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資本論生誕150周年  『経済学批判』 から 『資本論』 へ

 2018資本論入門4月号-1  マルクス-エンゲルス宛ての“手紙”
 マルクスからエンゲルスへ 1858年4月2日


     
 資本論ワールド 編集部 まえがき  エンゲルス宛てのマルクスの手紙は、『経済学批判』の公刊(1859年)直前に書かれていますが、“価値概念”に関して大変興味深いものがあります。編集部では、この①“手紙”と②『経済学批判』A商品分析の歴史、そして③エンゲルスの書評 “『経済学批判』について”の相互関係を研究した結果、次のような問題に達しました。


 (1) 古典派経済学によって伝統的に継承され、アダム・スミスによって定説となった「労働価値説」や「価値概念」に対して、マルクスは、“価値概念の革命”を行っていること。この“革命”は、ドイツ哲学とくにヘーゲルが到達した弁証法による概念規定が土台となって行われていること。

 (2) ①“手紙”で明示されているように価値は、
 「(1) 価値。・・・使用価値は―主観的に労働のusefullness《有用性》として考察されるにせよ、または、客観的に生産物の utility《効用》として考察されるにせよ―ここではただ、さしあたりまったく経済的形態規定のそとにある、価値の素材的前提としてあらわれるにすぎない。価値としての価値は、労働そのもののほかになんの「素材」ももっていない」
このマルクスによる価値の規定「労働のほかになんの「素材」ももっていない」ーをどのように解釈すべきでしょうか?

 (3) また、「使用価値は経済的形態規定のそとにある、価値の素材的前提としてあらわれる」ーすなわち、「素材的前提」とは、一体どのように規定すべき内容でしょうか?
 
 資本論生誕150周年『経済学批判』 から 『資本論』 へ、私たちはいよいよ山頂に迫る佳境へと歩んできました。複雑迷路ではありますが、“価値概念の革命”探究の旅へ、ご一緒しましょう! 登山口は、①“手紙”から始まり、②『経済学批判』A商品分析の歴史、を展望して ③エンゲルスの“『経済学批判』について” を経ながらヘーゲル哲学の道標をめぐる企画書となります。
  探究の旅 
 『経済学批判』 A 商品分析の歴史

 エンゲルスの書評 “『経済学批判』について

 マルクス - エンゲルス宛ての手紙 -

 親愛なるフレデリック
 《……》 僕は、例のばかげた胆汁のためにひどく気分がわるいので、今週は、「トリビューン」への論説をsave《別にすれば》、考えることも、読むことも、書くことも、そのほかなにをすることもできない。この論説だけは、もちろんやめるわけにはいかない。できるだけはやくやつらあてにそれを振りださなければならないからだ。けれども病気というやつはいやなものだ、僕がよくなって、もう一度指先に vigour 《力》 と grasp 《なれ》を感じるようになるまでは、ドウンカーのために例のことの仕上げにとりかかることもできないのだから。
 Short outline of the first part《第1部の簡単な概略》はこうだ。みそもくそもひっくるめて、6部にわかれるはずである、すなわち、
 (1)資本について。(2)土地所有。(3)賃労働。(4)国家。(5)国際貿易。(6)世界市場。というのだ。

第1部・・資本は、4篇にわかれる。
(a) 資本 en général 《一般》(これが第1分冊の主題)。
(b) 競争つまり多くの資本の相互にたいする行動。
(c) 信用、ここでは資本は、個々の資本に対立して一般的要素としてあらわれる。
(d) 株式資本(共産主義に急変しつつある)、もっとも完成された形態であると同時にそのすべての矛盾をもったそれ。
 資本から土地所有への移行は、同時にまた歴史的でもある、というのは、土地所有の近代的形態は、封建的土地所有等々にたいする資本の作用の産物なのだから。同じように、土地所有の賃労働への移行も、単に弁証法的であるばかりでなく、歴史的でもある、というのは、近代的土地所有の最後の産物は賃労働を一般的に措定することであるが、そうなったときに、賃労働は、みそもくそもひっくるめたものの基礎としてあらわれるのだから。 Well (it is difficult for me to-day to write ), 《ところで(きょうは書くのが困難だ)》、Corpus delicti 《いまやっていること》にうつろう。
 第1部 資本、第1篇、資本一般。(この篇全体をつうじて、労賃はつねにその最低限にひとしいということが前提されている。労賃そのものの運動とこの最低限の騰落とは、賃労働の考察にふくまれる。さらに士地所有はゼロと仮定される、つまり、特定の経済的関係としての土地所有は、ここではまだ問題とならない。ただこういうゆきかたをすることによってのみ、あらゆる関係について、あらゆることをつねに論じなくてもすむようにすることができるわけだ。)
 (1) 価値。 純粋に労働量に還元される。労働の尺度としての時間。使用価値は―主観的に労働のusefullness《有用性》として考察されるにせよ、または、客観的に生産物の utility《効用》として考察されるにせよ―ここではただ、さしあたりまったく経済的形態規定のそとにある、価値の素材的前提としてあらわれるにすぎない。価値としての価値は、労働そのもののほかになんの「素材」ももっていない。価値のこういう規定は、ペティではじめて暗示的にあらわれ、リカアドでは純粋に仕上げられているのだが、ただブルジョア的富のもっとも抽象的な形態であるにすぎない。〔この規定は〕それ自身すでにつぎのことを前提している。(1)自然発生的な共産主義(インドなどの)の止揚。(2)交換が生産をその全範囲にわたっては支配していない、あらゆる未発達な前ブルジョア的生産様式の止揚。〔それは〕抽象ではあるが、まさに社会のある一定の経済的発展の基礎のうえでのみおこなわれることのできた歴史的抽象である。価値のこういう定義にむけられるすべての異論は、まだ未発達な生産諸関係からもちこまれたものであるか、さもなければ、価値が抽象されてきたもとの、したがって他方では価値がいっそう発展したものとしても考察されうる、具体的な経済的諸規定を、この抽象的な未発達な形態にある価値にたいして主張するという混乱にもとづくものである。この抽象が、ブルジョア的富のもっとあとであらわれる具体的な諸形態にたいしてどんな関係をもつかということを、経済学者諸君自身が、はっきり知らなかったのだから、こういう異論は plus ou moins 《多かれ少なかれ》もっともなことだった。
 価値の一般的性格と、ある一定の商品の素材的定在との矛盾等々から ― これらの一般的性格は、のちに貨幣の形であらわれるものと同じものである―貨幣のカテゴリーが生ずる。
 (2) 貨幣。
 貨幣関係の担い手としての貴金属に関する二、三のこと。
 (a) 尺度としての貨幣。
 スチュアート、アトウッド、アーカートにおける観念的尺度についての二、三の評註。労働貨幣の説教者たちのもとでは、それはかいわかりやすい形をとっている。(グレイ、ブレイ等々。ついでにプルードン主義者にたいする二、三の痛烈な批判。)貨幣に翻訳された商品の価値は、その価格であるが、この価格は、さしあたってはまだ、価値からはこのように単に形式的に区別されてあらわれるにすぎない。価値の一般的法則にしたがえば、このばあい、一定量の貨幣は、ただ一定量の対象化された労働を表現するにすぎない。貨幣が尺度であるかぎり、貨幣自身の価値の可変性はどうでもいいことである。

 (b) 交換手段としての貨幣または単純流通。
 ここでは、この流通そのものの単純な形態だけが考察されるはずである。流通をさらにたちいって規定しているすべての事情は、流通のそとにあり、したがってあとになってはじめて考察されるようになる。(もっと発展した諸関係を前提する。)商品をW、貨幣をGとするならば、単純流通は、なるほどふたつの円運動または三段論法、つまり、W-G-G-Wおよび G-W-W-G(この後者は(c)への過渡をなす)をしめしはするが、しかし出発点と復帰点とはけっして一致しない、あるいはまた、一致してもそれはただ偶然にすぎない。経済学者たちによっていわゆる法則としてうちたてられているものの多くは、貨幣流通を、それ自身の限界内で考察せずに、もっと高度の運動によって包摂されかつ規定されたものとして考察している。これらはすべて分離されなければならない。(一部分は信用論にぞくする、だが一部分はまた、貨幣がふたたびあらわれるが、もっとたちいった規定をうける諸点で、考察されるべきだ。) だからここでは、流通手段としての貨幣(鋳貨)が、考察されなければならない。しかし同時にまた、価格を実現するもの(単に一時的なものではない)としてもまた、考察されるべきである。商品は、価格として措定されると、現実に貨幣と交換されるまえに、すでに観念的には貨幣と交換されている、という簡単な規定から、流通する媒介物の総量は、価格によって規定されるのであって、その逆ではない、という重要な経済法則が、自然に生じてくる。(ここで、この点についての論争に関する二、三の歴史的なことをのべる。)さらに、速度は分量をおぎなうことができるということ、だが同時におこなわれる交換行為にとっては、それ自身がたがいにプラスとマイナスの関係にないかぎり、ある一定の分量が必要だということ、が生じてくる、だがこういう相殺や顧慮は、この箇所では、ただ、あらかじめのべておくという意味でふれられるにすぎないものである。僕は、ここでは、この節のこれ以上の展開にはたちいるまい。ただ注意しておきたいのは、W-G と G-Wとの分離は、恐慌の可能性が表現されるばあいのもっとも抽象的でもっとも表面的な形態だ、ということである。流通しつつある〔貨幣の〕分量は価格によって規定されるという法則の展開から生じてくることは、ここでは、けっしてあらゆる社会状態にとって実在するわけではないような諸前提がもうけられているのだ、ということである、だとえば、アジアからローマへの貨幣の流入とローマの価格への影響とを、tout bonnement 《まったく無邪気に》、近代的商業関係と同列におくことは、ばかばかしいことだということになる。もっとも抽象的な諸規定でも、さらにくわしく研究すれば、つねにいっそう具体的な一定の歴史的土台を指示するものである。(これは of course 《あたりまえのこと》だ、なぜならば、抽象的な諸規定は、歴史的土台から、この規定性において抽象されたものだから。)
 (c) 貨幣としての貨幣。
 これは G-W-W-G という形態の発展である。流通にたいして独立した価値の定在としての貨幣、抽象的富の物質的定在としての貨幣。これは、貨幣が単に流通手段としてだけでなく、価格を実現するものとしてあらわれるかぎりでは、すでに流通のうちにあらわれている。この(c)の属性では、(a)と(b)とはただその機能としてあらわれるにすぎないが、そこでは、貨幣は契約上の一般的商品(ここでは貨幣の価値、労働時間によって規定された価値の可変性が重要となる)であり、hoarding 《蓄蔵》の対象である。(この機能は、アジアではいまでもなお重要なものとしてあらわれる、また古代世界と中世では generally 《一般的に》、そうである。こんにちでは銀行制度のうちに従属して実在するにすぎない。恐慌のときには貨幣の重要性が、ふたたびこの形態をとってあらわれる。この形態で考察された貨幣、ならびに、それがうみだす世界史的な Delusions 《妄想》等々。破壊的な属性など。) 価値が登場するさいにとるであろうより高度なすべての形態の実現として〔の貨幣〕、いっさいの価値関係が自己を外部的に完結する終局的形態〔としての貨幣〕。けれども、この形態に固定された貨幣は、経済的関係であることをやめる、そしてこの形態は、その物質的な拍い手である金銀のうちに消えうせる。他方では、貨幣が流通にはいりこんでふたたびWと交換されるかぎり、最終過程である商品の消費は、ふたたび経済的関係のそとに脱落する。単純な貨幣流通は、それ自身のうちに自己再生産の原理をもっていない、そこでそれは、自分をこえてゆけというのである。貨幣においては、―その諸規定の展開が示すように、― 流通にはいりこんでそのなかで自分を保ちながら、同時に流通そのものをうみだしつつある価値―資本―を呼びだすことが措定されている。この移行は同時に歴史的でもある。資本の洪水以前の形態は商業資本であるが、この商業資本はたえず貨幣を発展させる。それと同時に現実の資本は、貨幣から、または生産を支配する商人資本から、発生する。
 (d) それ自身として考察されたこの単純流通は、―それはブルジョア社会の表面であって、そこではこれの起源となったより深い諸操作は消えうせてしまっているのだが、―交換の主体のあいだに、ただ形式的、一時的にすぎない区別をのぞけば、なんらの区別をも示さない。これこそ、自由、平等、ならびに「労働」にもとづく所有の王国である。ここで hoarding 《蓄蔵》の形態であらわれる蓄積は、そこでは、ただ大きい節約であるにすぎない等々。そこで一方では、より発達した生産諸関係とそれらの敵対作用とにたいして、このもっとも表面的でもっとも抽象的な状態を、それらの真理だと主張しようとする経済的調和論者や近代的freetrader《自由貿易論者》(バスティア、ケアリ等々)のばかばかしさ。また、こうした等価物(または as such《こういうものと》仮定されたもの)の交換に対応する平等その他の理念に、この交換の帰着点であり出発点である不平等その他を対置しようとするプルードン主義者やそれに近い社会主義者どものばかばかしさ。この領域における占有の法則として、労働による取得、等価物の交換があらわれ、その結果、交換は、ただ同じ価値をほかの物質でかえすということにすぎなくなる。要するに、ここでは、すべてのものは、いわば「美しい」が、しかし同時に恐怖をもっておわりをつげるであろう、しかも等価の法則の結果として。つまり、われわれは、いまや資本〔を論ずるところ〕に到達するわけである。
 * 〔原文は、”scheene” schön(美しい)とscheel(やぶにらみの)とを合して、マルクスがこしらえた言葉。―翻訳者注〕
 (3) 資本。
 これは、本来、この第一分冊の重要なところであって、それについては、もっとたくさん君の意見をきかなければならない。けれども、今日はもう書きつづけていくことができない。胆汁が出て、ペンをはこぶのが大儀だし、紙のうえに頭をかしげているとめまいがする。そこで for next time 《このつぎにしよう》。
  さよなら                           君の K・M・