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       ジェームズ・スチュアート 『経済学原理』
  1767年

   
第19章 初期商業、外国貿易、国内商業と、

       
それらに影響するいくつかの原理との関連について

1. 地図にでている地方を旅行したのちに地図を点検すると、以前よりもその国の地理が頭にはいりやすいことは、私のつねに経験するところである。それは読者を書物に導きいれtうとする序文の多くが、その書物を読みおえたのちに読むと非常によく分かるのと同様である。私はこの貢い分を、私が主題の途中で分  配の章を読者に提示することへの弁明のことばとしたい。 私の意図はここで、種々な分野に区分されている商業の全領域を展望してみようというのだが、それはそれぞれの分野の支配原理を指摘するためであり、他のすべての原理はそれぞれの原理からかならず自然に流れでるか、またはやさしい推論で導きだされうるのである。私かこれらを読者のまえに提示するのは、私がしたのと同じ順序で、読者が自分の観念を配置できるようにするためである。そうなると私が使用せざるをえない用語は、それらによって私が伝えたいと思う組合せをいっそう適切に表現するものとなろう。

2. 私は商業を、初期的なもの、対外的なもの、および国内的なもの、に区分する。 第一に初期商業というのは、一般に受けとられている意味では、一国の住民の必要物を供給することをその目的とする種類のものと解してよい。なぜならそれはふつう他国人の欲望をみたすことに先行するものだからである。との種のものは、人類の欲望の増加に比例し、またもっぱら自分の創意によって生活資料を入手する人々の数に比例して、多かれ少なかれ程度の差はあるが、すべての時代、すべての国において知られているものである。
 この商業を適切に奨励してゆくうえで為政者の指針となる一般原理は、二つの目的に関連している。

 一、上層階級の富を彼らの欲望と意向に役だたせて、彼らの安楽と幸福を増進することである。
 二、下層階級の自然の能力を彼らの必要をみたす確実な手段にさせて、彼らの安楽と幸福を増進することである。 
 これは自由社会の観念を伝える。なぜならそれはすべてのサーヴィスにたいする現実的な
等価物(equivalent)の流通を意味するからである。この等価物をえるためには、人間はどんな辛い労働にもよろこんでしたがうのである。
 第一篇では、商業をいろいろな種類にわけて考察する必要はほとんどなかった。すなわち富者の富を勤労者の手中へ引きいれることによって、人類の増殖と農業の拡張とを促進する原理以外の原理の影響をうけるものとして、商業を考察する必要はなかったのである。この〔富者の富を勤労者の手中へ引きいれる〕活動は、それ以上さきへすすまなければ、初期商業を真に表現するものになる。

3. しかし私はいまやこの事態に新しい光をあてなければならない。そしてこの初期商業を対外商業の樹立の基礎として考察しなければならない。それ自身としてはそれ〔初期商業〕は、等価物をもつ人々の欲望をみたし、それをもたない人々にそれを供給する手段にすぎないのである。つぎにわれわれぱ、いかにしてそれが、為政者の留意によって、一つの社会を他の社会に優越する地位におく方法になるか、を検討しなければならない。すなわちどうすればそれが、一方では彼ら〔他の社会または隣接諸国民〕のもつこの
一般的等価物の量を減少させるとともに、他方では国内におけるそれの絶対量を増大させることによって、また全市民の欲望をみたすために必要なそれ〔一般的等価物〕の部分の流通を促進させるだけでなく、それの剰余をもって、他の諸国民をそのほとんどの政治経済的な活動のうえで自国に依存させるような仕方において、優越させることになるかである。

4. この初期商業を対外商業に発展させようと決意する為政者は、他国民が必要とするものを検討し、また自国の生産物を考察しなければならない。それから為政者はどんな種類の製造業が、前者を供給するのにもっとも適し、また後者を消費するのにもっとも適するかを決定しなければならない。為政者はそのような製造品を自国民に使用させるようにし、これらの新しい消費部門を奨励して、自国の人口と農業の拡大に努めなければならない。為政者は自国の人民にもっとも優秀な工匠を宛がい、あらゆる有益な機械を彼らに供給しなければならない。とりわけ、国内需要が十分でなくてそれを消費できないときは、彼らを仕事から解放しなければならないのである。

5. ある人民を製造業に熟達させるには、当然相当の時間を要するにちがいない。製造部門の数は多い。
どの部門も特殊な手先の器用さと、技術の基礎的な要点を教える特殊な工匠を必要とするのである。この技術の基礎がすでに導入されている国では、人々はこれが面倒なものである点に気づかない。そしてこの点に注意しなかったために多くの企画者が破滅してきたのである。
 比較的に単純な製造作業では、徒弟制度が用いられないで、めいめいがたがいに教えあう。新米はすでに腕の完成した大勢の連中のなかに入れられる。彼らがうける指導といえば、人がやっているのを見てそのとおりにやれということだけである。これは既設の工業が新規に着手された工業にたいしてもつ強みである。そしてある種の製造業(マニュファクチャ)がながく幼稚な状態にとどまったのち、数年のうちにおどろくべき発展をとげるのは、この理由からだと私は解する。為政者がこういう経過に関心をもたないとき、最初のうちどんな損失をまねかねばならないことか!
 またそのためどんなに多くの野心に燃えた天才が着手時の不成功に出鼻をくじかれたことか! もし為政者が外国製品の禁止によって臣民を援助するならば、この方法が莫大な利潤を増進する手段となるのをわれわれはなんとしばしば目撃するではないか?  なぜそうなるかといえば、彼は同時に、就業する人手を増やしてその製造業を拡張することを怠るからだ。ある王国がその門戸をとざし、外国との交流をゆるさないあいだは、大きな利潤は、あまり害にならず、また技巧と洗練とを促進する傾向がある点は私もみとめる。これは製造業の基礎をすえるきわめてすぐれた方法である。しかし技巧が十分に助長され、すぐれた工匠が豊富に供給されるようになるとすぐに、為政者は徒弟の数を増加すべきである。そして計画を実行にうつすために、新しい世代の者を、倹約にするようにまたきわめて低い利潤で満足するように、養成しなければならない。


6.  それゆえ、この第一の種類の商業において為政者が指針とすべき支配原理は、すべての部門の自然物産の製品化を奨励することである。その手段は、それらの国内消費をのばすことによってである。他国人とのすべての競争を排除することによってである。技巧を促進しまた発明や改善上の競争を促進するかぎり利潤の上昇をゆるすことによづてである。需要が不足するたびに勤労者を仕事から解放することによってである。またそれが有利に輸出できるようになるまでは、公衆の犠牲〔支出〕において、損をして輸出してもよい。出費をおしまずにすべての工業部門でもっとも有能な工匠を獲得し、また費用をおしむことなく事業を起こし、その企業を成功させるために必要なまたは有益な、機械やその他のあらゆるものを調えることである。各工業部門であげる利潤にたえず目を配ることである。そして製造品の真実価値がそれを輸出できるほど安くなってきたのが分かればすぐに、上述のように人手を就業させて(彼がさきに製造業を完成させる手段としてのみゆるしたこれらの利潤を終らせることである。
各種の製品の価格が輸出の水準まで引き下げられるに比例して、この種類の商業は、その本来の性格を失い、第二の種類の性格をおびることになる。


7. 第二に、外国貿易(Foreign trade)についてはすでに十分説明した。その支配原理は、奢侈を追放することである。倹約を奨励することである。できるだけ低い価格水準を決めることである。そして仕事と需要のバランスの振動を、最大の注意をもって、見まもることである。これが保持されているあいだは、どんな国内の弊害もそれの繁栄を妨げることはできない。そして他の国々の自然の利点が競争の核心をなしていて、他にこれを克服する方法がないときは、為政者は公金の重みと影響によって、これらの利点を相殺しなければならない。またこの方法も有効でなくなれば、外国貿易は終りをつげる。そしてその灰のなかから私が国内商業とよぶ第三の種類が出てくる。

8. 第三に国内商業(inland trade)の比較的に一般的な原理については、第1篇でおりにふれ考察し、また比較的に特殊なものについては本篇の第15章で仄かしておいた。しかし検討すべき未見の関係がなお多く残っていて、それが新しい原理を生むことになろうが、これらの原理はこの篇ののちの諸章で説明することにする。ここでは一般題目を指摘するにとどめておくが、それはこの第三種類の商業の特殊性を明らかにし、それを前の二者から区別する点に役だつだろう。
 国内商業は、ここに取りだしたものとしては、外国貿易がまったく消滅したさいにおこなわれるものと想定されている。
こういうばあいに為政者は、他の二種類のばあいと同様に、上述の等価物の流通によって、貧者に必要物を供給する仕方で、富者の欲望をみたすように注意しなければならない。しかし彼はさきには仕事と需要のバランスに監視の目をそそぐ必要があったように、こんどは消費者と製造者とのあいだ、すなわち富者と勤労者とのあいだの富のバランスの振動に、主として注意をはらわなければならない。この振動の効果については、第15章でてみじかに指摘しておいた。

9. 外国貿易の運営にあたっては、為政者の仕事はできるだけ低い価格の水準を打ちたて、利潤をできるだけ狭い範囲にかぎることであったが、いまは輸出の問題はないのだから、この配慮の目標はおおむね消滅する。また勤労者によってつくられる高い利潤は、けっきょく富のバランスをいっそう急速に彼らのがわに傾かせる以外の結果はうまないだろう。利潤が高くなればなるほど、勤労者はいよいよ急速に裕福になり、消費者はいよいよ急速に貧乏になって、外国との貿易上の交流をいっさい遮断することがますます必要になるだろう。
 国家のこういう政治状態から課税の原理が生まれてくる。それは、消費者と製造者とのあいだの富のバランスの振動にさいして、国家は前者の〔富の〕分散をすすめ、後者の利潤の配分にあずからなければならない、ということである。
われわれの主題のこの部門についてはここで先どりすることはしないで、この篇の残りの諸章で以下の点を十分に明らかにするだろう。すなわち国家の富が増大して、奢侈の風をうみ、外国貿易が停止するようになる。また価格の暴騰によって外国貿易の復活のすべての希望が失われるとすぐに、一方では政治を維持するため、他方では外国貿易を消滅させようとするあらゆる有害な効果を排して、それの復活の手段として役だたせるために、租税が必要になる、ということである。

10. こういった原理のてみじかな要約と説明によって、私のいわゆる初期商業、外国貿易、国内商業の三者のあいだに私が立てたいとねがった区別を、十分に読者に伝えたと思う。このような区別を頭にいれておくことが非常に必要である。
そしてこれらの区別を、一般的命題の限定のために、本研究の随所で適用するとよいのである。これら〔の限定〕は避けえないのであり、そういう制限をたえず繰りかえさないと、誤りにみちびかれるかもしれない、だがそんな繰りかえしは読者をうんざりさせ、おそらく枝葉拘泥と思わせ、また彼の注意をそらせるだろう。 
 ただひとことつけくわえたいのは、どこの国の商業でも、この三種類のうちどれか一つにかぎられていると考えてはならないという点である。私はそれぞれの異なった原理を指摘するために、習慣にしたがって、それらを別々に考察したのである。状況に応じてそれらを混和させることは為政者のしごとである。

 ・・・・第19章 終わり ・・・

   『経済学原理』 第2篇 商業と工業について 第1、3、4章
  
 『経済学原理』 第2篇 第26章 現代国家の臣民間の富のバランスの振動について