資本論とキリスト教神学 商品の物神性
2016年
『資本論』のキリスト教神学と「商品の物神性」
★目次
(第3部 研究編 『資本論』のキリスト教神学)
1. 第1章 神学のよろこび
2. キリスト教神学
3. 神学と文化との対話
4. 神
5. 人格的な神
6. イエス
キリスト教神学と「商品の物神性」
7. 第2章 商品の物神性について
8. 商品の物神性の発展ー 交換過程
9. 第48章 三位一体の定式
キリスト教神学のガイドブックとして定評のある『神学のよろこび』
(アリスター・マクグラス著キリスト新聞社)から始めましょう。
神学とは何でしょう。この神学という言葉は、3世紀以来「神について語る」という意味でキリスト者が用いてきたものです。もし「神」という言葉が、違う宗教の伝統ではまったく違う意味を持つことを考えれば、「キリスト教神学」とは「神についてキリスト教的な仕方で語る」というような意味を持つことになります。・・・
なぜキリスト者は、イエス・キリストが「まことに神にしてまことに人」であると信じるのでしょう。あるいは、もう一つのなじみ深い例を挙げれば、単純に神を信じるというのに比べ、はるかに複雑に思えるのに、なぜ私たちは神が三位一体であること、つまり「三つの位格を持った一人〔誤解を招く表現になっているので注意〕の神」を信じようとするのでしょう。・・・
神は誰であり、どのような方かということについてキリスト者は、他とは区別される明白な考えを持っています。
この神についての考えは聖書の中に表現されています。キリスト教神学は、聖書について反省し、
その思想と主題を一緒の考え合わせていく思考過程であり、また同時に、ある思想について反省するそのようなプロセスの末にたどり着いた結論であると見なすこともできます。
2. 神学と文化との対話
キリスト教神学には、キリスト教の伝統の外にある知的財産を、神学的洞察を発展させる手段として有効に活用しようとする長い伝統があります。すなわち、哲学的な諸体系は神学的展開に刺激を与え、キリスト教の思想家と彼らを取り囲む文化との間に開かれるべき対話を可能とするのに、非常に有効な方法でありうるということです。
神学へのこうしてアプローチのうち最も重要な例と思われるものを二つ挙げれば、プラトン主義との対話とアリストテレス主義との対話があります。
新たな論争が13世紀、スコラ神学の黄金時代に始まりました。
中世の学者たちがアリストテレスを再発見したことで、物理学、哲学、倫理学を含む知的生活のあらゆる局面で有益な新しい財産が提供されたかに見えました。
トマス・アクィナスの大作『神学大全』がその例で、これは、今まで書かれた神学の最も偉大な著作の一つとして誰もが認めているものです。
3. 神
神はキリスト教神学の中心にいます。神とは誰かを明らかにするこのプロセスは、旧約聖書と新約聖書の両方に見られることです。旧約の預言者たちにとって、イスラエルが知り、礼拝してきたのは、イスラエルをエジプトから導き出し、約束の地へと導いた神です。新約においても、この考えが取り上げられ、さらに展開されているのが分かります。キリスト者は、アブラハムが信じた神と同じ神を信じています。この神はしかし、最終的にかつ完全にイエス・キリストにおいて明らかにされました。この意味でパウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と語っているのです。
イスラエルに語られたその同じ神が、
今や「御子によってわたしたちに語られました」と
明確に述べていることから始めています。この御子こそ、神の「完全な現われ」として認められるべき方です。この点は非常に重要です。というのは、いかにキリスト教的な神がキリストの人格と結びついているかをこれは実際に示しているからです。キリストを知ることがすなわち神を知ることなのです。
聖書は神について語るために多くの類比表現を用いています。
「主はわたしの羊飼い」です。神を羊飼いとするこのイメージは旧約聖書によく出てきます。
そして新約聖書では、イエスに言及する際にこのイメージが用いられます。イエスは「良い羊飼い」であると。神が羊飼いであるというイメージは、私たち自身についてもキリスト教的な観点から何かを語りかけています。私たちは神の牧場に憩う羊です。自分一人ではやってゆけず、まさに羊が生きてゆくために羊飼いに頼るように、神に依り頼むことを私たちは学ばなければなりません。
4. 人格的な神
神を「羊飼い」あるいは「父」として語ることは、神についてキリスト教的に考える際にもう一つの重要な主題へと私たちを導いてゆきます。すなわち、人格的な神という概念です。時代が下るにつれ、神学者も一般のキリスト教信者もみな同様に、神について人格的な用語で語ることをためらわなくなりました。たとえばキリスト教は、人格的な連想を強く呼び起こすように思える性質、たとえば愛や信頼性、目的といった一連の属性全体を神のものと見なしました。
初期のキリスト教神学者たちにとって「人格(person)」という言葉は、彼あるいは彼女の言葉や行動によってその人だと見られるように、一人の人間の個人性を表現しています。とりわけそこでは、社会的関係という考え方に強調点があります。
人格とは、社会的ドラマにおいて役割を演じ、他者と関わる存在のことです。
人格は、社会的な関係の網の目の中で果たすべき役目を持っています。
「個人性(individuality)」は社会的関係を含みませんが、
「人格性(personality)」は、関係の網の中で個人の果たす役割に関係しています。
それによってその人は、ほかの人と自分が違うことに気づきます。
したがって、「人格的な神」という考えによって表現された基本理念は、私たちがその方との関係の中に存在することのできる神ということになります。この方との関係は、私たちがほかの人間と持つことのできる関係になぞらえて考えることのできるものです。
5. イエス
キリスト教神学の最も基礎的な仕事の一つは、キリスト教信仰の中心におられる方、イエス・キリストとは誰であるのか、またその人格の意義は何かを明らかにすることです。「キリスト」あるいは「メシア」という称号は、新約聖書においてイエスを呼ぶのに広く使われています。これら二つの言葉は同じ考え方を表しています。前者はギリシャ語の訳語で、後者がヘブライ語です。ペトロがイエスを「あなたはキリスト、生ける神の子です」と認めた時、イエスを長い間待望されてきたメシアと同一視しているのです。現代の西洋人の読者はすぐに、「キリスト」をイエスの姓(家族名)だと思い込み、実はそれが称号で「キリストであるイエス」という意味だということを容易に見誤って〔誤解して〕しまいます。
新約聖書がイエスに言及する際に用いるさらに別の称号は「神の子」です。旧約聖書でこの言葉は、天使的あるいは超自然的な人物を指すのにたまに使われることがあります。旧約聖書のメシア預言的なテキストは、来るべきメシアを「神の子」と呼んでいます。神に対するイエスの関係についての新約聖書の理解は父―子関係という仕方で表現されますが、それには多くの形態があります。ヨハネ福音書には父―子関係が全面に染み渡っています。そこでは、父と子が意志と目的において一致していることが非常に強調されており、最初のキリスト者たちがイエスと神との関係をいかに密接なものとして理解していたかを示しています。
「イエス・キリストの人格についてキリスト教は、「受肉」という用語で議論されます。
「受肉」とはむずかしい言葉ですが、大切な言葉です。
それはラテン語の「肉」に由来し、イエス・キリストが神にして人であるという根本的なキリスト教信仰を要約し、明確に主張しています。受肉の考えは、キリストの秘儀についてのキリスト教的な反省のクライマックスです。イエス・キリストは神を啓示しておられるということ、彼は神を代理しているということ、神として、神に代わって語っており、また神として、神に代わって行動しているということ、それゆえ彼は神であるということ、受肉の考えは、こうしたことを承認することを意味します。」
■ さて、ここまでに『神学のよろこび』の中から5つを選んできました。1.キリスト教神学、2.神学と文化との対話、3.神、4.人格的な神、5.イエスです。キリスト教神学の輪郭とイメージが形成されてきました。これからが、いよいよ本題の検討に入ってゆくことになります。
『資本論』に導入されたキリスト教神学の中で、複雑にからみあって使用されている用語・概念が「父-子-聖霊」の神の位格・「三位一体論」です。
「三位一体論の根本的な土台は、新約聖書が証言している神の活動の一定の型(パターン) の中に見出すことができます。父はキリストにおいて聖霊を通して啓示されました。新約聖書において、父と子と聖霊の間には密接な関係があります。」(『神学のよろこび』)
私たちは3月HPにおいて、『資本論』のなかのキリスト教神学の中心課題である「ペルソナと三位一体」について詳細に跡づけてゆきたいと思います。ラテンキリスト教の原型を形作ったと言われるアウグスティヌス(5世紀)、中世スコラ神学を大成したトマス・アクィナス(13世紀)を中心にしながら、2000年の歴史(旧約聖書を交えれば3000年超)を歩んでゆきます。
さて、キリスト教神学のスケッチに続いて 『資本論』に登場するキリスト教神学について直接本文を見てみましょう。
同じく3月HPに詳細な検討を行ってゆく予定です。
第2章 商品の物神性について
1. 商品の物神的性格(Der Fetischcharakter der Ware)
マルクスは『資本論』第1章商品の最後、第4節に「商品の物神的性格とその秘密」を置いて、第1章の締めくくり総括的叙述を行っています。(第3節「価値形態または交換価値」に続いて、難解な箇所である。)
この 物神的性格Fetischcharakter について、次のような“解説”を行っています。
「一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると、商品はきわめてきむずかしい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。」
「商品形態とそれが表される労働生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。」
「したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。
ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝〔Fetischismus〕と名づける。
それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。」
2. 商品の物神性の発展
第2章 交換過程
「A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観がどうして固定していくかを追求した。
この外観は、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し、または貨幣形態に結晶するとともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。
媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な
化身 〔Inkarnation受肉:キリスト教用語で、神、イエス・キリストが
受肉して人間となること。神の人化〕 である。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動をとっているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為から独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿は、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとる
ということの中に現われるのである。
したがって、貨幣物神〔Goldfetisch〕の謎は、商品物神〔Warenfetisch〕の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。」
3. 商品世界の「宗教的世界の夢幻境」??
さて次に、「われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない」とありますので、 そこはどんな世界なのか―これを探究してみましょう。
1.「商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、 それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、 絶対にどうすることも出来ないものである。」
2.「このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、 人間自身の特定の社会関係であるにすぎない」
宗教的世界の夢幻境とは、1.と2.によれば、つぎのように解釈されます。
「商品世界の価値関係が存在し、人間同士の特定の社会関係においては、人間-物の関係が幻影的形態をとる」 事態を表している。 では、「人間―物」の特殊な関係・幻影的形態とは、何を表現しているのだろうか?
しかし言葉上でなんとか説明されても、 まだまだ不可解で、現実的に可視化することができていない。一体どのような事態をマルクスは想定しているのだろうか?
そのヒントと具体的理論像が、じつは『資本論』第3巻に登場している。 ― マルクスは第2巻、3巻を完成しないで、他界してしまった― 私たちは、エンゲルスの編集による第3巻をのぞいてみよう。
4. 『資本論』第3巻 第7篇諸収入とその諸源泉
第48章 三位一体の定式
表題の「三位一体」とは、キリスト教の中心的教義の一つ。神の神性として、「父と子(イエス・キリスト)と聖霊」の特有な「関係」を表している。神は「一つの実体、三つの位格(ペルソナ)」と表現される。この神学上の詳細説明は、4月号で行いますが、『資本論』のここでの議論で重要なことは、宗教的世界の「ペルソナ」のあり様について、一定の理解が求められることになります。
まずは、48章本文を見ましょう。
1. 「われわれは、すでに資本主義的生産様式の、また商品生産さえもの、もっとも単純な諸範疇のところで、すなわち、商品と貨幣のところで、富の素材的諸要素を、生産でその担い手とする社会的諸関係を、これらの物そのものの諸属性に転化し(商品)、またさらに明瞭に生産関係そのものを、一つの物に転化する(貨幣)神秘化的性質を確証した。
商品生産と貨幣流通とに達しているかぎり、すべての社会形態がこの逆倒に関与している。しかし、資本主義生産様式においては、そしてその支配的範疇をなし、その規定的生産関係をなす資本にあっては、この魔術にかけられ、逆倒された世界は、さらにはるかにより以上に発展する。」 p.1033
2. 「資本、土地、労働! しかし資本は物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的社会構造に属する生産関係であって、それが一つの物において表示され、そしてこの物に一つの特殊な社会的性格を与えるのである。
資本は、物資的は生産された生産手段の総和ではない。資本、それは資本に転化された生産手段で、生産手段それ自体が資本でないことは、金または銀それ自体が、貨幣でないのと同様である。資本は、社会の一定部分によって独占された生産手段であり、生きた労働力に対立して独立化された、この同じ労働力の生産物および活動諸条件であって、これらのものが、
この対立によって資本において人格〔ペルソナ〕化される〔im Kapital personifiziert werden〕のである。
資本は、独立的な諸力の転化された労働者の生産物、自己の生産者の支配者および買い手としての生産物であるのみではなく、・・・かくしてここに、われわれは、一つの歴史的に作り出された社会的生産過程の諸要因の一つの、一定の、一見きわめて神秘的な、社会的な形態をもつのである。」 p.1018
3. 「資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労働賃金、この価値および富一般の諸構成部分と、その諸源泉との関連としての経済的三位一体〔dieser okonomischen Trinitat〕において、資本主義生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、素材的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生は、完成されている。魔法にかけられた、逆倒された、逆立ちさせられた世界、そこではムッシュ・ル・カピタルとマダム・ル・テル〔資本氏と土地夫人〕が社会的諸人物〔soziale
Charaktere:社会的にある役割をもって擬人化された役柄〕として、また同時に直接に単なる物として、彼らの魔術を行う。この虚偽な外観と欺瞞、富の種々の社会的要素相互のこの独立化と骨化、この物の人格化と生産諸関係の物化 〔dies Personifizierung und Versachlichung der Produktionsverhaltnisse〕、この日常生活の宗教、これらのものを分解したことは、古典経済学の大きな功績である。」 p.1037
さあ、すこ~し、イメージが出来つつあるようです。マルクスの苦労がにじみ出ている読者へのメッセージ。
資本論ワールドでは、これから1年間を通じて読者と一緒にこのメッセ―の解読探検隊に挑戦してゆきます。
・・・以上で、終わり・・・
<目次>
1. 『資本論』 第3巻 第48章 三位一体の定式
2. 『資本論』のキリスト教神学と「商品の物神性」
3. ド・ブロスのフェティシズムと 『資本論』