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<コラム14>
   
アダム・スミス『諸国民の富』 解題 大内兵衛



  
3 学生および教授としてのスミス
                             
                   → 4 『道徳的感情の理論』
 
 スミスの先駆者ペティは大した官僚であった。スミスの批判者マルクスは貧乏な亡命者であった。スミスはこの真中にあって経済学の歴史の中間の輪であるが、その生活については、彼はよき時代の大学教授であり、ことに晩年は豊かな年金を与えられて静かな生活をした。それはアカデミックな、幸福な一生であった。
 スミスの生れたのはスコットランドの昔の首府エディンバラから北10マイルにあるカーコールディ(Kirkcaldy)というほそ長い港町である。スミスのころは塩や釘の小さなマニュファクチュアで繁盛していたが、いまはちょっとした新興の地方都市である。父はスコットランドの税関吏であったが早く死んだので、スミスは母の手一つに育った。母は地方の地主、名望家の出であり、その親戚には有名な軍人などもあった。彼女は宗教心の強い、家事に注意深い、そして美しい人であった。この母のおかげで、弱い子供であったスミスは病気にもめげず、旅芸人にさらわれるという危害からもまぬかれて、幸にも無事に育った。スミスはなぜか一生めとらなかった。失恋のためという説もあるけれども、それよりもこの母への孝養のためであったのかもしれない。
 この子は小学校のときからよくできる子であった、14歳のときにグラスゴウの伯父さんの家に遊学させられた。これはそこのカレッジで奨学金をもらえば、そのままオックスフォード大学にも行けるからであった。グラスゴウはいまは人口百数十万の大都市であるが、スミスの時代でもさかんな商港でとくに造船の町であった。それはアメリカをはじめ植民地との貿易がさかんであったからだ。そしてここの大学は15世紀以来の旧い大学であるがプロテスタントと海外商業の空気のもとに国教会的なイングランドの大学よりも進歩的であった。ことにこの時代には数学のシムスン(Simson, Robert)、道徳哲学のハッチソン(Hutcheson, Francis)というような人は世界的に有名な教授であった。
 スミスは後年この大学の総長に選ばれたが、そのあいさつのうちに、このハッチスンにとくに感謝を表し「忘れえぬハッチスン」とよんでいるが、スミスの理神論とそれの上に立つ学問に対する忠誠心はこの人によって教えこまれたのである。このハッチスンというのは後にベンタムによって一般化されたあの有名な「最大多数の最大幸福」という語の発明者であるが、このことが示すように、この人は一種の社会的な感情美論者であり、それが多感の少年スミスをつよく感動させたのである。そしてこの人はまた最も戦闘的なプロテスタントでもあった。これもつよくスミスの一生を決定した。
 ハッチスンに教えられて学問の道を歩むべく決心したスミスはやがてオックスフォード大学へと志した。17歳のスミスをのせた馬車がスコ″トランドからインクランドへ入ると、野はよく耕されており、都市の人口は多く、牛はよくふとっていた。イングランドは力に満ちていた。目ざすオックスフォードもさすがにその構は宏壮であったけれども、この大学の空気は『諸国民の富』の第5編第1章第3節第2項(本書1098ページ以下とくに1101ページ)においていみじくも描かれているように、宗教に従属する一種の強権団体であって、そこにはかつてべーコンが求めたような科学的精神と学問の自由に対する要求は見られなかった。全体としてそれは反動教授の巣窟であった。学生は給費をもらって外国から来ているスミスのような学生をけいべつさえした。しぜんスミスは憂鬱で、自室にこもって本ばかりよんでいた。彼は六年もここにいたのであるが、新しく得たものは政治や経済に関する新しい見解ではなく、むしろそれについての失望であった。ただそのおかげで彼は古典や外国語をよむ力だけは十分に養い得た。
 スミスがいかに博学であったか。それは、東京大学がもっている「スミス文庫」またはその目録を一見しただけでもわかる。オックスフォードのアカデミズムについて一つのエピソードだけをあげよう。当時オックスフォード大学はヒュームをもって危険な思想家とし、学生が彼の『人性論』をよむことを禁じていた。たまたまスミスがこの禁を犯したのでヒュームの本ほとりあげられ、スミスは譴責をうけた。
スミスにとってはヒュームはグラスゴウ以来心をゆるした親友であった。そしてこのとりあげられた本はこの著者がこの刊行のよろこびの記念にこの友に贈った献呈本であった。 1746年スミスは長い留学を終えて郷里カーゴールディに帰って来た。そしてそこでなおも静かに本をよんでいた。このときエディンバラで勢力のあった文学者ケイムズ卿ヘンリ・ホーム(Lord Kames)がここの大学で講義をする機会を作ってくれた。彼は文学と法学についての話をしたが、その講義が大変好評であった。それが縁となって1751年(ときに27歳)には、母校グラスゴウ大学から教授の声がかかった。彼はむろんよろこんでこれに応じ、それから13年、彼は、母とともにこの地にうつり住み、もっぱらこの大学のためにつくした。後年彼はこの時代を顧みて、「一生のうちでいちばん有用で幸福な時代であった」といっている。察するに何よりも尊敬する師ハッチスンの講座をうけついだことに彼はほこりを感じたらしく、しぜん講義にも熱心で学生にも人気があった。この時代のこういう彼については、いまはスコットの詳細な伝記的研究がある。このようにして彼はこの大学のすぐれて立派な教授であったが、それ以上に彼は大学の経営にも参加し学部長や副総長の任にもついた。ジェームズ・ワットがギルドの圧迫をうけてその計算器の製造が町の中ではできなかったのをあわれんで大学の構内でそれを作る自由を与えてやったのもスミスである。スミスはこのような大学人であったと同時に、彼はまた『エディンバラ評論』の編集にも当った。いなそれ以上に、彼は象牙の塔をぬけ出してこの街の有力者とも交わった。たとえば市長コクランの主宰する「経済クラブ」のメムバーでもあったし、さらにまた「文学会」のメムバーともなった。このようにスミスは忙しかったにもかかわらず、彼はなおしばしばエディンバラまで出かけてさかんにそこの思想家だちとも交わった。その思想家たちのうちにはさきにあげたケイムズ卿があり、アダム・ファーガスンがあり、ウィリアム・ロバートスンがあった。またむろんグラスゴウのジョン・ミラーもあった。そしてこの交遊のうちにこれらの人々の間に社会的な一種の歴史観ができあがった。これをスコットランド歴史学派の歴史観という。この歴史観はその前のホッブスや口ックが人間の性質を抽象的一般的に措定しようとしたのとちがって、たとえばヒュームであれば彼は社会は契約であるという説を拒否して、人間は相互の必要によって集合して生きている動物である、彼らが集合して社会を作るのは彼らは独立では生きる力がないからであるといった。このような歴史観にもとづいて社会には生活の法則があり、その法則が発展するところに社会の歴史があるとこの学派はいう。それがいわゆるスコットランド歴史学派であるが、スミスの『グラスゴウ講義』にははやくもこの説がのべられ、人間の生活方法も狩猟、牧畜、農耕、商業という風に進むでおり、その進化のうちに財産という制度ができた、そしてその財産の所有を財産をもたぬ貧しい人から守るのが国家であるという考が
のべられている。極めてぼんやりとしているが一種の経済史観である。そしてこれが後年における『諸国民の富』の原型である。

 要するにスミスは勤勉な学生であり、いい教授でもあった。そして彼にはいい母があった。そして多くのすぐれた学友をもった。彼はめぐまれた学才をもってこの学問の世界の栄養と空気を腹一杯につめこんでしかも消化不良などにはおちいらず、それを十分に咀嚼した。その栄養素を彼の頭の中で一つの体系にまでまとめあげてでき上った社会の新しい解釈、それが『諸国民の富』であったわけである。これを書いたのは一人のスコットランド人ではあるが、その作物は彼の住んだ時代、彼の住んだ社会の鏡であり、それを作り出したものはグラスゴウとくにその大学であった。

        
4. 『道徳的感情の理論』

 スミスのグラスゴウ大学の講義については、今日、ずいぶん詳しいことがわかるようになっている。ここで彼が担当した講座は「道徳哲学」といったが、非常に広いカヴァレジのもので、その第一部は神学、第二部は倫理学、第三部は法哲学、第四部は行政学となっていた。このような人文科学の綜合体のものを一つにまとめて講義をすることは、古典的な形而上学アカデミーの伝統であったけれども、スコットランド歴史学派の経験主義、実証主義のスミスにはこの体系は不便であった。すなわち講義の内容を現実社会の要求する具体的な知識とするように努力すればするほど、どの部分も内容がふくれあがった。右の講義のうちの第三部と第四部にあたるものを、後年キャナン教授が編集して出版してくれた。
『正義、警察、収入および軍備に関する講義』(1896年)である。この講義はいまの学科にあてはめれば法哲学、行政学、租税論、軍備論に当る。彼の主著『諸国民の富』は、この講義録に、すなわちスミスの道徳哲学講座の第3部第4部に相当するが、その量は、数十倍にふくれている上に、彼の思想もまた「富」を中心とする一つの体系となっている。そしてこの新しい体系のうちに右の講義案でいろいろの章節に分割されていたものが再分割されて新しい体系のうちに包括されている。すなわち彼の実証主義歴史主義は多くの社会分科を解体したとともにそれを新しい見地で統一したのである。その点はマルクスについてもその思想の源泉は、唯物史観と資本論(剰余価値説)と階級闘争の三つであるといわれるが、スミスにおいても彼特有の歴史観、彼特有の労働価値論、そして彼特有の政治的主張であるところの自由主義が三位一体をなしている。

 スミスの『諸国民の富』は右のような過程において一種の形而上学もしくは教義的「道徳哲学」からぬけ出して来たものであるが、いまここでスミス以後19世紀を通じて世界の大学においてもその哲学科その法科等の講座の分科独立の形を見るならば、その形が18世紀の半ばにおいてスミスが彼の講義の上で行った分科の跡と大同小異であることに気づくであろう。たとえば世界の諸大学で19世紀のはじめに財政学は行政法から分科独立した。たとえば経済学もまた後年国家学から分科して独立の科学となった。そしてこの流れを汲んで日本では多くの大学で経済学部が法学部から独立したのは大正8(1919)年であった。また日本学術会議、日本学士院において経済学が独立の部となったのは昭和20(1945)年であった。こういう歴史は、もちろんスミスがあらかじめ考えてくれたおかげではないが、ただ、社会の中にはこういう分科の必然である筋がある、さればこそ学科にもそういう進化があらわれたのであって、スミスがそのことに誰よりも早く気がついて、自らの担当の講座の上にそれを応用したということは、スミスの観察と思索との科学性と創意性を証するものとしていいであろう。そして、19世紀を通じて『諸国民の富』が世界的に社会科学の名著とうたわれ約100年後の自然科学の名著『種の起源』とその画期性を競うことになったのはやはり理由ある「自然の理」であったといってよい。

 スミスはその懸命の大著『諸国民の富』を起稿する前に、すなわち1759年に、『道徳的感情の理論』(The Theory of Moral Sentiments 日本では『道徳情操論』という訳が行われている)を書いている。これは右にのべたような社会的観点に立ってスミスが法律や租税や行政や軍備の問題を考えているうちに、そしてとくに目前にある交易を基礎とした市民社会のうちでこれらの事実を考えているうちに、
そこに存する人間と人間との関係なかんずく嫉妬や愛着や憐惘や敵愾や名誉やといったような感情の根拠は何か、その実体は何かという問題にぶち当ったのである。というのは人間はこういう感情によって動いているのが事実であるからであり、しかも通じていえば彼の行動は利己的であることに思い当らざるを得なかったからである。彼はこれをもって道徳の事実の認識とし、それを伝来の形而上学に代えようとした。
それがこの著作であった。この本の副題はこういっている、「人びとがふつうに、まず彼の隣人たちの行動や性格、のちに彼自身のそれについて、判断をくだす場合の諸原理、それの分析のための議論」と。見よ、問題は、彼らと自分との間に横たわっているでないか。それが双方の幸福の上にどういう結果をもつかが問われているでないか。これに答えてスミスはこういうふうにいう。すなわち神は人間に利己心を与え、人間はそれによって自分の幸福を求めるが、その利己のためには他人がなくてはならない、それどころか他人の幸福さえ必要である、その証拠には人間は他人の困苦を見たとき、それに対して憐れみを感ずる、この憐れみこそが人間の人間たる感情であって、それはまことに人間に本源的なもので、とくべつに温情の人でなくてはこんな感情をもたぬというようなものでない。
すなわち人間は利己的であるが、孤立的でない、それよりも人間は他人の運命に関心をもっている、この関心が同感(fellow feeling)と同情(sympathy)である。道徳の実体とはこれであると。これをもっと一般化してもっと通俗的にいいなおそう、人間には良心がある、それが社会的な作用をもつのだ、それだけの話である。
ただこういう道徳がひろく行われ、各人の良心を高めるためには一定の条件が社会に必要である。たとえば人々がその生産物を相互に交易するとしよう、だれでもがそれを勤勉に、倹約に、質素に、注意深くやらねばならぬことになればそういう社会には高い道徳が行われる。いうまでもなく、これはスミスが自ら見ていた市民社会の現実である。あるいはその何程かの美化であった。そしてこの美化も
またスミスにとっては現実の論理であった。すなわち彼は利己心と利他心が相互に制約的であるとともに相互に扶助的であることを多くの実例をもって示した。それが彼の倫理学の論理であった。いいかえれば人間相互の合意の評価にもとづく慾得ずくの報酬目当の交換(mercenary exchange)のうちに人間の道徳はあるのである。

 このようにして『道徳的感情の理論』は従来の道徳哲学の殼を破った、そしてそれは社会の存立と発達の条件の原理の書となった。市民社会のうちの資本主義的言動はいまやその道徳的説明をもった。後年においてウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」をもって資本主義発達の起動力を示したが、それとくらべてもスミスの方がむしろ一般的原理的であるといえないだろうか。
 後年においてマルクスはその「唯物史観」をもってそれぞれの時代の道徳をそれぞれの経済関係のあらわれであると説くのである。スミスの『道徳的感情の理論』がその先駆というのにはなお別に補充を必要とする要素があるであろうが、この『道徳的感情の理論』と彼の主著『諸国民の富』との照応、とくに後者をもって前者の続編としようとしたスミスの思想の体系の大きい綜合性はマルクスのそれの先駆であることは興味あることである。19世紀の末から20世紀のはじめにかけて、ドイツの学界にはこの関係について「アダム・スミス問題」というのがあった。彼らはスミスは道徳論において唯心論者でありつつ、経済論においては唯物論であったのでないかといったのであるが、それはもちろん誤解であった。
というのは『道徳的感情の理論』は理神論に立ってはいるが認識の方法は唯物論的で、自然にも社会にもそれぞれ物理的な支配原理があるとしている。たとえば、経済の世界において資本家、労働者、商人それぞれ自己の利益を主張すればそれが集まって巨大な「見えない手」(an invisible hand)となるとしているのは(『諸国民の富』第4編第2章、本書679ページ)まさにそれで、この原理はそのまま『道徳的感情の理論』においてものべられているのである(第4部第1章)。こういう点について今日はもはや疑問を投げるものは少い。
近ごろグラスゴウ大学のマッタフィー教授は『社会と個人』においてこの問題を詳しくのべている。

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