物神性の解読へ特別報告Ⅰ: 脳の成長と社会性の起源
リチャード・リーキー著 『ヒトはいつから人間になったか』 3 脳と骨盤のパラドックス
・・・ 「 脳の成長と社会性の起源 」 ・・・ 草思社1996年2月刊
★ 目 次
資本論ワールド編集部 まえがき
リチャード・リーキー著 『ヒトはいつから人間になったか』
・・・・「脳の成長と社会性の起原」・・・
脳と骨盤のパラドックス
〔 1. 脳容量の増加 〕
〔 2. 無力な新生児の誕生 〕
3. 「社会性」の生物学的起源
〔 トゥルカナ・ボーイの計測 〕
〔 ホモ・エレクトゥスの社会環境の芽生え 〕
〔 化石人類の歯の分析 〕
〔 激しい論争とX線断層撮影による透視 〕
4. ホモ属の社会性―文化を育む
5. 初期のホモ属―肉食の適応習性
資本論ワールド編集部 まえがき
7月の「特別報告Ⅰ」は、リチャード・リーキー著 『ヒトはいつから人間になったか』 「脳と骨盤のパラドックス」の抄録です。1996年「脳の成長」と「社会性の起源」の相互関係を学ぶテキスト
― 物神性の解読へ ― として最適と判断して掲載いたしました。
リチャードは、「リーキーファミリー」として世界的に著名な古人類学者の両親ルイス・リーキー、メアリ・リーキーのもとで、1944年にケニアで生まれました。ルイスは、1930年前後からアフリカ・ケニアで発掘に従事し、30年後の1959年にアウストラロピテクス・ボイセイ(愛称:ジンジ、クルミ割の男)を東アフリカ(タンザニア・オルドヴァイ峡谷)で初めて発見しました。メアリとルイスによって1960年には、東アフリカで発見された人間の直接祖先、ヒト属(ホモ属)のホモ・ハビリス(「手先の器用な人」の意味で1964年に命名)を発掘。約250万年前のヒトで、最初に石器を使ったとみられています。
リーキーファミリーの相次ぐ発見によって、「人類の起源がアフリカである」というダーウィン説が証明されました。これは、チャールズ・ダーウィンが『人の由来と性に関連した選択』(第1部人間の由来または起原)で、 「人類の誕生地と人類はいつごろ誕生したかということについて」 語っていました。
「人間の先祖が、狭鼻猿類の幹から分かれたときの進化段階における人間の誕生の地はどこだったのだろうかというのは、当然でてくる疑問である。その先祖が狭鼻猿類に属していた事実から、旧世界にすんでいたことは明らかであり、また地理的分布の法則から考えられるように、オーストラリアや大洋の島々にすんでいなかったのである。地球のどの地域でも、現生の哺乳動物は、同じ地域にかつていた絶滅種と非常に密接な関係をもっている。だから、アフリカにはゴリラやチンパンジーときわめて近縁の絶滅種が、かつてすんでいたと考えられる。またこの両種は、現生のものとしては人間に最も近縁であるから、人間の初期の先祖が、地球上の他のどの地域よりも、アフリカ大陸にすんでいた可能性がいくぶんかは高いのである。」
20世紀初頭では、人類の誕生地はアジアであるとの説が主流でしたが、ルイスらの半世紀にわたる地道な努力によって古人類学が切り開かれることになりました。1984年トゥルカナ湖西岸で、リーキーらは「トゥルカナ・ボーイ」と名付けた化石化した骨を次々と発掘しました。腕と脚の骨、脊椎骨、肋骨、骨盤、顎、歯、さらに頭蓋骨が相次いで発見されました。考古学史上はじめて個体の姿全体が復元・確認できる成果でした。
そして1994年、リチャード・リーキーの 『ヒトはいつから人間になったか』 が刊行されました。この書物によって、私たちは、ダーウィンの誤った3セットの理論―二足歩行、技術、大きな脳―と、その影響によると思われるラマピテクス人類始祖説を窺い知ることができます。また、アフリカの地で人類学・考古学を構築してきた人々の人類進化の解明に計り知れない貢献を学ぶことができる貴重な書物となっています。
1. 「地球上の生命の歴史は3度にわたって大きな変革をとげている。第一の変革は、約35億年前に生命そのものが誕生したことである。第二の変革は、約5億年前に多細胞の生物が誕生したことである。そして過去250万年のある時点で起こった意識の誕生は、第三の変革だった。生命は自我に目ざめ、自身の目的のために自然界を改造するようになったのである。」
2. 「人類学者は、人類の形態の進化を解明する過程で、結局は人類の精神の進化を扱うことも求められる。すべての人間社会にはそれぞれ固有の原初的な神話、すなわち、最も根本的な物語がある。これらの原初的な神話は、内省的な意識の源泉―あらゆる物事を説明づけようとする内なる声―からわきでている。人類の心に内省的な意識の火がともされて以来、神話と宗教は人類の歴史の一部をなしてきた。」
3. 「神話の共通のテーマは、人間が人間以外の動物―あるいは、山や嵐などの自然物や自然力―にたいしてもつ特有の動機と感情である。このような擬人化の傾向はそもそも、意識が進化をとげた状況に端を発している。意識は、他人の行動を自身の気持に照らしあわせて理解するための社会的な道具である。そうすると、人間でないがきわめて重要な現象にたいしても、同じように理解しようとすることは容易に想像がつく。」
さて、リーキーにつづいて、「物神性の解読へ特別報告Ⅱ」としてスティーヴン・ミズン著 『心の先史時代』(1998年8月青土社刊)より「狩猟における新たな進歩」を検討しながら、認知考古学が探究する「石器製作の技術的知能」と狩猟・屍肉あさり肉食の「社会性と社会関係」の進化過程を探索してゆきます。スティーヴン・ミズンは、先史時代から中世と、広い範囲の遺跡について、豊富な発掘調査の経験を積んだ考古学者です。従来の考古学は、自然科学の一部門として、データの収集とそこから言える「事実」の確定を主たる仕事としてきました。近年の「認知考古学」では、先史時代の人々の心を再構成する試みを行っています。
先史時代の「社会関係」を構成してゆくための新しい技術的手法の一つと言えます。
リチャード・リーキーとスティーヴン・ミズンらの探究と蓄積の上に、「コリン・ルンフルー理論(物質的象徴・物質的
関与と制度的事実の形成)」―2008年『先史時代と心の進化』―が構築されていることが理解されてゆきます。
『資本論』 物神性の解読への特別報告Ⅰ、Ⅱを併せて探訪していただければ幸いです。
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<リチャード・リーキー>
*参考資料 『ヒトの進化 700万年史』 ちくま新書2010年刊 と 「河合信和ブログ」 より
1. リーキー一家について
古人類学や考古学では、自前の調査フィールドを持たないと、どうしようもない。そうでないと、発掘された資料を専門的立場から分析する役割しか回ってこない。さらに古人類学の場合、考古学と異なり有望な調査地は限られる。だから調査地を最初に開拓した研究者は、現地政府の突然の政策変更のリスクはあっても、いったん調査許可を得れば長く排他的な調査を行える。・・・・
オルドヴァイ峡谷は、ルイスが1931年に初めて訪れてから彼がフィールドとして開拓した場所で、太古の湖畔に堆積した百数十万年間の湖成層が、不整合面を挟みつつ数百メートルもの厚さでむき出しになった大峡谷だ。夫妻が、36年に揃ってここを訪れ、調査拠点を築いてから、59年に東アフリカで初めて頑丈型猿人の頭蓋(「ジンジ」と愛称される)を発見するまでの労苦と執念を思えば、リーキー一家に特別の敬意が払われて当然だろう。何しろナイロビから、道なき道を何日もトラックに揺られてやっと行ける不毛の地で、飲み水の確保にすら難渋する所なのである。
2. リチャード・リーキーについては、科学ジャーナリストの河合信和氏による資料に基づいて報告を行っています。また、河合氏のブログには、世界各地から最新の古人類学の情報が満載されています。
★河合信和の人類学のブログ
科学ジャーナリスト、河合信和の公式ブログ。人類学、先史考古学関連のニュースなどを随時掲載。
http://blog.livedoor.jp/nobukazukawai/
3. <河合信和ブログ>より
東アフリカの展開 (420万~150万年前)
人類進化のストーリーは、リーキー家の貢献抜きには語れない。エチオピアでアファール猿人を発見したジョハンソンのライバルであるリチャード・リーキーは、両親の伝統と遺産を引き継ぐスターとなる。リチャードは、東アジアの大地溝帯の東側、エチオピアの国境に接する砂漠の中のケニア、トゥルカナ湖岸に良好な化石産地を見つけ、そこをフィールドにして人類進化図を塗り替える大発見を連発していく。調査にはリチャードの妻のミーヴも加わった。今も続くトゥルカナ湖両岸でのリーキー軍団によるホミニン化石発見は、アルディピテクス属以後に出現するアウストラロピテクス属、パラントロプス属、ケニアントロプス属、ホモ属の素顔と相互関係を次々に明らかにしていく。ホモ属とパラントロプス属との共存を初めて明らかにしたのはリチャードの初期の発見だったし、ルーシーを上回る完全さのトゥルカナ・ボーイ(ホモ・エレクトス)の発掘も、ここでの大きな成果の一つだった。一時期、トゥルカナ湖周辺には四種ものホミニンが共存していたらしいことも分かった。
本章では、リチャードらによるトゥルカナ湖東岸と西岸の大発見を四つずつ採り上げ、それらの発見によってどのような進化の道筋が明らかになってきたのかを見ていく。 ・・・・・
以上、資本論ワールド編集部まえがき
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リチャード・リーキー 『ヒトはいつから人間になったか』 1996年2月草思社刊
・・・・ 「脳の成長と社会性の起源」 ・・・
好奇心と想像力を刺激する最近の研究によって、いま、数年前には考えられなかった方法で化石を利用し、絶滅した祖先の生物学的特性を知ることができるようになった。たとえば、特定の人類の離乳時期、性的な成熟の時期、寿命などを無理のない範囲で推定することが可能になっている。このような情報を発掘するすべを身につけたおかげで、われわれは、ホモ属が最初に出現したときからほかとはちがう種類の人類だったことを知るようになった。アウストラロピテクス属とホモ属が生物学的に見て無関係であるという発見は、人類の先史時代にたいするわれわれの理解を根底からくつがえした。
ホモ属が出現するまで、二足歩行の初期人類はみな小さい脳と大きな臼歯と突き出した顎をもち、類人猿的な適応戦略で生活をいとなんでいた。彼らは主に植物を食べ、その社会環境は現在のサバンナヒヒのそれに似ていたと思われる。それらの初期人類―アウストラロピテクス―は、歩き方にかぎって言えば人類的だった。250万年前より前のある時期に―それを特定するのはまだ不可能である―大きな脳をもつ最初の人類が出現した。歯も変化した。これは、完全な菜食から肉を含む食事への移行に適応した結果であろう。
〔 1. 脳容量の増加 〕
最初期のホモ属に見られるこの二つの特徴―脳容量と歯の構造の変化―は、30年前にホモ・ハビリスの化石が初めて発見されてから明らかになった。われわれ現生人類は知能の重要性に目を奪われているせいか、人類学者たちは、ホモ・ハビリスの出現と同時に起こった脳容量の飛躍的な増加―450ccから600ccあまりに増加した―にひたすら注目してきた。たしかに、脳容量の増加は適応的進化の重要な要素として先史時代を新しい方向に導いた。しかし、それは一つの要因にすぎない。われわれの祖先の生物学的特性に関する新たな研究で明らかになっているように、ほかにも多くの要因が変化しており、われわれの祖先はそのために類人猿らしさを失って人類に近づいたのである。
〔 2. 無力な新生児の誕生 〕
ヒトの成長の最も重要な特徴の一つは、子供がまったく無力な状態で生まれてきて、長い幼児期を過ごすことである。さらに、子を持つ親なら知っているように、子供たちには成長加速期があり、またたくまに身長が伸びる。このような点でヒトは一風変わっている。類人猿を含む哺乳類のほとんどは、きわめて短期間で子供から大人に成長するのである。そして、成長加速期を迎えたヒトの子供は身体が25パーセントほど大きくなるが、チンパンジーは一定の速度で成長し、少年期から完全に成熟するまでの身長の伸びは14パーセントにすぎない。
ミシガン大学の生物学者パワー・ボギンは、成長過程のちがいについて革新的な解釈をしている。ヒトの子供の脳の成長速度は類人猿と同じだが、身体の成長速度は類人猿よりも遅い。つまり、ヒトの子供の身体は、通常の類人猿と同じ速度で成長した場合よりも小さいということである。このことの利点は、ヒトの子供が文化のルールを習得する場合に高度な学習を完了しなければならない事情と関係があるのではないか、とボギンは言っている。育ちざかりの子供が自分よりもずっと体格のよい大人の言うことをよく聞くのは、そこに生徒と教師の関係が成立するからである。かりに、幼い子供が類人猿のような成長過程をたどって大きくなれば、生徒と教師の関係が成立するどころか暴力沙汰が起こるだろう。学習の期間が終わると、子供の身体は成長加速期によって
「発育の遅れを取り戻す」のである。
3. 「社会性」の生物学的起源
ヒトは、生存のための技術だけでなく、習慣、社会道徳、親族関係、社会規範―すなわち文化―をひたむきに習得することによって人間になる。無力な乳児が保護され、幼少年期に教育がほどこされるこの社会環境は、類人猿の特性よりもはるかにヒトの特性に合っている。文化は人類の適応習性と言えるのであり、それは幼少年期と成熟期の独特の成長パターンによって実現するのである。
しかし、ヒトの新生児の無力な状態は、文化的な適応習性という点では、生物学的に必要とされる状態を下まわっている。ヒトの乳児は早すぎる時期に生まれてくるが、これは、大きな脳にたいする骨盤の構造的な制約のためである。生物学者のあいだでは最近、脳の大きさが知能以外にも影響をおよぼすことがわかってきた。 脳の大きさは、生活史要因と呼ばれる多くの事柄―離乳の年齢、性的成熟の年齢、妊娠期間、寿命など―と相互に関係している。大きな脳をもつ動物では、これらの要因が延長される傾向がある。小さい脳をもつ動物よりも、乳児の離乳期が遅く、性的な成熟が遅く、妊娠期間が長く、寿命が長いのである。他の霊長類との比較にもとづく単純な計算では、平均して1350ccの脳容量をもつホモ・サピエンスの妊娠期間は、実際の9ヵ月よりも長い21ヵ月になることがわかっている。その結果、ヒトの乳児は、1年分の成長を残した無力な状態で生まれてくるのである。
なぜ、こんなことが起こっているのだろうか?
自然界はなぜ、ヒトの乳児を時期尚早の誕生という危険にさらすのだろうか? その答は脳にある。類人猿の新生児の脳は平均200ccで、大人の類人猿の約半分であり、早い時期に急速に倍増する。これにたいして、ヒトの新生児の脳は大人の3分の1であり、やはり早い時期に急速に3倍の大きさに成長する。脳が早い時期に大人の大きさに成長するという点で、ヒトは類人猿に似ている。したがって、類人猿と同様に脳が2倍になるとすれば、ヒトの新生児の脳は675ccでなければならない。女性ならご存知のとおり、現代の標準サイズの脳をもつ赤ん坊でも産むのはかなり大変であり、生命の危険をともなうこともある。実際、骨盤の開口部は人類の進化を通じで大きくなり、脳容量の増加に適応した。しかし、開口部の拡大には限界があった―二足歩行の効率化という構造的な必要性によって生じた限界である。新生児の脳容量が現在の数値―385ccになったとき開口部の拡大は極限に達した。
進化という観点から見れば、ヒトは原則として、成人の脳が770ccを超えたところで類人猿的な成長パターンに別れを告げたと言うことができる。この数値を超えたときから、脳は誕生時の2倍以上に増加しなければならなくなったのであり、そのために乳児が「早すぎる時期」に無力な状態で生まれるパターンができあがったのだ。成人の平均的な脳容量が800ccであるホモ・ハビリスは、成長のパターンに関しては類人猿と人類の中間に位置するようだが、初期のホモ・エレクトゥスの脳容量―約900cc―は、かなりヒトに近くなっている。そうだとすれば、これはあくまでも「原則」論なのだが、ホモ・エレクトゥスの産道は現生人類と同じ大きさだったかもしれない。
実際、この点でホモ・エレクトウスがどれほどヒトに近かったかについまでも「原則」論なのだが、ホモ・エレクトウスの産道は現生人類と同じ大きさだったかもしれない。実際、この点でホモ・エレクトゥスがどれほどヒトに近かったかについては、トゥルカナ・ボーイ―1980年代半ばに、私が同僚たちとともにトゥルカナ湖西岸付近で発見した初期のホモ・エレクトゥスの骨格―の骨盤の測定値によって、さらに明らかになった。
〔 トゥルカナ・ボーイの計測 〕
ヒトの場合、骨盤開口部の大きさに男女差はほとんどない。したがって、われわれはトゥルカナ・ボーイの骨盤開口部を計測し、そこから彼の母親の産道の大きさを正確に予測したのである。友人であり同僚であるジョンズ・ホプキンズ大学の解剖学者アラン・ウォーカーは、ばらばらの状態で見つかった骨からこの少年の骨盤を復元した。そして、骨盤開口部を計測してホモ・サピエンスのそれより小さいことを確認し、ホモ・エレクトゥスの新生児の脳容量を、現生人類の新生児の脳容量をかなり下まわる275ccと推定した。
〔 ホモ・エレクトゥスの社会環境の芽生え 〕
これが何を意味するかは明らかだ。ホモ・エレクトゥスの子供は、現生人類と同様に大人の3分の1の脳をもって生まれ、現生人類と同様に無力な状態で生まれなければならなかった。親が幼児を手塩にかけるという現生人類の社会環境の一端はすでに、160万年ほど前に生存した初期のホモ・エレクトゥスのあいだに芽生えはじめていたと考えられるのである。 ホモ・ハビリスの骨盤はまだ発見されていないため、ホモ・エレクトゥスの直系の祖先であるハビリスについて同様の予測をすることはできない。しかし、かりにハビリスの子供がエレクトゥスの新生児と同じ大きさの脳をもって生まれたとすれば、彼らもまたエレクトゥスほどではないが「早すぎる時期」に生まれなければならず、生まれてからは、エレクトゥスほど長くはないが、無力な状態にあり、エレクトゥスほどではないが、人類的な社会環境を必要としただろう。それゆえ、ホモ属の系統はそもそもの初めから現生人類につながる道を歩いていたように見えるのだ。一方のアウストラロピテクス属の系統は、脳の大きさが類人猿なみであったため、類人猿に近いパターンにそって初期の進化をとげたと思われる。
乳児が無力な状態にある時期―親のゆきとどいた世話が必要とされる時期―が長いことは、すでに初期のホモ属の特性だったのであり、この事実は充分に立証されている。しかし、その後の少年期についてはどうだろうか?成長期に先だつこの時期が長くなり、実用的、文化的な技術を習得することが可能になったのはいつなのだろうか?
〔 化石人類の歯の分析 〕
現生人類の少年期が長いのは、類人猿にくらべて肉体的な成長が遅いためである。結果として、ヒトは歯の萌出などのさまざまな成長段階を類人猿よりも遅い時期に迎えることになる。たとえば、第一大臼歯が生えるのは、類人猿の3歳に対してヒトでは6歳ごろであり、第二大臼歯が生えるのは、類人猿の7歳に対してヒトでは11歳から12歳、第三大臼歯が生えるのは、類人猿の9歳に対してヒトでは18歳から20歳である。人類の先史時代のどのあたりで少年期が長くなったかという問いに答えるためには、顎の化石を観察して臼歯が生えた時期を決定する必要がある。
たとえば、トゥルカナ・ボーイは、ちょうど第二大臼歯が生えはじめたときに死んでいる。かりに、ホモ・エレクトゥスがヒト的なパターンにそってゆっくりと少年期の成長をとげていたとすれば、トゥルカナ・ボーイは11歳くらいのときに死んだことになる。しかし、この種が類人猿的な成長をとげていれば、彼は7歳だったことになる。1970年代初頭、ペンシルヴェニア大学のアラン・マンは、化石人類の歯をくわしく分析し、アウストラロピテクス属とホモ属のすべての人類はヒト的なパターンにそってゆっくりと少年期の成長をとげたと結論した。彼の研究は絶大な影響力をもち、アウストラロピテクス属を含むヒト科の人類のすべてが現生人類と同じパターンにそって成長したという従来の説を決定的なものにした。実際、トゥルカナ・ボーイの顎が発見され、そこに第二大臼歯が生えているのを見たとき、私が死亡年齢を11歳と考えたのは、彼がホモ・サピエンスと同類だった場合の歯の状態がそこに見られたからだった。同様に、アウストラロピテクス・アフリカヌスの一員であるタウング・ベビーは、第一大臼歯が生えはじめていることから、7歳で死亡したと考えられた。
しかし、1980年代末、これらの仮説は何人かの専門家の研究によってくつがえされた。ミシガン大学の人類学者ホリー・スミスは、第一大臼歯の生える年齢と脳容量を相関させることによって、化石人類の生活史のパターンを推理する方法を開発した。スミスはまず、人類と類人猿の資料を集めたあと、さまざまな人類の化石を観察して類似の程度を決定した。その結果、三つのパターンが浮かび上がった。第一大臼歯の萌出が6歳で寿命が66年という現生人類型、第一大臼歯の萌出が3歳強で寿命が40年という類人猿型、そして中間型である。後期のホモ・エレクトゥス―すなわち、80万年前よりあとの時代に生存した人類―は、ネアンデルタール人とともに現生人類型にあてはまったが、アウストラロピテクスはすべて類人猿型に分類された。トゥルカナ・ボーイのような初期のホモ・エレクトゥスは中間型だった。彼の第一大臼歯は4歳半すぎに生えたことになるし、こんなに早く死ななければ、52歳くらいまで生きられたことになる。
スミスの研究によれば、アウストラロピテクスの成長パターンは現生人類のそれとは似ておらず、類人猿に近かった。スミスはさらに、初期のホモ・エレクトゥスが、成長パターンに関しては現生人類と類人猿の中間に位置していたことを示した。したがって、トゥルカナ・ボーイは、私か最初に推測した11歳ではなく、9歳くらいのときに死亡したというのが現在の結論である。
これらの結論は、人類学者による30年来の仮説と矛盾するため、激しい論争をまきおこした。もちろん、スミスが誤りをおかしている可能性もあった。こうした状況ではつねに裏づけのための研究が望まれるが、この場合も対応は早かった。当時、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの解剖学者だったクリストファー・ディーンとティム・ブロメージは、歯の年齢を直接的に決定する方法を開発した。樹木の年齢を推定するときに使われる年輪と同様に、歯にも年齢を示す非常に細かい線がある。この推定方法は見た目ほど単純ではない―とりわけ、線のでき方がはっきりしないからだ。それでも、ディーンとブロメージはまず、歯の成長に関してタウング・ベビーと同程度のアウストラロピテクスの顎にこの方法を応用した。その結果、この個体は、第一大臼歯が生えはじめた3歳過ぎに死亡したことがわかった―これは、類人猿型の成長過程とぴったり符合する。
ディーンとブロメージは、その他のさまざまな化石人類の歯を調べるうちに、スミスと同様に三つの型を発見した。すなわち、現生人類型、類人猿型、中間型である。ここでも、アウストラロピテクスは明らかに類人猿型であり、後期のホキ・エレクトゥスとネアンデルタール人は現生人類型、初期のホモ・エレクトウスは中間型であった。この結論はふたたび物議をかもし、とりわけアウストラロピテクスの成長過程は人類型か類人猿型かをめぐる論争に火をつけた。
この論争は、ワシントン大学(セントルイス)の人類学者グレン・コンロイと臨床医学者マイケル・ヴァニアーが、医療用の先端技術を人類学の研究室にもちこんだことであっさりと決着した。彼らは、コンピュータによるX線断層撮影―三次元のCTスキャン―を用いて、化石化したタウング・ベビーの顎を透視し、ディーンとブロマージの結論が正しいことを確証したのだ。タウング・ベビーはもうすぐ3歳になるというときに死亡していた。この幼児は類人猿型の成長過程をたどっていたのである。
人類学にとって、生活史の要因と歯の発達の仕方を調べることによって化石から生物学的特性を推測できるという点がきわめて重要なのは、骨にたいして比喩的な意味での肉づけをすることが可能になるためである。たとえば、トゥルカナ・ボーイは4歳になる少し前に離乳しており、もし生きていれば14歳くらいで性的な成熟をとげていたと言える。彼の母親は、13歳で、9ヵ月の妊娠期間をへて最初の子供を産み、その後は3、4年おきに妊娠していた。このようなパターンからわかるとおり、初期のホモ・エレクトゥスが生存した時代に、アウストラロピテクスが類人猿の生物学的特性にとどまっていたのにたいして、人類の祖先はすでに類人猿の生物学的特性を離れて現生人類の生物学的特性に近づいていたのである。
4. ホモ属の社会性―文化を育む
現生人類の成長パターンへの移行というホモ属の人類の進化上の変化は、社会とのかかわりの中で生じたものである。すべての霊長類は社会的な動物だが、現生人類は最も高度な社会性を身につけている。初期のホモ属の歯から推理した生物学的特性の変化からは、社会的な相互作用がすでにさかんになりかけていたことと、文化を育む環境ができつつあったことがわかる。社会構造そのものが大きく変化したようにも見える。だが、なぜそんなことがわかるのだろうか? それは、人類の男女の体格差と、ヒヒやチンパンジーといった現代の霊長類のオスとメスの体格差との比較からもわかることなのだ。
すでに述べたとおり、サバンナヒヒのオスの身体はメスの2倍も大きい。霊長類学の分野では、交尾のチャンスをめぐるオス同士の激しい争いがある場合にこのような体格差が生じることがわかっている。ほとんどの霊長類と同様に、成熟したオスのヒヒは、自分が生まれた群れを出ていく。彼らは、別の群れ―しばしば近くの群れ―に加わり、そのときから、群れの中での地位をすでに確立しているオスだちと競合する。こんなふうにオスが別の群れに移動するため、ほとんどの群れのオスには血縁関係がないのがふつうである。そのため、彼らには、メスの獲得にさいして協力しあうダーウィン流の(すなわち遺伝学的な)必要性がない。
しかし、チンパンジーの場合、理由はよくわからないが、オスが自分の生まれた群れにとどまってメスが移動する。結果として、チンパンジーの群れの中のオスたちは、遺伝子の半分を共有する兄弟同士であればこそ、メスを獲得するさいにダーウィン流の必要性にもとづいて協力しあうことになる。彼らは協力して他の群れから自分の群れを守り、狩りのときには、逃げ遅れた不運なサルを樹上に追いつめようとしたりする。争いごとが比較的少なく、協力関係が発達しているこの状況は、オスとメスの体格差に反映されている。―オスはメスより15ないし20パーセント大きいだけなのである。
身体の大きさに関しては、アウストラロピテクスのオスはヒヒのパターンに当てはまる。したがって、アウストラロピテクスの社会生活は現代のヒヒのそれに似ていたと考えてさしつかえない。初期のホモ属の人類のオスとメスの体格を比較できたとき、われわれは、ある大きな変化が起こっていたことにすぐ気がついた。チンパンジーと同様に、オスの身体はメスより20パーセント大きいだけだったのである。ケンブリッジ大学の人類学者ロバート・フォーリーとフィリス・リーが主張したように、ホモ属の出現とともに始まったこの体格差の変化は、社会構造の変化をも如実に物語っている。初期のホモ属のオスが兄弟や異母兄弟とともに群れにとどまり、メスが他の群れに移動していたことはまずまちがいない。すでに述べたように、血縁者であればこそ、オス同士の協力関係は強まるのである。
社会構造のこのような移行をうながしたきっかけについては定かではないが、オス同士の協力関係が強化されることには大きな利益に通じる何らかの理由があったにちがいない。一部の人類学者は、近隣のホモ属の群れから自分の群れを守ることがきわめて重要になったと主張してきた。変化というものは十中八九、またはそれ以上に、経済的な必要性に集約されるからだ。ホモ属の人類の食料が変化したことを示す証拠もいくつかあがっている―肉が重要なエネルギー源およびタンパク源になったというのがその一つである。初期のホモ属の歯の構造が変化したことは、石器づくりの技術の向上と肉食の存在を裏づけている。さらに、ホモ属に特有の脳容量の増加によって、彼らはもっと豊かなエネルギー源を摂取する必要に迫られたはずである。
生物学者にとっては常識だが、脳は多くのエネルギーを必要とする臓器である。たとえば、現生人類の場合、脳は体重の2パーセントを占めるにすぎないが、エネルギー全体の20パーセントを消費している。霊長類はすべての哺乳類の中で最も脳が大きいが、人類はこの臓器を桁はずれに拡大してきた。人類の脳は、同じ体格の類人猿の脳の3倍である。チューリヒにある人類学研究所の人類学者ローベルト・マルティンは、エネルギー摂取量が増えなければこのような脳容量の増加は起こらなかったと指摘している。彼によれば、初期のホモ属の食事は、量的に充実していただけでなく、栄養にも富んでいたはずだという。肉にはカロリー源であるタンパク質と脂質が凝縮されている。多量の肉を食事に加えたからこそ、初期のホモ属はアウストラロピテクス属をしのぐ脳をつくる「余力」得たのである。
これらの理由から、私は、初期のホモ属が進化の過程で身につけた主な適応習性は肉食だったと考えている。初期のホモ属の人類が生きた獲物を狩っていたのか、他の動物が食べ残した腐肉をあさっていただけだったのか、あるいはその両方だったのかということは、次の章で取り上げるように、人類学界では論争の絶えない問題である。しかし、われわれの祖先の日常生活に肉食が重要な役割をはたしていたことはまちがいない、と私は思う。さらに、植物性の食物だけでなく肉を入手するという新しい生計の道は、社会的な秩序と協調をもかなり必要としたはずである。
生物の世界では、ある生物の生活パターンが根本から変化すると、あとから他の要素も変化することが多いと言われている。多くの場合、このような副次的な変化は、新たな食物への適応が進行するにつれて、その生物の解剖学的な構造におよんでいく。すでに考察したとおり、初期のホモ属の歯と顎の構造はアウストラロピテクス属のそれとは異なるが、それはホモ属が肉を含む食物に適応した結果だと考えられる。ごく最近、人類学者たちは、歯のちがいに加えて、ホモ属の人類がはるかに活動的な生物だった点でも、アウストラロピテクス属の人類とは異なっていたと考えるようになった。別個に行なわれた二つの研究から、初期のホモ属の人類が人類史上初のすぐれたランナーだったという同じ結論が導き出されたのである。
敏捷さをめぐるこの問題に一石を投じた第二の証拠は、レズリー・エイローによる身長と体重の研究からもたらされた。彼女は、現生人類と類人猿の身長、体重を計測し、人類の化石から収集した身長、体重のデータと比較した。現在の類人猿は身長のわりに体格がよく、同じ身長のヒトの2倍の体重をもつ。化石のデータにも一つの明確なパターン―今やおなじみになりつつあるパターン―があらわれた。すべてのアウストラロピテクス属は身体の構造が類人猿に近く、すべてのホモ属はヒトに近かったのである。エイローとシュミットの研究結果はどちらも、アウストラロピテクス属とホモ属では内耳の構造が異なるというフレッド・スプアーの発見と矛盾しなかった。つまり、二足歩行に強く傾倒するにつれて身体の構造も変化するということである。
前述のとおり、二足歩行はもともと、新しい自然環境での効率的な移動様式として発達し、二足歩行の類人猿である初期人類が従来の四足歩行の類人猿に適さない環境で生きのびることを可能にした。二足歩行の初期人類は、広い疎林に散在する食料源を物色しながら、より広範囲に移動することができた。やがて、ホモ属の出現にともなって、同じ二足歩行だが敏捷性と活動性に富む新しい移動様式が登場した。現生人類は、柔軟な身体のおかげで継続的な歩行運動をし、熱を効率的に放散させることができるが、それは初期のホモ属のように、樹木がまばらで気温が高い環境で活動する動物にとっては重要な能力である。効率的な二足歩行は、人類の適応習性の中枢をなす変化だった。そして、次の章で取り上げるように、この変化によって狩猟がかなりさかんになったこともたしかである。
ホモ・エレクトゥスは、アフリカ以外にも分布を広げた最初のホモ属の人類だったことから、非常に繁栄した種だったことがわかる。したがって、初期のホモ属の人類は急激に増加し、アウストラロピテクスたちの生存に必要な資源―食料―をねらう強力なライバルとなった。さらに、200万年前から100万年前にかけて、地上生活をするサル―ヒヒ―も環境にうまく適応して急増し、やはり食料をめぐってアウストラロピテクスたちと競争した。アウストラロピテクスたちは、ホモ属の人類とヒヒという二つの方向からしかけられた競争に敗れたのかもしれないのである。」
以上、『ヒトはいつから人間になったか』 抄録要約終わり
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→ 物神性の解読へ・特別報告Ⅱ スティーヴン・ミズン著 『心の先史時代』