんして、すなわち世界全体にかんして超験的な立言をしようとするとき、言いかえれば、有限なものの諸形式を無限なものに適用しようとするとき、そこには常にこの立言と反対なことすなわち反定立( Antithesis )が、定立( Thesis )と同様に証明できることがわかる。世界は時間的に始りをもち、空間的に限界をもっているという主張と同様に、世界は時間的に始りをもたず、どこにも空間的限界をもたないという反対のことが証明できる。ここからあらゆる思弁的な宇宙論は理性の越権であるという結論が生れる。神学的理念について言えば、それはまったくの論理的ごまかしと誤謬推理に基づいているのであって、このことをカントは、これまでの独断的な諸哲学が提出している神の存在の証明のすべてについて(非常な明敏さをもって)いちいち証明している。したがって最高の本質としての神の存在、実在する主観としての魂の存在、およびすべてを包括する世界の存在は、これを証明することも理解することもできない。つまり、形而上学本来の諸問題は哲学的知識のかなたにあるのである。
・・・・以下、省略・・・

  →ヘーゲルへの移り行き →第45章 ヘーゲルへの移り行き2020.10.10

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