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 2019 資本論入門7月号 -2-      2019.07.16 



 コラム26 機械論自然学の西洋史


    ~ カーニィ 『科学革命の時代』 から「デカルト革命」の序論 ~


   第1部 カーニィ『科学革命の時代』 平凡社 1983年発行
    Ⅰ. 西洋の3つ科学的伝統
          ー 有機体的、魔術的、機械論的 伝統
    Ⅱ. 科学の言語-アリストテレス学
    Ⅲ. デカルトと機械論の展開-(デカルト革命序論)



     デカルト 『哲学の原理』 

  1.人間的認識の原理 2.物質的事物の原理 3.目に見える世界について 4.地球について


       ド・ブロスとフェティシズム 2019.07


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  コラム27 
デカルト革命と価値方程式
   第2部 「
デカルト革命」の序論 と 『資本論』の価値方程式

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   資本論ワールド編集部 はじめに

   <コラム26>は、 カーニィ『科学革命の時代』の紹介から始めます。
1.  カーニィ(Hugh Kerney)は、1971年生まれのイギリスの歴史家で、高名な近代史家ハーバード・バターフィールドの弟子です。近代科学形成期を概観して、そこにはたらく3つの伝統、有機体、魔術、機械論に分けて論じています。昨今、ニュートンの魔術的研究や機械論哲学が注目されていますが、17世紀デカルト機械論からニュートン原子説にいたる科学革命の衝撃を実感されることでしょう。いずれも、日本人の「西洋科学・文化史」では、なかなかこれらの底流を窺い知ることができません。

2. 外国の古典文献に接する際、文化が違っていても、習慣的に慣れ親しんだ観念から“深読み”をしているようです。古典を読むときに感じる“難しさ”は、避けがたいようにも思われますが、学習努力を積み重ねながら一歩ずつ相手の“世界認識の有り様”に通じてゆくほかありません。

3. 決して易しくない『資本論』と格闘する場合も、困難が極まってきます。第1篇「商品と貨幣」の最大の難関登山ルートは、「商品世界の物神的性格 Dieser Fetischcharakter der Warenwelt」です。資本論ワールドの眼目も、中世キリスト教神学との深い繋がり ー キリストの受肉思想 Inkarnation (化身) ー と、“フェティシズム Fetischismus :物神崇拝・物神礼拝” に馴れ親しむことから始まります。そして、カーニィ『科学革命の時代』を通じて、科学者たちの「魔術的伝統」とこれらと苦闘しながら克服した「機械的伝統」の歴史が実感されるよう、ガイドのお役となれば望外の喜びです。

 (2019.07.14)


  


  第1部 カーニィ『科学革命の時代』


   
H・カーニィ著 『科学革命の時代』 平凡社 1983年発行 

    
Ⅰ. 西洋の3つ科学的伝統
        ー 有機体的、魔術的、機械論的 伝統

 この本では、科学革命の起源と展開の道を解釈する鍵が、3つのはっきりと区別できる伝統、またはパラダイムの中に認められることを論じてゆく。それは、有機体的、魔術的、機械論的の3つの伝統である。・・・


 
 
 3つの科学的伝統

1.
 科学革命のホイッグ的解釈のきずなを脱せんがため、私は以下に本書で扱う期間中、自然に対して少なくとも三つのアプローチがあることを論じてゆく。それらはすべて近代科学の伝統に組みこまれることになった発見を生み出したという意味では、広い意味で「科学的」と言えよう。しかし「近代性」とは危険な基準である。近代科学は定義からして非宗教的活動であるのに対し、これら三つはすべて宇宙についての宗教的仮定と結ばれている。そのうちのどの伝統の唱道者も、近代的意味における科学の概念を持っていなかった。実は「科学者」という言葉は19世紀になって発明されたものである。だからこの期間中の自然現象の探索は、たとえわれわれにはどれほど「魔術的」、「迷信的」に見えようとも、それ自身の座標軸によって評価されねばならない。そこから現在に至る直線的進歩は存在しない。われわれの今日的関心とこれらの伝統とを混同すると、必ずわれわれは錯覚の犠牲者となる。その錯覚こそさらに分析に価するものであろうが。

2. ふつうのことばでは、この3つの伝統は有機体的、魔術的、機械論的と表現できよう。有機体的伝統の中では、科学者は自然界を今日生物学とよぶものから出てくる類推で説明する。その用いることばは生長と腐敗の観察に根ざす。どんぐりが生長して樫になる身近な例からの類推を考えればよい。だから金属の鉱脈は、金属が適した土地で「生長」したと説明される。このタイプの心が自然に触発されるのは、自然の規則性、一様性ではなくて、そのたえざる変化にある。しかし変化の過程の中で、説明さるべき一貫性がある。どんぐりは成長しても鶏にはならない。これから、すべての自然界には、その中に鋳込まれた可能性や目的、いわゆる「目的因」があって、それが万物の発展を支配するという見方に導かれる。

3. 有機体的伝統の中では、科学者はどうしても生体の機構の研究に目が向くことになる。そして今日無機的な物と見られている物を扱う際にも、それに生命を付与し、生命、生長についての基本的関心から生じる言語、述語を使うことになりがちである。「自然」、「不自然」ということばは、有機体的伝統の中では運動の問題にあてはめられる。落下する石は「自然」に行動し、上に放り上げられた物体は「不自然に」運動しているのである。



4.
 2番目の魔術的伝統は、自然界を技工の仕事として見る科学的枠組を提供する。(私は「美的」よりも「魔術的」ということばを使う。そのことばが神秘的という意味を含むからであり、歴史の上でも実際に含まれていたと思う。)美、工夫、驚き、神秘が自然界の支配的な特徴であると見る自然観から、このタイプの科学者に合った類推と言語が生じる。しかし、この一般的枠組の中からは、ありとあらゆる種類の力点の置き方が生じる余地がある。ある自然解釈者は数学へと、あるいは見かけの世界の絶えず変化する位相を越えた所にある世界へと向かう。ある人は自然解釈者の役割を、自然の神秘を保有することが彼に力をもたらす魔術師に似たものと見る。
 魔術的伝統の中では、キリスト教の神は魔術師や技工に適した属性を持ち、この路線の中の科学者は自身造物主の例にならおうとし、自然界における手がかりを追求することによって「聖なる技工」の心への洞察を得ようとする。


5. 3番目の伝統は、機械になぞらえようとする自然観に根ざす。この枠組の中の科学者の関心は、宇宙の法則性、永久性、予測可能性にある。惑星を機械と見、人体も、動物界も、芸術創造の過程さえも機械の働きと見る。この観点からすれば、キリスト教の神は技術者としての性格を持つ。機械論者は世界を機械と見ると最も容易に説明できる位相に関心を集中させる。有機体的、美的伝統〔魔術的伝統〕の中では取るに足りないと考えられていた疑問、たとえば加速度の問題は、機械論的枠組の中では新しい意義を持つ。数学的に表現される不変の科学法則の概念は、この伝統では特に重要で、数学的アプローチはその主な特徴となる。

6. 歴史的には魔術的伝統は有機体的伝統に対する反動、また機械論は魔術への反動と考えられよう。しかし、それぞれの伝統の中に思想分派や学派があることは認めねばならない。以下になすことは、科学革命の結果の多くの位相を説明する3つのモデル、またはパラダイムを作ることであるが、後に見るようにどの伝統もギリシア思想のある位相、有機体的伝統はアリストテレスに、魔術的伝統は新プラトン主義に、機械論的伝統は原子論やアルキメデスに関連づけられる。



 有機体的伝統

   〔目的論自然観としてアリストテレスの伝統〕

1. 科学における有機体的伝統は、アリストテレス、ガレーノス、プトレマイオスの三重の基礎の上に立っており、なかでもアリストテレスは最大のものである。アリストテレスの生物学的著作、ガレーノスの医学的観察、プトレマイオスの天文学集成『アルマゲスト』は、以後千年にわたって並ぶべきものがない大量の経験的データを与えている。この仕事の量だけでも、有機体的伝統の中の科学者を信頼させ、反論をとるに足りないものとして退けさせるに十分である。

2. ガリレオの眼でアリストテレス派を見れば、彼らは単純素朴な理論家に見える。彼らは経験主義者であると自己評価し、その評価は正当といえよう。
 アリストテレス自身の経験的著作、とくに『動物誌』には、倦まざる観察の力と、過剰な理論化に対する健全な不信とが結合している。さらにこのアリストテレス派の位相の影響には、ガレーノスが解剖学的著作で示した経験主義がつけ加わる。プトレマイオスの天文学も、「実験」をある条件下で果てしなく繰りかえす天の実験室においてなされた観察記録と見なせよう。


3.
 しかし有機体的伝統には科学的観察の集積以上の何かがある。それは形而上学、倫理学、論理学にわたる哲学体系であり、本書で扱う期間(1500-1650年)ではヨーロッパの大学で受け入れられ、細かい点では修正されても、人間の知識の唯一の綜合を与えるものと考えられていた。だから有機体的伝統は二つの互いに関連し合う目的を持っている。一つは科学的情報の源泉であり、他は知的一体感を与えるものであった。
 
アリストテレス的科学は、16-17世紀の無数の教科書に解説されているように、世界における合目的的発展の役割を強調する。変化は自然界において常に見られる特徴ではあるが、それは目的(目的因)によって制御される変化である。この点は、アリストテレス自身の生物学研究にもっともよくあらわれ、他の科学に影響して問題を解く鍵として使われた。アリストテレス流の科学では、自然の生長ーアリストテレス流のことばでは目的に向かう運動-とのアナロジーがきわめて重要である。アリストテレス派はこの作用が自然界において、生体だけでなく無生物の運動や「化学」変化においても、くりかえし見られる、とする。

4. これは単なる学問上の論点ではなく、立場の問題である。アリストテレスはその科学の研究方法をデモクリトスの機械論的断定に対抗する決定的な答と見なしていた。アリストテレスから5世紀経たガレーノスも彼の同時代人の機械論を攻撃した。だから有機体的伝統は初めから反機械論的精神で固めた一定の理論的立場を持っていた。そこで、16世紀にギリシアの機械論思潮が復活してキリスト教の摂理信仰の基礎を脅かした時、有機体的伝統が再び世に訴えかけようとした理由を理解できる。


5.
 アリストテレス派の物理、化学変化の理論はその宇宙論と固く結びついている。地球は宇宙の中心にあり、そのまわりを惑星や太陽がそれぞれの天球の中で公転する。絶対的な上下の位置関係があり、月から上の世界と下の世界とははっきり分かれていて、両者にはそれぞれ独自の物理学と「独自の化学」とがある。月から上の世界では惑星は円軌道を動き、不滅の元素から構成される。月下界では変化は常に見られ、運動は直線的で物質は四元素から成る。
 この世界像を空想的だときめつけるのは容易であるが、その背後にある考え方は理解できるものである。プトレマイオスの『アルマゲスト』の天文観測は、惑星が円軌道上を変化する速度で動き、地球はコスモスの中心にある、という考え方を支持する。1500年においては、プトレマイオスはアリストテレス派を擁護する際に、詩的なことばではなく、当時の最も進んだ天文観測の資料として引用された。アリストテレス派はこの専門的な情報を彼らの哲学原理の根拠として使った。その原理によると、惑星の永久不変の円運動は完全な運動であり、地上物体の有限で直線的で、したがって不完全な運動と対置される。

6. 不完全な月から下の世界には、いろいろな科学的原理が働く。エンペドクレス(紀元前450年頃)以来、物質界は土、空気、火、水の四元素から成ると考えられ、そのうち二つは「重い(土と水)」元素、他の二つは「軽い(空気と火)」元素とされた。この基礎の上にアリストテレス派は「物理」と「化学」を説明した。運動は宇宙における軽重の元素のそれぞれの自然の位置への移動である。土や水に富む物体は下へ動き、火や空気の多い物体(たとえば煙や雲など)はその逆である。この結論は初歩的な観察に基づいている。それはまた目的に向かって動くのが宇宙の相であるというアリストテレス派の考え方によく適合する。落体の速度がだんだん増すのは、それが自然の位置を「求めて」いるからである。それが直線的に落ちるのは、それが不完全な世界に適する有限運動の形相だからである。

 アリストテレス派は落体の一般的説明に際して数学的考慮を除外することはなかった。アリストテレス自身の考えに従って、その学派は落体の速度が重さに比例すると考え、したがって鉛は羽毛よりも何倍も速く落ちるとした。水中の実験ではこの点はある程度「証明」されるが、空気中ではどうも怪しい。14世紀以来、フランス人オレームのような一部のアリストテレス派は、落体の運動を幾何学的に論じようとした(1382年)。
 アリストテレス派の理論で「難しいケース」は、地上に復する「自然」の傾向に反する「不自然」な運動をする放物体の場合であった。これをふつうのアリストテレス派は空気の運動の効果によるものとして説明した。14世紀以来、より洗練された分析があらわれて、放物体がはじめに獲得し、それからだんだん失ってゆく性質(「インペタス」)でその運動を説明することになった。


7.
 土、空気、火、水の四元素は有機体的伝統の中では物質の組成に対する鍵を与える。ここでも物理におけると同じく、アリストテレスは反機械論を強調する。四元素の存在を擁護するために、アリストテレスは機械的に作用し合う原子からなる単一の元素を信じる人びとを論駁する。アリストテレス派は化学変化を物質中の四元素の組成の変化で説明する。(だから、この考えでは木炭はその「空気」を失って、木よりも多く「土」を含むことになる)。しかし質料的変化が唯一の要因ではない。それは「実体的形相」の変化も伴なう。すなわち木の質(「形相」)は木炭の質とは異なるのである。そして無生物のみによる化学変化の際でも、一つの形相から他への「目的因的」展開がある。アリストテレス派の強調する実体的形相と質的差異は化学変化の機械論的説明の可能性を締め出してしまう。物理においても、「インペタス」は放物体の持つと見なされた。・・・中略・・・



 
  魔術的伝統 

1. この知的枠組の中における科学者の役割は、天の声に感応することであり、有機体的科学者が論理家に近いように、彼らは魔術師に近いところがある。神は魔術師であり、方士であって、アリストテレスの合理的な第一発動者ではない。科学者がならうべき最良の手本は、宇宙における魔法の調べを聞き出せる神秘家である。
 この態度は古代エジプトの神秘的人物ヘルメス・トリスメギストスに帰せられている著述から多くの示唆・感化を受けている。トリスメギストス(三度祝福されたヘルメスの意)は実在の人物ではないが、モーゼの頃のエジプト人の知恵を伝えようとした1ダース以上の著述(ヘルメス文書)の著者と考えられてきた。この著述はコンスタンチノープルの陥落(1453年)後西方に伝えられ、マルシリオ・フィチーノ(1433-1495)の手でギリシア語から翻訳された。その翻訳はメディチ家のコシモにより緊急事として命じられたもので、コシモはこの仕事をプラトン自身の翻訳よりも優先すべきものと考えていた。その時以来、17世紀に至るまで、この著述は西洋人の心を強く捉えたのである。

2. ヘルメス的(魔術的)伝統が影響力を及ぼした理由を考えることは容易である。トリスメギストスによって、キリスト教会はプラトンを越えてモーゼの啓示に立ち返る(と少なくとも信じられていた)知恵の源を持つことになったのである。この観点からすれば、ユダヤ人が宗教的知恵の源であるごとく、エジプト人は非宗教的知恵の保管者と見られた。それまでは、ピタゴラスやプラトンなどギリシア人の著述がエジプトの伝説に接するための唯一の資料であった(と考えられていた)。西洋はそれを二次的資料でしか知らなかったのである。ところが今や、15世紀の末になって、エジプト人の著述が原型のまま入手できるようになった(あるいはそう思えた)。
 ヘルメス文書は何を伝えたか。それはとくに、
太陽が宇宙の中心で、地球はそのまわりをめぐることを教えた。火は生命の起源である。太陽は神性の象徴である。ヘルメス文書はまた、宇宙の数学的調和を強調するピタゴラス派の仮定も含んでいる。宇宙の神秘は神によって数学的言語で書かれ、それは音律の調和なとから見つけられる。

3. ヘルメス文書は、科学と科学的方法をはらむ宇宙観に基礎を与えた。宇宙は魔術的力にみちた世界であり、その神秘は表面的現象の背後を見ようとする選ばれた人たちにのみ開けている。自然の探求者は秘伝的な集団の中で秘術を学ぶ隠者である。このアプローチの合言葉は神秘主義、秘密、秘伝である。だからヘルメス的「科学者」とアリストテレス的「科学者」の間にははっきりした区別がつく。
 ・・・・中略・・・


4.
 新プラトン派が若干の異常な思索家の妄想に止まっていたなら、その意義を「科学革命」に関する本で絵論じるほどの事はないだろう。ところが事実は新プラトン派の方法は16世紀の知的社会に大きな衝撃を与えた。モアの『ユートピア』にも、ピコ・デラ・ミランドンの著作にも、またコペルニクスやケプラーの著述にもその影響が見られる。17世紀にはその影響はケンブリッジ・プラトン派(より正しくはケンブリッジ新プラトン派)に、そしてその最大の生徒アイザック・ニュートン卿に及んだ。
 新プラトン派の物質論は、慣行の正統アリストテレス派四元素にとってかわる魅力ある代案を示す。物質とは、新プラトン派にとっては、精神界とのきずなである。薪プラトン派は鉱物界、植物界に精神的実在の反映があらわれるという見解を採った。この地上の「小宇宙」はより大なる実在の「大宇宙」を反映するものと信ぜられた。ここで化学は、革新への情緒的刺激として作用する疑似宗教的ふんいきを帯びる。たとえばパラケルススは新プラトン派的傾向を化学理論に応用し、同じ方法は彼の17世紀の後継者ファン・ヘルモントにも見られる。想像力に富む人にとっては、新プラトン派のことばはアカデミックなアリストテレス派の合理主義からの天来の脱出口となった。これはロマン主義の16世紀版である。事実ヘルメス的伝統の持つ魅力の例として、シェークスピアの『テンペスト』を見るとよい。プロスペロは混乱せる世界に正義と平和をもたらすヘルメス的科学者の瞑想的なタイプであって、これこそ宗教的相克で切りさかれた世紀に大きくアッピールしたものである。



  機械論的伝統
 

1. 魔術的伝統は、16世紀の末にいたってその影響力の頂点に達した。以来機械論的宇宙観にもとづく反動がはじまり、次の世紀にはメルセンヌ、ホッブス、デカルトの著作によって機械論はますます普及することになった。
 機械論の起源を求めるには、まず時代の経済的背景を考えねばならい。ここで16世紀世界における機械使用の増大とガリレオやメルセンヌが目を向けた機械との類推の間に何か関係がありそうに見える。アメリカの歴史家ジョン・U・ネフは16世紀のフランス、イギリスには「産業革命」があったと論じ(1947年)、他の史家はヴェネチアの経済的意義と、その近くのパドヴァ大学への影響に注目した。マルキストにとってはこの魅力ある類推は自明の真理の地位をかち得、それによると機械論的宇宙観は初期近代における機械が支配する経済を反映するものであった。

2. しかし、機械は西欧では新しい現象ではなく、16世紀に使われていた機械類はデザインにおいても概念においても革命的なものではなかった。最も特徴的な機械である風車、帆船、風力ポンプは、西洋では長く知られていた動力源を用いるものであった。最も革新的な機械は兵器としての大砲であるが、それも機械論的な考えを刺激するようなものではなかった。ある意味では石弓の方がより典型的な機械であり、これは13世紀にさかのぼるものである。ニコル・オレーム(1382年没)は機械時計による科学的類推を用いた。つまり、機械との類推は16世紀末よりもずっと前に自然哲学者によって行なわれていたのである。ここで必要なのは、なぜこの時にあたってガリレオやその後続者が機械との類推を特に適切なものとして捉えたかの説明である。

3. その答は、16世紀中のアルキメデス的科学の復活にあるらしい。アルキメデス(前287-212年)はギリシア最大の数学者であった。彼は、たとえば「てこ」の分析のように、機械との類推に魅せられた。ただ彼の考えていた機械は装飾や知的興味のために作られたもので、実用品ではない。ただ16世紀の一部の科学者にとっては、アルキメデスの仕事はアリストテレス派でもプラトン派でもないギリシア科学の側面についての知識を伝えるものとなった。

 魔術的伝統とアルキメデスの客観的な知的好奇心との間には巨大なギャップがある。アルキメデスの伝統は機械技術者のそれであった。それは秘伝的ではなく、隠れた働きによって支配されることなく、また宗教的意味のある数学的調和を求めるようなこともしない。これらすべてが16世紀に革新的なものとしてあらわれた。アルキメデスの業績はラテン訳の草稿の形で少数の中世知識人には知られていたが、16世紀中葉の活字印刷版の出現が真の転回点となった。
 16世紀初期の最大のアルキメデス派は、
ニッコロ・タルターリア(1499-1557)で、彼は1543年にアルキメデスの最初のラテン版を出版した。さらにすぐあとに、コマソディーノが1575年異版を出した。タルターリア自身はたとえば放物体の軌道のような実用的傾向ある問題に関心を持っていた。これは、彼自身は論じなかったが、アリストテレス的物理学にとって破壊的な意味内容を持つ問題であった。タルターリアはもともと機械の原理に興味を持ち、この関心は、数学者でガリレオのパトロンであったグイドバルドの『機械の本』(1577年)によってガリレオの頃にまで持ちこされた。タルターリアからガリレオ、さらにその先まで伸びるアルキメデスの復活は、世界が測定と分析にかかるものであるという数学的方法の基礎を定めることとなった。
この伝統の中では、数はプラトン派、新プラトン派におけるような神秘的な魅力は持だなかった。


4.
 機械論が魔術に対する反動とすれば、それは同じく有機体的伝統に対する反動でもある。宇宙を機械と見なしていても、神の本性についての既存のアリストテレス派の仮定、キリスト教の啓示、奇跡、世界の目的の位置にふれないでおく、というわけにはゆかない。機械論派の仮定は、宇宙を機械的力の基礎の上に運転するものと見なし、メルセンヌが明言したように、神は偉大な技術者となる。そこで、科学者の仕事は、宇宙のいろいろな部分が、機械の部品のように組立てられるという仮定の上に立って、それらの内定関係を探求することになる。

5. 以上が科学革命の研究に関連する3つの主な知的伝統である。これらはそれぞれ神、自然、科学の方法についての仮定を持っている。このように述べてくると、どうしても実像を単純化しすぎたきらいがある。おのおのの伝統の内部でも強調点に不一致があり、また時が経つにつれて変化もする。しかしそれでも、科学史をこの三つの伝統で見ようとすれば、科学史のホイッグ的解釈に陥る危険からかなり免れられる。今やわれわれは唯一つのではなく、いくつかの科学の方法で考えられるようになっている。そして、合理主義の仮定の強調を弱めることになっている。たしかに合理的基準から測れば、魔術的伝統は3者のうちで最も合理的ではないように見える。しかし科学革命への貢献度からすれば、それが最も重要なもののようである。
  ・・・以上で、
Ⅰ. 西洋の3つ科学的伝統 終わり・・・


   → Ⅱ. 科学の言語-アリストテレス学
   
 Ⅲ. デカルトと機械論の展開-(デカルト革命序論)