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 商品生産の考古学   (第1回)


   
― 都市文明の源流と「価値形態論」の考古学研究 ー


  『資本論』第3節 価値形態または交換価値
 「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として生まれてくる。
  これが彼らの生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるんは、ひとえに、
  それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。
  したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、
  商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。」

     世界最古の文明が誕生した西アジア・メソポタミア文明と
   日本列島の黒曜石遺跡群の研究を通じて、商品生産の源流を探訪してゆきます。
   原始社会から古代社会へ人類がたどってきた道のりを振り返りながら、
   商品経済の成り立ちを探ってゆきます。
    『資本論』の価値形態を探り出す ― 考古学の旅へ出発です。

  


第1回 西アジアとメソポタミア文明の始まり


第1章 西アジアの多様な自然環境~ユーフラテス河とティグリス河
第2章 農耕と牧畜の始まり
第3章 商品生産の考古学
      都市文明の源流と「価値形態論」の考古学研究



   第2回 貨幣性商品の考古学
  
商品生産の考古学と古代貨幣商品の源流 
   
『資本論』 価値形態論の考古学研究



第1章 西アジアの多様な自然環境~ユーフラテス河とティグリス河

西アジアは、大きく4つに区分される。
Aアナトリアからザクロスまでの北方山系
B地中海沿岸から紅海に沿って南北にいたる地溝帯周辺台地
Cメソポタミア低地の内陸台地と平原、ユーフラテス河とティグリス河の両河地帯

 西アジアは、温暖な気候の地中海沿岸部から乾燥砂漠が広がる内陸部、さらに海抜5000mを超える高山地帯など多様な自然環境に囲まれている。これらにつれて自然の資源分布も多種多彩となり、旧石器時代から活発な資源の交易活動が展開された。

A地区は、北方山系ではトルコのポントス山脈からカスピ海南のアルボルズ山脈、アフガニスタンにいたる。これと並行してその南では、トルコ中央部のアナトリア高原とその南部のタウロス山脈、両河の上流北方地帯から東側のザグロス山脈へとつながり、最東部のイラン・カビール高原などの高原地帯が広がっている。
 この西アジア山岳地帯の自然は、西からの季節風によって、冬季には年間600mm以上の降水があり、ポントス山脈やタウロス、アルボルズ山脈などでは1500mmを超える。その大半は冬季の積雪によるものである。年間の平均気温は20度から30度であって、高山地帯では20度以下になる。
 また、山岳地帯では自然資源が豊富にあり、建築材としての石灰岩、アナトリアの黒曜石のほか、銅、鉄、鉛そして金の産地も知られている。森林地帯ではマツ、ナラ、カシそしてスギなど各種の木材が早くから遠隔地交易に利用された。

B地区は、地中海沿岸から紅海に沿って南北にいたる地溝帯周辺台地
死海地溝帯は、イスラエルの死海、ヨルダン渓谷、レバノン・ベッカ高原からトルコにいたる地方で構成される。初期人類の出アフリカの東アフリカに共通する亜熱帯植物など冬季の最低気温が10度前後もある地溝帯の自然環境は、旧石器時代の原始農耕に適していた。
 レバノン山など3000m級の山脈地帯では年間1500mmの雨量に恵まれ、レバノン山脈の良質のスギ資源の開発は古代西アジアの交易の中心地であった。また死海地溝帯地域一帯では100万年から50万年前の石器群遺跡が点在し、多様な石器変化が観察されている。

C地区は、アナトリア山脈に水源をもつティグリス・ユーフラテス両河川が北西から南東にかけて流れている。この両河川にはさまれた地域をメソポタミアという。長さ1100km、幅300km、面積35万k㎡にわたる広大な地域である。
 メソポタミアは、現在のバグダード付近を境にして南北にわけられる。北部はかつてのアッシリアを中心に、天水農耕地帯となっている。南部は両河とも流れが弱まり、かつてのバビロニア地域である。西アジアの内陸部として全般に降雨量が少ないが、両河地帯を囲むように西方から北方、東方にかけて弓形の山脈地帯は「肥沃な三日月地帯」と言われ天水降雨に必要な年間400mm以上の降雨がある。
 メソポタミア低地では肥沃な泥()とナツメヤシと石油地帯の特産である天然アスファルトなどの数少ない資源を有している。集落や都市化に必要な資材の大半は輸入に頼らざるをえない。


第2章 農耕と牧畜の始まり

第1節 前史
1.人類はアフリカに誕生し、その後、各大陸へ移住・拡散した。西アジアの考古学資料から、
西アジアに初めてヒトがやってきたのは、遅くとも150万年前のことである。それから約1万年前までの長い期間を「旧石器時代」と呼んでいる。
2.旧石器時代は、
(1)前期アシューリアン140年前~、1960~1974年イスラエルのウベイディヤ遺跡の発掘で、アフリカ・トゥルカナ湖畔のオルドヴァイ遺跡に類似の最初期の石器群。
(2)中間アシューリアン80~60万年前、1964~1977年シリアのラタムネ遺跡でフリントや石灰岩礫の石器群の発掘。出土動物骨にウマ、ゾウの大型ほ乳類がある。
(3)後期アシューリアン50~40万年前から始まる。道具の変化速度が増し石器のスタイルが明確化したことにより、細かい編年が可能となった。
(4)晩期・末期アシューリアン25万年~15万年に区分される。遺跡の分布から資源開発の領域が拡大していることが分かる。石刃系石器群と槍先につける尖頭器が多く出土した。
3.上部旧石器時代(西アジア・欧州の区分。ほぼ後期旧石器時代)と中部旧石器時代(中期旧石器時代)
 ・中部旧石器時代、イスラエルのタブン巨大洞窟で、3つの異なる石器群。ネアンデルタール人や原クロマニョン人の遺跡。
・上部旧石器時代、1930年代にユダヤ砂漠のエミレー洞窟で(エミレー)尖頭器を発見。ザクロス地域では、オーリナシアン石器群を発掘。

第2節 新石器時代 ~商品生産のあけぼの~
1. 定住へ ―― 続旧石器時代
 最終氷期は2万年前頃に最寒冷期を迎える。冷涼かつ乾燥した気候のもとで、幅1.2cm未満の石刃、細石刃で作られた細石器を用いられていた。前1800~12500年頃までのレヴァント地方の代表的な細石器インダストリーが、パレスチナのケバラ洞窟で出土している。
ところが、1991年に画期的な遺跡が発表された。死海の底から渇水のために発見されたイスラエルのオハロⅡ遺跡である。炭素測定によれば前17000年前頃で、長らく水没していたために、有機物の遺存状態が非常によかった。野生のオオムギやコムギ、30種類以上の果実、動物ではカゼル、シカ、トリ、キツネそして大量の魚の骨と一緒に繊維質のロープ断片が発見され、網漁が行われていたことが推測された。
このように、多彩な発掘現場から次第に定住的な狩猟採集生活へ人類が定着してゆくことが伺えてきた。

2.炭素年代法によれば、善11000年から8300年頃に、フリント石刃の石鎌の穀物収穫具や石皿、石鉢、石杵などの製粉具が発掘され、盛んに穀物生産が始まっていることが推察される。また、トルコ産の黒曜石が南レヴァント地方で発見され、材料の入手にあたっては広範囲の交易がおこなわれていたことが示唆される。
 こうして、定住性や資源の集約的利用、広範囲の交易など新石器文化の基礎となる諸要素が準備されていったものと考えれられる。

3.氷河期末の温暖化とともに、長かった旧石器時代も終わりを告げる。そして、1万年前頃、新石器時代が始まる。この頃、西アジアでは、定住村落という新しい集落システムと食料生産が、世界に先駆けて始まった。これらの生活様式は急速に進展して、西アジアの社会は本質的な変容を遂げる。
 第一は、新石器化はヨルダン渓谷を中心としたレヴァント地方で最も早く始まった。
第二は、植物栽培もそこで開始され各地にひろがった。第三は先土器新石器時代文化が北シリアで生まれ、狩猟と放牧や牧畜社会が開始されてゆく。第四は、画期的な土器の使用が始まった。
 天候に左右される植物栽培は、家畜技術の確立に伴う牧畜によって補完されて次第に安定的な集落が形成されていった。また、家畜を連れた移動では、アナトリア産の黒曜石やザグロス方面の石刃加工技術の流通など放牧・遊牧社会も次第に形成された。


第3節 農耕・牧畜社会の成立

 西アジアでは、前6000年頃までに、コムギ・オオムギの栽培とヤギ・ヒツジの牧畜に生業基盤をおく農耕・牧畜社会が成立した。時代は、それまでの採集狩猟生活に基盤をおいた社会から大きく転換し、やがて都市社会の出現にいたってゆくことになる。

1.土器の出現は、日本や東アジアの方が早く、10000年ほど前に煮炊き用土器として発明された。西アジアでは、8000年前頃に煮沸用ではなく、貯蔵用の土器として始まった。
粗製土器から焼成の良好な彩文土器へと発展するにつれて、土器を専用に焼くための窯・カマが出現し、土器生産の専業化がかなり進んでいると思われる。また、同じ遺跡からは銅冶金技術と思われるものが発見されている。

2.これら農耕・牧畜社会の成立は、決して安定的に定着したものではなく、むしろ不安定な食料生産に規定されたものとも考えられている。不安定な天水農耕による凶作年が何年も続く場合、その土地を捨てて移動した。彩文土器はその際に移動用貯蔵具として役立った。また、土器生産自体が、交易用として役立たせる物産として利用されていた。

3.南メソポタミア低地への移住
 これまでは、北メソポタミア地方の植物栽培や牧畜の始まりを観察したが、南メソポタミアではずっと遅れて数千年経過した紀元前5500年頃から農耕が始まった。特徴的な土器が発見されたウルに近いテル・アル・ウバイドの地名からウバイド文化と呼ばれている。天水農耕の雨量はきわめて少なく、人工的な灌漑を利用して、コムギ、オオムギを栽培していた。また、ヤギやヒツジ、ウシ、ブタの動物も飼育していた。ナツメヤシなど在地産の食料の開発も行われたが、人口増加に伴う建築資材の不足などを補うため、さまざまな物資を南メソポタミア以外の地域から搬入し続けなければならなかった。

4.南メソポタミアの地域性
 ①ウバイド文化の発展からウルク期と呼ばれる次の時代に世界最古の都市文明が起こってくる。西アジアの他地域の諸文化を圧倒して、ひとつのウルク的世界が形成されてゆく。この都市文明の出現こそが21世紀現代文明にまでつななる商品経済の大本が形成された時代であった。
 その第一に特徴は、南メソポタミアの自然環境にあった。ティグリス・ユーフラテスの2つの大河が形成する低地沖積平野は、バスラの北方で合流してアラビア湾(ペルシャ湾)に注いでいる。両河流域には山地や丘陵もなく、ひたすら平坦で広大な沖積地が広がっている。年間降雨量は100mm以下で、農耕はもとより日々の生活用水も河川に頼るしかない。灌漑水路の整備がいっさいの土台をまかなっている。
 ②人々はそうした厳しい条件の中で、河川とその周辺に生育する淡水魚やナツメヤシ、また氾濫平野でつくれるコムギやオオムギといった穀物類と、それを飼料とする家畜などに頼って生きてきた。
 この厳しい環境の中にあっても、この地域の特性は、穀物生産のずば抜けての生産性にあった。灌漑利用は、他地域の天水農耕に比べて単位面積当たりの収穫量が数倍から数十倍に達した。オオムギの収穫倍率は驚異的で、4000年前頃で70倍から30倍と算出されている。一粒まくと70粒から30粒収穫できたのである。(土壌の塩化によって収穫量は次第に減少していった。)
 ③これらの穀物資源と牧畜業によって、他地域との交易経済が賄われ都市文明への道筋が作られていった。考古学的遺物から、大規模に遠隔地交易が発達していたことがわかっている。銅をはじめとする金属類、装身具、円筒印象などの材料となったラピスラズリなどの貴石類、神殿など大型建築物用の木材などが大量に、しかも恒常的に持ち込まれていたがわかっている。さらに、農耕具や武器をつくる基本的な材料であったフリントや、主食のパンをつくるために必要な石臼の材料であった玄武岩、住居用の基礎石として用いた石灰岩といった、生活の基本中の基本ともいえる物資すらも外界からの搬入にたよっていたのである。
 ④一方で、旧石器時代以来北メソポタミア地方ではこうした基本的生活物資に恵まれ、さらに降雨量にも恵まれて、基本的に自給自足的な生計を営んできた世界であった。こうして人々の南メソポタミアへの移住の増加と集住化につれて、北メソポタミアとの交易が必須となり、またその条件も穀物資源の
確保によって与えられていたのである。

第3章 商品生産の考古学  ~都市文明の源流~

 私たちは、ここまで最新の考古学による成果を頼りに、100万年に及ぶ西アジアの人類史と古代史をめぐってきた。西アジアを舞台にした経済活動の集約地点として、都市文明が位置づけられることになった。都市文明とは、文字文明の始まりであり、貨幣性機能商品の出現である。数世紀にわたる考古学の蓄積により、文字の始まり自体が、経済活動によってひき起こされた文明・文化であったことが証明されてきた。そして貨幣性商品を歴史的・時代史的に確定することにより、原始・古代世界の商品生産の源流を追跡することが可能となる。私たちは、この研究分野を「商品生産の考古学」と名づけることにする。
『資本論』の価値形態論に対応する考古学の成立となる。


  第2回 貨幣性商品の考古学
  
商品生産の考古学と古代貨幣商品の源流 
   
『資本論』 価値形態論の考古学研究