「心の進化と脳科学」(2) 4月号 20170418
道具の使用が心を生み出す ・・・ ・・・ ヒトから人間社会性の端緒 ・・・ ・・・
入來篤史著 「知性の起源―未来を創る手と脳のしくみ」
(『脳研究の最前線』第3章)
理科学研究所脳科学総合研究センター知的脳機能研究グループ・グループディレクター
編集部まえがき
最近、理科学研究所脳科学総合研究センターの入來篤史さんが神経科学者の立場から、 「道具の使用が心を生み出す」脳神経系の働きについての論文が出されました。2007年刊行の『脳研究の最前線』に、「第3章知性の起源―未来を創る手と脳のしくみ」の中で、 次のように語っています。
「ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用を始めたとき道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として“客体化”されて、 脳内に表象されようになります。」
「自己の身体が客体化されて分離されると、それを“動かす”脳神経系の機能の内に独立した地位を占める“主体”を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意志を持ち感情を抱く座である“心”というものではないでしょうか。」
入來さんの問題の立て方は、これまでの日本人の思考方法とは異なったアプローチの仕方で 「人間とはなにか」に迫ってゆきます。順を追いながら、論文をみてゆきましょう。
まず目次から、
1. ヒトは生物である―それは秩序を創る命を産み出した
2. ヒトは動物である―それは動くために脳を産み出した
3. ヒトの手と眼の特異な形態―それは動かすための装置となった
4. 見て確かめて巧みに動かす脳のしくみ―それは自己の動きを自覚させた
5. 道具を使う脳神経の働き―それは物を動かす心を産み出した
6. ヒトは心を宿し道具世界に生きる―それは時間の流れを産み出し未来を創った
入來論文の特徴的な観点の第一として、1.の前半部分(1)賢さが人間たらしめる、(2)人間精神の生物学、で問題提起があり、(3)精神と行動の因果、で人間の「存在」視点がだされます。そして、万物存在の(4)「存在」と生命の誕生では、「生命の存在」論から(5)脳は高度な情報処理中枢、において「自然現象」へと連結を行なっています。
西洋哲学の伝統的な“イデア”としての「こころ」の問題を、万物存在から「自然存在」、「自然現象」へと概念の成長過程として構築しています。ヘーゲル弁証法の自然哲学が21世紀の脳科学によって、再生した姿を私たちは学ぶことができます。それは、新たな「ヒトの自然史過程の進化論」といえます。
先に、私たちはエンゲルスの「猿が人間化するにあたっての労働の役割」を抄録しました。「労働が果たした機能・働き」について、入來論文との“関連性”についても探求してゆきますので、エンゲルスの論文と並行して学んでゆきましょう。
では早速、本論に入りましょう。
知性の起源―未来を創る手と脳のしくみ
1. ヒトは生物である ―それは秩序を創る命を産み出した
(1) 賢さが人間たらしめる
人間は、地球上でいちばん「賢い」存在です。そして、この「賢さ」が人間を人間たらしめている際立った特徴だと考えられています。しかし自然界には、人間や生物の営み以外にも、目を見張るような、ちょっと信じられないような、絶妙な「賢い」振る舞いをする現象がたくさんあります。けれども、人間の「賢さ」はそれらとは違い、際立った性質をもっているという実感があります。他の存在とは何がちがうのでしょうか?そして、それはどのようなメカニズムで人間にだけ備わってきたのでしょうか?この章では、「人間とは何か」ということについて、その存在の成り立ちから掘り起こして、じっくり考えてみたいと思います。
人間らしさの本質をいちばんよく反映しているのは、「道具を使う」という行動 〔すなわちエンゲルスの指摘する「労働」ということ〕 ではないでしょうか。これを手がかりとして、「人間の賢さ」の起源について考えてみようと思います。
(2) 人間精神の生物学・・・〔自然史過程の延長性〕
地球上の生物のうちで、ヒト(種としての人間、ホモ・サピエンスを生物学者は「ヒト」とカタカナであらわす)の特異性は際立っています。言葉を書き、文明的な法治社会をつくり、環境を操作し、宇宙まで進出します。ヒトの高度に知的な精神機能で、ヒトの脳の働き方によるものと理解されています。しかし、その脳は生物学的な身体を構成する器官の一つにすぎない、という事実を改めて思い返してみれば、先に述べたようなヒトの精神的知性の特殊性も、何ら神秘的な現象ではなく、「生物学的に説明」できると考えざるを得ないというのが、神経科学者としての私〔入來〕の立場です。
(3) 精神と行動の因果
この問題を言い換えると、「人間精神の生物学的メカニズム」の解明ということ。ヒトの精神機能の特異性をよく考え直してみると、それらはすべてわれわれの脳が司る精神作用の結果として、身体を動かして外側の世界に働きかけることで発現する「行動」の特性によって、表現されていることに気づきます。そして、これから考察してゆく対象が「行動」であるならば、それを身体運動に還元して、さらにそれらを筋肉を制御する脳神経系の作用として、生物学的に説明できるのではないかと考えました。まず原点に立ち戻って、「人間・ヒトの存在の成り立ち」について考察してゆきます。
(4) 「存在」と生命の誕生
冒頭で、「人間は、地球上でいちばん『賢い』存在です」と言いました。「動物です」、とか、「生物です」、ではなく、「存在です」と言ったのには理由があります。それは、「賢さ」とか「知的」という言葉の意味を、はじめから生き物の活動には限らずに、万物存在の根源に立ち戻って、一から考え直してみようと考えたからです。
自然界には、雪や鉱物の造形美、砂丘の風紋、鳴門の渦潮・・・それらにわれわれは、神秘的な神の知性の美しさを感じることがあります。そこには「秩序」があります。その秩序立ったあり様に、われわれは美しさや「知性」を感じ取るのです。しかし、これらは、時間が経つと自然の無常さ、混沌へと消滅していってしまいます。・・
ところが、あるとき地球上に「秩序」を次々と再生産しながら存在し続けるシステムが産み出されました。それが“生命”です。〔注1:入來さんは、「生物」と呼ばずに、“生命”と言います。〕
生命は、それをとりまく世界の法則に従って存在し続けるだけではなく、積極的にまわりの環境に働きかけ、そのときの状況にあわせて物質を取り込んで、次々と自らの身体のなかで秩序付けてゆきます。このようにして、生命は時間を超えて生き続け、世代を超えて子孫を残しながら、ときには環境にあわせてそのしくみを変えて進化し、“この世の中に秩序を創り出し維持しながら存在を続けるシステムを完成させていった”のです。
このようにして生命は誕生し、原始的な生命から、高度で複雑な生命体へとゆっくりと静かに進化して行ったのです。この間に産み出された秩序は、進化の長い間に、「状態」という表現がしっくりとする、静的なものでした。生命の誕生と進化の物語は、それだけでも膨大な分量になってしまいます。 本書は、脳の機能についての本ですから、生命の誕生と進化についての長い物語〔注2〕 は他の機会に譲ることにして、ずっと進化した後に出現した脳の話に一足飛びに移ることにしましょう。ダイナミックな「動的」な秩序の話にジャンプすることにします。
〔注2:エンゲルスは、「生命とはタンパク質の存在の仕方であって、その本質的な契機はその周囲の外的自然との不断の物質代謝にあり、この物質代謝が終わればそうした存在の仕方も終わり、タンパク質の分解をもたらす。『自然の弁証法』生物学」、木下清一郎著
『心の起源』 「物質世界・生物世界から心の世界」 参照〕
2. ヒトは動物である ―それは動くために脳を産み出した
(5) 脳は高度な情報処理中枢
われわれは脳を持っていますが、この臓器はすべての生物に備わっている訳ではありません。では、脳とはそもそも何だったのでしょうか? 脳は、神経系の一部分です。神経系とは、下等動物に起源を持つ一種の情報処理装置で、その最上位に進化した高度な情報処理中枢が脳なのです。・・・・
植物は代謝し、秩序を産み出し、大きく成長しますが、自ら動いたり移動したりすることはできません。そう、植物はそこに植わっているのみで、動くことができる生物が動物ということになるのです。 では、動物はどのように動くようになったのでしょうか。
動物は、感覚器官をとおして外界の状況や自分の身体についての情報を集め、それらの状況にいち早く反応しながら、体内の収縮タンパクを操って、もっとも望ましいように「動く」のです。つまり、これらの感覚運動系を適切にコントロールするために、連絡し行き交う「情報」を抽出して計算する装置として、まずは原始的な神経系が進化したと考えられるのです。身体が大きくなり、感覚系や運動系が複雑になってくると、より多くの情報をより速く処理しなければならなくなり、もっと効率的で高度な情報処理に対応するため、神経系のより高次の情報処理中枢として脳ができたと考えられるのです。
(6) 運動は自然現象の一部
では、動物が行う「運動」とはどのような動きでしょうか? 動物の運動器官は、もっぱらより多くの餌を追いかけてつかまえたり、危険からいち早く逃げだすために、自らの身体を効率的に移動させるように最適化されています。 一方、動物の感覚器官は、最適な移動の方向や距離をみきわめ、運動をスムーズにとりおこなうための情報が収集できるように最適化されています。そして、神経系がこれらの感覚器官と運動器官のなかだちとして働くことによって、動物は周囲の環境の状況によってその時々にいちばん適した運動を、ほとんど自動的に行えるようになっているのです。つまり、動物の運動は、環境の中に組み込まれ、好むと好まざるとにかかわらず宿命的に最適化された、一連の「自然現象」の一部であると考えられるのです。
(7)移動運動のための装置・・・省略・・・
(8) 野生動物における意図と行為の不可分
動物の行動は、その原因や目的と行為自体が分かち難くセットになっていて、環境の中で自動的に定義されてしまうので、それを発動する主体は、その行為を自ら意識する必要はないのです。
(9) 感覚運動に心はいらない
これまで述べてきたように、「動く」といういわば「自動詞的行為」では、身体を「動かす」ことをコントロールする「主体」の座としての神経系と、制御対象である「客体」としての運動器官が、個体の中で分かち難く統一されています。
〔 自然史過程―飛躍の萌芽 〕
3. ヒトの手と眼の特殊な形態 ―それは動かすための装置となった
(10) 霊長類における前肢と両眼視の進化
ところが、霊長類が出現して、手が移動運動から解放されて、自己以外の環境中の事物を操作し、その結果を顔の前面に並んだ両眼で見て詳細に確認できるようになると、様相は徐々に変化しはじめます。眼や掌から入る感覚情報や、細かな手の運動にかかわる情報を処理する脳内神経回路もそれに適応して進化して、様相は一変します。 つまり、動物の身体運動は、自分以外の他のものを「動かす」という「他動詞的行為」をも担うようになり、動かかす「主体」である身体と、動かされる「客体」たる身体外の事物が物理的に分離してくるのです。・・・
手元を見て作業し、目標を見定め手を伸ばしてほしいもの引き寄せる。手はまた眼の代わりとして、暗闇の中を手探りしながら進んだりといった、ヒトならではの巧みで知的な行為を発現する基本となります。
(11) 器用な「手」と精巧な「眼」の出現
樹上生活者の霊長類が出現すると、枝をたぐり寄せるために四肢が長く伸びだし、枝をしっかりと把持するために指は長くなり、指の先端はそれまでの鉤爪かぎつめがひろがって平爪が備わり、親指は他の四本の指と対向して、器用な「手」が出現します。・・・ 長く伸びた四肢の先端は、こうして常に視界に入るようになり、特に、前肢とその末端で器用に動く手指は、顔前の精緻な視界運動のコントロール下におかれることになったのです。・・・
それまで顔の横についていた両眼が正面に移動して、奥行きの知覚が正確になりました。 進化した霊長類の前肢・手・視覚能力は、さらに際立った特徴を獲得しました。前肢の肘と手首がより自由に内外に回転ができるようになったり、掌を顔に対面させられるようになったことです。これは他の動物種ではほとんどみられない特徴です。
この能力によって、手指を精緻にコントロールできるようになり、自由な「空間」の中で手指の動きを視覚的に精巧に解析することが可能な視覚装置、すなわち両眼が前面に出現したのです。このようにして霊長類は、立体視が正確に行える視野の中心で、精緻に手指を動かす能力を獲得したことになります。
〔 自然史過程 ―知性の萌芽 〕
4. 見て確かめて巧みに動かす脳のしくみ ―それは自己の動きを自覚させた
(12) 触覚の階層的情報処理
手の位置や動きに関する情報は、皮膚や関節に無数に散在する受容器によって検知されます。さらにそれらは、神経信号である電位やスパイク列に変換され、感覚神経系を通って、脊髄や脳といった中枢神経系に情報として上ってゆくことになります。・・・
(13) 情報は段々と統合されていく
脳は、これらの断片的な情報から、「手の形」といったような、総合的な・統合的な全体像を認識してゆきます。体性感覚野の内部では1野、2野と後方に移るにしたがって、ニューロンの受容野は広くなり反応特性が次第に複雑になってゆくことが知られています。・・・
(14) 視覚の階層的情報処理
眼から入る視覚系の情報処理では、まず眼球の奥にある網膜細胞で検出された光に関する情報が、脳の最後部にある一次視覚皮質に投射されそこから前方に向かって段階的に処理されてゆくことになります。・・・
(15) 奥行きの知覚情報の重要性 ・・省略・・
(16) 触覚と視覚の統合によるスキルの情報表現 ・・省略・・
5. 道具を使う脳神経の働き ―それは物を動かす心を産み出した
(17) 主体と客体の分離
やっと「道具」を使う脳の働きにはいってゆきますが、ここでもう一度整理しておきましょう。 霊長類が出現し、手が移動運動から解放されて、自己以外の環境中の事物を操作し、その結果を両眼視で詳細し確認できるようになると、脳内神経回路もそれに適応して進化し、事態は急速に変化しはじめることになります。それまでの動物は、自ら「動く」という「自動詞的行為」しか行えなかったおで、動くものと動かされるものが自己の身体に一体化していたのですが、霊長類の身体運動はものを「動かす」という「他動詞的行為」をも担うようになったので、動かす「主体」である身体と、動かされる「客体」である身体外の事物が物理的に分離したのです。
(18) ミラーニューロンが行為をさし示す
サルの脳には、自分が特定の行為を行なうときに活動するとともに、他者が同様の行為を行うのを観察したときに、同様に活動する神経細胞が存在します。これらのニューロンは、あたかも自分と他者の行動を鏡に映したように対応づけているので、この活動特性から「ミラーニューロン」と呼ばれています。・・・ この神経システムは、他者の行為を通して他者の置かれている状況を理解して、その同じ状況の中で自己のとるべき行動を選択する指針とするためにはきわめて有効である、ということです。・・・
だた、この段階に至っても、行為の主体と客体は不可分であって、「意思」や「心」を想定する必要性はない、ということができます。
〔 自然史過程の飛躍 ― 道具の使用 〕
(19) 道具の使用が心を生み出す
しかし、様相が一変するのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうという、道具としての使用をはじめたときだったはずです。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになったと考えられます。
自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなるのです。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」と考えされます。ここでは、この「手に道具を持って使う」という機能を司る、脳神経系の働きについて考えを進めてみることにします。
(20) 道具の身体への同化の頭頂葉メカニズム
道具を使うとき、われわれはそれが身体の一部になったような感覚を持ちます。もはや道具は単なる外的物体ではなく、身体に内在化した外物あるいは外物に内在化した身体として、両者を融合した形で独特の表象を持つことになります。 直接の体性感覚入力がない外界の物体が、外見上機能的には身体の一部と認識されたものが道具です。つまり、道具使用にともなって、体性感覚皮膚に近い頭頂葉部位では、体性感覚を視覚情報と摺り合わせて、道具が身体の一部であるかのように表象されていると考えられるのです。そこで、この仮説を確かめるために、サルを使った実験を行ってみました。・・・
サルが道具を使用するときには、このニューロンの視覚受容野は、手から道具の周囲を含む空間へと拡張します。つまり、空間内の手のイメージをコードしていたこのニューロンの反応特性の変化によって、前肢遠位部(前肢の先端の部分)に手に持った道具が同化し拡大したという、機能的心理的現象を説明することができるのです。・・・これは物的な身体の構造の変化ではなく、機能やそれを実現しようとする意思を反映した認知的な身体空間形状が変化した(可塑的に〔思うようにかたちをつくれ〕表象している)と解釈されます。
(21) 道具が身体の一部になるとき
さらに、この機能的手のイメージは、身体の一部から連続的に延長するだけではありません。われわれヒトがテレビゲームをしたり、テレビモニタを使用した遠隔操作装置を使うときには、映像の中に手に自分の手の一部が投影されたような内観を持つでしょう。つまり、遠隔部位に不連続に投影された身体を感じるわけです。サルも引き続いて訓練すると、自分の手を直視しなくとも、それをモニタの映像を見ながら、手で餌をとったり、熊手を使ったりすることができるようになります。・・・
つまり、もはや体性感覚的な身体に関する心的イメージは、同時に得られる視覚的身体映像と照合する形で、心の中で延長のみならず自在に投影や変形ができるようになり、それがこの頭頂葉部位で表象されていることがわかったのです。・・・〔注3〕
〔注3: 自動車を運転し始めた頃、誰でも経験しますが、運転席の前方、車の先端部分に運転者の感覚器官が「移動している」ことを経験します。運転に慣れるにつれて、もはや車の先端部分を注視しなくなります。車の先端部分には、すでに“運転者の神経機能が備わって”しまっていますので、運転者は、広く道路の前方を注意しながら、運転しています。〕
(22)身体や道具スキルの獲得に伴う頭頂葉の拡大進化・・・省略・・・
(23)性質の異なる情報の統合・・・省略・・・
6. ヒトは心を宿し道具世界に生きる ―それは時間の流れを産み出し未来を創った
(24) 道具が客体化されたとき
野生動物は、その過酷な生存環境の中で生命を維持するために、「状況」「主体」「行為」という構成要素を一体化させてきました。そして、それらをほとんど自動的にかつ効率的に利用するために、「行為」を行う主体と客体を不可分なものとして「意思」や「心」を想定することなく、自然現象の一部として、「行為」を発現していました。
しかし、様相が一変したのは、ヒトの祖先が事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになります。
自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか。
(25) 人間的行動の構造
動物は環境の中で自然に、おそらくは自動的に振る舞っているのですが、ヒトはそれをみたとき、それらは「意思」にもとづいて発現していると解釈するのが常です。何故でしょうか。それはおそらくヒトの行為の発現していると解釈する脳の働きのメカニズムがそのようになっているからと思われます。
それでは動物とヒトの脳メカニズムはどこがどのように異なるのでしょうか。
われわれが他者の行為を観察するとき、それを解釈するわれわれの脳からすれば、それは他者の脳なので、対象が動物であれば、あたかもヒトが考えているように「擬人化」してしまうことがあります。対象がヒトであれば、それは単に他者の意思の「忖度〔そんたく:他人の心中を推察すること〕」ということになるわけです。
では、対象が自己の脳であったならば、どうでしょうか。
われわれは「自由意思」によって身体を動かしていると何故か無条件に信じていますが、リベットの有名な実験によれば、実は意思の発動よりも遥か前から脳は身体運動の発現に向けて活動を開始している、ということが知られています。つまり、われわれは脳が自動的に起こす身体行動をあとから解釈して、あたかも自分の意思によって発動していると見なしているに過ぎないというのです。
「行動する主体」である肢体と脳のセットである「身体」から、「解釈する主体」である「自己(意識)」がいつの間にか独立し、自己の身体を対象化してそれを解釈しはじめたとするならば、この身体運動と自己意識との、付かず離れずの関係性のあり様の中に、精神の発露たる人間的行動の基盤を見出すことができるかもしれません。
(26) 「意思」を物理的に証明できない!?・・・省略・・・
(27) 人間文明における意思と行為の分離
冒頭にあげた高度な人間精神の発露であるさまざまな文明的行動について改めて考えなおしてみると、行為の主体の「意図」、それを発動する原因となる「状況」と、行為そのものの「型式」とが、明確に分離して記述可能であることに気づきます。言い換えるとヒトの脳には、企画者の趣意書、行程設計図と、その行為を発動すべき状況などが、それぞれに意義をもって独立別個に存在することが可能なのです。
これは、先に述べたように霊長類を含むヒト以外の動物の行動が、「状況」「主体」「行為」というその構成要素を一体のものとみなして、いわば自然現象の一部ちすて行為を発現しているのとは対照的です。この違いは、霊長類の一種が人類へと進化する過程のどこかで、突然あるいは徐々に、獲得されたと考える以外にはないでしょう。われわれヒトの脳内では、どのようにしてこれらが分離されて表象されるに至ったのでしょうか。
その契機は道具使用の開始〔道具による労働〕にあったのではないかというのがわたしの考えでした。ニホンザルも訓練すれば熊手状の道具を駆使して遠方の餌をとることができるようになることは先に述べました。このとき、サルの脳内の自己の身体イメージを表象する神経細胞では、道具が手に同化するという内観に対応するように、道具と手を同等に表象するように神経細胞が活動することが観察されています。
しかも、この活動は、サルが道具を無為に把持しても変化せず、それを手の延長として使おうと意図したときにのみ(実際には使用しなくても)、現われます。つまり、この脳神経活動においては、意図、身体、行為が明確に分離して表現されはじめたといえるのです。
(28) 「心の理論」の芽生え
自己の脳神経の機能の内に「心」が想定されると、主体は身体が時間を超えて永続的につづくことに気づいて、次第に確固とした自己の概念が確立されてゆきます。また、同様にして他者のうちにも心の存在を想定せざるを得なくなります。そうするとさらに、「動かす」対象は事物を超えて、他の主体たる他者にも及ぶようになって、心は自己と他者との間で相互作用をはじめることになります。
こうして、心を持った複数の主体は相互に心を認め合い、いわゆる「心の理論」が芽生えるのでしょう。・・・
(29) 統一的自己の生物的起源 ・・・省略・・・
(30) 機能を自己増殖させる臓器 ・・・省略・・・
(31) 「心」はどこへ向かうのか
人類は未来へ向けても進化を続けるという事実です。われわれの脳に宿る心は、次は何を創造し何処へ向かうのでしょうか。生物が今まで経験したこともない差し迫った新規の状況は、電子通信によって多数の心がリアルタイムでつながれたネット社会ではないでしょうか。そこでは、個々の「主体」の意思は身体から離れ、機能別にネットを介して相互作用し、千切れた自己の切れ端が仮装社会で共有され、融合されることになります。
これまで、心と自己は物理的な脳と身体を介して統一されていました。ネットでつながれた近未来世界では、身体を離れ、電子社会を浮遊する自己はどうなるのでしょうか。「心」が身体を離れたとき、それは一体どこへ向かうのでしょうか? ・・・・
・・・以上で、終わり・・・
■ エンゲルス 「猿が人間化するにあたっての労働の役割」