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『資本論』生誕150周年 アダム・スミスからマルクスへ 
  
<コラム14>
    アダム・スミス『諸国民の富』 解題 大内兵衛 (1969年)
    
   
     〔 『諸国民の富』と『資本論』について 〕

   資本論ワールド編集委員会
 
    はじめに
 『諸国民の富』の翻訳者である大内兵衛は、その解題のなかでスミスとマルクスの関係について大変興味深い一文を挿入しています。これまであまり注目されてはいませんが、『資本論』のルーツとも思える、意味深長な文脈となっています。
  「またマルクスも彼の経済学の全体系とくに『資本論』をあげてスミス批判をやっているといっていいが、とくに彼の『剰余価値学説史』においてはその真中の重要な部分(第1巻第3章、第4章)をこの『諸国民の富』の解剖にあて、これによりマルクスは彼の剰余価値説とスミスの労働価値説との異同、生産的労働と不生産的労働の区別についてスミス説の批評により彼の剰余価値論を展開している。このようにして、いわゆる近代経済学にしても、マルクス主義経済学にしても、その源泉にさかのぼってひろく深くその思想を展開するものはスミスにさかのぼらなくてはならないのである。」
 
 編集部では、マルクスによる「スミス批判」について以下のように焦点をしぼってゆきます。
 
(1) スミス「労働価値説」に対して、マルクスが行っている「価値概念」の変革
 
(2) 『資本論』第1章は、スミス経済学からマルクス経済学への継承・移行文脈であること
 
(3) 第1章第1節「使用価値の抽象・・・」は、継承・移行文脈の結束点
 こうした観点を念頭におきながら、以下「大内解題」から入門してゆきいたいと企画しました。そして、今後の「新着情報」に注目していただければ幸いです。
  なお、
諸国民の富抄録についてはこちらをクリックしてください。
 では、来年も資本論ワールドの探検旅行でお会いしましょう。(2017.12.25)



  『諸国民の富』 大内兵衛解題 目次
  1. はしがき
  2. 『諸国民の富』の背景
  3. 学生および教授としてのスミス
  4. 『道徳的感情の理論』
  5. 『諸国民の富』の著作
  6. 『諸国民の富』の構成
    第1篇 「労働の生産諸力における改善の諸原因について、また、その生産物が人民の
         さまざまの階級のあいだに自然に分配される秩序について」
    第2篇 「資材の性質、蓄積および用途について」
    第3篇 「さまざまの国民における富裕の進歩の差異について」
    第4篇 「政治経済学の諸体系について」
    第5篇 「主権者または国家の収入について」
  7. 『諸国民の富』の流布とその影響
  8. 日本における『諸国民の富』



  
1.  は し が き

 岩波文庫の『国富論』全5冊のその(1)が出版されたのは1940年9月太平洋戦争前であった。その最終分冊が出たのは1944年11月終戦前であった。1959年6月から右の文庫本は松川七郎君によって改訳がではじめ、1966年これが完結した。岩波書店はこのたびこの新しい方の文庫版を土台にしてそれに手をいれ上製の机上版を作ることになった。
 私は右の文庫の第1版第5分冊に「解題」を書き、それを色なおしをして改訳の本にも収めたが、もういちどそれを書きなおしてこの机上版に用立てようと思う。あまり長過ぎないで、しかもこの書をよむ心準備に役立つものを書いてみたい。
  『諸国民の富』はアダム・スミスAdam Smithの著『諸国民の富の性質と諸原因に関する一研究』 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations の略称で、これを『国富論』とよぶ人も多い。この本はわれわれが経済学とよんでいる社会科学をはじめて体系化した本でこの学の最大の古典である。すなわち、この本が出てからは以前からあったいろいろの経済思想の文献はもはや
断片的な歴史的な意義しかもたぬものとなってしまった。そこで、たとえばシュンペーターはこの本を『べッカリアの(刑法)講義』に比し、「これはあらゆる経済学の書物のうちで、いなおそらくはダーウィンの『種の起源』をのぞいて今日までに出版されたあらゆる科学のうちで最も成功した書物である」といっている。また
マルクスも彼の経済学の全体系とくに『資本論』をあげてスミス批判をやっているといっていいが、とくに彼の『剰余価値学説史』においてはその真中の重要な部分(第1巻第3章、第4章)をこの『諸国民の富』の解剖にあて、これによりマルクスは彼の剰余価値説とスミスの労働価値説との異同、生産的労働と不生産的労働の区別についてスミス説の批評により彼の剰余価値論を展開している。
このようにして、いわゆる近代経済学にしても、マルクス主義経済学にしても、その源泉にさかのぼってひろく深くその思想を展開するものはスミスにさかのぼらなくてはならないのである。スミスの研究においては日本ほどさかんな国はないという。これは日本にはスミスをテーマとした立派な学者の研究がいくつもあるということ、日本には「アダム・スミスの会」というその研究だけにささげられている学会があるということ、日本には『諸国民の富』の翻訳が5種も6種も行われていてその合計での出版部数が非常に多いことなどそういう事実をふまえた上での話である。
しかしそういえばマルクス研究においても日本は世界でならぶ国がないほどさかんだといわれる。が、大切なことは、本の出版部数でなくそういう本がどういう知的エネルギーとなっているかであり、この本をよもうと考えられる諸君にとっても、この本から吸収するものを、諸君が諸君の社会における動きにいかにかかわらせるかにある。この解説もまた諸君をそういう登山者と見たてて、山下道傍の道標でなくてはならぬ。


     
2. 『諸国民の富』の背景

 スミスは非常に博学でしかも勤勉な学者であった。1895年に出たレー『アダムースミス伝』はいまもなお権威を失わないが、それによると、彼は少年の時代からグラスゴウ大学に学びまたエディンバラの学界にも接し、ハッチスン、マンダヴィル、ファーガスン、ヒュームというような人に深く学んだようである。かれらは一般にいってイギリスの道徳的政治的自由のチャンピオンであったが、より具体的にはこの人々は当時のスコットランド特有の文化を体現していたといってよい。というのは当時スコットランドはすでに統一されたイギリスの一部を成し、しかもイギリスの外国貿易はとくにこの地方に集まっていた。
そういう関係からいわゆる商工業の財産が相当に大きくこの地方に蓄積されていての半面旧い封建的な社会関係はここでは急に崩壊していた。それを目の前において、この地方の大学の人々は社会における個人の位置についてきわめて進んだ意見をもつようになっていたのである。スミスはこういうスコットランドの大学の空気のうちに育った上にさらに後年フランスに留学して、ここでフィジオクラットの人々とも交り、そのうちに革命をはらむフランスの社会思想、経済思想の生身の体臭を知ったのである。要するにこの本は世界史的にいって革命の新機運をはらみつつ最も大きく激動していた時代において、いわばその文化の中心であった一つの都市のその大学の中で成形され、そのシムボルとなったといっていいのである。

 そこで、たとえば19世紀を通ずる経済学史のオーソリティーであった口ッシャーはこう書いている、
「イギリス経済学史上の真の黄金時代は1742年から1823年、すなわちヒュームの『論集』創刊からデヴィット・リカードウの死までであったように思われる、この文化の時代のその真中に立っているのがスミスである」と。またたとえば夏目漱石はその『文学評論』で、アディスン、スウィフト、ポープ、デフォーというような文人について語り、なお、これらの人々の哲学、政治、芸術、風俗、バー、クラブ、コーヒー・シヨップまでについても語っているが、これを文化ということばで総括するなら、彼らの文化はその前の時代に比べて全く面目を一新した生活の文化であった。そういう文化社会を彼らみずからは市民社会(civil society)とよんだ。そしてその文化を文明(civilization)とよんだ。本書の著者スミスは自らこういう市民社会のうちに文化的な「個人」(individual)として生活したのである。彼は個人として見聞もひろくそれが世界的で、その趣味も相当に高かったのである。そしてこの人は学問についてははるかに実証的精神に富み、自らの努力によりこの時代の特色を極めて的確につかんだ。
 たとえばこの時代を象徴する哲学者であったデヴィット・ヒュームはスミス終生の親友であった。彼はべーコン以来の経験論に立ち経験と観察とをもって人間学の基礎とし、従来の固定概念に立つ宗教哲学を排した。また彼は財産所有は社会的功利の立場から正義であるとさえした。またこの時代は政治においてもすでに民主化がすすみ、トーリー、ウィッグと称する政党なるものができて、それは各々特殊な社会的利害を公然と議会の内外で主張していた。このようにして主権者の権力はもちろん社会の中流や下層の階級の利害さえもが公然たる世の中の問題として論じられるようにたっていた。
たとえば、漱石は『ガリヴァーの旅行』をもって憂国の志士スウィフトの「赤くならぬ怒」の発散した文学であり、『ロビンソン・クルーソー』は新しい労働についての道徳文学であるといっているが、私も漱石をまねていうならば、
グラスゴウやエディンバラの当時のマニュファクトリー(手工業工場)で行われるマニュファクチュア(製造業)で作り上げられる「生活必需品や便益品」はまさに「国民の富」であった、そしてその「富の性質と原因に関する一研究」が生れねばならなかった。すなわちこの本の著者が目前に見ていたのはむろんスコットランドのマニュファクチュアであったが、それはすでに全世界の生産を支配しようとするものであった。すなわち彼はあけゆく新天地の洋の西岸に立って、そこに躍動している人間を彼の方法によって捉えたのである。そして彼らの動機と彼らの活動の効果とを一般的な理論として描き出したのである。いまはすでに亡い坂西由蔵博士は、スミスの時代と作品とを描いてこう定義した。「1723-1790年の67年というスミスの時代は西欧の経済生活にとっては大きい変化の時期であった。そして1776年に、アダム・スミスは一つの時代から他の時代へのうつり変りの分水嶺に立って一つの大きなモニュメントを打ち建てた。このモニュメントの表面には『経済自由主義』と書かれている。その台石は『技術的解放』である』と。ここに坂西が分水嶺といっているのは封建の末期マーカンティリズムの時代と近代自由主義の境界のことで、その前の時代では、中世的小都市がまだ分立していて、封鎖的な独占経済をもってヨーロッパを分割しており、その政治は絶対主義であった。

 スミスは、こういう経済のための政策であったマーカンティリズムの暴力的性質と不生産的性質を指摘しそれに対して個々人の自由な活動を主張し、マニュファクチュアのために、そこで働いている労働者のために、国の内外に市場をひらけといったのである。
このころ蒸気ポンプがスミスの友人ワットによってはじめて発明せられた。スミスはこれをマニュファクトリーのなかにおいてながめつつ、このポンプがふき上げる革命力を望見して、これを科学的な体系とし、それをまだ幼少であった生産力の主張としたのである。それがこの『諸国民の富』であったのだ。

     3. 学生および教授としてのスミス