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 ジェームズ・スチュアートの 「労働価値説」 について
  
     
マルクスと, 小林昇の解説


   ー 小林の解説は、マルクスの(?)常識的「労働価値説」からのまさしくそれらからの脱却だった


 ■ 目 次

 1. 『経済学批判』 A 商品分析の歴史
 2. 
ジェームズ・スチュアート 小林昇『国富論体系の成立』 第3章 交換価値の真の尺度
 



Ⅰ. 
『経済学批判』 A商品分析の歴史・・ブルジョア経済学の体系創始・・

 
1. 現実の有用労働と交換価値を生む労働との対立は、第18世紀の間、いかかる種類の現実の労働が
ブルジョア的富の源泉であるか、という問題の形で、ヨーロッパを動揺させた。だから、この場合使用価値に
実現される、いいかえれば生産物をつくり出す労働はすべて、ただこの理由だけで直接に富を創造するもので
はないということが、前提されていた。
2. だが、重農学派にとっては、その反対者達と同じように、中心の論争開題は、いかなる労働が価値をつくり
出すのかというより、いかなる労働が剰余価値をつくり出すのかということである。そのために彼等は、すべての
科学の歴史的進行が沢山の錯雑した道を通ってはじめてそのほんとうの出発点にくるように、問題をその基礎的な
形態で解く以前に、複雑な形で取扱っている。普通の建築師とちがって、学者たちは、空中楼閣を描いて見るだけ
でなく、建物の土台石をすえる前に、人の住む階層を一つ一つつくる。



3. われわれは、ここでは余り永く重農学派にとどまらないで、商品の正しい分析に、多少とも面白い思惟をよせてい
る沢山のイタリア経済学者をとび越えて、すぐブルジョア経済学の全体系をつくる仕事をした最初のブリテン人、
サー・ジェームズ・スチュアートに向うことにしよう。彼の場合も、経済学の抽象的範疇は、まだその素材的内容
から分離する過程にあって、そのために浮動的、動揺的であるが、交換価値の範疇についてもそういうことがいえる。
ある個所では彼は、真実価値が労働時間によって(一労働者が一日で作り上げうるものによって)定まるとしている。
 
4. しかし、これと並んで賃銀とか原料とかについて混乱した考えが表われている。他のある個所では、素材的内容
との格闘が、もっとはっきりと表われてくる。彼は、ある商品に含まれている自然的な物質、例えば銀編細工の中の
銀を、
商品の内的価値(intrinsic worth )と呼び、他方その商品に含まれている労働時間をその使用価値(useful value 〔注・ドイツ語:Gebrauchswert。なお、岩波文庫版スチュアート『経済学原理』では、「有用価値」と訳されている。と呼んでいる。

5. 彼はこんなことを言っている、
  「
第一の価値はいわばそれ自身現実的なものである。…これに反して使用価値は、内的価値を
  生産するために費された労働によって、秤量されなければならない。素材を変化させるために
  投下された労働は、ある男の時間の一部を表わしている。
・・・・・」


6. スチュアー卜が彼の先駆者や後継者に比べて傑出している点は、
交換価値に表われている特殊的に社会的な
労働と使用価値をつくるための現実の労働とを鋭く区別している
ことである。
彼はこういう、「
その譲り渡しによって一般的等価(universal equivalent)をつくり出す労働を、
私は産業(インダストリ)と名づける
」と。
産業としての労働を、彼は、現実的な労働と区別するだけでなく、労働の他の社会的形態とも区別している。
この労働は、彼によれば労働のブルジョア的形態であって、労働の古代の形態とも中世の形態ともちがっている。
殊に、彼の興味をひいたのは、
ブルジョア的労働と封建的労働の対立であって、彼はこの後者が没落の段階に
あることを、スコットランド自身でも、その広いヨーロッパ大陸旅行でも、見ていたのである。スチュアートは、もちろん
生産物が前ブルジョア時代においても、商品の形態をとり、商品が貨幣の形態をとることを極めてよく知っていた。
しかし彼は、富の原初的な基礎形態としての商品と取得の支配形態としての譲り渡しは、ブルジョア的生産時代に
特有のものであること、したがって、交換価値を生む労働の性格は、特殊的にブルジョア的なものである、
ということを詳細に証明している。


・・・以上、 A「商品分析の歴史」 ジェームズ・スチュアート項終わり・・・



 Ⅱ. ジェームズ・スチュアート 

   - 小林昇『国富論体系の成立』 第3章 交換価値の真の尺度


1. ステュアートの『原理』は、前章ですでに知ったように、近代社会の存立と展開とを支える自由な労働である
インダストリの概念を確立し、それが社会的剰余を生産すること、この剰余が「適当な等価物」の媒介によって
流通にみちびかれることか論じた。右の「適当な等価物」とはつまりは貨幣のことであり、それは「価値と呼ばれる
ものの普遍的尺度」(the universal measure of what is called value)であった。

こうして、インダストリの概念は交換価値の生産者という意味を、その不可欠な要素としてふくんでいたわけである。
そうして一方、『原理』の第1編においては、この交換価値の形成に自然が参加するという観念は示されていない。
しかしこの第1編では、インダストリの生産物が農業と工業との両生産部面のあいだで、つまりファーマーとフリー・
ハンズとのあいだで、彼らの「相互的欲望」(第1篇第5章p.109)を充足させるために交換されるばあい、そこに
どういう法則がはたらくかは、まだ論ぜられなかったし、農業生産における剰余の価値的表現であるレント
― 
生産費とファーマーの「利潤」とを差引いた残余の価値部分 ― がどのようにして生ずるかも、まだ説明され
なかった。ところが第2編にいたると、交換価値の分析が工業製品に即しておこなわれることとなり、その展開の
なかで、価値の形成において質料と労働とが協働するという不透明な思考が表現されるのである。
すなわち―
 『原理』 第2編第4章は、工業製品(manufacture)の価格の構成要素に対する分析、とくに生産費の分析 ―
わたくしはそれを次章で取扱う ― を、学史上はじめて詳細に、ただし「商品の価格はトレードによってどのように
決定されるか」という見地から、おこない、その結論として、生産費[原費](prime cost)と販売価格(selling price)とは
別のものであること、「前者は使用された時間、職人の費用、原料の価値に依存し、後者はこれらと譲渡利潤
(profit upon alienation)との合計である」ことを主張しつつ、混乱した文脈のなかでながら労働時間への着目を
示している。ところが、交換価値の形成における右の「時間」という要素は、おなじ第2編の、いわゆる「富のバランス」
(後述)を論ずる第26章にいたって、こんどは富の形成における質料という要素とからみあいつつ、つぎのような
役割を担うにいたるのである。

 
  [不滅性をもつ商品でなく]費消される商品(consumable commodity)…というばあいには、貨幣と土地と…
以外のあらゆる有形的な物(corporeal thing)がそれにふくまれる。ここでは二つのことが注意に値する。
第一は純粋な実体(simple substance)すなわち自然の産出物であり、第二は加工(modification)すなわち人間の
労働(work of man)である。
わたくしは第一のものを
内在的値うち(intrinsic worth)と呼び、第二のものを有用価値(useful value)と呼ぶこと
とする。第一のものの価値はつねに、それの受けた加工がまったく滅失したのちにおけるその有用性にょって
測られるべきであり、物の性質からこの両者が同時に費消されなくてはならないときには、総価値は両者の合計で
ある。第二のものの価値は、この商品をつくるのに要費した労働(labour)によって測られるべきである。
  例示すればこのことはよくわかるであろう。 / 絹とか羊毛とか麻とかの
製造品の内在的値うちはみな、それら
〔の原料〕が
当初に使用されたときの価値よりも小さい。なぜなら、それらはこの製造品の目的とする以外の用途に
はどれにもほとんど役立たないように加工されている
からである。…〔編集部注:「労働価値説」からの逸脱となる〕
   精巧につくられた一個の
銀の器にあっては、内在的値うちは完全に保たれ、しかもその有用価値から独立
している。なぜなら、それは加工によってすこしも失われないからである。それゆえ、
内在的価値(intrinsic value)は
つねにそれ自体なにほどか実体的なものであるが、加工にあたって用いられる労働は人間の時間の一部分を代表
するのであって、この時間は、有効に(usefully)用いられて、ある実体に、これを実用的になり装飾的になり ― つまり
人間に直接または間接に役立つように―変えるところの形式をあたえるものなのである。 


7. 『原理』における右の晦渋な規定のなかには、
インダストリ論から労働価値説が成立しようとして成立しえなかった
事情、すなわちそこに富の把握における「質料的内容との格闘」(Ringen mit dem stofflichen Inhalt)がなおおこなわれ
ていたという事情が、とくにはっきりと示されている。そうして『原理』にあっては、富におけるこのような「純粋な実体」の
観念は、諸商品はその不可滅性ないし「実体」性の大小に応じて富としての格付けをあたえられており・したがって
土地や貴金属は優越的な富である、という主張と、同一の章のなかでかたく結ばれているのであって、『原理』が
その体系のはじめに樹立したイソダズトリの概念―それは労働の近代的形態に対する、またそういうものとして
交換価値をつくる労働に対する、ステュア-トのきわめて有意義な把握を示すものであった―は、複雑な理論的曲折
ののちに、このようにしてまったく重金主義的な富の観念に収れんすることに終っているのである。

 上述のように、土地=富の観念と貴金属=富の観念とは、商品生産が十分に支配的でなかった社会では
並び存した観念であったから、ペティやロックにおける富の観念の曇りがステュアートにいたってかえって大きく
拡がり、それが労働価値説の成立を妨げたという事情を、われわれは『原理』に見ることができるであろう。
そうしてこれに対して、
商品生産が満開した「商業的社会」の概念を体系のはじめにすえて、富=商品が労働の
生産物でありその交換価値の真の尺度は支配労働量→投下労働量によって規定されるという命題を立て、
そこから理論的分析を開始しようとした、『国富論』の意識と意図とのもつ革新的意義は、右の事情を知ることに
よってはじめてはっきりと理解することができるであろう
。 『国富論』における労働価値説は、ペティや
『貨幣・公債利子論』の著者の労働価値説の命題の継承であるばかりでなく、同時に、それがあたえられている
体系的位置ならびに意義という点からいえば、
まさしくそれらからの脱却だったのであった。


・・・以上・・・