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資本論用語事典2021


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特別報告Ⅱ: 認知考古学と社会的知能



心を生んだ脳の38億年


  スティーヴン・ミズン


 
『心の先史時代』        青土社 1998年刊 


   第7章 
初期人類の心における多様な知能



 資本論ワールド編集部 
まえがき

 
黒曜石考古学で著名なコリン・レンフルーは、先史時代について次のように紹介をしています。
 「先史時代/先史学(Prehistory)」という言葉が広く使われるようになるのは、「人類の原始」が認められ、ダーウィンの名著(『種の起源』)が出版された記念すべき1859年以降のことである。・・・広く使用されるきっかけを作ったのは、サー・ジョン・ラボックが1865年に上梓した『先史時代(Prehistoric Times)』である。
  ラボックは、石器時代を2段階に分けた最初の学者の一人でもあった。石器時代のうち古い方は「旧石器時代」で、これは「ヨーロッパで人類がマンモスやホラアナグマや、体毛に覆われたサイなど絶滅した動物たちと生きていた」時代、つまり洞窟を住処とする原始人の時代である。その後に来るのが 「新石器時代」で、これは「フリントなどの石で作られた美しい武器や道具を特徴とする時代」である。・・・そして、「考古学は地質学と歴史学をつなぐ架け橋になるだろう」とも言っている。

  ラボックから100年が経過し、「心の考古学」として、レンフルーは次のように説明しています。
  「私たちが構築段階と名付けた6万年前から現在までの人類の歩みに「進化」という言葉を使うときには、十分注意しなくてはならない。・・・「進化」の枠組みそのものからは、人類発達史の構築段階である過去6万年の間に起こった変遷を理解するのに必要な概念構造は生まれてこない。この変遷を理解するには、 「認知」という側面から考え、学習のプロセスに目を向けなくてはならないのである。」 (2007年『先史時代と心の進化』)

 
レンフルーの著作に先立つこと10年前、リチャード・リーキーは、『ヒトはいつから人間になったか をニューヨークで公刊しました。(1994年) スティーヴン・ミズンの『心の先史時代は、1996年にロンドンで公刊されました。この80年から90年代は、考古学において画期的な発掘・発見があり、脳の大きさ・成長と道具・石器の使用などの調査研究が格段と進展しました。


 
ざっと、 80、90年代の著名な発掘・発見を列挙しますと、


1.
  84年 ホモ・エレクゥトス(トゥルカナ・ボーイ):
     ケニア、年代153万年前、発見者
リチャード・リーキー


2.
  87年 ミトコンドリアDNA・イヴ説
     カリフォルニア大学分子人類学
アラン・ウィルソン、現生人類のアフリカ起源の証明


3.  88年 現代型ホモ・サピエンス
     イスラエル・カフゼー洞窟、年代9万年前、発見者
ヴァンデルメールシュ


4.
  91年 ユーラシア最古のホモ・エレクトゥス
     グルジア・ドマニシ遺跡、年代180万年前、
レオ・ガブニアなど


5.  92年 アルディピテクス・ラミダス
     エチオピア、年代440万年前、発見者
諏訪元、ティム・ホワイト


6.
  94年 アウストラロピテクス・アナメンシス
     ケニア、年代390~410万年前、発見者
ミーヴ・リーキーとホミニド・ギャング


7.  95年 アウストラロピテクス・バルエルガザリ

     チャド、年代350万年前、発見者 ミシェル・ブルネ


8.
  96年 アルディピテクス・カダバ
     エチオピア、年代580万年前、発見者
ヨハネス・ハイレ=セラシエ


  これらの発掘調査・研究から、新しい「心の考古学」として「認知考古学」が発展してきました。1996年、
スティーヴン・ミズンは次のように語っています。 「人間の心は実体のつかみにくい、一つの抽象物である。するとなぜ考古学者が人間の心について問うのだろう。 心の本性とその脳との関係は、1世紀にわたって哲学でずっと争われてきた論点だ。心には長い進化の歴史があり、超自然の力に訴えなくても説明しうる。現代人類の心を理解するための鍵を握っているのは、その600万年という期間だ。その間にいた多くの祖先の心をみる必要がある。450万年前のアウストラロピテクス・ラミダス、最初に石器を作った250万年前のホモ・ハビリス(器用な人)、180万年前に最初にアフリカを出たホモ・エレクトゥス(直立人)、ほんの3万年前までヨーロッパで生き延びていたホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)、そして最後に我々自身が属している種であり、10万年前に現れたホモ・サピエンス・サピエンスである。これらの先祖は、化石となった遺物と、物として残るその行動の残骸―石器、折れた骨、彫像としてのみ知られる。」

  「この20年の間、我々の先祖の行動や進化論上の関係についての理解は顕著な前進を見せた。実際、多く 考古学者は、今やこれらの先祖がどんな風貌でどうふるまっていたかについて問う段階を超えて、その心の中でどういうことが生じていたかを問うところまで進む、機が熟したと考えている。「認知考古学」の時代である。」(『
心の先史時代』)

  
「考古学」は、600万年の歩みを経て、現代という歴史時代を理解する基礎、あるいは、エレメントとして不可欠な科学となる時代を迎えたのです。

  ・・・・・・


スティーヴン・ミズン著 『心の先史時代』  青土社 1998年発行

  第7章 初期人類の心における多様な知能

   目 次
0.  初期人類
1.  社会的知能と一般知能
2.  技術的知能―左右対称にし、形をもたせる
3.  博物学的知能―拡大する心、拡大するテリトリー
4.  ネアンデルタール人―逆境に生き残る
5.  博物的知能のはたらき
6.  社会的知能―拡大する心、拡大する社会的ネットワーク
7.  大きな集団生活と食物の特性
8. <社会的知能の謎を解く>
9.  社会的知能と技術的知能の認知上の障壁
10.  
<コリン・レンフルー理論に向かって>


 180万年前から10万年前にいたる先史の第3幕は、我々の過去の中でもいちばん謎の多い時期である。考古学的資料の質は第2幕と比べて格段と良くなり、過去の行動を詳細かつ正確に再構成できることも多い。しかしその行動を調べてみると、そのありようは、しばしば、ほとんど奇異といってもいいように映る。・・・

 初期人類 ( ホモ・エレクトゥスとネアンデルタール人の180万年前から3万年前まで )

1.
 第3幕は刺激的な始まり方をする。180万年前にホモ・エレクトゥスが登場し、続いて140万年前には新しい型の石器である握斧(にぎりおの)・ハンドアックスが現れる。この幕を通じて、我々はホモ・エレクトゥスが多様化し、新しい人類の祖先の方向へと進化していくのを見る。脳の大きさは180万年前から50万年前までを通して変わりがなかったらしい―その間にホモ・エレクトゥスとその直接の子孫たちは旧世界のあちこちに移り住んだ―が、 この時期は、200万年ほど前に起こったのと同じく、急速に脳が大きくなる時期へと回帰することで終わる。今回の脳の拡大期は、今日の現代人類の脳にほぼ相当するところまで進み、だいたい20万年前に終わる。


2.
 大きくなった脳を備えて50万年前以降に登場してくる新しい役者たちは、アフリカと中国のものは古代型ホモ・サピエンスの種類に分類され、ヨーロッパのものはその数少ない化石人骨がホモ・ハイデルベルゲンシスと呼ばれている。そこでこちらは、15万年前以降のヨーロッパと近東で見られ、ヨーロッパではわずか3万年前まで生き残るホモ・ネアソデルターレソシス―ネアンデルタール人―を生むものと見られる。本章ではこれらの役者を一括して「初期人類・アーリー・ヒューマンズ」と呼ぶことにし、第4幕の冒頭に登場して「現代人類・モダーン・ヒューマンズ」と呼ばれることになるホモ・サピエンス・サピエンスから区別する。

3. こうした進化の現象が起こる一方、舞台の背景もめざましい変化を重ねる。我々の過去のうち、この時期に 特徴的なのは、大規模な氷河期/間氷期の繰り返しが、少なくとも8回にわたって起こるという、地球規模の環境変化が続いたことである。ヨーロッパに目を向けると、大地は氷に覆われたツンドラになったり緑豊かな森林になったりを繰り返し、それに伴う変化が動物相にも起こるのが見られる。さらには、ひとつの気候の時期区分の中でも短期の気候変動はしょっちゅうだった ― 極端に温脱化・冷却化したり、極端に雨が降ったり降らなかったりすることが数年単位、さらには1年単位でも起こった。そういうわけで、人間の解剖学上の進化と気候変化という意味では第3幕の展開は波乱にみちている。 しかし役者が用いている小道具の方は、こうした変化の速さに合っていないらしい。140万年前に握斧が初めて現れた後は、およそ25万年前になってルヴァロワ技法と呼ばれる石器製作法が現れるのが、唯一の大きな技術革新である。しかしこれを除くと、物質文化についてはほとんど何の変化も起きなかったらしい。



 
 社会的知能と一般知能

4.
 共通祖先の時代から第3幕の始まりまでには、400万年以上の時間が経過している。この間に、心には二つの大きな特徴がもたらされた。一つは、他とは切り離された社会的知能として規定できる、社会的な相互作用のためだけに使われる心のモジュール群である。もう一つは、一般知能と呼ばれ、行動の領域には関係なく使われる、学習と問題解決のための包括的な規則群である。この二つの特徴を、物質的な対象や自然界を理解することにかかわっている特化したたくさんの心のモジュールが補う。ただ、それは数の上ではさほどたくさんには見えない。今度は、先史の次の幕でこうした心に何が起こるかを見なくてはならない。・・・
  この幕は、まったくの矛盾とは言わないまでも逆説に満ちている。本章を貫く主題は、初期人類は一面では現代人類そっくりに見えるのに、他面ではすっかり違って見えるということである。筆者は、こうした謎や逆説こそが、実は
初期人類の心の基本構造を再構成する鍵なのだと思っている。議論にとりかかるために、第4章で定義した四つの認知領域-技術的知能、博物的知能、社会的知能、言語知能―のそれぞれの形跡を考え、加えて、もしこれら四つが関係していたのなら互いにどのように関係しあっていたかも考えなくてはならない。
 そこで今回も、技術的知能から始めて、
石器からわかる証拠を見ていくことにする。



 
 技術的知能―左右対称にし、形をもたせる

 
握斧 〔握り斧・ハンドアックス〕 の製作


5.
 我々はまず、技術的な腕が、第2幕でホモ・ハビリスがもっていたものに比べると格段に向上したことを認めなければならない。初期人類の作ったいちばん特徴的な人工物は握斧である。握斧をちらりと見ただけでも、オルドヴァイの伝統の中で作られたものと大きく異なる点がたくさんあることがわかる。握斧は高度な対称性を示していることが多く、時には三次元で対称形になっていることもあり、作り手はオルドヴァイの鉈(なた)・チョッパーのようにただ先の尖ったものを作ろうとしていたのではなく、石器に形をもたせようとしていたのだということがわかる。
  こうした対称性や形を実現するためには、石を叩いて削る工程をさらに長くする必要があった。そのことは、50万年前に握斧が作られていた南イングランドのボックスグローブなどの遺跡から出土した、石を叩いて削った後の残骸を元の状態につなぎ合わせたものから理解できる。
握斧を作るためには、最初に石塊を選ぶ時点で、形、質、どの面が削りやすそうか、よくよく考えなければならない。握斧の製作は、石槌(いしづち:石器のハンマー)で大まかに握斧の形を作ってから、多くの場合、骨や樹木からなる「柔らかめの」槌を使って最終仕上げをするという工程になっている。石の両面から剥片を交互に取り除くので、この技法を両面加工、出来上がったものを両面石器と言うこともある。柔らかめの槌は削る角度が浅くても剥片をはがすことができるので、そうした方が薄く仕上げられる。次第に薄くなっていく剥片をはがす前に、打撃の準備として、刃になる部分をしばらく研いだり、小さな剥片をはがしたりすることもある。


6. 形を特定して左右対称の握斧を作ることの難しさは、長年にわたって握斧の複製に携ってきたシャック・プレグランが強調している。彼は、握斧の作る時の狙いはただ鋭い刃先を作ることではなく、石塊のもともとの形にかかわりなく一定の形をした人工物を作り出すところにあることを説明している。対称形を作り、その形を完成まで 維持しようとするなら事前の計画が不可欠だ。作る時には、したいこととできることの両方を見積もり、特定の力で特定の角度から特定の場所を狙って対象を叩いて、目指すものを作らなければならない。作る時に加工する石塊は、ひとつひとつ性質も違えば難しさも違うだろう。その結果、決まった形に加工するためには、作る際に一定の規則にただ機械的に従うよりも、道具製作の知識を活用し、また応用しなければならない。この点は、一つの遺跡から出土する握斧の大部分が非常によく似た形と大きさであることを考えれば、とりわけ重要である。加工前の石塊がまったく同じ形というわけではなかったこと考えるなら、握斧に特定の形をもたせていたことの申し分のない例になる。


 
 ルヴァロワ技法

7.
 握斧の製作の技術的な難しさについて今までに述べたことは、ルヴァロワ技法―ネアンデルタール人が使っていた典型的な加工技術―の使用についてもあてはまる。実際には、ルヴァロワ技法には握斧を作る時よりさらに高度な技術力が含まれることもある。この技法の要点は剥片を取り出すことで、その剥片の大きさと形は準備する石核(石器をつくるとき、剥片をはぎとった残りの芯の部分)によってあらかじめ決まっている。石核には、二つのはっきり区別できる面をつける。片面は丸く盛り上がり、剥片の跡が一枚の剥片を叩き出す手がかりになる。もう片面は打撃面である。剥片を首尾よく取り出そうと思ったら、この両面が接する角度、石核に打撃を与える向き、打撃にかける力が、いずれもちょうどぴったりでなければならない。そうでないと取り出される剥片が石核の片面全体に広がったり、どちらかの側までずれたりする。
  ある現代の燧石(スイセキ・ひうちいし)・フリント加工家にして考古学者は、最近、「今日でさえ、石器文化のテクノロジーを研究する学生で、上質のルヴァロワ石核や剥片を作ることにかけて、ネアンデルタール人の熟練のレベルに達する者はほとんどいない。また現代で、上質のルヴァロワ尖頭器(先のとがった尖頭部をもつ石器)を作る技法を習得した燧石加工家も20人といない」と述べている。・・・


   
ネアンデルタールのテクノロジー

8.
 近東で見られるネアンデルタールの石加工のテクノロジーは、ルヴァロワ技法が技術的に洗練されたことを示すものである。たとえば、6万4000年前から4万8000年前にかけてケバラ洞窟で作られていた、ルヴァロワ尖頭器の手間のかかる工程を例にとろう。石核から表面の層を取り除いた後、左右どちらの方向から見ても盛り上がって見えるように剥片を打ち出す。ついで、警官の帽子と呼ばれる特別な種類の打撃面が作られる。これで、最初に準備しておいた石核の背面上の主要な稜線の中央に、整然としたY字型の盛り上がりがほどこされる。そしてこの工程の組み合わせが、望みどおりの左右対称な尖頭器となる剥片が切り出される道筋となる。
 ケバラのネアンデルタール人は、次のルヴァロワ尖頭器を得ることができそうな盛り上がりが回復されるまで、一つの石核からルヴァロワ剥片を何枚も取り除いた。そうした尖頭器は、石核から取り出されたらそのまま使用されることがほとんどで、それ以上の調整は必要なかった。

9. 握斧の製作では、一定の規則に従っているだけではルヴァロワ剥片はうまく取り除けないと知っていることが不可欠である。石塊にはひとつひとつ違った性質があり、石塊を見つけてくる「経路」もそれぞれ異なる。・・・さらに、一定の遺跡については、明らかに特定の素材から特定の人工物を作るという明確な選択があったこともわかる。たとえば、50万年以上前の遺跡であるイスラエルのゲシュール・ベノットでは、握斧には優先的に玄武岩を使い、鉈(なた)には石灰岩を使っていた。同じく、ヨーロッパで最も早い時期の居住地の一つである南フランスのテラ・アマタの遺跡では、鉈と握斧には石灰岩が、小型の石器にはフリントと石英が用いられていた。


   
博物学的知能 ― 拡大する心、拡大するテリトリー

10.
 博物学的知能は、下位領域の思考が少なくとも3つ合わさってできている。動物についての思考、植物についての思考、そして水源や洞窟の分布といった居住域についての地理学である。全体として、それは居住域についての地理学と、季節の循環と、獲物になりうる動物の習性とを理解するのに使う知能である。雲の形がもつ意味、動物の足跡がもつ意味、春に鳥が来て秋に飛び立つことの意味といった、自然界で今見られることを、これからの予測に役立てるのに使う知能である。
  初期人類の博物学者たちは現代の狩猟採集民よりも優れていたのだろうか。前章では、ホモ属の系統の最初の成員たちについて、かなり曖昧な立場に行き着いた。我々は、彼らが東アフリカで狩猟者、採集者、屍肉あさりとして成功したのは、足跡などの博物的な手がかりを使い、資源の分布について仮説を立てる能力が彼らにあったしるしだという結論を出した。彼らのこうした能力は、第5章で考察した600万年前の共通祖先の能力よりも、はるかに進んだものだったようだ。しかしそれでも我々は、こうした能力を微小な領域の集合として特徴づけ、博物的知能の肩書きをあてるには数も範囲も乏しすぎると考えた。


   
出アフリカ・・・植物採取、屍肉あさり、狩猟

11.
 この肩書きを初期人類の心の成分として使っていいと言えるいちばんわかりやすい指標は、アフリカを出て別の土地に移住したことである。第2章で、ホモ・エレクトゥスもしくはその子孫が、180万年前までには東南アジアとおそらくは中国に住み始め、100万年前までには西アジアに入り、そしてヨーロッパには、もしかすると78万年前、確実なところでは50万年前には住んでいたと述べたことを思い出してほしい。
  これらの新しい環境はひとつひとつ大きく違っていたが、アフリカの低緯度地方に比べると、どこもみな季節の変化はかなり大きかった。最初期のホモ属がアフリカ低緯度地方のサバンナ環境を征服していたとすれば、初期人類はさらにずっと広い範囲の新しい環境、特に注目に値するものとして、地勢も資源も天候もまったく違う高緯度地方の環境について学ぶ能力をもっていた。前に見てきたような増大する技術的知能と、これから考察することになる社会組織や言語の発達も、新しい環境を活用することを容易にしたかもしれない。しかし初期人類は何と言っても、新しい種類の獲物の習性や新しい植物や分布、環境に関する新しい情報一式を理解する必要があっただろう。したがって、南アフリカのケープ岬から見ると旧世界の北西のはるか突端に位置する北ウェールズのポントニューウィッド洞窟に初期人類がいたことは、洗練された博物的知能を意味するのである。


12.
 しかし旧世界のいくつかの地域には初期人類は移住せず、オーストラリアや両アメリカ大陸にも入っていない。初期人類の行動に関する第一人者に数えられるクライヴ・ギャンブルは最近、世界全体の移住の資料を見直し、初期人類は極度に乾燥し、極度に気温の低い環境には対処できなかったという結論を出している。
 たとえ初期人類が十分に発達した博物的知能をもっており、握斧のような人工物を作ることができたとしても、こうした環境にあまりにも過酷だったと思われる。
  初期人類がこうした多様な環境を活用した方法は、とくに第三幕第一場については、依然としてはっきりしていない。初期人類の狩りや屍肉あさり行動の結果生じた動物の骨はごくまれにしか見つからないし、見つかったとしてもたいていは保存状態がひどい。しかし我々の証拠は、初期人類が植物採取、屍肉あさり、狩猟を併用する、折衷的で柔軟な食物収集をしていたことを示している。20万年前からおよそ6万年前までにあたる第三幕第二場と第四幕第一場になると、初期人類と自然界との相互作用はややはっきりしてくる。
 そこでこれから、旧世界のある地域のある役者を考察することで、初期人類の博物的知能を探究することにしよう。それはすなわち西ヨーロッパのネアンデルタール人である。


   
ネアンデルタール人 ― 逆境に生き残る

13.
 ネアンデルタール人の石器が印象的だとすれば、この初期人類が氷床に覆われたヨーロッパのとりわけ厳しい環境でうまく生活したことも印象的である。このように高緯度の、主に広々としたツンドラの環境で暮らすことに要求されるものを、決して軽視するわけにはいかない。洞窟や野外の遺跡から出る動物の遺物は、多様な動物種の共生を示す。草食動物にはマンモス、毛深いさい、野牛、鹿や馬、となかい、アイベックス、羚羊〔れいよう:カモシカに似ているシカなどの総称〕がいた。

 肉食動物の方は、ケーヴ・ベア(洞穴熊)、ハイエナ、ライオン、狼など、今日ではとても異なる環境でしか見られなくなった種からなる。ここでの動物の群れは、概して現代のどの地域のものと比べてもはるかに多様であったようだ。このように獲物の幅が広いので、初めはネアンデルタール人たちがエデンの園に住んでいるように映るかもしれないが、それはとんでもない誤解である。生活に必要なもの―食物、住処、暖-を手に入れることは、 途方もなく大変だっただろう。動植物の資源は多彩だったかもしれないが、豊富ではなかったようである。動物はそれぞれ複雑な食物連鎖に組み込まれていたと思われ、その結果、その数には予測のつかないゆらぎがたびたび生じる。そして、氷床の前進であれ後退であれ、比較的綬かいまたは寒い時期が数年続くことであれ、そうした度重なる環境の変化から、食物連鎖の構成や連鎖のしかたは常に変化していたことだろう。一年の中だけでも動植物の入手の難易は季節ごとに大きく違っただろうし、とくに冬場の数か月間の状態は著しく劣悪だったはずだ。


14.
 こうした環境の中でネアンデルタール人が直面していた問題は、そのテクノロジー、あるいはむしろその欠如によって、さらに悪化した。前述のように、ネアンデル夕ール人は石器製作について非常に複雑な工程を修得していたらしい。しかし、その技術の熟練にもかかわらず、道具の種類は目立って少なかったようで、氷床に覆われた地で生き延びる助けにはあまりなっていなかったようだ。
  ここで、イヌイット(エスキモー)のような現代の狩猟採集民が、氷床に覆われた地で生き残るために利用しているテクノロジーをきちんと理解しておくことが大切である。こうした現代の狩猟採集民は、自然界に対する詳細な知識や、集団間に存在する非常に広範な社会協力関係に依存していると同時に、高度に複雑なテクノロジーにも依存している。彼らには複数の部品からなる道具があり、食物の足りなくなる季節にそなえて食糧を保存しておくためのものなど、いろいろと複雑な施設もある。道具の製作には、骨や牙などのさまざまな素材を用いる。道具の多くは細かく決まった目的「専用」である。
  前述のように、ネアンデルタール人には、また実のところどんな初期人類にも、そのようなテクノロジーがあったという証拠はない。氷床に覆われた地を活用するために現代人類が複雑で多様なテクノロジーに依存している事実からすると、テクノロジーの点では単純なネアンデルタール人の作ったもの―20万年にもわたって作っていたもの―は、一段と印象深く見えてくる。


   
ネアンデルタール人の寿命

15.
 ネアンデルタール人にとって生活が容易ならざるものであったことは、彼らの寿命が非常に短いことに表れている。7割から8割が40歳前に死んでいた。ネアソデルタール人は旧世界のはずれで暮らしていただけでなく、生きることそのものについても、文字どおり限界のところで暮らしていたのである。ネアンデルタール人は非常に高い率で疲労骨折や変形性関節炎にかかっていた。実は、彼らの症状は現代のロデオの騎手に見られる身体の故障ととてもよく似ている。多様な道具類、つまり特定の目的に合わせた道具類をネアンデルタール人以上に必要とする集団を思いうかべるのは、実に難しい。
  そうなると、ネアンデルタール人はどのようにして生き残ったのだろうか。十分な量の植物を採取するのには環境条件が適していなかっただろうから、厳しい冬の間はとりわけ動物の捕獲に頼ったに違いない。ネアソデルタール人が居住していた西ヨーロッパの洞窟で出土する動物化石群から、一般にいろいろな種の動物が狩られていたことがわかるが、主として赤鹿、となかい、馬、野牛といった大型草食動物である。それらの骨が、ネアンデルタール人が出たとこ勝負で屍肉あさりをしていたことを示すものなのか、よく計画を練った戦略的な狩りを行なっていたことを示すものなのかは、激しい論争の的になっている。


16.
 いちばん重要な動物化石群は、フランス南西部のコソブ・グルナルの洞窟遺跡から出たものである。この分析はフィリップ・チェースによって行なわれ、発見時の骨の状態から、元はそこに肉がたくさんついていたのか、それとも荒らされた後の屍体でほんの一口の肉しか残っていなかったのかが調べられた。彼は石器によって骨についた切痕の位置も調べた。これによって屠殺のしかたがわかり、そこから動物をどのように手に入れたかということもわかるのである。チェースは、コソブ・グルナルのネアンデルタール人が、となかいや赤鹿を捕ることには長けていたという結論を出した。牛や馬をどうやって食物にしたかについてはあまりはっきりせず、狩りと屍肉あさりが混在していたらしい。西イタリアのサソタゴスティノ洞窟などの他の洞窟遺跡からも、ネアンデルタール人が狩りをしていたという決定的な証拠が出ている。こちらの例では狩りの対象は赤鹿とダマ鹿だった。この狩猟は短い突き槍で行なわれていたらしく、猟師は獲物に近づく必要があった。もしかすると沼地や川に追い込んで近づいたのかもしれない。


   
ネアンデルタール人の狩猟と屍肉あさり

17.
 ネアンデルタール人は、西イタリアのグァタリ遺跡に明らかなように、他の捕食動物に殺されたり、自然に死んだりした動物の屍体も食べていた。クライヴ・ギャンブルは、獲物の数が少なくなったはずの冬の間は屍肉あさりが重要だったと考えられることと、ネアソデルタース人は凍った屍体のありかをつきとめて解凍することに頼っていたのかもしれないことを強調している。他の捕食動物にはまねのできない食物連鎖の隙間である。
 実際、狩猟と屍肉あさりとが、ネアンデルタール人にとって状況に応じて選ばれる戦術だった可能性は非常に高い。こうして我々には、ヨーロッパのネアンデルタール人ド屍肉あさりと狩猟によって生き残ったことがわかった。

 東部地中海地域の初期人類(ネアンデルタール人)と南アフリカの初期人類(古代型ホモ・サピエンス)はよく似た混合型の生存戦術をとり、それぞれの資源の特徴に合わせていた。限られたテクノロジーしか活用していなかったことを考えると、とくに氷床に覆われた過酷なヨーロッパの地で、初期人類はそうした効率的な生存パターンをどのようにして身につけたのだろうか。


   
大きな集団、激しい労働、心のはたらき

18.
 答えは三つあるように見える。
  一つめは、
彼らが大集団で住み、個人あるいは下位集団で食物収集をした時に食物を確保しそこなう危険を軽減していたことである。この証拠は後で考察する。二つめは、彼らがせっせと働いたことである。ネアンデルタール人の寿命が短かったことには、一面で、肉体的に厳しい生活だったことが影響している。とくに彼らの下肢は頑丈な造りになっており、頭部より下の部分の解剖学的形質や、疲労骨折の頻度が高いことを考えあわせると、ネアンデルタール人は常に、力と耐久力を要する長時間の運動を行なっていたことがわかる。
 鼻孔が大きく、前へ突き出した鼻は、長時間の活動による余分な熱を体外に出すためのものでもあったらしい。しかし、仲間をたくさん抱えて一所懸命に働いただけでは十分ではなかっただろう。技術的に限界がある中で
生き残るための第三の、そして最も重要な答えは、彼らの心の中にあるはずである。状況証拠は争う余地がない。ネアンデルタール人(および他の初期人類)は、自分たちの環境とそこにいる動物について精緻な理解力をもっていたに違いない。つまり、彼らは進んだ博物的知能をもっていたのである。

19. 彼らの環境について心の地図―第5章で考察したチンパンジーの地図とは比較にならないほど広範な地理的現模の―を組み立てるためには、博物的知能は不可欠だっただろう。この心の地図の決定的な特徴の一つは、岩陰と洞窟の位置だったはずだ。これらは風をよけ、暖をとるのに必要とされた。衣服を縫うテクノロジーがなかった― 骨の針は、第四幕もかなり進んだ1万8000年前になってはじめて出土する ― ため、ネアンデルタール人が身にまとっていたものはかなり粗末なものだったらしい。ネアンデルタール人が洞窟に居住していたことは、火を使っていたことを物語る大量の灰の層によって示されることが多い。これらは従来「根拠地・ホームベース」と解釈されてきたが、新しい考え方では、屍体の解凍室としての役割が第一にあったのかもしれないという。
 洞窟の役割がどうあれ、洞窟や岩陰の位置についてのネアンデルタール人の心の地図と、その地にいる肉食動物の存在を推測する能力は、生存のためには不可欠だっただろう。


   
博物的知能のはたらき

20.
 博物的知能は狩猟にも欠くことのできないものだったろう。
  短い突き槍を効果的に使うために、ネアソデルタール人は獲物に近づく必要があったはずだ。このため彼らは、動物の行動や、相手を不利な状況に追い込む方法を理解していなくてはならなかった。有効な狩りには計画が不可欠であり、有効な計画には動物の行動についての知識が不可欠だ。動物の足跡や糞などの視覚的な手がかりを使うことを会得し、獲物の習性について細やかな知識をもってはじめて、ネアンデルタール人は大型の獲物をうまく捕らえることができただろう。また屍肉あさりをうまく行なうのも博物的知能しだいである。あるいはアフリカのサバンナにいた最初期のホモ属の場合よりもそうかもしれない。屍体をでたらめに探すのではなく、どこにあるか推測することが必要だったはずだ。餌食の分け前に与れるかもしれないような肉食動物の狩猟パターンといった動物行動についての知識が必要になるだけでなく、屍体を移動したり埋めたり取り出したりといったことにつながる、物理的な過程の知識も必要としただろう。

  要するに、考古学的資料から推論されるように、初期人類の生活様式には、十分に発達した博物的知能が不可欠だったらしい。そしてそれは、高度に複雑で多数の部品からなる道具が利用できる、現代の狩猟採集民のものにも劣らぬほど洗練された博物的知能だったに違いない。実際には、複雑な道具を使わなかった初期人類は、現代人類よりもさらにいっそう博物的知能に依存していただろう。彼らは、氷床に覆われた土地での狩猟と採集によって生きていく上での困難を切り抜ける彼らなりの方法を、文字どおり考えていたに違いない。

21. ところが、この十分に発達した博物的知能でさえ、更新世の氷河時代が後期に入ってその一時期に氷床が著しく拡大し、北ヨーロッパの環境が非常に厳しくなった時には、合わなかったのかもしれない。そのような時期、ネアンデルタール人は生存のためにさらなる戦略をとった。そこから立ち退いたのである。彼らはまた、125000年前頃の北西ヨーロッパに起こった青々と木が茂る森林地帯、すなわち冷たいツンドラ気候と氷床の拡大とからなる時期が再び来るまでの間にはさまれた束の間の温暖期にも、適応できなかったらしい。初期人類は大型動物の猟師として有能だった一方、鳥や魚のような小さな獲物は大がかりには捕っていなかったことにも目を向けるべきだろう。
 大型動物の狩りでさえ、一頭ずつ殺すか、せいぜい小さな動物集団を殺す程度にとどまっていたらしい。計画的な大量屠殺が行なわれるのが見られるのは第四幕で、行動学的に見て現代的と言える狩猟採集民が出現してからのことである。だから、道具の製作について言えば、初期人類はある面で非常に現代的なようであり、別の面では非常に遠い人間の祖先であるように見える。


   
社会的知能 ― 拡大する心、拡大する社会的ネットワーク

22.
 初期人類の社会的知能は、我々が考察する認知領域の中で、最も検討しやすくもあり、しにくくもある。しやすい方は、第5章と第6章で見てきたように、人類以外の、霊長類や最初期のホモ属に社会的知能が認められるところから、ホモ・エレクトゥスやネアンデルタール人その他の初期人類には、複雑な社会的知能があったようだと簡単に断言してしまえるところである。チンパンジーが心の理論をもっていてマキャベリ流の巧妙な社会的戦術に明け暮れているとすれば、初期人類は少なくともそれと同じくらいは社会的に知的だったと考えてよさそうだ。
 実際にも、初期人類の心の中に、社会的知能の領域-もしかすると現代人類のそれと同じくらい複雑な ― が存在していたことを示す確かな証拠を見つけることができる。その証拠は残された道具や動物化石からではなく、彼らの解剖学的構造と生活環境から見いだせる。

   
脳の大きさと社会的集団の平均的規模

23.
 いちばん重要な証拠は、初期人類の脳の大きさと、それが社会集団の平均的規模に対してもつ意味であり、前章で述べたように、社会集団の規模は社会的知能の程度を示す尺度の代わりとなるものである。自然人類学者口ビン・ダンバーが、人間以外の霊長類について、脳の大きさと平均的な集団の大きさとの間に強い相関関係があることを示したことを思い出そう。レズリー・アイエロとロビン・ダンバーは、初期人類の脳容量の推定値を使ってこの相関関係から集団の規模を推定し、ホモ・エレクトゥスは平均111人、古代型ホモ・サピエンスは平均131人の集団で生活していたとし、ネアンデルタール人は平均144人という、現代人類の約150人という値とそれほど変わらない規模で生活していたとした。この数値は、初期人類が日々の生活を送っていた集団の規模に関するものではなく、社会的知識をもっているような相手の数に関する推測である。この研究には多数の問題があり、具体的な数値の扱いには注意が必要だと感じる。たとえばアイエロとダンバーは、脳の一定の処理能力を活用して脳の拡大に貢献したに違いない、初期人類の複雑な技術的行動および食物収集行動を考慮に入れていない。
 しかしダンバーは、最近の狩猟採集社会に関する記録に見られる現代人類の集団の規模から、自この推測を支持するような証拠を挙げている。こうしたことをふまえると、とくに
20万年前以降の初期人類が現代人類と同じくらい社会的な知能があったことは十分考えられる


   
大きな集団生活と食物の特性

24.
 大きな集団で生活すること―おそらくダンパーが唱えるほど大きなものではなかったが ― は、初期人類に生態学的な感覚をもたらしたらしい。彼らは世界の多くの地域で肉食動物の脅威のもとにあったようで、前章で見たようにその危険は集団生活によって軽減されていた。それでもなお、初期人類が肉食動物の餌食になった例がいくつか知られている。食物の特性も大規模な集団の形成を後押ししただろう。食物はだいたい、狩猟か屍肉あさりかの結果で、動物の屍体という「大きな塊」で手に入ることが多かった。このことは、氷床に覆われたツンドラのようなヨーロッパの環境においては、とくにあてはまるだろう。「大きな塊」ひとつあれば大勢の口を養えただろうから、初期人類が大きな集団で生活することは促進された。それだけでなく、単独あるいは小集団では、動物を見つけて殺せる機会もごくわずかだっただろう。


   
社会的柔軟性の能力

25.
 ほとんどの状況では、生きるための適切な社会的戦略は大きな集団で暮らすことだっただろうが、初期人類が比較的小さな集団で生活した方が有利になるような環境もあっただろう。集団生活には多くの阻害要因がある。たとえば、集団の成員どうしが資源をめぐって争ったり敵対関係になったりすることで、集団の規模が大きくなると、その頻度も高くなっただろう。氷床が前進する時期の合間の暖かい時期などには、ヨーロッパの初期人類は どちらかというと森林に近い環境に住んでおり、そこではずっと小さな集団を作っていたと考えてよさそうである。 密度の高い植生は捕食動物から身を隠したりかわしたりするのに役立ち、植物資源は一様に分布して、得られる食物も動物の屍体より小さな塊になっている。このようなことから、初期人類は環境条件に合わせて常に集団の規模を変えていたと考えるべきである。それには個人間の社会関係を調節する必要があっただろう。
 このような
社会的柔軟性の能力こそが、社会的知能の根幹である。

  複雑な社会関係は、ある初期人類の人骨化石からもうかがえるかもしれない。ネアンデルタール人は、明らかに、病気の者や老いた者―集団の安寧にとっては、たとえ貢献できたとしても限られたことしかできない人たち ― の面倒を見ていた。有名な例が、イラクのシャニダール洞窟のネアンデルタール人で、頭部に怪我を負い、洞窟で岩が落下したためか右半身は萎縮し、左目の視力が失われていたにもかかわらず、何年間か生きていたようである。彼に長い距離を移動することができたとは思えない。こうした重傷を負いながらも数年間生きのびたのは、社会集団の成員から世話を受けていたからに他ならない。」



  
< 社会的知能の謎を解く >

 
考古学者の分析誤り・・・認知上の障壁理解・・・

1.
 要約してしまえば、初期人類の社会的知能に関する証拠は逆説的である。初期人類の脳の大きさと当時の 環境についての証拠は、概して社会的知能が発達したもので方ったことを示しているように見える。一方、考古学的には正反対のこと―初期人類は小規模な集団で生活し、社会構造はほとんどあるいはまったくないように見えること ― を意味している。この逆説を解くのはきわめて簡単である。考古学者はデータの分析の点で、大きな誤りを犯しているのだ。彼らは、初期人類の心を今の我々の心と同じように―社会的知能、技術的知能、博物的知能の間に認知的流動性があったと―考えている。この3つがそれぞればらばらなものだったと考えない ことには、考古学的資料の意味をつかむことも、これまで挙げてきた謎を解決することもできない。技術的知能と博物的知能の間に認知上の障壁があったように、そのそれぞれと社会的知能との間にも障壁があったのである。

  
社会的行動と技術的行動の不一致

2.
 それで、初期人類の遺跡の特徴からは社会的行動が単純だったように見える一方で、脳の大きさからは洗練された社会的知能があったように見える理由に、おあつらえむきの説明がつく技術的知能が社会的知能と統合されていなかったとすれば、社会的行動と技術的行動が一つの居住域の中の同じ場所で起こったとは考えられない。現代人類にはこれが起こっていた。彼らが炉のまわりに集まっておしゃべりをしながら、道具を作ったり直したりするといったことである。技術的行動と社会的行動とにこうした密接な結びつきがあるので、現代人類の人工物の分布は、ことによると社会集団および社会構造の規模をも反映していると考えることができる。しかし初期人類が残した人工物のかけらには、そのような意味はない。それらは、どこで道具が作られ使われたかを示すだけである。初期人類の複雑な社会的行動や大きな社会的結合は、居住域の別のところで生じていた。あるいはもしかすると何メートルも離れていないところで起こっていたのかもしれないが― 今の我々には考古学的には見えなくなっている。
 同じく、現代の狩猟採集民にとって獲物の屠殺や食物の分配は、経済的活動であるとともに社会的活動でもあるので、屠殺した動物の残骸の分布は社会的行動についての情報をもたらしている。しかし、
もし社会的知能と博物的知能が結びついていなかったのなら、初期人類の遺跡から出土する動物の骨は過去の社会的行動について情報をもたらすことにはならないだろう。


   
「食物の分配」の社会環境

3.
 とは言っても、食物の分配は初期人類の社会でも広く行なわれていたようである。食物の供給源が大きな塊で― 動物の屍体として―手に入ることが多かったはずだからである。それだけでなく、初期人類、とりわけネアンデルタール人や古代型ホモ・サピエンスの脳が比較的大きかったことから、乳児期の子供を育てる母親は乳児の必要を満たすために良質の食餌を摂らなくてはならなかったことも想像される。女性に肉を供給していたことは十分にありうる ― 妊娠9か月の妊婦や新生児を抱之だネアンデルタール人が、他の女性あるいは生殖のパートナーから食物を分けてもらうことなく生き残ることができたとは想像しがたい。
 
ただ、一定の社会関係の中での食物の分配は、一般知能によって処理できた可能性もある。

  次章で見るように、妊婦や授乳中の母親に食物を供給することは、社会的知能と博物的知能の統合に向けて選択圧が作用するための行動上の背景になったのかもしれない。しかしそうなるのは、人間の進化がさらに進んでからのことだ。遺跡において人工物や骨の分布に空間的なパターンが見られないことからすると、食物を与えたり分配したりする初期人類の行動は、一般知能によって扱われたらしい。だから筆者は、現代の狩猟採集民集団に広く見られるような食物分配のための形式の整った規則は、初期人類には存在していなかったのではないかと考える。こうした規則には、屍体のどの部分がどの親族に与えられるかを定める厳格な規則が含まれていることが多い。その場合の屍体は、それ自体が集団の社会的な関係のあり方を示す地図と解釈される ― 肉の分配はそうした社会関係を強化する手段になるのだ。初期人類の食物分配は、おそらくもっと単純なものだったと思われる。
 これと同じく、筆者は、アメリカ北西沿岸のインディアンが贈与の応酬を行なう時やニューギュヱ局地民が豚を屠る時に見られるような饗宴は、行なわれていなかったのではないかと考える。こうした儀礼的な饗宴では、食物は食欲を満たすものとしてよりも社会的相互作用の媒介として使われる。


   
社会的知能と技術的知能の認知上の障壁

4.
 集団での狩猟を調整する時に必要となる、社会環境との相互作用と自然環境との相互作用をつなげる役割は、一般知能にも果たせたようだ。狩猟にせよ屍肉あさりにせよ、行動自体か情報交換かのいずれかで社会がある程度協同行動をとらなければ、うまく行くとは考えられない。しかし、そこで必要となる社会の協力の程度を過大に考えないよう注意しなくてはならない。第5章で述べたように、協力して狩りを行なったり情報を共有したりすることは、ライオンやチンパンジーなどさまざまな動物に数多く見られる。
  
社会的知能と技術的知能の間に認知上の障壁があったことのいちばん説得力のある証拠は、ビーズやペンダントなど身体装飾に使われた人工物がまったく見あたらないことである。こうしたものを製作するには、前述の、特定目的のための狩猟具を作るのと同じで、ある種の思考を必要とする。技術的行為そのものを行なう一方で、そうした人工物の社会的な目的―社会的地位や集団の結束を伝えるなど―を心にとどめておく必要がある。もし社会的知能と技術的知能の間が閉じていたら、こうした人工物を作る機会は失われる。この認知上の障壁のために、初期人類による身体装飾は一般知能のみを用いて行なわれなげればならなかっただろう。このことは翻って、そうした身体装飾はごく単純な社会的メッセージしか運ばなかったか、ことによっては身体の一部分に注意をひきつける程度のことを意味していただげだったのだろう。初期人類の非常に限られた数の遺跡からしか見つからないレッド・オーカー(赤褐色の顔料)の意味を説明するのは、実際にはおそらくこうした種類の行動である。


   
まとめ・・・
 社会的行動パターン、居住地の規模、道具製作の伝統

5.
 まとめると、初期人類に関する技術的知能と社会的知能の関係は、技術的知能と博物的知能の関係そっくりに見える。自然界とのある特定の形の相互作用のために道具が作られることがなかったように、社会とのある特定のパターンの相互作用のために道具が作られることもなかった。技術的な多様性が小さかったことで、それを反映する狩猟採集行動の多様性も小さくなったように、居住地の規模の多様性が小さかったことで、それを反映する社会の多様性や複雑さも小さくなった。
  
  しかし、さらなる類似性は、初期人類のテクノロジーが社会的行動の過去のパターンを受動的に映しているかもしれないことである。たとえば、樹木の多い環境に小さな集団で暮らしていた10万年前以前のヨーロッパの初期人類は、握斧のような複雑な人工物は作らず、道具製作についての強い伝統もなかったと見られる。
 その好例が、25万年前より以前の時代と区分され、握斧をもたない、南イングランドのクラクトン・イソダストリーという分類に入れられる道具を作った初期人類である。対照的に、おそらくツンドラのような環境に大きな集団で生活していたと思われる初期人類には、世代から世代へと継承されてきたらしい握斧の形状に見られるように、 道具製作の強い伝統があった。南イングランドで生活した初期人類は、クラクトン型の道具が作られるより前の 時代も後の時代も、精巧な握斧を作るのと同じ素材を使っていた。クラクトン型石器の道具製作者には、観察すべき他の道具製作者があまりおらず、観察の頻度が少なかったのだ。その結果、ツンドラの平原に大きな社会集団を作って生活していた初期人類とは違い、心の中にある直観的な物理学を技術的知能へと成熟させるような刺激が、ほとんど起こらなかった。 今度は言語に目を向ける必要かおる。・・・」

   (以上、抄録終わり)


  
< コリン・レンフルー理論に向かって >

  スティーヴン・ミズンの鋭い分析は、「社会的知能と技術的知能の間に認知上の障壁があったこと」を説得力のある“論理性”の構築に成功していることです。これにより、考古学から新たな「認知考古学」の構築に成功していると言えます。明らかに、コリン・レンフルーは、「初期人類の認知上の障壁」を自覚して、自らの理論 ― 心の進化理論 ― の土台製作に取り掛かったものと推測されます。
  スティーヴン・ミズンの「認知考古学」は、
コリンの「物質的象徴」が成立してゆくための、不可欠の基礎工事であったと言えます。

  以上で、「物神性の解読へ特別報告Ⅱを終わります。
 

 
<物神性の解読:コリン・レンフルー理論>
   1. 
『先史時代と心の進化』 第2部 「心の先史学」 <要約

    2. 『先史時代と心の進化』 第2部 「心の先史学」 抄録