<コラム5> 21世紀「歴史科学」到達点の研究
・・・ 島 泰三著 『 ヒ ト 』 異端のサルの一億年 ・・・
2016年8月25日、中央公論社から『ヒト』が刊行されました。
「私にとって「ヒトとは何か?」という問いは「人間とはどういうサルなのか?」という問いである。
20代の前半からほとんど半世紀の間、世界中でサルを見てきたけれど、常時二足で立って歩くサルはいない。 ましてや、毛皮を着ていないサルなどは存在しない。二足歩行する裸のヒトを、どのようなサルとして理解すればよいのか?
30代の後半からはマダガスカルに行くようになって、アイアイなどの原猿類に親しみ、 50代後半からは孫たちの観察をしてきて、「サル」、「ヒト」、「日本人」を常に意識するようになった。
ヒトについて考えるとき、私に利点があるとしたら、地球の直径に等しいほどの日本列島とマダガスカルの距離が、 ここ30年間の日常だという視座の自由さだろう。また、書斎だけでなく熱帯の密林の中で仰向けに寝て、
はるか樹冠のサルたちを70歳の今なお観察しつづけている視点の多様さも、ヒトの理解に役だっているのかもしれない。」 (「はしがき」より)
250ページのコンパクトな新書版形式ですが、数えきれないほどの「個性的」な自然人類学を構築しています。
特に、
(1) 1億6000万年前のゴンドワナ大陸から地球史をたどり、「霊長類」の分類を系統づけていること。
(2) 類人猿を第1世代からホモ・サピエンスに至る第4世代の2000万年史を描いていること。
(3) 気候と気温変動による生物相の転換など激変する環境のなかで、類人猿の進化過程を究明していること。
(4) ホモ・サピエンスの起原、裸のヒトとイヌの定住化・相互関係、言葉の起原など歴史始元を追求していること。
(5) ホモ・サピエンスの世界進出から日本列島史を概観して、縄文時代に至っていること。
など、新しい視点と「歴史を語ることの科学」を提供しています。
著者の島 泰三さんは、
1946年、山口県に生まれ。東京大学理学部人類学科を卒業、78年に(財)日本野生生物研究センターを設立。 国際協力事業団マダガスカル国派遣専門家(霊長類学指導)等を経て、アイアイ生息地の保護につとめています。
今回の紹介は、私たちの直接の先祖として、「第9章 最後の漁労採集民、日本人」から抄録をお届けします。
『ヒト』 異端のサルの一億年
第9章 最後の漁労採集民 日本人 (抄録)
目 次
1. イヌとの出会い
2. 言葉の起原
3. 日本人の起原
4. 朝鮮からつながる古日本半島の時代-15万年前まで
5. 新日本半島の時代-15万年前からAT噴火前後まで
<80万年前からの日本列島の地形の変化>
土器の発明が人類史を変えた文化革命であることには、誰しも納得するだろう。
しかし、15000年前に人類文化を根底から変えたもうひとつの要素が「イヌ」とはどういうことか?
1. イヌとの出会い
「イヌがどうした?」と軽く言ってもらっては困る。ホモ・サピエンスの生存は、イヌに支えられたといっても過言ではない。「人イヌに会う」という感動的な出会いのシーンを、K.ローレンツはアフリカを舞台に描いているが、事実はそうではない。東アジアこそイヌの起原地だった。イヌのニッチは、そのゲノムにオオカミにはないデンプンの消化能力が見つけられたときに明らかになった。それは人類史にとって、決定的な発見だった。イヌは、ヒトの食事の残りを消化できるからである。こうして、議論の多かったイヌの起原地とその年代が決定された。
イヌが家畜化された年代は1万5000年前、あるいは、1万6000年かそれ以前の時代の長江(ちょうこう)の南である。アフリカを出たホモ・サピエンスは約8万年前、イヌなしで孤独にアジアに至りついた。彼らは海岸線を回って東シナ海まで到達したグループと、川を伝ってアジア大陸の内部に進んだグループに大別される。川を遡ったホモ・サピエンスが高原地帯の冷涼を感じた場所、エーヤーワディ川の中流域、ミャンマーの内陸中心都市マンダレーあたりをホモ・サピエンスとイヌの最初の遭遇地点として考えておきたい。この想定には、シャン高原の雰囲気がことさら気に入ったという個人的な理由もあるが、そこがユーラシア大陸北方種のオオカミの辺縁であり、その一種だったイヌの生息地だったはずだからである。
オオカミはユーラシア大陸北部に分布する典型的なローラシア獣類の一種だから、スンダランドの海岸部に広がる熱帯雨林では、ホモ・サピエンスはオオカミ類に出会うことはない。シベリアオオカミに比べれば小柄なイヌは、10万年前にオオカミから東南アジアの高原で分岐したと想定される。大柄で優越するオオカミの分布の辺縁で、常に圧迫されていたイヌは、いわばホモ・サピエンスの到来を待っていたようなものだった。
西南アジアのレヴァント地方では、最初の定住のきざしは1万1000年前のナトゥフ文化のエイナン(アイン・マラハ)遺跡(イスラエル)である。そこでは直径7メートルの石造りの円形家屋が50戸も並ぶ町ができ、87体もの人骨か納められた墓が作られた。ガゼル、野生のヤギ、イノシシ、キツネ、ウサギ、ネズミ、鳥、魚、カメ、甲殻類、ムラサキイガイ、カタツムリを食べていた中石器時代のナトゥフ人は、この年代からは穀物や野菜を作る農業を始めたために、それがどれほど素朴な農業であったにしても、この規模の町を作るに至ったのだった。
しかし、ホモ・サピエンスがはじめて定住したのは、西南アジアではなく東南アジアだったし、それはナトゥフ人よりもはるかに早い時期だっただろう、と私は確信をもっていえる。なぜなら、東南アジアにはバナナ、サトウヤシ、サトウキビをはじめとして、ホモ・サピエンスの定住に適した植物がふんだんにあり、果実もまた多様多種だったし、なにより河川、湖沼、海岸の魚介類が豊富だった。温帯の海域と淡水域は熱帯海域のサンゴ礁に比べれば、ホモ・サピエンスが食べることのできる食物がはるかに豊かな水域であり、エーヤーワディ川中流域のシャン高原や東南アジアの河川沿いの高原地帯は、アフリカ大陸溝帯にあった標高1000メートル以上の高原の豊穣(ほうじょう)な湖沼群の再現だった。
アフリカのオモ川流域で19万年前にエイの尾にヒントを得た銛(すきもり)を作っていたほどのホモ・サピエンスならば、あふれるほどの東南アジアの魚を捕まえることに何の苦もなかっただろう。火を使うことのできたこの類人猿にとっては、東南アジアでは利用できる食物は無限にあった。
その東南アジアにおけるホモ・サピエンス初の定住生活の証拠こそ、家畜としてのイヌの出現である。その年代は、ナトゥフ文化よりも古く、1万5000年前(あるいはそれ以前)である。それが断言できるのは、家畜化されたイヌに残されたデンプン分解酵素の証拠があるからである。定住した人々の穀物や根菜類の残りや人糞(じんぷん)を食料としたからこそ、イヌはオオカミの持っていないデンプン分解能力を持ったのだった。
「イヌがどうした?」と言ってはいけない。イヌと抱きあって凍(い)てつく夜を過ごした者は、イヌこそは命の恩人だと知っている。子どもに飛びかかろうとしたヒョウを撃退したイヌは英雄として扱われて当然であり、熟睡していいた主人たちを起こして火災から救った犬は、永久に記録に残されるべきである。恩を忘れたのは、ホモ・サピエンスの側である。
しかし、イヌはホモ・サピエンスに対するその功利的な効用によってだけ貢献したわけではない。そこにはホモ・サピエンスが野生の類人猿から離れて、人間として歩みはじめる決定的な貢献がある。
2. 言葉の起原
言葉はどのようにして生まれただろうか?通説では、咽頭(いんとう)の位置が上昇して空気と食物がいっしょになる不利益な構造が「突然変異」によってできたが、そのために広い咽頭領域が生まれ、その広い咽頭領域を調節できたので、言葉が生まれたのだとされてきた。しかし、それでヒトの咽頭の解剖学的な構造の特徴を説明できたとしても、それを使って言葉を生み出すためには、それまでとは異なるコミュニケーションの必要性がなくてはならない。あらゆる類人猿が言葉によるコミュニケーションなしに生存できるのに対して、なぜホモ・サピエンスだけがそれを獲得したのかが問題である。言葉をホモ・サピエンスの起原と同じほど古いと考える従来の常識には、いくつもの問題がある。
ジュリアン・ジェインズは洞窟絵画が言葉の発達と同期していると考え、その年代を紀元前2万5000年前から1万5000年前と想定する。言葉の始まりをホモ・サピエンスの起原と同じように古く考える多くの言語学者たちと違って、ジュリアン・ジェインズは4万年前までは、呼び声とその語尾の強弱によって「近い」、「遠い」などを区別する修飾語だけを使った時代が続いたと想定している。次に呼びかけから命令する言葉が生まれ、名詞と文が作られるようになる。その年代を1万5000年前に置いているのである。
呼びかけと修飾語だけでなく、名詞までこの時代に作られたのはなぜか?それはイヌを家畜にしたためだと私は考える。
異種間のコミュニケーションには、身ぶり手ぶりとそれを補強する音声が必要になる。その好例をボノボの雄「カンジ」の言葉に見ることができる。「カンジはその場で自分のメッセージを伝えるのに必要なジェスチャーを発明したが、そのジェスチャーにはしばしば発生とレキシグラムも組み合わされていた。
レキシグラムとは物や動作に対応した記号を並べたもので、大型類人猿とのコミュニケーション用には、通常コンピューター画面上に表示され、その記号を正しい順番で押すと、研究者への要求などが間違いなく伝わるようになっている。このレキシグラムを印刷して野外に持ち歩き、チンパンジーたちがその必要な記号を示して意思疎通することもできる。
ここに、種間コミュニケーションのもっとも重要な秘密が隠されている。同種の場合のコミュニケーションには二重の確かめはいらない。
同じしぐさは、同じ心を示している。だが、別種の場合には、いつも二重の確かめが必要になる。ジェスチャーで示し、同時にほかの方法で、つまりは声を出すこと(またはレキシグラムなどのほかの表示手段)でコミュニケーションを確実にしなくてはならないのだ。そこに、発声の秘密がある。発声は、よく言われているように、ただ「直立したから」生まれたのではない。
異種間のコミュニケーションのためには、相手の声に近い声を出すことが必要になる。ボノボが人間に対して出す声が人間の声の波形に似ていたのは、そのためである。しかし、ホモ・サピエンスとイヌではその声は異なり、しかもボディ・ランゲージは体の構造がまったく異なるために難しかった。人間がイヌにしぐさとともに呼びかける声には、バラエティーが必要だった。
呼びかけと命令はごく近いものであり、音声命令はイヌと協同生活をするに至って飛躍的に増えた。命令は名詞となる。
しかし、その声の変容は、大人では難しい。
イヌはまず子どもたちといっしょに、その子犬時代を過ごす。成長期こそ、音声の変容が生まれる時期であり、遠吠え以外の音声を出さないオオカミの一種が、イヌとして家畜化されると警戒音や甘え声を出すようになったように、ホモ・サピエンスもまた、この異種といっしょに暮らすことで、さまざまな音声、ついには言葉に至るような声を使うようになったのではないだろうか。
オーストラリアのディンゴなど「古代タイプのイヌは吠えない」ので、彼らを猟犬として使う猟師は早く行き着かないとイヌに獲物を食べられてしまうという。イヌが吠えるのは、家畜化が進んでからである。つまり、ヒトも犬も相手に知らせる必要ができたので、声を出すようになる。野生では、必要なとき以外に声を出す理由はない。こうして、あまり声を出さない同士がいっしょになったのだが、それが子どもたちだったので、お互いが楽しくて楽しくて、声を出し合った結果が、今のヒトとイヌだ、と私は自分の子ども時代を懐古する。
イヌの警戒音「ワンワン」は、ヒトの「オーイ」という呼びかけ警戒の声をイヌなりにまねたのかもしれない。
ジュリアン・ジェインズはイヌを想定していないが、名詞はこのようにしてホモ・サピエンスの文化にくわえられ、言葉が作られていった。
それは苦難に満ちたホモ・サピエンスの歴史の中で、一時的にせよ、安心できる定住の時代だった。眠らないイヌがいるからこそ、ヒトは安心して眠ることができる。途上国の治安の悪い社会で暮らした者は、それを心から納得できるはずである。この安全無類の日本列島内で暮らしている日本人には、分からないだろうが。
その安心できる時代にこそ、人類最初の芸術としてヨーロッパやアフリカの洞窟絵画や縄文時代人の土器、土偶が生まれたとしても、何も不思議はない。
イヌの家畜化がなければ、ヒツジやヤギやウシやウマの牧畜もなかっただろう。シツジは一見無害で簡単に扱えるように見えるが、実は頑固で重く、その動きは予測がつかず、走ればヒトより速く、ときにはヒトにつっかかる手に負えない動物である。しかし、イヌがいればヒツジはまったく違う動物となる。それは、羊毛をまとった動く肉にすぎない。穀物や野菜の耕作地もまた、イヌがいれば野獣たちの侵入を効果的に防ぐことができる。現代の日本の野生鳥獣による被害の大半は、過疎化した農山村の高齢化とともに、イヌたちが鎖につながれて有効な反撃ができないためである。私は人生の半分を野獣の被害防止に費やしてきたので、この見解には重みがあると受け取ってもらいたい。
3. 日本人の起原
誰もが熱望する日本人の起原についての確かな研究は、旧石器捏造(ねつぞう)事件によって深刻な打撃を受けた。日本「考古学」など日本型学問への深い不信と侮蔑とは、そう簡単にはなくなりそうにない。その詐欺事件の嵐の中で、ひとりの石器学者だけが最初から石器捏造を看破していた。子どものころから石器を集め、明治大学で考古学を専攻し、パリ第六大学で博士号を取得した竹岡俊樹さんである。日本列島の旧石器時代の全貌と日本人の起原が明らかになろうとしているのは、彼の業績である。
彼なしには、日本人の起原は語ることができない。火山の土壌に埋められた人骨は、簡単に溶けさって、その跡形も残さない。古い時代の人骨として私たちが見ることができるのは、石灰岩の洞窟や貝塚に葬られたものだけである。1962年、大分県丹生(にゅう)台地でチョッパー(丸石である礫の一端の片面から剥片を打ち欠いて刃をつけた最古の石器)やチョッピング・ツール(礫の一端の両面を打ち欠いてさらに鋭い刃をつけた石器)などの礫を素材とした大型の石器類が採取された。
この遺跡は古代学協会が6年間もの長期にわたって発掘を行ったが、遺跡の発見者中村俊一さんが崖面から採取したチョッパー以外は、一時的な包含層、つまり石器が埋まったもともとの地層を突きとめられなかった。このチョッパーはミンデル・リス間氷期(40万年前)の砂礫(されき)層にあった人口品だった。
それはホモ・エレクトゥス類(竹岡はホモ・ハイデルベルゲンシスと想定)の時代であり、日本列島にはそれほど古くから人類がすみついていた証拠だった。
4. 朝鮮からつながる古日本半島の時代――15万年前まで
前期旧石器に遡る数10万年前の石器を出土する遺跡の数は少ないが、それでもそれはほぼ全国的に広がっている。そのなかに世界的にも特殊な技法(瀬戸内技法)で作られる石器(国府(こう)系ナイフ形石器)を特徴とするサヌカイト地帯の瀬戸内地方中心の「国府系文化」がある。この文化の起原は前期旧石器時代に遡るとみられ、ハンドアックスやクリーバーなどの大型石器類を特徴としている。しかし、2万6000年前の姶良(あいら)カルデラ大噴火による降灰の地層(AT降灰)以降は、日本列島では大型石器が見られなくなる。
ハンドアックスを特徴とする「前期旧石器に遡る可能性のある石器群」を含む石器文化は竹岡さんによって「グループA」と名づけられた文化タイプで、その遺跡は、岩手、福島、山形、長野、香川、長崎、熊本、宮崎など日本列島の各県に広く分布し、その年代は3万年前から13万年前、あるいはそれ以上前に遡る可能性がある。例えば、香川県の国分台(こくぶだい)遺跡第二地点、大分県丹生遺跡、愛知県加生沢(かせいざわ)遺跡はミンデル・リス間氷期(40万年前)からリス氷期(25万~12万年前)の可能性もあり、再調査が必要とされる。
この文化を担った人類は、ホモ・サピエンスではなかった。
5. 新日本半島の時代――15万年前からAT噴火(2万6000年前)前後まで
7万1000年前から始まる最大氷期には、海面低下のために日本列島の海岸線は広がり、沿海州、カラフトを経由してアジア大陸とつながる新日本半島を形成した。ホモ・サピエンスはアジア大陸を北方へ迂回して日本列島に入ることになった。この列島こそ、アフリカを12万年前に出発したホモ・サピエンスの長い旅の最終目的地だった。それは、2万4000年前に始まる最終氷河期の極大期の直前だったと想定される。
新日本半島の南部では暖流が海岸線を洗う魚介類の宝庫だったことは、現在の四国南伊予の海岸から推測しても疑いようもない。この地は、寒流と暖流が合わさる地点であり、ことに太平洋側はいくつもの海溝が岸近くまで入りこむ地形のために、強力な黒潮が深海のミネラルを沿岸部の表層に送りこみ、豊富なプランクトンを生み出す、世界でもっとも豊かな三つの漁場のひとつだった。
そこにまで至りついたホモ・サピエンスにとっては、楽園の扉が開かれたようなものだった。ホモ・サピエンスのほほえみは、この楽園の前で満開のときを迎える。
しかし、日本列島の位置は、四つのプレートが重なる焦点となっていて、火山噴火と地震と津波の巣窟である。火山灰のシラス台地など雨に軟弱な土壌が広く、火山地形の急峻な地形と相まって、また夏の長雨と台風と冬の豪雪という南北どちらの地域でも自然災害をもたらす要件には事欠かない大地でもあった。ごく最近の20年に足りない間にも、日本列島は三つの大地震を経験した。1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災、そして2016年の熊本大地震は、人ひとりが生涯に経験する天災としては、最大級のものだった。
日本列島に至りついたホモ・サピエンスたちの出会った災害もまた、個人が生きている間という短い時間を単位にしても、子孫に語り伝えるほど巨大なものがあったはずである。
日本の火山群は本州中央部を縦断する富士火山帯と乗鞍火山帯、本州北部から北海道にかけての那須・鳥海(ちょうかい)火山帯が実に印象的だが、九州から奄美群島に続く霧島火山帯および白山火山帯の噴火のなかには、世界最大規模のものがある。
火山灰が年代決定に使われている大きな火山爆発は、日本では五回ある。
(1) 11万2000~11万5000年前:洞爺湖(とうやこ)火山爆発。火山灰は北日本に広く分布している。
(2) 8万5000~9万年前:阿蘇(あそ)大噴火。噴出量6000立方キロメートル以上。スマトラ島のトバ噴火
(7万年前、噴出量2500~3000立方キロメートル)に次ぐ世界第二の大噴火である。
(3) 2万6000~2万9000年前:姶良カルデラ大噴火(AT噴火)噴出量450立方キロメートル以上。鹿児島湾の最奥部を作った、世界的にも10位以内にランクされる巨大噴火であり、この火山灰層が最終氷期の指標層である。
(4) 1万1000年前:桜島大噴火。最終氷河期の最大時に対応する。
(5) 7300年前:鬼界(きかい)アカホヤ大噴火。鹿児島の南、屋久島の北にある硫黄島・竹島を外輪とする
海底カルデラの噴火で、西日本に広く降灰が確認され、縄文時代早期末の社会に大きな影響を与えた。
天然の食料庫のような豊かさと天災の頻発する列島で、人々は島々に隔離され、急な河川にしきられた山岳地形のために、津々浦々、山村は岬ひとつ峠ひとつで風景はもちろん、そこにすむ人びとの顔かたちさえ異なるという、ホモ・サピエンスのなかでも独特な社会と文化を形成することになった。
<80万年前からの日本列島の地形の変化>
15万年前の日本列島は朝鮮半島と一体となっていて、北海道が二分して、北方との連絡は途切れている。北向きの古日本半島である。この地形なら、北京周辺のホモ・エレクトゥスは容易に日本列島に進出できただろう。いっぽう、1万年前までの東アジアは、氷河の発達によって海が後退し、最大では100mもの海面低下があり、東シナ海は広い陸地となり、日本列島は沿海州からカラフトを経由して南にのびる大きな半島になっていた。この時期、朝鮮海峡は開かれていたと考えられており、日本列島へのホモ・サピエンスの移住はカラフト経由で北方から始まったと考えられる。
・・・以上で、終わり・・・