『資本論』入門 7月号  商品の物神的性格 入門                               



 第1部 『経済学批判』における 商品の物神的性格について

>>『資本論』 第4節 商品の物神的性格 前半部

>>資本論入門7月号02その2>>

  資本論ワールド編集委員会事務局より


  6月号からまる1ヶ月が経過しました。編集委員会では、当初計画により 6月号入門その2で、
  『資本論』第3節価値形態または交換価値の討議報告を掲載する予定でしたが、
  「6月号入門」検討会での討議を経て、以下の取扱いに変更することになりました。

  1. 『資本論』第3節の価値形態は、5月号ヘーゲル論理学の「実体と形態・形式」の観点から再度見直す。
  2. 
『経済学批判』第1章商品は、『資本論』の第1章第1節から第4節さらに第2章までを含んでいる。
  3. 
『資本論』第4節商品の物神的性格とその秘密は、第3節価値形態と連続し貨幣形態の物神性が含まれる。
  4. 
したがって、第3節は、第4節商品の物神性の視点からも価値形態が考察されなければならない。

  7月『資本論』入門は、以下の編集方針にて抜本的に改革を行なう。
  1. 『経済学批判』第1章の「商品の物神性」を最初に分析・検討を行なう。
  2. 『経済学批判』の検討後、『資本論』第4節との比較・検討を経て、『資本論』第3節価値形態を討議する。

  以上の計画に従って、新たに『資本論』入門を行ってゆきます。
  
入門シリーズ参加の皆さん、また資本論ワールド探検隊のメンバーには突然の変更で緊張されますが、
  これも、研究の深化・進化ですので、ご理解と理論発掘にご協力をお願いしたいと思います。


             
* 『資本論』第4節 商品の物神的性格とその秘密 前半部 クリック


 レポーターの小川:
 
 ただ今、事務局より『資本論』第3節と第4節を合同しながら、進行してゆきたい旨の説明がありました。
  
本日ご出席いただきました方より、ご意見・質問等ありましたら、発言をお願いします

 哲学担当の近藤
 
 以前から、疑問というかちょっと違和感があったのですが、『資本論』第4節の冒頭部分に出てくる個所のうち
  以下の文章が気になっていました。

  「
商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。・・・それで、労働生産物が、商品形態をとるや
   否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの
形態自身からである。
  「
謎にみちた・・・この形態自身からである
ということは、第3節価値形態の内容を指していることになりますが、
  改めて、第3節を「謎にみちた」視点で見直すと、どういう風景になるのだろうか?という疑問です。

  第3節の最初には、
  「
ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。
   すなわち、貨幣形態である。・・・商品の価値関係に含まれている価値表現が、・・・どうして貨幣形態に発展して
   いったかを追求すること、これをもって貨幣の謎は消え失せる。
」とあります。
  
そして、第3節の最後は、
  「
貨幣形態という概念の困難は、・・・したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽である。
」で締め切られています。

  
第4節の「謎にみちた性質が、この形態自身からである」とすれば、「この形態」は、まさに第3節の価値形態に該当する
  わけですから、直接的には「
貨幣の謎」が該当することになります。そして、「貨幣の謎」という概念の困難は、
  「
貨幣形態の萌芽である単純なる商品形態」に存する、という具合の展開となっているわけです。

  これらの分析から出てくる事柄は、「第4節商品の物神的性格とその秘密」は、「第3節価値形態」にその根拠がある、
  ということではないでしょうか?

 
 こう考えると、事務局の提案は、
  『資本論』物神性論の焦点(
一般的労働時間による実体形態の形成)を
えぐり出したものと思われます。

 
 
北部資本論研の小島です

 いや、近藤さんの説明、とても説得力がありますね。しかも解りやすかった。
 3年ほど前に、『経済学批判』の学習会がありましたが、当時は問題意識もなく、読み合わせ程度だった感じです。
 特に、第1章では、価値方程式と価値形態の関連に議論が集中していたことが印象的で、
 あとはただひたすら読み続けるだけで精一杯だったように記憶しています。
  『資本論』第4節は、第1章の総まとめでもあるわけなので、とりあえず事務局の提案趣旨で始めたらいかがでしょうか。


 
司会進行役の坂井です
 編集部の事務局と一緒に議事整理を担当していますので、よろしくお願いします。
 近藤さん、小島さんから賛同の意見がありましたので、レジメに沿ってとりあえず進めさせていただきます。
 お手元に、事務局が準備した『経済学批判』第1章の本文と事務局がつけた「中見出し」がありますので、
 まず、趣旨説明をお願いします。

 事務局
 では、商品の物神的性格について、研究と討論を行ってゆきます。
 まず、『経済学批判』の位置づけについて提案します。
 下記の対比表のとおり、『経済学批判』と『資本論』の第1章から3章までの章別は、ほぼ同じ編成方針であることが
 伺えます。特徴的な点では、『資本論』第2版では、4つに節が区分されています。近藤さん(哲学担当)から指摘があった
 「
貨幣形態の謎」(第3節)と「商品の神秘的性質である形態自身」(第4節)に焦点をしぼりながら提案します。
 その後に、討論をお願いしたいと思います。
 ただ、『経済学批判』第1章と『資本論』第3節、第4節は、非常に長い文章となっていますので、最初に『経済学批判』を
 紹介します。そして今回
『資本論』第4節商品の物神的性格とその秘密は別に添付ファイルしてありますので、随時
 参照しながら進めてゆきます。
  留意点としては、『経済学批判』第1章の基軸・キーワードとして、
  「
一般的労働時間」の記述が詳細にわたってなされています。
 
 本日第1回は、 『経済学批判』 第1章 本文と中見出し を提案します。 
 
次回7月10日(日)に、第2回 『経済学批判』の商品物神性について
 第3回は、7月24日(日)に『資本論』第3節価値形態(と貨幣形態)の物神性入門
 第4回は、8月になりますが、『資本論』第4節商品の物神的性格とその秘密を探究してゆきます。

 本日は、レポーターの小川さんにお願いしていますので、よろしくお願いします。


 小川レポーター

 事務局から提案がありましたので、とりあえず「中見出し」に注目しながら、本文の読み合わせを行ってゆきます。
 読み合わせ後に、討論を予定しますので、ご協力をお願いします。さきほど事務局からも留意点が示されましたが、
 『資本論』第4節の「物神性」の解読と『経済学批判』の「一般的労働時間」の実体論議では、力点の押さえどころが違って
 いるように思われます。
 
『資本論』では、第3節価値形態が先行していますが、『経済学批判』では、「物神性」の商品説明が先にきています。
 この点に注目しながら、比較検討をお願いします。では、『経済学批判』と『資本論』の比較表からご覧ください。


   
『経済学批判』                『資本論』 第2版

  第1冊 資本について               第1巻 資本の生産過程
  第1編 資本一般                 第1編 商品と貨幣
  
第1章 商品                    第1章 商品
   A 商品分析の歴史                第1節 商品の2要因 使用価値と交換価値
                               第2節 商品に表わされた労働の二重性
                               第3節 価値形態または交換価値
                               第4節 商品の物神的性格とその秘密
                              第2章 交換過程

  第2章 貨幣または単純なる流通         第3章 貨幣または商品流通
   
第1節 価値の尺度                 第1節 価値の尺度
   B 貨幣の尺度単位に関する諸学説
   
第2節 流通手段                  第2節 流通手段
   ・a 商品の変態                     a 商品の変態
   ・b 貨幣の流通                     b 貨幣の流通
   ・c 鋳貨 価値表章                  c 鋳貨 価値表章
  
第3節 貨幣                      第3節 貨幣
   ・a 貨幣退蔵                      a 貨幣退蔵
   ・b 支払手段                      b 支払手段
   ・c 世界貨幣                      c 世界貨幣
  第4節 貴金属
  C 流通手段と貨幣に関する諸学説

  ・・・・・ ~ ・・・・ ~  ・・・・ 


 

 『経済学批判』  第1冊 資本について     *注 (資1) 『資本論』第1章第1節に該当することを示す

  第1編 資本一般   第1章 商品

 ★検索 資本論に該当する節・章を示す

 1. 経済学批判』第1章 第1節 使用価値の形態規定と交換価値の量的比率 1~9

 2. 各人の労働時間は社会的必要労働時間となる、「一般的労働時間」の成立 
 3. 
交換価値を生む労働の物神性 (資本論第4節)
 4.. 
抽象的・一般的労働は社会関係から生ずる (資本論第4節)
 5. 
労働の二重性、労働の生産力の増減について 16~19 (資本論第2節)
 6. 
商品の使用価値は比例関係に置かれる・比例関係のもとで社会性が生成する (資本論第3節)20~23
 7. 
一般的価値形態の成立状況 (資本論第3節) 22~30
 8. 
交換過程の矛盾と一般的労働時間の生成について (資本論第2章)31~36
 9. 
社会的労働の総体と貨幣の形成過程 37~38


                                          (資1)は、(『資本論』第1章第1節)の省略形を示す。

 
 『経済学批判』 第1章 (資1)使用価値と交換価値
1  市民(ブルジョワ)社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的
存在であることを示している。しかして、
商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる


  
(資1)使用価値の属性
2  商品は、イギリスの経済学者達の言葉でいえば、まず第一に「人生にとって必要であり、有用であるか、あるいは快適である
なんらかの物」、すなわち人間の欲望の対象、最広義においていう生活手段である。使用価値であるという商品の
固有性(ダーザイン:Dasein)
その手でつかみうる自然的な存在とは一致する。例えば、小麦は、綿花、硝子、紙等等の使用価値と区別された一つの特別な使用価値である。
使用価値は、使用するための価値にすぎないのであって、消費の過程で初めて実現される。同一の使用価値は、いろいろに利用されうる。だが、
その可能な利用の総体は、特定の属性をもった物であるという使用価値の
固有性(ダーザイン)のうちに綜合されている。さらに、使用価値は、
ただ質的に規定されるだけでなく、量的にも規定される。それぞれの使用価値は、その自然的な固有の性質にしたがって、
それぞれの量目をもっている。例えば、1シェッフェルの小麦、一帖の紙、1エルレの亜麻布等々というようなものである.。


  
(資1)使用価値の形態規定
3  使用価値は、富の社会的形態がどうあったにしても、つねにこの形態にとってはまず第一には無関係といってよい内容を成している。
小麦について、誰がこれを栽培したか、ロシアの農奴だったのか、フランスの零細農民だったのか、それともイギリスの資本家だったのか、
ということを味い分けることはできない。使用価値は、社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関をもってはいるが、
すこしも社会的生産関係を言い表わしてはいない。この商品は、使用価値としては、例えばダイヤモンドである。
ダイヤモンドについて、それが商品であることを認知しようとしてもできない。ダイヤモンドが使用価 値として、美的にまたは機械的に、
娼婦の胸にまたはガラス磨りの手に、用いられるところでは、それは ダイヤモンドであって商品ではない。

使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であるよう に見えるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定で
あるように見える。
経済上の形態規定に対してこのようにどうでもよい使用価値、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲の外にある。
その範囲にはいるのは、ただ
使用価値自身が形態規定 〔形式規定:Formbestimmung〕を持っている場合のみである。
直接的には、
使用価値は、特定の経済関係、すなわち交換価値が表われる素材的な基礎である。


  
(資1)交換価値は使用価値が交換される量的比率quantitatives Verhältnis
4  交換価値は、まず第一に、使用価値が相互に交換される量的な比率であることを示している。
この比率においては、これらの使用価値は、同じ交換の大いさである。それで、プロペルシウス詩集一巻と8オンスの嗅ぎ煙草とは、
煙草と悲情の詩という異なった使用価値にもかかわらず、同一の交換価値であってよいわけである。
交換価値としては、一つの使用価値は、他の使用価値に対して、もし両者が正しい割合にありさえすれば、ちょうど同じ値である。
大邸宅一つの交換価値は、靴墨罐の一定数で表わすことができる。ロンドンの靴墨製造業者は、逆に彼らの莫大な靴墨罐の交換価値を、
大邸宅で表わした。したがって、それらのものの自然的な存在様式とは全く無関係に、またそれらのものを使用価値たらしめる欲望の特殊な性質をば
少しも顧慮する所なく、商品は、一定の分量で等置され、交換されてお互を置き換え、等価物として通用し、
このようにしてその雑多な外観にもかかわらず、同一の等一物であることを示す。


  
(資1)交換価値に表わされている労働の性格
5  使用価値は、直接には生活手段である。しかし、逆に、これらの生活手段そのものは、社会的生活の生産物、すなわち、支出された人間の
生命力の成果であり、対象化された労働である。
社会的労働の物質化として、すべての商品は同じ等一物の結晶である。この等一物、すなわち、
交換価値に表わされている労働の一定の性格、これをいま考察しようというのである。


 
 (資1)交換価値を生む労働は抽象的・一般的な労働
6  1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、大いさを等しくする交換価値であるとしよう。
これらの使用価値は、
その質的相違が消えているこのような等価物としては、同一労働の等しい量を表わしている。これらのものに均等に対象化
されている労働は、それ自身一様で、無差別の単純な労働でなければならない。この労働にとっては、それが金、鉄、小麦、絹のいずれに現われる
かは全くどうでもいいことであって、それはちょうど酸素が、鉄のさび、大気、葡萄の果汁、または人間の血液のいずれに現われようと同じことで
あるようなものである。金を採掘し、鉄を鉱山から搬出し、小麦を栽培し、絹を織るということは、質的にはお互にちがった労働の種類である。
実際上、物的に使用価値の相違となっているものは、過程的には、使用価値をつくり出している活動の相違として現われる。したがって、
交換価値を生む労働は、使用価値の特別な素材とは何の関係もない労働であるから、労働そのものの特別の形態に対しても無関係である。
さらに、それぞれちがった使用価値は、それぞれちがった個人の活動の生産物である。したがって、個性的にちがった労働の結末である。
しかし、これらの労働は、交換価値としては、同一無差別の労働を、すなわち、労働する者の個性が消失した労働を表わしている。
したがって、交換価値を生む労働は、抽象的で一般的な労働である。


 
 (資1)労働時間は労働の量として生きた正体 Dasein : 実体
7
  1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、同じ大いさの交換価値または等価であるとすれば、1オンスの金、
2分の1トンの鉄、3ブシェルの小麦及び5エルレの絹は、全くちがった大いさの交換価値である。
そして
この量的な相違ということは、これらのものがそもそも交換価値として示すことのできる唯一の相違である。
これらのものは、ちがった大いさの交換価値としては、交換価値の
実体をなしているかの単純な、一様の、抽象的で一般的な労働の大小、
すなわち、その量が大きいか小さいかを示している。これらの定量をどうして測るかが問題となる。
あるいはむしろかの
労働そのものの量的な正体(Dasein ダーザイン)はどういうものであるかが問題となる。というのは、
商品の交換価値としての大いさの相違は、ただこれらの商品に対象化されている労働の大いさの相違にすぎないからである。
運動の量的な正体(ダーザイン)が時間であるように、労働の量的な正体(ダーザイン)は労働時間である。

労働そのものの継続の
ちがい差別Verschiedenheit)が、労働の質を与えられたものと前提すれば、
可能な唯一の
相違区別Unterschied)である。労働は、労働時間としては、自然的な時間標準である。時、日、週等々というように分けて、
その尺度標準をつくっている。
労働時間は、労働の生きた正体(ダーザイン)であって、その形態、その内容、その個性には無関係である。

それは、同時に内在的な基準をもった、労働の量としての生きた
正体(ダーザイン)である。
同時に
その商品の使用価値に対象化されている労働時間は、これらの使用価値を交換価値とし、
したがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。

同一労働時間が対象化されているちがった使用価値の相関的な量が等価である。
あるいはすべての使用価値は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて等価である。
交換価値としては、すべての商品は、膠結した〔ゲル化した〕労働時間の一定の量であるにすぎない。


 
(資1)と(資2)労働時間による交換価値の規定

8
 交換価値の労働時間による規定を理解するためには、次の主要な観点をしっかり理解しておかねばならない。
すなわち、労働を単純な、いわば質の差のない労働に整約すること。交換価値を生む、したがって商品を生産する労働を、
社会的労働となしている特殊な仕方。
最後に、使用価値という結果を生む労働と、交換価値という結果を生む労働との相違
商品の交換価値を商品に含まれている労働時間で測るためには、さまざまな労働自身が、無差別の、一様な、単純な労働に、
簡単にいえば、質的に同一であり、したがってただ量的にのみ区別される労働に整約されていなければならない。
                        
<注>青字部分が、第2節労働の二重性に該当する


  
(資1)単純労働について
9
 この整約は抽象として現われる。しかし、それは、社会的生産過程において毎日行われている抽象である。
すべての商品を労働時間に分解することは、決して、一切の有機体をガス体に分解する以上に進んだ抽象ではないが、しかし同時に、
それ以下に現実性の希薄な抽象でもない。このように時間によって測られる労働は、実際には様々な主体の労働として現われるのではなく、
むしろ
労働する様々な個人が、同じ労働の単なる器官として現われる。あるいは、交換価値に表われる労働は、一般に人間的な労働という言葉で
表わされえよう。この一般的に人間的な労働の抽象は、一定の与えられた社会の各平均的な個人が行いうる平均労働として存在している。
すなわち、人間の筋肉、神経、脳髄等々の一定の生産的な支出である。それは、単純労働であって、すべての平均的な個人はこれをなすことが
出来るようになっており、また彼は、どんな形態かでこれを行うにちがいない。この平均労働の性質は、それ自身国の異なるにしたがい、
また文化時代の異なることによって、ちがっている。しかし、一定の与えられた社会では与えられたものとして現われる。

単純労働は、いろいろな統計から人のよく知ることができるように、市民(ブルジョア)社会のすべての労働の圧倒的多数をしめている。
Aが6時間の間に鉄を、また6時間の間に亜麻布を生産し、Bが同じく6時間の間に鉄を、6時間の間に亜麻布を生産するかどうか、
あるいは、Aが12時間の間に鉄を、またBが12時間の間に亜麻布を生産するかどうかは、明らかに、同一労働時間を単にちがって
用いているということにすぎない。しかしながら、より高度の活動性、より大きな特殊の重要さをもつ労働として、
平均水準をぬいている複雑労働はどうなるのか?この種の労働は、複合された単純な労働に分解される。すなわち、倍加された単純労働に分解し、
したがって、例えば、1複雑労働日は3単純労働日に等しいというようになる。この整約を規整する法則はまだここでの問題ではない。
しかし、この整約が行われるということは、明瞭である。何故かというに、複雑労働の生産物は、交換価値としては、一定の割合で単純なる平均労働の
生産物に対して等価をなし、したがって、この単純労働の一定量に等しいとおかれているからである。


  
(資1)各人の労働時間は社会的に必要な労働時間
10
 労働時間による交換価値の規定は、更に次のことを含んでいる。すなわち、一定の商品、例えば、1トンの鉄には、それが
Aの労働であるかBの労働であるかにかかわりなく、同量の労働が対象化されている、あるいはちがった個人が、質的にも量的にも
一定した同一使用価値の生産のために、同じ大いさの労働時間を用いている、ということである。他の言葉でいえば、一つ商品の中に
含まれている労働時間は、その生産のために必要な労働時間であるということ、すなわち、与えられた一般的な生産諸条件のもとで
同一商品を新たにもう一つ生産するために必要な労働時間である、ということが含まれている。


  
(資1)一切の労働が同一種の労働
11
 交換価値の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である
しかし、社会的といっても一般的にただ社会的であるというのではなく、特殊な様式をもつ社会的という意味である。それは、
社会性の特殊な種eine spezifische Art der Gesellschaftlichkeit)である。まず第一に、労働の無差別な単純さということは、
ちがった個人の労働が等一であるということを意味するのであって、つまり彼等の労働が等一なるものとして相互に関係することである。
そしてしかもそれは一切の労働が同一種の労働に事実上整約されることによるのである。各個人の労働は、それが交換価値に表われる限りに
おいて、
等一性相等性Gleichheit)というこの社会的性格をもつのである。そしてこの労働は、それがすべての他の個人の労働に対して
等一なるものとして相関係するかぎりでのみ、交換価値に表われるのである。


  
(資1)個人の労働時間が一般的労働時間 allgemeine Arbeitszeit となる

12
 さらに、交換価値においては、個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間として現われるそして個別的な労働の
この一般的性格が、その労働の社会的性格として現われる
。交換価値に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。
個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別(Unterschied)されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる
個々の個人の労働時間である。したがって、ある人にとって、一定の商品の生産に必要とされる労働時間は、同時に他の人もみな同一商品の
生産に用うる必要労働時間なのである。この労働時間は個々の個人の労働時間である。すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいて
のみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。
この労働時間は、
一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価に、すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。

それは、直接にある人の生産物として現われる使用価値の特定の形態には、まったく無関係なものであって、他のいずれかの他の人の生産物と
して表わされる使用価値のあらゆる他の形態に、いかようでも転化するものである。それが社会的な大いさであるのは、
ただこのような一般的な大いさとしてのみである。 交換価値という結果として表われるためには、個々人の労働は、一般的な等価とならざるをえない。
すなわち、個々の人の労働時間を
一般的な労働時間として表わし、または一般的な労働時間を個々人のそれとして表わすようにならざるをえない。
それは、ちょうどさまざまな個人が彼等の労働時間を一緒にして、彼等の共有の労働時間をつくって、そのうちからそれぞれちがった分量を、
おのおのちがった使用価値で表わしたようなものである。

こうして、個々の人の労働時間は、実際には、社会が一定の使用価値をつくるために、すなわち、一定の欲望を充すために必要とする労働時間である。
しかしながら、
ここで問題であるのは、労働が社会的な性格をうけとるその特殊な形態だけである
紡績工の一定の労働時間は、例えば、100ポンドの亜麻糸に対象化される。職工の生産物である100エルレの亜麻布が、同一分量の労働時間を
表わしているとする。この二つの生産物が
一般的労働時間の同一量を示しており、したがって同一の大いさの労働時間を含むあらゆる使用価値に対して
等価であるかぎり、それらの生産物はおたがいに等価となっている。ただ、この場合、
紡績工の労働時間と職工の労働時間とが一般的労働時間として、
したがって彼等の生産物が一般的等価として表われる
ことによってのみ、職工の労働は紡績工のための、紡績工の労働は職工のための、
一方の労働が他の者のための労働になることになる。すなわち、
彼等の労働がそれぞれのための社会的な固有性をもつことになる。これに反して、
紡績工と職工とが同一屋根の下に住んでいて、例えばその家族の自家用に、女性たちが紡ぎ、男性の側が織ったというような農村的=家父長的
工業では、その家族の限界内で、糸と亜麻布とは社会的な生産物であり、紡績と職布とは社会的労働であった。しかし、その社会的な性格は、
糸が一般的な等価として、同じく一般的な等価としての亜麻布に対して交換される、すなわち、両者が同一なる一般的労働時間の無差別で異なる
所のない表現として、お互いに交換される、ということにあるのではなかった。むしろ、自然発生的な分業をもつ家族結合が、労働の生産物に
その独特の社会的刻印を押しつけた。

あるいは、中世の役務や実物給付をとって見よう。自然形態をとる個々の人の一定の労働、すなわちその特殊性が、ここでは社会的紐帯をなして
いたのであって、労働の一般性ではなかった。あるいは、最後にわれわれがすべての文化民族の歴史の入口の辺りで見る自然発生的な形態の
共同労働をとって見よう。
ここでは、労働の社会的性格は、明らかに、個々人の労働が一般性の抽象的形態をとり、またはその生産物が一般的等価の形態をとるということに
よって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働であり、その生産物が私的生産物であることを妨げており、個々の労働をむしろ直接に
社会的有機体の成員の機能として現われさせるのは、この生産の前提となっている共同体である。
交換価値に表われる労働の前提となっているのは、
個別的な個人の労働である。この労働が社会的となるのは、その直接的な反対物の形態、すなわち抽象的一般性の形態をとることによってである。


   
(資4)交換価値を生む労働の物神性

13
 最後に、人間の社会的関係(die gesellschaftliche Beziehung der Personen)が、いわば逆さに、すなわち、物の社会的関係として、
表われるというのが交換価値を生む労働の特徴
となるのである。一の使用価値が他のそれに対して交換価値として関係するかぎりにおいてのみ、
それぞれちがった人間の労働がたがいに、等一な一般的な労働としてあい関係する。したがって、もし
交換価値は人間の間の関係である、
ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係であるということが付け加えられなければならない


1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、
同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。
かくて、
交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性
Der Tauschwert erscheint so als gesellschaftliche Naturbestimmtheit der Gebrauchswerteとして、すなわち、
これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる

そしてこの性質規定のために、これらの使用価値は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、
化学的等価をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている。

社会的生産関係が対象の形態をとり、その結果人間の関係がその労働において、むしろ物相互の間及び物と人間との間にとる関係として表わされると
いうことは、日常の生活習慣にすぎないものであって、それは少しもめずらしくない自明のこととして表われる。

商品ではこの神秘化はまだ極めて単純である
。ここでは商品の交換価値としての関係は、むしろ人間の相互的な生産活動に対する関係であると
いうことが、多かれ少なかれ、まだすべての人々の目に浮ぶ。

もっと高い生産諸関係では、この単純さの外観は消えてしまう。重金主義の一切の幻想は、貨幣について、それが社会的生産関係を、
しかも一定の性質を持つ自然物の形態で、表わしているということを、看取していないことから生れている。重金主義の幻想を嘲笑する近代経済学者に
あっても、彼等がより高度の経済学的諸範疇、例えば資本を取扱うことになると、同じような幻想があらわれてくる。彼等が同じように不器用に物として
ちゃんとつかんでいると考えたものが、とたんに社会関係として表われ、また彼等が社会関係として固定させたものが、すぐにまた物として彼等を
なぶることになると、幻想は、彼らの無邪気な驚きの告白の中にどっと表われてくる。


   
(資1)労働は富の父であり、土地はその母である
14
 商品の交換価値が事実上、個々の人々のおたがいの間の等一にして一般的なものとしての労働の関係に外ならず、労働の
特殊的に社会的な形態の対象的な表現に外ならないのを見れば、労働が交換価値の唯一の源泉であり、したがって、
交換価値からなる限り、富の唯一の源泉である、というようなことをいうのは、無意味である。同じように、自然素材は、少しの労働も
含んでいないから、そのものとしては何らの交換価値をもたない、また交換価値は、そのものとしては何等の自然素材を含んでいない、
というようなことを教えるのも、無意味なのである。しかし、
ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい
またはバークリ僧正が、「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、あるいは
アメリカ人のTh・クーパーは通俗の言葉で「一かたまりのパンからこれに用いられた労働、すなわち、パン焼工、製粉工、小作人等々の
労働をとり去って見よ。そこに一体何が残るか?残るのは野生で人間に少しも役に立たぬ若干の穀粒である」ことを明言したのであるが、
これらのすべての考え方は、交換価値の源泉である抽象的労働については少しも論じなくて、素材的富の源泉としての具体的な労働に
ついて、簡単に言えば、使用価値を生むかぎりにおいての労働について論じているのである。商品の使用価値が前提されると、
このために費消された労働の特別な有用性、特定の合目的性が前提されることになる。しかし、それと同時に、商品の立場からいえば、
有用労働としての労働についての一切の考慮はつくされている。

使用価値としてのパンについてわれわれの関心をひくのは、食糧品としての性質であって、決して小作人や製粉工やパン焼工等の労働なのではない。
何かの発明によって、この労働の20分の19がしなくてすむようになったとしても、一塊のパンは、以前と同じような働きをするだろう。
もし出来上ったパンが天から落ちてきたとしても、その使用価値が、ほんの少しでもなくなると言うようなことはない。
一方
交換価値を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しいということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、
その使用価値の無限の多様性のうちに実現されている
。交換価値を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働であるとすれば、
使用価値を生む労働は、具体的で、特殊な労働であって、この労働は形態と素材にしたがって無限に違った労働様式に分れる。


 
 (資1)抽象的で一般的な労働は、社会関係から生ずる・・・「物神性」の共通性・・・

15
 使用価値を生むかぎりの労働について、これが、つくり出した富、すなわち素材的富の唯一の源泉である、というのは間違っている。
労働は、いかなる目的かのために素材的なものを獲得する活動であるのだから、前提として素材を必要とする。
使用価値の異なるにしたがって、労働と自然素材との割合は大変ちがっている。しかし、つねに使用価値は、自然的な原基を含んでいる。
どんな形態かで自然的なものを獲得するための合目的的な活動としては、労働は、人間の生存の自然条件である。すなわち、人間と自然
との間の物質代謝の条件であって、すべての社会形態から独立している。これに反して、交換価値を生む労働は、労働の特殊的に社会的な
形態である。例えば、特別な生産活動として、一定の物質的性質を与えられた裁縫労働は、上衣を生産するのではあるが、
上衣の交換価値を生産するのではない。
労働が上衣の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなく、抽象的で一般的な労働として
である。そしてこの抽象的で一般的な労働は、社会関係から生ずる
ものであって、これを裁縫師が縫い上げるわけのものではない。
このようにして、古代の家内工業では、職工は上衣を生産したが、上衣の交換価値を生産することはなかった。
素材的富の源泉としての労働は、立法者モーゼにも、税官吏のアダム・スミスにも知られていた。


  
(資2)労働の生産力の増減について労働の二重性 ・・・16.17.18.19・・・

16
 そこで交換価値を労働時間に帰着させることから生ずる若干のもっと細かい規定を考察しよう

17  使用価値としては、商品は、原因の作用をする。例えば、小麦は、食糧のはたらきをする。機械は一定の割合で労働に代わる。
商品はこの作用によってのみ使用価値となり、消費の対象となるのであるが、これを商品の効役(ディーンスト)と名づけることができる。
すなわち、商品が使用価値としてはたす効役である。しかしながら、交換価値としては、商品は、つねに結果の観点からのみ考察される。
ここで問題となるのは、商品のはたす効役ではなく、
商品を生産するとき商品のためになされた効役なのである。だから、例えば、
一の機械の交換価値は、この機械によって置き代えられる一定量の労働時間によって定められるのではなく、この機械そのものに用いられ、
したがって
同一種の新しい機械を生産するために必要とされる一定量の労働時間によって定められる

18  したがって、商品の生産のために必要とされる労働量が不変であるとすれば、その交換価値は不変ということになろう。しかし、
生産の難易はたえず変化している。労働は、その生産力が増大するならば同一の使用価値をより短い時間で生産する。
労働の生産力が低下するならば、同一の使用価値の生産のために要する時間は多くなる。一商品に含まれている労働時間の大いさ、
すなわち、その交換価値は、したがって変化するものであって、労働の生産力の増減に逆比例して増減する


製造工業で予め定められた度合で用いられている労働の生産力は、農業や抽出産業においては、同時に統御しえない自然関係によっ て
制約されている。同一労働を用いても、地殻中にふくまれる一定金属の割合が少ないか多いかにしたがって、それぞれそれらの金属の
採掘量は、大きくなったり小さくなったりするだろう。同一労働が、豊年には2ブシェルの小麦に、凶年には恐らく1ブシェルの小麦に
対象化されるだろう。ここでは、自然関係として稀少であったり、過剰であったりすることが、商品の交換価値を定めるように見える。
というのは、この稀少と過剰とが、自然関係に拘束されている特殊の現実の労働の生産力を定めるからである。


  社会的生産諸力の前進的な展開
19
 さまざまな使用価値は、その不等な分量の中に、同一の労働時間または同一の交換価値を含んでいる。
一定量の労働時間を含んでいるある商品の使用価値の分量が、他の使用価値と比較して小さければ小さいほど、
この商品の特殊な交換価値は大きい。文化段階がそれぞれ遠く時をへだててちがっている場合に、いろいろの使用価値がおたがいの間に
特別の交換価値の系列をつくっており、それらの交換価値が、正確に同じ数の比例をなしてはいなくとも、例えば、金、銀、銅、鉄、または
小麦、裸麦、大麦、燕麦というように、相互に上位下位の一般関係をたもっているとするならば、このことから生ずる結果は
次のようになる外ない。すなわち、
社会的生産諸力の前進的な展開は、かの各種の商品の生産のために必要な労働時間に作用して、
これを均等に、あるいは近似的に均等にしてゆくということである


   
(資3)商品の使用価値は比例関係・Verhältnisに置かれる 
           ・・・
比例関係のもとで、社会性が生成する ・・・20.21.22.23・・・

20
 商品の交換価値は、それ自身の使用価値のうちに表われるものではない。だか、一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間
対象化として、他の商品の使用価値と
比例関係におかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されている。
実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価である。
例えば、1エルレの亜麻布は2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の交換価値は、コーヒーという使用価値で、
しかもこの使用価値の特定の量で表現されている。この割合が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーで
いい表わすことができる。一商品、例えば亜麻布の交換価値は、他の特別な一商品、例えば、コーヒーがその等価をなしている
比例関係
つきているものでないことは明らかである。

一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の使用価値の無限に
多様な分量に実現されている。あらゆる他の商品の使用価値が等量の労働時間を表わしている割合にしたがって、それらの商品の
使用価値は、1エルレの亜麻布の等価をなしている
。したがって、この個々の商品の交換価値を十分に表現するには、
他のすべての商品の使用価値がその等価をなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない。
これらの方程式の総計、または一商品が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係の総体においてのみ、
この商品は一般的等価として、あますところなく表現される。

21 例えば方程式の系列
  
1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
  1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
  1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン
  1エルレ 亜麻布 = 6エルレ キャラコ

 は、次のように表わされうる、
 
1エルレ亜麻布=1/8ポンド茶 + 1/2ポンドコーヒー + 2ポンドパン + 1・1/2エルレキャラコ


  
(資3)一般的価値形態の成立状況

22
 したがって、もしわれわれが、1エルレの亜麻布の価値があますところなく表現されている方程式の総計をもってくれば、
その商品の交換価値を一の系列の形で表わすことができよう。事実上この系列は無限である。というのは、商品の範囲は決して最後的に
完結するものではなく、つねに拡大されてゆくものであるからである。しかしながら

ある一つの商品は、その交換価値を他のすべての商品の使用価値で測っているのであるから、逆に他のすべての商品の
交換価値は、これらの商品で測られているこの一つの商品の使用価値で測られる。
1エルレ亜麻布の交換価値が 1/2ポンドの茶、または2ポンドのコーヒー、または6エルレのキャラコ、または8ポンドのパン等々で
表現されているとすれば、コーヒー、茶、キャラコ、パン等々は、それらのものが第三のもの、すなわち亜麻布に等しい割合にしたがって、
お互いに等しいということ、
したがって亜麻布がこれらの交換価値の共通の尺度としてはたらいている、という結果になる
すべての商品は、対象化された一般的労働時間として、すなわち、一般的労働時間の一定量として、その交換価値を、他のすべての商品の
使用価値の一定の分量で、順次に表現する。そして他のすべての商品の交換価値は、逆にもっぱらこの一つの商品の使用価値で測られる。
しかし、交換価値としては、いかなる商品も他のすべての商品の交換価値の共通の尺度として役立つ唯一の商品であり、また同時に他方で
は、他のいずれもの商品が多くの商品の全範囲にわたって、その価値を表わすさいのこれらの多くの商品の一つにすぎないものである。


  
拡大された価値形態の成立状況

23
 一商品の価値の大いさは、その商品の外に他の種類の商品が、沢山あるか少ないか、ということによるのではない。しかしながら、
その交換価値が実現される方程式の系列が、大きいか小さいかは、他の商品の多様性が大きいか小さいかにかかっている。
例えば、コーヒーの価値が表わされる方程式の系列は、その交換可能性の範囲を、すなわち、コーヒーが交換価値として機能する限界を
言い表わしている。 一般的社会的労働時間の対象化としての一商品の交換価値に対して、
無限に多様な使用価値におけるその商品の等価性の表現が相応じている。


   
(資2)、(資4)生産力の増減と交換価値の比例(・逆比例)関係 ・・・物神性の現われ・・・

24
 商品の交換価値は、直接にそれ自身の中に含まれている労働時間の量ともに変化するということがわかった。商品の実現された、
すなわち、他の諸商品の使用価値に表現された交換価値は、同じように、他のあらゆる商品の生産に投ぜられた労働時間が変化する割合に
よるということにならざるをえない。 例えば、1シェッフェルの小麦の生産に必要な労働時間は変らないで同一であっても、
他のすべての商品の生産に要する労働時間が二倍となれば、等価に表現された1シェッフェルの小麦の交換価値は、半分だけ低下したことに
なる。この結果は実際には、ちょうど1シェッフェルの小麦の生産に要する労働時間が半分だけ減って、他のすべての商品の生産に要する
労働時間が不変にとどまるのと同じである。商品の価値は、同一の労働時間で生産されうる割合によって定められる。

この割合が、どんなおそるべき変化を受けるかを知るためにわれわれは、かりにAとBという二商品をとってみよう。
第一に、Bの生産に必要な労働時間が、不変であるとする。この場合には、Bに表現されたAの交換価値は、Aの生産に要する労働時間が
減少するか増加するかに正比例して減少したり、増加したりする。第二に、Aの生産に要する労働時間が、不変であるとしよう。
Bに表現されたAの交換価値は、Bの生産に要する労働時間が減少するか増加するかに逆比例して減少したり、増加したりする。
第三に、AとBの生産に要する労働時間が、同じ比例で減少するか増加するかするとしよう。
AのBにおける等価の表現は、この場合は不変にとどまるだろう。どんな事情かで、すべての労働の生産力が、同じ程度に減退し、
したがってすべての商品が同じ割合でその生産のためにより多くの労働時間を必要としたとしよう。
この場合、すべての商品の価値は増大するだろう。その交換価値の現実の表現は、不変にとどまるだろう。
そして社会の実際の富は、減少したであろう。というのは、社会は同一量の使用価値をつくり出すために、
より多くの労働時間を必要とするからである。第四に、AとBの生産に要する労働時間が、両者にとって、ちがった程度で増大するか、
減少するかするとしよう。あるいはAに必要な労働時間は増大したのに、Bに対するそれは減少するとする。あるいは、
逆だとする。これらすべての場合は、簡単に、一商品の生産に必要な労働時間は不変であるのに、他の商品のそれは増大するか、
減少するかする場合に還元することができる。


  
(資・第2章)交換価値の数量表現 ・・・第2章交換過程・・25.26.27.28.29・・・

25
 すべての商品の交換価値は、この使用価値の整数量で示すにしても、その分数量で示すにしても、
すべて他の商品の使用価値で表現される。交換価値としては、すべての商品は、それに対象化されている労働時間そのものと同じように
分割することのできるものである。諸商品の交換価値を合計することは、これらの商品の使用価値がつくり変えられて
一つの新しい商品になるさいに、現実にどんな形態転化がおこるかということに対してどうでもいいのと同じように、諸商品の等価性は、
使用価値としてのこれら諸商品の物的可分性とは無関係である。


  
交換関係の意識的担い手
26
 これまで、商品は、使用価値としてまた交換価値として、二重の観点で、いずれも一方的に、考察された。
だが商品は、商品としては、直接に使用価値と交換価値の統一である。同時に商品は、他の諸商品との関係におかれてはじめて商品である。
商品相互の現実の関係は、その交換過程である。おたがいに独立している個人が結び合うのは、まさにこの社会的な過程である。
しかし、彼等はこの社会的な過程をただ商品所有者としてだけ結び合うのである。

彼等がおたがいに交互関係をもつ存在たりうるのは、彼等の商品がそのような存在であるからである

だから、彼等は実際には、ただ交換過程の意識的な担い手として現われるにすぎない。


   
商品の交換過程
27
 商品は使用価値である。すなわち、小麦、亜麻布、ダイヤモンド、機械等々である。しかし、商品としては、商品は同時に使用価値でない。
もし商品がその所有者にとって使用価値であるならば、ということは、直接に所有者自身の欲望の充足のための手段であるならば、
商品は商品ではあるまい。所有者にとっては、商品はむしろ非使用価値である。すなわち、交換価値の単なる素材的な担い手である。
あるいは単なる交換手段である。交換価値の能動的な担い手としては、使用価値は交換手段となる。

商品は、所有者にとっては、ただ交換価値であってはじめて使用価値である。したがって、使用価値としては、商品はこれから、
まず第一に他人のための使用価値にならなければならない。商品は、それ自身の所有者にとっては使用価値ではないのであるから、
他の商品の所有者にとって使用価値である。もしそうでなかったら、彼の労働は無用の労働だったのである。したがって、
その結果は商品ではないことになる。他方では、商品は、所有者自身にとって使用価値とならなければならない。
何故かというに、所有者の生活手段は、その商品の外にある他の商品の使用価値の中に存するのであるからである。
使用価値となるためには、商品は、それが充足の対象にあたる特定の欲望に出あわなければならない。だから、商品の使用価値は、
全面的に位置を変えて、それが交換手段である人の手から、それが使用対象となる人の手に移って、はじめて使用価値となる。
商品がこのように全面的に己れを譲り渡すことによってはじめて商品に含まれている労働は有用労働となる。

商品は、おたがいが使用価値として関係しあう過程では、新しい経済的形態規定を受取るものではない。
ここではむしろ商品を商品として性格づける形態規定は消失する。例えば、パンはパン焼工の手から消費者の手に移行しても、パンとしての
性質(ダーザイン)を変えはしない。逆に、消費者がはじめて、使用価値としての、すなわちこの特定の食糧品としてのパンと関係することに
なるのであるが、このパンは、
パン焼工の手にある間は一定の経済関係の担い手であり、感覚的にして超感覚的な物であった
したがって、商品がその使用価値となってゆく際に行う唯一の形態転化は、商品がその所有者にとっては非使用価値であり、
その非所有者にとっては使用価値であったというこの形態の持つ性質(ダーザイン)を止揚することである。商品が使用価値となることは、
商品の全面的な譲り渡しを、すなわち、商品が交換過程にはいりこむことを予定している。
しかしながら、商品が交換のためにあるということは、交換価値としてあるということである。したがって、
使用価値として実現されるためには、商品は交換価値として実現されなければならない。


  
交換過程の矛盾と一般的労働時間の生成について

28
 個々の商品は、使用価値の観点では本来独立の物として現われたのであったが、これと反対に、交換価値としては初めからすべての
他の商品に対する関係において考察された。だが、この関係は、ただ理論的な、考えられた関係にすぎなかった。
この関係は、交換過程においてはじめて実証される。他方において、商品は、一定量の労働時間がその中に投入されており、
したがって商品が対象化された労働時間であるかぎりにおいて、交換価値であるが、しかし、商品を直接的に見るかぎりでは、それは、
特別の内容をもって対象化された個人的な労働時間であって、
一般的労働時間ではない。したがって、商品は直接的に交換価値ではなくて、
まず交換価値とならなければならぬのである。まず第一に、商品は、一定の役に立つかぎりで、したがって労働時間をある使用価値に
表わしているかぎりで、はじめて
一般的労働時間の対象化となることができる。

このような素材的な条件があって、この条件のもとではじめて、商品に含まれている労働時間が、一般的な社会的な労働時間として
前提されたのであった
。したがって、商品が、交換価値として実現されてはじめて使用価値となりうるとすれば、
商品は、他方では、その譲り渡しで使用価値であることを実証されて初めて交換価値として実現されることが出来るのである。
商品は、使用価値となることができるには、それが使用価値となるような、つまり特別の欲望の対象となるような一定の人に
引きわたされる外はない。他方では、商品は他の商品と引きかえにのみ引渡される。あるいは、もしわれわれが他の商品の所有者の側に
立つとすれば、この所有者、同じように自分の商品が対象となる特別の欲望と、その商品を接触させて譲り渡し、
または実現することができるだけである。したがって、諸商品は使用価値として全面的に譲り渡されて、その特殊な性質にもとづいて
特別の欲望を充足させる特別の物として、素材的な相違にしたがって、おたがいにあい関係させられる。

しかし、このような単なる使用価値としては、諸商品はおたがいにどうでもよい存在である、むしろまったく無関係である。
使用価値としては、それらは、ただ特別の欲望に関係して交換されうるものであるにすぎない。しかし、それらの商品が交換されることができる
のは、ひとえに等価であるからである。そして、それらが等価であるのは、対象化された労働時間の等量であるからである。こうなると、
使用価値としての諸商品の自然的属性、したがってまた特殊な欲望に対する諸商品の関係、に対する顧慮はなくなっている。
商品は、むしろ等価として、任意に定められた他のあらゆる商品の量に代り、他の商品の所有者にとってそれが使用価値であるかどうかに
まったくかかわりなくなってはじめて、交換価値であることを証明するのである。だが、商品は、他の商品の所有者にとっては、
それが彼にとって使用価値であるかぎりにおいてのみ、商品である。

そしてその商品自身の所有者にとっては、それが他の商品の所有者にとって商品であるかぎりにおいてのみ、交換価値となる。
したがって、同じ関係が、本質的に等しく、ただ量的にのみちがっている大いさとしての諸商品の関係でなければならず、
一般的労働時間の体化物としての諸商品を等置することでなければならないが、それと同時に質的にちがった物としての諸商品の関係、
すなわち特別の欲望に対する特別の使用価値としての諸商品の関係、要するに、現実の使用価値として諸商品を区別する関係でも
なければならない。しかしながら、この等置するということと等置できないということとは相互に排除し合うものである。
そこで一方の問題の解決は他方の問題の解決を前提することになって、問題が悪循環におちいるだけではなく、一条件の充足が直接に
その正反対の条件の充足にかかっていることになって、全体が矛盾する要求となって表れている。


   
商品の交換過程における矛盾の展開

29
 商品の交換過程は、この矛盾の展開でもあれば、解決でもなければならないのであるが、この矛盾は、交換過程では決してこのような
簡単な仕方で表われることのできるものではない。われわれは、商品自身がおたがいに使用価値としてあい関係していること、すなわち、
どのように商品は交換過程の内部において使用価値として表われるのか、ということを見たばかりであった。
これに反して、これまで見てきたように、交換価値は、ただわれわれの抽象の中に、すなわち、商品を使用価値としては倉庫に、
交換価値としては意識の上でもっている個々の商品所有者の抽象の中に存在しているにすぎないといってもよい。しかし、商品そのものは、
交換過程の内部では使用価値としてばかりでなく、お互いのための交換価値としても存在しなければならない。
そして、商品のこの
存在 ( Dasein ダーザイン)の仕方は、それら自身のおたがいの関係として現わるべきものである。
われわれがまずひっかかった困難は次のようなことであった。交換価値として、すなわち対象化された労働として表われるためには、
商品はあらかじめ使用価値として引き渡されなければならない、すなわち、人の手に渡らなければならないのに、他方では、商品の使用価値と
しての引き渡しは逆に商品が交換価値として存在することを前提している、というのである。しかし、この困難は解決されると仮定しよう。
商品は、個々の人の特殊な労働そのものであるだけでなく、社会的に有用な労働であるために、商品の特殊な使用価値をぬぎすてて、
これを引き渡すことによって素材的な条件をみたしとしよう。こうなると、
商品は、交換過程において交換価値として、他のすべての商品に
対して一般的等価、すなわち対象化された
一般的労働時間とならなければならない。そしてこのようにして、もはや特別の使用価値の
限定された作用をもつだけでなく、その等価としてのすべての使用価値の中に直接的な表示能力をうることにならなければならない。
だが、どの商品も、このようにしてその特殊な使用価値の引き渡しによって、
一般的労働時間の直接の体化物として現われざるをえない商品で
ある。しかし他方、交換過程では、特別の商品が、すなわち特殊の使用価値に体現された私的個人たちの労働が、相対しているだけである。
一般的労働時間自体は抽象であって、そのものとして諸商品に実在するのではない。


  
(資3)価値形態 ・・・第3節価値形態または交換価値・・・30.31.32.33.34・・・

30
 一商品の交換価値がその現実の表現をおこなっている方程式の総計を考察すると、例えばこうである。

  1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
  1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
  1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン 等々


   
(資第2章)交換過程の困難 一般的労働時間の生成

31 
これらの方程式は、なるほど等しい大いさの一般的、社会的労働時間が、1エルレの亜麻布、2ポンドコーヒー、1/2ポンド茶等々に
対象化されているということを示してはいるが、しかし、実際上、これらの特殊な使用価値に表われている個人的な労働は、
それらの使用価値が現実にその中に含まれている労働の継続時間の割合でおたがいに交換されてはじめて、一般的な、
そしてこの一般的という形で社会的な労働になるのである。
社会的な労働時間は、いわば潜在的にこれらの商品の中にあるだけであって 、
その交換過程ではじめて発現するのである
。出発点は共同労働としての個人の労働ではなく、逆に、私的個人の特殊な労働である。
この特殊な労働は、交換過程ではじめてその本来の性格を止揚して、一般的社会的な労働であることを証明する。だから、一般的に
社会的な労働というのは、完成された前提ではなくて、生成してゆく結果なのである。
こうして、諸商品は一方では対象化した
一般的労働時間として交換過程にはいらなければならないが、他方では、
労働時間が個人の一般的な労働時間として対象化されること自身は、交換過程の生産物に外ならない、という新しい困難が生ずる。


   
個人的な・一般的労働時間の生成 (拡大された価値形態)

32
 すべての商品は、その使用価値を、したがってその本来の存在を引き渡してしまって、その交換価値としてあるべき存在を受けとる
べきものである。だから、商品は交換過程でその存在を二重化せざるをえない。他方は、交換価値そのものとしてのその第二の存在は、
他の商品である外はない。何故かというに、交換過程では、もっぱら諸商品だけが相対しているのであるからである。
どうして、一つの特殊な
商品を直接に対象化された
一般的労働時間として表わして、または同じことであるが、どうして一つの特殊な商品に対象化されている
個人的な労働時間に、直接に一般性という性格を与えるのか?

一商品、すなわち、
一般的等価たる各商品の交換価値の現実の表現は、次のような方程式の無限の総計の中に示されている。

  
1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
  1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
  1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン
  1エルレ 亜麻布 = 6エルレ キャラコ
  1エルレ 亜麻布 = 等々その他。


   
交換過程の社会的結果
33
 このような言い表わしは、商品が対象化された一般的な労働時間の一定量と考えられただけでは、理論的なものであった。
特別なる商品が一般的等価として存在するにいたるのは、上記の方程式の系列を単純に逆にすることによって、
単なる抽象から交換過程自体の社会的結果となるのである。
したがって、例えばこうだ。

  2ポンド コーヒー = 1エルレ 亜麻布
  1/2ポンド 茶   = 1エルレ 亜麻布
  8ポンド パン    = 1エルレ 亜麻布
  6エルレ キャラコ = 1エルレ 亜麻布

  
一般的労働時間の成立と一般的等価形態
34
 コーヒー、茶、パン、キャラコ等、要するにすべての商品がそれ自身の中に含まれている労働時間を亜麻布で表現しているので、
逆に、亜麻布の交換価値は、その等価としてのすべての他の商品の中に展開され、亜麻布自身の中に対象化されている労働時間が、
直接に、他のすべての商品のちがった分量に均等に表われている一般的労働時間となる。

ここでは、
亜麻布は、他のすべての商品の亜麻布に対する全面的行動によって、一般的等価となる。交換価値としては、どの商品も、
他のすべての商品の価値の尺度となった。
ここでは逆に、すべての商品がその交換価値を特別な商品で測るために、
この除外された商品は、交換価値の適合した姿(ダーザイン)、すなわちこれを一般的等価として表わす(ダーザ)物(イン)となる。
これに反して、無限の系列、すなわち、各商品の交換価値が表われた無限に多数である方程式は、二つの項をもつだけの唯一の方程式に
縮まってしまる。
2ポンドコーヒー=1エルレ亜麻布ということは、いまでは、コーヒーの交換価値の十全な表現である。というのは、亜麻布は、
この瞬間、直接に、他のあらゆる商品の一定量に対する等価として現われているからである。

したがって、交換過程の内部では、諸商品は、いまや代替できるものとなっている、あるいは、おたがいが亜麻布という形態で交換価値として
現われている、といってもよい。すべての商品が、交換価値として現われている、といってもよい。
すべての商品が交換価値として、
対象化された
一般的な労働時間のただ量だけがちがっているものとして、おたがいにあい関係し合っているということは、
いまやこのように現われる
、すなわち、他のすべての商品は、交換価値として、同一対象である亜麻布のそれぞれがちがった量だけを
表わしているということになるのである。

したがって、一般的労働時間の側からいうと、それは特別の物として、他のすべての商品と並んでその外にあるものとして、表われることになる。
しかし、同時に、商品が商品に交換価値として等しいことを示している方程式、例えば、2ポンドコーヒー=1エルレ亜麻布は、まだこれから実現
さるべき等置関係なのである。商品を使用価値として譲り渡すことは、商品が欲望の対象であることが交換過程で実証されるかどうかに依存して
いるのであるが、このことによってはじめて商品は、現実にそのコーヒーという姿(ダーザイン)から亜麻布という姿(ダーザイン)に転化され、
こうして一般的等価の形態をとる。そして現実に他のすべての商品に対する交換価値となる。

逆に、すべての商品が使用価値として引き渡されて亜麻布に転化されることによって、亜麻布は他のすべての商品の転化された姿(ダーザイン)
となり、
他のすべての商品のこの商品へのこのような転化の結果として、はじめて、直接に一般的労働時間の対象化となる
すなわち、全面的引渡しの生産物となり、個人的労働の止揚となるのである。諸商品が、こうして、おたがいの交換価値として現われるために、
その存在を二重にしたとすれば、一般的等価として除外された商品も、その使用価値を二重にする。この商品は、特別の商品としての
その特別の使用価値の外に、一般的な使用価値を受けとる。この商品のこういった使用価値は、それ自身形態規定であって、さらに
いえば、この商品が、自分に対する他の商品の全面的な行動によって交換過程で演ずるようになる特殊の役割から出ているのである。

特別の欲望の対象としての各商品の使用価値は、それぞれちがった人の手にあってちがった価値をもっている。
例えば、これを譲り渡す人の手にあるときは、これを取得する人の手にあるのとちがった価値をもっている。
一般的等価として排除された商品は、いまでは交換過程そのものから発生してきた一般的欲望の対象であって、どの人にとっても
交換価値の担い手、すなわち一般的交換手段であるという同一の使用価値をもっている。このようにしてこの一商品において、
特別の使用価値として同時に一般的な等価であり、したがって、すべての人に対する使用価値、すなわち一般的使用価値であるという商品が
商品として内包している矛盾が、解決されている。したがって、他のすべての商品がいまやまず第一に、その交換価値を、
この排他的な商品との間の観念的な、実現せらるべき方程式として表わすのに反して、この排他的の商品においては、その使用価値は、
現実的のものではあるが、過程自身の中で実際の使用価値に転化することによってはじめて実現さるべき単なる形態存在として現われる。
初めからこの商品は、商品一般として、ある特別の使用価値に対象化された
一般的労働時間として表わされる。

交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別の使用価値に
一般的労働時間体現(ダーザイン)して
いる商品に、関係するのである。したがって、すべての商品は、それぞれ特別の商品として、一般的商品としてのある特別の商品に相対立する。
このようにして商品所有者たちがおたがいにその一般的社会的労働としての労働に関係するということは、次のような形で示されている、
すなわち、彼等がその交換価値としての商品に対してあい関係しあっているということ、また交換過程における交換価値としての諸商品の
相互関係が、それらの商品の交換価値の適合した表現としてのある特別な商品に対するその全面的な関係として現われているということ、
このことは、逆にまた、この特別の商品の他のすべての商品に対する特殊な関係として、したがってまた、一定のいわばある物の自然発生的に
社会的な性格として現われる、ということである。このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、
あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、
これが貨幣である

それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するおたがいの交換価値の結晶である。したがって、
一方で諸商品は、交換過程の内部で
すべての形態規定性をはぎとり、その直接的な素材態容であい関係し合うことによって、おたがいのための使用価値となるとすれば、
相互に交換価値として現われるためには、新しい形態規定性をとり、貨幣形成にすすまなければならない


貨幣は象徴ではない。それは使用価値が商品として存在しても、象徴でないのと同じである。個人たちの外に存する対象として
社会的生産関係が、すなわち個人たちの社会的生活の生産過程で結ばれる一定の諸関係が、一の物の特殊な属性として表わされるということ、
この錯倒と想像的でない、散文的に現実的な神秘化とが、交換価値を生む労働のすべての社会形態を特徴づけている。
貨幣においては、この神秘化は、商品におけるよりはるかに驚嘆に値するものとなっているだけのことである。


  
 (資・第2章)貨幣形態の属性 ・・・『資本論』第2章交換過程・・・35.36.37.38・・・

35
 すべての商品の貨幣形態がそこに結晶すべき特別の商品の必要な物的属性は、それが交換価値の性質から直接に生ずるもので
あるかぎり、随意に分割されうること、各部分が一様であること、およびこの商品のどの一つをとっても無差別であることである。
一般的労働時間の体化物としては、この商品は、同性質の物質で、ただ量的な相違だけを示すことができるものでなければならない。
他の必要な属性は、その使用価値の永続性である。というのは、この商品は交換過程の内部に持続的にとどまることのできるものでなければ
ならぬからである。
貴金属は、これらの属性を極めてよくもっている。

貨幣は、反省または協定の産物でなく、いわば本能的に交換過程で形成されるものであるから、極めていろいろの多かれ少なかれ
不適当な商品が、代るがわる貨幣の機能をつとめた。交換過程の発展のある段階で、交換価値と使用価値の規定を対極的に商品に分与し、
したがってある商品が、例えば交換手段として機能し、他の商品が使用価値として売り渡されるという必然性は、いたる所で一定の商品
あるいはまた若干の最も一般的な使用価値をもっている商品が、まず偶然に貨幣の役割を演ずることをおのずと伴うのである。
直接に存在する欲望の対象ではなくとも、これらの商品が富の素材的に最も重要な構成部分としてあるということは、
これに他の使用価値よりも一般的な性格を与える。


   
物々交換から貨幣形成へ

36
 交換過程の自然発生的形態である直接的な物々交換は、諸商品の貨幣への転化というよりむしろ
使用価値の商品への転化の開始を表わしている。交換価値はまだ自由な態容をもたず、なお直接に使用価値に拘束されている。
このことは二重に示される。生産そのものはその全構造において使用価値を目的としていて、交換価値を目的としてはいない。
したがって、使用価値がここで使用価値であることをやめ、交換の手段すなわち、商品となるのは、
ただ消費に必要とされる程度を使用価値が越えた場合におこるだけのことである。他方において、使用価値は、
対極的に分れていても、直接的な使用価値の限界内で、商品となるだけである。したがって、商品所有者たちによって交換さるべき商品は、
双方にとって使用価値でなければならないが、両使用価値ともに、その非所有者にとっても使用価値でなければならない。

実際において、商品の交換過程は、本来自然発生的な共同体の胎内で現われるのではなく、共同体が終る所、すなわち、その境界で、
共同体が他の共同体と接触する僅少の地点で、現われる。ここで、物々交換が始まり、またここから共同体の内部にはいりこみ、
これに分解的な作用を及ぼした。したがってちがった共同体の間の物々交換で商品となる、奴隷、家畜、金属のような特別の使用価値が、
多くは共同体自身の内部における最初の貨幣となっている。われわれの知ったところによると、一商品の交換価値は、その等価の系列が長く、
その商品に対する交換の部面が大きいほど、交換価値である度が高いということであった。
したがって物々交換が漸次拡大され、交換が増大し、物々交換にはいってくる商品が多様化するほど、交換価値としての商品は発展させられ、
貨幣の形成が迫り、それとともに直接的物々交換に解消的な作用がもたらされる。

経済学者たちは、貨幣を、拡大された物々交換がぶつかる外的困難から導き出すのを常とする。しかしその際、この困難が交換価値の、
したがってまた一般的労働としての社会的労働の発展から生じているということを忘れている

例えば、商品を随意に分割することは、交換価値としてはもっていなければならぬ性質であるが、使用価値としてはもっているとはかぎらない。
あるいはAの商品はBにとって使用価値であったとしても、Bの商品がAにとって使用価値であるとはかぎらない。あるいは商品所有者たちは、
彼らがおたがいに交換しようとする分割できない商品を、ひとしくない価値の割合で必要とするかもしれない。
他の言葉でいえば、経済学者たちは、単純な物々交換を考察するという口実で、使用価値と交換価値の直接的な統一としての商品の存在が
包含している矛盾のある面を、具体的に示しているのである。

他方において、彼等は、このようにして物々交換を商品の交換過程の適合した形態としてどこまでも固執していて、ただ、この交換過程には
ある種の技術的な不便がつきまとっているので、貨幣はそのためにうまく発明された弥縫策なのであるというわけだ。したがって、
このようなまったく浅薄な立場からすれば、才気あふれるあるイギリスの経済学者が、貨幣は船や蒸気機関のような物的な道具にすぎない
もので、ある社会的生産関係を表わすものではない、したがってまた経済学的範疇ではない、と主張しているのはもっともなことである。
したがって、実際上、技術学と少しの共通性もない経済学で取扱われるのは、誤用にすぎないというのである。


    
使用価値を生産する労働と社会的労働の総体
37
 商品世界では分業の発達が前提となっている。あるいは分業の発達は、むしろ直接に使用価値の多様性に表われているといってよい。
それらの使用価値は、特殊の商品として相対し、その中に、同じように多様な労働様式がかくされている。特別な生産的活動様式の全体
としての分業は、素材的側面から見た社会的労働の総体が、使用価値を生産する労働として考察されたものである。しかしながら、
このような労働として、商品の立場から交換過程の内部で見るならば、分業は、ただこの労働の結果に、すなわち
商品そのものが特殊のものに分れるということに存するものである。


   
 交換過程は同時に貨幣の形成過程
38
 商品の交換は、社会的物質代謝、すなわち、私的個人の特殊の生産物の交換が、
同時に一定の社会的生産諸関係の生産となる過程であって、諸個人はこの物質代謝においてこの生産諸関係を結んでいるのである。
諸商品がおたがいに働きかけ合う関係は、一般的等価関係のさまざまな規定になって結晶し、したがって、
交換過程は同時に貨幣の形成過程である。別々の過程の経過となって表われる交換過程の全 体が、流通過程である。
以上

 事務局:
 長時間にわたるレポートをいただきました。じっくり検討していただくために、討論は次回に回したいと思います。
 ぜひ、検討事項の整理を各自持参のうえ、ご出席いたきたいと思います。次回をお楽しみに。

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