文献資料 『資本論』第2版第1巻
向坂逸郎訳 岩波書店1969年発行
資本論用語事典2021
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『資本論』 共通なもの Gemeinsam
価値表現の価値方程式 序論 2021.05.01
-表現の仕方・形式 Ausdrucksweise の現われ方
= 現象の形式 "Erscheinungsform"
資本論ワールド 編集部
『資本論』の価値方程式への序曲
マルクスは恐ろしく異常なほど慎重な人、あるいは西洋社会のドイツ人、こんな印象が次第に強まってきます。ここに抄録した「共通なものGemeinsam」が、価値方程式への導入部であり、序曲に相当することに思い到りました。資本論ワールド‐探検隊と一緒に、新たな発見に旅立ちましょう‼
→ HP2019.『資本論』の「共通なもの」
『資本論』 共通なもの Gemeinsam
★ 商品価値の実体解明-表現方法・形式について
『資本論』第1章第1節
1-4
一つの物の有用性Die Nützlichkeit eines Dingsは、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は
空中に浮かんでいるものではない。それは、*6 商品体の属性Eigenschaften des Warenkörpers によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格
Charakterは、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ
うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容
stofflichen Inhalt des Reichtumsをなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、 使用価値は同時に-交換価値の素材的な担
い手stofflichen Träger des - Tauschwertsをなしている。
1-5
交換価値は、まず第一に量的な関係〔quantitative Verhältnis:量的比例のこと〕として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(原注6)。したがって、
交換価値は、何か偶然的なるもの〔Zufälliges:偶然的な価値形態 〕、純粋に 相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur
intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)*(contradictio in adjecto:形容矛盾)のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。
(編集部注:量的な関係〔quantitative Verhältnis:量的比例。この「関係」と翻訳されている「Verhältnis」は、ヘーゲルの『大論理学』第2篇大きさ(量)には、第3章量的比例 das quantitative Verhältniss となっています。なお、『大論理学』第3章量的比例はこちら〕
6. 一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき 内在物の 表現方式〔Ausdrucksweise:表現 (Ausdruck : 数式) の (weise : 仕方) 方式〕、すなわち、その「現象形態〔 "Erscheinungsform"〔現象の形式・フォーム〕」でありうるにすぎない。
〔編集部注:表現方式 Ausdrucksweise と「現象形態 Erscheinungsform」については、*こちらを参照してください。〕
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『資本論』の「共通なもの」
商品価値の実体解明-表現方法・形式の研究
① 共通なもの Gemeinsam ー 同一大いさ・共通なものの実体解明
1-7. (『資本論』第1章第1節第7段落、以下同じ表示法)
さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、 この関係〔Austauschverhältnis:交換関係〕はつねに一つの
方程式Gleichung に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される〔 gleichsetzen : 同一視する、同等に扱う〕。 例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。
こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のもの 〔一つの同一 物〕 に等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。 両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
② 共通なあるものー整約される
1-8. 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1―
に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。
③ 共通なものー自然的属性である ことはできない
1-9. この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性 körperlichen Eigenschaften
は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、し たがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象で
ある。この交換関係の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の 割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの
老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違
または差別がない(原注8)。」
④ 共通なものーその価値
1-13. 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。 もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象する 〔abstrahiert : 度外視すること〕 とすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。 商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、 われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして考察せらるべきものである。
第3節 価値形態または交換価値
⑤ 共通のー価値形態
3-3. 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。
2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
4. 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象 Wertabstraktion に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。
⑥ 共通なー人間労働
5. 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現 Äquivalenzausdruck のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、〔auf ihr Gemeinsames reduziert,〕すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。(注17a)
⑦ 共通にー他の商品と亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」
6. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するauszudrückenだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、 すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態でin
geronnenem Zustand,、すなわち、対象的な形態でin gegenständlicher Form価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。
3 等価形態
6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。
従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。
⑧ 共通なるー重量表現・自然属性
7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。
C 一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格 Veränderter Charakter der Wertform
⑨ 商品のあらゆる共通な価値表現
ー3.4.
第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。
⑩ 商品世界の共通の仕事としてのみ成立
-5. 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。
⑪ この世界の共通な価値態容、共通なる人間労働の性質
-7.8 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。
C 一般的価値形態
3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
ー1.2.
1. 一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第3形態)にあるのである。そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。
⑫ 共通に亜麻布に表現する
2. そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品となり。または貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。この特別の地位を、第2形態で亜麻布の`別の等価たる役を演じ、また第3形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち、金である。したがって、われわれが、第3形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。
(D 貨幣形態)
・・・
第4節 商品の物神的性格とその秘密
⑬ 抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格
7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格
Wertcharakter が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。
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