オパーリン 「
生命の起原 1956年 岩波新書



このとき、次のような疑問が浮んできます。ともかく、人間はさらに下等な哺乳類から、哺乳類は爬虫類
から、爬虫類は両生類から、両生類は魚類から、魚類は下等な海棲の蠕虫から、できたとしましょう。い
や、それはみなその通りだったとしましょう。そして、このことは、地殻に保存されてきた化石で証明さ
れるとしましょう。だがしかし、そもそもの最初の、もっとも下等な生物は、つまり今日のすべての生物
の祖先は、どのようにしてできてきたのでしょうか。



この問題にたいしては、ダーウィン自身も答えをだすことをためらいました。彼の手紙からわかるように
、彼はその時代の科学が与え得る資料ではこの問題を科学的に解決することはできないと考え、意識的に
この問題の解決を避けました。しかし、私たちの時代の天文学、地質学、化学、生物学などの自然科学の
知識水準は、生命の起原の問題を科学的に解決できるほど大きく発展しています。



ちょうど人類がもっとも下等な生物からながい進化の途をたどってできてきたように、もっとも下等な生
物もまた物質がながい間かかってだんだんに進化してできてきたのです。私たちは、今ではこの物質進化
のようすを理論的に画きだせるだけでなく、そのある段階を私たちの実験室で再現することができます。
このことは、生命発生にいたる過程が科学的に研究できるものであることを示しています。



まず第一の段階は有機化合物の生成であります。有機化合物の骨格となるのは炭素原子であります。では
どのようにして、無機化合物から有機化合物への転化がおきたのでしょうか。この転化は生命の発生のた
めには、必ずおこらねばならなかったし、生命の起原の歴史の第一段階をなしています。



第二の段階は蛋白質の生成であります。蛋白質はもっとも複雑な有機化合物であり、物質がその化学的進
化のなかで達しえた最高峯です。しかも蛋白質はすべての生物にとって是非なくてはならない物質なので
す。したがって、もっとも簡単な有機化合物から蛋白質ができる過程はこの歴史における重要な第二の段
階となります。しかし、生命ができるためには蛋白質ができるだけでは不十分です。
生命にとってもっとも特徴的なことは物質代謝であります。すなわち、生物が生きているということは、
外界との間に物質およびエネルギーのだしいれをおこなっている間だけのことなのです。


この物質代謝と云う機構が現われたことは私たちの歴史における第三の決定的な段階をなしています。
なぜならば、物質代謝の発生によって、生命も発生したと云えるからであります。



アメリカの学者ミラーの報告によると、彼は私の提案した方法で実験室内でアミノ酸の合成に成功してい
ます。彼は、最も簡単な炭化水素であるメタンと、アンモニア、水蒸気、水素をとり、それらのガスを混
ぜあわせて、比較的簡単な方法で数昼夜の間にアミノ酸を合成しました。私たちの実験室でもこの方法を
試してみると、やはり非常にうまくいきました。



どのような生物も、それを取巻く外界の環境と相互に作用しているからこそ、その生物は生きているとい
えるのです。生物は外界から自分のものでない物質を自分の体の中に取入れると、それは非常に複雑な化
学反応を経て生物体の蛋白質に変ります。これが物質代謝の、作りだす方の面すなわち同化作用です。ま
たこれと並行して逆の反応、つまり異化作用があります。生体の蛋白質は常に分解しており、その分解産
物は常に身体の外に出されています。



それにもかかわらず、外からみるとまるで私たちの身体が変っていないようにみえるのは、そこで行われ
ている分解と合成の過程が非常に調和がとれているからなのです。前に述べたように、生命の一つの大き
な特徴とは、非常にうまく調和のとれた物質代謝が行われること、



これを知るために、まず私たちは、例えばゼラチン、卵白アルブミン等のような純粋な蛋白質の溶液をと
ってみましょう。その溶液は比較的透明であります。これはつまり蛋白質が溶液の中で均一な状態で分布
しているからであります。ここでもしこれらの透明な蛋白質の溶液を混ぜ合わせるとその溶液は濁ってき
ます。この少し濁った溶液をとり、顕微鏡の下でみると、いままで何も見えなかった透明な視野の中に液
滴のようなものが出てくるのが見られます。

始めてこのような現象をみつけたのはオランダの学者ブンゲンベルグ・デ・ヨングであります。
そして彼はこのような液滴をコアセルヴェート(液滴)と名付けました。
このような液滴は次のような機構でできます。まず、二種の溶液が混ぜあわされると、蛋白質分子は
相互に結合して塊になります。この塊がだんだん大きくなり、蛋白質分子の数が幾百万にもなると、
水から析出して顕微鏡でみられるような液滴になるのであります。



この液滴は、液体であるにもかかわらず、そのなかに簡単ながら一定の構造と組成をもち、それによって
周囲の外界から種々の物質を取入れることができるようになっています。入ってきた物質は液滴内の物質
と化学反応を起すようになり、液滴内で新しい物質が合成されてくると同時に、分解の過程もこの液滴内
でおこってきます。合成が分解より早い液滴は、いつまでもなくならないばかりか、大きくなる、つまり
生長することができるのです。



それでは、話を、最初に蛋白質のできた海のことに戻しましょう。ごぞんじのように、海の中には蛋白質
や、それに似た物質が沢山あります。これらの物質が混合されると、必ず結合が起ったと思われます。簡
単にいえば、先ほど私たちが見たようなことが起ったのです。そこで、そのようなコアセルヴェート液滴
を想像して、その運命を考えてみたいと思います

もちろん、おわかりのように、このコアセルヴェート
液滴は、ただそれだけ単独で浮んでいたのではなく、その周囲には他の有機物質があります。この液滴は
、有機物質を吸収してその中で合成の過程を行い、それと同時に分解の過程を行っていたと思われます。
もし、このようなコアセルヴェート液滴中で、合成より分解の過程が早いような場合には、このコアセル
ヴェート液滴は、不安定で、いずれは分解してしまいます。そして、それから先は、合成過程が分解過程
より早いものだけが残ることができるのです。こうして残された液滴は、生長し、さらに大きくなるに従
って小さな子供の液滴に分れてゆきます。



私たちの研究室では、ちょうど、いまこの分裂の機構を研究しています。最初、子供の液滴は、相互に非
常によく似ており、それは、親の小部分、いわばかけらともいえましょう。ところが、このように分れて
できた小さな破片は、それぞれ特有の道を歩み始めます。それぞれが、外界から種々の物質を取込んで、
自分の内部構造を変えてゆき、また、前に述べたような歴史を繰返してゆきます。もし、このような変化
が液滴の安定性を壊すようなものですと、この不幸な運命を負った液滴は、外界の中にとけていってしま
います。こうして都合の良い組織をもった、安定な液滴だけが残ることができるのです。



このようにして物質の進化の過程に新しい法則が生まれてきました。コアセルヴェート液滴の自然淘汰の
法則が生じてきたのです。その後も、コアセルヴェート液滴はこのような厳格な自然淘汰の法則に支配さ
れて、原始の海の中で生長していったのです。このような環境に不適当な、不幸な液滴はすべて消失して
しまいました。このようにして内部組織および合成と分解はうまく調節されるようになり、コアセルヴェ
ート内部の調和がだんだん大きくなってきました。その結果、合成と分解がうまく調和された液滴いいか
えれば最も簡単な生物が生まれてきたのです。


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